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2018年1月31日 (水)

名作「七人の侍」3時間26分 「仲間を守れない者は自分も守れない」 

 

Photo 確かに世界的な名作です。それにしても3時間26分の長編だとは。とにかく山場がたくさんあって、最後は40人から13人となった野武士集団との決戦 へ。リーダーの島田勘兵衛(志村喬)の一言が耳に。

 村内の20軒の家を守るために、村はずれの3軒は外す判断に、3軒の農民が反旗。これを鎮め、その言葉。「仲間を守れない者は自分も守れない、自分も滅ぼすことになる」ーといった趣旨。あらすじが進む中での村人への呼びかけなので、なーるほどと
 それにしても、制作は1954年。昭和29年。いまから60年以上も前。。。だが、2018年の今もじっくり観させる名画です。「七人の侍」は今は銀幕の中に。いずれもあの世です。合掌。きょうも睡眠不足です。

 

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2018年1月29日 (月)

出撃9回、命令に背き、生還を果たした特攻兵 「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」

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出撃9回、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた・・・

「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上尚史)

 

 1944年11月の第一回特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた・・・。というオビだが、<そんな特攻兵がほんとにいたのか?、どうして生き延びたのか?>。そんな興味津々の本、「講談社現代新書」を劇作家で知られる鴻上庄史さんが発刊していた。2017年11月20日第一刷だが、2018年1月12日第6刷までいっている。特攻兵物語は数多いが、これはとくに異色だ。

 佐々木友次(ささきともじ)、当時21歳。9回出撃して、9回とも帰っている。というか、生還している。上官は?、同僚は?、国は?、さまざまな疑問に答えているが、作者が特に知りたかったのは、そんな生還の気力、どんなことが背景になって、生き残ることができたのか?。

 繰り返しのインタビューを経て、鴻上さんは、以下のように書いています(同書207頁)

 

何度も何度も、友次さんの強さの秘密を聞きました。同じような質問を何度もしました。じつは、僕はあまり信じられませんでした。念仏を唱えているわけでもなく、お守りを信心深く持っているわけでもない。けれど、「寿命」という言葉は強く響きました。そう考えるしかない、というのは分かるような気がします。人間は、自分の想像を超えたことに直面すると、運命とか偶然とか寿命とかを考えるようになる。けれど、その運命や偶然を呼び込んだのは、友次さんの「空を飛ぶことが大好き」という強烈な思いと行動なんじゃないかと思いました。いろんな要素、「岩本大尉の命令」や「父親の言葉」や「先祖や仏様」や「母親」や「飛ぶことが大好き」という思いが、9回出撃で9回の生還という奇跡を生んだのでしょう。それは、「寿命」で、「寿命」は自分で決めるものではない。しかし、思います。『万朶隊(ばんだたい)』(ウイキペディアによると、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊、万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味)で最年少の21歳の若者が、体当たりの命令に背き、けれど逃げずに戦い、生き続けた姿勢は、「戦争中の日本人」というイメージからはるかに離れていると。

 

 9回の出撃の状況は、この「不死身の特攻兵」を読んでもらうことが一番だ。・当然の疑問は、「死んでこい」という命令に9回も背き、その度に生還してしまうことに対する上層部の批判、反応だ。そのこともかなり書かれているが、<もっと深い情況、事実があるだろう>と、読んでいたら、やはりという箇所があった。命令に何度も背いてきた特攻兵に対する「銃殺」である。それも「刺客」による殺害だ。この本では、その模様を以下のように語っている。背筋の凍るような当時の動きだ(同書、157頁)

 

佐々木はフィリピンのカンルーバン捕虜収容所で、読売新聞の鈴木記者と再会する。戦争中に何度も話した相手だった。鈴木記者は佐々木が生きていることに驚いた。鈴木記者は「佐々木、お前、殺されることになっていたのを知っているか」と話し出した。第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していたと、鈴木記者は続けた。大本営発表で死んで者が生きていては困るから、そんな命令を出したのだと。佐々木は驚き、信じられなかった。鈴木記者はさらに、第四航空軍の命令は、第四飛行団の猿渡参謀が実行するはずだった、と説明した。二人を分からないように殺すために狙撃撃隊まで作っていたと、「俺達新聞記者もエチャーゲの山の中にいたが、近くの地上勤務の兵隊が怒ってね。特攻隊の狙撃命令を出すとは何事かというわけだ。佐々木達を守れというので、狙撃隊を見つけて応戦しろと騒いでいた。日本が降伏したので、佐々木達も命が助かったようなものだ」

 

佐々木友次さんは生きて終戦を迎え、内地へ。北海道の大地に暮らし、2016年2月9日、呼吸不全のため、札幌の病院で亡くなった。92歳だったという。鴻上さんのインタビューは亡くなる3カ月前まで行われたとある

(ウイキペディア)

万朶隊(ばんだたい。萬朶隊)は、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊である。1944昭和19年)1021日、鉾田教導飛行師団で編成された。装備機種は九九式双発軽爆撃機。日本陸軍では、1944年前半頃から航空機による艦船への体当り攻撃を検討していた。海軍機と異なって対艦攻撃を本来の任務としてこなかった陸軍航空隊では、艦船攻撃用の新戦術を必要としており、跳飛爆撃と並んで体当りが検討されたのである。

7月末には、機首に起爆装置を取り付ける特攻用九九双軽の改装も着手された。現場が自発的に体当たりを行う例も出てきており、同年1019日には中尉阿部信弘(元総理で当時の朝鮮総督だった阿部信行の子)以下3機がイギリス艦隊に体当たりして航空母艦1隻大破・駆逐艦2隻撃沈と認定されていた。1017には海軍が最初の組織的な特別攻撃隊を編成し、21日から出撃を開始していた。

こうした状況下で、1021日、陸軍も特別攻撃隊の編成に踏み切った。鉾田教導飛行師団で編成された部隊(後の万朶隊)と同時に、浜松教導飛行師団において四式重爆撃機装備の特別攻撃隊「富嶽隊」も編成されている。いずれも飛行学校改編の教導飛行師団の精鋭が投入された。鉾田の特別攻撃隊隊長に任命された陸軍大尉岩本益臣は、それまで教官としてもう一つの新戦術である跳飛爆撃研究を行っていた。

編成された特別攻撃隊は4航空軍の指揮下に入り、1029日にルソン島バタンガス州リパへ進出し、現地で「万朶隊」と命名された。万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味である。しかし、出撃前に移動中の敵戦闘機との遭遇などで損害を受け、115、岩本が出撃叶う前に戦死してしまう。それから1週間後の1112神風特攻隊に遅れること3週間の後に4機が初の特攻出撃を行い、以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。多数の戦果を報じたが、事実は不明である。

大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続けるも、かろうじて唯一生存した。佐々木はその後のミンドロ島方面への出撃でも生還を果たし、ルソン島で生きて終戦を迎えた。

特別攻撃用に改造された当初の九九式双発軽爆撃機は、空中で爆弾が投下できない状態になっていた。鉾田からルソン到着までの間に陸軍航空審査部に立ち寄った岩本大尉は、爆弾の安全装置離脱と緊急時の爆弾投下を可能にする助言説明を受け、レイテ出撃までに飛行機には最小限の安全措置改修が加えられていた




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2018年1月 1日 (月)

3・11から丸7年の針路へ 「さよなら原発!日光の会」第6回総会、参加の呼びかけ

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「さよなら原発!日光の会」会報第31号

「3・11」から丸7年の針路へ

~「さよなら原発!日光の会」第6回総会~

参加への呼びかけ

 

 市民団体「さよなら原発!日光の会」第6回総会は2018年1月20日(土)16時から、日光市勤労青少年ホーム軽運動室(日光市平ケ崎160)で開催し、ます。2011年3月11日の東日本大震災・福島第一原発事故から7年目、

台湾では2025年までに原発をゼロにする法案を成立させ、ベトナムでは原発の建設計画を白紙撤回するなど、脱原発に向けた動きは国際的な潮流となっています。国内でも「原発はいらない」の声が大多数を占め、脱原発が国民の意思であることは明らかです。

 

 原発事故前に54基あった原発のうち、今現在稼働しているのはわずか4基に過ぎません。大半の原発が停止、廃炉となっている中で、電力不足が国民の生活や産業に具体的な支障を及ぼしたり、障害になったりしてはおりません。それでも、政府や電力会社は相変わらず、原発再稼働を推し進めています。

 

 直近のニュースでは、首都圏で唯一であり、来年11月に40年の運転期間に到達する東海第二原発(茨城県東海村)について、日本原子力発電(原電)が、11月24日に20年の運転延長を原子力規制委に申請しました。東海第二原発は30㌔圏の14市町村に約96万人が暮らしています。これまで原発事故を想定した広域避難訓練の計画の策定は難航し、どの市町村もできていないことが伝えられています

 

福島第一原発事故後に法律で決められた運転期間40年の原発は基本的に廃炉にするという「40年リール」があります。ただし、原子力規制委員会が認めれば最長20年の延長運転も可能とされておりました。それも「極めて限定的なケース」と政府は説明してきました。しかし、実際は、これまで関西電力高浜原発1、2号機と美浜原発3号機(いずれも福井県)の2原発3基の延長が認められています。

 

福島第一原発事故で海が汚染され、福島第一原発周辺のたくさんの農村や里山が豊かな自然を失いました。16万人の人たちが「難民」になりました。今でも避難を続けている人たちは5万5000人がいるとされています。健康被害も深刻です。福島県では事故当時18歳以下の子どもたち37万人を対象にした健康調査で2017年10月23日の結果報告によると、小児甲状腺がん及び疑いがあると診断された子どもは194人にのぼっています。

 

福島県内外を問わず、大人も含め、将来の健康に大きな不安を抱きながら、生活をしているのが実状です。そのうえ、第二の福島第一原発事故が起こらないという保証はありません。今の私たち、将来の子どもたち、私たちにも放射能汚染を押し続ける原発はいりません。私たち「さよなら原発!日光の会」は、原発を推進させようとしている政府、電力会社、原子力村などの勢力に対し、これ以上原発の再稼動を認めないことを活動方針としています。そして、速やかに原発に依存しない脱原発社会が実現することを強い意志で願っています。

 

国内外のそうした現状の認識と改めて原発再稼動に反対していく2018年度の活動方針などを第6回総会で協議し、決めていきます。一人ひとりの顔の見える年に一度の定期総会です。ぜひ、会員のみなさん全員が参加していただくことを呼びかけます

(代表 富岡洋一郎)。

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2017年12月30日 (土)

「勝手にシェアハウス」、ようこそ!いらっしゃい! ―南相馬市から塙町に「避難」した藤島昌治さんの思いー

 

Photo 「勝手にシェアハウス」、ようこそ!いらっしゃい!

―南相馬市から塙町に「避難」した藤島昌治さんの思いー

 

 「とりあえず、住んでいるところで始めようとー。『勝手にシェアハウス』と呼んでいるんです。一緒に住みたいという被災者がいれば、そりゃ、WELCOMEです」。

 2017年10月21日(土)夕、福島県南相馬市原町区の牛越応急仮設住宅・第三集会所。私たち「原発いらない栃木の会 第4回福島視察」の一行それぞれが耳を傾けた。にこやかに、ときに原発再稼動に怒った、詩人でもある藤島昌治さん(ふじしま・まさはる)(72)。福島第一原発事故で住み慣れた南相馬市小高区から新潟県三条市に避難した後、南相馬市鹿島区の仮設住宅の自治会長を長く務め、行き場をなくした人々の暮らしを「シェアハウス」(復興共生住宅)という形で実現したい、と全国に呼びかけてきた。ふるさとは南相馬市小高区。2016年7月に一部の帰宅困難地域を除いて避難解除となった。今は茨城県が近い福島県塙町の古民家に移り住んでいるという。

 「南相馬市小高地区にシェアハウスを作ろう会」がシェアハウスを実現するための署名を始めたのは2015年初夏。署名ではこう呼びかけた。「震災前のつながりが深く、近隣の助け合いの自治体制は、今の状況からは、期待できないことは明らかです。そんな中でも、美しい街並みや住み慣れた地域に生活することが私たちの安らぎだと感じます。私たちが小高で生活する上で、不安なく生活するために・・・・このたび。署名活動を行うことにしました」。

 私たち「原発いらない栃木の会」は2年前の秋、第3回福島視察を行い、そのとき、藤島さんから「今後起こりうる孤独死・自殺・うつを防ぐためにも。シェアハウスをなんとしても実現したい」と力説したのを聴いています。その懇談会の場も今回の第4回福島視察と同じ牛越仮設住宅の集会所でした。

 藤島さんたちが考えていた、考えているシェアハウスは、一棟の中に個室と広い居間、共用の台所、食堂、風呂、トイレなどがある、共用スペースがあることで住民同士が協力しながら支えあえる、必要なサポートも受け入れやすくなる、というもの。第3回視察で私など「原発いらない栃木の会」の一行は「シェアハウス」実現の思いに対し、大いに共感。私たちの会でもささやかな署名活動を進めました。

 福島視察では、福島第一原発周辺の町村の放射能汚染の状況はどうなっているのか?放射能汚染土を詰め込んだフレコンバックが連なるあの大地はどう変わっているのか?今も人々が帰ることができない「帰宅困難地域」の放射能汚染の実情は?南相馬市小高駅前の商店街は復興に向けてどう変わっているのか?などについて、大いに関心を寄せ、それらについて見聞してきました。

復興住宅を訪ねた際は、ときに「菜園もある雰囲気の良い復興住宅ですね!」と笑顔でうなづき、ときに「そんなにご近所との付き合いが少なくなったのですか?」と、まゆをしかめ。

 それと同時に被災者たち、避難者たち、福島県の詩人、若松丈太郎さんに言わせると「核災難民」の人たちの暮らし・環境はどのように前に進んでいるのか、いないのか?、それについても知りたいことでした。

 ですから、2年前に聴いたときからその行方について関心を寄せていた「シェアハウス」の進展がどうなっているのか?ぜひ聴きたいところでした。藤島さんによると、その点について、シェアハウスを実現させようという署名は各地の協力もあり、1万筆以上を達成。南相馬市議会でもその趣旨を採択した。しかし、現実には「何で復興住宅ではだめなのか?」と言われてしまう。子どもたちは遠くに行ってしまい、年寄りと離れ離れになっている。その高齢者は農業ができない、健康ではない、などなどの状況下、人と人とのコミュニケーションがいかに大切かーそれらの実情について、「仮設住宅の暮らしを知らない、関係先の人たちの理解が得られない」ことで、未だに藤島さんたちが願っていたシェアハウスは実現できていないのだという。

 「シェアハウスは、長い目で、あきらめずにやっていこうと思う」、「時間が経てば、シェアハウスは必ず実現すると思う」、藤島さんはこう言って、シェアハウスの実現に向けて意欲を見せていました。

 藤島さんは仮設住宅の自治会長で知られていますが、一方で詩集『仮設にて 福島はもはや「フクシマ」になった』(遊行社、初版第一刷発行2014年8月12日)でも知られる詩人。この『仮設にて』は英文でも発行されています。「原発いらない栃木の会」定期総会の場でも頒布されてきたので、手にしている方もかなりおられるかと思います。

 その藤島さんは2016年3月11日付初版第一刷の別の詩集『長き不在 フクシマを生きる』(遊行社)も発刊しています。その「あとがき」でこう記しています。

 「福島第一原子力発電所の水素ガス爆発による災害で、避難を与儀なくされたものの、4月には避難解除の時をむかえようとしている。被災者の殆どが、元の生活に戻ることなど適うこともなく、更なる、避難先を求めて彷徨う者など、果てしなき苦難は続いてゆく。とりわけ、置き去りにされる高齢者の先行きが案じられるのです」。

 その詩集『長き不在』に収められた33篇の詩のなかで、その題名もズバリ、「シェアハウス」というのがあります。その詩こそ、「シェアハウス」を現実にしたいという藤島さんの思いが込められているー私はそう感じたのです。

詩 シェアハウス(藤島昌治)

 

親孝行の息子がさ/優しかった娘がさ/可愛がった孫がさ

 

復興住宅さに行けど

 

どこさ行けばいいんだ/なじょすたらいい?/こんな婆(ばばあ)/置き去りにして

 

この先/何さ 掴まって/行けばいいのか/いっそ 死んでしまったほうがいいのかも

 

行き場を失った年寄りの歎き

 

誰が そんなことを赦すか/誰が そんなことをさせてなるものか

 

婆ちゃんも/爺ちゃんも/待ってろ/シェアハウス造ってやる

 

 藤島さんの話しが終わるところで、「今、住んでおり、『勝手にシェアハウス』にしようというその古民家の大きさは?」という問い掛けがありました。藤島さんは「土地は約400坪、8畳、10畳、6畳、6畳、それに離れも」と答えていました。一同は「それは大きい」と感嘆したのです。

 藤島さんの話しの中で特に印象に残ったのは、「原発事故は起こるべくして起こったわけで、今、逃げ道さえ確保できれば再稼動させるとしている、が、そんなばかなことはあり得ない」と、原発再稼動に真っ向反対していることを伝えたこと、それに「あの時65歳だったが、今や72歳。この7年間のロス、何ともったいなかったことか!」と、思わず「3・11以後」について振り返ったときの表情でした。

 さて、今回の原稿を書く段階で、「今、藤島さんのような避難者はどのように

社会的に把握されているのだろうか?」という点だった。参考になる記事として、毎日新聞9月9日付「東日本大震災6年半、避難指示解除半年(その1) 家族のぬくもり、取り戻す」がありました。

 この記事によると、福島第一原発事故で避難指示が出された福島県内11市町村で、事故直後の対象者は、約8万8000人にのぼった。原発のある大熊・双葉両町を除く9市町村で避難指示が順次解除された。だが、放射線の影響や生活環境に不安を抱いたり、避難先に生活基盤が移ったりした人が多い。その結果、今年7月~8月現在、解除区域に帰還や転入した移住者は、新たに生まれた子どもたちを含め、計5951人。住民登録者数(4万9997人)の12%にとどまるという。

 

 その「避難解除」についても、藤島さんは詩集『長き不在』の中の一篇、「みえない霧の中で」で、「二度目の漂流、避難の始まりである」と、しています。

 

詩 みえない霧の中で(藤島昌治)

 

(前略)

原発の爆発による災害は/想像を超える過酷なもので

家屋ばかりでなく/身もこころも/ボロ ボロ に破壊

家族や家庭をも/ズタ ズタ に引き裂いた

宛て処もない移住先を求めて/今 なお

彷徨(さまよい)続けるボクにとって

避難解除は/決して喜べることではなく

二度目の漂流 避難の始まりである

 

(「原発いらない会」理事 富岡洋一郎)

 

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2017年12月24日 (日)

詩 降ってくる 黒川純  詩誌「鹿沼詩想2018」へ

 久しぶりに詩を書きました。締め切りがなんと、あすの12月25日(月)。先ほど郵送したので、時間に間に合うかどうか~。鹿沼の私が敬愛している詩人、小林守城さんに「招待詩を」と依頼文がきたので、なんとか注文に間に合わせたいと思ったのでした。

 12月に入り、特にこのところ、編集に、原稿に、印刷に、さらに薪づくりに追われておりました。ようやく23日から時間が少しとれたので、「えいやっと」。そんな「仕事は忙しい人に頼め」的な当事者になっておりました。

 今回は少し、それなりの「実験的な手法」?も取り入れたつもりです。さて、それがわかってもらえるかどうか、というか、それが詩の作品で成功したかどうか?ー。これは、自分でもじっくり詩を眺めながら考えてみたいところですー。

Img_6013_2 「かぬま詩想2018」

2017・12・24        日光霧降高原

 

降ってくる       黒川純 

 

「それでは決をとります!」

ボールペンを走らせたり

ハンドマイクを手にしたり

振り返ると

中高年の男たちばかり

そりゃ、いつでも

一番若いもんだった。

「隊列!前へー」

カモメが飛んだ

そうだ!一番列車に乗って行こう

「万事塞翁が馬」

長髪があっという間に

白髪の長老に

止めるくれるなおっかさん

背中の銀杏が降ってくる。

 

 

そんな時代が青春だったのさ。

けげんそうに若者が問う

「それで、そこは全京都のどこあたりに?」

「全京都ではないのだよ」

赤い椿の森陰に
はかない恋に泣くとかや

かんかんがくがく

百家争鳴

ゼンガクキョウトウカイギ

「ぜいたくは素敵だ!」

半世紀前のあれこれは

大魔神の怒りの炎。

その雨を視たかい?

焼き尽くすナパーム弾

晴天の空から降ってくるんだ

 

 

歴史はれんめんと続いている

放射能が降っています

いや、だれが放射能を降らせた?

福島を返せ!

あのときも叫んでいた。

「沖縄を解き放て!」

ざわわ~ざわわ~ざわわ

朝日のごとくさわやかに

♪雨が空から降ればー

♪想い出は地面に浸み込む~

沖縄では

小学校の体育の授業中でも

米軍のヘリコプターから

児童たちの10mほど先に

窓ガラスが降ってくる。

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