無料ブログはココログ

ブログランキング


  • 人気ブログランキングへ

2026年9月11日 (金)

《ジャズより他に神はなし》平岡正明・考 (上)  桜町文庫の窓(7)(「序説第33号」)

 桜町文庫の窓(7)

            磯山オサム+ハル

 〈ジャズより他に神はなし〉平岡正明・考 (上)

 

「序説第33号」(9月1日発行)から。(上)(中)(下)の3回連載で伝えますー。  

 

 窓から旅立ったのは十九歳十月ではなく、二十歳六月二二日。金沢から上野に向かう夜行列車の自由席で手にしていたのは、平岡正明著『ジャズ宣言』。冒頭に《どんな感情を持つことでも、感情をもつことは、つねに、絶対的に、正しい。ジャズがわれわれをよびさますものは、感情をもつことの猛々しさとすさまじさである。あらゆる感情が正当である。・・・われわれは感情をこころの毒液にひたしながらこっそり飼い育てねばならぬ。身もこころも智慧も労働もたたき売っていっこうにさしつかえないが、感情だけはやつらに渡すな、他人にあたえるな》とある。

 平岡正明は、一九四一年東京本郷に生まれ、一九六〇年早稲田大学第二文学部露文科に入学。安保闘争世代。彼の『大革命論』のなか〈赤色残侠伝〉によると、入学後の五月にはブンド(共産主義者同盟)に加盟し闘争に参加。六一年には脱退。同じ早大の宮原安春(一九四二~二〇一七・ノンフィクション作家)らと共に〈犯罪者同盟〉を結成している。 

 平岡正明は鵺的。生涯の著作は一二〇作に及ぶが、左翼と思えば右、右と思えば左翼。評論はジャンルを超えて、ジャズから歌謡曲・新内・落語に及ぶ。〈知る人ぞ知る〉と言いたいが、平岡正明を知ったり覚えていたりは、少ないだろう。 

彼のプロフィールを伝える文章が『昭和ジャズ喫茶伝説』にある。

 平岡正明の六十年・七十年代の政治活動と出会ったジャズ喫茶についての書。その文庫本の表紙裏に記された彼の紹介。《作家・評論家。六十年安保闘争以後、政治結社「犯罪者同盟」を設立、その理論武装書『犯罪あるぃは革命に関する諸章』を著す。六七年に『ジャズ宣言』でジャズ評論家として衝撃デビュー。全共闘運動の渦中、ノンセクトラディカル派のカリスマ的存在として絶大な思想的影響力をおよぼす。・・・以後、政治・文学・芸能(ジャズ、映画、歌謡曲)など思想・文化全域を批評対象として位置づけ、独自の民衆史観的視点から鋭い問題提起を発しつづけた。二〇〇九年没》。

 平岡正明は犯罪者同盟設立後早大を中退。谷川雁・吉本隆明らが講師の〈自立学校〉で事務局を務め、その後ジャズ評論家となった。

七十年安保当時のノンセクト系のカリスマとあるが、『共同幻想論』の吉本隆明・『都市の論理』の羽仁五郎・六三年『影の越境をめぐって』を出版した谷川雁や埴谷雄高らの〈政治的影響〙と比較すると、彼の過激な〈テック闘争〉などの活動などがあるものの、〈左翼文化〉的な影響の要素が強い。

 『大革命論』によると、当時の彼は自身を《お上に盾突くトップ屋》と書いている。

トップ屋とは、週刊誌の暴露的な冒頭記事を書く、フリーランスのライター。事実、彼は六九年に〈ヤングレディ〉誌のアンカーマンになっている。七十年に松田政男や足立正生らと共に「批評戦線」を結成し『第二次・映画批評』を創刊。ジャズから映画批評をも執筆している。  

 平岡正明の系譜を考えると、斎藤龍鳳と五木寛之を思い浮かべる。

 斎藤龍鳳(一九二八~一九七一)は東京生まれ。予科練入隊後復員。旧制松本高校卒業後、明治大学に入学するが一年ほどで中退。地方公務員をレットパージで失職し、内外タイムスに入社。映画評論や風俗の記事を書いた。

著書は『遊撃の思想』・『武闘派宣言』の二冊。他に遺作集『なにが粋かよ』がある。内外タイムスを退社後、トップ屋的記事と映画批評などを書いた。彼は四十歳にして七十年安保闘争(ML派)に参加。戦後の左翼活動の経験が、実戦として重宝がられたという。

 平岡よりほぼ十歳上だが、平岡が六十年安保の活動後の評論が当時の学生に影響をあたえたと同じくした。 遺作集『なにが粋かよ』は、彼の戦後史と映画監督評・『映画芸術』に掲載された映画評が中心。他に〈遊撃的実践〉などの政治時評が掲載されている。巻末、丸山邦男の追悼文の一部。

 《龍鳳の死は、精神的にも肉体的にも、また情況的にも「追いつめられた男」の、あまりにも自己思想と行動の統一的表現に忠実すぎたために、ロマン詩人的な燃焼による終末に向かって直線コースを駆け下りて行ったのではないか・・・》。

 斎藤龍鳳は、闘争のなか〈仕事〉の映画評論を〈資本主義的生活〉としてやめ、工員となった。闘争敗北後の七一年、再び映画評論に戻ろうとした中、いくつかの走り書きを残し四三歳で亡くなった。彼の部屋の敷布団の下には、出刃包丁があったという逸話を聞く。

 五木寛之(一九三二年~)は、斎藤龍鳳とほぼ同世代。早稲田大学露文科中退は、平岡正明に繋がる。業界誌やコラム・ルポルタージュ記事などを書いた後、『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞作家となった。

氏は大学繋がりか、平岡の書の何冊かに推薦文を書いている。そのうちのひとつ、歌手山口百恵の評論集『山口百恵は菩薩である』の推薦文。

 《平岡正明は山口百恵を〈菩薩〉であると言う。かつて〈大菩薩峠〉が大衆のアナーキーな殺気をはらんだ脱欧入亜の斜坑であったとすれば、〈少女菩薩歌手〉の背後に見え隠れするものは、新たな日中米三国同盟の包囲線の中に備蓄される組織されたエネルギーの後光である。異論を持つ者にこそ、彼の一冊は有効だ。この酔狂の魅力》。 五木の近著、新書『昭和の夢は夜ひらく』の、藤圭子のレコードの売り上げを語る部分に、《平岡正明に言わせれば、「ジャックナイフのように上がって、ジャックナイフのように落ちた」》と平岡の文を引用している。

 五木寛之・世をすねた斎藤龍鳳、生まれた時代は違うが無頼漢のような平岡正明。ともに、どこか世を斜めにみる、捨てられない魅力を持っている。

 『山口百恵は菩薩である』は、平岡の彼女へのオマージュ。人物・歴史・音楽を、政治にのせて検証する。

 文中〈百恵百態〉の一部。

《原体験を歌のなかで普遍化して、迷える衆生にかえす。自分と闘いながらよろこびや悲しみを返す。天は横須賀の貧しい少女にプロレタリアートの星を埋めておいた。すなわち、山口百恵は地涌の菩薩であります。・・・》。

とし《天下の山口百恵、スーパースター山口百恵は人民の菩薩である》と礼賛している。

 この書は、彼のである数少ないヒット作となったが、同書のなかのジャズについての記載。《ジャズは方法であり、生き方である。現今のジャズが本調子でないことも無視して、依然としてジャズは現代思想の中核であり、諸王の王である。ジャズは自分で変わり、周辺を変え、アメリカではポピュラー音楽、日本では歌謡曲が変わる時に必ず影響力を強める、という通性をもっている》と書き《山口百恵は歌謡曲のコルトレーン》としている。 

 一九七五年五月、東アジア反日武装戦線の一斉逮捕の同時刻、平岡は組織の黒幕として家宅捜査を受けている。思想的繋がりもあるが、逮捕の際服毒死した斎藤和(一九四七~七五)と、逮捕後、超法規処置法でアラブに渡った浴田由紀子(一九五〇~)は〈テック闘争〉を共にしている。

 テック闘争とは、谷川雁が役員の〈外国語教育団体〉の労働組合と団体側の対立で、七一年当時平岡は組合員として参加、斎藤と浴田は支援者として参加している。浴田はその後ペルーで逮捕。国内で懲役二十年の判決を受け、二〇一七年に満期出所している。斎藤とはテック闘争のほかに、平岡の著書『日本人は中国で何をしたか』の取材などでも協力関係にあった。

 平岡の逮捕は無かったが、神奈川県葉山に転居。政治から文学・芸能へと批評の方向に変化があった。七五年の東アジアの逮捕事件と並行して、山下洋輔の「全日本冷やし中華愛好会」に論客として参加。東アジア反日武装戦線と、冷やし中華の両刀が平岡(続く)Photo_20260911001401

 

 

2026年9月10日 (木)

花茨釣れてくる鮒のなまこの美しさ    「大戦起るこの日のために獄をたまわる」(下)

「序説第33号」(2026年9月1日発行)

大戦起るこの日のために獄をたまわる (下)

       治安維持法施行から101年

 

(8)「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 1941年12月8日、ハワイ真珠湾攻撃で太平洋戦争が始まる。その当日に読まれた夢道の俳句をチェックしてみた。『橋本夢道全句集』(1977年10月31日第一刷、463頁、未来社)から。定価4800円。こんなかなり高額の俳句集も発刊されていたのだねーと感心することしきり。私は「栃木県内全図書館横断検索」による日光図書館経由で借り出したのだがー。

「夢道有名俳句」でチェックすると、必ず取り上げている句がある。

「大戦起るこの日のために獄をたまわる」

 確かににそういう、いわば「名句」なのだろうなと思う。特に結びの「獄をたまわる」とい謙譲語がいい。式典のスピーチなどで「ご支援をたまわる」というあれだ。「たまわる」をネットで調べると、「たまわる」は、「諦観と告発」とある。だが、私に言わせると、いわばいらないのに、それを「ありがたくいただく」のだが、「たまわる」という言い方で、治安維持法違犯逮捕・拘留について、たっぷり皮肉を込めたその一言だと思う。ということなら、この句はどうしても「たまわる」でなければならかった。

ネットの『AI回答』はこうなっている。

 「この句は、太平洋戦争へ突き進む日本で、治安維持法などにより思想弾圧を受けた俳人自身の境遇を詠んだものとされています。『獄をたまわる』という言い方は、皮肉をこめつつも『国家から授かったもの』として自分の投獄を捉え、大戦に向かう体制の一部として自分が排除されている現実を、冷徹に見つめる表現になっています。とても大つかみに言うと、大戦が始まる、『この日のためにこそ、自分はあらかじめ牢屋に入れられたのだ』という、時代への諦観と告発が同居した一句だと読まれます。戦争に異を唱える者が、戦争開始の前に排除されたという構図が、短い言葉の中で強く示されています」。

「大戦起る」のその日、夢道は以下の句も作っている。

「雑役が走って来てああ大戦ハワイに起る」

「大戦起る獄に尋常にいるほかなし」

「九つの渦も巻かばや真珠湾」

「大戦起る満天の星を獄舎の上におく」

(9)「偽装せる共産主義運動」という論理

 ホップ、ステップ、ジャンプの仕上げにあたるジャンプの新治安維持法は1941(昭和16)年5月15日に施行された。この年の12月8日、ハワイ急襲から始まる太平洋戦争が起こされる。『治安維持法と共謀罪』によると、同法施行を受けて全国唯一の予防拘禁所が奥多摩刑務所内に開設された。予防拘禁を裁判所が決定するにあたって唯一の争点とされたのは日本人の現在の思想状況からみて「転向」したといえるかどうかであった。問題は「転向」の基準で、この基準は暫時、引き上げられていった。1930年代前半の「転向」基準によれば合格とされた者も、この引き上げにより不合格とされていくことになった。

 思想犯保護観察法が制定されて思想犯保護観察制度を通じて「転向」補導の制度化が進行するとともに、「国民精神総動員」に向けてイデオロギーの収斂が図られはじめるなかで、当局はもはや「共産主義思想を放棄した」という消極的な「改悛」だけでは満足せず、積極的な「改悛」を「転向」に求めるようになったからである。すなわち、「完全に日本精神を理解せりと認められると至りたるもの」を超えた「日本精神を体得して実践躬行(自らの力で実際に行うこと)の域に到達せるもの」という基準がそれであった。

 ここを読んでいた際、「おや?『日本精神』とは何を示すのか?」と、ハタと思った。やはり、内田博文が指摘していた。「『日本精神』とは何かは当局でさえも回答に窮する事柄であった。当局が『日本精神』を真に理解していたかどうかは大いに疑問であった」

 昭和16年改正治安維持法の適用対象は飛躍的にその裾野を拡げることになった。治安当局によると、自由主義や民主主義に立脚して反ファシズムを唱える、あるいは戦争反対を表明するサークルなどの活動も取締りの対象とされることになった。大院審判例による治安違法の逸脱解釈・適用追認の傾向は新治安維持法下で、一段とその傾斜を強めた。

「偽装せる共産主義運動」という論理もこの期の大審院判例の特色を示すものであった。これにより治安維持法の適用対象はすべての政治・経済・社会・学術・文化・宗教運動にまで拡がることとなった。

 「反ファッショ運動」や「帝国主義戦争反対」運動も、さらには「国民生活安定」を求める運動、「政治的自由の剥奪反対」の運動、「官僚独善的対外対内政策反対」の運動、「長時間労働の短縮、なかんずく徹夜作業絶対反対」の運動、「小作料減免、減税、強制献金反対」の運動、「兵士の給与の改善、即日帰還」の運動、「公債の強制反対」の運動、「重工業偏重かつ経済実情無視の統制反対」の運動などなどでさえも、しかも、たとえそれが自由主義や民主主義に基づくものであったとしても、「人民戦線運動」(=「偽装せる共産主義運動」)だと見なされればいつでも治安維持法違反で検挙され得ることになった。

 「民族意識の高揚」などでさえも、治安維持法上の犯罪と目された。朝鮮の人々による民族独立のための文化運動などは内乱未遂罪や内乱予備罪で問えないことから、治安維持法で検挙されることがめざされた。この検挙も大審院は許容した。この文章に続いて、「治安維持法と共謀罪」の著者である内田博文は怒りをそのまま吐き出すように批判する。

 「このような法解釈はもはや法律家の解釈といえない。非論理的で政策的な類のものであった。その妥当性を担保するものは必罰性と被告人の捜査段階および公判段階での『自白』供述以外なかった」(同書44頁)

(10)「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」

 結びに今回のテーマの導きの糸にした橋本夢道の横顔の紹介へ。「ウィキペディア」によると、丁稚奉公から世の中に出て行った苦労人であることがわかる。の終わり徳島県名東郡北井上村(現在の板野郡藍住町)の小作農に生まれる。本名・橋本淳一。小塚尋常小学校卒後、藍玉問屋の奥村商店に丁稚として奉公。14歳のとき深川の東京支店に抜擢される。このころ『萬朝報』に載っていた荻原井泉水の句に惹かれ句作を試みる。

 Photo_20260909195601 1922年より自由律俳句誌「層雲」に投句、井泉水に師事する。1929年、俳句を通じて知った荻田静子と結婚。しかし、奥村商店は自由恋愛を禁じており、プロレタリア俳句運動に関わったこともあって奥村商店から解雇される。1937年、プロレタリア俳句誌「旗」を創刊。その後「プロレタリア俳句」「俳句の友」と改題するが発禁となる。1934年、一石路らとともに「俳句生活」を創刊、編集を担当する。

 そして、1941年、「京大俳句」事件を始めとする新興俳句弾圧事件に連座し、2年の間拘留される。夢道は1974(昭和49)年10月9日死去。71歳だった。この年、私は24歳の大学6年生だったが、「除籍」を選び、東京へ向かっていた。

 夢道の句碑がふるさと、徳島県板野郡藍住町の正法寺川沿いにある。高さ2.7㍍、幅2.2㍍の巨大阿波青石に刻まれている(『藍住町議会だより』2013年2月25日など)

「花茨釣れてくる鮒のまなこの美しさ」 (了)

 

 

2026年9月 9日 (水)

大戦起るこの日のために獄をたまわる (中)    治安維持法施行から101年(同人誌「序説第33号」)

大戦起るこの日のために獄をたまわる (中)

             Photo_20260908232701 治安維持法施行101年

(4)ホップ、ステップ、ジャンプの治安維持法

 

 この治安維持法は一度に完成したものではなく、改正から改正を重ね、その猛威をふるうことになる。前史は1923(大正12)年9月1日の関東大震災にさかのぼる。岩波新書『治安維持法と共謀罪』(内田博文 2017年12月20日第一刷)が鋭い批判も含めたその歴史を教えてくれる。

 関東大震災が起きた翌日、山本権兵衛内閣は戒厳令を施行した。さらに緊急勅令「治安維持令」を公布し、国会は12月22日に承諾した。最初の治安維持法はこの治安維持令に代えて、1925(大正14)年に制定された。ただ、治安維持令と治安維持法は内容が大きく異なっていた。治安維持令は言論等規制法だったのに対し、治安維持法は結社規制法だった。

 成立した最初の治安維持法の内容は次の通り。

第一条 国体ヲ変革し又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第二条 前条第一項ノ目的ヲ以て其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ七年以下ノ懲役又ハ禁固ニ処ス。

 

 衆議院では野党ばかりか、与党からも疑問や批判の声が相次いだ。大正末期の

この時点では国会はまだまともな論議を交わしていたことがわかる。同書から抜き出してみる。

 「私有財産制の合法的な改廃を禁じる立法を持つ国はない」、「国民生活よりも権力維持を優先しているのではないか」、「なぜ刑法改正ではなく、治安維持法か」、「濫用の危険は明らかではないか」、「学問の自由を阻害するのではないか」、「立憲制にとって有害であり、法案を撤回すべきではないか」、「陛下の無辜の民を傷つけないか」など。

 

 治安維持法は今から101年前の5月12日に施行された。治安警察法(明治33年)も存続され、以後、両者は補い合いながら威力を発揮した。この段階では「点」であったが、以後、「面」へと拡大していったという指摘が改正の度に強化されていく治安維持法の怖さを伝えてれる。

 「この法制定は治安維持法の歩みからみると、ホップ・ステップ・ジャンプのうちのホップの段階に該当する。今回は点であったが、以後、一から100へ、そして100から1万へと広がり、面となって日本全体、そして植民地を覆い尽くした」。

 

(5)死刑も規定した1928(昭和3)年のステップ

  ホップ、ステップ、ジャンプと飛ぶ度にさらに牙をとがらせる治安維持法のステップについて、再び、岩波新書『治安維持法と共謀罪』から。

 1928(昭和3)年の緊急勅令(「治安維持法中改正ノ件」=昭和3年改正治安維持法)。この緊急勅令は6月29日に公布、即日施行された。衆議院特別委員会の質疑で特筆されたのは、水谷長三郎の質問だった。この質疑で共産党の「外郭団体」の取締り、水谷の表現を借りれば、「名を共産党征伐に籍りた(かりた)左翼運動の征伐」という政府の法改正の意図が明らかになったため。衆議院本会議では斎藤隆夫らの反対討論もあったが、貴族院では全員一致で賛成とされた。議会は翼賛議会の色を帯び始めていた。

 昭和3年改正の主な点は、第一に「国体変革」結社の罪と「私有財産制度否認」結社の罪が分離されたこと。「国体ヲ変革スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ結社ノ役員其ノ他指導者タル任務ニ従事シタル者」に選択刑として死刑・無期刑を規定するためだった。そのため、治安維持法の罪は思想的内乱罪、思想的外患罪だということが強調された。治安維け持法違反の罪の性格が大きく変わることになった。

 第二は「国体変革」結社についても、「私有財産否認」結社についても、「結社目的遂行行為の罪」が新たに付け加えられたこと。「国体変革」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は二年以上の懲役または禁錮に、「私有財産制度否認」結社の目的遂行の為にする行為を為したる者は10年以下の懲役または禁錮に処することにされた。

 これは合法左翼政党や労働組合などを共産党の「外郭団体」と称して、この結社目的遂行行為の罪で取り締まることが目的だった。団体活動が結社の目的遂行行為にあたるかどうかも思想検事が判断することになり、超拡大適用された。思想検事が「外郭団体」だと考えれば、実体がなくても「外郭団体」だとみなされ、結社目的遂行行為の罪に問われた。

 

 

(6)「自由」という言葉も、許せなくなっていた

 

「京大俳句」への弾圧は、この昭和3年改正治安維持法の最後の段階で起きている。この「京大俳句」の弾圧を皮切りに新興俳句派が次々と弾圧されていく。1941年2月、「土上」、「広場」、「俳句生活」、「日本俳句」の一斉検挙が行われた。この一人が「俳句生活」の編集・発行人であった橋本夢道だ。殿岡駿星(とのおか・しゅんせい)が書いた『橋本夢道物語』(2010年11月21日初版 勝どき書房)の「うごけば寒い」の項目(215頁~216頁)が格好の教材だ。

 

1940(昭和15)年秋、橋本夢道は月島署に呼び出された。特高の刑事は、「君たちの俳句はあまり風流ではなさそうだな。君たちは芭蕉なんかと違って、風流を求めないのかね」と質問した。

 夢道は「私たちは、自由律俳句といって、身の回りの出来事を自由に詠んで俳句にしているのです」と答えると、その刑事は「その自由が君らの目的なんだろう」と言った。

 時代は「社会主義」だけではなく、「自由」という言葉さえも、許せなくなっていたのだ。夢道はいよいよ身の危険を感じ、一石路(栗林一石路 くりばやしいっせきろ 同盟通信社会部記者、その後、同盟通信社会部長)と相談して、「俳句生活」をしばらく休刊することにした。

 

 1940(昭和15)年2月14日、「京大俳句」の同人8人が逮捕された。5月3日には「戦争が廊下の奥に立ってゐた」で知られる「天香」の同人、渡辺白泉ら6人が逮捕された。8月31日には「天香」の西東三鬼(さいとうさんき)が逮捕された。「京大俳句」「天香」の主要同人が逮捕されたので、次は東京の同人誌ではないかとうわさされた。

 プロレタリア俳句への弾圧が始まった。いずれも治安維持法違反容疑で特高の餌食になった。「京大俳句」を皮切りに始まるいわゆる「新興俳句弾圧事件」だ。

 同書によると、1935(昭和10)年から「俳句生活」の編集発行人は夢道になり、発行所も自宅の月島西仲通りに移った。1936(昭和11)年7月、「俳句生活」に「渡満部隊」と題して連作十句を発表した。

 このときの夢道の俳句を眺めても、「戦争が廊下の奥に立ってゐた」のようなそのまま反戦俳句の系統だなとわかるような句ではない。ただし、一歩踏み込めば、社会の風潮をよしとしない気分が反映されていることはうかがえる。

 

「渡満部隊をぶち込んでぐっとのめり出した動輪」           

 

「歴史的に部隊が西へ行くこの国の資本がふくれてくる夏」

 

「守り札も肌身にひとりの兵が真白の銃と何を思う」

 

 

(7)「うごけない」日本人の置かれた状況を嘆いた

「うごけば寒い」。

夢道の有名な俳句だ。いわばなんて言うこともない短い感慨であり、読んでそのまま素通りしてもおかしくない。だが、この6字を書かせた時期や背景を知っていくと、「確かにそういう意味が込められているのだねー」と、改めて感嘆してしまう一句だ。

 というのも、この句が作られたのは、治安維持法で逮捕された夢道が東京拘置所で独房生活をしていた1942(昭和17)年。逮捕は前年の1941(昭和16)年2月5日、38歳のとき。それから2回目の冬を迎えた時期。この境遇を背景にこの句について『橋本夢道物語』を著した殿岡駿星がうまく解説している。2002年に定年退職するまで朝日新聞記者だった書き手だが、夢道の次女の旦那さんであり、夢道の縁者だ。

 殿岡のその解説の「読み込み」はなかなか読ませる文章だ。

「真冬の獄は寒い。火の気は全くない。こたつもなければ、湯たんぽもない。独房に敷いた布団の中で、ただ震えている。コンクリートに囲まれた独居房は体温が奪われるだけだ。夢道は、冷たい紙石板に、かじかんだ手で石筆を持って、震えながら作句した。『うごけば寒い』は単純に読めば、真冬の独房の布団の中で、寒いのを我慢してじっとしている姿が想像できる。少しでも動けば、冷たい空気が隙間から入ってきて、よけいに寒くなる。足の指一本でも動かせない寒さだ。文字をそのまま解釈したら、そういうことになるが、句の意味はそれだけではないと思う」

続いて、この句の意味を問う。「うごけば寒い」は、夢道の代表句のひとつとされている。確かに以下の解説というか、分析を読むと、この句が「代表句と言われるのも、確かにもっともだな」と思える。

「『動けば』の言葉の裏には、自由を求め、反戦を主張して活動することで、その先に待っているのは、『寒い』非人間的な結果、ということではないか。奥村商店の封建的な規則に反しての「自由恋愛結婚」で首になった。虐げられた労働者や農民の立場に立って『自由律』という形式でプロレタリア俳句、反戦俳句へ『うごけば』、その結果『寒い』獄の中に入れられる。じっとうごかず、ぬるま湯の中にいれば、夢道の人生は安楽だったかもしれない。しかし、夢道はうごかずにはいられなかった。その結果、理不尽な弾圧が待っていた。夢道は獄中でつくづく、『うごけない』日本人の置かれた状況を嘆いたのだろう」(同書229頁~230頁)(続く)

 

2026年9月 8日 (火)

日光地区は0.040μ㏜から0.085μ㏜     日光・足尾・今市の各地区で放射線量測定

日光市内空間放射線量測定ー。「さよなら原発!日光の会」の会員が手分けして、8月28日(金)に日光地区、9月2日(水)に足尾地区、9月7日(月)に今市地区で実施した。今市地区は13地点で計測し、毎時0.042µ㏜~0.68µ㏜、日光地区は15地点で計測し、0.040μ㏜~0.073μ㏜、足尾地区は14地点で計測し、0.050μ㏜~0.085μ㏜。高くても0.068μ㏜、0.073μ㏜、0.085μ㏜だ。足尾地区が今市地区や日光地区に比べ、やや高めに測定されていることがわかる。

問題は除染実施計画を決める際などの基準である毎時0.23μ㏜に迫ること。この数値は年間に引き直すと年間1ミリシーベルト。測定からは、そうした警戒すべき高い数値からはほど遠い。だが、いつでも空間放射線量が大きく変化しても対応できるためにこうした計測が必要だ。測定機器はとても高価な機器なのだが、数値を正確に測るための機器の調整を行う「校正」を経ていない。そのため、あくまで「参考数値」の位置づけにしている。それでもふだんの空間放射線量はこんな数値であることをそれぞれが知っておくことが大事だと思う。

(1ミリシーベルトについて。環境省サイト)国際基準が、ICRP(国際放射線防護委員会)が勧告する、一般の人々の健康を守るための基準である公衆被ばくの線量限度「年間で1mSv(ミリシーベルト)」※です。

(0.23μ㏜について)平成23年12月14日に環境省が特措法(※1)に基づく省令(※2)を発表し、汚染状況重点調査地域の指定の要件(第4条)及び、除染実施計画を定める区域の要件(第5条)の放射線量を0.23μ㏜/hと規定し、平成24年1月1日から施行

 

97     

Photo_20260907225701 828

2026年9月 7日 (月)

敗戦直後に獄死した孤高の哲学者の羅針盤  118刷の「人生論ノート」(三木清)

Photo_20260906172401機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福は常に外に現れる。歌わぬ詩人は真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如く、おのずから外に現れて、他の人を幸福にするものが真の幸福である」(幸福について。24頁)

治安維持法弾圧事件を調べているうちに戦後すぐに獄死した哲学者・三木清の有名な本、「人生論ノート」を読みたくなった。とくにドイツで高名なハイデッカーから教えを受けていたというから、どんな視点で書いているのかについて関心があったため。三木清ご本人の「後記」によると、「旅について」以外は昭和13年6月以来、「文学界」に連載されていた175頁のミニエッセイ集だ。

私が読んだのは新潮文庫本(490円)。初版は三木清が獄死したのは敗戦から1カ月半後の昭和20年9月26日。それから9年後の昭和29年9月30日に発行されている。私が手にしたのは令和8年5月30日発行。なんと!「118刷」とある。息の長いベストセラー本なのだね。冒頭の「死について」、「懐疑について」、「習慣について」など全23篇。私はなかでも「死について」と「幸福について」、「希望について」が印象深い。冒頭に挙げたのは「幸福について」の結語からー。

 

人生論ノート

三木清/著 539円(税込)

発売日:1954/10/04 棒となる。孤高の哲学この本はきっと、あなたの相者が遺した人生を照らす言葉。

 

孤独は山になく、街にある──。死、幸福、虚栄、怒、嫉妬、希望。かつて、人間が抱える普遍の問いに真正面から向き合ったひとりの哲学者がいた。戦時の恐慌のなか希望を数え、理性とヒューマニズムを説きつづけた彼の言葉は、時代を超え、今も私たちの生きる礎となる。ひとは、誰しも迷いのなかを進む。民衆の圧倒的な支持を得ながらも、敗戦直後に獄死した孤高の哲学者による人生の羅針盤。

 

 

«「ハングル」の脱原発プラカード登場    「東海第二いらない!第21波一斉行動」in日光神橋

2026年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30