「序説第31号」(2024年9月1日発行)
京と(11)
高橋一男
いつもの年のように今年も序説の季節がきた。ついこの間、序説の原稿を富岡さんに送ったとばかり思っていたが気が付けば一年がたっていた歳をとるのが早いはずである。気が付けばもう老人になっていた。序説はぼくにとっては青春であった。だからいつまでも若いとばかり思っていた。
3月2日(2024)その日は冷たい北風が吹いていた。毎年2・3度は行っていた京都にも去年は一度になってしまい、それもいつものように車で行くのではなく新幹線になってしまった。前橋からだと京都まで約500キロ、車だとおおよそ8時間、新幹線だとその半分の4時間くらい時間で行けた。
それにしても、今までに何回京都へ行っただろうか、雪の日もあったし台風の日もあった。初めて行ったのが1980年の秋、紅葉が美しい年であった。その時は大原まで京都駅からバスで行った関西弁が飛び交う混雑した車中であった。三千院の紅葉の美しさは今までに経験した事のないことだった。京都へ行くことは今でも続いているがそれにしても京都の景色は昔のままで何も変わっていないように思えた
今日も小暮渉さんがいつものように情報を持ってきてくれた宗教(苦しくて切ないすべての人たちへ 南直哉 を最近読んでいる)とか政治とか美術の話ばかりでなくて先日などは五枚刃の髭剃りの話をしてくれたので、近くのドラックストアで買い求め使ってみると今までに考えられないくらいよく剃れた。
「二十歳の原点」 高野悦子 著より(新潮文庫・たー16―1(新潮社) 平成22年2月15日 51刷)
一月五日(日)
親は常に指導的な優位な立場にたって、子である私達をみる。私達は未熟であり、物事にぶつかっていこうとする。親はこっちの方が近道だから良い道だから、こっちを行きなさいといった。(10頁)
最近は親というよりはお爺さんの立場で物事を考えるようになっていた。親からお爺さんまでの時間は「あっ」という間であった。朝早く起きて一番早い小田急電車に乗って成田空港まで行った事はよくあり、目的地(現地)のお金(レート)に急いで交換した円がいくらだか知らなかった。息子はまだ子供であったが僕たちと一緒に建築を観てまわった。ぼくはヨーロッパの現代建築に夢中であった特にフランスの建築が中心であったジャコブ+マクファーレンの「ドッグ・アン・セーヌ」や「ポンピドゥー・センターの最上階にあるレストラン」や「パリの共同住宅」は実際に見に行った十五年程昔の話である。建築を知るためには近道はなかったもっと合理的な方法もあったのかもしれないが気が付かなかった。
一月十五日 晴 北風の強い気持よい青空の日
「孤独にはなれている。内職する母に放ったらかしにされた幼時から、いつも自分で考え、自分で規制し、目標に向ってペースを狂わさずに歩いてきた」
「お前、お前自身どう思うんだ」
「矛盾に対さない限り、結局のところ矛盾はなくならない。未熟は未熟のままでしかない」(15頁)
ある時から自分の目標に忠実に生きて来た。足利から東京に出たのもその中の一つであった。あの頃、東京には何か可能性があると思っていた。建築家になれると思っていた。だから、ただその目標に向って生きていた、ただ夢中であった。
一月三十日
愛宕山に雪が降った。明日、その三角点と龍ヶ岳に行ってこようと思う。試験の勉強など全然していない。延び延びでもあるし、もうどうでもいいように思う。一夜づけでやればいいようなものなんだから、大学の教育なんて知れてますネエ。そのような試験はおとしてもよい。自分自身と対決し、自分自身の勉強をしてこそ試験にもイミがある。エヘヘー(27頁)
京都の街から北西にある山の一つらしいがどの山が愛宕山か知らなかった。ただ車では行けない山らしいので結局行けなかった。
ルイ・ヴィトンのフレグランス(香り)ボトルのデザインには驚いた特にボトルのキャップはシュールリアリズムの絵の景色の一部のような彫刻のような興味深い造形物であった。デザインしたのが建築家のフランク・ゲーリーであったのにも驚かされた。でも考えてみたらこのボトルを建築物の大きさまでスケールアップしたのが彼の建築だと思うとそれ程、不思議でもなかった。現にパリのブローニュに建っているフォンダシオンルイ・ヴィトンを設計したのがフランク・ゲーリーだったから。
二月一日(土)雨のち曇り
私のもっている世界はー
女の子は煙草を喫うものではありません。帰り道が遅くなってはいけません。妻は夫が働きやすいように家庭を切りもりするのです・・・・。しかし、うすうすとその世界が誤りであることに気付き始めているのだ。私はその世界の正体を見破り、いつか闘いをいどむであろう。(33頁)
今の時代、女の子に煙草を喫うなとか、女の子だから帰りが夜遅くなってはいけませんとか女の人は家庭を守りなさいとか言ったらパワハラで大変であることに大きな時間の存在を感じた。磯崎新の作品に木の「根っこ」を逆さにした構造体が特徴のカタール国立コンベンションセンター(2011年竣工)がある。今から思うと2002年フィレンツェ新駅設計競技案(実現せず)とによく似ていると思った。フィレンツェ駅からホテルまで歩いて行ったのかバスで行ったのか覚えていない、ただ街全体が博物館の中にあり、歴史をまとった建築達には感動した
二月一日(土)雨のち曇り
明日はメガネを買いにいくんだヨ。人に聞かれたらこう答えるんだ。まず第一番目に
「近頃、本の読みすぎで目を悪くしてネー」そして次にいうの、「チョットこのメガネ似合うでしょう。だから掛けたの」
こんなこと誰も信じない。私がメガネをかけたら小さなプチインテリでいやらしくなるんだから、(35頁)
中学生の頃はメガネを掛けてはいなかった。でもメガネを掛けることに憧れみたいものがあった。高校に入学すると工業高校の建築科だったので課題の中に設計製図があり、薄暗くてあまり環境の良くないところで図面を書いていたので、気が付いた時には完全に近視になっていた誰にも遠慮することもなくメガネを掛けることができた。
三月十六日(月)
そうそう、昨日眠れそうにないからウイスキーをのんでいい気持ちになっちゃった。角びんで三センチの高さぐらい。やっぱり今日は胃の調子がおかしい。
「ね、おはなしよんで」を朗読し、石原吉郎の「確認されない死の中で」を読んだ。二時ごろいつのまにか眠ってしまった。(86頁)
サントリーホワイトを園部君の下宿で飲んだことを覚えている下宿の空間にホワイトのラベルと茶色いボトルが似合った。園部君は育ちの良さが時々顔をだすやさしいい男でいまでもそれが続いている。先日の序説の集まりがあった時に、歩行用の器具がないと歩けない僕に対して「高橋君、大丈夫」と声をかけてくれた園部君の優しさは学生の時と同じだ。
このショートカットの頭ボサボサの、身長一五二センチの童顔のガキが、煙草や酒を飲んで、山本太郎の詩がどうだこうだといったり、すべては階級闘争だといったりするのがこっけいなのだ。ピエロでもない。ピエロは大人であるから。子供のようにスプーンで離乳食を食べさせてもらったり、あたたかい父親の胸で眠ってみたり、ウェーンと大きな声で泣きたがっているガキ。(99頁)
何があったのか知らないがある日、突然髪の毛をバッサリきって、黒縁メガネをかけ、黒いレインコートを着てきた女子学生がいた。年齢も同じくらいだし高野悦子さんのことを思い出した。(2015年の頃)
四月七日
一六〇〇〇円で生活を立て直せ。
“とびかう鳥よ おまえは自由”―「坊や大きくならないで」よりー(103頁)
“とびかう鳥よ おまえは自由”フォークルも歌っていた「イムジン河」の一説のような気がした。(イムジン河:1968年ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)によってレコーディングされたが発売中止となった。)
詩人になりたいなら詩を読め、街に出かよ、山に出かけよー私はなにもしていなかったのだ。独りである自分を支えるのは自分なのだ。私は自己を知るため、自己を完成させるため、本を読んだり、街に出たり、自然に飛び込んでいくことを、いま要求されているのだ。(107頁)
建築家になりたいなら名建築を実際に見て回ることである。実際に触れてみることである。
私はこれから長い旅路に出かけるのだ。ウィスキーグラスに四杯飲んだからこんなことを言うのではない。読書(詩、小説、歴史)の中に音楽(クラシック、ポピュラー)の中に、ワンダーフォーゲルの中に、サーカスの中に八百屋のおかみさんの中に、動物園の中に、学生運動の中に・・・・長い旅路に出かけるのだ。そうそう、忘れていた。京都国際ホテルの中にも。(108頁)
本当に長い旅路だった。でも「アッ」という間の短い旅路でもあった。僕の記憶は中学校頃から始まるクラブ活動で最初にやったのが陸上の短距離走で半年位やったか、そのあと中高と柔道をした。関東大会で東京の武道館で試合(団体)をしたこともあったが全敗であった。相手は東京の高校でレヴェルの違いを知った、怖いくらい強かった。そして足利工大では美術部に入部した素晴らしい仲間と出会うことが出来た。このころから建築を意識するようになったし、建築家の名前も覚えるようになった。磯崎新もその中のひとりの建築家で数多くの仕事をこなすとか、ただ大きな仕事するという考えではなく建築に作家性、芸術性を求める建築家のひとりであり、ぼくは磯崎新の建築が好きだった。
四月十一日
歩きながら煙草をすったら足元がふらついてグロッキー、車のライトもホテルの明かりもゆらいでいた。これはいけないとタクシーをひろおうと思ったがなかなかこない。水銀に灯にもたれながら、これこそ独りだなあと思う。(110頁)
初めて煙草を喫ったのは高校生の時、課題の製図をしている時、電球が一つしかない六畳間白い煙が舞っていた。煙草に慣れてくると外に出て喫うようになった。
参考資料
「二十歳の原点」 高野悦子 著 (株)新潮社(平成22年2月15日 51刷)
東 京 新 聞
芸術新潮(2023・10)追悼特集・いまこそ知りたい 建築家
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