謎の?「大根引き抜きクラブ」 「切れ切れな日常」からーその5-
(1)
近所のあるホテルからディナー・ショーの案内ハガキが届きました。
「ホテル・メタボリック・・・・・・ん?」
「違う。ホテル・メトロポリタンだ。どこから住所を見つけたのかは、今は問いません。全てがそのように見えてしまう、なんとも悲しい歳頃です。
(2)
山口百恵の『秋桜(コスモス)』が、ラジオから流れています。
聴くともなしに、バックに流れていますピアノに耳を傾けていましたら、調べが、風に揺れて趣で弾かれているのです。何とそれは、野原に咲き乱れていますコスモスが、風に揺れる様子なのでした。
コスモスの花言葉は、乙女の願い。歌われているのが、嫁ぐ前日の女の人の思い。
「よく出来た歌なんですねぇ」
作った人も偉いですけれども、ピアニストも偉いです。ディレクターも偉いのです。
ユーモアに満ちた「切れ切れな日常」(安齋博・『序説』連載エッセー)から、ブログ「砂時計~」にアップするのは5回目。これまでは奥さんの鋭い突っ込みを中心に紹介してきた。が、今回は安齋君が持つある種独特な「感受性」の周辺から。
「あるある」「そうそう」「そういえば」。ある場面や情景で、そんな経験はだれでもしている。「切れ切れな日常」は、そうしたとき、もう一歩立ち止まる。そうして胸の内を確かめる。「砂時計」は、そんなエッセー群も好ましく思っている。その典型が次の『大根引き抜きクラブ』。
この手の話題を読んでいると、なんだが、ウキウキ、ニヤニヤ。「詩的な幸福」を味わえる。暑さ本番だが、7日は「立秋」。暦(こよみ)のうえでは、もう秋。山口百恵が歌う「秋桜」の季節も、もうすぐだ。
(3)
観光バスとすれ違いました。何の気もなくバスの頭を見ましたら、『大根引き抜きクラブ』と書いてあります。世の中は、たくさんの謎に満ちているのです。どうにも理解に窮して、奥さんに話しましたら、自然食品の会じゃないの、と言うのです。
「会じゃなくて、クラブだよ」
いったい、如何ような活動をしているのでしょう。クラブ員は何人ぐらいいるのでしょう。どんな事が話し合われて、どんな反省会が催されるのでしょう。その忘年会には、一度出席してみたいような気がします
渡辺さんちの畑の大根は抜け易かったとか、加藤さんちのは太かったとか、伊藤さんちのは曲がっていたとか(以下・略)。
「大根引き抜きクラブ」は、これからの文章が、面白いのだが~。長くなるので、以下は略(笑い)。全文は『序説第17号』(2010年5月)で。問合せは事務局の「砂時計」。
(「『切れ切れな日常』からーその6-」に続く)
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