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2010年12月

2010年12月29日 (水)

99歳のシンデレラ 詩人・柴田トヨさん、朝日新聞が「回顧」

Dscf5453 (99歳のシンデレラストーリー 柴田トヨさんを報じた29日付朝日新聞13版栃木版)

 あっ、朝日新聞もこんな回顧の記事を。朝刊を開いて、ややびっくり。きのう28日の「砂時計」で98歳で処女詩集を出版した宇都宮の柴田トヨさんを紹介したばかりだったからだ。

 記事を読むと、すでに90万部まで売れているという。詩集はだいたい、数百部(300とか500とか)、数千部も売れれば、かなりのもの(ちなみに「砂時計主義」は1000部でした)。マスコミが「年末回顧」で、ひとつの事件として、報じるのは当然のことだ。

 それも、99歳の詩人誕生。「高齢化社会を象徴するような『シンデレラストーリー』に、新聞、テレビ、雑誌の取材が30社前後に上った」という。それだけ人々の心を揺るがしたのだろう。

 詩 生きる力

        柴田トヨ

 九十を越えた今

 一日一日が

 とてもいとおしい

     頬をなでる風

     友からの電話

     訪ねてくれる人たち

それぞれが

私に

生きる力を

与えてくれる

2010年12月28日 (火)

風と日射しと私 宇都宮の詩人・柴田トヨ詩集「くじけないで」

Dscf5442 (98歳の処女詩集 柴田トヨさんの「くじけないで」飛鳥新社・2010年12月第17刷)

詩 風と日射しと私

          柴田トヨ

風が

硝子戸を叩くので

中に入れてあげた

そしたら

日射しまで入って来て

三人で おしゃべり

     おばあちゃん

     独りで寂しくないかい?

     風と日射しが聞くから

     人間 所詮は独りよ

     私は答えた

がんばらずに

気楽にいくのがいいね

     みんなで笑い合った

     昼下がり

 一人息子の勧めで92歳から詩をつくりはじめ、98歳で出した処女詩集が売れに売れている柴田トヨさんの詩集『くじけないで』(産経新聞の「朝の詩」欄の投稿作品などをまとめたという)。だいぶ前に新聞記事で読み、<いつか読まないと>。そう思っていたが、ようやく買い求めることができた。

 きっかけは25日にあった同人誌「序説」の忘年会。群馬県の同人が話した。「100歳近いおばあちゃんの詩集を買い、読んだところ、難しい言葉を使わず、自然な流れのいい詩だった。その詩集をおふくろにあげた。確か、栃木県に暮らす人」「えっ、栃木県内の人だったの」。

 実際、詩集を読むと、柴田トヨさんは宇都宮で一人暮らし(毎週土曜日に息子が様子を見に訪れているようだが)。いや~、灯台下暗し。話題の詩人は県内だったのに。それも気づかないとは。大いに恥入りながら、詩を読んでいくと、確かにたくさんの人たちに読まれるだろうことがわかる。

 一世紀を生きる女性の自然な知恵が詩に紡がれている。若くして亡くなった悲劇の童謡詩人・金子みすゞが生き続け、高齢者になったら、こんな詩を書いていかたもしれない。私は詩「風と日射しと私」が気に入ったが、詩「貯金」もいい。                                     

 

詩 貯金

           柴田トヨ

私ね 人から

やさしさを貰ったら

心に貯金しておくの

     さびしくなった時は

     それを引きだして

     元気になる

あなたも 今から

積んでおきなさい

年金より

いいわよ

 私にも91歳になった母が故郷・群馬県の実家で暮らす。足元がいまいちだが、記憶力は抜群。炊事、洗濯、掃除など、一人でこなし、何事もゆっくりと暮らしている。正月に帰省する際に、この詩集を買い求めて、母にあげよう。そういえば、今月に入ってそう思っていたのを思い出しだ。

 柴田さんは1911(明治44)年6月生まれ。あと半年で100歳になる。その高齢で、こんなみずみずしい詩をうたうなんて。というのが、ふつうだが、実際は高齢でもしゃんとしている人はそうした精神を持っているのだと思う。

 だから、別の詩「先生へ」というのを、読むと、<そうだろう そうだよね>。そのように柴田さんに(つまり、私の母に)思わず、声をかけたくなってしまう。その詩「先生に」は、私をおばあちゃんと呼ばないでと言い、「今日は何曜日?」といったバカな質問はしないでほしいという。

 そうして結ぶ詩句がいい。胸のすくような言葉、発想だ。明治、大正、昭和、平成と、健やかな心で生きてきたことが、わかりそうな詩だ(もっと、早く読まねばならなかったと、反省しきりです~)。

詩 先生に(後半の7行)

 「柴田さん

 西条八十の詩は

 好きですか?

 小泉内閣を

 どう思います?」

 こんな質問なら

 うれしいわ

 

                                                    

 

                                                    

                                                    

 

2010年12月24日 (金)

「砂時計主義セット」!が届いた 驚きの5点が岩手の美術家から

Dscf5388 (岩手・花巻の美術家から「砂時計」」宅に届いた「砂時計主義セット」!)

 いや~びっくりした、というか、苦笑いして微笑んだ~。きょう24日に届いた箱詰めの宅配便のことだ。先日、砂時計宅に一泊し、大いに飲みかつ語り合った岩手県花巻市の美術家 新田コージさんからだ。手紙には「『砂時計主義セット』を作ってみました」とある。

 <砂時計主義セット?。そんなものがあったかな>。と、思いながら、読みかつ箱を開けてみると、5点セットがていねいに包まれていた。手紙では先日大変にお世話になった、その礼が遅くなったとある(そんな返礼のことなど、まったく考えていなかったのだが~)。

 5点セットは、①寺山修司の著作『時には母のない子のように』『愛さないの愛せないの』の2冊②リンゴ(サンフジ)16個③岩手・紫波の特別純米酒「月の輪」④砂時計⑤季刊岩手の詩とエッセイ「ソファー」(「絵の言葉」というコーナーで新田コージさんが自分の作品「小品 №56」について、短いエッセイも書いている)。

 なかでも『時には母のない子のように』には「時計幻想館」として、9つものエッセイも収められている(「花時計」や「猫時計」、「魔女時計」に「少女の時計」「天文時計」など)

Dscf5397 (「砂時計主義セット」の中には欲しかった砂時計そのものも入っていた)

 それに「砂時計」そのものも。「砂時計」を名乗ってはいるものの、家にはひとつも「砂時計」がない(欲しいけれど、そんな機会がなかった~)。贈ってもらったのは、いかにも絵に描いたような砂時計そのもの。小さいけれど、温かそうで、落ち着いている(近くブログ「砂時計主義」の表紙にも使わせてもらおう)。

 <それにしても、いやはや、芸術家は考えることが違うな~>。そんなふうに思ったことだった。まさか、「砂時計主義セット」とは。手間ひまをいとわない、心のこもった返礼というのは、こういうものなのですね(コージさん、ありがとうございます)

 お歳暮やお中元で、日光の銘酒とか、水羊羹とかを贈ることはあるが、このように「セット」で贈るという発想はこれまでなかった。「詩人」を名乗る割りには発想が貧困なのかもしれない(「砂時計セット」は、モノゴトを考えるうえで、さまざまなヒントになりそう~)。

 たまたま、あした25日(土)は同人誌「序説」の忘年会(会場は日光霧降高原の砂時計宅)。さっそく、コージさんが贈ってくれた5点のうちのひとつ、岩手の地酒・銘酒「月の輪」を、みんなと味わいながら、この「砂時計セット」を酒のサカナにしてみよう~。

2010年12月23日 (木)

一本の木が揺れると 韓国の女性詩人・姜恩喬の詩「林」

Dscf5372_2 ((隣の国のことばですもの」、と、中年からハングルを学んだ茨木のり子の『ハングルへの旅』朝日文庫・2001年9月第7刷)

詩  林

        姜恩喬(カンウンギョ)

一本の木が揺れる

一本の木が揺れると

二本目の木も揺れる

二本目の木が揺れると

三本目の木も揺れる

                                                     

     このように  このように

                                                     

ひとつの木の夢は

ふたつめの木の夢

ふたつめの木の夢は

みっつめの木の夢

                                                     

     一本の木がかぶりを振る

     横で

     二本目の木もかぶりを振る

     横で

     三本目の木もかぶりを振る

                                                     

誰もいない

誰もいないのに

木々たちは揺れて

かぶりを振る

                                                     

このように  このように

いっしょに 

                                                     

 茨木のり子訳詞の韓国現代詩、姜恩喬の「林」だ。『茨木のり子集 言の葉 3』(筑摩書房)にある。「韓国現代詩選より」とあり、8篇が紹介されている。その最初の詩人として、姜さんの「林」がある。

 同書によると、姜さんは1946年、ソウル生まれの女性詩人。東亜大学(釜山)の国文科教授だそうな。茨木のり子は、以前あるソアンソロジーで、姜恩喬の「林」を読んで心惹かれ、以来関心を持つようなったという。茨木のり子の評はこうだ。

 「わかりやすい言葉、具体的なイメージ、抽象化の能力などに、なみなみならぬ力量を感じる。一本の木が揺れて、それが次々と伝搬していく林のざわめきのようなもの」

 さらに「あらわには語られていないが、それだけに尚、まだ隠れたままの<民衆の力への希求>が一層切実にきて、姜恩喬のテーマがおのずから感じ取れるようになっている」とも。

 林というひとつの言葉、揺れる林のイメージから(たったそれだけで!)、人々の夢の共有や希望、連帯、抗議、抵抗までが浮き彫りに。それなりに詩を読んできたが、この「林」は素晴らしい。相当な考えと抽象力がないと、できない詩だ。またひとつ、詩の方法を学んだ思いがする(いい詩は、あるところにはあるのですね~)。

 茨木のり子には『韓国現代詩選』(篇訳 花神社 1990年)がある(これを機に読んでみないと、いけないな~)。それも「50歳」になってからハングルを学び、詩を訳すまでに。茨木さんの『ハングルへの旅』で「動機」をみたら、こんなふうに書かれていた。

 「私の動機はいりくんでいて、問われても、うまくは答えられないから、全部をひっくるめて最近は、『隣の国の言葉ですもの』と言うことにしている。この無難な答えでさえ、わかったような、わからぬような顔をされてしまう。隣の国の言葉ーーそれはもちろん、南も北も含めてのハングルである」

 

 

2010年12月22日 (水)

忙しさとひきかえに 詩「十二月のうた」・茨木のり子詩集からー(9)ー

Dscf42811詩「12月のうた」などが収められている茨木のり子の『言の葉 3』筑摩書房 2002年10月)

詩 十二月のうた

            茨木のり子

                                                     

熊はもう眠りました

栗鼠もうつらうつら

土も樹木も

大きな休息に入りました

                                                     

ふっと

思い出したように

声のない 子守唄

それは粉雪 ぼたん雪

                                                    

師も走る

などと言って

人間だけが息つくひまなく

動きまわり

                                                     

忙しさとひきかえに

大切なものを

ぽとぽとと 落としてゆきます

                                                    

 『茨木のり子集 言の葉 3』(筑摩書房 2002年10月第1刷)に掲載されている詩「12月のうた」。詩集未収録作品とあり、初出は「装宛」1965年12月。最初に発表されたのは、今からもう45年も前になる。

 45年も前というと、私はまだ中学生。詩の世界には縁がなかった頃だ。『茨木のり子集』を真面目に読み始めたのは今春から。この詩も読んでいたはずだが、記憶になかった。

 きょう、たまたま、ページをめくっていたら、あれっという感じで、読むことに。寒さが本格化し、「土も樹木も/大きな休息に入りました」というフレーズが、そのまま受け取れたから。そんな気がする。

 それもきょうは1年で夜が一番長い冬至。たまたま、こちらから柚子や柚子茶、とてもたくましい北海道のサトイモをいただき(これも「名古屋のコーチャン」の卵の流れなのですが~微笑み)、よもやま話を。それほどの時間ではないが、ゆったりした時が流れた。

 この詩「12月のうた」でいえば、1年で昼間が一番短い1日に「大切なものを」落とさないで、そのまま手にすくいとったという感覚か。それがあるからかもしれない。冬本番に入るこの季節は、そういう時間をなるべく多く、すくいとっていこうかなと。

                                                     

2010年12月21日 (火)

心は大浴場でワイシャツになる  黒川純・詩「真っ白いラジオ」

Dscf5366 (「真っ白いラジオ」の元になった「素敵な周波数へ」も掲載されている詩誌「堅香子 第4号」・2008年12月)

詩 真っ白いラジオ

             黒川純

この先の

いつか どこか

何かいいことがありそうだ、

うしれい予感が届く素敵なラジオがある

     長い旅から戻った人類と

     長い旅に出る人類が山彦を返し

     地球の裏側の情報を交換する

     そんな不思議なラジオだ。

秒針が狂うのも気にせず

未来の時間から飛んで

夢みるように生と死を往復してゆけば

その周波数が視えるはずだ

   はじめは騒々しいとしか思えない

   世界中からやってくる雑音に

   いつか あなたの声も重なり

   透明な音色に変わってゆくだろう

どんな方法で聴けるか、だって?

霧が舞い降りる満月の晩に

年輪を刻んだカウンターがあり

お月様がのぞけるそのテラスへ

     月光をさかなにゆっくりと杯を重ね

     頬づえをついた身体を溶け込ませ

     たくさんの忘れ物を忘れることができれば

     いつか 心は青い宇宙の大浴場へ

洗濯シャボンは使わないのに

そうとは だれも気づかず

お互いに洗いあっているうちに

心は真っ白いワイシャツになる

                                                     

 詩「真っ白いラジオ」は、詩「素敵な周波数へ」を改稿したものだ。「素敵な~」は岩手県の詩人を中心とした詩誌『堅香子』の第4号(2008年12月)に私が寄稿した詩だ。

 再び、この詩にかかわったのは、詩の題材となった日光霧降高原の「幾何楽堂」が併設している「月夜見照らす」のイベント、「観月祭ー満月に着物で楽しむ夕べー」がきょう、21日夜あるためだ。

 「観月祭」は満月の夜だけに開かれる交流の場(空間使用料一人1000円)。ここでお月さまを眺めながら、一杯を重ね(かなり重ねてしまうが~)、交友をしてゆこうというイベント。知っている人も知らない人も、ここでは一緒に時間の流れを楽しんでいる。

 <さぁ、きょうは一杯を楽しんでこようかな>。そう思っていたところ、どうしたわけか、「素敵な周波数」のことを思い出した。読んでいたら、どうも、まだらっこしい。昨日と同じく、自然と手を入れていた。

 すでにこのブログ「砂時計主義」でも、半年前の6月19日にアップしているが、かなり改稿したので、新しい詩「真っ白いラジオ」として、再びアップへ。

 <手を抜いているのではないか>、という苦情がでそうですが~笑い~(そうではないのですよ、自然に最初の詩に手が入ってしまったのです)。元の「素敵な周波数へ」を、半分ぐらいの長さにしたことで、かなりすっきりした詩になったと(私だけでしょうが~)思っています、うん。

2010年12月20日 (月)

過去の方向に抗うことが  黒川純・詩「ギンヤンマ」

Dscf5356詩 「ギンヤンマ」などの詩の草稿が書かれている37年前のノート「詩稿1973 黒川純」)

 霧降高原の「砂時計」で、25日、学生時代の仲間たちなどでつくる同人誌『序説』(もう第17号まで)の忘年会が予定されているので、その準備(といっても掃除などだが~)を始めた。

 それがきっかけか、学生時代のメモ帳「詩稿1973 黒川純」(もう37年前。この当時、ガリ版自作詩集を路上で売っていたこともある)を思い出し、本棚から取り出すことになった。

 そこには黒川純第一詩集『怒りの苦さまた青さ 「反戦詩」とその世界』(随想舎 2004年9月)に収めた詩「銀ヤンマ」の元になった詩もメモされていた。懐かしくめくっていたところ、詩集が気になり、今度は『怒りの苦さ~』の詩を読んでみた。

 すると、どうも言葉の使い方がいまいち~。<もう少し直したら、少しはまともになるのでは~>。手を入れていくと、ほとんど、半分以上に直しが。元の詩「銀ヤンマ」ではなくなってきた。ということで、急きょ、詩の題名を「ギンヤンマ」に変えることにした(「少しはまともに」なったかどうかだが?)

 「ギンヤンマ」の詩そのものは先が視えず、追分道でどうしようかという恥多い若いときの心の動きを伝えるもの。その詩を読んでいると、そのときの(つまり37年前の)世の中に対する自分の構え方や考え方などが思い浮かべられる(今もほとんど変わっていないが~笑い)。

 詩稿は詩による日記みたいなもの(読書ノートでもあったが~)。考えたら、若いときの詩稿(書き散らしのメモでも)は、時が過ぎ、こんなふうな使い道もあるのですね(まさか、ブログに昔の「詩稿」を登場させるようなことがあるとは。思ってもいなかったことなので、私でも少し不思議な気がしています~)

詩  ギンヤンマ

              黒川純

もっと飛ぼうとしたのだが

深夜が足元まで迫っていたので

張られた蜘蛛の糸が視えないまま

赤い夕暮れのギンヤンマのように

くるくると円を描いて飛んでいた

     偶然の法則を飛んでいくと

     過去の方向に抗うことが

     飛ぶべき方角だと感じた

     生涯の向こうから落下して

     飛んだのは そのときだった

急降下したのは そのためだったが

輝く昼下がりの街角のパン屋で

失速したバリケードが大安売りされ

買い物袋が笑顔でいっぱいの

三時のあなたになっていた

     そうなったのも

     可能性の方程式を解けず

     遠回りでは敗北だと勘違いし

     もっと跳躍するリズムを崩して

     涙で翅が濡れてしまったからだ

ただ どうしてなのか

砂漠を押し広げて進む大河をめがけ

大きく翅を広げて飛んでいけば

ゆっくりと とまることができる

かすかな予感が不安な瞳に映ったので

だれかが待つ首都へ飛び立ったのだ

     

     

2010年12月19日 (日)

「詩的生活」は腕と腰が痛い  冬本番の薪の貯蔵ようやく万全に

Dscf5348 (砂時計が庭からベランダに運び入れた薪ストーブ用の薪の一部=19日夕 霧降高原)

 「詩的生活」って腕と腰が痛くなるものなんですね~。これが今日の開口一番。19日の本日の午後は庭に放り投げてあった薪ストーブ用の薪をベランダに積む作業に追われたからだ。

 道路沿いの庭からゆるい階段の先にあるベランダまで、たかだか10数m。でも、これがなかなか。薪はメラメラ燃えてしまうスギなどではなく、ナラやカシ、一部はサクラだったか。その1本一本が,ずしりと重い(「頼もしい~」と思いつつ、「重い~」とつぶやいて運ぶ~笑い) 

Dscf5350_2 (薪ストーブの薪は砂時計宅サイドに備え付けた空になった物置にも運び入れた)

 冬本番の薪不足を心配していたところ、友人でもある「日光の薪ストーブ屋」が、軽トラック2台分の薪を配達してくれたのが3日ほど前。初夏にも軽トラックで運んでもらったが、すでに半分は炎になった。<これでは真冬まで持たないのは必至だ>。

 昨冬の経験から、そう予想できた。そのため、初夏にベランダをつくったときに出た廃材を薪に転用。電動丸ノコで切断、それを大斧や小斧で割り、薪材づくりへ。もう1週間はそんなことを繰り返していた。だが、その廃材も残りはあと少しになっていた。

Dscf5351 (砂時計宅の右左に広がるベランダは薪ストーブの薪が占める割合が高くなった)

 新しい薪の配達があったのは、そんな「ピンチ」のとき。1回に運べるのは7本から9本。繰り返し繰り返し、庭とベランダを往復する。30分ほどで休憩し、一服(元旦から禁煙しようと思っているので、「師走まで一服」と、うそぶく日々~笑い)。

 ベランダへの小道で遊ぶ名古屋のコーチャンに「じゃまだよ!」と、声をかけながら、ひたすら運ぶ。もう何十回、運んだか。終わったときはもう夕方(あ~、しんどかった)。ということで、このブログにアップする写真も暗くなってからに。

 再び。「詩的生活」って、ほんとに腕と腰が痛くなるのですね~(ほんとに左腕はヒリヒリ~、腰をトントン。早く風呂に入ること。たまたま、この方が薪運びを終えた夕方、北海道釧路のシャケとカマボコを差し入れてくれた。きょうの「労働」の報酬として、今夜はこれで一杯、やらないといけない~うん!)。

2010年12月18日 (土)

地域通貨コウチャン? 卵=りんご=天然氷=卵=りんご=キャベツ=牛乳パック・・・

Dscf5341 (地域通貨?コウチャンの卵を中心に集まった品々の一部=日光霧降高原の「砂時計」宅)

 我が家で毎日のように卵を生んでいる名古屋コーチンの卵が、地域通貨?コウチャン(コウチャンはニワトリの名前です)のような役割を果たしている(笑い~)。

 私はコウチャンが育っていくのを、知っている友人たちやご近所に「ぜひ一度、美味しい卵を味わって」と、差し上げているだけだ。が、それが、さまざまなものに化けて、砂時計宅に集まってきている。

 和歌山みかん(娘夫婦のお歳暮?)=別のりんご=卵=りんご(北上市の詩人が、砂時計に送ってきたお歳暮の北上山系りんご)=日光の天然氷、アスパラガズというコースもあれば、クッキー=卵=うどん=卵=キャベツ 天然氷も。

 あるいはカレー=卵=紅茶=りんご。さらには卵=防寒ズボン=りんご=牛乳パックといったコースや黒毛和牛=和歌山みかん=カレー=卵=伊勢うどん=りんご。別の卵=カレー=和歌山みかん=別のりんご。イノシシ・シカ=卵、りんごといったコースも。

 この間は薪づくりに必要なチェーンソーの調子が悪かったので、農機具屋さんに修理に。初回の診断・修理だったことで、無料とのこと(本来なら修理料4千数百円)。それでは申し訳わけないので、コウチャン卵4個(5個だったかな)を持っていったことも。

 秋から振り返ると、我が家のこうちゃん卵は地域通貨?として、大活躍。意図したわけではないが、「単なる卵だが、単なる卵ではないタマゴ」が、どうも無意識に物物交換したい精神をふらふらと誘うようなのだ。

 この路線でいくと、いつか、「コーチャン卵本位制」の地域通貨に育っていくかもしれない(最大でも一日にひとつ生むのが限界だがら、国際通貨基金、いや、霧降通貨基金まで貯めることができなないのが難点~笑い)。

 でも、そんなことを、ふと、空想させるさまざまな「物」と「心」を地域で交換しているのがコーチャン卵だ(コウチャンはエライ! この「流通過程」でコウチャンが、ミカンとキャベツが大好物なのがわかりました~もともとパンやブドウ、クッキーが好きなのはわかっていましたが)。

 なお、コウチャンは18日現在、9月下旬に初めて生んでから、3ケ月弱で、55個の卵を生んでいます(あいかわらず、生んでも自分の卵にはぜんぜん関心を示しません。これって、どういうことですかね~)

2010年12月17日 (金)

あと3年で40周年の同人誌『序説』 忘年会は霧降高原「砂時計」で 

Dscf5318 (「砂時計」が編集委員会事務局を務める最近3年間の『序説』15、16、17号) 

 大学時代の仲間たち(もう歴史になりつつある、いわゆる全共闘世代だが~)で年に1回つくる同人誌『序説』。その忘年会を25日に日光霧降高原の「砂時計宅」で開くことになった。私が編集委員会事務局を務めていることもあり、その案内状を昼間、各地の同人に郵送したところだ。

 会員は10人だが、来年は12人に。事務局の私でも高い会費だと思うが、仲間で支えている。創刊は1974年。その後、1981年まで8年間で12号まで発刊して休刊。四半世紀過ぎた2006年に復活し、その年に13号を刊行。それから毎年1回発行し、今年で17号を数える。

 3年後の2013年には創刊から40年となる(なんと40年~)。といっても、四半世紀休刊しているから、実質は13年ほどか。それでも、大変な年月だと思う。大学時代の集団がそのまま40年近くも、(休刊をはさんではいるが~)ひとつの雑誌を出し続けているのは、全国でもたぶん、珍しいと思う。

 ただ、当時の仲間は各地に散っており、その後も、連絡がとれない仲間もいる。<その仲間たちにも「序説」を継続して発行していることを伝えたい>。そんな思いが以前からあった。<そうだ、「序説連絡」そのものをネットにのせればいいかも>。

 ということで、まったく内輪向けの「連絡」だが、ブログ「砂時計主義」にアップすることにした。願わくば、このブログをかつての仲間たちがのぞいてくれれば。そんな万に一つの可能性も願って。

 ふだんの少数の訪問者には恐縮です~事情をご察しください。以下はその『序説』同人への忘年会と2011年に発行する第18号の連絡です(同人誌は、こんな連絡をしていますよ、という参考にもなるかもしれない。さて、どうかな?)。

2010年「序説」忘年会・及び2011年「序説第18号」連絡

                           (事務局・日光霧降高原 黒川純)
                            2010年12月17日(金)

▽2010年「忘年会」を12月25日(土)、日光霧降高原・黒川純宅で。22日(水)までに出欠の最終チェックへ
昨年は今年の正月に日光霧降高原・黒川宅で行いました。今冬も(急きょですが~)今月の25日夜に、黒川宅で。「序説忘年会」(発起人? 岩城、高橋、黒川)をやることにしました。時間は午後6時ごろからを考えています(同日夕においでください、駐車スペースあり。電車で日光着の会員は黒川が迎えに)。泊りは基本的に黒川宅。親族などの世話やクリスマス時期でもあり、仕事の都合で参加できない会員もいると思いますが、ぜひ「薪ストーブの湯豆腐、熱燗・冷酒」が楽しめる我が家へ。22日(水)までに出欠の確認へ。(一人一品持ち込み方式で。ただし、湯豆腐、シャブシャブなどは黒川が用意。酒類持ち込み、もちろん、大歓迎します)。黒川宅の容量オーバーの場合も考え、友人が経営する霧降高原のホステル「鳴沢ロッヂ」に部屋を仮に確保しています。

▽「序説第17号」発刊懇親会 群馬・草津温泉で祝い合う
「序説17号」は、会員のみんなの協力で5月29日に発行されました。同日、群馬県草津温泉のペンションで発刊懇親会を開催。定年退官・病気快方も兼ねてF教授夫妻が加わり、総勢9人で17号刊行などを祝い合いました。前号に引き続き、磯山君(懇親会は欠席)から、会費以外に1万円のカンパがありました。ご報告しておきます

▽2011年の「序説18号」懇親会は7月30日 日光で
2011年の序説懇親会は年7月30日(土)、31日(日)=土曜日が5回ある月の最終週=、日光の黒川純宅と決めました。懇親会は黒川宅、泊りは隣近所(歩いて1分)のペンション「ポコ・ア・ポコ」を予定しています(同ペンションは黒川の町内会の友人、一泊朝食付10人前後で予約済み)。

▽「序説18号」の締め切りは2011年5月31日(火)。
来年の懇親会がいつもの年よりやや遅い日程にした関係で、「序説18号」の締め切りも、それに合わせて5月31日(火)にします(発刊2カ月前)。「序説17号」の締め切りは4月上旬でしたが、それよりも1カ月半以上遅らせることになります(それにしても、あと5カ月です。締め切りにめがけて、原稿の構想を練っていてください)

▽「序説18号」原稿は一人原稿用紙400字詰めで20枚程度、それに原稿1、2枚の「あとがき」も。
詳しいことはまた、春にご連絡しますが、原稿はメールなどで、事務局・黒川へ。初校は出版社から執筆会員へ。いずれも例年通りと考えてください。ただし、次回は元教授のFさん、Kさんが加わり、会員は10人から12人に。収支はようやくトントンに近く。青木、江本、我謝、新藤、小池、須藤などの各君、井上さんなど、かつての仲間と連絡がとれたら、「序説」を継続して発行していることを、話してみてください(創刊号は1974年。あと3年で40周年記念に。会員拡大については、事務局もやってみますが~)。

▽黒川はブログ「砂時計主義」を6月上旬から継続発信中です。たまにのぞいてみてください
すでにメールではお伝えしたかと思いますが、黒川はほぼ毎日更新しているブログ「砂時計主義」(黒川純第2詩集『砂時計主義』と同名)をやっています。詩や詩論エッセーなどを中心に霧降高原の暮らしぶりを伝えています。安齋君の「切れ切れな日常」や磯山君の詩、長島君の仕事ぶりなどもアップしています(もちろん、「序説」の発刊そのものについても)。
時間のあるときでけっこうですから、たまにのぞいてみてください。
「砂時計主義」のURLは以下の通り。
http://nikkosunadokei.cocolog-nifty.com/blog

2010年12月16日 (木)

心はいつも航海をゆるされる 「とりのこされた詩人」寺山修司・詩「あなたに」

Dscf5309 (詩「あなたに」などが収められている『寺山修司詩集』ハルキ文庫・2003年11月第一刷)」

 寺山修司は『名言集』で、人はだれでも一度だけ詩人になる、だが、やがて「歌のわかれ」をして、詩を捨てると書き、さらに「詩を捨て損なったものだけがとりのこされて詩人のままで老いてゆくのある」とした。このブログの『寺山修司名言集』からで、砂時計は寺山はとりのこされた詩人を「否定的に、というか、良い文意で語っていない」とした(砂時計は「詩人のままで老いてゆくのである」でいきたいとも)

 たまたま、寺山修司の自伝的エッセイ『悲しき口笛』を読んでいたという、「序説」同人の私の友人で詩人・磯山オサム君から手紙が届いた。寺山は死の直前まで詩を書いており(遺稿詩「懐かしの我が家」)、寺山自身も「とりのこされた人」と、語っていると思えますと、という。

 磯山君は寺山の絶筆「墓場まで何マイル?」(「週刊読売」)のコピーも添えてくれた。そこで寺山は「墓は立てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分」と書いている。結びにウィリアム・サローヤンの言葉を添えている。これはかなりいい文句だなと思った。以下に転載する。

 「あらゆる男は、命をもらった死である。もらった命に名誉を与えること。それだけが、男にとって宿命と名づけられる」

Dscf5306 (友人の「序説」同人で詩人の磯山オサム君が郵送してくれた寺山修司の自伝的エッセイ『悲しき口笛』表紙

  問題は「とりのこされた人」だった。最後の詩「懐かしの我が家」は死の8カ月前、朝日新聞に掲載されたという。その意味するところは『寺山修司詩集』の解説「寺山修司の抒情について」を読んでいただきたい(この解説の解説が難しいので~)。

 また、寺山はエッセイ「歌のわかれ」で、歌集『田園に死す』以降、「私は歌を書かなくなってしまった」とある。つまり、やがて「歌のわかれ」をして、詩、いや短歌を捨てた。だが、寺山も詩を捨て損ない、「少女詩集」「歌謡詩」(「戦争は知らない」はあのフォークルが歌っている)「劇詩」などのほか、遺稿詩「懐かしき我が家」なども書いてきた。

 ただ、寺山の死は47歳(この若さであれだけの仕事!)。健康なら人生はまだこれからだ。それでも「詩を捨て損なったものだけがとりのこされ詩人のままで年老いてゆくのである」と、書いていた。

 寺山にして(いや寺山だからこそか)「とりのこされた詩人」という自覚をしていたのか、あるいは「とりのこされた詩人」に大いなる意味を与えていたのか。それとも、自嘲的にそのように自分を位置ずけていたのか(実際、世間とずれていると評されてしまう詩人のまま年老いてゆくことが、いかに難しいか~)。

 私は「とりのこされたその詩人」について、「寺山は否定的に、というか、良い文意で語っていない」と、いったんは読んでみたが。文意を読み間違えたかもしれない。いずれにしろ、寺山の『悲しき口笛』を近く読まないといけないだろうな~。

 ともあれ、『寺山修司詩集』を読み進むうちに、「少女詩集」のなかの詩「あなたに」が、かなりひっかかった、というか、妙に気になる詩だったので、ブログにアップへ。

詩 あなたに

          寺山修司

書物のなかに海がある

心はいつも航海をゆるされる

     書物のなかに草原がある

     心はいつも旅情を確かめる

書物のなかに町がある

心はいつも出会いを待っている

     人生はしばしば

     書物の外ですばらしいひびきを

     たてて

     くずれるだろう

     だがもう一度

     やり直すために

     書物のなかの家路を帰る

書物は

家なき子の家

2010年12月15日 (水)

「化外」から紡ぐ風土の精神(下)  「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」解説-黒川純ー

Dscf5297 (斎藤彰吾さんが代表のひとりを務める「全国生活語詩の会」編集の「現代生活語・ロマン詩選」・竹林館・2008年12月)

「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」(コールサック社 2011年春・刊行予定)

栞解説      黒川純

「化外」から紡ぐ風土の精神 (下)

2 イーハトーブの詩人たち

 現代の暴挙である米軍のイラク戦争にも、敏感に反応した数少ない詩人のひとりが彰吾さんだ。この戦争に怒る「平和と春一番を呼ぶ会」が北上川河畔の展勝地レストハウスで開かれたのは2003年冬だった。そのとき、私は思わず走り書きのようにして書いていた詩「怒りの苦さまた青さ」のメモを手に会場に向かった。

 詩らしきものを書いたのは、学生時代以来、およそ30年ぶり。そのとき彰吾さんにおだてられたのがきっかけになり、「北上詩の会」や「岩手県詩人クラブ」、岩手県の詩人を中心にした詩誌「堅香子」(かたかご)の会員や同人になることになった(一時期だが、季刊詩誌「新・現代詩」の同人同士にも)。いわば私にとって、彰吾さんは詩の世界の水先案内人のようなものだ。

 そうこうするうちに「朝日新聞岩手版で戦後の岩手県の詩人たちを紹介してみたらどうか」。その名前も「風土」という北上市内の居酒屋さんで飲んでいた最中だと思うが、彰吾さんに持ちかけた。その当時、彰吾さんが戦後間もなく「岩手県詩人クラブ」の設立に強くかかわっていたことも知り始めたときだ。

 主題を「イーハトーブの詩人たち」と決め、各回ともテーマ主義でいくことにした。掲載は毎月2回、計13回(2004年春~秋)。とりあげる詩は現役の詩人に限ることにしたのが特徴かもしれない。そのテーマから岩手の詩の今がよくわかるはずだった。

 初回の「抒情に地の匂い立つ」に始まり、「大地から湧く農の声」「時代へと響く方言詩」へ。「風土に吹く縄文の風」「古代への記憶を刻む」など。前出の小原麗子の「十七歳」などのほか、相澤史郎、城戸朱里、岩田宏ら全国で活躍する岩手県にゆかりがある詩人もとりあげられた。
 

 そのうち岩手県宮古詩人クラブ・グループ「風」の詩をとりあげた「浜に吹く女の反戦歌」では、最初の読者である私も新鮮な驚きを覚えた。その詩、「伝えたいこと」(本堂裕美子)の4連目はこうだった。

 今も、砲弾が鳴り響く地では/花が咲くより容易に人が死ぬ/鳥の声はぜず子供が泣いている/どんな大義もあの子の涙より軽いのに

 連載中に知人から「元気をもらった」といいメールが届いたのを機に、私も紙面の「記者メール」という小欄で、この詩を改めて紹介したほどだった。


新聞記者をしながら、詩を書き始めた私にとっては、意義のある仕事として、毎回、緊張しながらだが、楽しく仕事をさせていただいた。自分が最初の読者である、こうした企画を組めたことは記者冥利でもあった。

 だが、当の彰吾さんは大変だったと思う。その思いは今回の論考「まことの言葉の姿へーイーハトーブの詩人たちー」でみることができる。

 私も直接、聞いたことがあるが、彰吾さんが心がけていたことのひとつは「作品には、一、二行だけでいい、読者の今の胸中をゆすぶる詩句を提供したかった」ということだった。「そんな気持ちだけが、やたらに働いていたと思う」とも書いている。私にとってよかったのは、彰吾さんがこの連載について、「私にとっては、ある種の社会参加だった」と、思っていてくれたことだ。

 こうした「仕事上」の交友も含めて、詩の先輩・後輩とさせていただいた。そのため、厚かましくも私の第一詩集『怒りの苦さまた青さ 詩論「反戦詩」とその世界』(2004年9月)に「哀しみを抱き未来までへー黒川純の詩についてー」の小論をお願いした。
 この小論も今回の論考にあるが、彰吾さんの「反戦の詩を書く行為」についての構えは、一朝一夕で生まれたものではないことが、わかるだろう。

 「反戦の詩を書く行為は、鉢巻きを締めて書くことではない。ごく当たり前な一人の人間として、『不都合なことは不都合だ』と、つまりご飯を食べるように書くことだ。巧く書くとかを求めず、今日のうちに消えてしまってもよろしいと、人びとの表情に告げる二言、三言を書くのみである。千人であれ一人であれ、読まれて個々の胸内に明かりがともる。それがこの国をつくる未来までへの、われらの任務であり希望ではないか」(「哀しみを抱き、未来までへ」)

 斎藤彰吾は「化外」の思想を根っ子に東北の風土にすっくと立ち続け、『化外』や『北天塾』などの発行に立ち会い、今、「全国生活詩の会」編集委員会代表の一人として、方言詩、生活詩に力を尽くしている。さらに『別冊おなご』(麗ら舎読書会、年1回刊)に「戦争を読む」を長期連載するといった作業も続けている。それでいて、ときに野田宇太郎生誕祭献詩第一席に選ばれる魅力的な抒情詩も生み出してもいる。

 これらの仕事を背景に生み出された今回のさまざまな論考は、戦後から現代を見据える拠点としてきた「化外」の思想、あるいはバルバロイ(異民族)の視点から、中央にモノ申すことに恐れない反骨のパトスのなせるものだと思う。

 「われらの任務と希望」を呼びかけた真摯な強い意志は、そうした斎藤彰吾のそれまで積み上げた結晶が呼びかけさせたものだ。「化外」から紡いできた風土の詩人の自負でもあるが、その指摘は反骨の詩人たちに対する大きな励ましにもなっている。
                                             (了)

2010年12月14日 (火)

「化外」から紡ぐ風土の精神(上)  「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」解説-黒川純ー

Dscf5285_3岩手の詩人 斎藤彰吾さんが副塾頭を務めていた東北学研究誌「北天塾」の第10号)

斎藤彰吾 詩論・エッセー集(コールサック社・2011年春・刊行予定)

栞解説   黒川純

「化外」から紡ぐ風土の精神(上)

 中央に従わない、まつろわぬ民、東北の蝦夷(えみし)の心を胸に詩を視つめてきた斎藤彰吾の全体像に迫る論考だ。それも戦後すぐからざつと60年にわたる詩作活動から導きだした膨大な論考群。いずれも東北・岩手に暮らしてきた「生活詩人」の情熱が一貫して流れている。この10年近くかなり親しく交友させていただいている私にしても、その全貌は今回の詩論やエッセーで初めて知ることができた。

1 「化外」の思想 

 斎藤彰吾を語るには王権の強化の外を意味する「化外(けがい)」の思想を抜きに語れない。朝日新聞記者だった私が、北海道釧路支局から岩手県北上支局に異動してきたのが、2001年。そこで初めて斎藤彰吾という詩人の大きな軌跡を知ったのだ。

 いわば東北自治国の末裔である誇りから出発して、日本史に東北を位置づけようとした季刊同人詩誌『化外』を1973年に伊藤盛信さんらと創刊(終刊22号、1984年)。さらに1988年には東北学研究誌『北天塾』を『7千通の軍事郵便』などを世に送り出したことで知られる菊池敬一さんらと創刊。『北天塾』は1999年の第10号で休刊しているが、ここで副塾頭を務めていた。そうした硬派の詩人であることは、仕事柄、まもなく知ることになった。

 その『北天塾』の「巻頭言」をみると、北天塾は終刊した『化外』の思想を色濃く受けていることが、みてとれる。そして、彰吾さん(ふだんそう呼んでいるので)が一貫して、この立場から、東北を、日本を、世界を視つめてきたことがうかがえる。その「巻頭言」を示す。

 「“北天塾”の願いは、北の天地に生きた人びとの過去と現在の姿をみつめて東北学をおこすことにより、次の時代への展望を確かなものにしようとするものであります。日本政治文化の歩みは、古来より大陸の中華思想の影響を受け、その南蛮・北荻の思想がそのまま熊襲・蝦夷におきかえられて施策されてきました。中央行政府を離れた地方ほど化外の
地とされ、そこには文化が存在しないかのような考え方だったのであります。文化とは、普遍的にして個性豊かなものでなければなりません( 略 )深い土着志向が、世界に通じ、宇宙にまで通じるものであったことは、私たちの先哲宮沢賢治がみせてくれた如くであります」(『北天塾』巻頭言)

 今回の論考では「地域文化論・北上文化」で代議士を務めた沢藤礼次郎らとの対談で、彰吾さんが、なぜ『化外』にこだわったか、その理由が明らかにされている。もともとは奄美大島に暮らしていた作家・島尾敏雄の新聞での発言から構想されたのだという。

 彰吾さんは対談でこう語っている。「(島尾敏雄の見方は)東北にしても、琉球にしても征伐された歴史しかなく、この二つの弧は日本の動向の中でついに主流になったことがないという見方なんです。その見方に共感し勇気づけられて始めたのが『化外』なんです」。

 
 私が北上に着任したその年に、同市の「鬼の館」で企画展「エミシ展~北の鬼の復権~」が始まった。翌2002年が征夷大将軍・坂上田村麻呂と果敢に戦い抜いた古代東北の蝦夷の英雄・アテルイの没後1200年にあたっていた。

 その記念すべき年に向け、いかに東北が歴史的にねじ曲げられて伝えられてきたかを鮮やかに示す企画だった。こうした試みをストレートに打ち出せる風土が東北・岩手にはある。これらを可能にしたのも、地下水脈を保ち続けた彰吾さんらの土台づくりがあったからだろう。

 「日清戦争から第二次大戦に至る間の岩手や東北は、まさしく兵馬の供給地であった。その強いられた歴史の真実を、ぼくらは凝視しなければならない」
こう結ぶ論考「馬をめぐる幻視の古代」も、「化外」の思想上にある彰吾さん独特の切り取り方だ。

 第二次大戦では農民兵士の供給地であっただけに、今も東北・岩手は戦争の記憶がさまざま形で残されている、いや、残そうとする人たちがいる。北上市では、たった一人の息子に戦死された貧しい母親が苦労して、苦労して貯めたお金で道端に「南無阿弥陀仏」とだけ彫った墓を建て、亡くなっている。

 その墓を「意志の墓」だとして、命日(11月4日)に母子を供養する「千三忌」(せんぞうき)を毎年、開いている詩人たちがいる。それも今年で26回を数えた。同市に暮らし、「麗ら舎読書会」を主宰し、千三の墓守を自負する詩人・小原麗子さんは、その典型だ。

 その小原さんに関する詳細な論考「母と村の考察―生活詩における小原麗子の側面」では、「日本における数少ない、女の記録者、詩を創造の渕とする書き手」と結んでいる。小原さんはもちろん、彰吾さんも、戦争に対するというか、反戦の意志は首尾一貫している。

 今回の論考にはないが、多くの反戦詩を作品にしたり、紹介したりする膨大な仕事を続けているのも、もうひとつの顔だ。岩波新書『戦没農民兵士の手紙』(岩手県農村文化懇談会編)づくりにもかかわってきたのも、その延長線にあるのは、言うまでもない。

(「化外」から紡ぐ風土の精神 「斎藤彰吾 詩論・エッセー集」解説(下)に続く)

2010年12月13日 (月)

地球を蹴って 世間を飛び越え 黒川純・詩「明るい方へ」

Dscf5278(詩「明るい方へ」も入っている『金子みずゞ全集』JURA出版局・1994年3月第9刷)

詩 明るい方へ(あかるいほうへ)

  
         黒川純    (2010・12・13)

明るい方へ
もっと明るい方へ
ため息の幸せだったので
苦しかったお遍路さんが
人生の岐路を
もう一度
歩き抜けと励ました

明るい方へ
危うい冒険心でも
地球を蹴って
世間を飛び越え
やみくもに こまやかに
半世紀の問いの繰り返しに
今 未来の数式が

明るい方へ 
さらに明るい方へ
喜怒哀楽は
木霊のように返すものだから
地雷を踏んで飛ばされないように
私もみんなも この街も世界も
緑の香りでいっぱいに

明るい方へ
北の闇から南の風へ
背水の陣に向かった勇者に
にこやかな祝福が降りてきた
涙の幾何学を踏みしめて
明るい方へ 
さぁ 明るい方へ

                                                    

 「三代目」が詩のコメントを送ってきたので、「砂時計」も詩で返答しようとした。たまたま『詩学』の「シュルリアリスムと詩学」(松浦寿輝)を読んだばかりだったので、「自動記述」を意識した(形容矛盾だが~)。約20分で書きあげたのが、詩「明るい方へ」。

 <コメントだけでは、どうももったいないのでは?>。そう思ったので、ブログ本文そのものに昇格?させることにした。「自動記述」とはいったが、そのままでは、どうもいけない。ということで、コメントを改稿し、ここに。

 主題の「明るい方へ」については、たまたま、そのように思いついたのだが、<どこかで聞いたことがある?>。あれこれ考えていたところ、点灯。

 たぶん、そうに違いないと、思いついたのが、金子みすゞ。手元の『金子みすゞ全集』の分冊のひとつ、「空のかあさま」を開くと~。

 <あった あった やっぱり>。金子みすゞに「明るい方へ」が。いつのまにか、「明るい方へ」という言葉が頭にすみにあったのだと思う。無意識下で、「明るい方へ」というイメージが「押し入れ」に入っていたのだ。

 それが「三代目」の「人生の岐路」の心境と重なり、詩を書かせた。そういうことだろう。その意味で、今回の「明るい方へ」は、いかにも素直な詩づくりになったと思う(自画自賛で~微笑み)。

 ついでに、金子みすゞの「明るい方へ」

詩 明るい方へ

          金子みすゞ

明るい方へ

明るい方へ。

   一つの葉でも

   陽の洩るとこへ。

藪かげの草は。

   明るい方へ

   明るい方へ。

翅は焦げよと

灯のあるとこへ。

   夜飛ぶ蟲は。

明るい方へ

明るい方へ。

   一分もひろく

   日の射すとこへ。

都會に住む子等は。

2010年12月12日 (日)

「ミレニアム」のグラフィック・デザイナー 縁ある詩誌「詩と思想」の意匠は若き頃の友

Dscf5271 (グラフィックデザイナー長島弘幸さんが装幀を担当している全国詩誌「詩と思想」)

 群馬県太田市の「デザイン・ファクトリー ミレニアム」の代表で、「高崎映画祭」(来年が第25回)のポスターを初回から担当しているグラフィックデザイナー 長島弘幸さんから、分厚い書籍「詩学入門」(土曜美術社出版販売 2008年3月)と「モギマサ日記ー僕と映画と仲間たちとー」(同・2010年3月)が、霧降高原に届いた。

 学生時代からの友人の一人だが、数十年、会う機会がなかった。交友が再開できたのは、この2年ほど前からだ。印刷関係のデザイナーをやっているのは、何かで知っていたが、どんな仕事ぶりなのか。細かいことまでは承知していなかった。

 仕事のひとつがわかったのは、私も読者である月刊詩誌「詩と思想」から。同誌と砂時計との因縁は深いのだが(話すと長くなるので、今回は割愛~)、この「詩と思想」の装幀を担当しているのが「長島弘幸」と知った。というか、<似たような名前の人がいるものだなぁ~>。最初はこうだった。それが学生時代の友人と同一人物とわかるまで、かなり過ぎていた。

Dscf5275 (やはり長島弘幸さんが装幀した内容豊富な書籍「詩学入門」・土曜美術社出版販売)

 彼の仕事が分かったことも含め、2年前に同人誌「序説」(私が事務局を担当)の仲間の忘年会に誘った。詩誌「詩と思想」は1970年代、どちらかというと、戦後詩の二大潮流のひとつ、「列島」の流れを受けていた詩誌(今はどうなのか?)。

 そこのデザインを担当することは、デザイナーとしてかなりの力がないと、できない。それをやっていることを嬉しく思い、ぜひ参加をと。その晩は「序説」の仲間や彼、恩師らと一杯やった。時間の関係もあり、多くを語りつくすことが出来なかった。

 この数日、再び、音信をとることになった(長島さんは私にメールを送っていたというのだが、機器の設定か何かの理由で交信ができないままになっていたので)。というのも、「序説」仲間で今月下旬、霧降高原の「砂時計」宅で「忘年会」(という飲み会)を。それが決まり、長島さんにも連絡を誘いの連絡を入れたため。

Dscf5268 (装幀はもちろん、組版までやったという「モギマサ日記ー僕と映画と仲間たちと」・同)

  「ぜんぜん、連絡がとれませんでした」「えっ、メールを送っていたの?」。そんなちぐはぐな、やりとりから、彼の仕事の一部を送ってもらうことになった。「詩学」は日本詩人クラブが各界の詩の講演をまとめたもの(すでに松浦寿輝さんの「シュルレアリスムと詩学」を読んだが、なかなか歯ごたえがあった。いずれこの論の展開へ)。

 さらに「モギマサ日記」は、高崎映画祭を仕切り、高崎の映画館「シネマテークたかさき」を立ち上げた故・茂木正男さんの本。2008年1月、がんのため、61歳で亡くなっている。その茂木さんが、生前、シネマテークたかさきのホームページ(本には、これも長島さんが管理しているとある)に書きつづった日々の奮闘記録だ(まだ読み始めたばかり~)。これは装幀はもちろん、組版も担当したという。

 それにしても、大学を出てから?、何十年。当時、気になっていた友人が大きくなって、世の中に出ているのは嬉しいこと。もともと彼は映画やジャス、ロックの音楽などに関心が深く、アナーキィな芸術派だった(と思えた。全共闘のいわば、政治派の私と少し違った場所に彼はいた)。

 長島さんは、「詩と思想」では、映画や音楽論も執筆しているほど。私に縁のある「詩と思想」(再びですが、語り切れないのでカット~笑い)に、遠い学生時代の友人のひとりが深くかかわっていたことに、驚きと世の中の不思議さを覚えたことだった。

2010年12月11日 (土)

「三代目」が経営披露パーティ 霧降高原のホステル「鳴沢ロッヂ」

Dscf5248_2友人の「三代目」が経営を引き継いだ日光霧降高原の「鳴沢ロッヂ」看板)

 日光霧降高原のホステル「鳴沢ロッヂ」の経営を「砂時計」の友人「三代目」が引き継いだ(民宿・鳴沢ロッヂとしては30年の歴史があるという)。その披露パーティが10日夜、あり、日光内外から友人たちが駈けつけ、お祝いをした。外国人観光客が大半で知られ、「三代目」はパーティの案内状に「国際親善に尽くしたい」とつづった。

Dscf5244(1階は食堂や広い談話室 2階はすべて和室の客室のホステル「鳴沢ロッヂ」)

 人生経験が豊かで、これまでもさまざまな「人生の岐路」を直面してきた「三代目」。いわゆる山あり谷ありで歩んできた苦労人だ。もてなしは抜群、勤労意欲が大いにあり、ユーモアにあふれ、行動は素早く、チャレンジ精神は豊かで、ITに強い。国内外の情勢にも関心が高い。なにより、英語を難なく使いこなせる(「それっ~」と、突っ走る「冒険心」がありすぎなのが、本人にとって、いいのかどうかだが~)。

Dscf5235パーティの主役はやはりお寿司。さらにパンやクッキー、野生鳥獣の「ジビエ料理」の差し入れも次々と)

 「砂時計」は「三代目」の仕事ぶり、性格や環境、それに経験や年齢から、「ゲストハウスを経営するにはぴったり」と促していた。それがトントン拍子で、「鳴沢ロッヂ」経営が決まり、さぁ、これから本格的にスタートだ。そんな大いなる前進に向けた「決意表明」?にエールを送る集まりが、この日のパーティだった。

Dscf5238ふだんは談話室がパーティ会場。日光内外からざっと30人の「三代目」の友人がお祝いに訪れた

 定刻の夜7時前にはもうかなりの友人たちが食堂に。会場の談話室に移ると、ビールやお寿司など。あいさつした「三代目」は、各地からさまざまな友人たちが集まってくれたことに感激。ほんのわずかだが、スピーチを中断する場面もあった(このところ、気苦労も並みたいていのことではなかったら、そんな嬉しい心になるのもわかります)

Dscf5240(足りない椅子をパーティ会場にひとり、持ち運ぶ今夜の主人公「三代目」=日光霧降高原、鳴沢ロッヂ)

 会場でさまざまに「国際親善」していたのが、この夜で「鳴沢ロッヂ」連続6泊目という香港からやってきた高校数学教師。日本語を学び、さらに次のチャレンジをするという意欲に燃えた青年だ(香港の日本語検定2級は合格済み、次は1級をめざしているという)。辞書を片手に猛勉強中なのだが、友人たちは(「日光を漂ふ」などだが~)「書を捨てよ、町に出よう」という助言している。

Dscf5254 (日本語検定試験のため、「鳴沢ロッヂ」で猛勉強中の香港の高校数学教師は17泊目=11日)

 実際、香港青年は一夜明けた11日夕も食堂で、一心不乱に日本語を勉強(日中は氷屋徳次郎さんのところで、天然氷づくりの準備作業などの労働奉仕をしたようだが)。日光には20日まで連続16泊の予定という。それならばと、「これから市営温泉『やしお湯』へ行くのだが、一緒に行かないか」と声をかけた。日光に来てまだ一度も温泉に行ったことがないという。「やしお湯」では、大浴場、露天風呂、サウナと一緒に楽しみ、「日本の温泉入浴方法」を伝授した(「ニホンノオンセンノハイリカタヲマナベマシタ」と喜んでくれた)。

Dscf5259(客室はすべて和室。こんなにゆったりした角の清潔な客室。フランス人観光客が好む部屋だという

 それにしても、披露パーティにはざっと30人も。「砂時計」が知っている人も、知らない人も。さまざまな職種の人たちが集まってきた(遠くは宇都宮から)。日光暮らし3年と少しの「砂時計」が同じことをやろうとしても、こうは人は集まってくれない(残念ながら~)。「三代目」の人徳のなせるわざだろう。年末年始とこれから、ホステルのかきいれどき。大いに「ホステル経営者」として、(過労死しない程度に)頑張って欲しいと思う。

2010年12月10日 (金)

さりとて絶滅も不可能のしろもの 詩「詩集と刺繍」・茨木のり子詩集からー(9)-

Dscf5227 (詩「詩集と刺繍」などが収められている茨木のり子詩集『自分の感受性くらい』花神社・2007年12月第8刷)

 「働くキリギリスになるのですね?」という私の問いに「働いても働いても、ギリギリッス」と友人が応じたのをヒントに、私は詩「ギリギリッス」や「火の鳥」を書き、ブログにアップしている。言葉の面白さに諷刺を加えて、ニヤリとしたいためだ。

 茨木のり子もそんな言葉が交差するおかしさ、というか、理不尽さに逢い、それを詩にしている。ただし、単にその組み合わせを追っていくのではなく、詩が持つ本質的なものさえ、そこに示す。

 詩「詩集と刺繍」だ。有名な詩「自分の感受性くらい」が表題になっている詩集に収められている。その巻頭にある(「自分の感受性くらい」は3番目)。初出は1975年1月「いさかか」。初出一覧をみると、「自分の感受性くらい」と同じ75年1月に発表されている。

 「詩集のコーナーはどこですか」と、東京堂の店員に尋ねたところ、店員がさっさと案内した。詩集ではなく、刺繍の本がぎっしり詰まった一角へ。「ししゅう」と云ったのだから、「刺繍」コーナーへ案内されても、間違いではない。

 ただ、詩では、女が尋ねた「ししゅう」は「刺繍」とだけ、思い込まれたことに、「正しいか しくないか」と、釈然としない気持ちもつづっている。その後の心の動きや発想が、さすが、茨木のり子らしい。

 「ししゅう」(詩集と刺繍)は「共にこれ/天下に隠れなき無用の長物/さりとて絶滅も不可能のしろもの」と、次元を変えて、その性格を伝える。さらに最終連で「言葉で何かを刺しかがらんとする者を根だやしにもできないさ」とも。ニヤリと微笑む不敵な面構えの茨木のり子が思い浮かぶようだ。

 「刺繍」から言葉で刺しかがらんとする詩を思い浮かべていく、そういうところが「戦後詩の長女」と評された非凡な詩人なのだろうな。そう思って読んだ詩「詩集と刺繍」。私も別な機会で、こんな別の角度へ、別の次元へ、別のベクトルへ飛んでいく詩を書きたいと思ったことだった。 

詩 詩集と刺繍

            茨木のり子

(全6連の後半、4、5、6連のみ)

礼を言って

見たくもない図案集など

ぱらぱらめくる羽目になり

既に詩集を探す意志は砕けた

                                                    

二つのししゅうの共通点は

共にこれ

天下に隠れもなき無用の長物

さりとて絶滅も不可能のしろもの

                                                    

たとえ禁止令が出たとしても

下着に刺繍する人は絶えないだろう

言葉で何かを刺しかがらんとする者を根絶やしにもできないさ

せめてもとニカッと笑って店を出る                                                 

2010年12月 9日 (木)

霧降高原に初雪 本格的な冬の始まりに雪見酒へ

Dscf5206 (今冬の初雪が降った日光霧降高原=9日午後8時半、「砂時計」宅)

 今夜は美味いカレーづくり。懸命に料理していると、周りがなんだか、しんしんと。と、外を見ると、ベランダがうっすと雪化粧。<初雪だ!>。9日は霧降高原の今冬が本格的に始まった日だ。

Dscf5201 (初雪でベランダや薪の防水シートも雪化粧)

 このところの暖かさが、数日前から肌寒く。<これは雪が降ってくる状況だな~>。これは危ない。ということで、7日に冬タイヤに交換したばかりだ(雪が降ってからスタンドに行くと、行列になってしまうので。滑り込みセーフっていう感じ)。

Dscf5214 (我が家の「名古屋のコーチャン」も少し不思議そうにベランダの初雪を歩く)

 初雪なので?、ふだんは玄関内で暮らす「コーチャン」をベランダへ。コーチャンは雪は初めて。外に出しても、なかなか雪のあるところへ行きたがらない。少しちゅうちょしてから、ベランダの雪のあるところへ。なんだか不思議そうな表情で雪初体験をした。

Dscf5233 (ということで? 今夜は薪ストーブのしゃぶしゃぶ雪見酒へ)

 雪となれば、雪見酒?。室内は夕方11度の寒さだったが、薪を炊いて、現在は24度。<今夜は「東豊國」の熱燗か、「日光囃子」の冷酒で雪見酒のしゃぶしゃぶへ>。そう思い描きながら、このブログを打っています~

2010年12月 8日 (水)

「戦艦大和ノ最期」  黒川純・詩「その声は伝わっているか」

Dscf5198 (講談社文芸文庫の吉田満『戦艦大和ノ最期』・1997年4月第四版)

詩 その声は伝わっているか

                   黒川純

                                                    

(進歩ノナイ者は決シテ勝タナイ

負ケテ目ザメルコトガ最上の道ダ)

                                                    

殴り合いの乱闘の末だった

必敗の海路の激論を制し

低く囁くその声に反論はもうない

      散る命の意味を問うなら

      ここで徹底的に敗れる

      それが最もいい方法だ

                                                    

(敗レテ目覚メル

ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ)

                                                    

本当の進歩ってやつを忘れ

必要な改革を怠っているから

今こそ目覚めさせるのだ

      育ててくれた故郷のため

      俺たちがその先導役になる

      それ以上 何を望むのか

                                                    

(日本ノ新生ニサキガケテ散ル

マサニ本望ジャナイカ)

                                                    

若い命を南海に沈めたのは

次の世のため 死ぬことで生きると

その考えに辿りつき 殉じたからだ

      その死はムダではなかったか

      思いは65年後も視えているか

      海の底の声は伝わっているか

注 ( )内は「戦艦大和ノ最期」の哨戒長・白淵大尉の言葉

(黒川純詩集『怒りの苦さまた青さ 「反戦詩」とその世界』(2004年9月)の「私たちの意志は届いたか」改稿)

 12月8日は太平洋戦争開戦日(1941年)。朝日新聞が夕刊で連載中の「65年目の『遺言』」②(12月7日3版)は「大和と原爆 2度見た地獄」と題して、元海軍少年兵、八杉康夫さん(83)の「遺言」を伝えている。

 3000人以上が海に沈んだという戦艦大和。護衛機がつかない「特攻」の船内はどんなようだったか。生き残った海軍少尉 故・吉田満さんが名著『戦艦大和ノ最期』を残している。

 「太平洋戦争最高の戦記文学」。という作家の故・山田風太郎の評があるという。「という」というのは、最近、といっても、2007年8月刊だが、岩波新書『戦艦大和 生還者たちの証言から』(栗原俊雄)からの引用のため。

 無理に引用しなくともいいのだが、「大和」に関してはさまざまな書籍が出されているからだ。その中でも第一級ということを言いたかった。私にしても、吉田満の「戦艦大和ノ最期」には、感動を覚えた。というか、正座して読まねばならないような緊張感を覚えものだった。

 とくに「負けることがわかっている特攻に何のために向かうのか」をめぐる士官たちの議論には、さまざまな感慨がよぎった。論争が乱闘になるが、その際、白淵大尉が低くささやくように話すくだりは必読の価値ありだ。

 それに触発され、白淵大尉の言葉を加えて、詩にしたのが、「その声は伝わっているか」。もともとは岩手県北上市を中心にした詩誌「ベン・ベ・ロコ」145号(2003年8月)に「私たちの意志は届いたか」として、発表したものだ。きょうは朝日新聞の記事を受け、初稿を改稿し、アップすることにした。

      

2010年12月 7日 (火)

これがB29 これはグラマン  「65年目の『遺言』」に詩「音楽の時間」

Dscf5189 (17歳のとき、名古屋空襲で足も恋も奪われた松野和子さんを軸にした戦争企画「65年目の『遺言』①」=朝日新聞6日付夕刊3版 クリックすると写真が拡大します

詩 音楽の時間

          黒川純

                                                    

Cジャムブルースにブルー・トレーン

Tシャツで春風を誘った青年時代

ジンとプカプカが一緒だった深夜

モダンジャズを枕に夢に沈んだ

                                                    

すると セピア色した木造校舎の

小学校の音楽教室が浮かんだ

先生がピアノで和音を響かせている

身震いする地鳴りのような金属音だ

                                                    

今度はLPレコードを回している

やはり ゴーゴーという嫌な音だ

どこか遠くから降ってくる轟音だ

それぞれの音を聴き分けなさいという

                                                    

先生が再びピアノを弾いた

聴き逃したら やられてしまう

子どもたちが真剣に聴いている

これがB29 これはグラマン                                                   

                                                                                                                                                             

美しい和音の世界に分け入り

心を揺らす歓びを覚えるためでなく

襲ってくる機種と編隊を知るために

虎狩りのような和音を教育したのだ

                                                         

それから65年

2010年冬 

薪ストーブが燃え盛る寓居で

私はインザ・ムードを味わう

                                                     

黒川純詩集「怒りの苦さまた青さ 詩・論「反戦詩」とその世界」 2004年9月の同題を改稿)

 12月15日は太平洋戦争開戦日。敗戦記念日の8月15日はもちろんだが、この日も忘れてはならないだろう。戦後生まれの私だが、戦時を生きた父母や縁者らから、体験を聴き、歴史から学んでいる。

 だが、知るのは膨大な体験の一部だ。空襲もそのひとつ。東京大空襲はよく知られているが、そんな空襲があり、そんな大変な目に遭った人もいたのか。この時期、そういう思いを抱いた新聞記事に出会った。

 朝日新聞6日付夕刊の「65年目の『遺言』①」だ。約1000人が死亡・行方不明になったとされる名古屋空襲の犠牲者を軸に、空襲被害者の援護を求める動きを伝える記事だ。

 空襲が、いかに悲惨か。記事はそれを、岐阜県の老人介護施設で暮らす松野和子さん(83)の例からとりあげている。1945年3月の名古屋空襲のとき松野さんは17歳。3歳の弟をおぶって逃げる際、降り注いだ焼夷弾のどろっとした油脂がつき、もんぺを燃え上がらせた。

 病院に運ばれたが、化膿で両足は丸太にように膨らみ、高熱が出た。ノコギリで両足を切断された。切断面の化膿が止まるまで7年かかったという。記事の見出しはこうだ。「空襲が奪った 17歳の足も恋も」。

                                                    

2010年12月 6日 (月)

何かを許す単位にかわりつつある 『寺山修司名言集』から

Dscf5185 (『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや 』・PARCO出版 2003年3月)

 「政治は主に、人たちに何かを禁じる単位である。政治的な権力は、何々を『してはいけない』ということを私たちに要求する。それに対して、映画や演劇、詩、そうしたものの総体としての芸術は、人たちに何かを許す単位にかわりつつある」(-アメリカ地獄めぐりー)

 詩人・山之口貘のエッセー「詩とはなにか」を読んでいたら、なぜか、寺山修司のことが思い起こされた。歌人、詩人、劇作家として活躍していたが、あっというまに亡くなった。

 私の感覚、気分としては、亡くなったのは15年ほど前ではないか。ところが、病死したのは1983年5月、まだ47歳だった。もう30年近い年月が過ぎているのだ(なんとなくビックリ~)。 

 なぜ、寺山修司を思い出したかというと、それなりの理由がある。というのも、「詩とは何か」といったことを考えた場合、私はすぐにこの「名言集」にある言葉を思い浮かべることが多いからだ。

 実際、以前(もう数年前になるが)、当時は会員だった季刊詩誌「新・現代詩」のアンケート・「あなたにとって、詩とは何ですか」だったかに、寺山修司の名言を紹介しながら、答えた覚えがあるからだ。

 「詩は書いた詩人が自分に役立てるために書くのであって、書くという『体験』を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在しているものなのだ」(ー戦後詩ー)

 今の私なら、詩は単に自分に役立てるだけでなく、結果的にだれかの役に立つことになればいいとも、思っている。最初に挙げた名言に「芸術は、人たちに何かを許す単位に」というのがあった。

 政治の禁止、規則、不自由、命令、拘束に対し、詩など芸術(文化も、とくに音楽のモダンジャズ)は許容、自由、任意、解放。さらにいえば、<そこに自由にいてもいいよ>、あるいは <そういうことなんだよね>、<こんなことを求めていたんだ>など。

 そういう「許す」、あるいは「認める」でもいいが、政治の対極にあるイメージだ。詩にはそうした肩をもみほぐす柔らかな側面がある。そのうえで、寺山修司は「書くという『体験』を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在している」とも。

 ダダイズム、シュールレアリズムと自動記述、アバンギャルドにアレゴリーなどなど。詩法?は知らなくとも、人は詩に親しみ、いつか詩を書き始める。詩を書く行為から「新しい世界に踏込んでゆく」感覚をどこかで体験するからなのだろう。

 だが、寺山修司はこうも語っている。

 「人は一生のうちで一度だけ、誰でも詩人になるものである。だが、やがて『歌のわかれ』をして詩を捨てる。詩を捨て損なったものだけがとりのこされて詩人のままで年老いてゆくのである」(-青春の名言ー)

 私なぞはまさにこのケースに近い。いったん「歌のわかれ」をして、ざっと30年。50代になって再び詩に出会った。いわば詩を捨て損ない、取り残されたクチだ。

 寺山は取り残されたその後の詩人を否定的に、というか、良い文意で語っていない。だが、私ならできれば、「詩人のまま年老いてゆくのである」でいきたい(そのように、うまく問屋が卸すかどうか、不透明ではあるが~)。

2010年12月 5日 (日)

縁ある者に命を与えるように 黒川純・詩「火の鳥」

詩 火の鳥

                黒川純

                                                     

その日の 日銭稼ぎに汗をかく

働けるときに働いておけば

厳しい冬も乗り越えられる

イソップ物語の教訓だった

                                                    

でも 相変わらず 貧しいまま

日取りから日雇いへ

ニコヨンからフリーターへ

派遣労働からネットカフェ難民へ

                                            

なんとかここから飛び立とうと

死ぬほどまめに働いているんだ

深夜 冷やしたビールをぐっとやって

ぐっすり眠れば また生き返れる

                                                     

「縁あってのヒドリだって

そうすてたもんじゃない」

友人にこんなメールを送ったら

こんなコメントが返ってきた

                                                    

「ヒドリというより

地球誕生と同時に生まれ

決して死なずに 縁ある者に命を与える

不死鳥の火の鳥のようになれ」

                                                     

雨にも風にも負けないつもりだが

付和雷同するのっぺらぼうの銃口に

おろおろする自分がいたこともある

そうか 命を与える火の鳥なのか

                                                    

だから こう決めることにする

的外れの陰気な野次にうろたえず

決して ギリギリッスと嘆かない

陽気なキリギリスになってゆこうと

                                                    

 毎回、詩や詩論を満載している全国詩誌「コールサック」(石炭袋 発行・東京)の次号68号に寄せた詩作品だ。締め切りをオーバーしてしまったが、なんとか、間に合ったようだ。

 詩誌の発行は12月下旬だという。少し早いが、ネットのブログ「砂時計主義」にはアップすることにした。

 気づく人は気づくと思うが(少数の訪問者だけですが~)、実は少し前に「これって詩なの?」と、いわれたことがある詩「ギリギリッス」(詩誌「堅香子」8号掲載詩 12月下旬発行予定)をアップしている。

 それをひと足早く読んだ詩人から「詩ギリギリッスにあるヒドリ=日取り=日雇いを中心に、別の詩を書いてみたらいいのではないか」と、促された。

 「そうか~それがいいかもしれない」。そう思い、「雨ニモ負ケズ」(宮沢賢治)が、もっと前面に出るようにしたのが、今回の「火の鳥」。この方がより時代性があると思えるがどうだろうか。

 いずれにしても、詩「キリギリッス」もそうだが、言葉遊びというか、読んでニヤリとするような詩を書いてみたかったのだ(どうしてそんな気分なのかな?)。

2010年12月 1日 (水)

愛車のマフラー、ぱっくり切断 爆音車両から「船頭さん」へ 

Dscf5173(さびで無残にもぱっくり切断された「砂時計」の愛車のマフラー=1日、日光市内で)

 ブゥオオオン~、ブゥオオオン~。もう、とんでもない爆音車両に。「砂時計」の愛車・ホンダインテグラのマフラーがいかれたのは、先週末。<どうも、エンジンの音がうるさい>。そう思ってなじみのスタンドに駆け込んで、診てもらったら、とんでもない。

 マフラーの接合部分がぱっくり切断されており、マフラーの役を果たしてきない。エンジン音がそのまま外へ。なので、これもなじみの修理工場へ(一昨年にエンジン本体をそっくり新品に代えたので~)。部品調達が必要で、この数日、その部品待ちでいた

Dscf5160  (マフラーの接合部分が数センチも空いていれば、爆音はするよね~) 

 本日、1日、マフラーの新品が入荷したというので、再び修理工場へ。<これはブログに載せるしかない~>。と、思ってパチリ。それにしても、こんなに見事に切断されるとは。日光ではマフラーをやられてしまう同じようなケースがあり、珍しくないのだという。

 それにしても、愛車のマフラーはご難続きだ。以前は運転しているうちに、「カラン~、カラン~」という連続音が。「何かな」。と思ったら、マフラーが外れ、路面をひきずりながら、鳴っていたのだ。新車で買ってからもう14年、走行距離は17万キロにもなる。

Dscf5180(修理を終え、すっかり化粧した新しいマフラー)

 「ボロボロ」になってきたとはいえ、腐っても鯛?。ホンダインテグラのスタイルは流行に関係なく、いい。その流れるスタイルはずっと気に入っている(確か、ホンダインテグラの車種だけ狙っていた窃盗団が、かなり前にニュースになっていたはずだ)。

 車庫入れなどで、あちこちぶつけ、板金の修理は何度もやってもいる。「新しいものに代えたら」。日光の友人たちは簡単に口にするが、まだまだ、愛車に頑張ってもらおうと思っているのです(なにしろ「詩的生活」ですから~)。

Dscf5167(さぁ、いよいよマフラー交換へ)

 と、書いていたら、ふと、この歌が浮かんだ。「船頭さん」だ。ウィキペディアによると、戦前の昭和16(1941)年7月に発表された童謡だが、戦時歌謡だったという(とくに戦前の2番・「今日も渡しでお馬が通る/あれは戦地へ行くお馬」、3番・「村の御用やお國の御用/みんな急ぎの人ばかり)。

 つまり、「六十のおじいさんですら、村のため、国のため休みなく働いているのだから、君たちも早く立派な人間になって、お国のために尽くしなさい」というメッセージが込められていたというのだ(私はきょう、「船頭さん」を検索していて、初めて、そんなことを知った、知らないというのはこわいですね~)

 Dscf5154(もう14年もたち、走行距離は17万キロにもなるが、愛着がある「砂時計」の愛車) 

 戦後、歌詞の一部が改作され、一般向きの童謡として親しまれるようになった。作詞は武内俊子 作曲は河村光陽とのことだ。ともあれ、きょうは愛車にまだ頑張ってもらいたいために(お國のためではなく、「砂時計」のために~)、「船頭さん」の1番のみのアップへ(それにしても、戦前は六十歳で「おじいさん」=「お年寄り」=「後期高齢者」=だったのですね)。

     村の渡しの 船頭さんは

    ことし六十のおじいさん

    年はとっても お舟をこぐ時は

    元気一ぱい ろがしなる ソレ

    ギッチラ ギッチラ ギッチラコ

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