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2010年12月 6日 (月)

何かを許す単位にかわりつつある 『寺山修司名言集』から

Dscf5185 (『寺山修司名言集 身捨つるほどの祖国はありや 』・PARCO出版 2003年3月)

 「政治は主に、人たちに何かを禁じる単位である。政治的な権力は、何々を『してはいけない』ということを私たちに要求する。それに対して、映画や演劇、詩、そうしたものの総体としての芸術は、人たちに何かを許す単位にかわりつつある」(-アメリカ地獄めぐりー)

 詩人・山之口貘のエッセー「詩とはなにか」を読んでいたら、なぜか、寺山修司のことが思い起こされた。歌人、詩人、劇作家として活躍していたが、あっというまに亡くなった。

 私の感覚、気分としては、亡くなったのは15年ほど前ではないか。ところが、病死したのは1983年5月、まだ47歳だった。もう30年近い年月が過ぎているのだ(なんとなくビックリ~)。 

 なぜ、寺山修司を思い出したかというと、それなりの理由がある。というのも、「詩とは何か」といったことを考えた場合、私はすぐにこの「名言集」にある言葉を思い浮かべることが多いからだ。

 実際、以前(もう数年前になるが)、当時は会員だった季刊詩誌「新・現代詩」のアンケート・「あなたにとって、詩とは何ですか」だったかに、寺山修司の名言を紹介しながら、答えた覚えがあるからだ。

 「詩は書いた詩人が自分に役立てるために書くのであって、書くという『体験』を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在しているものなのだ」(ー戦後詩ー)

 今の私なら、詩は単に自分に役立てるだけでなく、結果的にだれかの役に立つことになればいいとも、思っている。最初に挙げた名言に「芸術は、人たちに何かを許す単位に」というのがあった。

 政治の禁止、規則、不自由、命令、拘束に対し、詩など芸術(文化も、とくに音楽のモダンジャズ)は許容、自由、任意、解放。さらにいえば、<そこに自由にいてもいいよ>、あるいは <そういうことなんだよね>、<こんなことを求めていたんだ>など。

 そういう「許す」、あるいは「認める」でもいいが、政治の対極にあるイメージだ。詩にはそうした肩をもみほぐす柔らかな側面がある。そのうえで、寺山修司は「書くという『体験』を通して新しい世界に踏込んでゆくために存在している」とも。

 ダダイズム、シュールレアリズムと自動記述、アバンギャルドにアレゴリーなどなど。詩法?は知らなくとも、人は詩に親しみ、いつか詩を書き始める。詩を書く行為から「新しい世界に踏込んでゆく」感覚をどこかで体験するからなのだろう。

 だが、寺山修司はこうも語っている。

 「人は一生のうちで一度だけ、誰でも詩人になるものである。だが、やがて『歌のわかれ』をして詩を捨てる。詩を捨て損なったものだけがとりのこされて詩人のままで年老いてゆくのである」(-青春の名言ー)

 私なぞはまさにこのケースに近い。いったん「歌のわかれ」をして、ざっと30年。50代になって再び詩に出会った。いわば詩を捨て損ない、取り残されたクチだ。

 寺山は取り残されたその後の詩人を否定的に、というか、良い文意で語っていない。だが、私ならできれば、「詩人のまま年老いてゆくのである」でいきたい(そのように、うまく問屋が卸すかどうか、不透明ではあるが~)。

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