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2011年1月

2011年1月31日 (月)

みんなで天然氷の切り出し 日光、県内、神戸、世界から集まる

Dscn0283 (上の池から竹のレールを滑ってくる天然氷=30日、日光市の「四代目 徳次郎」で)

 日光の「四代目徳次郎」の池今冬2回目の天然氷の切り出し2日目が30日あった。29日に下の池、この日は上の池。すでに約3000枚が積まれており、この日、さらに約1000枚を積み込んだ。

 なので、氷を貯蔵する氷室では氷の上に氷が次々と積む込まれていくことで、だんだんと天井近くに。これまでは池から下や平行に氷室に運び入れていた。だが、この日の終盤には上の向けて運び入れるかたちになり、搬入方法も変えていった。

Dscn03001 (今冬2回目の切り出しとあって、氷室はだんだんと天井に近づいていく)

Dscn0364 (天然氷を氷室に積む位置が高くなるのに従い、運び入れる方法も変わっていく)

 天然氷の切り出し現場には、切り出しを担当する木挽き(きびき)や氷室で積み込みを担当する倉方(くらかた)が一番重要で、大変だ。いわば、主戦力で、切り込みや積み上げの知識があり、力もある元気な若者が担っている。

 一方、竹のレールが壊れたときはすぐに修理に駈けつける器用なおじさんもいる。この人たちが「前衛」とすれば、おじさんである「砂時計」は「後衛」。池の天然氷を集めたり、レールの途中で後押ししたりぐらいですましている。

Dscn0271

(Dscn0273_2 (天然氷を引き上げるポイント修理中の「オダイラさん」・上と木挽きの「ミッちゃん」・下)

それにしても天然氷を切り出す独自に考案した切り出し機(確か、動力は耕運機のものだったか?)で切り出す以前はすべて手作業。親方によると、いちいちノコギリで切り出していたという。それも6人がかり。

 砂時計も切り出し機では切れない池の一番端の氷をノコギリで切ってみたが~。これが1枚の一部を切り出すだけでも大変。5枚もやったら、もうお手上げのような状態(「昔の人はすごかった」という思いが残った。だから、天然氷の切り出しでは木挽きが一番大事にされるのだという)

Dscn0335

Dscn0318

(天然氷を貯蔵する氷室の主戦力である倉方担当の「マーク」・上と「マルちゃん」・下)

 いや~、それにしても「四代目 徳次郎」の天然氷の切り出しにはさまざまな人が訪れること。真冬の風物詩であるため、新聞やテレビの記者はもちろん、映像作家や有名ブロガー(このブロガーは関係者でもあるが~)も。

 さらに県内ばかりが、この日は神戸からも3人が訪れ、助っ人にも。いわば「街おこし」のこちらの人たちだが、「天然氷づくりのすごさを知るには実際に見聞し、体験してみるのが一番」と、日光へ。(帰りは深夜バスで11時間もかかるというのに、いや、すごい行動力だこと。脱帽~)

Dscn0313 Dscn0288 (現場にはマスコミだけでなく、映像作家・上や有名ブロガー・下らも取材に訪れる)

 さらにいえば世界遺産「日光の社寺」の観光に訪れた各国の旅行者たちが、興味を持って、この現場へ。氷の切り出し作業を手伝う、いわば「体験観光」をしたり、ごくろうさん会真っ最中の番小屋を訪れたり。

 この30日の晩もオートストラリアやベルギー、イギリスの旅人たちが(もっともイギリスの旅人は日本の英語教師で日本滞在2年という)。第1回目の切り出しのときにはポーランド、イギリス、フランスの旅人が訪れた。もう、国際観光都市・日光そのものになっている。そういう不思議な空間が「四代目徳次郎」の天然氷の切り出し現場だ。

Dscn0330 (余裕しゃくしゃくでお昼を楽しむ「カタウラさん」。実は天然氷現場の「えらい人」なのだ~)

Dscn0248 Dscn0348

Dscn0252(氷屋徳次郎を知るには「まず現場を知ることから」と。なんと、神戸から「それ~」とやってきた元気なご夫婦と若者のヤマバタさん、マサコさん、オオタくん)

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Dscn0340 (助っ人は絵師や工芸作家、ゲストハウス経営者、会社員や喫茶店経営者などさまざま。いずれもいい笑顔だ)

Dscn0296 (「四代目徳次郎」の切り出し現場で「総監督」として助言している「三代目」の親方)」

Dscn0367 Dscn0369 Dscn0372 (氷室の番小屋でのごくろうさん会に訪れた国内内外の旅行者たち・上。オーストラリアの友人同士・中。ベルギーの美しい娘さんたち・下)

2011年1月29日 (土)

天然氷の切り出しに笑顔 今冬2度目は12日間の寒さですくすく 

Dscn0181 (竹のレールを滑り、助っ人たちの手で氷室に送られる天然氷=29日、日光市内)

 冬将軍本番の29日、日光の「四代目徳次郎」の氷室で、天然氷の切り出しがあった。今冬は同じ1月13、14の両日に次いで2度目。初回の切り出してから、すぐに降雪に見舞われたが、18日から順調に厚みを増してきた。今回は12日間で切り出すことができたという。

Dscn0231(29日朝の池の周りの最低気温は零下7度、昼過ぎでも零下2度を記録していた)

Dscn0163 (寒さを吹き飛ばすかのようにノコギリで氷を切りつつ笑顔をみせる「トモチャン」)

 この日は今冬初回目のような氷切り出し機のトラブルなどもなく、順調に。氷池は上と下のふたつあり、そのうち今日は下の池。約1000枚(一枚約40㌔)を切り出すが、昼ごろにはもう8割ほども切断。午後2時ごろには終えることができたという(「砂時計」は昼から名古屋のコウチャンの世話などでいったん、霧降高原に帰ったため~)

Dscn0146 (トラブルもなく、氷切り出し機で天然氷を切り出す木挽きと呼ばれる大黒柱)

Dscn0129 (笑顔では負けない好男子は「会社員」と呼ばれているブロガーでもある)

 それにしても助っ人がたくさん。それもさまざまな職種の若者たちが目立つ。池の周りの外気は零下2度。風がほとんどなかったので、「きょうは温かいね」「そうね」といった会話が交わされていた。「記録に撮るよ」と、カメラを向けると、それぞれが真剣な顔からすぐに笑顔に。

Dscn0192 (氷の貯蔵庫である氷室では若者たちが整然と天然氷を積み重ねていく)

 ということで?、寒さ本番の労働だが、この日、笑顔を見せてくれた切り出し人たちをアップしたい(いわば「笑顔特集」といったところ~もっとたくさんいるのだが、うまく撮れた人だけ。この日、新しいカメラの使い始めだったので、なかなかうまく撮ることができなかったのだ~申し訳ない)。こうした表情から厳しい天然氷の切り出し作業も、ひとつの「イベント」に参加するかのように、やっていることがわかるだろう。

Dscn0160

Dscn0143_2 Dscn0126

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2011年1月28日 (金)

胸のうちに痛みのような感覚が広がっていく 浅川マキの世界(1)

Dscn0110 (伝説の歌手 浅川マキの決定版オフィシャル・ベストアルバム 「浅川マキ Long Good bye」)

 「これで俺たちの青春も(青春というより、青春の記憶か)ついに終わったのか」。そういう哀しい思いを抱かせた。大袈裟でもなんでもない。そういう感覚を覚えている。ほぼ1年前の2010年1月17日。歌手・詩人、浅川マキが亡くなった。名古屋での3日間公演の最終日、宿泊先のホテル自室での急性心不全だったという。67歳だった。

 たまたま、先日、今市の本屋さんをふらっと、のぞいていたら、新刊コーナーに『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』(実業之日本社)。初版1月25日とある。まだ店頭に出されたばかりだ。

 上野千鶴子、奥成達、三田誠広、平岡正明、最首悟、田中優子、加藤登紀子、小椋佳、山下洋輔、長谷川きよし・・・・・。いやいや、そうそうたるメンバー。「さまざまなジャンルの執筆者が、伝説の歌手・浅川マキをとおして、60年代、70年代という≪時代≫を鮮やかに切り取ったエッセイ集」。

 その本から彼女のオフィシャル・ベストアルバム「浅川マキ Long Good bye」(2枚組・全32曲)が発売されていることを知った(発売は昨年10月ということなのだが、これまで知らずにいたのだった~)。今市で掘り出し物の中古レコードを扱うお店に顔を出す際は「浅川マキのCDないの」というのが、このところの口ぐせだった。だが、ご主人から返ってくるのは「それがなかなか出ないのだよ」。

 浅川マキはたくさんのレコードを出しているが、熱烈なファンはそれを中古市場に出したがらない(のだと思う)。ということで、さっそく、彼女のCDを注文(レコード屋の若い女性は「アサカワマキ?どんな歌手?」という顔で、「アサカワマキ」と打って、発売状況を検索していたのだ~)

 「入荷しました」。その連絡を受け、本日28日はそのCDを買いに。CDの解説でも読もうと、今市の日光珈琲へ(なにしろ、懐かしい雰囲気があり、落ち着けるお店なので。浅川マキのことを考えるなら、このお店がピッタリと。そして、この店でこの本を読み終えないと、次のブログは書けないと思ったほど~)。そこでCDの解説を読み始めたら~。

 「えっ、まさか、浅川マキさんですか?」。珈琲を運んできたお店のうら若き女性から、こんな声(テーブルの上にCDと『君は浅川マキを聴いたか』を広げていたところ)。「そう、今買ってきたところ。暗そうな歌が多いのだが、そんなに若いのに知っているの?」

 すると、彼女は「つい最近、浅川マキさんの歌を(ラジオだったかで?)聴いて、衝撃を受けたので(ショックだったか、びっくりしたかだったか、かなり印象に残ったという言い方だった)」

 で、砂時計は「へぇ~、聞いたというのは、どんな歌なの?」「確か『かもめ』」「それは代表曲だね。詩を書いたのは、あの寺山修司なんだよ。寺山は劇団『天井桟敷』を主宰する一方・・・」というように浅川マキから、思わぬ展開になっていったのでした(寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』『家出のすすめー現代青春論ー』『青女論』は今でも面白い~いずれも文庫本で手にできる)。

 彼女も偶然の場面に不思議さを感じたようだが、私にしても思わぬやりとりが面白かった。浅川マキの死後1年、欲しかったCDを手にし、その解説を読もうとしたところ。そこで、今から40年前、特に1960年代後期に登場し、「アングラの女王」とも呼ばれた浅川マキの歌を、当時まだ生まれてもいない若い女性が最近聴いて、感激したというのだから。

 なぜ、浅川マキなのか?。それは今後にするとして、CD『Long Good bye』の最初の曲「夜が明けたら」(作詩作曲・浅川マキ)をアップすることに。唄(歌というより、唄という感じ)を聴いているときは、それなりに長い詩だと思っていたが、実は20行の短い詩だったのだ。それも浅川マキか書いた詩だということは、知らなかった(「かもめ」や「少年」「別れ」などもそうだが、代表曲だというのに~)。

 唄 夜が明けたら

           浅川マキ

                                                    

夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

切符を用意してちょうだい

私のために一枚でいいからさ

今夜でこの街とはさよならね

わりといい街だったけどね

     夜が明けたら一番早い汽車に乗って

     いつかうわさで聞いたあの街へ

     あの街に行くのよ

     いい人が出来るかもしれないし

     ンーあの街に行くのよ

夜が明けたら一番早い汽車に乗るわ

みんな私に云うの

そろそろ落ち着きなってね

だけどだけども人生は長いじゃない

そう あの街はきっといいよ

     夜が明けたら一番早い汽車に乗るから

     切符を用意してちょうだい

     本当本当よお 一枚でいいのよ

     いつだって身軽なあたしじゃない

     そう乗るのよ

 

2011年1月23日 (日)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その4 了)

Dscf5878 (いい男だったと思う貘さん 『うたの心に生きた人々』ー茨木のり子 ちくま文庫ーから転載)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その4 了)

                      黒川純

 新婚生活のスタートは、東京・新宿のアパートの四畳半一室。このとき詩人・貘さん、34歳。畳の上に寝られたのは、16年ぶりだったという。本当にルンペン詩人だったことが、うなづける。そうして、念願の「結婚」をしてからも、貧乏はついてまわった。その詩人夫婦の貧乏暮らしから生まれた詩「年越の詩(うた)」のなんとおかしなことか。

詩 年越の詩(うた)

        山之口貘
                                                    
詩人というその相場が
すぐに貧乏と出てくるのだ
ざんねんながらぼくもぴいぴいなので
その点詩人の資格があるわけで
至るところに借りをつくり
質屋ののれんもくぐったりするのだ
書く詩も借金の詩であったり
詩人としてはまるで
貧乏ものとか借金ものとか
質屋ものとかの専門みたいな
詩人なのだ
ぼくはこんなぼくのことをおもいうかべて
火のない火鉢に手をかざしていたのだが
ことしはこれが
入れじまいだとつぶやきながら
風呂敷に手をかけると
恥かきじまいだと女房が手伝った

                                                     

 情けないのだが、笑ってしまう、なんともいえない面白さがある。貘さんの詩にはこんな詩が、貧乏の詩がかなりあるが(「ものもらひの話」とか、ずばり「借金を背負って」など)、「年越の詩」は別格のように思える。

 確かに「詩人」とくれば、「金持ち」ではなく、「貧乏」。さらに青白い顔で、やせていて、力がないといったイメージか(貘の顔は哲学者のようだが~)。「貧乏」なので、詩人の資格があると、言ってみてしまう。そのうえ「貧乏もの借金もの質屋ものとかの専門みたいな詩人」とも。

 時代小説に「武家もの」とか「町人もの」とか、そういわれる分野がある。だが、まさか、詩に「貧乏もの・・・もの・・・ものとか」もあるまいに。でも、貘さんが書くと、ほんとうに詩にそんな専門の分野がありそうな気がしてしまうから、不思議だ。

 同時に年末に火鉢まで質屋に入れようとするのに、妻もあきれた様子で手伝う場面も詩に。それでもなんだか、暗くなく、透明な空気が流れている。これほど貧乏なのに、そうして自分も貧乏であることがわかっているのに、貧乏くさくない。

 私にしても、学生時代はいつもぴいぴいしていた。せっかく訪ねてきた友人と焼き鳥屋に行こうとしても、だいたい資金はゼロ。仕方なく、本棚から「高橋和己全集」とか「吉本隆明全集」から抜き出した何冊かを抱えて、古本屋へ(今となってはそれらの本を手放したのが惜しい)。そのわずかな金で友人と飲みあった。

 そうして飲んだ焼き鳥屋の日本酒の美味かったこと(青春の苦い味があったからかもしれないがー。今でもときどき、その美味さを思い出すほどだ)。だが、まだ学生の独り者だっただけに、古本屋や質屋に通うのも、それはそれでありだ。ところが、貘さんは所帯を持ってからも、そうだったというのだ。

 こうした山之口貘の詩について、「なるほどな」と思わせる解説がある。『山之口貘詩文集』(講談社文芸文庫)にある詩人荒川洋治の解説「詩人と『物』」だ。少し長いが、貘さんの詩の魅力をうまく語っていると思えるので、紹介したい。

「彼は地球にせよ、結婚にせよ、そして詩にせよ、まるで物の世界を相手にするかのように向き合った。いや現実にはそうでもなかったろう。ウェットな場面もいっぱいあったろうと思われる。だが結婚についても、詩についても、それを歌う場所では、物体のようにはっきりしたかたちのあるもののように、見ようとした。とらえようとした。そこがユニークである。目で見え、手でつかめる物のように歌うのだ。物だから、いつでも簡単に呼び出すことができる。話題にし、文句をいうこともできる。そういう言葉との生きた関係をつくりあげた。その意味ではとても新しい詩人である。少なくとも人間を歌った詩人としてはとてもめずらしいことなのである」

 最後に6行と、短いが、貘さんだからこそ、書けたと思われる詩をひとつ。本気だか、冗談だか、考えてしまう詩だが、さまざまに思いをめぐらせることができる。詩「自己紹介」だ。

詩 自己紹介

        山之口貘
                                                      
ここに寄り集まった諸氏よ
先ほどから諸氏の位置に就て考へてゐるうちに
考へてゐる僕の姿に僕は気がついたのであります
                                                    

僕ですか?
これはまことに自惚れるやうですが
びんぼうなのであります

(了)

Dscf4440_3   

「砂時計主義」は日光霧降高原に暮らし、詩を書いている黒川純のブログです。詩、歌、唄や詩的なエッセイ、霧降高原の暮らしもアップしようと思っています。ただ、現在は東日本大震災の災害支援や大震災詩、脱原発などを中心にアップし、GNH(国民総幸福)を探ろうとしています。「人気ブログランキング」にも参加しておりますので、「清き一票」のご協力もお願いいたします。

2011年1月22日 (土)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その3)

Dscf5131 (「求婚の広告」などについて茨木のり子が「いきいきとした傑作」だと評価している『うたの心に生きた人々』)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その3)

                             黒川純

 貘さんにはもうひとつの顔もある。「結婚」をめぐるさまざまな展開の詩だ。写真を見ると、ほとんど哲学者を思わせるいい男ぶりだが、結婚に手が届かなかった季節が長かったよう。詩「求婚の広告」を読めば、いかに「結婚」そのものにあこがれていたのか、それがよくわかる。

詩 求婚の広告貘

         山之口貘

一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きていたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私はおもふのです
面白い男と面白く暮したくなって
私ををつとにしたくなって
せんちめんたるになってゐ女はそこらにゐませんか
さっさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見てゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち侘びてゐるのです

                                                    

 詩人・茨木のり子が『うたの心に生きた人々』でとりあげている詩人は与謝野晶子、高村光太郎、金子光晴、そして山之口貘の4人。その貘さんは「詩人としてはまるで/貧乏ものとか借金ものとか/質屋ものとかの専門みたいな/詩人なのだ」(詩・「年越の詩」)。と、本人もうたっている通り。だが、「求婚の広告」のような、あっけらかんとした詩群もある。

 「だから女よ/こっそりこつちに廻っておいで/ぼくの女房になってはくれまいか」といった詩「現金」とか、「若しも女を掴んだら/丸ビルの屋上や煙突のてっぺんのやうな高い位置によぢのぼって/大声を張り上げたいのである/つかんだ」といった詩「若しも女を掴んだら」なども。

 なかでもストレートに、お嫁に来ないか、とうたっている「求婚の広告」は、詩の世界ではまず読んだ記憶がない(歌謡曲「嫁に来ないか」やフォーク「結婚しようよ」などはあるが)。

 茨木のり子は「人間はねじくれた思考をもっていますから、おなじ願いでも、もってまわり、貘さんのようにはればれといえなくなってしまっているのです」という。それだけに「求婚の広告」などの詩について、「いきいきとした傑作」だと、大いに評価している。

 結婚はふつう、祝祭と決まっており、人々が無条件で祝福する。幸福が続けば、それはそれでけっこうなことだ。だが、ときとして、その結婚が逆に不幸を招き、悲劇に終わることもあるのは、ご承知のとおり。ひとつの家庭には必ず視えないひとつの不幸というか、トラブルもあるとも。

 その面で、貘さんが「一日もはやく私は結婚したいのです/結婚さへすれば/私は人一倍生きていたくなるでせう」のフレーズには救われる。というか、あたりまえの希望を希望として、うたっている健全さに同調できる。たんなるルンペン詩人でなく、詩人・山之口貘の面目躍如といった詩だ。

 ところで、貘さんはこれらの「求婚広告」などの作品を書いたあと、昭和12(1937)年秋、小学校の校長先生の娘と見合いをした。詩人・金子光晴が立ち会ったというその見合いで、結婚が決まった。「結婚しましょうね」「はい」。30分だったという

(「その4」に続く)

2011年1月21日 (金)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その2)

Dscf5125 (傑作反戦詩「紙の上」なども収められている『山之口貘詩文集』ー講談社文芸文庫ー)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その2)

                             黒川純

 貘さんは、反戦詩の傑作も書いている。軍部・特高の検閲があっても、反戦の思いを、いや叫びを軍部には読みとれないように工夫した詩で、戦前の軍事国家で堂々と公表されていた。貧乏や借金、質屋などの詩が「専門」のように思われてしまう、と本人が言うほどのルンペン詩人、貘さん。その人の詩「紙の上」だ。

 「紙の上」が反戦的な詩だということは、どこかの詩論でかじってはいたが、今ひとつ、納得がいかないでいた。そのまま読めば、まず反戦詩、あるいは厭戦詩とは思えない。もちろん、そうすぐに読めてしまえば、軍部・特高の検閲は通らない。

 「紙の上」は第二詩集『山之口貘詩集』に掲載されているが、なにしろ、発行がハワイ真珠湾攻撃1年前の昭和15(1940)年12月<初出は昭和14(1939)年の「改造」6月号>。軍部・特高にその意味するところが、わかってしまえば、もちろん発禁処分だったろう。

 私は最初、舌足らずのどもりの詩人が詩を書いている想定なので、「だだ だだ」と、繰り返しているのだな、そう思って読んでいた。だから、浅はかにも、せいぜい、子どもがだだをこね、「嫌だ、嫌だ」と、泣き叫んでいるというありさまぐらいしか、思い浮かばなかった。

 それを、私の詩の水先案内人である詩人、斎藤彰吾さん(元岩手県詩人クラブ会長)は、この『別冊 おなご』(岩手県北上市の麗ら舎読書会)の27号(2008年12月)に掲載した「戦争を読む Ⅸ」で、この「紙の上」について、「際どい時期に書かれ、詩集に挟み込まれた厭戦詩」と位置づけていたのを、最近知った。

 その理由について、斎藤さんは、「だだ」は吃音になり、駄々をこねるに通じ連発銃の擬音でもあり、子どもらが遊んだ”戦争ごっこ”を思わせるとする。そこから、「紙の上で自由に詩を書きたい。その強烈な願望が終わりの数行目に潜んでいる」としている。

 斎藤さんの指摘を読んでも、まだ半可通だったが、最近、ネットでこの「紙の上」の「『だだ、だだ』」はダダイズムのことだと思う。そう解釈すると、ものすごい反戦詩になる」という指摘を読んだ。<あっ、そういうことか>。


 「だだ」=「ダダ」=「ダダイズム」は「1910年代に半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。単にダダとも。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされた虚無を根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする」(ウィキペディア)。

 つまり 「紙の上」で、繰り返し使われている「だだ だだ」は「ダダ ダダ」であり、ダダイズムのダダイストとして、戦争について、「否定 否定」、あるいは「認めない 認めない」(私たち全共闘世代の言葉でいえば、「ナンセンス!」か)ということなのだ。日の丸を機体に編隊で飛行していく戦闘機なんぞ、認めないぞ!。その叫びなのだ。

 いや~、なにやら暗号解読みたいだが、そういうことなのだ(と、勝手に断定してみる)。完全に兵器を否定する見事な反戦詩だ。だから、大変な詩だと思う。当時、ダダ=ダダイズムは社会現象・芸術運動として、かなり広く知られていたろうから、わかる人にはその意図するところがわかったと思う。

 現代では、検閲があるわけではなく、そこまで言葉を選ばないと、こうした反戦詩を書けないということはない(どちらかというと、社会の空気を読んで、自粛してしまう危険性の方が大きいかも)。

 でも、山之口貘の「紙の上」の方法論から(だだ=ダダ=ダダイズムという、私がネット情報の私見に得心しただけだが~)、今の時代でも、さまざまな詩法の可能性があるように思われたのだった。 

詩 紙の上
           山之口貘
                                                          
戦争が起きあがると
飛び立つ鳥のように
日の丸の翅をおしひろげそこからみんな飛び立つた
                                                      

一匹の詩人が紙の上にゐて
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ
だだ と叫んでゐる
発育不全の短い足 へこんだ腹 持ちあがらないでっかい頭
さえづる兵器の群れをながめては
だだ
だだ と叫んでゐる
だだ
だだ と叫んでゐるが
いつになつたら「戦争」が言へるのか
不便な肉体
どもる思想
まるで砂漠にゐるようだ
インクに渇いたのどをかきむしり熱砂の上にすねかへる
その一匹の大きな舌足らず
だだ
だだ と叫んでは
飛び立つ兵器をうちながめ
群れ飛ぶ日の丸を見あげては
だだ
だだ と叫んでゐる

(「その3」に続く

2011年1月20日 (木)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その1)

Dscf4722_4 貘!さん 貘さん!と呼ばれていたという愛すべき「ルンペン詩人」貘さんの『山之口貘詩集』ー思潮社ー)

詩そのものを書いた「精神の貴族」山之口貘(その1)

                                                        黒川純

詩 博学と無学

          山之口貘

あれを読んだか
これを読んだかと
さんざん無学にされてしまった揚句
ぼくはその人にいった
しかしヴァレリーさんでも
ぼくのなんぞ
読んでない筈だ
                                                     
 借金に次ぐ借金を重ね、それこそ貧乏暮らし続きだったが、「精神の貴族」と呼ばれていたという沖縄出身の詩人 山之口貘(やまのくち・ばく 1903~1963)のことが朝日新聞(2010年11月2日)のコラム「五線譜」で紹介されていた。

 見出しは「その詩人は7500枚の中に」。<あれ! もしかしたら、山之口貘のことかも?>。たまたまだが、茨木のり子の『うたの心に生きた人々』(ちくま文庫)を読んでいた。そこでこう書かれていたからだ。

「貘さんは推敲の鬼としても、だんぜん鳴りひびいていました(略)短い詩を一篇つくりだすためにも、二百まい、三百まいの原稿用紙を書きつぶしてしまうことはざらでした」

 高名な沖縄出身の詩人であることは以前から知っており、詩集も手元に置いていた。しかし、どうしたわけか、手にとる機会がなかった。本棚から詩集をひもとくと、なんと10年前に買ったもの。それを初めて開こうとしていた。

 石田博士記者の記事を読んだのは、こんなとき。記事によると、原稿用紙の束はビニールひもにくくられ、東京都内の民家の押し入れに眠っていた。初校から書き損じまで、詩ができあがるまでのすべてを保存していた。完成まで200枚を超えた作品もあったという。記事の結びはこうだ。

 「原稿用紙は、(11月)3日から故郷沖縄の県立図書館で展示される。こんな大量の手書き原稿が残されることは、どんな作家のものでも、もはやないだろう」

 茨木のり子の『うたの心に生きた人々』を読んだり、この日の記事を読んだり。これもひとつの大きな縁。少し読んだだけでも、好きな詩がたくさんあった。例えば詩「羊」。

詩 羊

           山之口貘 

食うや食わずの
荒れた生活をしているうちに
人相までも変って来たのだそうで
ぼくの顔は原子爆弾か
水素爆弾みたいになったのかとおもうのだが
それというのも地球の上なので
めしを食わずにはいられないからなのだ
ところが地球の上には
死んでも食いたくないものがあって
それがぼくの顔みたいな
原子爆弾だの水素爆弾なのだ
こんな現代をよそに
羊は年が明けても相変わらずで
角はあってもそれは渦巻にして
紙など食って
やさしい眼をして
地球の上を生きているのだ

 貘さんは「ルンペン詩人」とも呼ばれていたという。その生活から生み出されたのが詩「生活の柄」。その詩を生きながら伝説の人になっていた今は亡き・フォーク歌手・高田渡が歌にしている。私の友人によると、この歌は全国を放浪するバックパッカーたちの愛唱歌ともなっていたという。

詩 生活の柄

        山之口貘
歩き疲れては、
夜空と陸との隙間にもぐり込んで寝たのである
草に埋もれて寝たのである
ところ構わず寝たのである
寝たのであるが
ねむれたのでもあったのか!
このごろはねむれない
陸を敷いてもねむれない
夜空の下ではねむれない
揺り起されてはねむれない
この生活の柄が夏向きなのか!
寝たかとおもふと冷気にからかはれて
秋は、浮浪人のままではねれむれない

                                                                                                            
20歳前後の若者のときはだれでも、「夜空と陸の隙間」で寝ることはできる。私でさえ、そのころ、東京の友人を訪ねたとき、不在だったので、近くの公園のベンチで寝たことがある。沖縄返還協定粉砕闘争デモに出るため、新宿駅構内のコンクリートの床で新聞紙にくるまって、一夜を明かしたことも。 

 ところが、貘さんはそれが日常だったよう。なにしろ、19歳で沖縄から上京して以来、16年間も「畳の上で」寝たことがないというのだから。その後も貧乏はついてまわった。「貘さんはだれよりも貧乏したのに、心は王侯のごとしという、ふしぎな豊かさをますます自分のものにしていった人でした」(茨木のり子の詩人論「精神の貴族」) 

 高田渡は「生活の柄」もそうだが、有名な詩「鮪に鰯」も、そのまま歌にしている。高田渡は「タカダワタル的」という映画でも知られていようが、私にとってはフォークの名曲「自衛隊に入ろう」や「自転車に乗って」などのほうがなじみがある。

 とくに「自衛隊に入ろう」はパロディというか、ブラックユーモアの典型で、詩でいうと、諷刺詩ともいえるできだ。私が寓意や寓話などを好むのは、若いときに高田渡やザ・フォーク・クルセダースの「帰って来たヨッパライ」などに、魅せられたからかもしれない

 岩手県北上市にある市民グループ「麗ら舎読書会」が毎年1年に1回発行している冊子「別冊 おなご」(今回で29号)で、砂時計は「詩人の力」と題した詩にまつわるミニエッセイを連載している。今回で7回目だ。その「別冊 おなご」の次号に詩人・山之口貘について書いたものを送った(発刊は3月ごろか)。大半の内容はこの「砂時計主義」のブログに登場させているが、削ったり、加えたりして、ひとつにまとめた。そのため、以前よりも読みやすくなったのではないか(と、「砂時計」は勝手に思う~)。その原稿を今回から4回に分けて、アップしてみたい。

(「その2」に続く)

 

2011年1月19日 (水)

氷女や氷外国人も助っ人 日光の天然氷の切り出し

Dscf5787 (徳次郎の天然氷の切り出しでは氷女も大活躍した=1月14日、日光市)

 全国でも数少ない天然氷つくり。日光の「四代目 徳次郎」の池で13、14日、今冬初の氷の切り出し作業があった。切り出しを終えてから、かなりの降雪があり、雪かき作業に追われるなど、2回目に向けた作業がすでにスタートしている。タイミングを失した感もあるが、せっかくなので、その様子を紹介したい。

 もともと、切り出し日には、さまざまな職業の人たちが各地から助っ人に駈けつけてくるが、今回はなんといっても、歴女ならぬ氷女(ひょうじょ)が目立った(最近は釣り女というのもはやっているらしいが~)。

 ふだんは主にブライダルの世界の仕事人だったり、陶芸家をめざしている女性だったり(上州育ちの彼女は「常連」だが~)。切り出した天然氷を池から引き上げる作業を続けたり、切り出し作業の清掃作業に精を出したりしていた。そうそう、力と技がいる氷室の倉方と呼ぶ作業にも加わった元気な氷女たちも。

Dscf5804(天然氷の切り出し作業で出る氷の粉を竹ぼうきではく氷女=14日、日光市)

Dscf5713 (天然氷の切り出し作業の助っ人にはポーランドのバックパッカーも=13日、日光市)

 もうひとつ、今回、目立ったのは外国人の助っ人。いずれもバックパッカーらを温かくもてなしている東武日光駅前のゲストハウス「巣み家」(すみか)に泊まったり、泊まろうとしていた世界のバックパッカーたちだ。

 初日はポーランドの2人(ポーランドはもともと北の国。日光ぐらいの寒さはなんのそのなのだという)、2日目はマンチェスターに暮らしているというイギリス人の若者が参加した。

 いずれも、竹のレールを走る天然氷を竹ぼうきではいたり、ブレーキがかかる氷をスムーズに流れるようにしたり。天然氷の切り出しを聞いて、急きょ、行き先を変えて駈けつけたのだという。

Dscf5785 (イギリスからやってきたバックパッカーも切り出しの助っ人に=14日、日光市)

Dscf5765 (氷切り出し機の思わぬトラブルがあっても、親方がしっかりフォロー=13日)

 切り出し作業は結果的に万事オーライだったが、途中、切り出し機のベルトがうまくかからないことも起きるなど、トラブルも。そこで出番となったのが、四代目に仕事を引き継いだ三代目の親方だ。

 ふだん「監督」なのだが、トラブルのときは頼りになるのが、親方。初回の切り出しのときも、助言を与えていたが、降雪があった最近も、こちらのブログによると、池の氷を割る作業にも自ら汗を流している(いやはや、親方の元気さには頭が下がります)

 2日間で「2000枚」の氷を切り出し、氷室に積み上げたら、ご苦労さん会。霧降高原のハンター、熊さん特製の猪鍋(大鍋があっという間になくなった)、親方宅のシモツカレ(シモツカレですよ~。この叫びは微妙です~)。天ぷらに日本酒、ビール、焼酎、日本酒・・・(番小屋は終始、笑顔でいっぱいだった)

Dscf5809_2 (初回の切り出しで氷室に整然と積み込まれていく「徳次郎」の天然氷=14日)

Dscf5838 (番小屋でのご苦労さん会にはいかにもフランスという雰囲気の姉妹も加わった=14日)

2011年1月17日 (月)

今日も昨日も雪の空 霧降高原は冬本番の白い世界

Dscf5861 (2日連続の降雪で白い世界となった日光霧降高原=17日 砂時計ベランダ)

 全国的にそうらしいが日光の霧降高原でも、本格的な雪の季節となった。16、17日と2日連続のまとまった降雪。初日は20センチ前後、2日目はやや少なく15センチ弱。こんなに積もったのは今冬初だ。

 日光で冬を迎えるのは4回目。そのうち旧日光市内が2回、霧降高原は2回目。昨年も降雪は10回以上あったが、積もったのは確か3回ぐらい。それも10センチぐらいだったと思う。

 それが、今冬は16日だけで、20センチ前後も降った。その雪かきを終えたと思ったら、17日も再び降ってきた(岩手県北上市郊外では一晩に約80センチも降ったこともあるという)。

Dscf5851 (この冬初めての本格的な降雪となった日光霧降高原=16日 砂時計ベランダ)

 今冬は雪にあまり縁がなかったこともあり、準備不足となった。というのも、16日の降雪で雪かきをしようとしたら、しっかりした雪かきスコップがないことに気づいた(いわゆるダンプや金属スコップは用意していたが~)。

 さっそく、ホームセンターへ。すると、雪かき用スコップを求める人が次々と(私と同じような事情の人がいたということですね~)。ついでに、靴底に突起がある長靴、さらに防寒タイプの手袋も買い求めた。

 冬本番は雪かきという仕事が待っているが、それは一方で白い世界を眺めながら日本酒を楽しむ雪見酒ができるということでも。寒さ本番でもあり、連夜、特醸「燦爛」の熱燗で。ふだんは純米酒「日光囃子」を天然氷で割って楽しんでいるのだが、15、16の両夜はもっぱら熱燗となった。

Dscf5848 (15日、16日と薪ストーブで暖をとりながら雪見酒を楽しんだ砂時計=日光霧降高原)

注 少数のブログ「砂時計主義」の訪問者へ

「砂時計主義」は「ほぼ毎日更新」の方針でいたが、この5日間は更新せず。「何かあったのか」という電話が友人からあったほど。でも、ご心配なく。岩手県北上市の市民グループ「麗ら舎読書会」が年に1回発行している『別冊 おなご』の原稿締め切りがあり、それへの対応に追われていたため。

原稿は詩のエッセイ「「詩人の力 その(7) 詩そのものを書いた『精神の貴族』」山之口貘」と詩「その名に乾杯しよう」のふたつ。エッセイはこのブログで書いてきたもの。その何回かをまとめ、加筆修正した。詩もブログですでにとりあげている(エッセイについては、読みやすくまとめたので、近くこのブログで出してみたい気も)

2011年1月11日 (火)

全国でも珍しい天然氷の切り出しへ 「四代目徳次郎」の今冬初は13、14日

034 (「四代目徳次郎」の天然氷の切り出し作業=日光市御幸町 写真は2年前の2009年1月。砂時計も2010年の切り出し作業に少しだけ参加したが、一度も写真を撮っていなかったことに気づいた)

 ついに今年も冬本番のその季節になったか!。という感じだ。というのも全国でも数少ない天然氷の生産が今も行われている日光市の生産者のひとつ、「四代目徳次郎」が13(木)、14日(金)に切り出しを行うからだ。

 冬将軍が来襲し、本格的な冷え込みが続くと、旧日光市の市街地がすぐそばにある標高約570㍍の森林のわきに、清い沢水でつくられた池に氷が張りだす。順調にいくと、一日に1センチずつ成長し、約2週間で切り出すタイミングが訪れるという。

 地球温暖化が問題になっていなかった昔は、ひと冬に3回は切り出せたという。だが、最近は1月と2月のせいぜい2回とか。日光市の天然氷の生産者は、ほかに「松月氷室」「三ツ星氷室」があるが、「四代目徳次郎」が切り出すのは今回が今冬初。

018池からひきあげた天然氷は竹のレールを滑らせ近くの氷室に送り込む=これも2009年1月)

 徳次郎の池は上の池と下の池のふたつ。いずれも一本約40キロの氷が1000枚づつ切り出せる(計2000枚)。一日にひとつの池、二日でふたつの池。1000枚をていねいに区切ってから、切り出し機?で慎重に切断。それを一枚づつ、手繰り寄せ、引っ張りあげる。竹のレールに乗せて、ツーと滑らし、そばの氷室へ運び入れる。

 氷室では力と技がある若者らが待機。タイミングを合わせて、滑ってきた天然氷を受け入れる。なにしろ重量があり、元気者でないと、氷室作業はできない(砂時計にはできない~)。それを整然と積み上げていく。溶けるのを防ぐため、おがくずを敷く(それでも夏までには何割かは溶けてしまうという)。

 切り出し作業は冬まっただ中の屋外。もともと、天然氷が育つのに良い立地でもあり、もともと肌寒い場所だ。防寒具をきっちり決めていかないと、すぐに根をあげてしまうことに。ただし、氷室に隣接して薪ストーブが燃え盛る「番小屋」があり、ときとどき、身体を温めながらの作業になる(作業終了後、この番小屋の薪ストーブを囲みながら、作業仲間で一杯やるのが、楽しみ。今冬はぜひ一杯やりたい~)

027竹のレールを滑り終えた氷は氷室へ。ひとつ約40キロあり、この作業は力仕事になる=これも2009年1月)

 切り出し作業は切り出し機?は別にして、ほとんど手作業、それも連携作業だ。このため、この日だけは、それなりの人手がいる。そのため、ふだんは、それこそさまざまな職業に就いている人たちが駈けつけ、作業にあたっている。

 切り出し作業は「労働」ではあるが、見方を少しずらすと、「労働」というより、「遊戯」にかなり近いかもしれない。自然の恵みを取り出す現場に立ち会うことに、ある種の喜びさえも。(念のためですが~マゾが好きといった種類の快楽ではありません)。

 私が「天上の地引網」と呼んでいる、毎年、初秋に中禅寺湖で行われるヒメマスの地引網もそうだが(ピチピチと大漁の場面に立ち会うときは、なんともいえない~)、この天然氷の切り出し作業にしても、見学でも参加でも、いずれも面白いはずだ。

 日光に相次いでオープンしているゲストハウスを訪れている外国人を中心にしたバックパッカーはもちろん、この日、日光を訪れる観光客もなんらかの形でかかわれたら、日光の別の顔になるのではないかと~(天然氷の切り出し作業に関してはこちらのブログでも)

 

 

2011年1月 9日 (日)

その名も「仁右衛門」 日光の街中に品のある喫茶兼画廊オープン

Dscf5599 (まんまるい窓ガラスが印象的な「CAFE&GALLERY 仁右衛門」の店内=日光市石屋町)

 東武、JRの両日光駅から歩いてすぐの日光市石屋町の日光街道沿いに、喫茶と画廊を兼ねた素敵なお店「仁右衛門」(にえもん)がオープンした。開店は今年の1月1日。まだ10日もたっていない。ほんとに開店ほやほやだ。

 街並みの整備が進む旧日光市の東町の一角。まんまるい窓ガラスが印象的で、その窓と落ち着いた建物の構えが、意外と溶け合っている。まだ看板ができあがっていないので(発注中という)、少し戸惑うが、店先に「仁右衛門」(Niemon)の案内がある。

 

Dscf5612 (「仁右衛門」の正面は格子のある和風の落ち着いた建物だ=日光市石屋町)

Dscf5607_2 (店内に入ると、広い空間に陶器類があり、喫茶コーナーが。ギャラリーは奥)

  「喫茶とギャラリーのお店をもうすぐ母と開くのです」。そう聞いたのは昨年11月下旬にあった「日光マルシェ」のとき。NPO法人「日光門前まちづくり」の事務局で応対していた可愛らしい娘さんが、そんなことを話してくれていた

 開店はややずれこみ、1月1日に。元は化粧品店だったという「仁右衛門」。第一印象は店内が広く、明るい。それに落ち着いている。<どうしてかな?>。注文した珈琲をいただきながら、開店について話していると、<なるほどな>と、わかりかけた。

Dscf5686 (江戸時代に建てられた倉のクリの板材を活かした床が落ち着いた雰囲気を生んでいる)

Dscf5631 (京都の町屋を参考に明かりとりの中庭がほっとした空間を演出する「仁右衛門」)

 というのも、ピカピカのこげ茶色の床材はすべて古材。それも、同店にあった江戸時代に建てられた倉の板材だという。ゆうに150年は越えている。その太いクリの板材というか、角材(店内に一部飾られている)を削ってもらい、床材に仕上げたのだという。

 「いかにこの古い材を活かそうかと考えたのです」「それが落ち着きを与えているのではと、思えていただき、ありがたいです」。そう返ってきたが、実際、新規開店なのに、なんだか、懐かしい気がするのだ。

Dscf5622 (店の奥にあるギャラリー部門。適度な照明が柔らかな空気を広げている)

Dscf5641 (ギャラリーの初回の企画は茨木県笠間市の陶芸作家 大貫博之さんの作品群)

 それになんだか、気になったのが、お店の名前の「仁右衛門」。「じんえもん、ではなく、にえもん」というのはどこから?。すると、江戸時代のご先祖が宇都宮で、繁盛した造り酒屋をしていたのだという。その屋号が「仁右衛門」。それにあやかってつけたという。

 その「仁右衛門」という、昔風の屋号と今そのもののお店の取り合わせが面白い(砂時計は基本的にシュールなのが好みなので~)。ギャラりーは笠間市の陶芸作家 大貫博之さんの数十点。「初回なので、華やかな作品にしました」という。

Dscf5698 (私が「仁右衛門」で買い求めたぐいのみ二つ。すでに使用中~笑い=8日夜、霧降高原)

 ギャラリーの作品は素晴らしいものだが、「詩的生活」の砂時計にはちょっと、手が出せない金額。ただし、店先の陶器類を眺めていたら、なかなか、品のある「ぐいのみ」があるではないか。

 「ぐいのみ」のいいやつなら、いくつでも~。というのが砂時計なので、手軽な値段の「ぐいのみ」ふたつを買い求めた。当然、その晩は純米酒・日光囃子に日光の天然氷でロック。この「ぐいのみ」で一杯(二杯、三杯、四杯・・・・)とやったのはいうまでもない(自慢することではないが~)。

 Dscf5616 (お店を案内するパンフなどはまだできていないというので、店先の案内をアップ)

 砂時計は「日光マルシェ」を縁に、「仁右衛門」に入店したのだが、<えっ そうだったの~>ということも。というのも、「日光マルシェ」はNPO法人「日光門前まちづくり」が初めて企画し、主催したもの。その理事長は岡井健さんで、以前から少しだけ知っていた

 その岡井理事長がこの「仁右衛門」の息子さんだという。キイワード?の大事な床材の写真を撮り忘れていた。それで再び訪れた際に、お店で岡井さんに久しぶりに会った。(「日光マルシェ」の思わぬ展開など、さまざまな世間話に花が咲いた)そこで初めて、「仁右衛門」とNPO理事長とのつながりがわかったのだった~(う~ん、なんともはや~)。

「仁右衛門」データ

日光市石屋町418の1

0288・54・0382

定休日・毎週水曜

ふだん午前10時半~午後6時

http://ameblo.jp/niemon-2011/

2011年1月 8日 (土)

「日光の実家」がオープン 神橋近くにゲストハウス「にっこり荘」

Dscf5671昨年師走にゲストハウス「にっこり荘」をオープンさせた宿主・戸田敦志さんたち=8日、日光市上鉢石町)

 「日光の実家」。ふるさとでのんびりと過ごすような、そんなゲストハウスをめざしたい。バックパッカーたちにとって、うれしい宿泊施設が、日光にまたひとつ、オープンした。「NIKKO BACKPACKERS にっこり荘」だ。

 それもできたてのほやほや。オープンは昨年12月12日。まだ1カ月もたっていない。HPができたのも3日前の今春1月5日。追加の案内看板も現在進行形で自力製作中というぐらい。お客さんはこれから少しづつ増やしていく構えだ。

 「日光にまたひとつ」としたのは、東武、JRの両日光駅そばにゲストハウス「巣み家」が、兄貴分格で昨年5月にオープンしているため。「巣み家」はその独特な運営スタイルがネットや口コミで広がり、いつもにぎやか。東京新聞の全国版で紹介され、反響も呼んでいるほどだ。いわば、弟分格の「にっこり荘」の方は周知の方法も含めて、これからというところだ。Dscf5578 (「にっこり荘」の居間は世界地図や日本地図などで彩られている)

 「宿主」(本人が名刺にそう刷っているので~)は、戸田敦志さん(とだ・あつし)。なんと、28歳。今市出身で、21、22歳前後に四国の旅、さらに沖縄本島、石垣島などの旅でゲストハウスに魅せられたという。

 その魅力とは?。と、聞くと、「さまざまな人との出会いがあり、さまざまな話題を交わすことができる云々」。沖縄のゲストハウスで修業し、資金づくりのため、栃木県に戻り、それから6年。ついに念願のゲストハウスを始めることになった。

 「ゲストハウスを始めるのです」。そう聞いたのは昨秋の霧降高原で。「えっ、まだ28歳。早すぎでは?」。砂時計がそう返すと、戸田宿主は「いや、もう8年も待ったのです」ときっぱり。そのやりとりをよく覚えている。

Dscf5572_2  (「にっこり荘」全景。民家そのものを活用したゲストハウスだ)

 めざすのは「日光の実家」。日光にはさまざまな、というか、多様な魅力があるから、できるなら、長期滞在型のバックパッカーを受け入れたいという。ドミトりーという段々ベッドの値段を1人2500円にしているのは、そのためもあるという。

 さらに「放っておくのが、サービス」とも。望めば、案内もするが、自分の経験から、バックパッカーは自分で調べて自分で歩くのが好みだという。それと、「にっこり荘」と名づけたように、「なによりも笑顔」という。

 そういえば、いつのまにか、戸田宿主のパートナーとなっていた素敵な彼女と一緒の写真撮影をとカメラを向けたら、それはもう「にっこり」。笑顔いっぱいだった。ただ、若くして念願のゲストハウス経営を始めたとはいえ、それが到達点ではない。むしろ「ほんとうは、これがスタート」。そのように、ご本人は謙虚に語る。

Dscf5584 Dscf5581Dscf5589 (段々ベッドは基本的に1人2500円、和室は一室8000円とのこと。詳しくは「にっこり荘」HPで)

 立地は世界遺産「日光の社寺」の玄関、神橋のすぐ近く。窓を開けると、すぐ下は大谷川。光景の条件は素晴らしい。「10年後の目標は?」。これには「う~ん」。まぁ、確かにそうだろうね。

 しかし、「1年後は?」と、聞くと、「建物の横にある広場(今は駐車場になっている)から、大谷川を眺められるようにできたら」。「そう、テラスというか、ベランダのようなものができたらいいね」とは砂時計(どうも、私がそのテラスからビール片手に飲みたいという潜在的な望みがあり、それがこのやりとりにある~笑い)。

 それにしても、20代前半で自分の希望を抱き、それに向けて、資金を貯め、ゲストハウス経営を始めるというのは、すごい。というか、自分の若いころを振り返っても、とても真似ができない。その面で「エライ!」。歩み始めた「にっこり荘」がバックパッカーでにぎやかになるように。

Dscf5570 (玄関わきにある、いかにもほっこりする「にっこり荘」の手造り案内板)

2011年1月 7日 (金)

ぽーんと背中を押してもらったような 詩「一人は賑やか」-茨木のり子詩集から(10)ー

Dscf5664 (グラビア 詩人・茨木のり子「倚りかからず」の生涯 「週刊ポスト2010年12月17日号」から転載)

 「家族」ではなく、「孤族」。朝日新聞が年末から連載してきた企画が、進むところまできた日本の今のある社会状況を示している。そのように感じた。久しぶりに読み応えがある連載記事で、さまざまなことをかんがえさせられた。

 「孤族」から「孤独」「孤独死」「孤独な環境」・・・。なんという冷ややかな、寂しそうな響きであることか。それに対し、「独り」ではなく、「ひとり」。その大和言葉?の、柔らかな、そして温かなイメージであることか

 この「ひとり」については、岩手日報の新春版にそれをめぐる哲学者・山折哲雄と歌人・道浦母都子の対談がある。ということを、私の先輩格である花巻市議がブログ「マコトノクサ通信」で紹介している(それへのコメントで詩「一人は賑やか」という詩があることを伝えたら、さっそく、「マコトノクサ通信」がアップしていた~。先を越されてしまったのです~)

 その「ひとり」、いや「一人」であることの深さとか、豊かさとかのプラスの側面をうたった詩に、茨木のり子の「一人は賑やか」がある。もちろん、だれにも頼らないで生きる自立は、その通りなら孤立だと指摘する構造主義哲学者?内田樹の「一人で生きられないのも芸のうち」というのもある。

 そして、内田樹の指摘は、その通りだとうなずけるのだが、茨木のり子の「一人は賑やか」は、また別のものだ。「一人でいるとき淋しいやつが、二人寄ったら なお淋しい。おおぜい寄ったなら・・・」(この後は核心なので、後記の詩で)。いわば思想に近い「一人」なのだ。それを「賑やか」というキイワードで記す。味わい深い詩だと思う(結びの「恋人よ・・・」も、さすが、茨木のり子だなぁ~)。

 ところで、「週刊ポスト」が昨年12月17号で茨木のり子をグラビアで記事にしていた。たまたま、きょう、日光の友人「日光をただ酔う漂ふ」さんが霧降高原の砂時計宅を訪れ、貸してくれたので、わかったのだが、彼女の評伝『清冽』(後藤正治)が昨年11月に出版されていた。その後藤さんのコメントを中心に編まれた記事だった。

 そこで後藤さんはこんなコメントをしている。「茨木さんの詩を読んでいると、ぽーんと背中を押してもらったような気持になる。(略)。こうした凛とした思想は詩だけでなく、彼女の一貫した生き方でもあったと思います」。(これはますます評伝『清冽』を読まないといけない~。しかし、読むべき本が次々とあるので、「詩的生活者」としては、困ってもいるのが現状です~苦笑い)

詩 一人は賑やか

          茨木のり子

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな森だよ

夢がぱちぱち はぜてくる

よからぬ思いも 湧いてくる

エーデルワイスも 毒の茸も

                                                    

一人でいるのは 賑やかだ

賑やかな賑やかな海だよ

水平線もかたむいて

荒れに荒れっちまう夜もある

なぎの日生まれる馬鹿貝もある

                                                    

一人でいるのは賑やかだ

誓って負け惜しみなんかじゃない

                                                    

一人でいるとき淋しいやつが

二人寄ったら なお淋しい

おおぜい寄ったなら

だ だ だ だ だっと 堕落だな

                                                    

恋人よ

まだどこにいるのかもわからない 君

一人でいるとき 一番賑やかなヤツで

あってくれ

 

2011年1月 6日 (木)

現実の何かが、遠い道を最も近い道にしてくれる  『超訳 ニーチェの言葉』から

Dscf5653 (「世に知られることのなかった"明るいニーチェ"がここにある」とうたっている『超訳 ニーチェの言葉』2010・10・5第23刷 ディスカヴァー・トゥエンティワン)

 ドイツの哲学者ニーチェ(フリードリヒ・ニーチェ)といえば、「ツァラトゥストラはかく語りき」など難解な狂気の哲学、というような思いでいた。(「超訳 ニーチェの言葉」の訳編者は誤った誤解だと指摘している)。私も以前から関心はあり、「力への意志」などを積ん読していただけで、まじめに向き合ってこなかった。

 それが2010年のベストセラーのひとつが『超訳 ニーチェの言葉』だと、報じられていたことで、私もひとつと、年末に買っていた。たまたま、6日は毎月1回の腰痛定期検診日なので、病院に持参。診察を待つ間の1時間強、さらに昼飯に寄った大衆食堂で読み進むうちに、<これは面白い>となった。

 結局、夕方、霧降高原の自宅に戻っても(薪ストーブを焚いてから~)読み進め、思わず一日で読み終えた。短い警句と断章で、その数232。その章もうまく編集され、「己について」「喜について」「生について」「心について」「友について」、さらに「世」「人」「愛」「知」「美」と続く。

 章そのものが、なんだか読んでみたい気を誘う工夫が凝らされている。ということで、私も昼飯の生姜焼き定食をとりながら(生姜焼き定食と哲学はよく似会う~笑い)、読んでいた。

 内容は<はてな、それはどうかな?>という警句もあったが。いや、多くは<なるほど~そうだろうね~そうしようかな~>と思わせる警句そろいだ。

 気になった警句の頁は折っていくのが、砂時計流だが(だから、なかなか市立図書館では借りられないのだが~お風呂で読むこともあるし~)、それがいくつもあった。そのひとつが、「知について」の「最短の道は現実が教えてくれる」だ。

Dscf5660 (現実の何かが、遠い道を最も近い道にしてくれるという警句「最短の道は現実が教えてくれる)

 警句では例え話が面白く、というか、興味深い。この「最短の道~」でもあり、昔の船乗りがこう教えてくれる、と、次の教訓を持ちだす。

 「最もつごうよく吹いてきた風が、船の帆を膨らませて導かれた航路が最短の道だ」。

 そのうえで、この最短の道理論について、こう語る。

 「これこそ、実際に物事をなしとげようとする場合に通用する最短の道理論だ。頭で立てた計画通りに物事は運ばない。現実の何かが、遠い道を最も近い道にしてくれる。それが何かは前もってわからず、現実に踏み出したときにようやくわかってくるのだ」

 いや~、これはいい。風が最もつごうよく吹いてくるかどうか、そんなもの、わかりはしない。けれど、帆を用意し、張る準備をしていなければ、その風さえも逃してしまう。それも航海に踏み出す意志と技術がなければならない。

 その「最もつごうよく吹いてきた風」を受け、それに導かれていく航路(計画通りではないし、数学的には遠いかもしれない~)。それが求める航路である(この場合の最短は距離や時間ではないことは言うまでもない)という警句だ。

 砂時計のこれまでの経験を振り返っても、この言葉は実際にうなずける。そうした警句にあふれている『超訳 ニーチェの言葉』を紹介したくて、このブログにアップへ。同じ、「知」の「力を入れすぎない」もいい(ではあるのだが、もはや枚数?が尽きたので、言及はなしに~笑い~) 

Dscf5655 (詩など、さまざまな作品づくりにぴったりしそうなニーチェの警句「力を入れすぎない」)

2011年1月 3日 (月)

大冊詩誌「コールサック」68号発刊 「砂時計」の詩「火の鳥」も参加

Dscf5530発刊されたばかりの350頁にものぼる全国詩誌「コールサック」68号・2010年12月・コールサック社

 全国の詩人たちに開かれた気鋭の詩誌「コールサック」(石炭袋)の68号(定価1000円)が発刊された。毎年3回発行され、今回は12月28日発行。なにしろ、執筆者一覧を見ると、全国各地(遠くはスロベニアからも)の80数人。詩や詩論を中心に350頁にのぼる。

 詩誌で300頁を越える冊子はあまり聞いたことがない。量もさることながら、内容も読み応えがある。それも多彩だ。詩があり、いくつかの詩人論があり、エッセイがあり、9人の詩人の小詩集がある。さらに研究会報告、翻訳詩、解説、書評、連載、案内・・・。

 Dscf5540 (「コールサック」68号にはたくさんの詩人たちの詩が掲載されている。そのひとつ、黒川純・詩「火の鳥」)

 68号に掲載されている詩のいくつかは、いずれ、この「砂時計主義」ブログでも紹介していければと思う。が、きょうは、この「コールサック」68号に管理人・黒川純も詩「火の鳥」で初参加したことを伝えたい。

 同誌への参加は、締め切りぎりぎりの駆け込みだったのを、よく覚えている。その詩は、ブログ「砂時計主義」で紹介し、霧降高原「鳴沢ロッヂ」のパーティでも(酒の勢いで勝手にだったが~苦笑い)朗読させていただいた詩だ(覚えている方がいられるだろうか?)。

 次号69号(締め切り3月20日、発行4月30日)では「序説」同人の茨木の詩人・磯山オサム君らも誘ってみようと思っている(年末の「序説」忘年会でも一度、声をかけているが。磯山君~、近くこの「コールサック」68号を贈呈郵送しますよ~)。

詩 火の鳥

                黒川純

                                                     

その日の 日銭稼ぎに汗をかく

働けるときに働いておけば

厳しい冬も乗り越えられる

イソップ物語の教訓だった

                                                    

でも 相変わらず 貧しいまま

日取りから日雇いへ

ニコヨンからフリーターへ

派遣労働からネットカフェ難民へ

                                            

なんとかここから飛び立とうと

死ぬほどまめに働いているんだ

深夜 冷やしたビールをぐっとやって

ぐっすり眠れば また生き返れる

                                                     

「縁あってのヒドリだって

そうすてたもんじゃない」

友人にこんなメールを送ったら

こんなコメントが返ってきた

                                                    

「ヒドリというより

地球誕生と同時に生まれ

決して死なずに 縁ある者に命を与える

不死鳥の火の鳥のようになれ」

                                                     

雨にも風にも負けないつもりだが

付和雷同するのっぺらぼうの銃口に

おろおろする自分がいたこともある

そうか 命を与える火の鳥なのか

                                                    

だから こう決めることにする

的外れの陰気な野次にうろたえず

決して ギリギリッスと嘆かない

陽気なキリギリスになってゆこうと

                                                    

2011年1月 2日 (日)

お正月は「霧降高原セット」 コウチャン卵中心に故郷の母に

Dscf5478 (砂時計が「砂時計主義セット」をヒントに故郷の母に手渡した「霧降高原セット」です~)

 新年あけまして おめでとうございます。 

 今年もどうぞ、よろしくお願いいたします

 このブログで紹介したことがある「砂時計主義セット」をなんとか生かせないか?。そう思ってきた。<そうだ!正月で上州に帰省する際に母に贈ってやろうか?>。そう思い立ち、12月31日、すぐに「霧降高原セット」づくりへ。

 メインは、もちろんうちの名古屋のコウチャンのタマゴ。だが、保存してあるのは四つ。もうひとつ欲しいと思っていたところ、31日昼過ぎにコウチャンがもうひとつ、生んでくれた。

 それで①コウチャンタマゴ五つ②岩手りんご九つ(母親が91歳なので)③99歳の詩人・柴田トヨさんの詩集「くじけないで」④年賀(タオル一枚)⑤お年玉⑥砂時計の詩「灯の鳥」も掲載されている全国詩誌「コールサック68号」

 さらに⑦砂時計が事務局を務めている同人誌「序説 第17号」⑧砂時計も会員になっている岩手の詩人を中心にした詩誌「堅香子 第7号」⑨日光のゆば刺し(写真には写っていない)の9点セットを。

 品々を収めるのにちょうどよいリンゴ箱があったので、そこへ。すると、ぴったり。それっ~と、霧降高原から足尾経由で約2時間の上州の実家へ。「霧降高原セットをつくってみましたが~」。が?、何のこと?。反応はいまいち。「今晩のすき焼きにコウチャンタマゴを使おうか」ときたもんだ。

 このセットはコウチャンタマゴがあって、美しい?ので、「タマゴを使うのは、私が帰ってからにして~」と言うのが、せいいっぱい。どうも、私が「砂時計主義セット」に感激したような反応はなし。そんなものなんでしょうかね

 まぁ、こういうことに、あまり期待してはいけないのですね~。でも、「砂時計主義セット」をヒントに、今回のような「霧降高原セット」をつくることができたのは、いい経験でした~(ということで? 砂時計は2日夕に霧降高原に戻りました)

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