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2011年2月

2011年2月28日 (月)

霧降高原は白い世界に 今冬3度目の本格的降雪

Dscn0629_2  (今冬3度目の本格的降雪がもたらした「雪の花」=28日、日光霧降高原)

 2月最後の28日、起きてみると、霧降高原は「白い世界」。今冬3度目の本格的な降雪だ。昨日までは春のような陽気だったのが、嘘のよう(なにしろ、セーターでは暑いくらいだったので~)。

Dscn0639_2 (2月最後の降雪で砂時計宅のベランダもこの通り)

 それでも、あすは3月。外気は2度と、零下にならない。寒さは、ほとんど感じないくらいだ。雪かきは30分ほど。ベランダの散水器も使えるので(真冬は凍っていた~)、ついでに洗車もしてしまった。

Dscn0628(雪かきはまず、ベランダから道路に通じる階段から~)

 問題はベランダの階段。雪が積もったまま、凍ると、ツルッ~。私はもちろん、家に来る新聞配達屋さんも、郵便屋さんも、宅配便屋さんも、電力検針員や水道検針員も危ない。ので、さっそく雪かきのうえ、散水器できれいに。

Dscn0633 (砂時計宅の道路から眺めた空間は、まるで雪の芸術のようだ)

 感じたのは、雪がつくる偶然の造形の美しいこと。庭の木々の姿もそうだが、一歩、道路に出ると、ヤマザクラやツツジたちが真っ白く化粧し、独特な構図ができている。思わず、撮ってしまったので、アップへ。

Dscn0635 (砂時計の車も雪で完全にすっぽり。この除雪もこなした~)

 それにしても、ニワトリがこんなにも雪が嫌いだとは思わなかった。雪の上に出すと、じっとうずくまり、動かない。今度は雪かきをしたベランダに放つと、すぐに玄関内にある「自分の家」に戻ってしまう(雪と遊ぼうというDNAがないらしい~)。

Dscn0644 (除雪したベランダをいやいやながら歩きまわる「名古屋のコウチャン」=日光霧降高原)

2011年2月27日 (日)

心の底の何かを引き剥がず 森田童子の方へ(4)

 Dscn0622_2 (なんと!「昭和なつかしニッポン・フェア」で並べられていた『全共闘』 初版2003年5月・河出書房新社)

  「全共闘のイメージはまだ残っているらしくて、理念の展開力とか突出力とか行動力とかを期待したり恐れられたりしている人もいるようだ。でも、何かやればやったで、また誰にも理解されずに孤立していくのかなって考えるだけで、もうかなりメゲルよね」

  「そう、そんな気分が蔓延しているんだろうね。誰も何も言わない情況が続いている。だから世間のある部分では、団塊の世代を指して、期待はずれとか、エネルギーがないとか、めざわりだとか、勝手なことをいうようになっている」(いずれも『全共闘』・茜三郎、柴田弘美の共著から)

 浅川マキの最初にして最後のオフィシャル本という『ロング・グットバイ 浅川マキの世界』が入荷したというので、27日、今市の書店に受け取りへ。ふらっと、店内を歩いていると、「昭和なつかしニッポン・フェア」のコーナーがあった。

 『ちゃぶ台の昭和』『思い出のリカちゃん』『竹久夢二のおしゃれ読本』などが並べられていた。その中に、なんと~、『全共闘』もあり、びっくり。というか、のけぞってしまった。<そうか、全共闘は、昭和なつかしのニッポンなのか>と。

 もともと、「森田童子の方へ」というものをアップする場合、いろいろな哀しいことがあったであろう学園闘争に触れることになるだろう、そう思ってはいた。それは彼女の代表曲をさらにアップしてから。そう思っていたが、1970年前後の学生運動が「昭和なつかしのニッポン」になっているのを知ったからには~(なにしろ、懐かしになってしまうのだから)。

 ということで、友人のナガシマクンも磯山クンも私に紹介している『球根栽培の唄』をアップすることに。童子は7枚のアルバムを出しているが、ウィキペディアによると、この歌は最後の「狼少年 Wolf boy」(1983年)のアルバムに収められている(私は初期かなと思ったのだが~)。

 全共闘時代を歌ったと思われる「球根栽培の唄」だが、その当時からもう10年以上も過ぎたところでのアルバムなのだ。いや、それからかなりの季節が過ぎたところで歌われ、聴かれたところがポイントかもしれない。というのも、例のブログ「森田童子研究所」のエッセイ・評論で、こんな鮮やかなエッセイを読んだからだ。

 「前衛的パンクバンド『非常階段』」によるレコードレビューから。森田童子研究所によると、「転載にあたっては、JOJO広重さんから許可をいただいた」というから、その評論だ(この「砂時計主義」での転載で問題があったら、連絡をください)。以下は童子の最初のアルバム「グッド・バイ」について、JOJO広重さんの見方だ。 

 「友人の自殺をきっかけに歌いはじめたという森田童子は、75年にこの衝撃的なアルバム『グット・バイ』でデビユーする。透き通るように清い声、学生運動が敗北した後の時代を生きる「若者」の空漠感を象徴的に描いた歌詞、真っ黒のサングラスと中性的なルックスは、消えゆく70年代の重さと、80年代の空虚な明るさの裏に潜む暗い本質を凝縮したような、聞く者の心に突き刺さる歌と相まって、非常に鮮烈なシンガーとして歴史に名を刻むことになる」

 「球根栽培の唄」では「ぼくはどこまでも ぼくであろうとし」とか「ガリ版刷りのアジビラが風に舞う」、あるいは「孤立無援の命が燃えて」など、当時を知る、いや体験した者には、なんともいえない感覚を、いやでも思い起こさせる。「心の底から何かを引き剥がす」、「球根栽培の唄」は、そうした詩だ。

 JOJO広重さんは、さらに以下のような見事な解説をしてみせる。ただし、私には「心の底の何かを引き剥がす」までは、そうだろうと思うが、それに続く「強烈な淋しさ」については、えっ、そうかな?、という反応になってしまう(それを、何といったらいいのかな?~)。

  「歌の中に心の痛みを歌ったシンガーは多いが、森田童子のように、だれもが若かったことを思い出させるような、心の底の何かを引き剥がす強烈な淋しさを感じさせる歌手は他には存在しない。今生きていることの嘘臭さ、自分という存在の空っぼさ、友人や恋人との別れや喪失感を一度でも感じることの出来た人間なら、森田童子の歌に、自分の内側の大切にしておきたい気持ちの何かを発見することが出来たのである」

2011年2月26日 (土)

「幸せ」ってやつが あたいにわかるまで 故・西岡恭蔵の「プカプカ」

Dscn0614 (2月26日付「朝日新聞」・「be」の「うたの旅人」に掲載された名曲「プカプカ」)

 <リビア革命の流血はどこまで続いてしまうのか?><ニュージーランド・クライストチャーチの捜索はどれくらい進んだのか?>。そんなことを思いながら、26日の朝日新聞朝刊を開くと、飛びこんで来たのが、別刷りの「be」。トップ記事の連載「うたの旅人」だった。

 そこに、シンガーソングライター西岡恭蔵の歌が!(25日の朝日新聞夕刊 ウーマンリブ運動で知られた田中美津のコラム「永田洋子死刑囚の死に 女でありすぎた彼女」も、興味深かった~夕刊は一日遅れで配達されるので~)。

 そうそう、本題の「うたの旅人」の見出しは「『あん娘』のモデルは誰 西岡恭蔵・作詞作曲『プカプカ』」。40年近く前に作られ、いくつかの「伝説」を生んだのが、和製ブルースの名曲「プカプカ」だ。春山陽一記者の書き出しはこのようだ。

 この記事によると、「あん娘」のモデルは、ジャズ歌手の安田南さんだとうわさされたという。私のカラオケの「十八番」が、この「プカプカ」なのだが、だれがモデルか、なんて気にはしていなかった。ただ、それが安田南だというなら別だ。

 劇団「黒テントの歌姫」だったというが、私にとっては1970年代のラジオDJの安田南(その後、彼女のジャズレコードも買った覚えがある、CDも持っていたかな?)。ただし、この記事によると、1980年代の初めには「失踪」したのだという。これは初耳だった(いや~、いろいろな興味を封印していたのだな~と思ったことだった)

 「プカプカ」が生まれたのは1971年だが、私はほとんどリアルタイムで聴き、好きな歌のひとつになった。当時はまだ学生(といっても、ほとんど全共闘的な生活だったが~)。それから、カラオケで歌いたい気分になると、浅川マキの「かもめ」もそうだが、この「プカプカ」も歌ってきた。

 さらにこの歌を作った西岡恭蔵が妻の三回忌に自ら命を絶ったことも、ニュースで覚えている。記事によると、自死したのは1999年4月。50歳だった(もったいない。自殺して、もう10年以上にもなるのか~)。それを知った夜は勝手に「西岡恭蔵追悼カラオケだ」ということで、「プカプカ」を歌って追悼したことを覚えている。

 「プカプカ」は詩もリズムもメロディも魅力的だ。詩でいえば、一番にあるこんなフレーズ。「遠い空から降って来るっていう/『幸せ』ってやつが/あたいにわかるまで/あたいタバコやめないわ/プカ プカ プカ プカ プカ」。

 「幸せ」が遠い空から降ってくるわけはないが、いつか、もしかしたら、そんなことがあるのではないか、そんな淡い希望みたいなものを感じさせる。だが、最後はかなり意味深だ。歌はタバコからスウィング、男ときて、トランプうらないへ。「あんたとあたいの/死ぬ時わかるまで/あたい うらない やめないわ/スタ スタ スタ スタ スタ」とくる。

 リズムは春のように明るいのだが、実はかなり深刻な詩句で終わる。私も歌ってはきたが、最後のフレーズは、いつも少しだけ違和感というか、ザラザラした気持ちになってしまう。つまり、西岡恭蔵は若いときから、死に向き合っていたのだろうな。彼の自殺を知ってから思ってもみたことがある。

 ところで、スナックでこの歌を歌っていたら、その店で知り合った高齢者が「初めて聴くけど、いい歌だね~私にも歌わせて」、こうきたもんだ(この人は演歌がうまいため、歌い込むほどにブルースではなく、演歌の「プカプカ」になってしまうのが難点なのだが~笑い。でも、「プカプカ」を好きになってもらい、うれしい)。

 それにしても、「プカプカ」をカバーしている歌手がこんなにもいたとは知らなかった。ウィキペディアによると、原田芳雄、桃井かおり、泉谷しげる、つじあやの、桑田佳祐、大槻ケンヂ、福山雅治・・・・・。福山は別にして、なんとなく、「プカプカ」が醸し出す雰囲気が似会いそうな歌手や俳優ばかりだ。そういう引力がある歌なのだと思う。「プカプカ」は。

 ということで、今夜は日光市内のスナック「藍」へ(「砂時計」は半常連のひとりです、もっともママに「まぁ、久しぶりね、どこで飲んでいるの」と言われてしまったが~)。ブログにアップした「プカプカ」が好きだという高齢者の兄弟とも、まったく偶然にお店の入り口でばったり。二人の演歌を聴いたうえ、もろろん、私は、ビールと焼酎で少し酔ってから、「プカプカ」を歌ったのはいうまでもない(自慢することではないが~)。

 

2011年2月25日 (金)

路地裏の「幸福の黄色いハンカチ」 日光の「ガンコおやじ」の居酒屋「甚平」

Dscn0557 (居酒屋「甚平」の店内にある「幸福の黄色いハンカチ」の映画ポスター)

 「そうだ!ジンベイに行こう」。思い立って、寄ったのが居酒屋「甚平」(日光市平ケ崎 今市病院の裏手の路地)。ガンコオヤジ(ものすごく多芸多才だが~)が経営しているお店だが、第一の目的は「和牛レバー刺し」「馬刺し」「焼き鳥」。これに熱燗があれば充分だ。

 Dscn0566 (今市病院の裏手の細い路地にある居酒屋「甚平」に向かうと~)

 「甚平」には何度か寄っているのだが、この夜はお店に入る際に気付いたことがある。入り口の引き戸に「ガンコおやじの店 営業中」。<あれ?こんなのあったかな? でも、ガンコおやじなのは知っているのに~>。そう思いながらお店へ。 

Dscn0565 (入り口にはひとこと 「ガンコおやじの店 営業中」が~)

 お店の空気は昭和30年代、あるいは1970年代というか。小上がりには「フーテンの寅」(第三作 1970年春)と「幸福の黄色いハンカチ」(1977年秋)。ほんのりした灯りと、そのポスターがかもしだす雰囲気がなんともいえない(「甚平」の詳しい情報はこの道のプロ、こちらのブログで)。

Dscn0563_2 (ご存じ「フーテンの寅」と「幸福の黄色いハンカチ」に囲まれた「甚平」の小上がり)

 その「和牛のレバー刺し」は「美味しい」と言いながら、味わってしまい、<そうだ、写真を撮ろう>と思ったときはもう姿が消えていた(笑い)。せめてと思い、焼き鳥のネギマだけは、なんとか撮ることができた。

Dscn0544 (この「和牛のレバー刺し」や「馬刺し」が食べたくて、私は「甚平」へ)

 やはり気になる映画のポスター。「おやじ」によると、「幸福の黄色いハンカチ」のポスターは、お客さんの中に、この映画が好きな人がいて、ぜひ譲って欲しいといわれたとか。「ノー。このお店に似会うポスターを、と思って集めたものだからね」。「でも、10万円で売ってと言われたら、OKしちゃうかも」と、苦笑い。Dscn0560 (焼き鳥、なかでも私の好物はネギマ。「和牛のレバー刺し」は撮り忘れ~)

 熱燗が一合、二合、三合・・・・。ということで、フーテンの寅さん風にいえば、「そろそろお開きに」。「行ってらっしゃい」と、「おやじ」に送り出されて、お店を出ると、2月としては温かな夜空に「居酒屋 やきとり 甚平」の看板が。思わずパチリと撮ったのだった~。

Dscn0570

 「ガンコおやじ」が経営する居酒屋「甚平」は日光市平ケ崎119 電話0288・21・4040。多芸多才な「おやじ」はネット世界も縦横に。ハンドルネームは「こわた甚平」だという。

2011年2月23日 (水)

「現代詩のアテルイ」が詩論集 斎藤彰吾「真なるバルバロイの詩想」

Dscn0542 (北上の詩人 斎藤彰吾さんの最新詩論集『真なるバルバロイの詩想』コールサック社)

 詩の世界の私の水先案内人である岩手県北上市の詩人、斎藤彰吾さん(1932年~)の詩論集『真なるバルバロイの詩想ーーー北上からの文化史的証言(1953~2010)』コールサック社 初版2011年3月8日 本体2000円)が、本日23日、日光霧降高原の砂時計宅に届いた。

 戦後すぐから直近まで半世紀余にわたる彰吾さんの膨大な論考を集めた詩論集。2段組みで383頁もある大著だ。全八章は以下のようだ。

 一章・出発点と賢治・ハチロー 二章・北上の詩文化 三章・イーハトーブの詩人たち(朝日新聞岩手版連載) 四章・生活語詩へ 五章・北上を読む 六章・さまざまな文化論 七章・ミュージック・プロムナード 八章・書評。

 さらに、この詩論集の編集者で小熊秀雄賞詩人、佐相憲一さんや三浦茂男さん(画文家)、和賀篤子さん(地方史研究家)、高橋昭八郎さん(ヴィジュアル・ポエット)、それに私・黒川純ら5人の解説もある。

 その詩論集の帯に私が寄稿した解説の一部が使われている。「黒川さんの解説の一部を帯に使わせてもらいますよ」。コールサック社から、そんな連絡は受けていたが、実際に手元にするのは初めて。斎藤さんの詩論集だが、お役に立てたことも含めて、我がことのようにうれしい。

  「戦後から現代を見据える拠点としてきた『化外』の思想、あるいはバルバロイ(異民族)の視点から、中央にモノ申すことを恐れない反骨のパトスのなせるものだと思う。『化外』から紡いてきた風土の詩人の自負でもあるが、その指摘は反骨の詩人たちに対する大きな励ましにもなっている」 

Dscn0541_3  (うれしいことに斎藤彰吾詩論集のオビに私が寄稿した解説の一部が使われた)

 私の解説の題は「『化外』から紡ぐ風土の精神』だが、編集を担当した佐相憲一さんの解説「現代詩のアテルイが放つ北上の詩想」が、ずっしりと読み応えがある。というか、その解説を読むだけで、この詩論集の核がわかる、ていねいで的を得た解説だ。

 佐相さんが、「現代詩のアテルイ 斎藤彰吾氏の詩論集」と紹介する、その解説を斜め読みするだけで、この詩論集を読みたくなる(それほど佐相さんが読み込んで解説を書いていることがよくわかる内容だ)。

 「この本を読めば、心の景色は北上。劇薬が心地よく効いてきて、詩作品と詩運動、詩文化と歴史風土、逆転の発想と積極的な行動、地域文化と民衆の輪、戦争批判と世の中への提言、さまざまな文化論、などを内包する壮大な詩想に読み手の心も解放されるようである」

 「真なるバルバロイの詩想。それはきっと二十一世紀の進歩の方向。原始古代から現代を通って人類が詩的に見つけた共生の願い。それを二十世紀から書いてきた斎藤彰吾氏に敬意を表する。この貴重な本が、北上の地域文化社会でも、日本の現代詩の世界でも、これからの文化文学一般の場でも、広く生かされることを願っている」

 そうそう、著者・斎藤彰吾さんのあとがき「あとがきにかえて ちょっと長いノート」を紹介しないと、いけない(その一部だが~)。私もきょう初めて読む「あとがき」だ。戦後をきちんと生きてきた彰吾さんの親しみやすい謙虚な人柄も浮かび上がるかのようだ(以下はその「あとがき」)。

 「時・人・場がその人間を鍛えてくれる。時には浪花節めいて発生する出会いでありめぐりあいである。高校時代の文芸の仲間、市役所・図書館の同僚や読書会を含む地元の人たち、ジャズ喫茶<山小屋>はマチという劇場の砦だった。各紙誌への発表の機会を作ってくれた関係者たち、北上詩の会、岩手県詩人クラや各地の詩歌人の面々、日本こどもの本研究会の方々、遠くへ行ってもう会えない先輩たち、いちいち固有名詞をあげないが、思えば多くの人々との出会いがあった。この雑文集は、そうした人々とのめぐりあいの報告書とも言うべきものなのかもしれない。東北の小さな町で、戦後の飢えと混乱の中を、辛うじて生きて来た者の『記録』にほかならない」

『真なるバルバロイの詩想』(斎藤彰吾)

発行所 株式会社コールサック社

2011年3月8日初版発行

編集   鈴木比佐雄 佐相憲一

発行者 鈴木比佐雄

定価 本体2000円プラス税

〒173-0004 東京都板橋区板橋2-63-4-509

企画・編集室 209

☎ 03・5944・3258 fax 03・5944・3238

郵便振替 00180-4-741802 

2011年2月21日 (月)

青春とは決して甘ずっぱいものではない  森田童子の方へ(3)

Dscn0522 (つげ義春「海辺の叙景」の最後の場面 『つげ義春コレクション 李さん一家 海辺の叙景』ちくま文庫から)

  「ねじ式」などで知られる劇画家・つげ義春の作品に「海辺の叙景」がある。その最後のコマは見開きで、それこそ「ドン」という感じで、いささか驚かされる。その絵のなんと印象的なことか。夏の雨の日の海辺だが、なんだか、どんよりと、重ぐるしい空気が漂っている。どうしてなのか?

 作品が掲載されている『つげ義春コレクション 李さん一家 海辺の叙景』(ちくま新書 2008年12月 第一刷)で、夏目房之介が、それなりに解説している。

 「『海辺の叙景』を人物ドラマとして見れば、ほのかな男女のやりとりが淡々と続く小品である。ところが作品全体からは、男女が世界から脅されて微妙に揺らめいているような印象すら受ける。その秘密は表現的にいうと人物ドラマと風景描写のせめぎあいにあるようだ(中略)吹きだしゼロの、風景が優位になった場面では暗欝で脅迫的な印象すら受ける。ラストでは『いい感じよ』という女の肯定的なセリフにもかかわらず、真っ黒くなった人物とセリフが、鉛のような稠密な風景に呑まれてしまうのである」

 作品の発表は今から40余年も前、『ガロ』1967年9月号という。高野慎三の解題によると、つげ義春はこの作品にある種のメッセージを与えているという。

 「(つげ義春は)執筆直後に貸本マンガにみられるセンチメンタルな青春ものは嘘のかたまりである。青春とは決して甘ずっぱいものではない、というような意味のことをもらしている。したがって、『海辺の叙景』は、当時の貸本マンガに顕著だった青春賛歌への反論とみられぬこともない」と。 

雨のクロール

        森田童子

夏の川辺に 二人は今日別れる

ぼくは黙って 草笛吹いた

ウフフフ~ ウフフフ~

      君は花がらのワンピースおいて

      静かに涙色のまぶしい水の中

      ウフフフ~  ウフフフ~

雨に君の泳ぐクロールとってもきれいネ

雨に君の泳ぐクロールとってもきれいネ

      夏がめぐりめぐってもぼくは決して 泳がないだろう

 森田童子の「ベストコレクション」CDを送ってくれた詩人・磯山オサムクンは、この「雨のクロール」について、「ほっとする」と、短い感想を書いていた。確かに、流れるようなスキップを踏むようなメロディだ。それだけに、私にしても、そんな、心がなごむ印象を抱く(最初のうちはだが~)。

 そして、曲を聴き終えたら、なんだか、突然、つげ義春の「海辺の叙景」のラストシーンを思い浮かべた。詩の「川辺」と「海辺」の違いはあるが、明るいようでいて、もの悲しい。そんな両義性がある矛盾した空気に満ちている。そんな感じから、「海辺の叙景」の印象的なシーンを思い浮かべたのだろう。

 それにしても、森田童子のこの詩の不思議さ。ここでも「ぼく」「きみ」と歌っているが、詩では「とってもきれいネ」といった女性特有の言葉が使われていて、それはさらに哀しみにも似た響きを与えている。

 {雨のクロール」でうたわれている君は彼女だが、実はぼく(という彼女)という構図でもある。その君という彼と別れる場面だが、最後に突如、一転。「とってもきれいネ」とうたったクロールを、決して泳ぐまいと誓う。クロールをうまく泳いでみせた彼を永遠に失ってしまっただろう喪失感を、自らを縛る誓いで、その思いを伝える情感あふれる歌だ。

 あくまでも透明な美しい声。そして弾むようなメロディ。ところが歌の方は結局、残酷な結末を迎えた場面で締めくくる。最後のフレーズを、哀しみを吹き払うかのように、あえて強がって歌いあげる森田童子ー。これも「青春賛歌への反論」ともいうべき歌なのだろう。熱いファンがいた(今もか?)というのも、うなづける一曲だと思う。

2011年2月17日 (木)

せめて最後にラスト・ワルツ 森田童子の方へ(2)

Dscn0482 (友人の詩人、磯山オサムクンが郵送してくれたCD『森田童子 ベストコレクション』)

 暖かさで屋根の雪が「ドドーン」という響きとともにベランダへ。晴天の17日、その雪かきをしていたら、茨木の詩人、磯山オサムクンから郵便物が届いた。<もしかしたら~>。開けてみたら、やはりそうだった。森田童子のCD「ベスト・コレクション」が一枚と短い手紙が入っていた。

 森田童子のCDをレコード屋さんに頼んだら、「廃盤になっており、注文できません」。そのことや「CDを貸してくれるエライ人はおりませんか?」とも、ブログに書いていた。さっそく、群馬のナガシマクンが中古CD販売先をコメントで教えてくれていたところだった。

 さらに森田童子のファン、磯山クンはCDそのものまで送ってくれた(「プレゼントです」と書いてはあったが~)。いや、ありがたい。CDに添えてあった短い手紙には、この「ベスト・コレクション」(全13曲)の各曲について、簡単なコメントが、こう書かれていた。

 「森田童子は ボクがボクであり続けるために です。『ぼくたちの失敗』は 気はずかしいです。『雨のクロール』は ほっとします。『さよならぼくのともだち』は、GOODです。『ラスト・ワルツ』は、あの時代にサヨナラしようとした童子のメッセージでもありましたが、愛悟(?)あるものです」

 夜になって、このCDを聴いてみて、磯山クンの感想が<なるほど>と、思われた。特に「ほっとする」という『雨のクロール』は、いやがうえにも童子の透明な声とメロディがあっており、ゆらゆらと聴くことができる(ほんとうはものすごく悲しい歌なのだが~。それでも、劇画家・つげ義春が描いたザーザー降りの雨の中、クロールで海を泳ぐ印象的な大きなカットが想い浮べられるほどだ)

 でも、この13曲の中で一番、気に入ったのは「ラスト・ワルツ」。ここでの童子の声は今にも壊れそうな声で歌う「ぼくたちの失敗」のようではなく、かなり落ち着いて歌っている(ように聞える)。

 「すべてが終わる」「すべてが遠き」「すべてが帰らぬ」「せめて 最後に」・・・・。もうほとんど落ちて行くトーンだが、歌の文句ほどには物悲しくはならない。あえて言えば(今は文化財的になっている)「歌声喫茶」で歌ってもいいかもしれない曲調だ(いや、やっぱ無理かな~)。

ラスト・ワルツ

         作詞作曲 森田童子

美しき明日に

ついても語れず

ただあなたと

しばし この時よ

すべてが なつかしき

この時よ

すべてが終る この夜に

せめて 最後に ラスト・ワルツ

(2番、3番 略)

 「森田童子研究所」にある笠井嗣夫さんの評論「『森田童子』 あるいは共犯幻想のこちらがわ」を前回でも紹介したが、今回もこれから、私にとっては<なるほど~>と思われる指摘を紹介したい。

 私がこの夜、聴いた「ベスト・コレクション」には「蒼き夜は」(たぶん、歌詞的には、彼女の代表曲かもしれないと、私は感じたが~)。この歌は彼女の3枚目のレコード「a boy ア・ボーイ」に入っている。

 笠井さんは「蒼き夜」も入っている3枚目のアルバムの持つ「哀切な情感」を、少し長いが、以下のように、こうとらえる(「ベスト・コレクション」も多くがそうした「哀切な情感」、いや、というか、「寂寥感」に満ちた歌といった方がふさわしいかもしれないが~)。

 このアルバムのもつ哀切な情感は、恋愛体験を表層的モチーフとしながら、どうじにラディカリズムという観念との別れあるいは喪失の感情が歌いこまれていることからくる。「明日になれば/ぼくたちは/ひとり どうして/生きるだろう」(注・3枚目のアルバムにある「君と淋しい風になる」のフレーズ)ということばには、信じようとしたもの(=ラディカリズムとしての観念)と別れて日常へともどっていかざるをえないものの深い喪失感がある。そのとき、「淋しい」かれらに残されているのは、ただ「軽やかに踊る」ことだけだ。70年代後半から80年代前半にかけて活動した森田童子という歌手のもつユニークな位置と、10数年の月日を経た現在において彼女の歌を感受するときのむずかしさの理由がここにある

 「ラスト・ワルツ」(1980年の5枚目のアルバム)では、「きみ」ではなく、「あなた」と呼びかけられているが、笠井さんの評論のように、それを「ラディカリズムとしての観念」との別れと、受け取れば、その意味がさらにうまく呑み込めることになる。

 磯山クンは私への手紙で、「ラスト・ワルツ」について、「あの時代にサヨナラしようとした童子のメッセージ」とコメントしているが、確かにそのように語られた歌なのだと思う。それにしても、なんというもの悲しく、か細く、透明な声で歌うのだろうか、森田童子は。

 そして、森田童子は歌詞によって、声のトーンが、かなり変わっている。聴いた人はわかるだろうが、微妙な「七色の声」のように思えるのだ。あるいは、彼女自身が歌詞によって、変えていたのか?、歌によって、自然にそういう声にならざるをえなかったのか?(その声の変化に私は関心があるのだが~)。

2011年2月16日 (水)

そうさ 人生甘くはないぜ  浅川マキの世界(5)

Dscn0470 (1978年に紙ジャケットで出された浅川マキのCDのひとつ『浅川マキライヴ 夜』)

 「客席にはストーブが欲しかったが、それでも、みんなゴザに座って酒を飲んだりしていた。一升瓶の15本はまたたく間に売り切れて、冷えが少しづつ会場を犯していくのがわかる。早く始めようよ、と、云う催促の声が荒い拍手に混じって控室にも聞えてきた。わたしは、きょうは大変だぞ、と思った。舞台に上がっていったとき、照明のわずかな光量がひどく暖かかった。『つのだ ひろ』。わたしが大きな声で紹介すると、彼は力強く登場した」(浅川マキ)

 浅川マキが京大西部講堂で歌ったライブのCD「浅川マキライヴ 夜」の歌詞カードにある彼女自身の当夜の模様だ(もともとは1978年のレコード「浅川マキ・ライヴ・夜」)。

 浅川マキの歌のいつくかは、自然に口をついて出たり、口笛を吹いたりしてしまうフレーズがある。そのひとつが「オールド レインコート」(日本語詩 浅川マキ 作曲R・Stewart)。歌の途中や最後に繰り返される「そうさ 人生甘くはないさ そうさ人生甘くはないぜ」というフレーズだ。

 この歌「オールド レインコート」のリズム感のあること。いわゆる暗い雰囲気の歌が続いたあとに、この歌が流されると、もう心はウキウキ。詩は別に祝祭的なものではない。むしろ、聴く側に「おまえはどうなんだ?」「それなりの覚悟があるのか?」、最初にそう問いかける歌だ。

 だが、途中から「それされあれば、なんとかなるさ」という、浅川マキらしい、開き直りの歌になっていく(そう、こういうところが私は彼女の歌が好きだったのかもいしれない。70年代中盤は「半年先」のことも、実際わからなかったからだ)

オールド レインコート

            日本語詩 浅川マキ

おまえは かって

荒れ狂う川の激流に身震いしただろうか

そそぐように降る雨のなか

旅をしたことがあっただろうか

旅をしたことがあっただろうか

     おまえはおいらのような男と

     連れ立って雪の積もった墓場を

     見たことがあっただろうか

     そうさ 人生甘くはないさ

     そうさ 人生甘くはないさ

だけど おいらはここまで来たのさ

古いレインコート肩に

どんなときでも これさえあれば

なにも怖れることはないさ

なにも怖れることはないさ

     古いレインコートは あるのさ

     おいらのこころのずっと奥に

     どんなときでも これさえあれば

     何も怖れることはないさ

     何も怖れることはないさ

おまえはおいらのような男と

連れ立って雪の積もった墓場を

見たことがあっただろうか

そうさ 人生甘くはないさ

そうさ 人生甘くはないさ

そうさ 人生甘くはないぜ

そうさ 人生甘くはないぜ

 「浅川マキさんの訃報に接した時、混沌としつつも面白かった時代の象徴が一つ記憶の彼方に消え去ってしまうようなやるせなさを感じました(中略)浅川マキさんの歌は、開き直りの退廃、理不尽な権力に対する必死な悲関与、誰を傷つけることを意図しない反逆、本来極めて常識的と認知されるべき非常識、あるいはそれらの勧め、そんな感じで僕は受け止めています」

 抽象的な例えがうまい。というか、的確だと思う。言葉が生きている。そう思う彼女への惜別のことばだ。だれが書いたかと思ったら、「シクラメンのかほり」などで知られる小椋佳だった(『ちょつと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』の「ちっちゃな時から・・・」から)。

 小椋佳は、かっての日本勧業銀行に勤務(浜松支店長も)していたことは知っていた。お堅い仕事に就き、雰囲気も真面目そうなのに、どうしてそんないい歌をつくれるのか。そんな疑問があった。

 だが、彼は、もともと学生時代に天井桟敷を主宰していた寺山修司に見出され、レコード「初恋地獄篇」(1970年)づくりに参加していたのだという。それがシンガーしてのスタートだったという(それは最近になってようやく知ったことだ。知らないことが多いね~。だから、ちょっと、ほろりとさせられてしまう歌「愛しき日々」などの詩も書けるのだと思わされたのだった)。

     

 

 

2011年2月15日 (火)

青春ってヤツのお別れに 森田童子の方へ(1)

  「マキから童子へやっとたどりついた感。おもわず・・・うれしい限りです(中略)当方、仕事を終えると職場で、童子とウイスキーでありまして、やはり、球根(「球根栽培の唄」)・・・は泪ものですが、高橋和己・・・が好きです」

 浅川マキのことをブログにアップしていたら、学生時代からの友人、ナガシマクンから森田童子のことを紹介された。名前ぐらいしか知らなかったのだが、一部でカリスマ的な人気を呼んでいたが、姿を消した、いわば伝説の歌手だと知ったのは、まもなく。

 私のブログのコメントにナガシマクンが森田童子の代表曲や時代の歌、さらに珍しい「動く森田童子」を貼り付けてくれた。私もひとつ聴いただけで、<これは、すごい>と大いに共鳴。CDを注文したことなどをつづった(昨日の14日、レコード屋さんから「今は廃盤になっており、注文できません」の連絡があったが~)。

 と・・・。きょう15日には、その森田童子や鈴木いづみ、などについて書いた手紙が届いた。それも速達で。茨木の詩人、磯山オサムクンからだった。それが冒頭にあげた「マキから童子へ~」の文章。さすが、詩人の磯山クン、童子にもどっぷりだったのですね。

 森田童子。日光の友人たち、それも中高年の何人かに聴くと、「テレビドラマ『高校教師』(1993年)の主題歌を歌っていた歌手だったのではないか」ぐらい。その主題歌「ぼくたちの失敗」なのだが、それ以上まではあまり知らなかった(私はほとんど知らなかったが~)。森田童子を改めて、ウイキペディアから紹介すると、こうだ。

 「学園闘争が吹き荒れる時代に高校で東京教育大学の学生運動と交流があった。高校を中退し、気ままな生活を送っていたが、20歳の時、友人の死をきっかけに歌い始める(この亡くなった友人をモチーフにした曲がデビュー曲となる「さよならぼくのともだち」である)。1975年、アルバム「グッドバイ」、シングル「さよならぼくのともだち」でデビューし、以後主にライブハウスを中心に活動。1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年の新宿ロフトでのライブを最後に、引退を宣言することなく活動を休止する。レコーディングの編曲、演奏はアコースティックギターの第一人者石川鷹彦(元六文銭)が担当した。所属事務所は海底劇場。カーリー・ヘアにサングラスというスタイルで、コンサートはもちろんレコードのジャケットなどでも素顔を見せることはなかった。本名は非公開、実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、独特の世界観を表現した作品に自分の生活感を滲ませることを避けていたとされる」

 浅川マキの歌も暗いのだが、暗いだけではない。暗さの中に何か灯りがあり、はすっぱなようでいて、まっすぐ。露地裏の人生だが、それでもなんとかやっていけるさ、そんなふてぶてしさみたいなものがある。

 だが、森田童子の歌は暗いのが暗いまま。死の影がつきまとっている(「たとえばぼくが死んだら」「海が死んでもいいョって泣いている」、というそのものズバリも)。彼女に関するエッセイを少し読んだだけで、そうした印象を受ける。

 ネットで「森田童子研究所」というのがあり、そこにさまざまな森田童子を紹介している。そのなかの「エッセイ・評論」で、かなり本質的なところに迫っているな、と感じたのが評論があった。笠井嗣夫さんの「『森田童子』 あるいは共犯幻想のこちらがわ」だ(ネットで読むには長い評論だが、関心のある方はぜひ)。

 笠井さんは代表曲である「さよならぼくのともだち」を紹介しながら、「彼女が自らを『ぼく』に置き換えているということだ」として、以下の見方を示す。

 「『私は』と語りはじめることが不可能のゆえの『ぼく』への仮構。それによって、かろうじて彼女の体験は言葉となりえた」と。

 だれもが、最初に思うのは、森田童子がすべて「私」や「わたし」(と「あなた」)、「私たち」「われわれ」ではなく、「ぼく」(と「きみ」)で歌っていることだ。だが、なぜ、彼女は「私」と言わなかったのか、言えなかったのか。

 なぜ、「ぼく」でなければならなかったのか。この評論では、そこまでの言及はない(森田童子のほかの評論にはあるのだろうか?。ファンの磯山オサムクンはどう思っているのだろうか?森田童子のエッセイなどで、知っている方は教えてください~)。

 なお、ブログにあげた「青春ってヤツのお別れに」は森田童子の歌「センチメンタル通り」にある最後の文句から(これもいい歌だ。いずれ砂時計主義にアップしたい。ユーチューブで聴くことはできるが、森田童子のCDを聴きたいのにCDが買えないとは。だれか貸してくれるそんなエライ人はおりませんか?)

以下は笠井さんの評論「『森田童子』 あるいは共犯幻想のこちらがわ」から

 仲間がパクられた日旺の朝
 雨の中をゆがんで走る
 やさしい君は それから
 変ってしまったネ
 さよなら ぼくの ともだち
       (「さよならぼくのともだち」)
 
 「けれども、このアルバムでの森田童子の声そのものは、歌詞から受ける印象ほど暗いわけではない。まるで15、6歳の少女に戻ってしまったように、のぴかかに森田童子は歌う。その理由を私は詳らかに語ることはできない。ただ、ひとだけいいえるのは、みずからの経験を唄にするとき、彼女が自を「ぼく」に置き換えているということだ。

 彼女は決して「私」と発語しない。あるいは発語することができない。「私は」と語りはじめることが不可能ゆえの「ぼく」ヘの仮構。それによって、かろうじて彼女の体験はことぱとなりえた。唄のなかで呼びかけられる「君」のほとんどは、「ぼく」に仮構された私(=少女)の恋人ととることができる。つまり、〈物語〉といってもよいある種の仮構によって、はじめて森田童子は挫折感という「青春たちのかたち」をいくぶん甘美に歌い出すことができたのである」

2011年2月13日 (日)

祝!100個達成 我が家の「名古屋のコーチャン」

Dscn0464 (「名古屋のコーチャン」が13日朝生んだ100個目のタマゴ)

 我が家で暮らしている(夜は玄関内で寝泊りしているので~)鶏、「名古屋のコウチャン」が13日朝、100個目のタマゴを生んだ。9月下旬に初めて生んでから5ヶ月弱。というか、19週だから、え~~と(電卓をたたく~)。一週間に5個ほど生んでいる計算だ。

 タマゴは市販でいえば「小」のサイズ。薄桃色で、大きさはだいたい一定している。生むときは「クックックッ」と、のどをゴロゴロ鳴らすのが前兆。さらにうずくまり、そこから動かない。それから30分から1時間もすると、いつのまにか、生んでいる。

 生んだ直後のほんのわずかな間、タマゴをわきに押しやるしぐさをみせる。それも数度だけ。<ちょっと、ジャマなんだけどな~>。そんな感じで、タマゴに執着しない。すぐにエサを探すのに余念がない。私がタマゴを取り上げても、どこ吹く風だ。

Dscn0444_2 (人工芝のベランダをゆく「名古屋のコーチャン」=12日、日光霧降高原の我が家) 

11日から12日にかけて、霧降高原は約30㌢のまとまった降雪があった(まとまった降雪は今冬2回目)。名古屋のコーチャンを外に出してやるのだが、雪は苦手らしく、すぐにベランダから玄関へ。そして、高さ1メートルほどもある下駄箱に飛び移るのが好きだ。失敗することもあり、そのときは困惑しているように見える

 タマゴを生んだすぐは、褒美といってはなんだが、ふだん好むキャベツや食パンの切れ端などをやるようにしている。そうそう、ミカンが大好物なので、コウチャンのためにミカンを買ってくることもある。

 それにしても、市販の養鶏用のエサのほかに、ブドウ、リンゴ、クッキー、ホウレンソウやバナナなど、何でもよく食べること。庭に出ていると、雑草から雑草へと、食べるのに余念がない(食べきれない青菜がありましたら、ぜひ、我が家へ。コウチャンの食事代の節約になるので~笑い)。

 

2011年2月12日 (土)

何処で暮らしても同じだろうと 浅川マキの世界(4)

Dscn0463 (浅川マキのエッセイ集『こんな風に過ぎて行くのなら』 石風社 第2版・2004年7月)

 

 「最近わたしは何処で暮らしても同じだろうと思っている。きのうまで、何とかやって来た。そんなことを友達にはなしてみたら、笑って言うことには、『おまえさんは、もう終わっているよ』。それじゃ、あんたはどうだって言うの、『おれも終わっているのさ』」

 「わたしは歌謡曲の詞が好きだ。だから、こうしてへたくそなのを書いて、ピアニカでメロディをつけてみる。ビリー・ホリディは、いくつかのブルースと『奇妙な果実』以外は、ほとんど当時の流行歌しか唄わなかった。しかし、ビリーの口をついて出る時、それはみんなブルースだ」

 浅川マキのエッセイを集めた『こんな風に過ぎて行くのなら』。そのなかの「ビリーなら今頃どっかの港町」にある小文だ。これを挙げたのは、冒頭の「最近~」と「わたしは~」の間に、私の好きな「少年」(作詩・作曲 浅川マキ)が掲載されているためだ。

 この歌を繰り返し聴いていたり、口ずさんでみたのは20代中盤。それから数十年後の今でも、中高年のいつもの仲間が先に一杯やっているだろうと思われる近くのイベントハウス「幾何楽堂」や居酒屋などに行こうとするとき(それも月に1、2回だが~)、この歌詞が思わず、口をついて出ることがある。

詩 少年

           浅川マキ

夕暮れの風が ほほを撫でる

いつもの店に 行くのさ

仲のいい友達も 少しは出来て

そう捨てたもんじゃない

     さして大きな 出来事もなく

     さのひとは  いつだってやさしいよ

     何処で暮らしても 同じだろうと

     わたしは思っているのさ

なのに どうしてか知らない

こんなに 切なくなって

町で一番高い丘へ 駈けてくころは

ほんとに泣きたいぐらいだよ

     真っ赤な夕日に 船がでてゆく

     わたしのこころに なにがある

 歌に直接的なメッセージがあるわけではない。日々、揺れている若者にとっては、何だか、しみじみと聴いたり、歌ったりすることができる。「どこで暮らしても、同じだろうと」、思いながら、でも、何かが足りないとも。そんな揺れる心を絵画のように歌っている。

 ネットで「浅川マキ」を検索していたら、この「少年」について、書いているブログに出会った。「五線譜の夜盗」という音楽に詳しいブログだ。どんな人がアップしているのか、知らないが、連合赤軍の永田洋子の病死について、「死刑囚が獄中で病死するという、ある種不条理ともいえる結末に複雑な思いを抱く」と書き、さらに「このところ、浅川マキばかり聴いている」とも。

 そのなかで「五線譜の夜盗」は「『少年』という歌がいい。戦後世代への挽歌のようだ。浅川マキの真髄を知るのが遅すぎだ。ぼくはこのことを深く恥じる」とも。

 う~ん。戦後世代の挽歌、追悼歌か、いや、悲しみを歌った歌か。そうか、なんともいえない悲しみかも。そういえば、フォークルが歌った『悲しくてやりきれない』(作詞はあのサトウハチローだ、この歌は悲しすぎるが)も、この系列に入るかも。

 若いとき、理由もなく(探っていくと、理由はある程度わかるのだが~)、感傷的になったとき、この「少年」は、すごくぴったりした。それも浅川マキが歌うその歌詞を口ずさむことで(と、書いているうちに、そのことを思い出した~)

(「浅川マキの世界(5)」に続く)

 

    

 

2011年2月11日 (金)

終着駅の遠い灯りの差す方へと 岡田恵美子詩集「露地にはぐれて」から(2)

Dscn0427 (岡田恵美子詩集『露地にはぐれて』の一篇 「見えない地図」=同詩集から転写)

 宇都宮の詩人岡田恵美子さんの詩集の題名は『露地にまぎれて』。この題名について、詩人、鈴木比佐雄さんが栞解説でひもといている。それで私にも、この詩集のある方向性がそれなりにうなづけた。

 「露地という言葉には露出した地面の意味の他に、仏教用語で煩悩を捨てた境地のような意味もある。また露地はその響きから町の路地へと転じてくのだろう。『はぐれて』という響きの中には、目的もなしに気のおもむくままにその場所を散策し、その場所で暮らす人々の素顔を見ようとする衝動のようなものが伝わってくる。また自分がその地に『まぎれて』生きてみたいという密かな願望も感じられる」

 <そうか、露地には「煩悩を捨てた境地のような意味も」あるのか>。(まだまだ煩悩を捨てきれない、いや煩悩ばかりの)私にはなんとなく魅せられる意味だ。確かに岡田さんの詩集には煩悩を越えた、というか、透明な倫理みたいなものが感じられる。

 それも誠実なカソリック教徒として、絶えず、自問自答している姿が浮かび上がる。いくつかの詩にそれを強く感じた。なかでも人生論ともいうべき「見えない地図」は、なかなかだと思わされた。

 「もうタイムリミットは近いのに/まだ見つからない/私という終着駅」。という冒頭の言葉にドキッとさせられる(いい意味で歌謡詩を思わせる~)。そうして若者として、世の中に出て行き、「登らなければ明日は見えない」と考え、実践してきたこと。

 そのように自分の歩いていく道を確かめ確かめ、この社会を生きてきた。そのことを振り返るように丁寧な言葉を連ねていく(私が勝手にそのように読んだだけだが~)。

 最後に「まだ見えてはこない終着駅/遠い灯りの差す方へと/疲れた足を引きずってはいるが」で結ぶ。「遠い灯りの差す方へと」というフレーズが、なんとも効果的だ。

 私はこの部分を読んでいて、霧深いが、太陽も射す山頂で、ほんのたまにだが、登山家が出会うことがある感動的な光輪、仏の御光ともいわれる「ブロッケン現象」みたいなイメージを思い浮かべた。

 岡田さんは1931年生まれ。私より二世代上の詩人だが、何かを越えたところで詩を生んでいると思える。こうした詩から何を思い浮かべるかは、ひとそれぞれ。いずれにしろ、絵画のようにイメージを広げることが可能だろう。.

詩 見えない地図

              岡田恵美子

もうタイムリミットは近いのに

まだ見つからない

私という終着駅

      あの日渡された地図には

      何も書いてなかった

      少しずつ歩きながら

      自分の地図帖を作っていったのだ

ここは峠道暗いけれど

登らなければ明日は見えない

どんな記号をつけていったか

一つ一つが生きる証

魂を灯すように付けていった道標(みちしるべ)

      美しい景色も見られたと

      其処には花丸の印でも置こうか

      まだ見えてはこない終着駅の

      遠い灯りの差す方へと

      疲れた足を引きずってはいるが

      

2011年2月 9日 (水)

闇から抜けだそうとあがく心 岡田恵美子詩集「露地にはぐれて」から(1)

Dscn0426 (宇都宮の詩人、岡田恵美子さんの第八詩集『露地にはぐれて』 2011年3月8日 コールサック社)

 「岡田さんはイエス様に『優しい慰めなど/期待しない方がいい』と語る。また苦しみの果てに『見えてきた僅かな光』が『幸せ』なのであり、彷徨いから抜け出そうとする「あがく心」が「救い」なのであり、そのようなことを『自ら気付くことが愛なのだ』と淡々と自らの宗教心を伝えてくれている。最後の二行である『うっすらほほえまれて/振り向いて下さるだろう』に、私は神が宿っているような静かな感動を覚えた」

 宇都宮在住の詩人 岡田恵美子さんの詩集『露地にはぐれて』(コールサック社)が発行された(といっても、発行日は3月8日)。この詩集について、同社代表の詩人、鈴木比佐雄さんが栞(しおり)解説している。

 冒頭にあげたのは、その解説のある部分。これだけで、どういう詩集か、その雰囲気がわかる。「神が宿っているような静かな感動を覚えた」などいうくだりがあれば、なおさら、すぐに読みたくなる。

 実際、私がそう。というのも、この詩集は本日、9日にコールサック社(同社発行の詩誌「コールサック」に私もつい最近、参加したばかり~)から宅配便で贈られてきたもの。岡田恵美子さんに私は直接の面識はない。が、この解説を読んで、読み進めていったら、<これはいい詩だな>。そう思える詩群に出会った。

 それも同じ県内、宇都宮在住というではないか。さらに岡田さんは1964年に第一詩集『レスポスの馬』(龍詩社)を発刊、以後、今回の詩集で八冊目だという。日本現代詩人会に属すベテラン詩人。私は県内にそんな詩人がいることは知らずにいた(まぁ、日光暮らし4年目だから、仕方がないかも~と言い訳をする)。

 詩集は五章に分かれ、50篇。そのうち、いくつも気にいった詩があった。岡田さん自身はクリスチャンのカソリック教徒。それも筋がね入りらしい(私は革命的浄土真宗空想的社会主義砂時計派?だから、キリスト教には縁がないが~)。

 今回の詩集では、「巡礼の旅」で訪れたギリシャやトルコ、韓国など海外の旅で着想した詩がかなりある。第二章「聖ヨハネ教会廃墟にて」(10篇)、第三章「夕日の聖母子像」(10篇)など。それもギリシャや韓国などの歴史や聖書についての深い知に裏付けられた詩群だ。

 例えば詩「アレオパゴスの丘」「パルテノン神殿」「夜の運河」などを読んでいると、岡田さんから歴史の解説を受けながら、そこを訪れているかのような錯覚を覚えるほどだ。そのうち紹介するのは、栞解説でも取り上げられていた詩「開けゴマ」。

 鈴木比佐雄さんも書いているが、「開けゴマ」は、確かに読ませる。結語は親鸞の「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」の弁証法?ではないが、その系列を感じさせる。人生経験豊かな詩人だと思える。同時に茨木のり子の詩を思い浮かべるような、ある種のメッセージがうまく、示されている。それも押しつけがましくなく、抑制した言葉で。

 「宗教心を根底に抱えながら、露地や路地にまぎれて懸命に生きている多くの人びとにこの詩集を読んでもらいたいと願っている」。鈴木さんがこう書いているが、私も(宗教心を根底に持っていなくても~)素直にそう思う。

詩 開けゴマ

         岡田恵美子

開けゴマ

呪文を知ったアリババは

盗賊の庫を開いて豊かに暮らした

けれどそれは単に

盗賊の上前をはねただけ

それで幸せになれたのか

アラビアンナイトは教えてくれない

     私達も誕(うま)れる時

     神様から何かの呪文を授かってきた

     そして開けるのだろう

     叡智とか

     勇気とか

     寛容とか

     一つ一つの宝の倉を

人生の倉は沢山あるので

間違った所を開けてしまう事もある

殺戮とか

虚偽とか

悲哀の扉を

     そんな時イエス様は

     何を用意して下さるだろう

     優しい慰めなど

     期待しない方がいい

犯した罪に苦しむだけ苦しみ

その先に見えてきた僅かな光

それに気付くのが幸せなのだと

     闇の中を彷徨(さまよ)っても

     闇から抜け出そうとあがく心

     それが救いなのだと

     うっすらほほえまれて

     振り向いて下さるだろう

     

2011年2月 7日 (月)

しい~とした静かな「イノリノイエ」 新鮮な「アユム」作品群 

Dscn0402_2 (アユムの冊子「イノリノイエ」シリーズの表紙?)

 雰囲気のある日光珈琲で、買い求めたばかりの『ニーチェ「超」入門』を読もうと、寄ったついでに、その斜め前にあるギャラリー「cocoloya」(日光市今市)をのぞいた。以前にも2、3度寄ってはいるのだが、久しぶりなので、店内をぐるり。飛び込んできたのが、この冊子だった。

 ひとわたり眺めてから、「そうだ、日光珈琲にいかなくては」と、いったん店を出た。珈琲屋さんで本を読んでいたのだが、あの青い色の構図が、なんだか、気になり、というか、胸騒ぎを覚えだした。そのため、再び「cocoloya」へ。このところ、詩的生活を自負している砂時計としては、「贅沢は敵だ」と「贅沢は素敵だ」で揺れ動いてはいたのだが~(笑い)。

 しかし、たまたま読んでいたニーチェが「贅沢を敵にしない」とおっしゃっていたので(とても単純なのですね~私は)、「そうだ、あの冊子が気になっているなら、今求めておかないといけない~」。すぐに冊子(1500円だが~)を手に。

 店主が作者であるのは以前から承知しており、何冊かあったうち、「赤の色ではなく、青い絵の方をください」。すると、「いや、表と裏で同じです」。そう、一冊の冊子(1500円)の表と裏を並べていたのだった

Dscn0408 (「イノリノイエ」シリーズの冊子 裏表紙?)

  冊子は「イノリノイエ」シリーズと題して、絵とミニエッセイ(断章)との組み合わせ。シリーズの題名が「イノリノイエ」というのは、買い求めてから知った。「これは欧州の景色かな?」。これに対して「フランスに滞在してことがありますが、その光景そのものではなく、自分が思い浮かべたイメージです」。

 それにしても、詩「しい~とした静かな湖」(茨木のり子)を思わせる静寂さや清潔さがなんともいえない。芸術にうとい私だが、なんだか魅せられる色調や構図だ。冊子もいいが、この絵の大きなポスターがあったら、霧降高原の我が家の壁に張れるのに。そんな思いを抱かせる作品群だ。

 「ブログ『砂時計主義』です。ブログに紹介するのに格好の作品ですね」と話し、名刺を交換。「ところで、職業は絵画家、あるいはデザイナー、あるいは~」と投げかけたら、「デザインもやっていますが、う~ん、絵描きですね~」と、返ってきた(「絵描き」という言い方が新鮮だった~)。

 我が家で冊子を広げたら、断章に、こういうのがあった。「絵にメッセージは込めていない。ただ美しい形を、線を探って描いている」。またブログ「cocoloya日誌」のカテゴリー「作品」では、「ayum」が作品に向き合う姿勢を示している。

Dscn0421(2月26日から東京・経堂で始まる「カタチヲサグル ayum展」の案内状)

  「ボクの好きな画家達は、戦前、戦後の日本人洋画家が多く、彼らは表面的なことよりも画面の内に込められた内面的な部分を大事にしていた。そう思う。自分もどうしても、無意識のうちにそういう作品が作りたいと思っていて、そのことを思い出させられた。ボクは絵が巧い方じゃないし、技術的に器用でもない。巧く描こうと思う気持は常にあるし、巧く見せる誤摩化し方を知らないわけでもない。ただそれは絶対しない様に心がけている。ボクが見せたいのは表面ではなく、あくまでもその後ろに、中にあるものだから」

 2月26日~3月15日まで東京世田谷区経堂の「cafe+gallery 芝生」で個展「カタチヲサグル ayum展」を開くという

ブログを書き終えてから、気づいたのだが、最後のページに「本作品を無断で複製・転載することを禁じます」と。一応、お店で掲載を伝えてありますが、アユムさん、大丈夫でしょうね。表紙と裏表紙の掲載について、問題ありでしたら、ご連絡ください)

2011年2月 4日 (金)

おもいっきりはすっぱな そして暗い情念 浅川マキの世界(3)

Dscn0399 (記念すべき最初のアルバムがかつての紙ジャケットで出されたCD「浅川マキの世界」)

「わたしには、ほんとうに歌う歌がなかったのです。そんなある日、深夜ラジオから耳に飛び込んできたのが浅川マキでした。おもいっきりはすぱっな、そして暗い情念を感じさせる声で、彼女は『かもめ』を歌っていました」

 「それから浅川マキの歌がわたしの持ち歌になりました」。とおっしゃるのは、かの東大教授、上野千鶴子。というか、私にとっては、『女という快楽』(1986年)『スカートの下の劇場』(1989年)『ミッドナイト・コール』(1990年)の上野だ。

 同じ団塊世代。気になる女性論客として、20年前はリアルタイムで読んでいた。その後、しばらく離れていたが、最近(内容はもうひとつだとは思ってはいるが~)ベストセラーになった『おひとりさまの老後』(2007年)、『男おひとりさま道』(2009年)を読んだばかり。手元には『ひとりの午後に』(2010年)がある。

 惜しまれつつ亡くなった哲学者・池田晶子さんもそうだが、女性の論客としては大変なもの。そういう人として、視てきたつもりだ(個人的にはなんとなく苦手なタイプだな~とは思っているが~。でも、最近の新聞の読者相談コーナーの突き放した回答はさすが上野という感じで、面白い~)。

 その彼女が「かもめ」を持ち歌にしていた~。ということを知ったのは、やはり『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』で。小題は「『右も左もまっくらやみ』の時代でした」

 70年代はじめ、ほんとうに歌う歌がなかったという。だが、「かもめ」を聴いて持ち歌に。それを招かれたある教授宅で歌った。善良な教授夫人が困惑した表情を浮かべ、その「場」が固まってしまったという。「でも、浅川マキ、といえば、フラッシュバックする思い出があります。わたしは、その頃、20代でした」。上野千鶴子はこう結んでいる。

 「かもめ」は寺山修司作詞で知られ、浅川マキの代表曲。というか、「夜が明けたら」などとともに最も知られている歌のひとつだろう。わたしもレコード「浅川マキの世界」で知り、その後、ずっと、「持ち歌」にしてきた。

 思い出すのは1989年当時。もう20年前になるが、北海道の北炭幌内炭鉱の閉山取材で、三笠市の旅館に何カ月も泊まっていたとき。そこの飲み屋街に「親不孝通り」というのがあり、仕事が終わると、毎日のように飲み歩いた(そこでのネタがよく翌日の記事になった)。

 そこのスナックで歌った記憶があるのが「かもめ」(妻の命日に命を絶ったフォーク歌手・西岡恭蔵の「プカプカ」もか~)。お客のみんな初めて聴いたようだったが、確か「そんな歌があったの」「なかなか面白いね」といったような反応だったと思う。

 だが、「かもめ」は最後のリフレイン「かもめ~かもめ~」のキイが高く、私はうまく歌えない。それで、札幌のシャンソン専門店で「かもめ」をリクエストしてみた。そうしたら、さすがプロだ。流れるように、リズム感もよく、情念も込めて歌うシャンソン歌手がいた。

 それに私が感激したことがわかったのか、私が再び訪ねた際、黙って「かもめ」を歌ってくれたことがある(もういちど聴きたいな。確か、そのシャンソン歌手は「ドングレコ」を経営していた「今平さん」だったか~)

 この歌は私のような素人が歌うと、あまりさえないが、玄人が歌うと、かぜん、生き生き。もちろん、浅川マキの歌が一番だ。ということで、当時の紙ジャケットで発売されたばかりのCD「浅川マキの世界」で本日は「かもめ」を聴いていました。

 実は浅川マキのレコードは「裏窓」「ライヴ 夜」の合わせて3枚のCDをレコード店の取り寄せで買い求めたばかりだ。3枚以上購入し、「応募券」で応募すると、浅川マキのオリジナルポスター(3枚セット)のプレゼントがあるため(近日中に応募しようとする砂時計です~笑い)。

かもめ(1番と最後の6番)

         作詞・寺山修司 作曲・山木幸三郎

おいらが恋した女は港町のあばずれ

いつもドアを開けたままで着替えして

男たちの気をひく 浮気女

かもめ かもめ 笑っておくれ

(2、3、4、5番 略)

おいらが贈ったバラは港町にお似合だよ

たった一輪ざしで 色あせる

悲しい恋の 血のバラだもの

かもめ かもめ 笑っておくれ

かもめ かもめ さよなら あばよ

(「浅川マキの世界(4)」に続く)

 

2011年2月 3日 (木)

しみじみとした「心地よい哀感」 浅川マキの世界(2)

Dscn0113 (最新エッセイ集『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』(実業之日本社 2011年1月)

 「ラジオから浅川マキの歌が流れる。ああ、浅川マキだ、と思う。すると、胸の内に痛みのような感覚が拡がっていく。それは『哀しい』という感情に似ているのだが、少し違う。けっして不快ではなく、むしろしみじみとした『心地よい哀感』といっていいのかもしれない」

 最新エッセイ集『ちょっと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』。浅川マキにかかわった、あるいは関心を持っていたたくさんの人たちのエッセイを集めている。そのなかで、砂時計にとって、「そういうことだろうね~」、あるいは「いい云い方をしているな~」というのが、何人か。

 冒頭に挙げたのは、そのひとり、団塊世代の三田誠広(みたまさひろ)。「僕って何」。1977年の芥川賞を受賞している。さすが、作家というか、言葉に説得力があると思った。<そうか、『心地よい哀感』か。うまいこと云うな>。そんな思いが浮かんだ。

 そのエッセイの小題は「浅川マキの時代」。三田はここで浅川マキについて、「ある特定の時代に関わった個性的なキャラクターだということは間違いない」といい、その「時代」について、こう書いている。

 「70年代前半というのがその『時代』だろう。いわゆる全共闘運動が収束し、連合赤軍浅間山荘事件や連続企業爆破事件など、哀しい事件が続いた時代である。ここで『哀しい』というのは、個人的な印象のようでもあるが、わたしが把握する限りは、時代の若者の全体をおおっていた感覚だったように思われる」

 「正義の闘いであったはずの学生運動が、ほとんど自滅に近いかたちで消滅しようとしていることへのセンチメンタルな思いが『哀しい』という感覚になって、多くの若者の胸をみたしていたのではないだろうか」

 そう、三田と同じく団塊世代で、いわば学生活動家でもあった「砂時計」にしても、70年代前半というより、70年代中盤、何か「哀しい」思いでいた。「運動」の挫折感をどのように処理していくのか、先が視えずにいた。

 いわば、自滅的にその日その日を送っていただけだった(ジャズ喫茶店で毎日、午後から深夜までアルバイトし、お客の注文でレコードを回したり、「コルトレーン」や「ミンガス」「キース」「パエウル」「エバンス」「ピーターソン」「パーカー」「コリア」に「マッコイ」「ガレスピー」「コールマン」など好きな演奏家のレコードを回していたりした)。

 浅川マキの歌については、1970年前後から聴いており、当時持っていたたった一枚のレコード「浅川マキの世界」(「夜が明けたら」などの代表曲が入っていたので、このレコードだったと思う)を下宿先の6畳(家賃1カ月1万円)で繰り返し聴いていた。

 それから数年後、東京の書籍倉庫の3畳(ようするにフォークソング「神田川」の世界。それも倉庫の隅の三角形の三畳。あるのはトイレだけ)で暮らしていたとき、彼女のライブへ。当時、恒例となっていた新宿紀伊国屋ホールの大みそかライブだ。いまでも耳に残っているのは会場で演奏者を紹介するマキの声。「つのだひろ!」。

 浅川マキには紹介したいたくさんの歌があるが(スナックのカラオケでは、だいたい「かもめ」と「夜が明けたら」ぐらいしかないが~)、ここではリズム感にあふれる明るい哀しい歌「ちっちゃな時から」。作詞は浅川マキ、作曲はむつひろし。

 1、2、3番あり、詩でいうと、あわせても24行。その出だしの「ちっちゃな時から」と投げやり的に歌うその声がいい。なかでも3番がなんともいえない。「ちっちゃな時から/可愛いお前だ/何かあったら来な/こんな俺だけど/さよなら/夕焼けがきれいだよ/泣くなんて/お前らしくもないぜ」

浅川マキの紀伊国屋ホールコンサートを聴いたのは、確か25歳ぐらい。つまり1975年か。それから四半世紀以上過ぎて、いや、30年近く過ぎて、このときのことを思い浮かべて書いたのが、詩「出会ったあの人」。季刊詩誌「新・現代詩17号」(2005年6月)に寄稿した。詩というより、ドキュメントに近い。こちらの人だけが「いい詩だね」と言ってくれているだけだが、私としては好きな詩だ。

詩 出会ったあの人

                  黒川 純

君たちの様子が好きだなあ

ゆったりしている雰囲気がね。

何だか幸福そうに見えるから

  浅川マキの歌に感激した大晦日

  山手線の車内の隅っこにいた

  スーツにコート姿の中高年が

  ほろ酔いかげんの柔らかな声で

  それとなく私たちに声をかけた。

     駆け落ち同然に首都に向かい

     古い倉庫の3畳が世界だった。

     今だけに向き合う都会暮らし

       半年先の漂流先はどこなのか

       それさえもまったく予測できない

       そんな若者に共感を寄せるとは

       狐につままれた思いもしたが

       元気づけられたとも語り合った。

あの夜からたくさんの年が過ぎた今

あの中高年に出会うようになった。

何だか疲れを覚えた晩の夢の中

そのまま豊かになりなさいという

   あのときも初めて会ったのに

   何だか懐かしい人に会うようだ。

   それはどうしてなのだろうか

   その中高年をこわごわ注視すると

   未来の私であることに気づかされた。

     あのときの大晦日の山手線の一瞬

     貯金通帳を持つなど とんでもない

     どん底状態の私たちを励まそうと

     私が 私たちに会いに行ったのだ。

          今をよく生きて万華鏡を大切に、

          のびやかさと悠々さを忘れるな、

          希望と絶望に揺れてもいいのだと

          それを若さの特権に終わらせるな

          数十年の時間を飛び越え

          私が若いわたしに伝えたのだ。

(「浅川マキの世界(3)」に続く)

2011年2月 2日 (水)

泣いてもいいですか~砂時計編 追突事故で初めてパトカーを呼ぶ

Dscf5485 (追突事故で駈けつけた群馬県警のパトカーと砂時計のマイカー=昨年大みそかの夜、群馬県みどり市大間々)

 「ちょっと 泣いてもいいですか~~」というのは、こちらの有名ブロガーの泣かせる記事で(面白く~)知られている。が、砂時計の私の場合は本当に「泣いてもいいですか~」になってしまった。私が起した追突事故。今後の教訓も含めて、てんまつの一部をアップへ。

 追突事故が起きたのは(起したのは、かな)、なんと昨年12月31日大みそかの夕方、群馬県みどり市大間々で。実家に帰省するため、日光霧降高原から足尾ー大間々ー太田へと向かっていたところ。距離は片道約80㌔。足尾から山道をひたすら走り、行程の半分ほど走ったところが、大間々だ。

 その大間々の太田に向かう三差路の信号待ちで起きた。いずれも赤信号で停車中。砂時計も停車していたが、山道が終わってほっとしたのか、やや疲れた両目をこすっていたところ、すぐ前で停車中の車の後部バンパーに「ゴツン」。

 目をこすっていたところ、ブレーキペダルを外していたらしい。アクセルを踏んでいるわけではないので、とろとろと。「あれ~」と思った瞬間にゴツンとにぶい音。前の車は停車中の出来事で、砂時計がまったくの加害者。

 こういうときはともあれ、110番にするのが一番なので、加害者の砂時計が携帯電話で110番。すぐに通信指令室の(それとも大間々署の)女性警察官がどこの現場か、手際良く応対、群馬県警のパトカーに駈けつけてもらった。110番からまもなくだった。

 砂時計は警察取材の仕事が長かったが、自分が「110番通報」したのは今回が初めて。それにしても、実際すぐに対応するものですね。警察官が立ち会うと、保険を使う場合に必要な「事故証明」が出る。私はうろおぼえだったが、警察官に現場でそのように説明してもらった。

 事故についてパトカーの警察官に説明、互いに免許証や身元や保険会社などを確認しあった。警察官は「これは物損事故として扱います」とのこと。ふつうは基本的に現場検証をするのだが、信号待ちのわかりやすい典型的な追突事故だったので、現場検証はなしとのことだった

 ただし、カメラを持参していた砂時計は両方の車の事故箇所を撮っておいた。相手のバンバーが少し傷がつき、砂時計の車のナンバーが少しへこんでいた。いずれにしろ、過失割合は砂時計が100%だ。

 人身事故だったら、写真撮影は必ず必要になる、その場合はいつ、どこで、どのようにということを見た目撃者も確保し、連絡先などを控えておくというのが、当事者のとるべき行動だ(現場のかたずけもある~)。

 事故発生から警察官が引き上げるまで2時間ほどだったか。用事があった相手の若い男性会社員はとんだ迷惑だ。私の不注意で事故に遭ってしまったので、現場でお詫びしたが、さらに日光名物のおせんべいをお詫び文とともに送らせてもらった。

 現場で私が加入している任意保険・「マイカー共済」の全労済に事故の概要を連絡(自賠責保険は人身事故のみに適用のため)。「正月明けに全労済から連絡がいきます」とのことだった。それから1カ月後のつい1日、その全労済から連絡が入った(本日3日には、示談確認書が添付された「『自動車事故解決』のお知らせ」が郵送されてきた)

 それによると、被害者の相手は事故車両のバンパーを交換。4万2950円だったという。これは全労済が共済金として、全額処理するという(こういうとき、任意の保険に入っていることは大事だね。ただし、保険加入の等級が落ちるという面がある)

 それと、私は知らなかったのだが、事故で相手側に「菓子折り」などを届けた場合、全労済から「お見舞い臨時費用」として、1万円が出るのだという。私は「おせんべい」と郵送料で約3000円かけたと伝えたところ、私の金融機関口座に1万円を振り込むという。

 ということで、教訓は事故は突然に起こる。起こさないことにこしたことはないが、起こるときは起こる。それもほっとしたときに。今回の場合は、山道が終わり、行程の半分をこなし、太田の表示が出てきたところで起きている。気が緩んだときが危ない。つまり油断は禁物ということだ。

 さらに不幸にして事故を起こしてしまった場合は、軽微であっても、110番をして、パトカーなどの警察官にきちんと立ち会ってもらうこと(必要な場合は現場検証も)。そうすれば、被害者も加害者も安心するだろうし、保険会社が手続きに必要な事故証明も発行される。

 今回の追突事故で文字通り「ちょっと 泣いてもいいですか~~」になってしまったが、相手や自分がけがを負ったわけではないので、不幸中の幸いだったと思わないといけない。冷や汗をかいた追突事故だが、そう思う。

 「砂時計主義」のブログを訪問してもらっている少数のみなさんも、今回の砂時計のような追突事故を起こしたりしないように注意してくださいね(教訓や参考になったかな?)

2011年2月 1日 (火)

すってんころりんを防げ ベランダの滑り止めに人工芝 

Dscn0106 (階段から玄関に至るベランダに敷いた滑り止め防止の人口芝=霧降高原)

 もうすぐ暦の上では春となる「立春」だが、現実は寒さ本番。日光霧降高原にある砂時計宅では屋根から落ちてくる雪などでベランダも凍ってしまう。やっかいなのが、油断していると、スルッ。すってんころりんとなってしまうことだ。

 1月中旬だったか、薪を運ぼうとしたところ、私もすってんころりん(昨冬はベランダから階段を下りるところで、すってんころりんと一回転してしまった)。2度とも別にけがはなかったが、びっくり。早朝の新聞配達、昼前の郵便配達の人たちが心配になった。

Dscn0102 (この冬、砂時計がすってんころりんしたベランダにも別の人工芝を敷いた)

 ということで、ホームセンターで買い求めたのがカーペット売り場にあった人工芝。一番安いものだが、水分を含んでも、干しておけば乾きやすという。幅約90㌢、長さ1㍍で500円。その幅の4㍍や半分の幅の3㍍など計5枚をそろえた。

 まず、階段から玄関に至る部分の3㍍、次いで家の裏手に回るため、ガス屋さんらが通る部分4㍍、最後によく出入りする居間のすぐ前に4㍍。計3カ所に敷いてみた。滑り止めが目的で使ってみたのだが、敷いてみると、なかなか。なんとなく、少し品があるような気がする(と思うのは私だけか?)。

Dscn0099 (ふだんよく使う居間側のベランダにも用心の人工芝)

 長い冬が終わり、5月になると砂時計宅の回りは新緑でいっぱいに。真っ赤なツツジの花も咲き誇る。それをベランダから眺めるのが、楽しみだ。そのとき、今回敷いた人工芝がマッチするかどうか。あるいは、それまで人工芝がそのままになっているかどうか?。

 きょうは寒さで台所と洗面所の給湯管が凍ってしまった。ガス屋さんに電話し、、「水道はちょろちょろ流しており、水は出るのですが」と私。すると、「水の部分を流すのではなく、湯の方を流してください。ワリバシの太さ程度で。余り細いと凍ってしまいます。しばらくすれば、復旧すると思います」

Dscn0104 (人工芝を敷いていたら、我が家の名古屋のコーチャンが薪のシートに飛び乗ってきた)

 その通りやってみたら、10分ほどで洗面所が復旧。さらに1時間もしたら、台所も復旧した(お風呂の給湯はもともと大丈夫だった)。砂時計は水道さえ、流しておけばOKだと思っていた。実際はお湯の方を流すのでしたか。これは暮らしていかないと、わからない。

 夏に除湿機を活用することや厳冬期の水道の使い方(水道管にヒーターを巻いておくとか、水を抜いてしまうとか)、あるいは薪ストーブの薪は夏までにばっちり確保しておくこととか、屋根に積もった落ち葉は取り除いておくとか(昨秋は<そのうちにそのうちに>と思っているうちに冬になってしまった~)。

 いやはや、季節ごとにやるべきことが。霧降高原生活丸1年でようやく基本を覚えようとする砂時計です~(関係者のみなさま、さらに霧降高原で暮らしていく「生活の知恵」をお教えください~)。

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