闇から抜けだそうとあがく心 岡田恵美子詩集「露地にはぐれて」から(1)
(宇都宮の詩人、岡田恵美子さんの第八詩集『露地にはぐれて』 2011年3月8日 コールサック社)
「岡田さんはイエス様に『優しい慰めなど/期待しない方がいい』と語る。また苦しみの果てに『見えてきた僅かな光』が『幸せ』なのであり、彷徨いから抜け出そうとする「あがく心」が「救い」なのであり、そのようなことを『自ら気付くことが愛なのだ』と淡々と自らの宗教心を伝えてくれている。最後の二行である『うっすらほほえまれて/振り向いて下さるだろう』に、私は神が宿っているような静かな感動を覚えた」
宇都宮在住の詩人 岡田恵美子さんの詩集『露地にはぐれて』(コールサック社)が発行された(といっても、発行日は3月8日)。この詩集について、同社代表の詩人、鈴木比佐雄さんが栞(しおり)解説している。
冒頭にあげたのは、その解説のある部分。これだけで、どういう詩集か、その雰囲気がわかる。「神が宿っているような静かな感動を覚えた」などいうくだりがあれば、なおさら、すぐに読みたくなる。
実際、私がそう。というのも、この詩集は本日、9日にコールサック社(同社発行の詩誌「コールサック」に私もつい最近、参加したばかり~)から宅配便で贈られてきたもの。岡田恵美子さんに私は直接の面識はない。が、この解説を読んで、読み進めていったら、<これはいい詩だな>。そう思える詩群に出会った。
それも同じ県内、宇都宮在住というではないか。さらに岡田さんは1964年に第一詩集『レスポスの馬』(龍詩社)を発刊、以後、今回の詩集で八冊目だという。日本現代詩人会に属すベテラン詩人。私は県内にそんな詩人がいることは知らずにいた(まぁ、日光暮らし4年目だから、仕方がないかも~と言い訳をする)。
詩集は五章に分かれ、50篇。そのうち、いくつも気にいった詩があった。岡田さん自身はクリスチャンのカソリック教徒。それも筋がね入りらしい(私は革命的浄土真宗空想的社会主義砂時計派?だから、キリスト教には縁がないが~)。
今回の詩集では、「巡礼の旅」で訪れたギリシャやトルコ、韓国など海外の旅で着想した詩がかなりある。第二章「聖ヨハネ教会廃墟にて」(10篇)、第三章「夕日の聖母子像」(10篇)など。それもギリシャや韓国などの歴史や聖書についての深い知に裏付けられた詩群だ。
例えば詩「アレオパゴスの丘」「パルテノン神殿」「夜の運河」などを読んでいると、岡田さんから歴史の解説を受けながら、そこを訪れているかのような錯覚を覚えるほどだ。そのうち紹介するのは、栞解説でも取り上げられていた詩「開けゴマ」。
鈴木比佐雄さんも書いているが、「開けゴマ」は、確かに読ませる。結語は親鸞の「善人なおもて往生をとぐ いわんや悪人をや」の弁証法?ではないが、その系列を感じさせる。人生経験豊かな詩人だと思える。同時に茨木のり子の詩を思い浮かべるような、ある種のメッセージがうまく、示されている。それも押しつけがましくなく、抑制した言葉で。
「宗教心を根底に抱えながら、露地や路地にまぎれて懸命に生きている多くの人びとにこの詩集を読んでもらいたいと願っている」。鈴木さんがこう書いているが、私も(宗教心を根底に持っていなくても~)素直にそう思う。
詩 開けゴマ
岡田恵美子
開けゴマ
呪文を知ったアリババは
盗賊の庫を開いて豊かに暮らした
けれどそれは単に
盗賊の上前をはねただけ
それで幸せになれたのか
アラビアンナイトは教えてくれない
私達も誕(うま)れる時
神様から何かの呪文を授かってきた
そして開けるのだろう
叡智とか
勇気とか
寛容とか
一つ一つの宝の倉を
人生の倉は沢山あるので
間違った所を開けてしまう事もある
殺戮とか
虚偽とか
悲哀の扉を
そんな時イエス様は
何を用意して下さるだろう
優しい慰めなど
期待しない方がいい
犯した罪に苦しむだけ苦しみ
その先に見えてきた僅かな光
それに気付くのが幸せなのだと
闇の中を彷徨(さまよ)っても
闇から抜け出そうとあがく心
それが救いなのだと
うっすらほほえまれて
振り向いて下さるだろう
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コメント
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私には時折神の存在が感じられる時があります。
また、あるときはその影を踏むことさえ出来ないという時もあります。
遠藤さんの言う<神の沈黙>の深い深い静けさに涙する事もありました。
そんな時に耳を傾けるのは内なる声。
静かに耳を澄ますと聞こえてくるのがその声です。
それが神の声なのかは正直わかりません。
しかし、私にはそうなんだと思いたいのです。
そうでなくてはならないと思いたいのです。
偶然ではなく必然なんだと考えたいのです、、、
投稿: 三代目でございます。 | 2011年2月 9日 (水) 22時23分
三代目さま
神の存在を感じられる人は幸いなるかな。
そう思います。私は三代目ほど宗教心はないのですが、
満天の星(それも北海道の陸別町の満天の星)を
見あげたときは、この世のものとは思えないその美しさ
に思わず息をのみました。「なんという神々しさなのか」と。
ただ、神ではなく、魂の方に魅かれますね。この宇宙は
どんな原理で生まれたのかと。いずれにしても内なる声に
耳を澄ますことで、偶然~必然のメビウスの輪のような
領域を越えていける三代目はうらやましいと思います。
投稿: 砂時計 | 2011年2月 9日 (水) 22時35分