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2011年2月21日 (月)

青春とは決して甘ずっぱいものではない  森田童子の方へ(3)

Dscn0522 (つげ義春「海辺の叙景」の最後の場面 『つげ義春コレクション 李さん一家 海辺の叙景』ちくま文庫から)

  「ねじ式」などで知られる劇画家・つげ義春の作品に「海辺の叙景」がある。その最後のコマは見開きで、それこそ「ドン」という感じで、いささか驚かされる。その絵のなんと印象的なことか。夏の雨の日の海辺だが、なんだか、どんよりと、重ぐるしい空気が漂っている。どうしてなのか?

 作品が掲載されている『つげ義春コレクション 李さん一家 海辺の叙景』(ちくま新書 2008年12月 第一刷)で、夏目房之介が、それなりに解説している。

 「『海辺の叙景』を人物ドラマとして見れば、ほのかな男女のやりとりが淡々と続く小品である。ところが作品全体からは、男女が世界から脅されて微妙に揺らめいているような印象すら受ける。その秘密は表現的にいうと人物ドラマと風景描写のせめぎあいにあるようだ(中略)吹きだしゼロの、風景が優位になった場面では暗欝で脅迫的な印象すら受ける。ラストでは『いい感じよ』という女の肯定的なセリフにもかかわらず、真っ黒くなった人物とセリフが、鉛のような稠密な風景に呑まれてしまうのである」

 作品の発表は今から40余年も前、『ガロ』1967年9月号という。高野慎三の解題によると、つげ義春はこの作品にある種のメッセージを与えているという。

 「(つげ義春は)執筆直後に貸本マンガにみられるセンチメンタルな青春ものは嘘のかたまりである。青春とは決して甘ずっぱいものではない、というような意味のことをもらしている。したがって、『海辺の叙景』は、当時の貸本マンガに顕著だった青春賛歌への反論とみられぬこともない」と。 

雨のクロール

        森田童子

夏の川辺に 二人は今日別れる

ぼくは黙って 草笛吹いた

ウフフフ~ ウフフフ~

      君は花がらのワンピースおいて

      静かに涙色のまぶしい水の中

      ウフフフ~  ウフフフ~

雨に君の泳ぐクロールとってもきれいネ

雨に君の泳ぐクロールとってもきれいネ

      夏がめぐりめぐってもぼくは決して 泳がないだろう

 森田童子の「ベストコレクション」CDを送ってくれた詩人・磯山オサムクンは、この「雨のクロール」について、「ほっとする」と、短い感想を書いていた。確かに、流れるようなスキップを踏むようなメロディだ。それだけに、私にしても、そんな、心がなごむ印象を抱く(最初のうちはだが~)。

 そして、曲を聴き終えたら、なんだか、突然、つげ義春の「海辺の叙景」のラストシーンを思い浮かべた。詩の「川辺」と「海辺」の違いはあるが、明るいようでいて、もの悲しい。そんな両義性がある矛盾した空気に満ちている。そんな感じから、「海辺の叙景」の印象的なシーンを思い浮かべたのだろう。

 それにしても、森田童子のこの詩の不思議さ。ここでも「ぼく」「きみ」と歌っているが、詩では「とってもきれいネ」といった女性特有の言葉が使われていて、それはさらに哀しみにも似た響きを与えている。

 {雨のクロール」でうたわれている君は彼女だが、実はぼく(という彼女)という構図でもある。その君という彼と別れる場面だが、最後に突如、一転。「とってもきれいネ」とうたったクロールを、決して泳ぐまいと誓う。クロールをうまく泳いでみせた彼を永遠に失ってしまっただろう喪失感を、自らを縛る誓いで、その思いを伝える情感あふれる歌だ。

 あくまでも透明な美しい声。そして弾むようなメロディ。ところが歌の方は結局、残酷な結末を迎えた場面で締めくくる。最後のフレーズを、哀しみを吹き払うかのように、あえて強がって歌いあげる森田童子ー。これも「青春賛歌への反論」ともいうべき歌なのだろう。熱いファンがいた(今もか?)というのも、うなづける一曲だと思う。

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コメント

「海辺の叙景」のこのコマは衝撃的でしたね。
なんというか女の人の気持ちの中に潜む残酷さとか男の「でもやるんだよ」魂のあやうさとかいろいろ。
しかしなによりもドン!と見開きでこれを持ってこられたビジュアル的な衝撃が一番。
さて、これを森田の「雨のクロール」と解くといかにもぴったりですね。
完全につげからのインスパイアのようにも思えます。
それを川とし、最後に死を持ってくることろがいかにも森田かもしれません。
でもそれと同時に森田の限界を示しているようにも思えます。
つげの凄みはこのクロールする男のケオスですよね。けして死んだりはしません。
男と女の感情に潜んでいるケオス。それが日常であるだけに恐いのにそこにすぐ「死」という装置をもってきてドラマツルギーとしてしまうところが彼女の限界ですかね。
う〜ん、やはり森田をそんなに聞かなかった理由がそこにあったようにも思えます。

ナガシマさま
さすが、ナガシマクンも「海辺の叙景」にはある種の驚きを覚えていたのですね。
そう、ナガシマクンなら、これのミニ評論をするだろうと思っていました。ただ、私の
驚きは画面全体の暗さ。男と女が世界から孤立しているようなめまいに似た感覚
を覚えたのだと思います。「森田の限界」ですか。そうかもしれませんが、それが
彼女の持つ独特の構えというか、性格かも。そのドラマツルギーですが、最後の
死の象徴から歌ができたのだろうと、思っています。童子の歌について、かなり以前
「すごい歌手がいるんだよ」「そうだね」。そう話し合っていた若者たちがいました。
繊細そうな若者たちでしたが、私も童子にかかわらなかったのは(聴いていたとしても)、
今にも壊れそうで、明日がとてもない童子の歌とは(当時はですが~)
交差しなかったのかもしれません。時が流れ(バブルの足音がそこに)、童子は退場すべきして退場したのではないかと。ただ、今、聴いていると、なんと美しく、もの悲しい声なのかと感じています。

あ、今日、凄い音源を発見してしまいました。
おそらく砂時計さんは知らないでしょうがジャパノイズといって世界的にも有名なジャンルがあります。
これはいわゆる轟音やハーシュノイズ(いわゆる音響のノイズですね)を演奏する音楽の形態で、灰野敬二 http://www.youtube.com/watch?v=sRYkIwGQkHs&feature=related とかメルツバウ http://www.youtube.com/watch?v=M-cAngJWhi0 とか非常階段 http://www.youtube.com/watch?v=SY5Gd6Bhgt8&feature=related とかが有名なのですが、その非常階段、jojo広重氏の別ユニット、SLAP HAPPY HUMPHREYというバンドが森田のカヴァーをやっているのです。それが凄くいい。
http://www.youtube.com/watch?v=WPUJ1rxVXBI&feature=related
いかがでしょう。
実はナガシマ、こうしたノイズミュージックが大好きなのでした。

ナガシマさま
コメントでせっかく音響のノイズを紹介してもらいましたが、私は
基本的に繊細なので(笑い~)、どうも合いません。せいぜい
コールマンや後期コルトレーンまで(あの泣くようなサックスは
たまりません)。ただ、そこにある童子の歌は知りませんでした。
これも近く、「童子の方へ」でアップできればと。今、これを書きながら
聴いているのが、なにしろ「ジムノペディの夢」(ダニエル・コピアルカ)
ですからね~。それにビージーズも好きです。昔はヒロシクンと一緒に
ディープパープルやシカゴをよく聴いていたのですが(音響のノイズに
感激するナガシマクンは、仕事柄もあるのだろうが、いい意味で精神的
に若々しいと思います 私は~?)。

прикольная музыка

私も、この歌を聴いた時つげ義春の漫画のシーンを思い出しました。というか漫画を見た時この歌を思い出したのか?歌をきいたのは、大学4年の時、友人がカセットに録音してくれました。40年以上前のことです。

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