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2011年2月15日 (火)

青春ってヤツのお別れに 森田童子の方へ(1)

  「マキから童子へやっとたどりついた感。おもわず・・・うれしい限りです(中略)当方、仕事を終えると職場で、童子とウイスキーでありまして、やはり、球根(「球根栽培の唄」)・・・は泪ものですが、高橋和己・・・が好きです」

 浅川マキのことをブログにアップしていたら、学生時代からの友人、ナガシマクンから森田童子のことを紹介された。名前ぐらいしか知らなかったのだが、一部でカリスマ的な人気を呼んでいたが、姿を消した、いわば伝説の歌手だと知ったのは、まもなく。

 私のブログのコメントにナガシマクンが森田童子の代表曲や時代の歌、さらに珍しい「動く森田童子」を貼り付けてくれた。私もひとつ聴いただけで、<これは、すごい>と大いに共鳴。CDを注文したことなどをつづった(昨日の14日、レコード屋さんから「今は廃盤になっており、注文できません」の連絡があったが~)。

 と・・・。きょう15日には、その森田童子や鈴木いづみ、などについて書いた手紙が届いた。それも速達で。茨木の詩人、磯山オサムクンからだった。それが冒頭にあげた「マキから童子へ~」の文章。さすが、詩人の磯山クン、童子にもどっぷりだったのですね。

 森田童子。日光の友人たち、それも中高年の何人かに聴くと、「テレビドラマ『高校教師』(1993年)の主題歌を歌っていた歌手だったのではないか」ぐらい。その主題歌「ぼくたちの失敗」なのだが、それ以上まではあまり知らなかった(私はほとんど知らなかったが~)。森田童子を改めて、ウイキペディアから紹介すると、こうだ。

 「学園闘争が吹き荒れる時代に高校で東京教育大学の学生運動と交流があった。高校を中退し、気ままな生活を送っていたが、20歳の時、友人の死をきっかけに歌い始める(この亡くなった友人をモチーフにした曲がデビュー曲となる「さよならぼくのともだち」である)。1975年、アルバム「グッドバイ」、シングル「さよならぼくのともだち」でデビューし、以後主にライブハウスを中心に活動。1983年までにアルバム7枚、シングル4枚をリリースし、同年の新宿ロフトでのライブを最後に、引退を宣言することなく活動を休止する。レコーディングの編曲、演奏はアコースティックギターの第一人者石川鷹彦(元六文銭)が担当した。所属事務所は海底劇場。カーリー・ヘアにサングラスというスタイルで、コンサートはもちろんレコードのジャケットなどでも素顔を見せることはなかった。本名は非公開、実生活についてもほとんど公表せず、作詞した歌詞の内容もありのままの実体験ではなく願望を投影したものであるとしており、普段も寡黙で、独特の世界観を表現した作品に自分の生活感を滲ませることを避けていたとされる」

 浅川マキの歌も暗いのだが、暗いだけではない。暗さの中に何か灯りがあり、はすっぱなようでいて、まっすぐ。露地裏の人生だが、それでもなんとかやっていけるさ、そんなふてぶてしさみたいなものがある。

 だが、森田童子の歌は暗いのが暗いまま。死の影がつきまとっている(「たとえばぼくが死んだら」「海が死んでもいいョって泣いている」、というそのものズバリも)。彼女に関するエッセイを少し読んだだけで、そうした印象を受ける。

 ネットで「森田童子研究所」というのがあり、そこにさまざまな森田童子を紹介している。そのなかの「エッセイ・評論」で、かなり本質的なところに迫っているな、と感じたのが評論があった。笠井嗣夫さんの「『森田童子』 あるいは共犯幻想のこちらがわ」だ(ネットで読むには長い評論だが、関心のある方はぜひ)。

 笠井さんは代表曲である「さよならぼくのともだち」を紹介しながら、「彼女が自らを『ぼく』に置き換えているということだ」として、以下の見方を示す。

 「『私は』と語りはじめることが不可能のゆえの『ぼく』への仮構。それによって、かろうじて彼女の体験は言葉となりえた」と。

 だれもが、最初に思うのは、森田童子がすべて「私」や「わたし」(と「あなた」)、「私たち」「われわれ」ではなく、「ぼく」(と「きみ」)で歌っていることだ。だが、なぜ、彼女は「私」と言わなかったのか、言えなかったのか。

 なぜ、「ぼく」でなければならなかったのか。この評論では、そこまでの言及はない(森田童子のほかの評論にはあるのだろうか?。ファンの磯山オサムクンはどう思っているのだろうか?森田童子のエッセイなどで、知っている方は教えてください~)。

 なお、ブログにあげた「青春ってヤツのお別れに」は森田童子の歌「センチメンタル通り」にある最後の文句から(これもいい歌だ。いずれ砂時計主義にアップしたい。ユーチューブで聴くことはできるが、森田童子のCDを聴きたいのにCDが買えないとは。だれか貸してくれるそんなエライ人はおりませんか?)

以下は笠井さんの評論「『森田童子』 あるいは共犯幻想のこちらがわ」から

 仲間がパクられた日旺の朝
 雨の中をゆがんで走る
 やさしい君は それから
 変ってしまったネ
 さよなら ぼくの ともだち
       (「さよならぼくのともだち」)
 
 「けれども、このアルバムでの森田童子の声そのものは、歌詞から受ける印象ほど暗いわけではない。まるで15、6歳の少女に戻ってしまったように、のぴかかに森田童子は歌う。その理由を私は詳らかに語ることはできない。ただ、ひとだけいいえるのは、みずからの経験を唄にするとき、彼女が自を「ぼく」に置き換えているということだ。

 彼女は決して「私」と発語しない。あるいは発語することができない。「私は」と語りはじめることが不可能ゆえの「ぼく」ヘの仮構。それによって、かろうじて彼女の体験はことぱとなりえた。唄のなかで呼びかけられる「君」のほとんどは、「ぼく」に仮構された私(=少女)の恋人ととることができる。つまり、〈物語〉といってもよいある種の仮構によって、はじめて森田童子は挫折感という「青春たちのかたち」をいくぶん甘美に歌い出すことができたのである」

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コメント

砂時計さん、こんばんは。
やはり童子ファンはいるものですね。
それにしても当時なぜ森田童子を聞かなかったのか不思議に思います。
前にも書きましたがこのころ叙情との決別宣言みたいのをして、ダダ、シュルレアリスムの方向に向かったのが大きかったのかもですね。
森田童子は自分のことを「ぼく」といっていたみたいですね。まぁ、同時代でも吉田美奈子がやはり「僕」(こちらは漢字)の呼称を使っていましたが。
知り合いのおばさんにもいまだにぼくっていう人がいますが50過ぎのそれはきつい。
さて、森田のCD、中古で手に入るようですよ。
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/B00005HFKR/ref=dp_olp_0?ie=UTF8&redirect=true&condition=all

それではまた。

ナガシマさま
主語の問題は大きい。芥川賞の「僕って河」もそうだが、「ぼく」は主体を回避させる
用語ではないかと。さらに「ぼく」「私」「」「我々」も、意味深。今『彼女たちの連合赤軍』『十六の墓標』『兵士たちの連合赤軍』『連合赤軍 27年目の証言』を集中的に読んでいるところだが、自殺した森恒夫の自己批判書や手紙で、「ぼく」「私」「我々」、その主語の使い方に微妙な意味が。もう少し詳しく読んでいくとわかると思っているところだ。その分析『彼女たちの~』に森田童子の「たとえばぼくが死んだら」もでている。CDについてはコメントから中古のネットを見ました。ありがとうございます。それにしても、磯山オサムクンも含めて、やはり、根強いファンがいるのですね~(ナガシマクンの「叙情との訣別宣言」も気になるところです~)。

だれもが、最初に思うのは、森田童子がすべて「私」や「わたし」(と「あなた」)、「私たち」「われわれ」ではなく、「ぼく」(と「きみ」)で歌っていることだ。だが、なぜ、彼女は「私」と言わなかったのか、言えなかったのか。

____

僕も三十年近くこの回答を探していました。
現在の説
「さよならぼくのともだち」
サイモンとガーファンクルの歌がモチーフになって(行ったこともないメキシコの話をする男とそれを聞いている若い男)

英語のyou and meを和訳すると きみとぼくになる

なんともやりきれない説です。
ちがうかも知れませんが、、、
童子自身の語りですので、まず有力な説ではある。
you tubeで聞きました。今日現在は、まだありました。

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