終着駅の遠い灯りの差す方へと 岡田恵美子詩集「露地にはぐれて」から(2)
(岡田恵美子詩集『露地にはぐれて』の一篇 「見えない地図」=同詩集から転写)
宇都宮の詩人、岡田恵美子さんの詩集の題名は『露地にまぎれて』。この題名について、詩人、鈴木比佐雄さんが栞解説でひもといている。それで私にも、この詩集のある方向性がそれなりにうなづけた。
「露地という言葉には露出した地面の意味の他に、仏教用語で煩悩を捨てた境地のような意味もある。また露地はその響きから町の路地へと転じてくのだろう。『はぐれて』という響きの中には、目的もなしに気のおもむくままにその場所を散策し、その場所で暮らす人々の素顔を見ようとする衝動のようなものが伝わってくる。また自分がその地に『まぎれて』生きてみたいという密かな願望も感じられる」
<そうか、露地には「煩悩を捨てた境地のような意味も」あるのか>。(まだまだ煩悩を捨てきれない、いや煩悩ばかりの)私にはなんとなく魅せられる意味だ。確かに岡田さんの詩集には煩悩を越えた、というか、透明な倫理みたいなものが感じられる。
それも誠実なカソリック教徒として、絶えず、自問自答している姿が浮かび上がる。いくつかの詩にそれを強く感じた。なかでも人生論ともいうべき「見えない地図」は、なかなかだと思わされた。
「もうタイムリミットは近いのに/まだ見つからない/私という終着駅」。という冒頭の言葉にドキッとさせられる(いい意味で歌謡詩を思わせる~)。そうして若者として、世の中に出て行き、「登らなければ明日は見えない」と考え、実践してきたこと。
そのように自分の歩いていく道を確かめ確かめ、この社会を生きてきた。そのことを振り返るように丁寧な言葉を連ねていく(私が勝手にそのように読んだだけだが~)。
最後に「まだ見えてはこない終着駅/遠い灯りの差す方へと/疲れた足を引きずってはいるが」で結ぶ。「遠い灯りの差す方へと」というフレーズが、なんとも効果的だ。
私はこの部分を読んでいて、霧深いが、太陽も射す山頂で、ほんのたまにだが、登山家が出会うことがある感動的な光輪、仏の御光ともいわれる「ブロッケン現象」みたいなイメージを思い浮かべた。
岡田さんは1931年生まれ。私より二世代上の詩人だが、何かを越えたところで詩を生んでいると思える。こうした詩から何を思い浮かべるかは、ひとそれぞれ。いずれにしろ、絵画のようにイメージを広げることが可能だろう。.
詩 見えない地図
岡田恵美子
もうタイムリミットは近いのに
まだ見つからない
私という終着駅
あの日渡された地図には
何も書いてなかった
少しずつ歩きながら
自分の地図帖を作っていったのだ
ここは峠道暗いけれど
登らなければ明日は見えない
どんな記号をつけていったか
一つ一つが生きる証
魂を灯すように付けていった道標(みちしるべ)
美しい景色も見られたと
其処には花丸の印でも置こうか
まだ見えてはこない終着駅の
遠い灯りの差す方へと
疲れた足を引きずってはいるが
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