無料ブログはココログ

ブログランキング

  • ブログランキング
    人気ブログランキングへ

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2011年3月

2011年3月30日 (水)

岩手へー、たくさんの応援物資とその思いを積み M9.0東日本大震災(20)

Dscn1128(岩手県に届ける応援物資を仕分けするともだちたち=30日夕、日光霧降高原の「砂時計」宅)

 岩手に届ける応援物資への協力を求めたところ、わずか1日半で日光を中心に県内からたくさんの応援物資が寄せられました。30日夕に、その物資の仕分け作業があり、それにも十数人が駈けつけてくれました(宇都宮市からも)。ありがとうございます..。

 応援物資を寄せてくれたのは、二十数人。日光はもとより、宇都宮市、鹿沼市、さくら市からも。多くは「砂時計主義」を知っているともだちだが、私は面識はないが、ブログを知り、寄せていただいた方も。夜早い時間に仕分けも終わり、積み込みへ。後部トランク、後部座席、助手席の一部は応援物資でいっぱいになった。

 マイカーの前部と後部の窓には赤い文字で「応援物資 From日光」(トモちゃん、御世話さま)。心配していたガソリンも徳さんが満タンの20リットル缶を持たせてくれた。携帯を充電させるインバーター?もカタウラさんが貸してくれる。

 あとは事故なく岩手・花巻へ。31日朝、みなさんの思いを積んで、岩手・花巻へ向かいます。これらの応援物資を確実に届けます(以下のリストも)。

東日本大震災支援 岩手「ゆいっこ」へ

「応援物資 FROM日光」リスト

2011年3月31日(木) 応援物資内容


★コメ    66キロ(3キロ3袋が4箱、10キロ3袋など)

★灯油 96リットル(18リットル2缶、10リットル6缶)

★靴下    約70足

★男性パンツ 約40枚

★牛乳    12リットル

★味噌    10個

★カレールー 約120分

★男性ズボン 7人分

★電池    単Ⅲなど約100個

★湿布    約30袋

★その他    ケーキ、マスク、パスタ、野菜ジュース、カップ麺、缶詰、小麦粉、ボールペン、えんぴつ、ノートなどの文具、コーヒー、タオル、玉ねぎ、サトイモ、ジャガイモ、カレーセット、長ネギ、手帳、ハサミ、カッター、ナス、クリップ、ホッカイロ、チャッカマン、オキシドール、アルコールジェル、ホンダシ、マヨネーズ、シェービングフォーム、うがい薬、バッグ、灯油ポンプ、割り箸、醤油、サランラップなど

2011年3月28日 (月)

「お互いさま」の助け合い 日光で被災者実質無料受け入れ民宿開始 M9・0東日本大震災(18)

 大震災のため、避難生活を送っている被災者に何かできないか、その思いで「日光ホステルの会」を結成した5軒の民宿・ゲストハウスの経営者が28日、被災者は実質的無料宿泊の仕組みをスタートさせた。

 日光市が被災者を宿泊させた場合、大人1000円、子供500円(小学生未満)の助成を決めた。それを受けて、各民宿では、形式的にそれを宿泊者にキャッシュバックさせる仕組み。このため、被災者は実質的に料金ゼロで宿泊できる。

 通常の営業の泊まり客もいるため、各民宿で受け入れられる人数は9人から17人。それでも5つの民宿で最大、計約60人になる。基本的に家族単位で受け入れたい考え。食事はいずれも各民宿での自炊になる。

 できることは自分でやってもらい、共に助け合うといったホームスティのような泊まり方だ。期間は原則一家族、1週間ほど(期間延長は各民宿と被災者の相談で)。

 各施設とも基本的に個室を提供するため、大勢で一緒に避難所生活を送っている被災者にとっては、プライバシー面でも気が休まる空間や時間ができる。「日光ホステルの会」の経営者たちはそんな手助けをしたいと思っている。 

避難所で暮らす被災者の実質無料宿泊を決めた日光の5つの民宿・ゲストハウスは次の通り。各施設の外観などを写真で。

日光の民宿・鳴沢ロッヂ 連絡先080・6636・0288

Dscn1113

Dscn1111 日光ゲストハウス・巣み家 同090・1838・7873

Dscn1065_2  

Dscn1067

日光ゲストハウス・にっこり荘同080・6648・9736

Dscn1098

Dscn1100

日光民宿・りんどうの家 同0288・53・0131

Dscn1102

Dscn1106_3

小さなホテル・森のうた 同0288・53・0465

Dscn1073

Dscn1079

 

 「鳴沢ロッヂ」を経営する「三代目」が本日の28日、「被災者受け入れ」について、自身のブログで語っている。それをそのまま、以下にアップします。

2011-03-28 09:24:23 被災者受け入れ開始。
日光で小さな宿を経営している5施設。

日光ホステルの会 <鳴沢ロッジ、巣み家(スミカ)、にっこり壮、リンドウの家、森のうた>は被災地から避難されている方々を実質的に無料で受け入れます。

 各施設によって受け入れ人数や条件などが違いますが共通するのは「お互い様」の精神で助け合い、ともに今回の震災を協力して乗り切ろうということです。

 鳴沢ロッジの連絡先はすべて携帯電話(080-6636-0288 カトウ)で行います。当館では3家族で10から15人を受け入れる準備をしております。

 5施設の合計受け入れ可能総数は約60名となります。詳しくはこちらのサイト(砂時計主義)をお読みください。ここをクリック。既に昨日数箇所の避難所にそれぞれの施設の部屋割りなどをファイルした冊子を配布いたしました。

 まだ現時点では当館には反応はありませんが時間の経過とともになんらかの反応があると思います。三代目は一人で現在切り盛りしておりまして更新も遅れがちですが状況に変化がありましたらこのサイトでお知らせいたします。  

 それぞれの施設も今回の震災で非常に厳しい環境の中での受け入れとなりますので、是非ご理解ご協力をよろしくお願いいたします。よろしくお願い申し上げます。

三代目 ※ 宿泊料金 実質的に無料という表現について。
今回 日光市が被災者の方の宿泊に限って一泊一人当たりで1000円の補助金を出します。日光ホステルの会 5施設はこれを被災者の方々にキャッシュバックするという方法で  実際のご負担額をゼロにいたします

 

2011年3月27日 (日)

石巻は一つの巨大なエネルギーのようだ  M9.0東日本大震災(17)

Img_1662 (「支援物資 FROM日光」グループが撮影した24日の宮城県石巻市)

Img_1685 (「支援物資 FROM日光号」グループが24日に撮影した宮城県石巻市の惨状)

Dscn1009 (24日に宮城県石巻市と仙台市に支援物資を届けた「日光号」=23日夜、日光霧降高原)

 大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市から日光霧降高原・幾何楽堂への一本の電話がきっかけとなって、現地の復興、再生に向けた活動が大きなうねりとなろうとしている。

 支援物資を石巻や仙台に届けることが最初の目的だった。「支援物資 FROM日光」のシールを張った「日光号」で現地に入ったのが24日。幾何楽堂のコサカさんらのクルーが強く感じたのは、一人でも多く、現地に人を送り、津波が運んできたドロを土のう袋に詰め、各家の外に出すこと。そのための人海戦術を進めるべきだということだった。

 そんな結論を得て帰ってきた「日光号」クルーの報告会などが26日夜、幾何楽堂であった。支援物資を提供するなどした県内外の仲間が参加。朝1番で出発し、その日深夜に日光に戻ってきた4人のクルーのうち、コサカさん、徳さん、トモちゃんの3人が、それぞれに現地の状況とこれから為すべきことを語った。

 テレビや新聞で報道されている惨状への驚きはもちろんだが、被災地・石巻市の人たちが泥まみれになって、元気に働いている、そのことへの驚きを異口同音に伝えた。津波による泥を取り除く戦いだ。「みんなが燃えている。巨大な一つのエネルギーのようだ」。幾何学堂の25日のブログはこう伝えている。

 動きは早く、万単位の土のう袋、数多くのスコップ、そして自転車(作業現場へは車では入れないという)をブログで募ったところ、土のう袋はわずか1日で2000枚以上も集まってきたという。

 コサカさんらは再び、30日にも石巻市に向かう。今度は数多くの土のう袋、スコップ、自転車などを車に積んで。同夜の報告によると、今回は現地の作業拠点づくりも目指す。そして、日光霧降高原の幾何楽堂を現地と結ぶボランティアのベースキャンプに、日光、栃木県、首都圏、全国の若者たちをピストン輸送で送りだしたい考えだ。

 詳しい報告や思いはブログ「幾何楽堂」で。ブログ「日光を漂ふ」(砂時計主義の現地写真は「日光を漂ふ」から転載)や「日光『ふぃふぁ山荘』」にも。

 以下は「幾何楽堂」ブログから。 

3月25日(金)石巻の熱い思い
 

「皆さんの心温かい物資を無事手渡すことが出来ました
ピンポイントで4ヶ所 それぞれの方がとても喜んでおられました

始まりは陸君のお母さんの『この街(石巻)を離れたくない』という思い
この街の復興でつかれた方がほっと一息つける居場所 立飲み屋を作りたい
と聞いてしまって・・・

石巻に着き 様変わりした景色に言葉を失う
想像はしていたが こんなことがあっていいのか?

しかし
そこで沢山の人が街に溜まった泥やごみを手で方付けている
もちろん重機も使ってもいる人もいる
本当にたくさんの人が泥だらけになって

陸のお母さんの言葉がよみがえる

私は大きな勘違いをしていた 
受け入れ先ばかりを安全な日光で考えていた
ここで泥だらけになって働いている人はまず来ないだろう

もし自分の街 日光で同じような災害に遭ったら?
それでも私はそこに住むだろう

石巻はとんでもない速さで復興するのでは
みんなが燃えていた 
一つの巨大なエネルギーのようだ

陸にあらためて「何が必要だ」と聞いた
「人です」

私たち若い人がまずやらなくていけないのは・・・

家の中にへばり付く津波が運んだ泥
浸水した家はトイレが逆流して汚泥と化した
やがて大腸菌や雑菌が人の健康を脅かす
第2次災害の可能性が

私たち若い人がまずやらなくていけないのは・・・
一刻も早く一人でも多くの人が現地に向かい
にっくき泥を土のう袋に詰め家の外に出すこと 永遠と

私は近いうち現地に戻ります
手伝ってくれる方は私についてきて下さい

小さな力でもコツコツやれば
いつかは終わります それを夢見て

実現すれば次は大きな夢です!」
                                                          
                                                         
3月26日(土)願えば叶う
                                       
「来週早々 また石巻に行きます
今度は物資を運ぶことと泥掃除


土のう袋はわずか1日で2000枚を超える勢い
数万集まることも夢でない

自転車は予定数集まりました

あとスコップが必要です
現地にはとにかく道具が足りません

皆様の力で磁石に吸い付くように物が集まります
こんな苦しい中なのに・・・
本当に有難うございます

たった一人の人の為にと思った行為が
こちらもあちらも 数千 数万に広がります

物も人も宇宙もそして放射能までも
元は一つ
良くも悪くも広がります
みんな生きています

皆が胸に何かつかえているような気分ではないでしょうか?
それが心です

何かしようとするとき
心ではなく頭で考える だからまた胸がつかえる

心が口から出てきたとき
それはきっと正しい答えなのかもしれません

ならば広がる放射能にどう対応すればよいものか?
胸につかえているものを出し切り

放射能は身体の中を通過させてしまえばいい
溜めない体をつくればいい

イメージだと出来そうな気がする」
                                                             
 いかに石巻の現地が燃えているか、ブログ「続・雨ニモ負ケズ風ニモマケズ」の現地報告からもうかがえる。
                                                          
石巻NPO連絡会議 [2011年03月25日(金)]
日に日に増えてゆく石巻支援のNPO&NGO

把握できている連絡会参加団体等

石巻市社会福祉協議会
石巻JC
石巻JC‐OB
日本財団
ピースボート
メイク・ザ・ヘブン
鶴岡元気村
ヒューマンシールド神戸
四万十塾
ホップ障害者支援センター
SVTS風組
JANIC
シーマット&アイマット
チーム神戸
青年海外協力隊OB
日本ユニバ
IVUSA
ピースワーカーズ
プロジェクト・がてんチーム
SSER
キャンパー
レスキューストックヤード
はからめ
静岡県ボランティア協会
災害看護支援機構
八ヶ岳ピースワーカー
UME
フューエルリリーフファンド(米国)
カリタスジャパン
RQ市民災害救援センター

2011年3月26日 (土)

被災者実質無料で共同歩調、日光の5軒の民宿が「ホステルの会」結成  M9.0東日本大震災(16)

Dscn1042(大震災で避難している人たちを実質的に無料で受け入れることを決めた 「日光ホステルの会」の経営者のみなさん=26日、日光の民宿「鳴沢ロッヂ」で)

Dscn1050 (「日光ホステルの会」が27日に各避難所に手渡す呼びかけ文)

 大震災で故郷からやむなく避難してきた被災者に何ができるか。宿泊施設として何か役に立てることはないか、と考えていた日光の5軒の民宿が26日、避難所で暮らしている被災者を実質的に無料で受け入れることを決めた。

 ふだんから交流しあっている個人経営の民宿やゲストハウス同士で、「困っているときはお互いさま」という考えで一致。新たに「日光ホステルの会」を結成し、27日に日光や鹿沼の各避難所を訪ね、呼びかけることにしている。

 きっかけは日光市が被災者を宿泊させた場合、大人1000円、子供500円(小学生未満)の助成を決めたこと。助成費を電気代、灯油代、水道代と考え、被災者には実質的に無料で提供することを決断した。

 26日の経営者同士の話し合いでは「避難所の集団生活ではなく、家族でプライベートなときが欲しいときの宿に」「観光で商売してきたのだから、ここで恩返しを」「震災や原発が落ち着いて地元に帰るときがくるが、いい思い出を残し、いつか日光に来てもらように」などの声が交わされた。

 通常の営業の泊まり客もいるため、各民宿で受け入れられる人数は9人から17人。最大5つの民宿で計約60人。基本的に家族単位で受け入れたい考え。食事はいずれも各民宿での自炊になる。できることは自分でやってもらい、共に助け合うといったホームスティのような泊まり方だ。

 受け入れ期間は原則一家族、1週間ほど(期間延長については各民宿と被災者の相談でということも)。日光市の助成対象期間が4月30日までのため、当面、その間の対応になる見込み。

 観光庁が公式発表したホテル・旅館などを行政が借り上げて、「一時避難所」とするという性格ではない。だが、実質的には、被災者が避難生活を送る場所になる。そのため、「日光ホステルの会」では、各民宿をサポートするボランティアも募っている(すでに何人かが助っ人に名乗りを挙げている)。

 避難所で暮らす被災者の実質無料宿泊を決めた日光の5つの民宿・ゲストハウスは次の通り。

日光の民宿・鳴沢ロッヂ 連絡先080・6636・0288

日光ゲストハウス・巣み家 同090・1838・7873  

日光ゲストハウス・にっこり荘同080・6648・9736

日光民宿・りんどうの家 同0288・53・0131

小さなホテル・森のうた 同0288・53・0465

 「日光ホステルの会」が正式発足したのは26日。その前日の25日に、基本的な方向を確認した際に、鳴沢ロッヂの経営者「三代目」がブログで、自身の考えを伝えているので、これもアップしておきます。

 2011-03-25 20:50:33 行政との連携。テーマ:震災関連
鳴沢ロッヂ、ゲストハウス棲み家、ゲストハウスにっこり壮は今回の震災で被害にあわれた方々を被災者の方々のご負担無し、実質無料で受け入れる方向で一致いたしました。

行政からの支援も決定して受け入れる体制が整いつつあると判断して本日決定いたしました。

それぞれの施設の身の丈にあった支援をともに連携しながらする予定です。

詳しくは明日(26日)11時より当館にて再度協議の上決定いたします。

この支援活動に賛同する施設がいくつか増える可能性もあります。

姿勢としてはお客様として受け入れるのではなく、お互い様の精神でともに今回の大災害を生き抜くためのお手伝いをさせていただくという事です。

出来ることはご自分でやっていただきともに働き、ともに助け合うという精神で行きたいと思います。

鳴沢ロッジは三部屋を使用して三家族で13人程度の受け入れを準備する予定です。

無理をすれば15人は可能かもしれませんが初めの段階は10から13人というのが身の丈なのかもしれません。

食事に関しては原則自炊でまかなっていただきます。

食材なども出来るかぎりご自身で確保して頂きます。

ご家族がしばらく落ち着いて今後の再建にむけて準備するための期間を当館にて過ごして頂けたらと思います。

たくさんの方が今後避難されて来ると予想されますので受け入れ期間は一家族につき原則一週間です。

もちろん期間につきましてはご相談にも応じる予定です。

ほとんど家族同様のお付き合いになると思いますのでお互いにともに運営するという事が出来れば理想です。

鳴沢ロッジには通常のお客様も同時に宿泊されるという期間もありますのでうまく調整して出来るだけそれぞれに快適に過ごして頂けるように努力したいと思います。

お手伝い頂ける方がいらっしゃいましたらコメント欄にてご連絡をお願い申し上げます。

よろしくお願いいたします。

鳴沢ロッヂ 三代目

2011年3月25日 (金)

旅館・ホテルなど被災者無料受け入れ、観光庁が正式発表 M9.・0東日本大震災(15)

 Dscn1030_2 (80頁にわたり大震災の被害状況を写真で埋めた3月24日発売の「サンデー毎日緊急増刊」)

 大震災の避難者を旅館やホテルで受け入れ、費用は公費負担とするニュースは、すでに朝日新聞や日本経済新聞などで報じられていたが、25日、観光庁が正式に発表した。夕方、NHKラジオを聴いていたら、現在のところ、約3万人の受け入れが可能だと報じていた。

 旅館・ホテルなどの宿泊施設を災害救助法に基づく一時的な避難所として位置づけ、客室を借り受ける。費用は一人1泊3食付き5000円。だが、全額を公費で負担し、被災者は無料になるという。それに移動に要する交通手段についても便宜を図るという。

 発表資料によると、被災自治体が避難所を他県に求める際、その手助けを観光庁がやるとしている。費用はホテルや旅館などに避難所を要請した県が負担し、あとで国が必要な財政措置をとることを明言している。

 すでに群馬県みなかみ町や片品村が先取りしたかたちで、こうした方針を打ち出し、実施しているようだ。一方、私が暮らしている日光市では、市内の旅館・ホテルに有料で宿泊した被災者に「小学生以上1千円、小学生未満500円」の助成を始めることを明らかにした。

 世界の、日本の観光地、日光市がこうした助成措置をとることは、それはそれで歓迎できる。ともかく被災地からからがら避難してきた被災者からすれば、ありがたいことだ。だが、観光庁が正式発表した「全額公費負担」と比べると、その落差は歴然だ。

 たぶん、災害救助法の適用や運用、あるいは解釈などの絡み。さらにはすでに有料で被災者を受け入れている他の観光地との兼ね合いなど、ふつうの市民である私には理解できない難しい問題があるのかもしれない。それにしても、私にとっても、被災者にとっても、何ともよくわからないそれぞれの対応だと思う。

 いずれにしろ、観光庁が25日に正式発表した「県域を越えた被災者の受け入れ」は、ただでさえ、不安と心配の2週間を過ごしてきた被災者には朗報だろう。ということで、25日付の地元紙「下野新聞」の記事、さらに観光庁の報道発表資料のアップへ(観光庁のホームページからは24日付けの「都道府県あて通知」も読むことができる)

有料宿泊被災者に助成 日光市 来月末まで小学生以上1泊1000円(下野新聞)
(3月25日 05:00)
 【日光】東日本大震災を受けて、市は25日から、市内のホテル、旅館に有料で宿泊した被災者、避難者に、1泊当たり小学生以上1千円、小学生未満500円(無料宿泊の幼児らを除く)の助成を始める。4月30日までの宿泊が対象。宿泊被災者に対する自治体の助成措置は県内では珍しく、市観光部は「被災者が少しでも利用しやすい環境に」としている。

 同部が把握している避難者らの受け入れ可能な市内の宿泊施設は102カ所。16日から鬼怒川・川治、日光の両観光協会を窓口に、宿泊受け入れ案内業務を行っている

宿泊施設における県域を越えた被災者の受入体制について

最終更新日:2011年3月25日(観光庁ホームページから)

今般の東北地方太平洋沖地震では、被害が極めて広範囲に渡っており、非常に多くの方々が被災され、避難を余儀なくされています。また、避難所の中には、生活物資や燃料が不足するなど、劣悪な環境下に置かれているものも少なくありません。既に、遠隔地に避難される方も出ており、今後、仮設住宅等ができるまでの間に、安定した避難の場所を確保する必要が高まるものと考えられます。

 このため、観光庁としても厚生労働省等の関係省庁と連携し、旅館・ホテルにおいて県境を越えた被災者の受入れを支援することとしました。具体的には、
[1] 災害救助法の制度を活用し、観光庁において、関係団体や自治体の協力を得つつ受入先となる旅館・ホテルを確保することにより、被災自治体が避難所を他県に求める際の助けとなるよう尽力します。この際、移動手段の確保についても支援します。
[2] 被災された方々に宿泊及び移動に関する負担は生じません。避難所を要請した県が負担した上で、国が必要な財政措置を講じます。

 今後、厚生労働省等の関係省庁や関係自治体と連携しつつ、受入宿泊施設や
交通手段の確保等を図ることとしています。

平成23年3月25日
観 光 庁

宿泊施設における県域を越えた被災者の受入体制について(概要)
県域を越えて、旅館・ホテル等の客室を借り上げ、一時的な避難所として、被災者に無料
で提供することとする。
【受入条件】
① 受入施設は、旅館・ホテル等の有料施設とする。
② 借上条件は、客室定員による利用、1泊3食付き5千円/人。
③ 継続的に居住できる施設が確保できるまでの当分の間とする。
④ 受入施設は、災害救助法に基づく避難所として、受入県(受入市町村)が被災県からの
要請を受けて借り上げ、避難者(災害救助法適用市町村からの避難者のみ)に供与する。
⑤ なお、宿泊費・交通費に係る負担については、災害救助法を適用し、被災県が負担(受
入県が被災県に求償)した上で、国が被災県に対し、必要な財政措置を講ずる。受入県
における財政負担も生じない。
【調整体制】
全旅連(全国旅館組合連合会) ← 都道府県旅館組合 ← 旅館・ホテル:受入可能数

観光庁 : 自治体に受入先リストを提示してマッチング。
マッチングに基づき、貸切バス等の移動手段を手配
(貸切バス等は被災県が借り上げ)。
具体的な契約・支払い等の諸手続きは事後補完。

被災県(災害救助法適用)← 被災市町村(災害救助法適用):避難者数、避難先等の希望
↓避難受入要請 ※旅館等に避難する被災者の優先順位を被災自治体が決める必要がある。
受入県(受入市町村)
↓避難所として借上げ
受入施設
※東北運輸局が、観光庁・自治体間の連絡調整を担当。
【実施時期】
全旅連からのリストの提示、バスの調達準備、関係県への説明等を行ったうえで実施に移
す予定。

2011年3月24日 (木)

日光市も「災害ボランティアセンター」開設 M9.0東日本大震災(14)

Dscn0964_2 (被災地・福島県相馬市など被災者に送るために日光市民が提供した支援物資。お茶なども含めた水は約7100本、お米は約4400㌔も集まったという=21日、日光市役所)

 日光市も23日、大震災に伴う「日光市災害ボランテイァセンター」を開設した。すでに16日には被災者支援ボランティアを募集。私も17日には日光市民活動支援センターを通じて登録していたが、この間、音沙汰なしの状態だった(22日に状況連絡メールを送ったはずと聞かされたが、私のパソコンでは確認できなかった)

 運営主体は日光市社会福祉協議会。同協議会と日光市民活動支援センターによると、被災者支援ボランティアには現在約110人が登録。約150人までにはなる見通しがあるという。センターの立ち上げに準備がいるのは当然だが、それにしても、大震災から2週間近く。ようやくという感じだ。

 理由のひとつは日光市が大被害に遭い、避難してくる日光市民を急いで救援するため、ともかくセンターを立ち上げなければならない、といった大災害ではなかったことだろう。だが、県や市が設置した避難所には福島県などから避難者が次々と。奥日光・中宮祠にも要介護者などの避難が報道されてきた。

 県との連携のありかたもあるのだろうが、日光市のホームページをみても、そうした避難してきた人々が、市内にどのくらい、不安な日々を送っているのか、どのようにフォローしているのか、避難所の運営や生活は心配するほどではないのか、手を差し伸べなくともいいのか。きちっとはわからないできた(少なくとも私には)。 

 結局、現在、根室スポーツセンターに153人、アジアンガーデンに39人、大沢地区センターに31人、かたくりの湯に16人、避難しているという。避難者のきちんとした人数を聞いたのは初めてだ。だが、さらに親類など縁故で市内に避難している人たちもいる。日光市内の全体ではどのくらい避難しているのか、つかんでいるのだろうか。そして、その人たちへの対応は。

 いずれにしろ、日光市に避難してきた人たちのフォローやケアが必要になる。日光市災害ボランティアセンターが設立されたことで、避難所の状況をつかみながら、そうした対応方針もうまく打ち出すことになるだろう。

 支援活動は長丁場になる。市職員、市社協職員、市民活動支援センター、さらに今市・日光JCのみなさんも苦労していると思うが、頑張って欲しい。そして、お役に立ちたいと思い、手を挙げた市民ボランティアを(私も含めて)、どしどし手足として使って欲しいと思う。

 以下は「日光市災害ボランティアセンター開設」と「日光市民の大震災支援物資の協力結果」を日光社会福祉協議会と日光市公式ホームページからアップへ。 

日光市災害ボランティアセンターを開設しました(日光市社会福祉協議会ホームページから)。

2011/3/23 19:50

 被災者支援のためのボランティアを一元的に管理し、要支援者及びボランティア希望者の調整、避難所、被災地への派遣等を効率的に行うため、日光市地域福祉防災計画に基づく「日光市災害ボランティアセンター」を開設しました。

【設置主体】 日光市

【運営・管理者】 日光市社会福祉協議会

【運営スタッフ】
 日光市生活安全課職員
 日光市社会福祉協議会職員
 日光市市民活動支援センター(指定管理者 NPO法人おおきな木)スタッフ
 社団法人日光青年会議所
 社団法人今市青年会議所

【設置場所】日光市社会福祉協議会本所
  〒321-1261 日光市今市511-1
  電話0288-21-2759

【センター業務】
 ○ 災害ボランティアの受付に関する業務
 ○ 市内避難所の避難者の要望等の集約
 ○ ボランティア希望者と避難者のニーズのマッチング
 ○ 県内、県外避難所及び被災地の情報収集
 ○ その他ボランティアによる被災者及び避難者の支援に関する業務

(東北関東大震災)支援物資の協力に対するお礼(日光市公式ホームページから)

今回の大地震に伴う福島県相馬市等の被災者への支援物資につきましては、3月19日(土曜日)~3月21日(月曜日・祝日)に市役所本庁において受け入れを行い、市民の皆さんからたくさんのご支援、ご協力をいただきました。ありがとうございました。

お預かりした物品等については、相馬市へ必要な物資をお届けしたほか、矢板市、さくら市へ飲料水を支援し、福島県から受け入れした方々のための市内の各避難所(大沢地区センター、かたくりの湯、今市青少年スポーツセンター、アジアンガーデン)にもお届けしました。

今後、不足の物品が生じた場合には、募集内容やその受け入れ等について改めてお知らせします。

ご協力いただいた支援物品(※ 主なもの)

  • 水(お茶等):約7,100本
  • お米:約4,400kg
  • 毛布等:約700枚
  • タオル:約16,600枚
  • 食料品・日用品等:多数

お問い合わせ

所属:企画部総合政策課

電話番号:0288-21-5131

ファックス番号:0288-21-5109

2011年3月23日 (水)

石巻市の仲間へ支援物資積み日光からピュ~と M9・0東日本大震災(13)

Dscn1008(「支援物資 輸送車 FROM日光」のステッカーを張った日光を中心に栃木県内の仲間から集まった支援物資満載の車=23日夜、日光霧降高原)

Dscn0991_2 (急きょ、木造の荷台を取りつけた車に、宮城県石巻市への支援物資を積み込むコサカさんとジンちゃんら=23日夜、日光霧降高原、写真・上、下とも)Dscn0996

 日光から24日早朝、大震災で大変な被害を受けた宮城県石巻市の仲間に向けた支援物資満載の車が出発する。石巻市に実家がある東京の大学生との縁から。大震災のその時、彼の実家はこうだった。

 「僕の家族、母親と祖母は地震の瞬間、石巻にある自宅にいた。幸運なことに、当日の夜、一瞬だけ電話が繋がった」

 『地震が来てから、近くの体育館に避難しようと、おばあちゃんを車に乗せて、出発しようとしたの。そしたら、向こうに波が見えて。駄目だと思って二階に駆け上がったその時、一階は水に飲み込まれてしまった。ライフラインは途絶え、二階に孤立してる。陸が今、居るところで出来ることをやって』(「天の邪鬼日記」から)。

 その彼は石巻市でボランティア活動を進めているが、「まだ足らないものがある」と「SOS」が日光に寄せられた。

 それに答えようと、急きょ、私の友人でもある日光霧降高原の幾何楽堂のコサカさんがブログなどで急告。それを知ったブロガーが転載したり、口コミで伝えたりしたところ、日光市や県内からわずか1日で車に積み込みきれないほどの支援物資が集まった。

 出発は24日午前6時。向かうのはコサカさん、徳さん、トモちゃん、お店のオープンから石巻市とつきあってきたという日光の古民家酒房・菜音(ZION)の4人の仲間たち。

 石巻市の2カ所に支援物資を届け、さらに仙台市に入り、食料を求めている家族にも食べ物を届ける。そのまま日光にUターンしてくるが、戻れるのは、24日深夜か25日未明になるかもしれないという。

 コサカさんが22日のブログに掲載したのは、以下の内容

今日一日限りのお願い 

明日の早朝6時仙台石巻に向けて出発します
現地にいる友に聞くと支援物資はだいぶ行き届いているらしいが

やはり足りないものがありました

あちこちで犬や猫が餓死状態
こんな食べ物が少ない状態の中でペットまで回らないのでしょう

なので動物専用のペットフードがあればありがたいそうです 同じ大切な命です
次に下着、靴下 男女とも
アルコール消毒ハンドウオッシユ
ラジオ
この4点のみ

幾何楽堂まで至急支援お願いいたします

夕方6時に荷物を積みます!夕方6時までは買い出しに出かけますので
荷物を玄関前に置いてくださるか、6時に集合宜しくお願い致します
Dscn0977 (多くの仲間たちから集められた宮城県石巻市への支援物資を手分けして、種類別に仕分ける仲間たち=23日夜、日光霧降高原・幾何楽堂)
 
 私は最初、ブログ「日光を漂ふ」で知り、ご近所にも連絡。ナイトウさんはすぐにズボン下やシャツに靴下を我が家へ。さらにペンション「ポコ・ア・ポコ」の経営者はペットフードを幾何楽堂に届けた。
                                                 
 幾何楽堂に連絡をとると、「ラジオが特に欲しい。それに携帯を充電するインバーターも。さらに食べ物も」ということだった。なので、それ~と、ホームセンターやスーパーへ。ホームセンターでは同じ目的で買い物に来ていた仲間にも出会った。
                                                 
 夕方、幾何楽堂に着くと、支援物資を持ち込む仲間が次々と。中には氏家町から1時間もかけてやってきた仲間も。あるわわるわ。ドッグフードなどペットショップが開けるのではないかというくらいのペットの食べ物がズラリ。
                                                          
 さらにジュース類、カップラーメン、パン、米、落花生、お菓子、お酒(洋酒、日本酒)、洗剤、靴下、下着、ズボン下、防寒ズボン、子供用品、赤ちゃん用品、ラジオ、懐中電灯、電池、へッドランプ、ティッシュペーパーなどなど(これでも私が見たものだけ~)
                                                 
 それらを手分けして「食品」「衣類」「ペットフード」「飲料品」などに仕分け、それも男女別、子供用などに分け、ダンボールへ。箱にはマジックで品物名を記し、ガムテープで閉じていく。それらを手渡しで車へ。2時間ほど過ぎると、それらの作業も一段落した。
 
Dscn1014_2ご近所のナイトウさんと「砂時計」が、急きょ集めた石巻市への支援物資リスト
 
 支援物資は予想以上に多かったため、一部は積み残しに。現地に向かう4人が被災地の現状を把握したうえで、さらに2回目の支援物資輸送も考えることになりそうだ。 
 
 と、このこのブログを書きこんでいたら、幾何楽堂が23日のブログで、支援物資の呼びかけに、すぐに仲間が反応し、思った以上の支援物資が集まったことを感謝する書き込みをしていた。以下にそれを示しておきましょう。
みんなありがとう!
幾何楽堂のリビングが支援物資で埋め尽くされた
予想をはるかに超える量

明日朝 愛車にたっぷり物資と人を乗せ出発します
わずか1日でこんなに・・・
人の力は凄いです
皆の優しさを感じます

とっても小さなことかもしれませんが
やがてこの波は大きくなります

日光のみんなの気持ちを伝えてきます

動物だけでなく
人もまだまだ食べ物が足りない
違う方からそんな連絡が・・・
ギリギリで食料も確保しこちらも責任もって渡してきます

皆さん本当に有難う
詳しい今日の出来事は砂時計さんのブログにのるはずです
私が寝たころに。。。

2011年3月22日 (火)

被災者無料受け入れの旅館・ホテル、長野、沖縄の両県も打ち出す  M9.0東日本大震災(12)

Dscn0965(被災地・福島県相馬市を救援するため、日光市民が提供した5品目の物資のひとつ「栃木米」などのおコメの山=21日、日光市役所の救援物資受入所)

 観光庁が 21日、避難所暮らしを強いられている被災者を1カ月程度、受け入れる旅館・ホテル2万9千人分を確保したという朗報は、さっそく21日のこのブログでアップした。このニュースの核心は1泊3食付き5千円の費用と宿までの移動にかかる費用を全額、公費で負担するというものだ。

 被災者をなんとか救いたいと思う旅館・ホテル、ペンション、ロッヂ、ゲストハウスなどの経営者は日光など各地にいるだろう。現に私が暮らす日光霧降高原でも、先行きが不透明なのを承知で、そのようにやろうと表明している友人の宿泊施設経営者もいるほどだ。

 だが、光熱費や食事代などの実費は、どうしても、かかってしまう。それも確かな現実だ。今回のニュースは、そうした悩みを一挙に解決する施策だと思う。

 つまり、心身ともに疲れきっている被災者にとっても、善意からなんとか手助けしたいと思っている宿泊施設経営者にとっても、願ったりかなったり。本来、国・政府はこうした方針を打ち出し、実現させることで、国・政府なのだと思う。

 被害自治体は混乱状態であるため、この施策を裏づける災害救助法の運用がすんなりいくとは限らないこともあるだろう。それでも、長野県は当面、県の予備費から支出し、足らなければ、補正予算も視野に入れているという。

 こうした柔軟な対応をとることが、非常事態のときの、それも「千年に一度」の大災害時の自治体がとるべき道だと思う。起きたこと自体が「初めて」のことなのだから、「初めて」のことをやらざるを得ない。そういう覚悟が必要になるのではないか(私にしてもそうなのだが~)

 観光庁の方針とセットになった各県の動きを、ネットから、さまざまに検索していくと、とくに長野県と沖縄県の方針が、私には明確でわかりやすかった。それを、地元紙「信濃毎日」「沖縄タイムス」の報道からアップする。

 さらに鳥取県の対応について、地元紙「日本海新聞」から引用してみた。今ある課題に対応する、こうした緊急方針を全国の各自治体がぜひ、次々と打ち出してもらえればと思う。

 時間経過で、当然、解決すべき課題は次々と変わっていくが、今はいかに大変な災害に遭った被災者を、東北3県のような大災害ではなかった関東や中部、関西など西日本が、いかに受け入れていくか。救援物資を届け、援助隊や行政、ボランティアが緊急対応に当たる一方、避難してくる人たちを受け入れていく。今はそれなのだと思う。

県内、被災者1万人超受け入れ可能-と阿部知事

長野県・信濃毎日新聞・3月22日)


 県は21日、東日本大震災の被災者を市町村や旅館・ホテルが受け入れた際の県の費用負担額などを定めた「被災者受け入れ方針」を決め、市町村などに伝えた。例えば1泊3食付きで5千円を上限に県が負担する。阿部守一知事は取材に対し、ホテル・旅館などを含め、県内で1万人超の受け入れが可能-との見方を示した上で「下水内郡栄村と東北地方の被災地支援に全力で取り組む」と述べた。

 県が被災者受け入れ時の費用負担の枠組みを示さないと、施設を提供する側に困惑が広がると判断、方針づくりを急いだ。災害救助法に基づき県は費用負担分を被災自治体に求めることができるが、被災自治体は依然混乱が続いているため、県は当面、予備費から県負担分を支出する。不足の場合は予算の補正も視野に入れている。

被災者3万人受け入れ 県ホテル旅館組合

(沖縄県・沖縄タイムス・3月22日)

 県ホテル旅館生活衛生同業組合(宮里一郎理事長)は21日までに、24日から4月30日までの期間、東日本大震災の被災者を対象に、加盟施設に1人1泊5000円(3食付き)で受け入れる方針を固め、提供可能な客室数の把握を急いでいる。21日現在、36施設から申し出があり、提供可能客室数は延べ1万1548室、収容可能人数は3万253人に上っている。受け入れ施設はさらに増える見通し。国と県が宿泊費を負担し、被災者は無料で利用できる。

 同組合は加盟する宿泊施設約300カ所に受け入れを打診。受け入れ可能な期間や、2人、3人、4人以上など客室の種類別に集計を進めている。対象となる被災者は被災地の福島、岩手、宮城の三県が調整するという

鳥取県が被災者受け入れ表明 一時遠隔避難所を設置

(鳥取県 日本海新聞・3月19日)

 鳥取県は18日、東日本大震災で被災し、避難所生活を送る宮城県の被災者のために県内の体育館やホールに一時避難所を設置、2千人を受け入れる方針を表明した。被災地でライフラインが復旧し、仮設住宅が整備されるまでの間、一時避難所に滞在してもらい必要な生活支援も行うという。宮城県の被災者の意向確認や輸送手段の確保などを経て、被災地の送り出し準備が整い次第、避難所を開設するとしている。

 同日、宮城県の村井嘉浩知事と電話で話した平井伸治知事が避難所の過酷な生活実態を聞き、受け入れを申し出た。同日中に関西広域連合からも鳥取県に対して被災地住民の受け入れ意思の照会があり、同連合で宮城県への支援を担当する鳥取県が受け入れをいち早く表明した

2011年3月21日 (月)

被災者無料の旅館・ホテル、2万9千人を全額公費負担で  M9・0東日本大震災(11)

Dscn0953 (「東日本大震災の被災者に私たちは何ができるか」、と話し合われた日光霧降高原の「観月祭」の集い=20日夜、霧降高原「幾何楽堂」で) 

 東日本大震災では、いかに大勢の被災者を、より快適なところに迎え入れられるか。それが今の課題だ。日光市では今は、県や市の公の施設で受け入れているが、いずれ、それだけでは足りなくなる。

 観光地・保養地である日光は、旅館・ホテルはもちろん、ペンション、ロッヂ、ゲストハウス、キャンプ場、東京各区の林間学校や企業の保養所など、さまざまな宿泊施設がある。さらに多くの空き別荘も。市内の各自治会には、多くの公民館もある。

 さぁ、それをどのような段階で、どのような方法、どのような運営で生かしていくか。それを早急に考える段階にある。たとえば、私が暮らす東武建設の別荘地では別荘の建物が約200あるというが、そのうち定住者は約25世帯。残りの175の別荘は空いているはずだ(早くても5月連休までは、各オーナーは使わないだろう)

 公の施設は当然として、公民館、保養所、林間学校、キャンプ場、空き別荘も有力な候補ではある(すでに行政が動く前に、日光では、無料で受け入れようと表明しているロッヂや、そうしたことを進めようとしているキャンプ場などもある)。

 ただ、その前に旅館・ホテル、ペンションなどが、うまく使えたら、さらにいいはず。そんなことを考えていたら、人気ブログ「日光ふぃふぁ山荘」が20日のブログで、群馬県・みなかみ町の事例を紹介していた。

 みなかみ町と観光協会が被災者のために、無料の宿泊1000人分・1カ月を用意するという内容。一人1泊3食付き3000円。30日だと一人9万円、その1000人分の約1億円を補正予算化するという内容だ。

 それを私も伝えようとしていたら、ネットで観光庁が避難所暮らしを強いられている被災者を約1カ月、2万9千人分を受け入れる旅館やホテルを確保した、という記事に出会った。このように、国や町などが、次々と新たな対応策を打ち出している。

 世界の、日本の観光地である日光市も、災害救助法がどうのこうのといった法律論・財源論だけでなく、だれも経験したことがない大災害という非常事態であることを見据え、こうした流れを先取りするかたちで、被災者救援にあたって欲しい。そうした冒険も覚悟した先進的な取り組みが、いずれ、日光を大きく生かすことにもなるからだ。

 ということで、以下は本日のネットでの検索で得た最新情報や紹介したい情報のアップへ

 被災者向けの宿舎、2万9千人分確保 公費で全額負担 (朝日新聞・3月21日19時29分)

 観光庁は21日、避難所暮らしを強いられている被災者を1カ月程度受け入れる旅館やホテル2万9千人分を確保したことを明らかにした。災害救助法に基づき、1人当たり1泊3食付き5千円の費用と宿までの移動にかかる費用を全額、公費で負担する。同庁は利用方法など詳細について被災県と調整を進めている。

 同庁によると、受け入れを表明した施設は秋田、山形、群馬県の80施設。同庁は全国旅館ホテル生活衛生同業組合連合会などを通じて、さらに全国の宿泊施設に協力を呼びかけている。

太平洋沖地震 被災者受け入れについて(観光情報まるごと水上ホームページ3月21日)

 みなかみ町は、東日本大震災の被災者をみなかみ町の宿泊施設で無償で受け入れることを決定いたしました。

 みなかみ町長は「東日本大震災で被災された方の、心と身体のケアに、みなかみ町が少しでも貢献できれば」と、また同観光協会長も「被災された地域には交流のあった場所も多い。観光協会としてできることをしたい」という事で受け入れを決定いたしました。

みなかみ町は被災された方1,000人の無料滞在受け入れすることになりました。
福島県いわき市の屋内待避指示が出ている方々、もしくは、家屋等が損壊されている方々、岩手県宮古市、下閉伊郡山田町、上閉伊郡大槌町、釜石市、大船渡市、陸前高田市の被災された方々を対象に受け入れます。

お問い合わせ先
            みなかみ町役場総合政策課 TEL  0278-62-2111

東日本大震災 熱海市など被災者支援 静岡
(産経新聞3月20日 7時58分)
 「温泉で心身癒やして」

 東日本大震災で避難所生活を強いられている被災者を支援しようと、熱海市は同市観光協会や熱海温泉ホテル旅館協同組合と共同で、被災者に市内の旅館やホテルに無料で宿泊してもらう計画を立てている。

 避難所生活が長引く中で、1週間程度でも熱海に宿泊して心身の疲れを癒やしてもらいたいとの思いからだ。熱海市は伊豆の国市や伊東市などの各市町とも調整し、伊豆半島全域で被災者の無料宿泊受け入れを呼びかけ、支援の輪を広めたいとしている。

 同市は週明けにも最終的な調整に入り、被災者向けの仮設住宅が完成する前の4月上旬にも受け入れを開始したい意向だ。県とも調整して、県と市、旅館、ホテルがそれぞれ費用を負担する形でバスによる往復交通費、宿泊施設を無料で提供する方向で検討している

雑記帳:被災者の宿泊受け入れ 群馬・みなかみ

(毎日新聞15日18時・25分)

 水上温泉郷で知られる群馬県みなかみ町は15日、宿泊施設と共同で、東日本大震災の被災者を無償で「3万人泊分」受け入れると発表した。1人30日間宿泊する場合、1泊3食付きで1000人分となる。

 町によると、宿泊施設に被災者1人あたり3000円を補助する。それ以外の経費は施設側に委ねる。町は補助費用などに必要な1億円の補正予算を組み、県を通じ受け入れを希望する被災自治体を募る。

 年間予算が約120億円の町にとって大きな額だが「困ったときはお互い様」と岸良昌町長。町観光協会によると、制度発表後、数時間で加盟112施設中18施設が参加の意思を示した。【奥山はるな】

Dscn0960 (「砂時計」もようやくガソリンを入れることができた東武日光駅前のスタンド=21日午後3時ごろ

 

2011年3月20日 (日)

「かみさんの軽自動車は津波に流され、廃車です」  M9・0東日本大震災(10)

Dscn0936 (大震災直後の茨木県笠間市の詩人、磯山オサム君のメチャメチャになった事務所内部)

 私の学生時代からの友人でつくる同人誌『序説』の仲間では、福島県に暮らす安齋博君のことが心配なのだが、彼以外は茨木や栃木、群馬、東京など。とくに心配はしていなかった。ところが、茨木県笠間市に住む詩人の磯山オサム君も1夜だけだが、「避難所生活」するなどしていたのだという。

 それを伝える手紙が被害を示す写真コピーとともに私のところに送られてきた。笠間市の彼の事務所内部のメチャメチャぶりも、さることながら、彼の奥さんが、たまたま、当日は日立市にでかけていて、津波被害に遭っていたというのだ。

 手紙によると、彼の奥さんは津波で少しだけだが、けがを負ってしまったという。「かみさんの軽自動車は津波に流され」、廃車にせざるをえないことが、書かれていた。彼が奥さんと会えたのは、翌日の12日午前8時だったという(笠間市から日立市まで4時間かけて行ったという)

Dscn0937 (茨木県笠間市のエコスストアーの状態、磯山君の自宅近くだという

 手紙では彼の暮らす笠間の状況は以下のようだったという。

 「給水が連日5リットルまで。また停電が続き、やっと昨日(16日か)『ライフライン』がOKとなりました。電気が来ないのはなんとかですが、『水』は、まいりました。現在は、地区の被害を受けた建物のボランティア調査です」

 「水、デンチ(電灯)、ラジオ、ローソクは必要ですね」

  「茨木県内も、けっこう被害が多いのですが、報道が東北集中で、いわきや北茨木方面もひどい状態です」

Dscn0946_2 (これから使うことになると、私が20日につくった「被災者支援ボランティア」の名刺.。写真をクリックすると、拡大・鮮明に)

 そうか、日光に来るのに車で1時間半だという茨木県笠間市で、そんな状態だったのか。電気、ガス、水道の「ライフライン」が復旧したのは、16日というから、11日から5日間、暮らしの生命線が絶たれていたということに(磯山君と奥さんにはお見舞いを申し上げないといけない、でも、奥さんの命があってよかった)

 私というと、本日は相馬市への救援物資を日光市役所に再び運び込むという用事があったのだが、外出せず。いや外出できず。というのも、ガソリンが満タンから今は半分ほど。少しでも節約しようと、あえて、自宅から一歩も動かず。

 いずれ、<日光市被災者支援ボランティアの出動要請がある>。そのときはガソリンはなんとかしないといけない(なんとかなると思う)。東北、とくに福島から新潟、山形、茨木、さらに栃木県に避難してくる被災者はさらに増えてくる。埼玉県にも集団避難しているぐらいだから。

 そのとき、被災者の世話をやくボランティアが必要とされる(すでに県内各地で活動しているが)。ここ日光でもすぐにその場面が。ということで、さらに多くの日光市民が、日光市被災者支援ボランティア(登録の呼びかけ内容)に登録を(連絡先はアップした名刺に)。

2011年3月19日 (土)

くじけないで!東北 負けるな!日本  M9・0東日本大震災(9)

Dscn0900_2 東日本大震災の被災地救援に向けたボランティア活動支援に募金箱いっぱいの小銭をそのまま募金する小学生。ボランティアたちから思わず拍手が起きた=19日、日光市)

 大震災の被災地に救援に出向くボランティアの活動支援を呼びかけた街頭募金が19日、日光市であった。NPO法人「おおきな木」など市民団体有志によるもので、私も登録したばかりの「被災者支援ボランティア」活動の一環として、参加した。

 日光市の郊外のスーパー前で正午からあった募金活動では、買い物客はまばらだったが、募金そのものは盛況。お店を訪れた大半の人たちが募金に応じていた。みんな、なんとか大震災の被災者を支援したい、そんな思いが感じられた。

Dscn0890 (県内外の被災地救援ボランティアの活動支援を訴える呼びかけ看板)

 募金を呼びかけたのは日光市の市中心部と少し離れた大沢地区のいずれもスーパー前。私は前日に日光市の市民活動支援センターから「助っ人が足らない」と話され、出向いたが、ボランティアはひとり、またひとりと増え、10数人に。

 もうひとつの市中心部では、お店の表と裏の2か所で行ったそうだが、参加したボランティアは大勢。それならと、助っ人が足らないといわれていた大沢の方に回ってきたのだという。

Dscn0895被災者救援活動資金募金箱にお札を入れる若い女性たち=19日、日光市)

 貯金箱ごと募金する小学生、集めていたらしい小銭をそのまま募金箱に入れる若い男性、お札をそのまま募金する若い女性、お年寄りも中高年婦人も、次々と募金していく。

 「今、頑張れと言われることは、かえってつらいかも」「そうだったね」。ボランティア同士のそんな会話から、「頑張れ 東北」と書いた募金箱を手にした日光市議は「くじけないで!東北 負けるな!日本。」と、呼びかけを切り替えて、声をかけていた。Dscn0892 (貯めていたであろう小銭をそっくり募金する働き盛りの男性=同)

 一方、19日のこの日は福島県相馬市からの求めに応じ、救援物資を市に寄せるよう呼びかけた初日。期間は21日まで3日間。「水」「生もの以外の食料」「米」「毛布などの寝具用品」「歯ブラシ・タオル」の5品目に限って受け付けるという。

 私が隣近所の2軒にも声をかけたところ、「ぜひうちも出したい」。なので、募金活動を早々に切り上げ、霧降高原へ。その準備をしていたところ、「ブログ『砂時計主義』を見て、さっき救援物資を市に届けたが、提供したい品物がまだあるので、うちに寄って」という連絡が。

Dscn0902募金箱には「頑張れ 東北」とあるが、訴えは「くじけないで!東北」に)

 ということで、私と霧降高原の計4世帯の救援物資を届けることになった。4世帯が提供したのは、布団1組、毛布3枚、シーツ2枚、カップラーメン20個余、タオル10本、歯ブラシ160本(「150セット」も提供した近隣所も)、米5㌔、ポカリ2箱、マスク2箱、それにカップスープ、なめたけ、お茶など。

 日光市役所の救援物資受付(本庁舎1階バス車庫)に行くと、30㌔袋の米などがズラリ。家族連れで指定品目を届ける市民、さらに旅館・ホテルが大量の寝具類を届けるという場面にも出会った。

Dscn0919 (福島県相馬市への救援物資を提供する家族連れ=19日、日光市役所)

 私が行ったのは、もう4時半ごろ。日光市の担当者によると、救援物資が貯まったところで、すぐに相馬市へ。「きょうは、すでにバス3台がでているのです。急を要するので」。私は3日間、集めてから運び出すのかと、思っていた~(確かに急を要するのだから、その方がいい)

 ただ、救援物資の提供を求める告知がされているのは市のHP。「まだ多くの市民が知らないのではないか。防災無線でも呼びかけたらどうか」。私がこう促したら、市の担当者は「市内の主なスーパーなどに掲示しており、明日は地元紙・下野新聞にも掲載されるはず。持ち込みのピークは20、21日になると思う」

Dscn0925 (救援物資の受け付けには、ホテル・旅館から大量の寝具も持ち込まれた=同)

 市内のスーパーでは大震災後、すっかり姿が消えていた納豆が顔を見せ始めた。私はこの日初めて、納豆を買い求めた。カップラーメンもそれなりにある。少しは数日前のモノ不足が解消されたかな、と思っている。

 だが、相変わらず、電池やローソクは品不足のよう。とくにガソリンは深刻だ。この日、日光市内の数カ所のガソリンスタンドを回ったが、「休業」「品切れ」「休日」「ガソリンありません」など。大震災からもう1週間以上も過ぎる。そろそろ、出回ってきても、いいのではないか。そう思うのは、私一人ではないだろう。

Dscn0916_2市民から持ち込まれた救援物資を仕分けする日光市職員たち=同)

2011年3月18日 (金)

「遠すぎる春」に日光市も市民に支援呼びかけ  M9・0東日本大震災(8)

Dscn0873(「雪に覆われた宮城県南三陸町志津川地区」・朝日新聞17日夕刊から)

 今回の大震災で日光市が、市民に救援物資を提供するよう求めてきた。被災した福島県相馬市からの支援要請を受けてのもので、日光市が市民に支援を求めるのは今回が初めて。

 私が入っている日光市の霧降高原自治会の第4組(8世帯)が17日の話し合いで、「救援物資を求められた際に、何が用意できるか、自治会員のリストアップを」と、霧降自治会長に要望書を出したが、事態はさらに急展開(確かに悠長なことはやってられない~)。

 私はそれぞれの家庭で提供できる物品をリストアップ、求められた際に、それを自治会が集め、選び、段ボール箱に詰め、市に出していくことを想定していた。今回はそうではなく、直接、市役所に持ち込む方式に。それも19日から3日間のうちにということだ(この方が手間が省けていいのかもしれない)。

 ただし、今回は「毛布など寝具用品」「水」「米」など5品目。それはそれで、私も提供していくが、これだけで終わるとは思えない。というのは、この限定5品目にはジャンバー、コート、帽子、マフラー、手袋、防寒靴、ホッカイロなどの「防寒具」さえ、含まれていないため。

 いずれにしろ、日光市がこのように市民に呼びかけたのは、いいことだ。<私もなんとか支援したい>。そう思っていた市民は多いはず。大勢の市民が市の求めに応じていくことになるだろう。

 同時に第2、第3の「救援物資を」というのも、想定されるだろうから、それにも備えようと思う。さらに被災地や原発事故から避難してくる人たちも、さらに増えてこよう。今後はその方々へのさまざまな支援が求められる。それへの構えも必要だ(すでに一部は動いているが「)。

 ということで、私も17日に日光市の市民活動支援センターを訪ね、「被災者支援ボランティア」に登録した。日光市内で被災者支援の仕事があったら、いつでも、支援に出向くことにした(こんなことができる時間があるのも、ふだん「詩的生活」をしているからだが~)。

 ともかく、あの阪神淡路大震災をもしのぐ、こんな大災害は見たことも聞いたこともない(だれもがだが)。原発事故もそうだが、それだけに、それぞれの現場の対応も初めてのことになる。それでも、ふつうの市民・住民として、被災者にできる最大限のことをやってあげたいと思う。

このブログ「砂時計主義」を訪ねてくれている(少数の~)日光市のみなさんも、ぜひ協力を(「砂時計主義」は大震災後、連日、以前の約3倍の人がアクセスしています。大震災に対する思いのほどが、うかがえるようです)

以下は日光市が18日の公式ホームページに示した呼びかけだ。 

東北関東大震災に伴う支援物資の受付

東北関東大震災で被災した福島県相馬市から、日光市に対し、5品目の物品について物的支援の依頼がありました。
皆さんからの物品提供をお願いします。

物品の受付について

受付期間:平成23年3月19日(土曜日)~3月21日(月曜日・祝日)

受付時間:午前9時~午後5時

受付場所:日光市役所本庁舎1階バス車庫(日光市今市本町1)

受付品目

  1. 水(できるだけペットボトル入りのもの)
  2. 食料(保存できるもの)※生ものは避けてください。
  3. 毛布などの寝具用品
  4. 歯ブラシ・タオル

※現時点では上記5品目に限り受け付けます

 Dscn0862 (砂時計が「被災者支援ボランティア」の登録を済ませたを日光市の市民活動支援センター)

2011年3月17日 (木)

義援金集め実施、自治会で救援物資のリストアップも   M9・0東日本大震災(7)

Dscn0854 (被災者の支援についても話し合った私も加入している霧降自治会・第4組のご近所同士=17日、霧降高原)

 私が暮らす日光市霧降高原の自治会、霧降自治会の第4組(8世帯)の顔合わせが17日あった。新年度になり、組長交代、クリーン作戦やバーベキュー大会などの年間行事、子供会の資源ごみ集めへの理解などが話し合われた。さらに東日本大震災で被害を受けた被災者の支援についても、話し合った。

 霧降自治会としての義援金集めは17日までに回覧板で行われた。それぞれの家庭が被災者に向けた浄財を寄せ、4組では私が回覧の最後に。この日午前にあった4組の話し合いの場へ。

 この日の話し合いでは、大震災の直後、4組の組長が隣近所の安否確認を固定電話などで行おうとしたが、ぜんぜん通じなかったことが伝えられた。このため、(自治会全体の避難場所はあるにはあるが、かなり~遠い~)、「私たち4組の集合場所を決めたらいいのではないか」という提案があった。

 それを受けて、次の対応を互いに確認した。

①次の大地震の際は少なくとも各自治会員のいずれの家庭も両隣りについては、安否確認などを行う

②自治会員のお互いを確認しあうため、4組のごみステーションに集まることにする

③組長が4組の各自治会員と連絡をとるため、これまでの固定電話番号のほかに、携帯電話番号、メールアドレス、携帯メールアドレスの3点の個人情報を共有する。

 さらに被災者の支援、とくに救援物資を集めていくことについて話し合った。その際、霧降自治会からは、集めた救援物資を、現地に実際に届ける運送方法などがネックになるのではないかといった問題点があることが報告された。

 ただ、今回の場合は、市や県、自衛隊というルートが用意されていることが、16日に報道されているといったことを、私が報告した。話し合う中で、最終的に霧降自治会長に以下のように求めていくことにした。それを要望書にまとめ、4組の組長と、要望を強く求めた私も同行し、霧降自治会長に手渡した。

 すでに東京では個人や企業が持ち寄る救援物資を受け付けることが、報道されている(17日のラジオによると、その救援物資も被災地で不足している品々に限り、衣料などは足りており、除くとされている)。

 栃木県も日光市も現地と連絡を密にして、どんな品々が被災地に必要か、あるいは避難民に必要か、市民に早く示すべきだろう。それを受け、各家庭は自分のところが出せる救援物資を伝えることができる。すぐに対応できるよう、準備だけは早めにしたいと思う。

 問題は被災地、とくに福島原発事故からの避難民の受け入れだ。今後、さらに関東各県へ向かう被災者が増えていくことだろう。「地震疎開」が現実味を帯びてきている。全国各市では「市営住宅を今後、半年間、あるいは1年間、無料で提供する」といった施策を打ちだしているところがでている。

 過去に例のない、いや百年に一度、千年に一度という大災害に、行政も、民間も(旅館・ホテル経営者やペンション経営者など)、それぞれが、いかに大変な事態に遭ってしまった被災者を救えるのか。そのことを基本に資金問題があることは、承知しているが、その一点を見詰めて(ほんとうに)、対応策を考えて欲しい。

 

要望書

日光市霧降自治会会長さま

以下について、霧降自治会として取り組むことを希望します

東日本大震災の被災地(者)に向けた救援物資について、求めがあった際に提供していくために、何が用意できるか、各自治会員がリストアップしていく

2011年3月17日  霧降自治会 第4組 組長 

 

Dscn0857_2 (輪番停電でス信号機がストップした交差点で交通整理する日光署員=17日午後5時半ごろ、日光市で)

2011年3月16日 (水)

ラジオの震災情報に耳を傾けた初の夜間輪番停電  M9.0東日本大震災(6)

Dscn0848 (夜間輪番停電の灯りは、キャンドル、懐中電灯、ろうそく、薪ストーブなど=日光霧降高原)

 始まった輪番停電。その夜間停電(午後6時20分~午後10・00)が16日、日光霧降高原であった。私は第3グループで、宇都宮、下野、佐野、鹿沼、足利、小山、真岡、栃木の各市と同じグループだ。

 実際に始まったのは午後6時半ごろ。早速、懐中電灯、ろうそく、キャンドルを点火。さらに薪ストーブも。でも、やはり、電球の明るさとは雲泥の違い。それでも、非常事態の節電と思えば、なんということはない。 Dscn0844 (闇の中の灯りでは、薪ストーブも役に立ったが、明るさは思ったほどではなかった)

 懐中電灯の電池、とくに「単1」が必要なのだが、入手できなかった。2日前にあちこち回ったのだが、どこも「売り切れ」。あったのは「「単2」と「単3」。<そのうち時期が過ぎれば、棚に並ぶだろう>。と、勝手に楽観視。(そんなことで騒ぐのもばからしいから)あえて、それ以上、あちこち探さなかった。

 というのは、もともと、日光霧降高原の私の暮らしが、大きく云うと、「キャンプ生活」の延長上にあるため。ベランダにタープを立てたり、薪づくりや小枝ひろいをしたり。それにかつて、北海道で暮らしていたとき、1週間の旅でも、すべてキャンプだった。キャンプ生活のため、電池やガスの灯りの道具をそろえていた。Dscn0850 (「単3」3本の小さな懐中電灯が、意外や意外、居間を照らすのに、威力を発揮した)

  <キャンプ用品を引っ張りだせば、なんとかなるだろう>。そう思って、本日午後、物置をガソゴソ。電池式とガス式の「カンテラ」をいくつかチェックしてみた。が、時間経過で(かってのキャンプ生活からもう20年も経っていた~)、それぞれが劣化したのか、もう使えなくなっていた~。

 仕方がないので、手持ちの懐中電灯と薪ストーブで灯りを(灯油ストーブもあるが)。以前の仕事は夜間に動き回ることがよくあったので、懐中電灯だけはいっぱい(数えたら、7つ、8つぐらいあった。単1電池も。電池式ラジオも数台)。キャンドルはキャンプ用品の中にあった。

Dscn0828_2 (夜間輪番停電のために今回、買い求めた電池式ラジオとヘッドランプだったが、とくに使う場面はなかった)

  外は真っ暗。ほんのりした灯りに囲まれながら、大震災情報を続けるラジオの音だけが流れる。原発事故情報、避難民や被災民の受け入れ、ボランティア活動、避難民が今求めているもの、とくにガソリン不足がもたらしている困惑ぶり、などなど。それらにじっくり耳を傾けた一夜だった。

 輪番停電の終わりは午後10時ごろだと思っていて、のんびりしていたら、突然、パッと点灯。本来の予定よりかなり早い午後8時40分ごろだった(次回の夜間輪番停電ではもう少し工夫しなければと思ったことだった。ラジオは輪番停電の実際の始まりと終わりを報道できないのか、とも思ったことだった)。

  と、ここまで書いていて、日光市の16日のホームページを見たら、日光市と日光市社会福祉協議会が、被災者を支援するボランティアを募っていることが告知されていた。やはり、担当者もそれなりに時期を見ているのだなと思った。以下、その案内をアップへ。

 

被災者支援ボランティア希望者の受付を始めます

平成23年3月11日に発生した「東北関東大震災」に関連し、日光市と日光市社会福祉協議会では被災された方々を応援するため、ボランティア希望者の受付を始めます。

活動内容

被災者(地)に対するボランティア活動
※活動先や活動内容などの詳細については、決まり次第、申し込みをされた方にご案内します。

申し込み、問い合わせ先

日光市社会福祉協議会 電話:0288-21-2759
日光市民活動支援センター 電話:0288-22-2271
生活安全課市民活動推進係 電話:0288-21-5151

お問い合わせ

所属:市民環境部生活安全課市民活動推進係

電話番号:0288-21-5151

ファックス番号:0288-21-5104

被災者支援ボランティアの受付

2011年3月15日 (火)

自治会単位で義援金や毛布類などを  M9・0東日本大震災(5)

Dscn0836 (朝日新聞が15日付朝刊で宮城県南三陸町が津波にのまれる大変な様子を報じた)

 朝日新聞が15日付朝刊の最終面(24面)で、大変な写真を掲載した。住民の半数の行方がわからないという、宮城県南三陸町。この町が津波に襲われる前後を伝える記事だ。テレビやネットの映像もそうだが、さらに心配されていた南三陸町がどうなっていたか。津波に飲み込まれる一部始終が、これでのみこめた。そんな貴重な写真群だ。

 15日夜、ラジオでは「死者と行方不明者が1万人を超えたのは、戦後初めて」と報じている。それを聴きながら、このブログをアップしている。国から、自治体から、あるいは企業から、さまざまに支援の手が寄せられているが、さらに私たちに何ができるか。

 まずは義援金。市街地ががらくたに埋もれた更地になっている東北地方沿岸の各市町。当面の生活、さらに住宅の再建に向けて、膨大な資金が必要だ。すでに日光市社会福祉協議会も14日から義援金を募り始めた

 さらに必要なのは身体を温めるもの。まだ春本番まで遠い時期だ。東北地方の寒さを防ぐ毛布は欠かせない。①毛布、②布団、③座布団、④絨毯、⑤ジャンパー、⑥コート、⑦マフラー、⑧手袋、⑨帽子、⑩ホッカイロなどが考えられる。

 さらに被災民、栃木県はとくに原発事故から避難してくる被災民をどう受け入れていくのか。asahi・comによると、栃木県は16日から福島第一原発の周辺住民を受け入れることを明らかにした。「一時的な避難であれば、体育館などを使い、1万人は受け入れる準備をしている」という。

 日光市では私が住んでいる霧降高原(ペンション群が特徴の別荘地帯)のペンション経営者が「被災者をペンションで受け入れるにはどうしていくか」などについて、同じペンション経営者らと話し合いを始めているという。

 日光市では避難所として大沢地区センターを開設しており、約30人が避難しているという。市によると、今でも、というか、このところの流入で、ほとんど(全部だったか?)福島県から避難してきた人たち。日光市内のゲストハウスでも福島県からの避難者が泊まりにきているという。

 日光市は早く市内の宿泊できる公共施設を避難民のために開放する一方(これまで設置した大沢地区センターなどの避難所とは別に)、市営住宅の空き室、空き家や空きアパートなどの把握に手をつけることが必要だろう。 

 さらに市内のペンション関係者と連携し、どうすれば、ペンションをうまく利用できるかも検討を進めるべきだ(被災者の立場になって)。観光地だけに宿泊施設が豊かな市の特色を逆手に生かすことができるのではないか(市内のホテル・旅館もそうした検討対象になるだろう)。

 指摘するだけでなく、私も動かないと。今は私が入っている霧降自治会(さらに霧降東自治会、小倉山自治会、所野自治会も。いずれも日光市所野地区)単位で、ともあれ、義援金、毛布類を募り、現地に送る動きを起こすべきだ。そう考えていたら、お隣の霧降東自治会の会員のひとりも同じように考えていることがわかった。

 そうした提案をきのうからきょう、霧降自治会の組長や役員、会長らに話してみた(自治会予算のある部分は大震災に回すとかも)。すると、霧降自治会長によると、昨日の14日に旧日光市の自治会連合会長らの会合があり、「義援金募集を自治会で呼びかけたらどうか」といった提案を、霧降自治会長から自ら行ったという。

 たぶん、小さな自治会が住民同士で持ちあう義援金や毛布類は、そうたいした金額や物資量にならないだろう。だが、額や量は多い方がいいが、それだけが問題ではない。ふだんの暮らしの基本単位であるコミュニティの「自治会」が、そうした支援の動きを、一軒一軒の住民自らが行うことが大事なのだと思う。

 被災者に対し、生活者から生活者へ。自治会から現地の自治会の住民へ。100年に一度、あるいは千年に一度の今回の大震災。この場面で、そうした行動をあたりまえの市民、ふつうの住民が起こすことが大事だと思う。

 「自治会」が贈ることで、そんな思いのメッセージも送ることができるはずだ。自治会に加入していない別のペンション経営者はこの話に「それなら、うちは毛布はあるいし、義援金も」と、協力を惜しまないという。「自治会+霧降高原住民有志」ということでもいいから、こうした考えを実現させたいと思う。

 ともあれ、日光市社会福祉去議会の義援金募集の呼びかけのアップへ。 

日光市社会福祉協議会

東北地方太平洋沖地震義援金の募集を始めました

2011/3/14 17:32
 3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震は、生命や身体、または家屋等に深刻な危害を与え、地域に暮らす人々の生活に大きな影響を及ぼしています。
 日光市及び日光市社会福祉協議会では、被災された方々を支援するために義援金を募集することになりました。
 みなさまのご協力をお願い申し上げます。
【募集方法】
 募金箱設置及び窓口での受付
 *免税措置、領収書発行を希望する方は、本会・本所までお問い合わせください。
【募集期間】
 当面の間、期間は設けずに実施します。
【送金】
 日本赤十字社栃木県支部を通じ、現地の義援金配分委員会を経て被災者に配分される予定。
【実施主体】
 日光市/日光市社会福祉協議会

2011年3月14日 (月)

「長期戦になりそう」と福島県の友人 M9・0東日本大震災(4)

Dscn0832 (14日、福島県の友人から私の携帯電話にようやく届いた安否情報)

 私の学生時代からの友人で同人誌『序説』(「砂時計」が事務局)の同人でもある、福島県の安齋博君(「砂時計主義」で彼の「切れ切れな日常」を何度もとりあげている)と、ようやく連絡がついた。固定電話も携帯電話も、何度かけても、まったく通じない。このため、昨日13日にパソコンメールで、安否を問いかけていた。

 私が送ったのは「どういう状況になっているか、何かして欲しいことがあるか」など。返答があったのは14日午後遅く。パソコンの方ではなく、携帯メールで。「有難う。携帯は繋がらない。近所の方々、親戚、知人で頑張ろう。いつまで続くのか分からない。長期戦になりそう」。

 これに私は「なんとか元気なようで安心しました。長期戦でしょう。心強く耐え抜いてください」と、彼にエールを送った。彼が暮らしている福島県は国内初の原発爆発事故が起きている。そのなかで(彼のところは少し離れているが~)、「長期戦」を覚悟した生活に立ち向かうことがわかり、やや安心したところだ。

Dscn0790 (第3グループの「輪番停電」に備えた日光の中華料理店。ただし、第3グループは14日のこの日、実施されなかった)

 この14日は輪番停電の初日。結局、第5グループの実施にとどまった。しかし、日光市内の各店舗では、それに備え、「お知らせ」「お客さまへ」などの告知をし、理解を求めていた。

 日光市は当初第1グループ(午前6時20分~10・00と午後16・50~20・30)とされていた(この日の朝刊でも、そう報道されていた)。ところが、どういうわけか、実際は第3グループ(12・20~16・00)になっていた(私もこのあたりの経緯がわからない)。第3グループだと、わかった中華料理店では、それに合わせた「お知らせ」を出していた。 

  Dscn0798_3 (「輪番停電」が第1グループだという最初の情報のまま?、営業時間を決めたと思われる日光の店舗)

 一方、第1グループと認識していた(私もそうだったが~)、別のお店では、本来の停電時間帯を営業時間にしていた。情報が錯綜し、最初の情報?のまま、対応を、決めた可能性があるみたいだ。

 このように輪番停電の情報がきちんと伝わらず、現場では(生き死にの問題ではないが~)、混乱を招いたようだ。東京電力は早めに方針を地域に伝えるべきだ。この非常事態に節電に協力することは当然だと、だれもが思っているのだから。

Dscn0817 (一部のガソリンスタンドでは、給油が再開されている=14日、日光市内)

 ガソリンがきちんと出回っていない状況は確かにあることはあるが、14日は日光街道などでは、いくつかのスタンドが給油を続けていた。私はたくさん消費するわけではないが(それでも霧降高原から片道15分の旧今市市内に出掛ける必要もあるので)、「満タン」にはしておいた。

 海江田経済産業相が14日、被災地でガソリンや軽油の入手が難しくなっているため、民間備蓄の3日分、126万キロリットルを放出すると、発表した。という朗報を、走らせているマイカーのラジオで聞いた。

 日光のように被災地から遠く離れていても、スタンドで実際に「本日は終わりました」といった告知が出されると、不安に覚えるのは仕方がないだろう。その意味で、この政府の緊急対応は歓迎したい。これで被災地でガソリンが出回ってくれれば。そう思ったことだった。

2011年3月13日 (日)

人知も及ばない超巨大地震の痛み  M9.0東日本大震災(3)

Dscn0775 (13日夕、行きつけのガソリンスタンドの告知=日光市中鉢石町)

 「人間の歴史は地球の歴史からみれば、ほんのわずか。自然には人知が及ばないところがあると痛感した」

 想像を超えた東日本大震災について、専門家はどのようにみているのか。注目していたところ、13日付けの朝日新聞が「破壊力 人知超える 東日本大震災 専門家に聞く」として報じている。そこで、京都大防災研究所地震予知研究センター長を2001~2005年に務めた京都大名誉教授・梅田康弘さんが、今回の地震について、こんな受け止め方をしている。

 ローラーでひかれたような街、いや、絨毯爆撃で跡形もなくなったような惨状、原発の建屋爆発、住民の半数以上が行方不明となった自治体などなど。地震の規模もM8・8からM9・0へ。エネルギーは関東大震災の約45倍、阪神大震災の約1450倍という。もう想像を絶する力が加わったということなのだろう。

Dscn0781 (たまたま寄った日光の牛丼のお店では、食材不足などでメニューが限定されていた)

 専門家でさえこうした見方をしている今回の超巨大地震。そこでの国内初の原発事故だ。「想定外」と云う言い方が禁句なのは、いうまでもない。こうした原発を推進してきた人々の傲慢さに大きな警告を突きつけたということだ。原発の安全神話の幻想も爆発と同時に吹き飛んだ。日本の原発政策は大きな曲がり角を迎えた。それが今、私たちの目の前で起きている。

 それと、私も痛感していることだが、携帯や電話が通じないこと~通じないこと。岩手や福島に友人がかなりいるので、安否確認をとりたいが、それがかなわない(岩手は本日夜、固定電話で通じた。福島はメールを送ったところだ)

 と、思っていたら、朝日新聞の「声」欄で、やはり、そのことについての厳しい声が。「本来電話の持つ意味とは話をすることではないでしょうか。緊急時につながらない電話など何の意味もありません」(神奈川県藤沢市の47歳の運送業)

Dscn0785 (立ち寄った日光の「セブン・イレブン」では13日から義援金を募り始めていた)

 地震に伴う余波は海なし県の栃木、日光にも。すでに12日からスーパーの店先からパンが消えていたが(これは大手食品会社が被災地に優先して配送しているためとか、それはそれでいいと思う)、今度はガソリンが消えてきた。

 13日、友人が「スタンドではレギュラーはなく、ハイオクのみ」と言ってきたので、私も街へ。ところが、いつも寄るスタンドでは「本日は終わりました」の掲示が。聞くと、午前中に終了。午後から夕方まで100台以上の人たちにガソリンがないことを伝えた。タンクローリー車が来ないのだという。

 私はまだタンクの8割ぐらいあるので、無理にガソリンは求めず。その代わり、昼間、ストーブを点けておくための灯油を3缶(18リットルを3缶)求めた。薪ストーブの薪もそうだが、春本番まで暖房は最低必要だ。ともあれ、薪と灯油の最低量だけは確保できたことに。

Dscn0788 (日光のコンビニでは、私もとりあえず、釣り銭を「義援金募金」へ)

 この13日気づいのは、スーパーに行ったら、パンはもちろんだが、納豆も消えていたこと。さらに東北地方への宅配便は受け付けないという告知があったこと。お店によると、この方面の郵送ができないのだという。

 さらに牛丼屋さんでは、食材が届かないこともあるが、天ぷらを揚げているときなどの余震を警戒。注文は特定メニューのみ限っていたことだ。それでも、店長さんは「停電などの被害に遭った県内のほとんどが休業。私のところはなんとか提供しようと継続しているのです」と話していた。

 いやはや、大変なことに。救いはコンビニで今回の地震の「義援金」を募っていたこと。お店に聞くと、きょう13日から店頭に張り出した。私も早速、お釣りを「義援金募金」へ。いずれにしろ、義援金活動はもっと広範囲に、そしてたくさんの資金を集めないといけない。もちろん、私もできる限りの協力をしていくつもりだ。

2011年3月12日 (土)

被災地から遠い日光霧降高原だが M9・0東日本大震災(2)

Dscn0770 (「東日本大震災」などで巨大地震を報道した12日付の新聞各紙朝刊)

 この巨大地震、新聞はどう報じているか?。そう思った12日、地元紙「下野新聞」を手にとると、大きな見出しが。「東北で震度7 国内史上最大M8・8 津波、火災、死者多数」。ふだんとっている朝日新聞は?。我が家のどこにも見当たらない。

 新聞販売店によると、交通網の乱れなのか、朝までに日光の新聞店に届かず、配達できなかったという。災害を報じる新聞自身が災害で読者に届けられれないという、皮肉な結果となった。

 ふだん朝日新聞を読んでいるご近所にも、当然届いていないという。チラシと共に入っていたという新聞販売店の「おわび文」を見せられた(私は気がつかなかった~)。ともかく、この日の新聞だけはその日のうちに読まないと。なので、直接、その販売店へ。朝日新聞を2部(ご近所に手渡す分も含め)、それに毎日、日経、産経の各紙も。

 このあと、買い物に寄ったスーパーに下野新聞の「号外」が積まれてあったので、それもいただくことにした。この「号外」の大見出しは「死者不明、千人超 5県で21万人避難」。(13日午前零時11分、asahi・comでは「死者686人、不明641人」と報じている)。

 各紙の社説や論説を読み比べてみたが、大筋ではほぼ同一。「国をあげて救命・救援を」(朝日)、「救出、復旧に総力挙げよ」(毎日)、「考え得る限りの手を打て」(下野)といったトーンだ。

 朝日の社説について云えば、最後に避難が難しい高齢者も多いことから、ふだんからの助け合う仕組みづくり、建物や土木構造物の耐震化の促進、避難態勢の整備を強調している。だが、そうした指摘は以前からなされていたことだ。特段目新しい、指摘や主張ではない。

 むしろ、社説の途中にある「何万人もの人が家に帰れなくなったのも初めての経験だ」という首都圏の「帰宅難民」についての言及。さらに被害が東日本一帯にわたっていることで、「広域にわたる救援態勢をいかに築くか、これも日本が経験したことのない試練だろう」という視点。これなどが今回の巨大地震がもたらした特徴点だろう。

 その「帰宅難民」については、首都圏だけではなく、栃木県、それも私が暮らしている日光霧降高原でも例外ではなかった。きょう、ご近所宅に寄っていたら、その家の奥さんがそうだったという。

 それによると、奥さんは11日は東武線で栃木から日光へ。地震が起きたときは列車の乗客だった。ところが地震で列車はノロノロ運転で鹿沼駅へ。そこで運休となったという。新栃木から新鹿沼まで約2時間もかかったという(途中にある駅は5つだけだが~)。

 「帰宅難民」となりそうだったのは、ここから。公衆電話も携帯電話も通じないため(通じれば、霧降高原からマイカーで家族が迎えにきてくれる)、やむなく、鹿沼で一夜過ごす覚悟を決めた。財布の中身から、ビジネスホテルを探したが、なかなか見つからない。

 そうこうするうちに、大勢の列車の乗客が(中国の観光客らも含め、50人ほどだったという)ゾロゾロと歩いていく。東武鉄道不通のため、鹿沼市が鹿沼高校の体育館を避難所として開設。その体育館に向かうところだった。

 鹿沼高校の校内に入ったところで、ふだん日光で見かける特徴のある色彩のワゴン車を見かけた。日光市でよく知られた製菓会社のワゴン車だ。思わず「日光に行きますか?」と声をかけた。その車は同校に通っている生徒を日光市の親が迎えにきたところ。このため、運よく同乗させてもらうことができたという。

 とはいえ、その親子の自宅は日光でも宇都宮に近い大沢。霧降高原はその大沢から2社1寺方面へ10数キロも行かなくてはいかない。それでも、わざわざ、足をのばし、霧降高原の自宅まで送り届けてもらったという。

 ということで、一時は鹿沼で一夜明かすことを覚悟していたご近所の奥さんは、午後7時ごろには(もう少し前だったか)、無事、霧降高原の自宅に戻ることができたという。栃木県の「帰宅難民」の一人になるところだったが、製菓会社の親切な社員(だろうと思う~)のおかげで、ことなきを得たという(奥さんは「それはもう感謝です」)

 被災地から遠い日光でも、こうしたエピソードが。それでいえば、きょう夕方、日光市内のスーパーに寄ったら、パン売り場のパンはほとんど品切れ。地震の影響でパンが入ってこないのだという。そのお断りがパン売り場に掲示されていた。巨大地震が食糧の配送にも影響を及ぼしていることがわかった。

 

 

 

2011年3月11日 (金)

震源地かと思ったほどの大地震だった M9・0東日本大震災(1)

Dscn0741 (大地震で玄関の本棚から書籍などが落下した=11日午後、日光霧降高原)

 オムレツをつくろうと、タマゴにコショウとシオをふりかけようとしたところー。11日午後2時46分ごろ、「ドドドドー」、と始まった。だんだん揺れが大きく、横揺れへ。そのうち収まるだろうと、思っていたのだが、揺れはどんどん大きくなる。いつまでも、といった感じで、なかなか終わらない。ともあれ、居間の灯油ストーブを消しながら、<これは何なのだろう、まさか日光が震源地の大地震か?>(昔、今市地震というのがあったので)。そう思って居間の本棚に目をやると、「ガタガタ」と。

Dscn0744 (台所では棚にあったおぼんや箱などが落下、コップやとっくりなど数個が割れて散乱した)

 その居間の本棚から棚の上に置いてあった(棚の中ではなく、空いたところ)書籍やCDが次々と落下してくる。本棚が高いので、ねじで何箇所か打ち付けるという防災対応はしているが(この夜、さらに蝶つがいを増やし、万全に)。どうも気になり、両手で支えることに。そのまま、しばらく揺れに耐えていたところ、ようやく収まってきた。台所ではおぼんや箱が散乱。食器戸棚が開き、コップやとっくりが落下し、いくつかが割れていた(私の好きな形のとっくりも、やられてしまった)。

Dscn0739 (居間でも本棚から書籍類が次々と落下し、散乱した)

 ラジオをひねるとアナウンサーが「東北地方の津波がどうした、こうした~」といったことを繰り返している。<そうか、震源地は東北の三陸なんだな。しかし、三陸が震源地なのに、日光でこれほど揺れるというのでは、大変な地震だ>、そう思った。釧路沖地震も北海道で体験しているが、そのときの揺れの大きさに近い(揺れは今回の方が、かなり長い)。すぐにテレビのスイッチを入れてみた(ふだん、めったにテレビは見ないのだが~)

Dscn0756 (森田童子のCD「ぼくたちの失敗」も電話器に雪崩れ込んできた)

 ラジオとテレビの両方を聴いたり、見たりしながら。すると、津波が岸壁を越えて、住宅地へ。港の船と船が衝突し、一隻が横倒しに。そんな画像を見てから、我が家の被害確認へ。玄関ではリンゴが散乱、ベランダではきちんと積んであった薪に荷崩れが。外の物置の上にあった重たい夏タイヤが落下していた。

Dscn0740 (本棚から落下し、玄関内に散乱したリンゴたち)

 さらに室内を見渡すと、台所の重たい冷蔵庫が15センチもずれていた。<そうだ、日光の震度は?>。気象庁のHPにアクセスしようとしたが、なかなか、つながらない(結局、日光は震度5強、あるいは震度5弱だった)。そのため、再びテレビへ。気象庁の発表で「M8・8」という。テレビでは「観測史上最大の地震だ」と解説している。asahi・com(朝日新聞社)によると、記録が残る1923年以降、国内で最大の地震だという。

Dscn0758 (ベランダにきちんと積んであった薪も地震で荷崩れしていた)

 群馬の実家に連絡してから、ご近所に連絡。すると、「鏡が割れ、棚のワイングラスがやられた。それにプロパンガスもストップ。ガス屋さん待ち」という。<それなら私が>。何度もその手のダウンを経験しているので、歩いてご近所宅へ。表示は「警報」でストップ。地震で自動的にガスを遮断していた。復旧ボタンを押し、正常へ。さらに自治会の組長さんに固定電話で「安否連絡」。すると、「地震後、これが初めての電話です」とのこと。確かに携帯はまずつながらないから。

 Dscn0762 (左の薪の物置の上にあった夏タイヤやホイールも揺れで落下していた)

 午後7時半現在、テレビで「ひとつの集落ごと被害にあった」といった新しい情報が。ここ日光でも、「ドスン」といった余震が何度も続いているが、宮城や岩手、それに今回は福島も。東北・三陸の大被害に比べれば、日光は、なんということはない。過去も大被害を出している三陸で起きた大地震と大津波。1896(明治29)年には約2万2千人が犠牲になったという。あの「阪神淡路大震災」以来の大地震だろうから、被害もかなりに。ネットで被害状況を追っていたら、やはりー。11日午後11時現在、asahi・comの報道によると、死者93人、行方不明351人!という。被災されたみなさまにお見舞いを。被災地にどういう支援ができるか、いずれにしろ、何らかの行動をとらないといけないだろう。

2011年3月10日 (木)

どうやったら心地いい歌をうたえるかってことを 浅川マキの世界(8)

ガソリンアレイ直訳すると、「ガソリン路地」となりますが、第二次世界大戦後のアメリカでは、町外れの路地でティーンエイジャーが、粗末なガレージに入り浸り、ジーンズの膝をオイルで汚しながら愛車に手を入れる風景が日常化していました(ネット検索から)

Dscn0736 (歌「ガソリン・アレイ」も収録されている2枚組みCD「MAKI Long・Good-bye」)

 浅川マキ=あたしは、とりあえず非常に好きなんです、演歌って

 五木寛之=好きだから、やっぱり憎むところが出てくるんじゃないか

 浅川マキ=あたしは憎んでないわ

 『ロング・グッドバイ』(浅川マキ、他 白夜書房)にある五木寛之と浅川マキの対談「たとえ五人の聴衆のためでも」のやりとりのひとつだ。これを紹介したのは、浅川マキがジャズやブルースに魅せられていたことは、よく知られているが、演歌も好きだったことは意外と知られていないからだ(かもしれない~)。

 それも、あの、というか、戦後の演歌を代表する、美空ひばり。ジャズとブルースと演歌~。その三大話が、浅川マキの口から語られる場面がある。彼女のエッセイ集『こんな風に過ぎて行くのなら』(石風社)の「あの娘がくれたブルース」に。

 「黒人のなかから生まれたジャズは途方もないものである。だから、それは聞いてすぐにわかると言うものではなく、深く、そして次元は高い。それは、わたしなどが口にする事すら畏れ多いのかも知れないのだが。東京で暮らし始めた頃、三畳の下宿の電蓄でビリー・ホリディの『身軽な旅』を聞いていた。そのうたは、黒人の女の体温に違いなかった。麻薬で死んでいったソニー・クラークのピアノも好きだった。それはいま思うと、まだ子供のころ、あの北陸の町に流れていた美空ひばりの『越後獅子の唄』と同じように、わたしのどこかに陥ちて行ったのだった」

 浅川マキと美空ひばりについて云えば、『ちょっと長いブルース 君は浅川マキを聴いたか』(実業之日本社)の「浅川マキ問題」(新内秀一)に、こんな見方が出ている。「浅川マキのライブに行ったことのある人とない人の違いの一つは、彼女が美空ひばりの歌を歌うということを知っているかどうかではないだろうか」と(私はライブに行っているが、そのことは知らなかった~)

 新内秀一はこの後で、寺山修司の『日本童謡集』での寺山の見方を示す。「すぐれた童謡は長い人生に二度あらわれる。一度は子供時代の唄として、二度目は大人になってからの唄としてである」。続けて、つまりということなのか、「浅川マキにとって美空ひばりの唄はすぐれた『童謡』なのだろう」という。

 う~ん。なんとなく、そういうことか、というような気もするが、もう少し違った言い方があってもいいかも知れない。というのは、『ロング・グットバイ』で、浅川マキの若い頃からの親友だったという歌手・亀渕友香が、面白いエピソードを語っているからだ。

 小題「マキのああいう世界は、ただ好きなだけでは表現できないですから。なかなかあの世界に飛びこむ勇気は誰もないですよ」。そこで亀渕友香がこう証言している(「証言」という云い方は大げさだが、でも、貴重な話しだと思う)

 「当時、歌の友達は私ぐらいだったですけど、『隙間のないくらいきちっとしている歌は、たぶん面白くないよね、どうやって言葉の言い方を変えていくか、削っていくかと、いう作業をしていかなくちゃね』って、そういう歌のことはいつも話していました。どうやったら心地いい歌がうたえるかってことを。誰も信じないかも知れないけど、マキは美空ひばりさんの歌がすごくうまくて、そのとおり歌える人なんです。『美空ひばりはこういう風にうたうけど、私はこういう風にうたうのよ。そこが美空ひばりの美空ひばりたる所以なんだけど、そうじゃない風にしないと面白くない』って。マキのルーツは演歌ですよ」

 ということを書いていたら、横浜・野毛のジャズ喫茶のことを思い出した。もう10年以上前、当時、今の朝日新聞「be」の「うたの旅人」と少し違うが、当時の神奈川県版で、一枚の絵から物語を紡ぐ企画記事が続けられていた(今はどうなっているのか、知らないが)。

 そのとき、その一枚の絵から、美空ひばりの歌を追いかける必要があり、その周辺の取材で、横浜の街を歩き回った。そこで、確か、戦後すぐのひばりのヒット曲「東京キッド」か、「悲しき口笛」をとりあげたことがある。

 ひばりを追っているうちに、(どういう経緯か~)野毛の(戦後の焼け跡闇市の発祥地といわれた)ジャズ喫茶にたどりついた。そのお店は、もちろんジャズ喫茶なのだが(お酒も飲ましたからジャズスナックか)、閉店と同時にその店は美空ひばり一色になるからだ。

 マスターが大のひばりファン。毎晩、お店が終わると、ひばりアワーになり、ひばりのレコードが回っていた(そういえば、その店で、「横浜的」「ジャス的」「野毛的」」など、著書多数の評論家・平岡正明の背中も見たことがあった~)

 ジャズとひばりは縁が深い~。そういえば、私も浅川マキと同じく(おこがましいといわれそうだが)~、コルトレーンが大好きだ。若いときはマッコイ・タイナーやキース・ジャレットもよく聴いていた。同時に、美空ひばり(「例えば、「港町十三番地」)も、都はるみ(例えば、「小樽運河」)も、八代亜紀(例えば、「舟歌」)の演歌も好きだ。

  ということで?(今回は「ガソリン・アレイ」をアップしたかったので~)。リズムがいいのは、もちろんだが、最初のフレーズが妙に印象に残っている(今もだが~)

ガソリン・アレイ

       日本語詩・浅川マキ

(1番のみ。以下略)

何もかもか うまくいかなくてさ

毎日毎日が

これじゃ 俺らが生きてる事さえ無駄な気がしてきた

帰ろう

俺らが生まれた あのガソリン・アレイへ

帰ろう

細い路地の あのガソリン・アレイへ

 

 

2011年3月 9日 (水)

あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあった 浅川マキの世界(7)

+Dscn0731 (CD「MAKI Long Googーbye」にプラスされている浅川マキの貴重な写真冊子集) 

 浅川マキの「最初で最後のオフィシャル本」という『ロング・グッドバイ 浅川マキの世界』(白夜書房)には、「追悼 浅川マキ」と題して、加藤登紀子と、もうひとりの文筆業の2人が書いている。その文筆業の追悼文「ちょうど一冊の本のような完全犯罪」がすごくいい。

 わずか5頁足らずなのだが、文章のすべてに緊張感があり、無駄なフレーズがない。それも、書いているのが、1979年生まれなのだから、驚きだ(浅川マキが最も知られたのは1970年代。とすると、まだ生まれてもいないということに)

 その筆者は五所純子。「エッセイと批評と創作のあいだをぬうような言語で雑誌・書籍に寄稿多数」とある。その追悼文に、いくつかの魅力的な指摘があるが、そのひとつはこんなようだ。

 「浅川マキは『夜があけたら一番早い汽車に乗るから』(夜が明けたら)という歌を、闘争の明け暮れから次の場所へ流れ出ようとする気分として響かせた。この時期に限らず、浅川マキにとって流れること、移ろい、あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあったことは、巡業先のホテルの一室で息をひきとる結果を待たずとも、歌そのものに、言葉つかいに、活動の軌跡を読み取ることができる

 いや、大変な筆力だ。というか、浅川マキの見方として、(私としては、自分がうまく表現できないことを)すごくうまく描いている、そう思える。以下のこんな見方も新鮮だ。

 「浅川マキが渡りつづけた場所はどこにも、歌い続けたものはどれにも、溜息と倦怠とともにほの暗い人間のドラマが息づいていた。クリーニングとロンダリングとジェントリフィケーションそれまで暮らしていた人々が暮らせなくなったり、それまでの地域特性が失われたりすることがある社会現象の激化する現在にあって、浅川マキは悪所の気配に身をとどめる黒い天然記念物のようだったかもしれない

 浅川マキを指して、「悪所の気配に身をとどめる黒い天然記念物のようだったかもしれない」といった表現は、ほとんど詩句だ。

 短いエッセイの結びもいい。余韻を残す締めくくりだ。浅川マキの最後の時代に彼女の歌に寄り添ったライターらしい筆だと思う。まぁ、30代というのは、頭も体もエンジン全開というとき。それを改めて確認させられるような一文だった。

 「彼女がビリー・ホリディにあてた言葉を、今度はあたしが浅川マキにたむけてみる。『時は流れて、すぐに忘れてしまうだろう。でもこのひとすじの声がわたしをどうしようもなくしてしまうのだ』。亡くなるたった数週間前、2009年12月、毎年恒例となっていた新宿PITINNの年末ライブで浅川マキはアンコールのかわりにこう言ったー緊張感のある日常をどうぞ!」

 「浅川マキにとって流れること、移ろい、あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあった・・・」。浅川マキは、確かに、そういう言い方が似会う。そんな歌のひとつが「にぎわい」だ。

にぎわい

       作詞・浅川マキ  作曲・かまやつひろし

(1番のみ。2、3番略)

ほんの少しばかり 遠出したくなった

今夜のおれは 何処へ行くのだろうか

車の揺れるのに 身を任せながら

想い出さずには いられなかった

ちょうど この港がにぎわってた

あの頃のことを

2011年3月 8日 (火)

マキの中に確かな自由を見たのかも 浅川マキの世界(6)

Dscn0725 (「最初にして最後の浅川マキ・オフィシャル本!!」という『ロング・グッドバイ』2011年1月・白夜書房

 浅川マキの「最初で最後のオフィシャル本」だという『ロング・グッドバイ』(浅川マキ 他著・2011年1月・白夜書房)を、ようやく読むことができた。浅川マキのエッセイ、人物論、五木寛之ら、さまざまな著名人との対談、浅川マキ論、加藤登紀子らの追悼文、山下洋輔らの関係者インタビューなど。303頁もある魅力的な一冊だ。

 <おっ!、これは知らなかった><えっ~、そうだったのか>。というような文章がいつくもある。私は浅川マキその人というより、浅川マキが唄う歌が好きで、聴いてきた。人物像については断片的なことしか知らなかった。

 せいぜい、彼女が書いた『こんな風に過ぎて行くのなら』(石風社・2004年7月第2刷)を読んでいたぐらい。浅川マキの人となりについて、それなりに知ったと思えたのは、この『ロング・グットバイ』からかもしれない。

 私自身の関心のせいもあるが、この本で、注目したのは、作詞家・喜多条忠のインタビュー記事だ。小題は「『人はどんなことをやっても自由に生きられるんだ』ということを教えてくれた存在です」。喜多条はミリオンセラー「神田川」の作詞家で知られるが、浅川マキは「古くからの身内に近い仲間という感じ」だったという。

 その喜多条のインタビューに「よく『70年代前後の学生運動をやっていた学生に、なぜ浅川マキが受けたのか?』と聞かれますが、ぼくはこういうことだと思うんです」と、以下のように語る下りがある。

 「ぼくも全共闘のはしくれでデモに行っていましたが、マキがあの時代に支持されたというのは、マキの中に確かな自由を見たのかもしれない。観客のほとんどが学生でしたから、まもなく世の中に出て行くけどどうなるかわからない。しかし、自由は獲得できるものだということを、見事に具現化している人がいる。しかも女で、そういうマキの存在を真近に見て、具体的な自由を一瞬垣間見るというようなところがあったんじゃないかと」

 「娼婦の中に凄い自由を見つけるってことがあるじゃないですか。マキはそういう意味で感覚的に娼婦的なところがありました。ステージで言う『よくきたわね』『今日はいい男が多いから、いい夜になりそうね』、とかね。独特の自由さが感じられました。その頃の学生は自由を求めてデモに行くんだけど、現実の重みに打ちのめされて帰ってくる。実際には機動隊に負けてばかりでしたから」

 この語りで、最も納得できるのが、「しかも女で、マキの存在を真近に見て、具体的な自由を一瞬垣間見るというような」というところ。私がコンサートを聴いたのは一度だけだったから、「真近に見て」というのでなく、もっぱらレコードで聴いてだが。

 そして、小題にもなっているところが以下の語りだ。

 「何か当時の気分をすべて包み込んでくれるようなキャパシティ、包容力を浅川マキの歌に感じたのかもしれませんね。『人はどんなことをやっても自由に生きられるんだ』ということを教えてくれた存在です」

 そう、なげやりで、はすっぱで、けだるそうで。ほの明るく、繊細で、懐かしく。たまには力強く。そんな感じでも、「人生、なんとかなるさ~」的な雰囲気が。というか、当時の言葉でいえば、どこか、ぶっ飛んでいるというか。そうした歌詞やリズム・メロディ。それに魅かれていたのだと思う。

 そんな歌に「ジンハウス・ブルース」(作詞・浅川マキ)がある。歌詞は1番から5番まであるが、中でも4番がいい。1番と合わせてアップへ。

ジンハウス・ブルース

             浅川マキ

(1番)

近よらないでよ

わたしの側に

だって わたしは いま

罪に溺れてるからさ

おごってよ 誰か

ジンを一杯さ

(4番)

ねぇ どこかいないの

アルコール密売人がさ

密売人だったら

まさしく友達さね

だって わたしは いま

罪に溺れてるわ

2011年3月 5日 (土)

「自らの分身を、彼女は殺した」  永田洋子死刑囚の死について

Dscn0676 (考えさせられる論考が展開されている大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』1996年12月第1刷・文芸春秋

Dscn0680 (『「彼女たち」の連合赤軍』の展開が思い浮かんだ田中美津の「女でありすぎた彼女」2月25日付朝日新聞夕刊コラム)

 「彼ら京浜安保共闘はその後、観念に手足をつけたようなマッチョな『赤軍派』と合体し、『連合赤軍』となる。そして合体相手の自称革命家の男たちに認められたい一心で、永田は完璧に、政治的に革命的に振舞おうとした。そんな<どこにもいない女>として生きようとした。彼女はおのれ以上に「ここにいる女」の匂いを漂わせる8カ月の身重の女を、アクセサリーに執着する女を粛清せねばならなかったのだ。そう、彼女は男並みを目指すには『女』でありすぎたのよ

 この文は、ウーマンリブの中心的活動家だった田中美津のコラム「永田洋子死刑囚の死に 女でありすぎた彼女」(2月25日・朝日新聞夕刊)の最後の部分だ。このコラム全体について、「一級品の小説と言ってもよい」と、評価しているブログ「食うために生きるー脱サラ百姓日記」があるが、私もそう感じている。とくに彼女の結びのワンフレーズは、すごいと思った。感覚と分析と論理が、ひとつの言葉に凝縮されている、それを思わせる。結びはこうだ。

 「自らの分身を、彼女は殺した。」 

 もともと永田洋子死刑囚の病死が報じられたとき、いつか、彼女について書くことになるな、そう感じていた。そう思っていたところで、田中美津のコラムに出会ったうえ、それについて、正面から論じたブログ(「食うために・・・」)を知った。思わず、そのブログにコメントを寄せていた。つい数日前のことだ。私の最初のコメントは以下のようだ。

 「女でありすぎた彼女」は確かに一級品だと思いました。その指摘は「『彼女たち』の連合赤軍」(大塚英志)の指摘に近く、なるほどと。新聞という短い記事の中でよくあれだけ、笑わせながら、書けたかと。永田洋子死刑囚については、その死にさまざまな思いが。そのため、行こうか行くまいかためらっていたパーティに行くことに。そのパーティの主は連合赤軍兵士として、27年間も獄中で暮らした彼。獄舎から生還し、スナックを開いて10周年。招待状を受け、2月中旬に行ってきたばかりです。「浅間山荘事件」で、時代が転換した、というか、思想が行き場を失ってしまったような状況が。私にとっては複雑な思いなのですが、そこまで走ってしまった彼の歴史に立ち会おうとしたためです。それはある意味で、当時、負け組の全共闘だった私の歴史を写すことでもあったから。もう少し言えば、どうしてそこまでの行くのか、その疑問がずっと残っていたからです。「方法が間違っていれば、目標もまた」。そんなフレーズを振り返っているところです」(「てにおは」のみ修正)

 これに対し、ブログ管理人からはこんなコメントが返ってきた。

 「砂時計さん、すばらしいコメントありがとう。あなたもほとんど同じ時代を生きてこられた方とお見受けします」(以下略)。

 それに再び、私はこんなコメントを返信した。

 「コメントの返信ありがとうございます。同時代といっても、私は遅れてきた全共闘。71年の沖縄闘争が中心でした。連合赤軍事件が起きた72年春はずっと東京拘置所にいたので、リアルタイムでは知りません。でも、連合赤軍事件の発覚で、それが社会や大学のなかに、学生運動への嫌気というか、距離を置く空気が漂ってきたように思います。定年退職して1年、時間がなくて出来なかった詩や歌について、追いかけようとしていますが、あの時代が改めて自らに迫ってくる、そんな不思議さに戸惑ってもいます。それほど、全共闘時代が深層心理に影響しているのか、そんなふうに思えます。その時代をくぐり抜け、「百姓」のプロになっているあなたに敬意を表します。なお、田中美津の「自らの分身を彼女は殺した」は、見事なほどの結語。私もその文章に一瞬、クラッと、めまいにも似たものを覚えたほどです。このブログは、それを的確にとらえていますし、(遠山さんのことも含めて)感心して読み終えましたことを、お伝えします」

 私が再び送ったこのコメントにも、ブログ管理人は、ありがたいことに、再びていねいなコメントを寄せてくれた。

 「砂時計さん、再びありがとう。そうか、僕はいわゆる心情派、シンパ。あの戦いに何事もなしえなかったけれど、あなたは見事に現場を通り抜けた人なのですね」(以下略)。

 このコメントでも書いているように、実は「女でありすぎた彼女」のコラムを読んでいて、思ったのは、大塚英志の『「彼女」たちの連合赤軍』のことだ。当事者が書いたたくさんの本があるが、第三者から見た、それも時代を切ることで定評のある彼の論考で、とても興味深い。というか、<かなり、的を得ているのではないか>という思いをしている。1996年の発刊当時、一度、さっ~と読んで、そう感じていたが、今回、改めて読み直してみても、その感覚は変わっていない。少し長いが、私がそうだな、と思った文章を紹介したい。この本の最初の論考「永田洋子と消費社会」(初出は『諸君!』1994年6月)からだ。

 「永田と殺された女性たちを隔てているものは左翼思想の路線の対立などではない。彼女たちの対立を左翼思想のことばでしか語りえない、そのような思考の枠組と、やがて消費社会的感受性へと連なっていくことになる『かわいい』の話に象徴される女たちの感覚である。しかしだからといって永田に『かわいい』感性がなかったわけではない。永田は女子高出身でそれこそ王子様とのキスを夢見るような少女趣味な感覚を持っていた。そういう姿は彼女の手記に常に見え隠れする。永田を含めた女性たちに共通なのは無防備な『少女趣味』がある日突然、革命思想に出合ってしまったことの悲喜劇だ。彼女もまた70年代初頭に若い女性であった者の一人としてその時代に芽ばえつつあった精神を等しく刻み込まれていたはずだ。この少女趣味に名前やかたちを与えていくのは革命思想ではなく、72年の変容の中で密かに始まり80年代に開花する消費社会的なるものであった。彼女の中に遠山や金子の領域に崩れていきかねない心性があったからこそ、彼女は最終的に4人の女性たちの死に加担することで自分を『思想』の側につなぎとめようとしたのだともいえる」

 殺された遠山美枝子さん、金子みちよさんの領域、つまり、消費社会的な感性が当時、世の中で始まろうとしていた。『「彼女たち」・・』では、例えば、1970年冬、都内の路上で、くるぶしまで届くマキシコートにひざ上の超ミニスカート、それにトンボメガネに「アンアン」を抱えて逮捕されたファッショナブルな美人過激派女学生が新聞ダネになっていたことを挙げている。それがそうした感性の象徴かもしれない。

 確かにネット「ザ・20世紀」の「1971年」を検索すると、この年にTシャツ、ジーパン、ホットパンツ、パンタロンが流行したとある。雑誌「anan」、「non-no」を小脇にかかえ、旅行する女の子たちを意味する「アンノン族」が話題になっている。「マクドナルド日本1号店」が東京・銀座にオープンしたのも、この年だという。

 流行歌では私の好きな「琵琶湖周航歌」(加藤登紀子)がヒットしているが、レコード大賞は阿久悠作詞の「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、ヒットチャート一位は安井かずみ作詞の「わたしの城下町」(小柳ルミ子)。「あの素晴らしい愛をもう一度」(北山修)や「虹と雪のバラード」(トワ・エ・モア)も、この1971年だった。

 こうした方向、消費社会的な、あるいは市民社会的なといってもいいかもしれないが、その方向に崩れていきかねない心性があったからこそ、彼女たちの死に加担したという。大塚英志のその指摘は「自らの分身を、彼女は殺した」という田中美津の結びの言葉と呼応しあう。というか、おなじ内容を別の角度から語ったものだと思う。

 さらに連合赤軍が無残に敗れていった、そのわけについて、示す以下の展開も重要だ(と、私は思う)

 「彼女たちは、大衆としての女性たちが、『わたし』という輪郭を描き出す手だてを『思想』ではなく『消費』に求めていく時代への過渡期にあって、その欲望に忠実であったが故に殺されたのである。上野千鶴子は80年代消費社会の欲望の本質が『消費による自己実現』にあったと看破するが、その欲望を超克する思想を連合赤軍の人々は紡ぎ出すことのできないまま自壊していったのである

 続いて、この論考の核心部分をこうつづる。連合赤軍は「消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れた」ということについて。

 「だが結局のところ全共闘の時代の≪左翼思想≫そのものが最終的にサブカルチャーの中に崩れ落ちていく性質のものであった。全共闘運動からの転向者たちによって80年代のサブカルチャーが担われていったのは歴史的な事実としてある。連合赤軍の人々は山岳ベースで言うなれば消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れていったのである

 第三者である大塚英志が指摘するこうした見方について、当事者たちはどう見ているか。それらも念頭に全共闘から赤軍派へ。さらに連合赤軍兵士となった植垣康博さんの『連合赤軍 27年目の証言』(彩流社 2001年3月)を読み進めると、やはり、あった(彼には1984年出版の『兵士たちの連合赤軍』の著作も)。

 この書の「甲府刑務所だより」の中の「『かわいい女』と70年安保闘争」の文章だ。大塚英志の「永田洋子と消費文化」について、「興味深く読ませてもらいました」とある。「僕から見れば、到底『連合赤軍事件の画期的解釈』とは言えません」とするが、一方で、「連赤事件を具体的に理解していく上では、問題をわかりやすい形でとりあげ、女性問題を現実的な問題として、考えていくきっかけを与えている点で、注目すべき文書の一つと言えると思います」とも。

 そうして、大塚英志が「消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れていった」とした指摘に当然、目を向け、当事者としても、貴重な分析であることを伝えている。「大塚氏のこの主張は、当時の問題を現象的に捉えたものにすぎないにせよ、連赤が当時の日本社会の歴史的変化に対応できなかった事実を指摘するものとして、重要です」と。

 そして、連合赤軍事件が社会に示したものの一つを、こう記す。

 「連赤問題の核心の一つは、『共産主義化』によって個々人の自立した自由な個性を徹底的に解体し、組織に全面的に従属した党派人間を育成せんとして、当時の革命思想の根幹が反動的な封建思想以外のなにものでもなかったことをもっとも明瞭な形で明らかにしたことです。『かわしい女』をめぐる問題は、おそらくその核心的なものといっても過言ではないと思います」

 「個々人の自由な個性を徹底的に解体」すれば、どうなっていくか。「連合赤軍事件は、あの時代に調子づいた。調子づいていくと、ああなっていくのだ」という批判を聞いたことがある。だが、問題は、そうではなく、組織や規律を、あるいは党と称したものを最優先していくことの怖さを振り返ってみるべきだろう。

 さらに言えば、「革命」を、人間の解放を、夢見る集団でも、その時代を生きてきた過去からの社会的な古い観念、というか、無意識に身にまとわりついている、ある種の差別的なふるまい、刷りこまれている深層心理からのぶしつけな言動・・・。

 つまり、「反動的な封建思想」からは、なかなか抜け出せないことが起きてしまう。とくに「革新的」だと、自らはそう思い込みやすい(残念ながら、私などだが~)全共闘世代はそうだろう(今の「草食系男子」はそれから免れているだろう)

 「マルクス・レーニン主義」云々以前に(私はローザ・ルクセンブルクの方により魅力を感じるが)、「革命的」と称する集団に起きた、そうした心性について、どう考えるのか、あるいは向き合うのか。その時代の多くの私たちの中から、極北まで行ってしまった連合赤軍事件は、そうした難しい問いを、結果的に投げかけていると思う。私はそのように受け取っている。

 だからこそ、「連合赤軍事件」は、すでに歴史ではあるが、実は歴史ではなく、そこから結びついている今、現代にも問い掛けるリアルさがあるのだ。もちろん、私にも私たちに。だからこそ、この事件は、「なんてそんなバカなことをやったのか」と、あげつらい、忌避するだけで済むものではない。そこから今を問わなければ、「総括」された死者たちが浮かばれないのではないか。 

 永田洋子死刑囚に戻れば、彼女は獄中で「稚拙」な「乙女ちっく」なイラストを描いていたという。大塚英志によると、「わたし」の「心や魂」をそのままでいいのだ、という記号でもあり、それを描けたことで、彼女は彼女自身の「女の子」「女性性」と「和解」できたのだという。

 歴史を揺るがした70年安保・沖縄闘争時代、時代の意識では戦後からそれほど離れていない社会の過渡期に、「美しき明日」(森田童子の「ラスト・ワルツ」の詩句)の夢を追いかけながら、「かわいい女」問題の幕開けに思わず向き合い、「自分の分身を殺した」彼女(私も田中美津や大塚英志とともに、そう思う)。

 そうでない世界を求めながら、その時代の「怒れる若者たち」の無残さの象徴となった、その名、永田洋子。私は、その名をいつまでも忘れないだろう。いや、忘れられないだろう。

2011年3月 4日 (金)

生き続ける者こそ無残にも 森田童子の方へ(5)

Dscn0671_2 (「森田童子がラストワルツを唄う闇の空に向けて・・・」 磯山オサムの詩「ラストワルツ」・『序説 第14号』)

 森田童子のCD「ベスト・コレクション」を送ってもらった詩人、磯山オサムクンが、森田童子についての大事な手紙も送ってきた。私もうっかりしていたのだが、磯山クンは私が事務局をしている同人誌『序説 第14号』(2007年6月)に詩「ラストワルツ」を発表していたのだった。そのことも伝える手紙だった。

 磯山クンの詩は大きくは「まぼろしの夜のまつり」。6つのパートに分かれており、その5番目が「ラストワルツ」。35行あるその詩「ラストワルツ」の最後の2連はこうだ。

森田童子がラストワルツを唄う闇の空に向けて、大鳥がステップの準備

風にサーカス隊のテント

アン・ドウ・トワー

大鳥とその子供たちが舞う

ミカ星太郎が舞う

     闇が二重にテントを覆い大鳥が唄う

     森田童子が唄う、

     叫び声で唄う。

     「勝者は死者」

     「勝者は死者」

     叫び声のラストワルツが聞える

 もう4年も前になるがそうだった~。「勝者は死者」「勝者は死者」。そのフレーズが気になった詩だった。それを思い出した。森田童子の「ラストワルツ」を主軸にした詩だ。「孤立無援で沈黙を切るタカハシカズミ」とか「ヒラオカマサアキは後見人にロウ・タケナカと思える肖像画を首から下げ」などのフレーズもある。

 つい先日、永田洋子死刑囚が病死したことが報じられた。その死について、ウーマンリブの旗手だった田中美津が朝日新聞の夕刊コラム(2月25日付)に「永田洋子死刑囚の死に 女でありすぎた彼女」を寄稿している。

 そのエッセイが興味深いことは、すでに伝えているが、さらに、その指摘の見事なことも挙げないといけないだろう。すでに田中美津の今回のエッセイについて、「一級品の小説と言ってもよい」と高く評価しているブログもある(私もそのブログに感心し、コメントを寄せていることもあり、彼女の死については、いずれ書かねばなるまい)。

 突然、このことを書くのは、磯山クンの手紙がそれに関してのものだったため。手紙では、こうしたためてある。

「ラストワルツを唄うのは『生きのびた永田洋子』。ダンスの相手は森恒夫。詩の『勝者』は、死を選んだ森恒夫とタカハシカズミです(死んだもの勝ち・・・・?)。生き続ける者こそ、無残にも、ラストワルツを唄わねばならないのです。当然、森田童子も、私もです

 そうか、詩「ラストワルツ」は、あの連合赤軍事件を背景にしたものだったのか。私はもっと、単純にめざそうとした夢が敗れた若き日、つまり全共闘時代の挽歌だと受け取っていたのだが~。

 ということで、すでに森田童子の「ラストワルツ」は一度、この「森田童子の方へ(2)」でアップしているのだが、改めてアップへ(2度アップすることは私としては、自分に禁じているのだが。この際だから、いいということに。名曲だし~)。 

  

 

 

2011年3月 2日 (水)

わたしはわたしを武装していかねばならない 藤森重紀の魅力的な詩「冬支度」

Dscn0655 (藤森重紀の魅力的な詩「冬支度」も掲載されている詩誌『堅香子 第8号』)

日々みだりに

悲観もせず楽観もせず

さみしさにも沈潜しない

あるがままの自分を許容し

きびしい冬の

貧しい日ざしにも耐え

夕べにうなだれがちな

そういう自分を励ますために

わたしはわたしを

武装していかねばならない

 詩誌『堅香子』の最新号・8号に掲載されている詩人、藤森重紀さんの詩「冬支度」。その前半の一部だ(全文は38行)。「そういう自分を励ますために/わたしはわたしを/武装していかねばならない」というフレーズが、ぐっと迫ってくる。

 詩誌『堅香子』は岩手県の詩人たちを中心に1年に2回発行している。私も岩手県にゆかりがあり、創刊からの同人。今号では詩「ギリギリッス」を寄稿し、このブログでもアップしている。改めて、その『堅香子』を紹介するのは、きょうは必要があって、この詩誌を熟読したため。

 というのも、毎号とも各同人は掲載された詩のうち自分がいいなと思った同人の詩5篇をハガキで、事務局に伝えているからだ。私も5篇を選んだが、そのなかでも、最も魅力的だったのが(私にとってはだが~)、この「冬支度」だった。

詩 冬支度

       藤森重紀

冬がくる

早々と取りかからねばならない

おやじが母屋の北を

幾束もの藁で囲ったように

おふくろが壁の隙間を

障子紙で重ね貼りしたように

祖母が足袋のかかとを

厚手の生地で補修したように

冬が来る前に

精神を頑丈にせねばならない

日々みだりに

悲観もせず楽観もせず

さみしさにも沈潜しない

あるがままの自分を許容し

きびしい冬の

貧しい日ざしにも耐え

夕べにうなだれがちな

そういう自分を励ますために

わたしはわたしを

武装していかねばならない

     いちはやく

     福寿草のふくらみや

     かたかごや水仙の芽吹きに

     無言で頷いていたのは

     ほかならぬ冬支度の総指揮官

     寡黙な祖父であったのだ

     祖母に先立たれても

     例年ヤトジに手抜かりはなく

     偏西風のそよぎに

     もっとも敏い人物だった

     この祖父に学べ

     気持ちが寒風に萎まぬように

     この祖父のように

     かじかむ孤独とたたかうために

     ぬかりなく

     着々と

     わたしは

     冬支度にかからねばならない

「注 みだりに悲観もせず楽観もせず(広津和郎)

    ヤトジは萱閉じ、または屋敷閉じの意」

 詩としては、もう前半部分でも充分。私はそう感じた。だが、作者の藤森さんは祖父に学び、「かじかむ孤独とたたかうために/ぬかりなく/着々と」と冬支度にかかっていくことを書きたかったのだろう。

 フレーズでは「精神を頑丈にせねばならない」「武装していかねばならない」「冬支度にかからねばならない」と、そうすべきだということを自らに言い聞かせるところが、新鮮だ。というか、きっぱりとした心を感じる。

 もちろん、「きびしい冬」に対する構えをうたっているのだが、実はこの「冬」は、ほかのさまざまな場面でも、使える比喩でもあるだろう。きびしい立場、きびしい心情、きびしい先行き、きびしい現実、きびしい人生・・・でもいい。

 この詩に私が反応したのには、詩自体の魅力もあるが、けさの2日付朝日新聞9面のリビア情勢の記事を読んでいたから。そうも思っている。緊迫の度が増しているリビア。そこでの攻防を伝える記事だ。

 見出しは「『打倒カダフィへ結束』 首都攻略へ 志願兵続々」。リビア東部のベンガジから井上道夫記者が、かなり長い記事を寄せている。記事の結びのところで、志願兵の母親(60)が息子に声をかける。それが、今のリビアを象徴するかのようだったからだ。

 「リビアの未来を切り開くための闘いだ。行ってきなさい」

 

     

 

2011年3月 1日 (火)

さあ、楽しい薪ストーブ生活、終盤へ 薪の確保に気を使う日々 

Dscn0574 (3月いっぱいは、この数で薪ストーブをと、ベランダに積んだ薪たち=2月27日、日光霧降高原

 ついに3月秋から冬、さらに春にかけて楽しめる薪ストーブ生活も最終盤へそんな時期に入ってきた。薪ストーブのぽかぽか、ゆったり、のんびり生活を楽しむことができるのも、生命線の薪があってのことだ。霧降高原生活は二期目なので、薪がいかに大切か、わかってきたつもりではあったが~。

 ところが、ベランダなどにいっぱい積んでいた薪たちは次々と姿を消している(当たり前だが~)。部屋の暖房はもちろん(朝になっても、部屋全体が温かい、玄関に寝泊りする名古屋のコウチャンも世話になっている)、熱燗、湯豆腐、シャブシャブ、さらに洗濯ものを乾かすにも、薪さまのお世話になっている。そんな薪が今季は不足気味だったのだ~。

 そのため、新春からついに市販の薪袋も意識的に買い求めてきた。一袋498円だったかな。それを3袋、6袋、ついに10袋と買うようになっている。「お札を燃やすようだね」。霧降高原の友人からそう、からかわれているが、仕方がない。真冬はやはり、かなり使わざるをえないため。

Dscn0578 (3月いっぱい薪ストーブを焚くには、「マウンテン・ストーブ日光」の薪に加え、市販の薪も必要になると思う)

 正確に数えているわけではないが、12月中旬から2月中旬までの真冬期には、1日、だいたい15本ぐらいは焚いていた。ただし、春めいた陽気だった2月下旬は、1日3本だけなんて日もあった(薪がもったいないのと、お天道様で部屋は温かいので、日中はもっぱら灯油ストーブです)、その日のお天気で、使う本数もかなり変動する。

 1日でかなりの本数を使ってしまったときは、「これだと、薪がなくなったら、ベランダの板材をはがして、焚くような気になってしまうかも」。そんなことさえ、妄想?しそうだった。

 ところが、厳しい2月を乗り越え、薪の「貯金」、いや「貯薪」が、それなりに。ベランダに残ったのが、300本前後。それに物置に100本前後。さらに市販の薪が10数袋(これはさらに買い求めることになるだろう~)。

Dscn05804月でも薪ストーブが欲しくなるのがわかるので、隠し財産?で積んである物置の薪)

 ということで、胸算用では(笑い)、3月はまず大丈夫。4月になると、ぐっと使う本数が少なくなるので、4月もOK(ただし、昨年は4月中旬にも、かなりの降雪があった。確かそれで日光に春が来たことを知らせる「弥生祭」の運営にも影響がでたのだった)。

 昨冬は、「あと1週間で薪が終わってしまうよ~」と、友人でもある「マウンテン・ストーブ日光」に訴えることが何度もあった。薪ストーブ初心者だったから、それも許されたが、今冬はそうもいかない。なので、夏からそれなりの構えで、薪を用意してきた、つもりだった。

 だが、思った以上に薪は消費する(「消費効率が悪いストーブだからね~」と、言われてはいるが)。その使用料を調整しながら、なんとか、ここまできた。ようやく安全圏に入ったので、胸をなでおろしている(それほど、おおげさではないが~)砂時計です(来年は薪の確保にもう少し、気を配らなくては、という教訓も~)。

« 2011年2月 | トップページ | 2011年4月 »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30