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2011年3月 5日 (土)

「自らの分身を、彼女は殺した」  永田洋子死刑囚の死について

Dscn0676 (考えさせられる論考が展開されている大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍』1996年12月第1刷・文芸春秋

Dscn0680 (『「彼女たち」の連合赤軍』の展開が思い浮かんだ田中美津の「女でありすぎた彼女」2月25日付朝日新聞夕刊コラム)

 「彼ら京浜安保共闘はその後、観念に手足をつけたようなマッチョな『赤軍派』と合体し、『連合赤軍』となる。そして合体相手の自称革命家の男たちに認められたい一心で、永田は完璧に、政治的に革命的に振舞おうとした。そんな<どこにもいない女>として生きようとした。彼女はおのれ以上に「ここにいる女」の匂いを漂わせる8カ月の身重の女を、アクセサリーに執着する女を粛清せねばならなかったのだ。そう、彼女は男並みを目指すには『女』でありすぎたのよ

 この文は、ウーマンリブの中心的活動家だった田中美津のコラム「永田洋子死刑囚の死に 女でありすぎた彼女」(2月25日・朝日新聞夕刊)の最後の部分だ。このコラム全体について、「一級品の小説と言ってもよい」と、評価しているブログ「食うために生きるー脱サラ百姓日記」があるが、私もそう感じている。とくに彼女の結びのワンフレーズは、すごいと思った。感覚と分析と論理が、ひとつの言葉に凝縮されている、それを思わせる。結びはこうだ。

 「自らの分身を、彼女は殺した。」 

 もともと永田洋子死刑囚の病死が報じられたとき、いつか、彼女について書くことになるな、そう感じていた。そう思っていたところで、田中美津のコラムに出会ったうえ、それについて、正面から論じたブログ(「食うために・・・」)を知った。思わず、そのブログにコメントを寄せていた。つい数日前のことだ。私の最初のコメントは以下のようだ。

 「女でありすぎた彼女」は確かに一級品だと思いました。その指摘は「『彼女たち』の連合赤軍」(大塚英志)の指摘に近く、なるほどと。新聞という短い記事の中でよくあれだけ、笑わせながら、書けたかと。永田洋子死刑囚については、その死にさまざまな思いが。そのため、行こうか行くまいかためらっていたパーティに行くことに。そのパーティの主は連合赤軍兵士として、27年間も獄中で暮らした彼。獄舎から生還し、スナックを開いて10周年。招待状を受け、2月中旬に行ってきたばかりです。「浅間山荘事件」で、時代が転換した、というか、思想が行き場を失ってしまったような状況が。私にとっては複雑な思いなのですが、そこまで走ってしまった彼の歴史に立ち会おうとしたためです。それはある意味で、当時、負け組の全共闘だった私の歴史を写すことでもあったから。もう少し言えば、どうしてそこまでの行くのか、その疑問がずっと残っていたからです。「方法が間違っていれば、目標もまた」。そんなフレーズを振り返っているところです」(「てにおは」のみ修正)

 これに対し、ブログ管理人からはこんなコメントが返ってきた。

 「砂時計さん、すばらしいコメントありがとう。あなたもほとんど同じ時代を生きてこられた方とお見受けします」(以下略)。

 それに再び、私はこんなコメントを返信した。

 「コメントの返信ありがとうございます。同時代といっても、私は遅れてきた全共闘。71年の沖縄闘争が中心でした。連合赤軍事件が起きた72年春はずっと東京拘置所にいたので、リアルタイムでは知りません。でも、連合赤軍事件の発覚で、それが社会や大学のなかに、学生運動への嫌気というか、距離を置く空気が漂ってきたように思います。定年退職して1年、時間がなくて出来なかった詩や歌について、追いかけようとしていますが、あの時代が改めて自らに迫ってくる、そんな不思議さに戸惑ってもいます。それほど、全共闘時代が深層心理に影響しているのか、そんなふうに思えます。その時代をくぐり抜け、「百姓」のプロになっているあなたに敬意を表します。なお、田中美津の「自らの分身を彼女は殺した」は、見事なほどの結語。私もその文章に一瞬、クラッと、めまいにも似たものを覚えたほどです。このブログは、それを的確にとらえていますし、(遠山さんのことも含めて)感心して読み終えましたことを、お伝えします」

 私が再び送ったこのコメントにも、ブログ管理人は、ありがたいことに、再びていねいなコメントを寄せてくれた。

 「砂時計さん、再びありがとう。そうか、僕はいわゆる心情派、シンパ。あの戦いに何事もなしえなかったけれど、あなたは見事に現場を通り抜けた人なのですね」(以下略)。

 このコメントでも書いているように、実は「女でありすぎた彼女」のコラムを読んでいて、思ったのは、大塚英志の『「彼女」たちの連合赤軍』のことだ。当事者が書いたたくさんの本があるが、第三者から見た、それも時代を切ることで定評のある彼の論考で、とても興味深い。というか、<かなり、的を得ているのではないか>という思いをしている。1996年の発刊当時、一度、さっ~と読んで、そう感じていたが、今回、改めて読み直してみても、その感覚は変わっていない。少し長いが、私がそうだな、と思った文章を紹介したい。この本の最初の論考「永田洋子と消費社会」(初出は『諸君!』1994年6月)からだ。

 「永田と殺された女性たちを隔てているものは左翼思想の路線の対立などではない。彼女たちの対立を左翼思想のことばでしか語りえない、そのような思考の枠組と、やがて消費社会的感受性へと連なっていくことになる『かわいい』の話に象徴される女たちの感覚である。しかしだからといって永田に『かわいい』感性がなかったわけではない。永田は女子高出身でそれこそ王子様とのキスを夢見るような少女趣味な感覚を持っていた。そういう姿は彼女の手記に常に見え隠れする。永田を含めた女性たちに共通なのは無防備な『少女趣味』がある日突然、革命思想に出合ってしまったことの悲喜劇だ。彼女もまた70年代初頭に若い女性であった者の一人としてその時代に芽ばえつつあった精神を等しく刻み込まれていたはずだ。この少女趣味に名前やかたちを与えていくのは革命思想ではなく、72年の変容の中で密かに始まり80年代に開花する消費社会的なるものであった。彼女の中に遠山や金子の領域に崩れていきかねない心性があったからこそ、彼女は最終的に4人の女性たちの死に加担することで自分を『思想』の側につなぎとめようとしたのだともいえる」

 殺された遠山美枝子さん、金子みちよさんの領域、つまり、消費社会的な感性が当時、世の中で始まろうとしていた。『「彼女たち」・・』では、例えば、1970年冬、都内の路上で、くるぶしまで届くマキシコートにひざ上の超ミニスカート、それにトンボメガネに「アンアン」を抱えて逮捕されたファッショナブルな美人過激派女学生が新聞ダネになっていたことを挙げている。それがそうした感性の象徴かもしれない。

 確かにネット「ザ・20世紀」の「1971年」を検索すると、この年にTシャツ、ジーパン、ホットパンツ、パンタロンが流行したとある。雑誌「anan」、「non-no」を小脇にかかえ、旅行する女の子たちを意味する「アンノン族」が話題になっている。「マクドナルド日本1号店」が東京・銀座にオープンしたのも、この年だという。

 流行歌では私の好きな「琵琶湖周航歌」(加藤登紀子)がヒットしているが、レコード大賞は阿久悠作詞の「また逢う日まで」(尾崎紀世彦)、ヒットチャート一位は安井かずみ作詞の「わたしの城下町」(小柳ルミ子)。「あの素晴らしい愛をもう一度」(北山修)や「虹と雪のバラード」(トワ・エ・モア)も、この1971年だった。

 こうした方向、消費社会的な、あるいは市民社会的なといってもいいかもしれないが、その方向に崩れていきかねない心性があったからこそ、彼女たちの死に加担したという。大塚英志のその指摘は「自らの分身を、彼女は殺した」という田中美津の結びの言葉と呼応しあう。というか、おなじ内容を別の角度から語ったものだと思う。

 さらに連合赤軍が無残に敗れていった、そのわけについて、示す以下の展開も重要だ(と、私は思う)

 「彼女たちは、大衆としての女性たちが、『わたし』という輪郭を描き出す手だてを『思想』ではなく『消費』に求めていく時代への過渡期にあって、その欲望に忠実であったが故に殺されたのである。上野千鶴子は80年代消費社会の欲望の本質が『消費による自己実現』にあったと看破するが、その欲望を超克する思想を連合赤軍の人々は紡ぎ出すことのできないまま自壊していったのである

 続いて、この論考の核心部分をこうつづる。連合赤軍は「消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れた」ということについて。

 「だが結局のところ全共闘の時代の≪左翼思想≫そのものが最終的にサブカルチャーの中に崩れ落ちていく性質のものであった。全共闘運動からの転向者たちによって80年代のサブカルチャーが担われていったのは歴史的な事実としてある。連合赤軍の人々は山岳ベースで言うなれば消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れていったのである

 第三者である大塚英志が指摘するこうした見方について、当事者たちはどう見ているか。それらも念頭に全共闘から赤軍派へ。さらに連合赤軍兵士となった植垣康博さんの『連合赤軍 27年目の証言』(彩流社 2001年3月)を読み進めると、やはり、あった(彼には1984年出版の『兵士たちの連合赤軍』の著作も)。

 この書の「甲府刑務所だより」の中の「『かわいい女』と70年安保闘争」の文章だ。大塚英志の「永田洋子と消費文化」について、「興味深く読ませてもらいました」とある。「僕から見れば、到底『連合赤軍事件の画期的解釈』とは言えません」とするが、一方で、「連赤事件を具体的に理解していく上では、問題をわかりやすい形でとりあげ、女性問題を現実的な問題として、考えていくきっかけを与えている点で、注目すべき文書の一つと言えると思います」とも。

 そうして、大塚英志が「消費社会化という歴史の変容と戦い、それを拒否し、敗れていった」とした指摘に当然、目を向け、当事者としても、貴重な分析であることを伝えている。「大塚氏のこの主張は、当時の問題を現象的に捉えたものにすぎないにせよ、連赤が当時の日本社会の歴史的変化に対応できなかった事実を指摘するものとして、重要です」と。

 そして、連合赤軍事件が社会に示したものの一つを、こう記す。

 「連赤問題の核心の一つは、『共産主義化』によって個々人の自立した自由な個性を徹底的に解体し、組織に全面的に従属した党派人間を育成せんとして、当時の革命思想の根幹が反動的な封建思想以外のなにものでもなかったことをもっとも明瞭な形で明らかにしたことです。『かわしい女』をめぐる問題は、おそらくその核心的なものといっても過言ではないと思います」

 「個々人の自由な個性を徹底的に解体」すれば、どうなっていくか。「連合赤軍事件は、あの時代に調子づいた。調子づいていくと、ああなっていくのだ」という批判を聞いたことがある。だが、問題は、そうではなく、組織や規律を、あるいは党と称したものを最優先していくことの怖さを振り返ってみるべきだろう。

 さらに言えば、「革命」を、人間の解放を、夢見る集団でも、その時代を生きてきた過去からの社会的な古い観念、というか、無意識に身にまとわりついている、ある種の差別的なふるまい、刷りこまれている深層心理からのぶしつけな言動・・・。

 つまり、「反動的な封建思想」からは、なかなか抜け出せないことが起きてしまう。とくに「革新的」だと、自らはそう思い込みやすい(残念ながら、私などだが~)全共闘世代はそうだろう(今の「草食系男子」はそれから免れているだろう)

 「マルクス・レーニン主義」云々以前に(私はローザ・ルクセンブルクの方により魅力を感じるが)、「革命的」と称する集団に起きた、そうした心性について、どう考えるのか、あるいは向き合うのか。その時代の多くの私たちの中から、極北まで行ってしまった連合赤軍事件は、そうした難しい問いを、結果的に投げかけていると思う。私はそのように受け取っている。

 だからこそ、「連合赤軍事件」は、すでに歴史ではあるが、実は歴史ではなく、そこから結びついている今、現代にも問い掛けるリアルさがあるのだ。もちろん、私にも私たちに。だからこそ、この事件は、「なんてそんなバカなことをやったのか」と、あげつらい、忌避するだけで済むものではない。そこから今を問わなければ、「総括」された死者たちが浮かばれないのではないか。 

 永田洋子死刑囚に戻れば、彼女は獄中で「稚拙」な「乙女ちっく」なイラストを描いていたという。大塚英志によると、「わたし」の「心や魂」をそのままでいいのだ、という記号でもあり、それを描けたことで、彼女は彼女自身の「女の子」「女性性」と「和解」できたのだという。

 歴史を揺るがした70年安保・沖縄闘争時代、時代の意識では戦後からそれほど離れていない社会の過渡期に、「美しき明日」(森田童子の「ラスト・ワルツ」の詩句)の夢を追いかけながら、「かわいい女」問題の幕開けに思わず向き合い、「自分の分身を殺した」彼女(私も田中美津や大塚英志とともに、そう思う)。

 そうでない世界を求めながら、その時代の「怒れる若者たち」の無残さの象徴となった、その名、永田洋子。私は、その名をいつまでも忘れないだろう。いや、忘れられないだろう。

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