あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあった 浅川マキの世界(7)
+ (CD「MAKI Long Googーbye」にプラスされている浅川マキの貴重な写真冊子集)
浅川マキの「最初で最後のオフィシャル本」という『ロング・グッドバイ 浅川マキの世界』(白夜書房)には、「追悼 浅川マキ」と題して、加藤登紀子と、もうひとりの文筆業の2人が書いている。その文筆業の追悼文「ちょうど一冊の本のような完全犯罪」がすごくいい。
わずか5頁足らずなのだが、文章のすべてに緊張感があり、無駄なフレーズがない。それも、書いているのが、1979年生まれなのだから、驚きだ(浅川マキが最も知られたのは1970年代。とすると、まだ生まれてもいないということに)
その筆者は五所純子。「エッセイと批評と創作のあいだをぬうような言語で雑誌・書籍に寄稿多数」とある。その追悼文に、いくつかの魅力的な指摘があるが、そのひとつはこんなようだ。
「浅川マキは『夜があけたら一番早い汽車に乗るから』(夜が明けたら)という歌を、闘争の明け暮れから次の場所へ流れ出ようとする気分として響かせた。この時期に限らず、浅川マキにとって流れること、移ろい、あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあったことは、巡業先のホテルの一室で息をひきとる結果を待たずとも、歌そのものに、言葉つかいに、活動の軌跡を読み取ることができる」
いや、大変な筆力だ。というか、浅川マキの見方として、(私としては、自分がうまく表現できないことを)すごくうまく描いている、そう思える。以下のこんな見方も新鮮だ。
「浅川マキが渡りつづけた場所はどこにも、歌い続けたものはどれにも、溜息と倦怠とともにほの暗い人間のドラマが息づいていた。クリーニングとロンダリングとジェントリフィケーション(それまで暮らしていた人々が暮らせなくなったり、それまでの地域特性が失われたりすることがある社会現象)の激化する現在にあって、浅川マキは悪所の気配に身をとどめる黒い天然記念物のようだったかもしれない」
浅川マキを指して、「悪所の気配に身をとどめる黒い天然記念物のようだったかもしれない」といった表現は、ほとんど詩句だ。
短いエッセイの結びもいい。余韻を残す締めくくりだ。浅川マキの最後の時代に彼女の歌に寄り添ったライターらしい筆だと思う。まぁ、30代というのは、頭も体もエンジン全開というとき。それを改めて確認させられるような一文だった。
「彼女がビリー・ホリディにあてた言葉を、今度はあたしが浅川マキにたむけてみる。『時は流れて、すぐに忘れてしまうだろう。でもこのひとすじの声がわたしをどうしようもなくしてしまうのだ』。亡くなるたった数週間前、2009年12月、毎年恒例となっていた新宿PITINNの年末ライブで浅川マキはアンコールのかわりにこう言ったー緊張感のある日常をどうぞ!」
「浅川マキにとって流れること、移ろい、あるいは旅そのものが人生の通奏テーマとしてあった・・・」。浅川マキは、確かに、そういう言い方が似会う。そんな歌のひとつが「にぎわい」だ。
にぎわい
作詞・浅川マキ 作曲・かまやつひろし
(1番のみ。2、3番略)
ほんの少しばかり 遠出したくなった
今夜のおれは 何処へ行くのだろうか
車の揺れるのに 身を任せながら
想い出さずには いられなかった
ちょうど この港がにぎわってた
あの頃のことを
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