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2011年4月

2011年4月30日 (土)

石巻の泥退治を続ける「チーム日光」  M9・0東日本大震災(31)

P1050130_2(泥バスターズで汗をかく「チーム日光」の面々=26日、宮城県石巻市 以下、いずれも石巻市で。写真提供はブログ「日光を漂ふ」さん)」P1050059(参加者によると、今回は泥や瓦礫を運ぶ距離が長くなったという=26日、石巻市)

 災害支援「チーム日光」は28日まで2泊3日(一部は日帰り)で石巻市の民家の泥バスターズ(泥退治)をやってきた。20数人という大人数での支援は4月上旬に続いて2回目。無事に任務を果たしてきた。

 その現地の様子をブログ「日光を漂ふ」さん経由でアップへ(「チーム日光のキセキ」でも)。前回に続いて参加したメンバーによると、泥や瓦礫を運ぶ距離が長くなった。今回はとくに熱さとの戦いでもあったという。P1050222(今回の活躍ぶりもわかる千葉県から参加した「かんちゃん」=27日)P1050206  熱さといえば、私が13日に日光市被災者支援ボランティアとして福島県相馬市で泥バスターズをやった際に思ったのは、着替えの下着のこと。泥バスターズで汗でびっしょりになったが、下着のシャツを持たないで出掛けてしまった。その反省がある。

 4月初めの石巻はまだ寒かったが(私は前回の2日目、就寝時間は数時間)、すでに黄金週間。今度は気候も含め、熱さ対策も必要で、着替えの下着はぜひものに。びっしょりのままだと、あとで風邪をひくなどしてしまう恐れがある。衛生面でもさらに注意したい。P1050267 P1050283 (被災した大橋さんのこんな笑顔を見ることができた=27日、石巻市)

 メンバーによると今回は夕食で外国のボランティアチームや国内NPO、有名ホテルのボランティアチームなどとも親しく懇談したという。被災者のために「現場へ」という志を同じくする者同士、さぞ、うれしい時間を持てたろう。

 それにしても、「チーム日光」が泥バスターズで向かうきっかけになった石巻の大橋さんの笑顔が印象的だ。私が前回(8、9、10日)行ったとき、大橋さんのこんな笑顔は見ることはなかった。少しでも前に進んでいるということだろうか。P1050169 (今回、初参加で活躍した「鹿沼チーム」の面々=26日夜)

P1050286 (被災した大橋さんを囲んで写真に収まる「チーム日光」のメンバーたち=27日、石巻市)

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2011年4月29日 (金)

いよいよ春 ゆったり森の空間へ 霧降高原「森の図書館」今季開館

Dscn1947 (今季も29日に開館した日光霧降高原「森の図書館」=29日、日光市所野)

 日光霧降高原の広大な森の中にある霧降高原「森の図書館」(観光施設「霧降高原チロリン村」内)が29日、今季も開館した。今季もこれから晩秋まで開く(無料)。

 開館時間は基本的に「チロリン村」が営業している午前9時から午後5時まで(火曜休館)。チロリン村内のお土産コーナー「ふくろう工房」か「カフェ・アウル」で、「森の図書館へ」と、スタッフに声をかけてくれれば、図書館のカギを渡してくれる(そこから図書館まで歩いて数分)。

 

Dscn1944_2(霧降高原チロリン村内の森の中にある小さな日光霧降高原「森の図書館」=29日)

Dscn1950 (「森の図書館」に寄贈された絵本「はらぺこ あおむし」と「死に急ぐ奴らの街」)

 蔵書は少ない。最初から多くの蔵書を求めてはいない。NPO法人「アースマザー」(事務局・東京)の協力を得て、開館させた「日光森と水の会」は「必要なのは何万冊という本ではい。その人が大きな共感を受けた大切な一冊だけでいいのです」と

 「大切な一冊」を森の図書館のベランダや周辺の森で読むことで、それを寄贈した人とのつながりも生まれるのではないか、という思いがある。同時に、ふだんせわしい日々を送っている人たちにゆったりした時間が流れる森で、本を片手にのんびり過ごしてもらいたいとも思っている。図書館の近くにはツリーハウスもある。 

 「森の図書館」の館長でもある私、「砂時計」は、ともかく1000人の1000冊を寄贈してもらおうと考えている(できればこの3年間のうちに。何万冊といった蔵書は考えていない。保管するスペースもないが~)。「大切な一冊」が1000冊集まると、ひとつの量から質に転換すると思っているからだ。

Dscn1972(「森の図書館」近くに暮らす「くまさん」が29日寄贈してくれた開高健の「オーパ!」)

Dscn1963(「森の図書館」のベランダから眺めた周辺の森の様子=29日、日光市所野)

 ごく最近、災害支援「チーム日光」で石巻泥バスターズに2度も参加した千葉県船橋市のカンクラさんがカラフルな絵本「はらぺこ あおむし」を、やはり「チーム日光」で日光市内のカミヤマさんが文庫本「死に急ぐ奴らの街」(火浦功)を寄贈してくれた。

 開館初日のこの日、この二冊を書棚に収めようとしていたところ、図書館にごく近い「竿師熊」こと、くまさんが開高健のブラジル釣り紀行「オーパ!」(ブラジルの人たちが驚いたり、感嘆したりしたときに発する言葉だそうだ)などを寄贈してくれた。

 今季の開館初日に三人から三冊の寄贈本。こいつは春から縁起がいい~。そんな初日でした。三人のみなさん、どうもありがとうございました。また、ブログをご覧の少数の読者のみなさん、霧降高原「森の図書館」に訪れる一方、「大切な一冊」の寄贈も、よろしくお願いいたします。送っていただく先は以下の通りです(寄贈する際は本の余白に寄贈日と住所、名前の署名をぜひ)。

〒321-1421 栃木県日光市所野1541の2546

霧降高原「森の図書館」館長   富岡洋一郎      

Eメール qk3y-tomk@asahi-net.or.jp

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2011年4月27日 (水)

海や土を、自然を想定外にしていたのだ M9.0東日本大震災(30)

Dscn1794  (アースデイ那須2011のライヴトークの合間に空にくっきりと二重の虹が=24日、那須)

 発明家で原発に詳しい藤村靖之さんと文化人類学者、辻信一さんのライヴトーク「希望の未来を考えるお話会」が24日、那須町の非電化工房であった。「アースディ那須2011」のメインプログラムで、会場は若い人を中心になごやかな熱気に包まれた。

 午後2時半から午後5時まで。途中、二重の虹が空にくっきり描かれたので、トークを中断し、みんなで眺めるといったゆったりした時間だったが、話された内容はいずれも魅力的。イメージとしては大学の自主講座といった感じだ。

 詳しい内容の方はユーチューブにアップされているので、それをじっくり聞いてみて欲しいが、私が感銘というか、ある種のひらめきを感じたフレーズに、こんな指摘があった。辻信一さんが大震災と原発事故について触れた見方だ。

 「私たちは海を、土を、つまり自然を想定外にしていたのではなかったか」

Dscn1810 (ライヴトーク中の藤村靖之さん・左と辻信一さん=24日、那須の非電化工房)

 2時間以上の対談には傾聴すべき多くの指摘や考え、紹介があったが(例えばブータンの国民総幸福指数・GNHなど)、私はその「海と土、自然を想定外にしていたのではなかったか」という言葉が、とても新鮮に思えた。

 震災前も海や土、自然はあったが、実はなかったのでは。というのが辻さんの考えだ。この魚がどこの海から獲れたか、土はコンクリートの下にあり、視えていない。つまり、私たちの関心外にあり、保障や年金などの社会的な仕組み、あるいは原発安全神話などの「想定内」で生きていたはずだという。

 それが大震災と原発事故でめくれあがり、海や土、自然があることを、あるいは忘れていたその原初的なものを想起させたのではないか。そうしたものを想定外にしていた私たちは、いちがいに東電を責められないのはないかといった趣旨だ。 

Dscn18171(ライブトークには若い人を中心に多くの人たちが熱心に耳を傾けた=24日、那須)

 東電についての言及は私は保留だが、その前の「海、土、自然」については、「なるほど」と思わされたというのは、私が4月1日に陸前高田市の惨状に接したとき、視線は定まらず、その光景をどう表現していいのか、わからなかった。そんな思いがあったからだ。

 〈どうして、その瓦礫だらけの光景をことばにできないのか〉。私は不思議に思っていた。それを詩にしてみたが、まだ、そのときの全部を描けたとは思っていない。そのヒントが辻さんが指摘してくれた「海や土、自然を想定外にしていたのではないか」ということだった。

 それが頭の中でスパークしていたので、「会場から発言」。私が災害支援「チーム日光」のメンバーであることを伝えながら、辻さんの指摘で、陸前高田市に立ったときのなんともいえない感情の意味がある種、納得できたと発言した(いつも一言多いのが私なので~)。

 さらに27日のブログでも伝えたが、「今こそ、ふだんは気恥ずかしい愛、優しさ、思いやりといった言葉に内実を与える新しい時代にきているのではないか(「誠実さ」と「勇気」も加えるのを忘れていた~)」と、会場内に伝えたことだった(会場には「チーム日光」の若いメンバーが何人も参加していた)

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2011年4月26日 (火)

愛や誠実、やさしさ、勇気の「チーム日光」  M9・0東日本大震災(29)

Dscn1938 (石巻で泥バスターズをやる道具類を積み込んだ「チーム日光」のダンプカー=25日)

 災害支援「チーム日光」は26日早朝、泥バスターズをやるために石巻に向かった。マイクロバスやダンプカーなど4台、ボランティア20数人。28日まで石巻専修大キャンパスにテントを張っての泥出し協力隊だ。

 大人数で向かうのは8、9、10日に続いて2回目。代表の小坂さん、徳さん、ともちゃんは何回も、あくつさん、かんちゃんらは前回も現地に出向いているが、多くが今回が初参加。青年も女性も中高年もという集団だ。

 参加者は日光を中心に宇都宮や鹿沼、千葉県など。なかには日光市被災者支援ボランティアとして、13日に福島県相馬市の泥バスターズに加わり、さらに今回の「チーム日光」に参加した元日光市部長や山岳経験が豊かな高年者も。

 

Dscn1927 (現地・石巻の作業日程などを確認しあう「チーム日光」のメンバー=25日、日光)

 今回の震災について、作家・詩人、元共同通信記者の辺見庸さん(石巻市出身)が岩手県の地元紙「岩手日報」に「震災緊急特別寄稿 人智では制しえぬ力」で、非常に意味が大きい言葉をしぼりだしている。

 「ひたすらに誠実であれ」という見出しが付けられたその寄稿の中で私の胸を打ったのは、いつくかの以下のフレーズだ。

Dscn1906 (現地の事情などについて説明する「チーム日光」代表の小坂憲正さん=25日)

 「われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非論理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている」

「見たこともないカオスのなかにいまとつぜんに放りだされら素裸の『個』が、愛や誠実ややさしさをほんとうに実践できるのか。これまでの余裕のなかではなく、非常事態下、絶対的困窮下で、愛や誠実の実現が果たして可能なのか」

「混乱の極みであるがゆえに、それに乗じるのではなく、他にたいしいつもよりやさしく誠実であること、悪魔以外のだれも見てはいない修羅場だからこそ、あえてひとにたいし誠実であれという、あきれるばかりに単純な命題は、いかなる修飾もそがれているぶん、かえってどこまでも深玄である」

Dscn1934 (テントや水、スコップなどを積み込む「チーム日光」のメンバー=25日)

 辺見庸さんのこの文章をもう一度、読み返してみると小坂さんが、「チーム日光」がやってきたこと、やろうしていること、というのは、結局は、こういうことなのではないかと思えてきた。

 つまり「ひたすらに誠実であること」、愛ややさしさ、勇気、あるいは思いやりといった「モラルの根源」(辺見庸)、「ひととして生きるための倫理の根源」を、そのまま、意識的・無意識的にも、実践していこうということだと思う。

 そうした愛や誠実、やさしさ、勇気、思いやりは、これまで余裕のなかで演じられてきた。私からすれば、どうも嘘っぽさを覚えてしまい、それから距離を置いてきた倫理的な言葉だ。しかし、「3・11後」に生きていく私たちは、そうした「倫理の根源」をたえず、自らに問いかけていくことになるだろう。

2011年4月23日 (土)

日光市被災者支援ボランティアが視た福島・相馬  M9.0東日本大震災(28)

Dscn1570 (ボランティア先の相馬市新田に入り、最初に飛びこんできた水田の光景=13日)Dscn1589 Dscn1639 (ボランティアに入った相馬市新田の小島さん宅周辺・上・とそこから海よりの道路の様子・下)

 日光市災害ボランティアセンターによる13日の相馬市の支援について、22日にアップしたが、まだ伝えたい写真があることに気づいたので、再び相馬市から。とにかく遠くの防潮林がなぎ倒され、水田はそのマツの倒木がごろごろ。とにかく木材があちこちに転がっているのが目に焼き付いた。

 この新田の農家によると、津波は「もっこりもっこり」と襲ってきた。高さは20mにも感じられたという。実際は水が引いた家屋を見ると、ヒトの胸の高さあたりまで。ところが、海岸に近い名勝地、松川浦周辺では、襲ってきた津波で建物がローラーに引かれたようになっていた。

 大震災を記録していくということも意識し、これらの写真をアップするが、気になったのは相馬市災害ボランティアセンターにあった泥バスターズの注意事項。実際の現場では、帽子も手袋もあると良いではなく、それらとメガネやゴーグルは必ず身に付けることが必要だ。それらをしっかり身につけて作業を行うよう、さらに呼びかけてほしいなと思ったことだった。

Dscn1648 (福島県相馬市の松川浦周辺の様子=13日)

Dscn1655

Dscn1663

Dscn1657 (陸に乗り上げた船など上から4枚の写真はいずれも相馬市松川浦周辺の被害の様子=13日)

Dscn1626 (ボランティア作業を終え、お互いに長靴を洗い合う仲間=13日)

Dscn1666

Dscn1668

Dscn1672(相馬市ボランティアセンター内に張ってあった泥バスターズの注意事項=13日)。

 石巻や相馬の泥バスターズの体験者としていえば、防塵マスクはもちろん、手袋や帽子は必携。それにメガネ、ゴーグルも。さらに首にタオル、腰にポーチ、上下の雨合羽。胸章や腕章など所属がわかるものを。

 さらに支援に入る現場にもよるが、ホウキの大小、チリトリ、タワシやミニブラシ、デッキブラシ、バケツと大量のタオルと土納袋、床をはがすバールやノコギリなどの道具類も。場所によってヘルメットも必要になる。もちろん、大量の水も(水道が出るところは大丈夫だが)

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2011年4月22日 (金)

福島・相馬市の農家の納屋に「海の幸」という超現実  M9・0東日本大震災(27)

   Dscn1617 (福島県相馬市新田の農家の納屋に津波で漂流していたスズキの幼魚、フッコ=13日)

Dscn1647 (福島県相馬市の松川浦周辺の惨状 ここでも船が乗り上げている=13日)

Dscn1595 (松川浦の大洲公園のなぎ倒された松が水田一帯に=13日、福島県相馬市新田)

 日光市災害ボランティアセンターによる福島県相馬市の災害支援が13日あり、砂時計もその一員として加わってきた。相馬市は二宮尊徳翁ゆかりの城下町。名勝地、松川浦(松川浦県立自然公園)がある美しい街だが、朝日新聞によると、17日現在で、死者425人、行方不明約100人という犠牲者が出ている。

 ボランティアは約30人。午前4時半に日光を出発し、4時間後の午前8時半には現地の相馬市災害ボランティアセンターへ。「チーム日光」からは私のほかにヨシナリクンとオオフジさんの3人が参加。センターの依頼で男子は農家の「肥料運び」(一人だけ女性も)、女子は「介護施設」や「避難所」の運営のサポートへ。

 「肥料運びだから、スコップはいらない」ということで、スコップはボラセンへ置いたまま。ところが、現地の相馬市新田(ニイダ)の専業農家に着くと、そこは当日、胸の高さまで津波が押し寄せ、自宅も納屋も泥だらけ。メンバーが置いてきたシャベルを再びとりに戻るということも(まだ想像力が足らなかったのだ)。

 当日の13日と16日のボランティア作業やボランティアたちの感想は日光市災害ボランティアセンターのブログhttp://blogs.yahoo.co.jp/nikkovolunteer

 Dscn1620 (津波の泥が堆積したひび割れた水田=13日、相馬市新田)

Dscn1612 (農家の納屋周辺で見つけたカニ。えっカニ~と=13日、相馬市新田)

Dscn1597 (コンバイン周辺の泥を退治する日光市被災者支援ボランティアたち=13日)

 作業は最初こそ、泥にまみれた肥料袋を運び出し、積み上げていくものだったが、納屋そのものが泥まみれ。農機具の下に潜り込んで、泥をかき出す作業、さらにコンバイン周辺の泥を運び出す作業と、やはり「泥バスターズ」が基本作業だった。

 ヨシナリクンが「においがおかしいと思っていた」と、あきれながら、スコップから投げてきたのは、鮭に似たかちんこちんのサカナ。「スズキではないか」の声に、この農家の主、小島(オジマさん)さんが「それはスズキになる前のフッコ」だといい、「そのあたりの田んぼにはボラがかなりいる」と、こともなげに言う。

 海岸から数キロのこの地点だが(約3㌔と言っていたかな)、納屋からフッコやカニも。ここでも超日常が目の前に。お昼にボランティアに参加したテヅカさんからいただいたシャけのおにぎりや持ってきたソーセージやパンにかじりつきながら、あたりの水田を見渡すとー。防潮林、防風林だった海沿いのなぎ倒されたマツがあたり一帯に。

Dscn1580 (農家の納屋の中にたまった泥をかきだす日光市のボランティアたち=13日、相馬市) 

Dscn1579(ボランティアの仕事は泥で汚れた肥料の積み出しも=13日)

Dscn1600(スコップですくいだした泥は農家の小島さんが操るブルで何度もあぜ道へ=13日)

Dscn1630_2 (ボランティアを終え、農家の小島さん親子と写真に収まるボランティアたち=13日)

 私たちがボランティアで入った小島さん方は24ヘクタール(24万平方㍍)の水田を経営する大きな専業農家(野菜も少し)。そのうち約16ヘクタールは津波にやられ、残るは約8ヘクタール。海水の塩が混じった泥は約20センチほど堆積しているといい、「今後4、5年は水田をやることができないかも」という。

 ただ、というか、しかし、というか、小島さん方では約8ヘクタールは無事だった。「全部やられたら、農家を辞めることができるが、8ヘクタールは残っだ。なんとも中途半端な被害」と。さらにヤンパチ気味に「どうせなら、すべてやられてしまったほうがよかったかも」とも。

 というのも、専業農家として、今後8ヘクタールでやっていけるのか、あるいは、いずれ、失った地力をなんとか戻すことで、それ以上の水田でやっていけるのか、それによってそろえなければならない農機具類などが大きく変わってしまう、そんな悩みがあるからだという。

Dscn1564  (「相馬市災害ボランティアセンター」があるビル、2階が入り口だ=13日)

Dscn1566 (相馬市災害ボランティアセンター前で次の行動に備えるボランティアたち=13日)

Dscn1669 (相馬市災害ボランティアセンターの「ボランティ受付」の様子、壁に「震災を乗り切ろう そうま魂」=13日)

作業を終えて、被害が甚大だった海岸沿いの松川浦を回ったが、その一帯は瓦礫の山。岩手県陸前高田市もそうだったが、津波で押しつぶされた街は大なり、小なり、同じように瓦礫、瓦礫、瓦礫ーーー。その凍えるような光景だけだった。

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2011年4月15日 (金)

石巻支援で「チーム日光」が泥バスターズ(3・完) M9・0東日本大震災(26)

Img_0479

Img_0476

Dscn1454

Dscn1367 (宮城県石巻市の9日、10日、4枚とも)

 民間有志の災害支援団体「チーム日光」は石巻市の民家の泥バスターズを基本に2泊3日(8日~10日)のボランティアをこなした。それを(1)(2)とブログにアップ、さらに(3・完)をアップしようとしたところで、私は13日に今度は福島県相馬市の災害支援へ(「日光市被災者支援ボランティア」として)。

 ブログをアップする時間がとれず、ややタイミングが遅れてしまったが、(3・完)もこれで。今回は被災地そのものというより、野営地・石巻専修大の様子や石巻市災害ボランティアセンター、ボランティア連絡会議の様子なども。

 さらに同大キャンパスの案内図、キャンプでの決めごと、大事なトイレの様子なども。石巻市で泥バスターズなどで出掛けたい人のためにも、それらをアップすることに。最後にひと仕事を終えた「チーム日光」の面々もアップした。以下は写真で(「チーム日光」」のみなさん、1、2、3の「砂時計主義」に掲載した約40枚の写真はぞんぶんにお使いください。無断転用どうぞ、てなもんです~)。

Img_0407 (初日の泥バスターズを終え、テントを張る「チーム日光」=8日、石巻専修大)

Dscn1430 Dscn1424 (石巻専修大キャンパスの案内図と石巻市災害ボランティアセンターの所在地・現在地)

Dscn1422 Dscn1419 (ボランティアセンター入り口とボランティア連絡会議の内容=8日)

Img_0459 Img_0461 (清潔な石巻専修大の野営地の簡易トイレ そのための「そうじ」も)

Dscn1439 Dscn1441 Dscn1444 (「チーム日光」の上から1班、2班、3班=9日)

Dscn1399 (「地震雲」?、石巻専修大キャンパス=8日)

Img_0486 (2泊3日の泥バスターズを終えた「チーム日光」=10日、東北道・那須高原サービスエリア)

2011年4月12日 (火)

石巻支援で「チーム日光」が泥バスターズ(2) M9・0東日本大震災(25)

        Dscn1469 (鈴木公二さん宅の茶タンスを運び出す「チーム日光」の二人=9日、石巻市)

Dscn1473 (「チーム日光」のボランティアが運び出した茶箪笥は瓦礫の山の中へ=9日、石巻市)

 石巻支援の「チーム日光」の2日目、9日はチームを3班(リーダー各2人)に分けて、各家庭の泥出しや畳や家具など家財道具などの運び出しへ。私は12人と最も人数が多い第2班。まず一階が津波でやられたお宅へ。

 最初は畳を出すことから。ふだんの畳ではなく、海水を含んでいるため、その重いこと。2人ががりでもようやくという重さだ(一人ではとても運べない)。

 この家を担当した第2班メンバーによると、この民家の九十歳過ぎの母親はふだん2階で寝ていたが、3月11日の前日に地震があり、一階で寝起きすることにした。その方がすぐに逃げられるという判断だった。

 息子さんは当時、仙台にいた。「一階に津波が来ても、ベッドで浮いているかもしれない」。その期待もむなしく、息子さんが仙台からようやく帰ってきたときはー。母親への配慮が結果的に悲しい結末に。

Dscn1503(玄関周辺の泥出しに懸命な「チーム日光」=9日、石巻市)

Dscn1465(茶箪笥の品々をていねいに取り出す「チーム日光」=9日、石巻市)

Dscn14951(瓦礫の中から大学生の佐藤直人君が見つけ出した「アルバム」を開けると・上  母親の看護師学校の卒業証書などが収められていた・下)

 続いて、小坂代表が石巻支援に乗り出すきっかけとなった大学生・陸君の友人で専門学校生、鈴木公二君(21)のお宅。台所や居間、お風呂場、庭先などの泥出し、さらに道路に積み上げられた瓦礫の選別と撤去などへ。

 会社員の父親・佐藤信幸さんと参加した大学生の佐藤直人君(19)が、泥で埋まった瓦礫の中から一冊の「アルバム」を見つけた。津波でよごれたそのアルバムを開くと。

 鈴木公二君の母親、鈴木公美さんの看護師学校の卒業証書などが。危うく茶箪笥とともに投げ出すところだった。大事な卒業証書は大震災から1カ月で、家族の手元に戻された。

Dscn1496_2

Dscn1483(瓦礫に囲まれた道路に立ちながら、しばしの休憩をとる「チーム日光」=9日、石巻市)

Dscn1511(泥出し作業を終え、お互いに長靴を洗いあう「チーム日光」のメンバーたち=9日)

 その鈴木君、大震災当日は自宅近くにおり、津波被害をもろに受けた一人。「あと一分遅れていたら、どうなっていたか」。危機一髪だったという顛末は作業を終えるところで、聞いた。

 というのは、鈴木君は大震災のとき、車に乗っており、自宅近くのパチンコ店の広い駐車場(今は支援にあたる自衛隊の車両基地的になっている)へいったんは避難。しかし、予想もしていなかったという津波が来襲することがわかり、車を捨てる判断をして、自宅へ向かった。

 自宅近くではもう胸までの津波。「どのように自宅にたどりつき、2階に逃れたのか、よく覚えていない」。パチンコ店の駐車場には車で多くの人たちが避難していたが、車はすべて流されてしまっていたという。鈴木君も間一髪のところで、犠牲を免れた一人だったのだ。

Dscn1527(日光市商店連合会が提供してくれたベースキャンプのテント=石巻専修大キャンパス)

Dscn1559 (現地で合流した福島県の「チーム日光」の4人=9日夜、石巻専修大キャンパス)

Img_0427(あくまで石巻で暮らしていくという陸君のお母さんによるテント形式の「居酒屋」と小坂代表=9日夜、石巻専修大キャンパス)

 鈴木君は最終的に津波から逃れることができたが、甥っ子の小学生が犠牲になっていると、重い口調で話した。甥っ子は大川小学校に通っていた。朝日新聞によると、108人の在籍児童のうち、9日現在、死者64人、行方不明10人、約7割が犠牲になった。その一人だったのだ。

 「先生たちと児童らはすでに地域の人と一緒に山側の出入口を抜けて堤防の高いところへ避難しようとしていた。突然、激しい突風に続いて大きな音が聞えた。津波が道路に沿って迫ってくる。そしてー」(朝日新聞10日付朝刊39面 石巻の大川小。点呼終え高台へ。その児童の列を、水の塊が襲った)

 鈴木君が語ったことで印象的だったのは、「石巻では大津波が襲って来るなんてことは、多くの人が考えていなかったと思う」という言葉だった。

 

2011年4月11日 (月)

石巻支援で「チーム日光」が「泥バスターズ」(1) M9・0東日本大震災(24)

  Dscn1373  (石巻市の大橋正美さん方で庭の泥を片付ける「チーム日光」のボランティア=8日午後)

Dscn1531

 大震災の東北を「人の縁」から支援するため生まれたばかりの民間有志の災害支援団体「チーム日光」(小坂憲正代表)は、8日から2泊3日の日程で、宮城県石巻市で「泥出し協力隊(「泥バスターズ」)を基本に、ボランティア活動にあたった

 大震災からすでに1カ月。それでも石巻市の中心部はまだ泥と瓦礫が占領している。折り重なる瓦礫はあちこちに商店街の道路は瓦礫の山が延々と続いている。陸地に乗り上げた船、逆さに立っている車。超日常の光景が転がっている。

 8日午前6時過ぎに日光を出発したが、現地に着いたのは昼過ぎに。東北道から入ろうとしていた三陸道がつい半日前、7日夜の大余震で通行止めに。段差ができた迂回路などを行き、停電でも営業しているコンビニを横目に石巻市へ。 

Dscn1375大橋さん方の泥をホウキやタオルなどできれいにする大橋さんと「チーム日光」=8日)

Dscn1337石巻市に向けて出発しようとする「チーム日光」のマイクロバス=8日午前6時過ぎ)

(gDscn1353(瓦礫の山の石巻市中心部を行く「チーム日光」を乗せたマイクロバス=8日昼ごろ)

 「チーム日光」に参加したのは、日光を中心にお隣の塩谷町、宇都宮、小山などの栃木県、さらに茨木県、千葉県、群馬県、東京都と首都圏から。遠くは兵庫県や福島県からも。

 親子連れ、ご夫婦、大学生や石巻市で合流した4人など総勢34人。初めは10数人で向かうことを想定していた。それが口コミやブログで知られ、さらに朝日新聞や読売新聞などマスコミでも報じられ、二倍以上の参加となった。

 「テレビで惨状を見ているだけでいいのか、自分も何か現地を支援する具体的なことを」「阪神淡路大震災のときは子育てなどで駆け付けられなかった。その悔みからも今回は現地へ」「現地で暮らす被災者に本当に役に立てる具体的な支援をしたかった」

Dscn1356 (陸地に船が乗り上げたり、車が逆さまになっている光景が転がっている石巻市の惨状=8日昼ごろ)

Dscn1382 (「チーム日光」の助っ人で、ようやく床が見えはじめた大橋さんの自宅=8日午後)

Dscn1383(帽子、メガネ、マスク、手袋、カッパ、長靴と「完全装備」で泥退治をする「チーム日光」の腕章をしたボランティア=8日午後、大橋さん方)

 さまざまな動機で「チーム日光」に加わったボランティアはマイクロバス、ダンプカーなど4台に分乗。めざしたのは小坂憲正代表が避難所で知り合い、途方にくれていたハウスクリーニングの大橋正美さん(44)方。津波で1階はすべて、2階も約70センチが水につかってしまったという。

 「チーム日光」が訪ねたとき、小坂代表によると、泥や瓦礫だらけだった自宅はかなり片付いていた。私たちの助っ人がくる間、頑張って片付けていたことがわかるという。

 まず、泥で固まった庭先を掘りながら、一輪車を使った泥出しへ。さらに泥が詰まった押し入れや台所周辺の清掃などへ。板敷きは荒い清掃、中間的な清掃、最後にきれいな水でふきとる方法で。断水だったことでダンプカーに積んで運んできた水タンクが大いに役立った。

Dscn1388 (近くの湊中の避難所で受け取ったハートを施した支援物資の軍手・上。それを手に心遣いに感謝したいという大橋正美さん・下)

Dscn1390

Dscn1410  (石巻専修大・五号館で、7時から開かれている災害ボランティア連絡会議。30人余で泥バスターズにあたった「チーム日光」も全員が参加し、この日の行動を伝えた=8日夜)

 「チーム日光」の手助けを喜んだ大橋さん自身もこの日、竹ぼうきなどを使い、大いに泥退治に動き、仕分役もしてくれた。そろそろ仕事も終えようとするとき、「チーム日光」の「取材班」の腕章をつけた私に大橋さんから声がかかった。

 「これを見て欲しい」。<何かな?>と思い、よく見ると、軍手にハートのマーク。避難所でいただいたという。送り主はわからないが、その心遣いがうれしかったのだろう。大橋さんが微笑みながら話してくれた。

 当面の「泥バスターズ」を終え、マイクロバスなどで今夜の野営地、石巻専修大キャンパスへ。ボランティアたちが手を握り、手を振る。大橋さんと父母の家族3人が泪で光った瞳で、私たちを見送ってくれていた。

2011年4月 5日 (火)

詩 ほんとうのことに向き合わねば 黒川純 M9・0東日本大地震(23)

 Dscn12651_2 (私、「砂時計」が4月1日に視た岩手県陸前高田市気仙町のしい~んとした惨状)

 

 詩 ほんとうのことに向き合わねば

          -岩手県陸前高田市からー 

           黒川純

陽光が古ぼけた茶褐色で埋まり
海の街がうめき声をあげていた
私の視点は揺ら揺らと定まらず
存在という存在は影絵でもあるという
カナリアの悲痛な声を確かに聞いた

気仙小に積み重なった息絶えた車の山
ぺしゃんこに横たわった金剛寺本堂
プラットホームが引き裂かれた竹駒駅
水平になった気仙川沿いの道路標識
数百㍍先の気仙中までさらわれた民家

高さあるものはすべて憎まれたか
瓦礫の世界がどこまでも果てない
1千年間、だれも見たことがない
海底から生まれた海鳴りがのしかかり
大地に根づいた生活をつぶし去った

天国と地獄を子供たちまで焼き付けた
深い海の巨大なエネルギーは
冷やかに告知するかのようだ
シーラカンスからの世界を支配するのは
電力なしに暮らせないこの大地ではない

春のない寒空に投げ出された人々に
思いやりと勇気ある優しさを投げ出し
震えた悲しみに息詰めている人々に
なんとか再び立ち上がってもらえるよう
希望というやつに両手で触れられるよう

静かに哀しむ人々は私自身の現在であり
私の明日を投影するものだから
私のDNAが救われるためにも
はすに構えた誠実さに命を吹き込み
ほんとうのことに向き合わねばならぬ

  春本番に発行される詩誌「コールサック 69号」(年3回刊・東京)に、きょう5日、メールで詩「ほんとうのことに向き合わねばー東日本大震災・岩手県陸前高田市からー」を、黒川純(ペンネーム)で編集部に送った。

 岩手県の民間有志の復興支援組織「ゆいっこ」に、日光を中心とした友達20数人の「応援物資」を届けたのが3月31日。翌4月1日に北上市から車で2時間弱の陸前高田市へ。

 「壊滅的」と報道されており、想像はしていたものの、その光景にはあぜん。そのなんとも言葉にできない気持ちを、ともあれ、詩のかたちに。編集部からは「延長締め切りも4日がギリギリ」と言われていたので、未掲載になることも覚悟で。

 

2011年4月 3日 (日)

信じることができない陸前高田市の惨状  M9・0東日本大震災(22)

Dscn1263 (2階部分が数十メートルも流され、他の家におおいかぶさった2階の自宅を見つめる避難所暮らしのカンノさん=右=1日、陸前高田市気仙町)

 「応援物資 From日光」の私は岩手2日目の1日、壊滅的な被害を受けた陸前高田市に入った。死者1066人、行方不明約1250人、約1万3450人が避難しているという同市。町に近づくにつれ、4月の光景が茶褐色に変わっていく。

 すべての光景ががれきに埋もれている、その惨状を何といえばいいのか。自分の身体がその光景を信じられない、そんな反応を示している。「詩人」を自称している私だが、それを語る言葉が見つからない。

 それも私が目撃したのは、陸前高田市内の一部。市中心部からみると、気仙川の対岸だ。「ゆいっこ」北上本部に陸前高田へ行くと言うと、「それなら金剛寺の小高いところから見ると、市内全体がわかるはず」。そんな助言を受けていたので、その金剛寺をめざしていた。

 Dscn1262(カンノさんのご近所のオオタニさんの家は津波で遠方の気仙中まで持っていかれた。画面右手に小さく見える赤い屋根の家がそれだ=同)

Dscn1246 (校舎の3階の窓まで津波が押し寄せたことを物語る気仙小の建物=同)

 Dscn1258_2 (津波で流されてきた車が爆発して燃えたという気仙小の体育館=同)

 行く先行く先、延々とがれきの山が続く。なかなか寺らしきもの、金剛寺が見つからない。地図を片手に首をかしげながら、3階窓まで津波が押し寄せたという気仙小のそばで、がれきの中にいた人に聞いてみた。

 津波で家がそっくり流された被災者のペンキ職、オオタニさんだった。「あの遠くに見える屋根だけある建物が金剛寺ですよ」「えっ、金剛寺は倒されてしまっていたのですか」。

 そんな会話から、地震当時の様子、まだ電気も水道もない避難所(元の場所から少し先の月山神社、ガスは使えている)の生活などに話しが及んだ。避難所は最初は約200人いたが、親戚などに頼れる人は出て行って、今は約110人だという。

Dscn1195 (がれきの中にポツンとあったのが竹駒駅だった=「砂時計」の運転席から、同)

Dscn1205 (ホームも駅舎も破壊されていた越前高田駅のひとつ手前の竹駒駅=同)

 そこにオオタニさんのご近所で、やはり、家を失い、同じ避難所で生活しているという大工職のカンノさんと3人の会話となった。オオタニさんは別の町で仕事中で、翌日、陸前高田市に戻ったところ、小学生と中学生の子供や妻など家族5人は無事だったが、家は跡形もなくなくなっていた。

 数日してから、「あれはオオタニさんの家ではないか」と言われた。「あれ」というのは、湾に近い気仙中の校舎近くにある赤い屋根。住宅があった場所から数百メートルも先。そこからかろうじて子供たちのアルバムを、見つけたという。

 カンノさんは父母と3人家族。父と自分は無事だったが、最初、50代の母が不明になっていた。避難所を回り、遺体安置所を回っても見つからない。そうして迎えた3日目、母がひょっこり、現れたという。

Dscn1231 (気仙川の河口近くの道路標識は完全になぎ倒されていた=同)

Dscn1219 (私が目指していた金剛寺は本堂がペシャンコになっていた=同)

 二人とも、今は何をすることもなく、がれきしかない自分の住宅跡に来てしまうのだという。不便な避難所より、無料3食付きホテル・旅館に移ることもできるようになったことも伝えられたが、避難所で手を挙げる人は一人もいなかったという。

 「なぜ。生活は不便な避難所より、ホテル・旅館の方がいいでしょうに」。そう聞くと、二人はこう語った。

 「ホテル・旅館はそんなに長く居られないと思っており、再び、避難所に戻るなら、最初からそのまま避難所にいた方がいい」「避難所の世話は、よく見知った人たち。その人たちが尽くしているのに

 あるいはホテル・旅館に行く時はバスかなんかで送ってもらっても、出て行く時はそんな世話はなく、自分で算段しなくてはいけないと聞いていることも」など。

 送迎のやりかたが、2人の言うようなことになっているのかどうか、わからない。だが、とにかく、どのくらいホテル・旅館で暮らすことができるのか、その期間を心配していたのは確かだ。それに陸前高田市が今、進めようとしている仮設住宅の棟数も「少なすぎるのでは」とも語っていた。

Dscn1227 (気仙大橋はすっかり姿を消し、橋脚だけが立っていた=同)

Dscn1265 (かつての街は辺り一帯、がれきが続く光景に=越前高田市気仙町、同)

 それにしても、気仙小はこの地区の避難所になっていたようが、3階窓まで津波が。避難当時は、多くがグラウンドにいたという。ところが津波が来たことで、すぐそばの山へ。だが、山を登れないお年寄りなどは津波に呑まれてしまったという。

 それにグラウンドの車の中にいた人も。子供たちの中には津波に流されていく人たちも見ているという。それこそ、地獄のような光景だったろう(保育園児たちは先生たちが最初から山にあげていたことで助かったという)

 生と死、そのどちらかの道が一瞬のうちに。そんな体験が陸前高田市の住民を襲った。印象に残ったのは、カンノさんのつぶやきだ。津波はずっと意識していたと言ったあとで、語った話だ。

 母親は半世紀前の「チリ地震」(1960年)について、「津波といっても、あのときも家の床までしか来ていない」。そう聞かされていたという(ウィキペディアによると、チリ地震で大船渡では6㍍の津波が押し寄せ、50人以上が犠牲になったとあるが?)。

Dscn1209 (どこまでもがれきが続く陸前高田市。緊急車両も狭い土道をそろそろと=同

 オオタニさんは「まさか、こんな遠いところまで津波が来るとは思わない。今は家を建てることを考えることができない」とも。「欲しいものは」の問いに、カンノさんは「テレビかな」。それに私がうかつにも「パソコンは使えますか」。返ってきたのは「電気が来ていないので」

 「避難所暮らしで必要なものがあったら、花巻や北上の復興支援組織『ゆいっこ』と連絡をとるので、どうぞ、私に連絡を」。私の連絡先が記載されている「日光市被災者支援ボランティア」の名刺を手渡し、そのように伝えてきた(が、今のところ、連絡はない)

 

2011年4月 2日 (土)

応援物資届け、三陸沿岸への熱い思いに感嘆 M9.0東日本大震災(21)

Dscn1165 (「From 日光」の応援物資を前に、写真に収まってくれた「いわてゆいっこの会」花巻支部のボランティア、中央が応援物資リストを受け取った増子義久事務局長=3月31日夕、岩手県花巻市)

 岩手に暮らしたことがある「砂時計」の呼び掛けに応じて、たくさんの友人・知人などから託された「応援物資 From日光」は、31日夕、無事に岩手県に届けました。報告が遅れてしまい、恐縮しています(2泊3日の岩手から、本日2日夜、帰ってきたところです)。

 手渡したのは民間の復興支援組織、「いわてゆいっこの会」花巻支部(本部は北上市)。私の先輩である地元・花巻市議の増子義久事務局長らが待ち構え、ボランティアのみなさんが次々と「From日光」の応援物資を物資仕分け所に運んでくれた。

 同会は北上の本部のほかに、花巻、盛岡、西和賀、横浜に支部がある。九州の熊本にも支部が生まれたというホットニュースも。岩手県県内各支部は、それぞれ、宮古や山田、大槌、大船渡、陸前高田など、壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の各都市・地域を分担して、被災者の支援にあたっている。沿岸から大型バスで内陸部の花巻温泉に送迎している企画は大変に好評のようだ。

 発足は3月16日。新潟・中越地震でのボランティア経験などから、組織を立ち上げ、すでに半月。今では、仕分所に加え(今は受付・連絡所など)、民家の事務所、さらに物資集積場(新たな仕分場か)も持つようになっていた。

 ただし、ガソリンが出回るようになり、青空スーパーも開店し始めたことで、被災者への物資はほぼ足りるようになってきたという(基本的にもう支援物資の受け取りは終了。ただし、下着や長靴、新鮮な野菜、果物など、「ピンポイント」で必要なものがあるようだ) 

 Dscn1160 (砂時計の車から「From日光」の応援物資を運びだす「いわてゆいっこの会」」のボランティア=31日、花巻市)

 Dscn1156 (「いわてゆいっこの会」花巻市部の物資仕分け所の表通り側)

 Dscn1169 (品目別にわかりやすく、大きく仕分けされた支援物資=いわてゆいっこの会花巻支部)

Dscn1190 (「いわてゆいっこの会」本部がある北上市の勤労青少年センター=1日、岩手県北上市)

 それにしても、ボランティアの数がはんぱじゃない。北上だけでも300人という。本部の司東道雄代表によると、俳優、歌手、冒険家などが駆けつけ、遠くは九州からも。泊まり掛けで支援にあたっている。

 花巻支部では、空き屋だったホームセンターの建物を花巻市の実力者、市商工会議所会頭であるオーナーから「今こそ、宮沢賢治精神を」と、厚かましく?頼み込み、無償で借り受け、それを新たな物資集積場にしたという。

 2日は内部をきれいに清掃してから、物資の集積場・仕分場をつくろうと、その荷物整理があった。呼び掛けに応じて駆けつけたボランティアの名簿をみると、地元・花巻の若い人たちを中心に42人も(盛岡市からのボランティアも)。

 事務局を担う若い女性が「次はこの物資を」と、声をかけると、一斉に列をつくり、次々と手渡し作業が始まった。その連携の、というか、さっと次の作業に移るスムーズさに感嘆することしきりだ。

 それもそうだが、支援物資の量もはんぱじゃない。10トントラックでやってくる。増子事務局長によると、3日にその10トントラック2台分がこの物資集積場に着くという。全国の大変なエネルギーや思いが三陸沿岸に向かっている。

Dscn1193 (「いわてゆいっこの会」北上本部に積まれた全国からの支援物資=1日、北上市)

Dscn1286(「岩手ゆいっこ」花巻支部の新たな支援物資集積場となった空き屋のホームセンター)

Dscn1273 (物資集積場の整理には地元を中心に42人のボランティアが駆けつけていた=2日、花巻市)

 日光から岩手県花巻まで片道約420キロ。徳さんに20リットル入りのガソリン缶を貸してもらったが、ともかく燃料が3分の2近くになったら満タンへ。そう決めて、東北道で3回給油したが、仙台近くでは、まだ3000円までといった上限もあった。

 日光はもちろん、宇都宮、鹿沼、さくらの各市の思いを込めた応援物資なので、いつも以上に安全に気をつけて走行。福島県や宮城県では自衛隊の「災害派遣」や消防車、給水車などの緊急車両、さらに民間や団体の「支援物資車両」が次々と走り去るのを見かけた。

 初日は応援物資を届けてから、花巻支部事務局で「ゆいっこ」など民間ボランティアの今の課題や今回の大震災からどういうことを考えるべきか、どういうことが言えるのか、そんな会話を増子事務局長と交わすことができた。2日目は三陸沿岸へ。町が消えたといってもいい、陸前高田市へ。

 北上市から奥州市、遠野市、住田町を経て、2時間弱。報道で津波被害のむごさは承知しているつもりだったがー。そこには、とても信じられない荒涼とした光景が拡がっていた。う~ん、この際、日光でも三陸沿岸の被災者を支援する「ゆいっこ」を生み出すことが可能か。

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