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2011年4月 3日 (日)

信じることができない陸前高田市の惨状  M9・0東日本大震災(22)

Dscn1263 (2階部分が数十メートルも流され、他の家におおいかぶさった2階の自宅を見つめる避難所暮らしのカンノさん=右=1日、陸前高田市気仙町)

 「応援物資 From日光」の私は岩手2日目の1日、壊滅的な被害を受けた陸前高田市に入った。死者1066人、行方不明約1250人、約1万3450人が避難しているという同市。町に近づくにつれ、4月の光景が茶褐色に変わっていく。

 すべての光景ががれきに埋もれている、その惨状を何といえばいいのか。自分の身体がその光景を信じられない、そんな反応を示している。「詩人」を自称している私だが、それを語る言葉が見つからない。

 それも私が目撃したのは、陸前高田市内の一部。市中心部からみると、気仙川の対岸だ。「ゆいっこ」北上本部に陸前高田へ行くと言うと、「それなら金剛寺の小高いところから見ると、市内全体がわかるはず」。そんな助言を受けていたので、その金剛寺をめざしていた。

 Dscn1262(カンノさんのご近所のオオタニさんの家は津波で遠方の気仙中まで持っていかれた。画面右手に小さく見える赤い屋根の家がそれだ=同)

Dscn1246 (校舎の3階の窓まで津波が押し寄せたことを物語る気仙小の建物=同)

 Dscn1258_2 (津波で流されてきた車が爆発して燃えたという気仙小の体育館=同)

 行く先行く先、延々とがれきの山が続く。なかなか寺らしきもの、金剛寺が見つからない。地図を片手に首をかしげながら、3階窓まで津波が押し寄せたという気仙小のそばで、がれきの中にいた人に聞いてみた。

 津波で家がそっくり流された被災者のペンキ職、オオタニさんだった。「あの遠くに見える屋根だけある建物が金剛寺ですよ」「えっ、金剛寺は倒されてしまっていたのですか」。

 そんな会話から、地震当時の様子、まだ電気も水道もない避難所(元の場所から少し先の月山神社、ガスは使えている)の生活などに話しが及んだ。避難所は最初は約200人いたが、親戚などに頼れる人は出て行って、今は約110人だという。

Dscn1195 (がれきの中にポツンとあったのが竹駒駅だった=「砂時計」の運転席から、同)

Dscn1205 (ホームも駅舎も破壊されていた越前高田駅のひとつ手前の竹駒駅=同)

 そこにオオタニさんのご近所で、やはり、家を失い、同じ避難所で生活しているという大工職のカンノさんと3人の会話となった。オオタニさんは別の町で仕事中で、翌日、陸前高田市に戻ったところ、小学生と中学生の子供や妻など家族5人は無事だったが、家は跡形もなくなくなっていた。

 数日してから、「あれはオオタニさんの家ではないか」と言われた。「あれ」というのは、湾に近い気仙中の校舎近くにある赤い屋根。住宅があった場所から数百メートルも先。そこからかろうじて子供たちのアルバムを、見つけたという。

 カンノさんは父母と3人家族。父と自分は無事だったが、最初、50代の母が不明になっていた。避難所を回り、遺体安置所を回っても見つからない。そうして迎えた3日目、母がひょっこり、現れたという。

Dscn1231 (気仙川の河口近くの道路標識は完全になぎ倒されていた=同)

Dscn1219 (私が目指していた金剛寺は本堂がペシャンコになっていた=同)

 二人とも、今は何をすることもなく、がれきしかない自分の住宅跡に来てしまうのだという。不便な避難所より、無料3食付きホテル・旅館に移ることもできるようになったことも伝えられたが、避難所で手を挙げる人は一人もいなかったという。

 「なぜ。生活は不便な避難所より、ホテル・旅館の方がいいでしょうに」。そう聞くと、二人はこう語った。

 「ホテル・旅館はそんなに長く居られないと思っており、再び、避難所に戻るなら、最初からそのまま避難所にいた方がいい」「避難所の世話は、よく見知った人たち。その人たちが尽くしているのに

 あるいはホテル・旅館に行く時はバスかなんかで送ってもらっても、出て行く時はそんな世話はなく、自分で算段しなくてはいけないと聞いていることも」など。

 送迎のやりかたが、2人の言うようなことになっているのかどうか、わからない。だが、とにかく、どのくらいホテル・旅館で暮らすことができるのか、その期間を心配していたのは確かだ。それに陸前高田市が今、進めようとしている仮設住宅の棟数も「少なすぎるのでは」とも語っていた。

Dscn1227 (気仙大橋はすっかり姿を消し、橋脚だけが立っていた=同)

Dscn1265 (かつての街は辺り一帯、がれきが続く光景に=越前高田市気仙町、同)

 それにしても、気仙小はこの地区の避難所になっていたようが、3階窓まで津波が。避難当時は、多くがグラウンドにいたという。ところが津波が来たことで、すぐそばの山へ。だが、山を登れないお年寄りなどは津波に呑まれてしまったという。

 それにグラウンドの車の中にいた人も。子供たちの中には津波に流されていく人たちも見ているという。それこそ、地獄のような光景だったろう(保育園児たちは先生たちが最初から山にあげていたことで助かったという)

 生と死、そのどちらかの道が一瞬のうちに。そんな体験が陸前高田市の住民を襲った。印象に残ったのは、カンノさんのつぶやきだ。津波はずっと意識していたと言ったあとで、語った話だ。

 母親は半世紀前の「チリ地震」(1960年)について、「津波といっても、あのときも家の床までしか来ていない」。そう聞かされていたという(ウィキペディアによると、チリ地震で大船渡では6㍍の津波が押し寄せ、50人以上が犠牲になったとあるが?)。

Dscn1209 (どこまでもがれきが続く陸前高田市。緊急車両も狭い土道をそろそろと=同

 オオタニさんは「まさか、こんな遠いところまで津波が来るとは思わない。今は家を建てることを考えることができない」とも。「欲しいものは」の問いに、カンノさんは「テレビかな」。それに私がうかつにも「パソコンは使えますか」。返ってきたのは「電気が来ていないので」

 「避難所暮らしで必要なものがあったら、花巻や北上の復興支援組織『ゆいっこ』と連絡をとるので、どうぞ、私に連絡を」。私の連絡先が記載されている「日光市被災者支援ボランティア」の名刺を手渡し、そのように伝えてきた(が、今のところ、連絡はない)

 

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