無料ブログはココログ

ブログランキング

  • ブログランキング
    人気ブログランキングへ

« 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

2011年6月28日 (火)

良書「さよなら エルマおばあさん」 災害支援で縁、著者・大塚敦子さんが「森の図書館」に寄贈

Dscn3097 (2001年「講談社出版文化賞絵本賞」「小学館児童出版文化賞」を受賞した大塚敦子さんの著書「さよなら エルマおばあさん」2000年8月・小学館)

Dscn3101 (エルマおばあさんと著者の大塚敦子さん 「さよなら エルマおばあさん」から)

 東京に暮らすフォトジャーナリスト、大塚敦子さんから霧降高原「森の図書館」宛てに著書2冊が贈られてきた。私は災害支援「チーム日光」の一員として、5月下旬に宮城県南三陸町歌津に行ってきた。その際、現地のボランティア拠点、RQ歌津センターでボランティア同士として会っている。

 私はRQ歌津センターで「日光霧降高原森の図書館はだれかに読ませたい大切な一冊だけ寄贈を受けています。決してそれ以上の本は求めないのです」と、そこにいたボランティアたちに話した。それに大塚さんが会話に加わり、「どんな種類の本がいいのかしら。私は17冊、本を出していますがー」と。

 「それなら、特別にもう一冊ぐらいは寄贈を受けましょうー」(と、もったいぶって?)。私は確か、それに近いことを伝えた覚えがある。2冊の本が贈られてきたのは、それからざっと3週間後だ。

Dscn3100 (大塚さんが書いた「わたしの病院、犬がくるの」2009年11月・岩崎書店)

 その一冊は「さようなら エルマおばあさん」。多発性骨髄種という血液のガンで85年の生涯を閉じたエルマおばあさんの物語だ。「あとがき」にあたる「エルマおばあさんからの『最後の贈りもの』」で取材の動機を記している。

 「もう長く生きられない、ということを知らされたとき、私は、心から敬愛していたエルマおばあさんが、死を見つめながらどのように生きようとするのか、ぜひそばで見届けたいと思いました」

 「そして、その最後の日々を写真で記録しておきたいと強く思い、おばあさんにおそるおそる頼んでみたところ、答えはこうでした。『あなたはわたしの孫なんだから、自由に写真を撮ってかまわないわよ。ただし、入れ歯を外した顔だけは撮らないでね』」

Dscn3105 (大塚さんが著書2冊とともに「森の図書館」に送ってくれた文面)

 エルマおばあさんとの出会いは1997年の夏。撮影を許された大塚さんは、おばあさんが死に近づいた最後の2カ月間、おばあさんの部屋に寝泊りし、介護者のひとりとして、おばあさんが亡くなるまで付き添った、とある。

 「その結果、ひとりの人間が、私たちの生きるこの世界から、向こうの世界にどのように足を踏み入れていくものなのかを、ほんのすこしでも見ることができたのではないかと思います」と。

 私もすぐに開いてみたが、確かに2001年「講談社出版文化賞絵本賞」「小学館児童出版文化賞」の両賞を受けるに値する良書だ。それと「わたしの病院、犬がくるの」も加えてくれた。同封された文面には「自分にとっての一番特別な著書を2冊お送りします」とあった。 

Dscn3107 (私が新たに買い求めた大塚さんの「モノとわかれる!生き方の整理整頓」岩波書店)

 大塚さんは東京に暮らし、フォトジャーナリストとして、世界を飛び歩いている。私は日光霧降高原暮らし。それが大震災の災害支援の現地のキャンプ地でたまたま知り合い、「口約束」をすることになった。それに快く応じていただいた。これも災害支援が結ぶ縁というものだろう。

 著書のプロフィールを見ると、大塚さんは国際紛争報道を経て、アメリカとヨーロッパを舞台に、人を生かす自然や動物との絆、死と向き合う人々の生き方などのテーマに取り組んでいるという。

 RQ歌津センターで会った大塚さんは、いかにも凛として現代に生きる芯のある女性、といった雰囲気があった。<そんな彼女はほかにどんな本を書いているのだろうか>。ということで、彼女の著書のひとつ「モノとわかれる!生き方の整理整頓」(2005年5月 岩波書店)を買い求め、読み始めているところだ。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」のブログランキングアップにもご協力を。(今、何位?)

2011年6月22日 (水)

霧降高原で「いきなり朗読会」 神戸の詩人・永井ますみさんら3人で

Dscn2942Dscn2960  (砂時計家ウッドデッキの「いきなり朗読会」で朗読する神戸の詩人・永井ますみさん(上)と東京のエッセイスト・詩人の石橋美紀さん(下)=日光霧降高原、20日)

 神戸の詩人と東京のエッセイスト・詩人と私と3人だけの「いきなり朗読会」が20日、日光霧降高原の砂時計家であった~。いや~、ほんとうにいきなりだった。それも聴衆はシカにサル、我が家の名古屋コーチン、ハルゼミやウグイスぐらい。そんな緑の朗読会だった。

 神戸からきた永井さんは詩集「愛のかたち」で昨年度の富田砕花賞の受賞詩人(富田砕花は大正詩壇における民衆詩派の詩人として活躍した。「詩集「草の葉」で知られるホイットマンを日本に紹介した詩人)。私は以前から詩誌「新現代詩」などを通じて知り合っていた。

 私のブログ「砂時計主義」の「おともだちブログ」のひとつとして貼ってあるが、「山の街から」など、詩人としては早くからインターネットに親しんでおり、以前から注目していた詩人だった。昨秋、岩手であった日本現代詩人会のイベントで会うことにしていたが、かなわなかった。Dscn2964 (砂時計家のウッドデッキで記念撮影する永井さん・右と石橋さん・左=20日)

 一方、東京のエッセイスト・詩人は石橋美紀さん。4月上旬の「チーム日光」の石巻市泥バスターズに東京から駆け付け、私と一緒に災害支援に汗をかいた仲間。こちらもネットは専門といい、ブログ「そらのゆくえ」(「砂時計」の「おともだち」リストに貼ったばかり)を管理している。

 石巻市の惨状について、当時、私と石橋さんは現地で「これがシュールというものだね」などと驚き合っている。その石橋さんと永井さんは詩友だというのだ(世の中は意外に狭い)。その永井さんは自分のHP「山の街から」のトップページに「チーム日光」を紹介している。

 さらに自分たちの詩の朗読会の「売上金」?を「チーム日光」の活動を支える「むすび募金」に回してもくれている。今回、永井さんが東京、千葉で詩の朗読会を行うことになり、「それなら黒川純がおり、チーム日光がある日光へ」ということになったようだ。

Dscn2974 (日光の天然氷のかき氷を楽しむ永井さんと石橋さん、最初は「こんなに多いと無理~」と困惑していたが、結局、二人とも、見事にたいらげてしまった=20日、霧降高原チロリン村)

 詩の朗読会で、私は永井さんに受賞詩集「愛のかたち」から「いやしのことば/いやしいことば/いやらしいことば・・・」というフレーズが印象的な詩「いやしを」を注文。永井さんは、それに「愛のかたち」から何篇かを朗読した。

 続いて石橋さん。石橋さんも幼い頃の自分を歌った詩など2篇を朗読。二人とも朗読慣れしており、そのうまいこと。とくに永井さんは、強調すべきフレーズ、間のとりかた、流して読むことば、息をつぐことばなどなど。さまざまな口法?で聴かせた。

 私はというと、私が「大震災詩篇」と名づけている最近の35篇から「悪霊退散~悪霊退散~」「そのけなげな表情を」「ほんとうのことに向き合わねば」の3篇を朗読。しかし、お二人のように聴かせる朗読とはいかなかった。いや~、勉強になりました。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」のブログランキングアップにもご協力を(今、何位?)

2011年6月21日 (火)

被災地に希望の輪、「希輪草」を 「霧降高原キスゲ祭」の後半は25、26日

Dscn2918 (観光施設「霧降高原チロリン村」に鮮やかに咲いているニッコウキスゲ=19日)

 「霧降高原キスゲ祭inチロリン村」の前半・18、19日が終わり、次は25、26日にある。例年、ニッコウキスゲが咲き誇るのは6月下旬から7月上旬。チロリン村はそこかしこで育てており、鮮やかな「黄色」を愛でることができる。

 今回の「inチロリン村」では焼きそばやソーセージ、コーヒー屋にハンコ屋、人形屋など、さまざまなテントが初めて出店。私も天気がまあまあだった19日、古書店「砂時計主義」を開いた。

Dscn2920(被災地に贈る希望の輪「希輪草」を植える「チーム日光」の「ともちゃん」=チロリン村)

 会場ではニッコウキスゲ一鉢を500円で販売。全額とも「チーム日光」の活動を支える「むすび募金(結び募金)」に入れさせてもらった。チームが被災地に向かうガソリン代やマイクロバスの借り上げ料、あるいは被災地支援などに使わせてもらっている。

 そのニッコウキスゲを売っているそばでは、キリンソウの苗のポットがずらり。津波でやられた南三陸町や石巻市などの三陸海岸に植えつけたいという構想から。キリンソウ=希望の輪をつなぐ植物=「希輪草」と名づけて。

Dscn28971(霧降高原キスゲ祭りInチロリン村」に参加した私の古書店「砂時計主義」)

 19日は天気予報通り、薄曇りだったが、降雨の心配はなさそうだった。なので、タープやテントは張らず、まったくの野外出店。ざっと200冊を用意し、午前10時から。

 お値段は「定価の7割引き(30%)」。「これはいい本」と思った本ばかりなので、かなりの格安。が、観光客は「花より団子」。結局、約30冊を買い求めてもらったが、その8割以上は私の顔見知りの地元関係者だった。この日の売上金の2割、3000円は「むすび募金」へ。

Dscn2917 (「キスゲ祭」では災害支援「チーム日光」のミニ写真展も企画した)

 古書店「砂時計主義」のそばでは、ミニ写真展も開いた。災害支援「チーム日光」のこれまでの活動(3月下旬~6月上旬)を広く伝え、チームの活動資金を呼びかける目的もある。

 35枚の写真で、石巻市や南三陸町の惨状を伝えると同時に、泥出しや家財運び、漂流物撤去、イベント支援など、現地災害支援の様子、水なし、電気なし、ガスなしで活動するボランティアの様子も伝えようとした。

 写真を熱心に見ている人に声をかけると、仙台からという。「日光からボランティアに行っているのですね。こちらは観光で。何だか申し訳ないみたい」と恐縮されてしまった。あるいは県内の真岡からやってきたというご夫婦らしい観光客は「石巻市はやはり大変な被害だったのですね」と改めて驚いていた。

Dscn2892 (ニッコウキスゲの売上金は災害支援「チーム日光」の活動を支える「むすび募金」へ)

ブログランキング
人気ブログランキングへ
「砂時計主義」のブログランキングアップにもご協力を(今、何位?)。

2011年6月18日 (土)

今こそ「さようなら原発」を 脱原発全国1千万人署名を成功させよう

 Dscn2885_2  (「さようなら原発 1000万人アクション」のポスター) 

 ついにというか、当然というか、脱原発を実現させるための全国的なうねりを呼び起こす運動がスタートした「さようなら原発1000万人アクション」。15日に鎌田慧さん、澤地久枝さん、内橋克人さんの3人が記者会見して明らかにした。

 いずれも私の信頼するルポライター、ノンフィクションライター、経済評論家。脱原発を求める街頭デモはもちろんだが、「1000万人」という単位の「さようなら原発」の署名も、脱原発には大いに有効だろう。

 ということで、私も発表翌日の16日、メールで署名、さらにメッセージも事務局に送った。また、すでに周りの友人、知人にも呼びかけている。以下に私が送ったメッセージ、さらに呼びかけ趣旨、記者会見についてアップしよう。

 「ヒロシマ、ナガサキの悲劇に遭ったニッポンは核に、原発に手を染めるべきではなかった。半減期が2万4千年という気の遠くなるような放射性物質、プルトニュームも生じさせる原発、まして「核のゴミ」を処理できない原発は人類の手に余る装置だ。これまで反原発・脱原発を唱えると、狂信者といった色眼鏡でみられがちだったが、残念ながら、フクシマでその主張がまっとうだったことが改めて確認されてしまった。今こそ、私たちの現在も未来も原発はいらないことを声高に訴え、自然エネルギー系を重視した政策の大転換をはかるべきだ。それを求める「1000万人署名」に大いに賛同する。同時にその主張をしっかり実現させないといけないと思う(日光市 富岡洋一郎 元朝日新聞記者)」

  脱原発を実現し、自然エネルギー中心の社会を求める全国署名 趣旨

 3月11日の東日本大震災によって、東京電力福島第一原子力発電所では、1号炉から3号炉までが炉心溶融(メルトダウン)する最悪の事態が発生しました。水素爆発や工場外壁の破壊などによって、高濃度の放射性物質が海水・大気・土壌に放出されて環境を汚染する、未曾有の大事故となったのです。

 放出された放射性物質は、地域の住民や労働者だけではなく、まだ生まれていない将来の子どもたちの健康と生命にとっても、計り知れない悪影響を与えるものと危惧します。 
 私たちは、人間の生存を脅かす計り知れない原子力エネルギーの恐怖に、多大な犠牲を伴いながら直面することになりました。この恐怖と犠牲を、未来に残してはなりません。エネルギー政策を根本から見直すことが必要です。

 
 私たちは、自然を収奪し、エネルギーを無限に浪費する生活を見直し、自然エネルギーを中心とした「持続可能で平和な社会」を実現しなくてはなりません。そのために、原子力中心のエネルギー政策の転換を強く訴え、以下の事項の実現を要請します

要請事項

1.原子力発電所の新規計画を中止し、浜岡をはじめとした既存の原子力発電所の計画的な廃炉を求めます。

2.もっとも危険なプルトニウムを利用する、高速増殖炉「もんじゅ」と、青森県六ヶ所など再処理工場の廃棄を求めます。

3.省エネルギー・自然エネルギーを中心に据えたエネルギー政策への転換を求めます                                       

 

 脱原発行動スタートを告げる記者会見 

 6月15日に東京千代田区の「アルカディア市ヶ谷」で、「原発にさようなら集会」と「原発にさようなら1000万人署名」の2つの脱原発行動のスタートを告知する記者会見を開きました。
 2つの運動は、大江健三郎さん、内橋克人さん、鎌田慧さん、坂本龍一さん、澤地久枝さん、瀬戸内寂聴さん、辻井喬さんの7人が呼びかけたものです。
 記者会見には、内橋克人さん、鎌田慧さん、澤地久枝さんの3人が出席し、原子力発電を止めるための思いを訴えました。
 「原発にさようなら集会」は、本年9月19日(月・敬老の日)午後1時から、東京の明治公園で、5万人の参加を目標に開催します。また「原発にさようなら1000万人署名」は、脱原発を求める署名を1000万人分集めて、福島原発事故から1年目となる来年の3月11日に、日本政府と衆参両院に提出しようというものです。
 呼びかけ人は、2つの運動の目標として、①新規原発建設計画の中止、②浜岡からはじまる既存原発の計画的廃止、③もっとも危険なプルトニウムを利用する「もんじゅ」「再処理工場」の廃止――の3つをあげました。
 呼びかけに応え、事務局として協力するために、「原水爆禁止日本国民会議」(議長・川野浩一)、「原子力資料情報室」(共同代表・西尾漠)、「環境エネルギー政策研究所」(代表・飯田哲也)の3団体が、「さようなら原発1000万人アクション実行委員会」を結成しました。また行動への賛同を、作家・著述家・学者・法律家・ジャーナリスト・NGO代表などの方々にお願いしたところ、6月14日現在で、48人から賛同をいただきました。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」のブログランキングアップにもご協力を(今、何位?)

2011年6月17日 (金)

災害支援「「チーム日光のキセキ」ミニ写真展 18日から「霧降高原キスゲ祭」で公開

Dscn2831 (数多い「チーム日光」の写真でも1.2位を争うボランティア「ちなっちゃん」の笑顔)

 災害支援「チーム日光」の活動を伝えるミニ写真展のセットが17日、完成した。18日から始まる「霧降高原キズゲ祭inチロリン村」(雨天中止)の会場で、「チーム日光」の活動などに役立てる「むすび募金」を呼びかけるのに合わせた制作だ。

 災害支援活動は3月下旬から始まり、現在も16日~18日まで南三陸町支援に十数人が行っている。この間、私が石巻や南三陸へ行った際は、チームの「記録係」だったので、制作の役目をおおせつかった。

Dscn2827 (17日夜、ようやく完成した「チーム日光」ミニ写真展=霧降高原の砂時計家)

 制作は簡単に考えていたが、それがなかなか。数百枚、いや、1000枚を楽に超える写真群からどれを使うか、使わないか。その日付は、どんな場面だったか、などなど。写真はどのドキュメンタリーに入れていたか、私が行かなかったときの写真を取り出すには・・・

 ということで、私が撮った写真からはもちろん、チームの公式ブログ「チーム日光のキセキ」を管理している「日光ふぃふぁ山荘」から、さらにやはり「記録係」の「日光を漂ふ」から、それぞれコピー。手持ちのエプソンで打ち出す作業へ。

Dscn2820_2  (ミニ写真展は持ち運びができるように小さいサイズのベニア板4枚で制作)

 制作では一人か二人、助っ人をもらえれば。そう思って、昨夜、ツイッターで「助っ人」を募った。これで安心と思っていたが、本日、予定の午後1時を過ぎても、だれも応答がない(ふぃふぁ山荘は昨夜、「(助っ人は)夜なら」と返信してくれていた)。一人で始めてみたが、かなりの時間がかかることが判明。携帯電話で「SOS」をメンバーたちに伝えた。

 聞いてみると、多くは助っ人募集のツイッターを知らず。知っているメンバーは昼間は自分の仕事で来られず。結局、ゲストハウス「にっこり荘」とホステル「鳴沢ロッヂ」の2人が「SOS」に応答。その2人のほかに仕事を途中だという「日光ストーブ」の「まるちゃん」が駆けつけてくれた。

Dscn2817 (ミニ写真展の制作には3人の仲間が助っ人で、2人が視察?で訪れてくれた)

 これでようやく、完成のめどがつき、ひと安心。9割方終えたところで、「ふぃふぁ山荘」が、完成したところで「森の詩」の「ヨシナリ君」が様子を見にきてくれた(ツイッターでは、「タケちゃん」が「(助っ人募集に)気づくのが遅れてしまい・・・」と、携帯では「めぐり」が「行こうと思ったが、自分の仕事が・・・」という連絡があった)

 制作には、それなりの労力が必要ということもあったが、この手の制作は大学祭の準備のような祭り気分でやるのがよい。助っ人は、そうも思ったので募った。だが、まさか、だれの応答もないとは思わなかった。結論はこうだ。「平日、昼間、急に求められた助っ人ができるひま人はほとんどいない、私はよほどひま人なのだな~」。幸か不幸か?、そう思ったことだった。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」ブログランキングアップにもご協力を(今、何位?)

2011年6月15日 (水)

「泪もの」の「マイ・バック・ページ」 友人たちが次々と映画館へ

Dscn2812 (「政治の季節」の中で悩み、翻弄されてゆく、ひとりの若きジャーナリストの回想録)

 ツイッターではナガシマクン(群馬・デザイナー)が、メールではタカハシクン(東京・建築家)が、そして本日はイソヤマクン(茨城・建築家)が手紙で伝えてきた。いずれも私の学生時代からの友人だが、それぞれ別々に映画「マイ・バック・ページ」を映画館で見たという。

 5月28日公開だから、上映されてから、まだ半月余。それがなんだか、集合的無意識のように、この映画を見ている。何かの符号だろうか?。と、思わせる友人たちの日々だ。という私にしても、胸騒ぎがしたのか、「マイ・バック・ページ」を年明けに読んでいた。映画になるを知ったのは本を手にしてからだ。

 原作者の川本三郎さんは1944年生まれ。1969年4月に「週刊朝日」の記者になり、さらに71年5月に「朝日ジャーナル」記者となり、縦横に活躍する。そして71年8月、陸上自衛隊朝霞基地で「赤衛軍」と名乗る過激派が侵入し、パトロール中の自衛官が刺殺される。

 その犯人「K」と事前に接触していた川本さんは「K」が奪ってきた警衛腕章と自衛官のズボンを(という事件の証拠を)、犯人「K」から手にした。事件が「ガセネタ」ではないという証拠で手にしたものだったが、それが命取りになった。

 それらはのちに友人を通じで処分した。これが刑法104条の「証憑隠滅(ひょうしょういんめつ)「罪」に該当し、72年1月9日、埼玉県警に逮捕される。その日の新聞では『「朝日ジャーナル」記者今日逮捕」と報道されていたという。

 川本さんは結局、朝日新聞にクビを切られ、72年9月27日、浦和地裁で懲役10カ月、執行猶予2年の判決を受ける。控訴はしなかった。著書「マイ・バック・ページ」は、そのころ、彼を支えてくれたのは詩人、清岡卓行の詩「青空」だといい、その詩で終わる。

 川本さんは本の「あとがき」でこう書いている。「あの時代、新左翼運動に共感した企業内ジャーナリストが(企業内は強調点が打たれている)、過激派と呼ばれる突出した政治組織の行動を取材するとはどういうことだったのか。社会性という点でいえば私はただそのことだけを読む人に考えて欲しかった」。

 続いて「私は自分を馘首した朝日新聞社を批判したり、あるいは事件と関わった何人かの記者を批判したかったのではない。ジャーナリストにとってのモラルとは何なのか、その原点だけを考えたかったのだ」。Dscn2811 (原作者、監督、脚本家の鼎談も載っている映画「マイ・バック・ページ」の「原作試し読みBOOK」)

 彼は取材源の秘匿というジャーナリストのモラルを守ろうとした。しかし、「事実の流れが錯綜してゆくうちにその基本的な問題から私ははがされてゆき、最後は『証憑隠滅』という犯罪に直面させられた。私は『記者』ではなく、『犯罪者』になった」と記す。

 川本さんが23日間の拘留から保釈されて2週間後、「総括」がキイワードになった連合赤軍事件が起きる。「『連帯』や『変革』といった夢の無惨な終わりだった。自分たちが夢みたものが泥まみれになって解体していった」とつづる。

 その無念さはよくわかる。新左翼、三派全学連の一員だった私は71年の沖縄返還協定粉砕闘争で逮捕・拘留・起訴された。罪名は凶器準備集合と公務執行妨害(判決は懲役1年半、執行猶予3年)。このようないわゆる政治犯は、その時代の権力によって罪人とされるだけだ。だから、川本さんのように「犯罪者」とは、これっぽっちも、思っていなかった。当時も今もだ。

 大学3年だった私は71年秋から72年春まで東京拘置所にいた。「夢の無残な終わりだ」という思いは同じだった(もっとも、事件の詳細は保釈される72年春まで知らなかった)。

 後年、私自身が川本さんを追いやったその朝日新聞記者になるという因縁があるのだが。それだけに「原作試し読みBOOK」に掲載された映画化記念鼎談で、川本さんが東大全共闘議長の山本義隆と再会する場面は泣かせる。

 川本さんは69年当時、指名手配中の山本議長をアジトから全共闘の全国集会が開かれる日比谷野外音楽堂にひそかに連れていったことがある。それから30数年後の2003年、彼が『林芙美子の昭和』で、毎日出版文化賞を受賞したとき、山本義隆も『磁力と重力の発見』という物理学書で受賞。その授賞式で初めて再会したという。

 山本義隆は川本さんのことを覚えていてくれて、「君も苦労したね」。そう、ひとこと言ってくれたという。川本さんは語るー。「嗚咽(おえつ)した」。時を超えた万感の思いの嬉し泣きだったろう。そこに立ち会えば、私も、もらい泣きするだろう。

 もっとも、きょう届いたイソヤマクンの手紙では「映画は原作を越えられませんでしたが、後半は緊張感、やはり 泪ものでした」とある。さらにイソヤマクンは災害支援ボランティアとして19日にも東北方面に出掛けるとある。最後に「心にカナリアを」とも(カナリアは炭鉱などでそうだが、有毒なガスがあるかどうかなど、危険をいちはやく察知する鳥だ)

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」のブログランキングアップにもぜひご協力を。

霧降高原キスゲ祭、18・19、25・26に 「花も団子も」チロリン村で

Kisugematuri

 今年も霧降高原では待ちに待ったキスゲの季節になるが、お目当てのキスゲ平は工事のため、入ることができない。そこで地元の実行委員会が考えたのが「霧降高原キスゲ祭inチロリン村」。村内のキスゲを愛でてもらう一方、いわば「霧降高原マルシェ」的なさまざまなお店を楽しんでもらう企画を立てたという。

 ということで、祭については、実行委員会事務局の山本仁一郎さんのブログから転載することに。それにしてもさまざまなお店が出るわ、出るわ。この分だと、私の場合は(あなたも?)「花より団子」ではないが、「キスゲより▼□◎」になってしまうかもしれないなぁ~。以下は事務局ブログから。

霧降高原チロリン村にて

『2011霧降高原キスゲ祭りinチロリン村』を開催いたします。

今年は、霧降高原のキスゲ平が工事の影響で中に入れないと言う事です。

そこで、チロリン村の中にあるキスゲを見ていただこうと思い開催することにしました。

このキスゲは、徳次郎さんが数十年かけ、チロリン村の中に大切に育ててきたものです。

当日は、焼きそばや、ソーセージ、串焼きなどお店も出ますので皆さん来て、見て、味わって楽しんでください。

主催 『2011霧降高原キスゲ祭りinチロリン村』実行委員会

事務局 山本仁一郎 

氷屋四代目徳次郎   日光天然の氷 かき氷

Jewel         キスゲ販売  http://jewel-tochigi.juno.bindsite.jp/

日光珈琲       珈琲 焼き菓子  http://www.nikko-coffee.com/

ゲストハウス巣み家   焼きそば  http://nikko-guesthouse.com/

大金商店       串焼き 野菜  

森のうた       ソーセージ クレープ  http://www.morinouta.com/

常陸屋        手ぬぐい  http://hitachiya.jp/

宮ぽっけ       宮ぽっけシリーズ  http://www.miyadoll.com/

たけしズ       ハンコ  http://ameblo.jp/takeshi-z/

俺たちの米      おもいハガキ  http://www.oretachi-rice.com/

木音         木の器 18、19日  http://mokune.blogspot.com/ 

シャンディニヴァース インドカレー 18日19日 http://twitter.com/#!/shandi_nivas

他、多数参加予定。

大震災復興祈念の紅葉植樹  日光霧降高原の砂時計家で

Dscn2794 (大震災復興祈念の紅葉植樹を手伝ってくれた小林さん=日光霧降高原の砂時計家)

 日光霧降高原の砂時計家で12日、紅葉2本(いずれも背丈2㍍余)を植えた。大震災の災害支援ボランティア同士である日光の小林さんが自宅敷地に何十本も紅葉を育てており、その2本をもらいうけた。「震災丸三カ月に、復興祈念植樹を」。小林さんに以前から言われていたのだ。

 今春から本格的な定年後生活に入った小林さんは、広い自宅で、それこそ、さまざまま野菜や花などを育てている。紅葉もそのひとつ。ふたりで3本を掘り出し(1本は紅葉好きの知人のために)、小林さんの軽トラックで霧降高原の砂時計家へ運んだ。

Dscn2798_2 (紅葉2本を植え、いよいよ緑がいっぱいになった砂時計家=日光霧降高原)

 さっそく、スコップで庭を掘り、散水器で水をやり、シートに包んだ紅葉を。土をかぶせ、再び水をやり、さらに強風対策に2㍍近い古木3本をそれぞれに。段ボールをしばる際のロープで、紅葉と古木を固定。最後に根もとをブロックや重い薪でおさえた。小林さんのその手際のよいこと。木工も得意な彼の暮らしの知恵を見せてもらった。

 砂時計家はもともと、鬱蒼たる緑の庭だった。それを私がこの家に移る際、バッサ、バッサと必要以上に刈ってしまった。慌てて、ロウバイ、キンモクセイ、ギンモクセイ、アジサイなどを新たに植えてきた。今回、ツツジやナツツバキなどに交じって、紅葉2本が。ようやく、「緑の砂時計家」らしくなってきたのだった~。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「ブログランキング」アップにもご協力を。

2011年6月12日 (日)

何人でも継続して最大限の力で 南三陸町災害支援「チーム日光」帰着

Dscn2728 (災害支援「チーム日光」のシンボルマークをつけたメンバーのヘルメット)

 南三陸町歌津の支援に行っていた「災害支援『チーム日光』」のメンバー8人が元気に、11日午後、日光に帰ってきた。前回の南三陸町歌津の「フリーフリーマーケット」支援では23人のメンバーだったが、今回は、いずれも災害支援ボランティアを経験している精鋭8人。

 いつも思うが、日光に戻ってくるメンバーの顔は晴れ晴れ。ひと仕事をしてきて、よかったという晴れやかな表情がにじみでている。今回の恒例の「解散式」で、「メンバーが多くても、少なくても、チームワーク力を感じた」と、異口同音に語っていたのが、印象的だった。

 現地の活動の様子については、「チーム日光」代表の小坂さんが自分の「日光霧降 幾何楽堂ブログ」でアップしている。帰ってきた様子の写真と合わせ、「幾何楽堂」のブログをそのまま転載しようと思う(以下は「幾何楽堂ブログ」から)

今回は総勢8名で南三陸町歌津伊里前地区に行って無事帰ってきました


この梅雨時期 晴天にも恵まれて漂着物の清掃 予定通りにやることが出来ました
今回もなかなかハードな仕事で一番気になっていたところも手を付けることが出来
ほっとしました
チーム日光のチームワークにはいつも驚かされます
2泊3日の形を崩さずその中で出来る最大限の力を発揮する
その為 帰ってくると1日は疲れが抜けない感じです

それでも災害に合われた方を見ているとそんなことも言ってられません
今 大切な事は継続ですまだまだ底力を出さないと・・・

次のボランティアは6月16~18日の2泊3日

また皆様の力をお貸しください

予約は
norimasa@io.ocn.ne.jp

Dscn2720 (南三陸町の支援から日光霧降高原に戻ってきた「チーム日光」の)メンバーたち=11日3時過ぎ)

最近顔なじみとなり歌津伊里前に行くと
地域の方々から声をかけて下さるようになりました
それが一番うれしいこの頃です

日本のピンチを救うのは日本魂
全員が一致団結して取り組まないと明日の日本はありません
いろんな考え方があることは認めますが
方向だけは間違わないようにしないと

東北に足を運べば運ぶほど そのことだけは思います
何人でも継続して行きたいと今でも思います

8人が8000人になることを祈って

Dscn2747 (南三陸町の支援から帰ってきた8人のメンバーの「解散式」=11日、日光霧降高原)

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」のブログランキングアップにもご協力を。

2011年6月10日 (金)

悲しみの底から  大震災詩(10)・黒川純

Dscn2715 (下野新聞6月6日付「しもつけ文芸」に掲載された私の詩「そのけなげな表情を」(選・山本十四尾さん)

悲しみの底から

の街は悲しみの底に

嘆きの底にあるから

悲しみの底に降りてゆき

真っ白いつるべで

嘆きをくみだして

悲しみを冷やし

優しい誠の光を

手渡しにゆこう

悲しみの底に漂い

嘆きを背負いながら

明日がすくえないひとたちに

勇気の輝きが少しでも増すように

いつか

見違えるほどの

明るい光が

悲しみと嘆きの底から

視上げられるように

 大震災で壊滅状態になった陸前高田市の詩人から9日、手紙が私に届いた。私が贈った「コールサック 69号」の「震災・原発特集」の巻頭詩(かな?)になった「ほんとうのことに向き合わねば」(黒川純)について書いてあった。

 「この詩にどんなに励まされたか知れません。今でも疲れはて、寝込みたくなります。そんな時、『はすにかまえた誠実さに/命を吹き込み/ほんとうのことに向きあわねば』と出てきます。機会をつくり高田の人達にもぜひ紹介したいです」

 この詩人は岩手県の詩人を中心にした詩誌「堅香子」(かたかご)の同人。私もその同人で、同人同士ということもあろうが、過分な読み方をしていただいた。

 その手紙では「陸前高田は悲しみの底です」「私も私なりに悲しみの底に手をついて水を飲ませる人になりたい」とあった。その「悲しみの底」という言葉に、私はその言葉の重さに打たれた。その言葉を頼りに、昨夜、うたったのが「悲しみの底から」だ。                                                     

そのけなげな表情を

私は忘れないだろう

哀しみでもない

悲しむでもない

肩を落とすでもない

不満というのでもない

責任を問うわけでもない

訴ったえるでもない

怒るわけでもない

頼るわけでもない

でも

私の視点をぐらぐらと揺らし

ざわめきを呼び出し

先が視えない暮らしを

頬を伝わる涙で伝える

そのけなげな表情を

 一方、「そのけなげな表情を」は、地元紙・下野新聞の「しもつけ文芸」に投稿した詩。毎週月曜日の紙面で、読者が投稿した「短歌」「俳句「川柳」「詩」から、選者が選んで、掲載している。詩は毎回3篇が選ばれているようだ。

 かなり以前に投稿したので、忘れていたのだが、6日、紙面を開いていたら、「黒川純」(日光)の名が。詩「そのけなげな表情を」が載っていた。私は35年間も新聞記者として、記事を書き続けてきたが(10年間は事件記者ひとすじだった)、自分の詩が新聞に掲載されたのは、これが初めて。

 すでに昨日のツイッターでつぶやいているが、紙面をブログに紹介しながら、この詩も再載することに。このように新聞にツイッターの140字詩が掲載されるというのは、いいことだと思う。ネットの世界と新聞の世界が融合することで、互いの有効さを共有できるから。

ブログランキング
人気ブログランキングへ「砂時計主義」・ブログランキングの投票にもご協力を。

2011年6月 9日 (木)

突き動かすこの感覚はなぜかー 全共闘世代同人誌「序説18号」あとがき

Dscn2707_4 (私が事務局の全共闘世代同人誌「序説」 18号は7月30日発行 写真は17号)

 「唯物論」ではなく、「唯幻論」で知られるフロイト心理学者・岸田秀さん(主著『ものぐさ精神分析』はともかく面白い)は、人間は本能が壊れているから、私の理解では自分の行動のものさしというか、指標といったものが必要だという

 言い換えると何かの判断や行動を起こす場合、その根拠を求めざるをえないようになっている。それがないと、ヒトは存在がぐらぐらし、精神が壊れてしまう可能性がある。

 ということを挙げたのは、今回の東日本大地震で私が何故、無理をしてまで現地の災害支援に行こうとしたのか、そのことに関連するだろうと思ったからだ。私は3月下旬に岩手・花巻に支援物資を届け、陸前高田の惨状を胸に焼き付けた。

 4月には宮城・石巻(2泊3日のテント生活)、福島・相馬の泥バスターズに、5月下旬には宮城・南三陸町(やはり2泊3日のテント生活)の被災者支援に行ってきた。さらに私のブログ「砂時計主義」やツイッター「sunadokeiha」で「大震災詩」を次々とうたっている(その大半は今回の「序説18号」に掲載)

 こうしたボランティアに向かう動機のひとつに、阪神大震災のときに現地の支援に行けなかった悔みがあるが(当時、1日25時間でも足らない朝日新聞記者をしていた)、それ以上に現地を見て、とくに瓦礫の光景がどこまでも広がる陸前高田を視て、自分の存在の根拠、足元が揺らいだ、そう思えるからだ。

 精神まで壊れるとまでは思わなかったが、自分の両脚がアリ地獄にはまったような感覚を覚えた。実際、その惨状が目の前にあるのだが、光景が揺ら揺らとぼけてしまった。比喩的に言えば、一時、青空と砂塵だけしか、視界になかった。

 今になって思うと、たぶん、起きたことを信じたくないために、その惨状を無意識に拒否していたのかもしれない。そこから、被災者が打ちひしがれてしまうことは、私が打ちひしがれてしまうこと、被災者が立ち上がれないと、私もこれから先に進めない、そんな心情に突き動かされたのだ。

 今年の中原中也賞に選ばれた芥川賞作家で元共同通信ハノイ支局長の辺見庸さんは今こそ、いわば、ほんもののというか、もともとの、あるいは本来の愛や勇気、優しさや誠実さに向き合う大切さを岩手日報のコラムで語っている。私が被災者に手を差し出す行動は、自分の存在が揺らぐ言いようのない不安を取り払おうとしたことから始まっている。

 だが、それはそうした優しさや誠実さに向き合おうという気分も誘いだしたようだ。気恥かしくてというか、嘘っぱいそれらの倫理に対し、これまで、はすに構えていた。心の底にあったそうした気分が大震災で否応にもせり上がってきた、そう思わざるをえない。

 集合的無意識ではないが、時代はそういう構えに移っていくことをわたしたちに求めているのだと思う。この感覚、あるいはエネルギーというのか、それはなぜか、ある種、沖縄返還協定粉砕闘争に燃えていた1971年当時の学生時代の気分や構えに重なるものがある。

 フクシマの原発事故で原発が緩慢な原爆であることが露わになり、人類が操作する対象ではないこと、そして、時代は今や、脱原発に向かわねばならないことがはっきりしてきた。

 そこからヒマラヤの小国・ブータンが憲法にまで定めているGNH(国民総幸福)の発想やスタイルの大切さも思い知ることができた。このように視て、支え、知り、伝え、語り、論じ、考え、判じ、書くことの大事さを大震災が告知した、そう感じる日々だ。

ブログランキング
人気ブログランキングへ[「ブログランキング」にもご協力を。

2011年6月 8日 (水)

古書店「砂時計主義」開店 「日光マルシェ」で石屋町公園に2日間~ 

Dscn2697 (「日光マルシェ」で私が開いた「古書店『砂時計主義』の看板=日光市石屋町公園)

 「第2回日光マルシェ」(6月4、5日)で、私も古書店「砂時計主義」で初参加した。東武日光駅に近い石屋町公園で。このエリアがは「古本市」で、初日は4店が、5日は5店が。明るい曇り空で、マルシェにはぴったり。ただし、週末なのに、街を歩く観光客は意外に少ない。二社一寺の観光ガイドさんは「一般の観光客は昨年同期の5分の1、団体は5分の3ぐらい」とか。まだまだ大震災の影響は大きい。Dscn2702 (古書店「砂時計主義」の店先は「ためらいの論理学」から「軽くなる生き方」まで)

 「日光マルシェ」には、農産物、古本、珈琲、熟女カレーにインドカレー、音楽、写真、パン、工芸品、地酒、クッキーなど、ざまざま。東武日光駅前など7拠点に約40店が出店した。この機会に拠点をめぐりながら、街を歩いて楽しむいい企画だ。日光の元気と復興をめざす地域お支援の両面が狙いで、NPO法人・日光門前まちづくりが主催し、日光市などが協力した。Dscn2641 (初日の4日、昼休みの店番をしてくれたご近所の幾何楽堂・トモちゃん)

 私は初めての出店だったが、なんだか初めての気がしない。というのは、ついその数日前、南三陸町の災害支援の一環で、「フリーフリーマーケット」に参加。それも「霧降高原 森の図書館」として出前図書館を開いている。「日光マルシェ」はその延長線上にあったためだ。Dscn2690 (初日の午後、「何か協力は?」と駆けつけてくれたメグリのヤマグチクン=4日午後)

 といっても、私はほかのお店をめぐり、昼食がてら、食べたり・飲んだりも。ということで、事前に店番を頼んでいた霧降高原のトモちゃんはもちろん、お店を訪ねてきた友人たちに次々と店番を頼んだ。アクツさん、シラカワさん、ヤマグチクン、徳さん、「日光を漂ふ」さんと計6人も。みなさん、ありがとうございました。Dscn2701 (2日目の5日昼、店番をしてくれた徳さんと「日光を漂ふ」さん)

 2日目の5日午後の早い段階で雨にたたられ、1時過ぎには店じまい。それでもこの間、山本周五郎の文庫本を何冊も買っていただいた地元の御婦人とか、茨木のり子詩集や宮沢賢治関連本をまとめて求めてくれた「チーム日光」の仲間とか。初めての古書店としては、上出来ではなかったかと思います~。

Dscn2686 (「日光を漂ふ」さんには考えたら、初日、二日目と2回も店番をしていただいた~)

  • ブログランキング
    人気ブログランキングへ 「砂時計主義」はブログランキングに参加しております。投票にもご協力を。
  • 2011年6月 3日 (金)

    どれだけ「いい顔」で寄りそえるか 南三陸町災害支援・「チーム日光」(3)・完

    Dscn2590フリマをともに盛り上げた「チーム日光」とRQ市民災害救援センターの仲間たち=30日朝、南三陸町

     「チーム日光」が活動の拠点としたのは、RQ市民災害救援センターのRQ歌津センター。略称はRQ=レスキュー(本部・東京)。大震災支援のために3月13日に発足した団体だ。NPO法人日本エコツーリズムセンター(略称エコセン)が中心となり、市民有志で結成されたという。

     岩手では中越地震の際に現地に駆け付けたことがある市民有志らが「ゆいっこ」をいち早く立ち上げた。被害が甚大な陸前高田、大槌など、三陸沿岸の被災者支援にあたっている。も3月末にブログの呼び掛けに応じてくれた日光の仲間の支援物資を積んで岩手に駆けつけた際、その迅速な活動を見聞きしてきた。

    Dscn2364 (初日の夕食を終え、小雨の中、テントでくつろぐ「チーム日光」=5月28日夕)

     RQ市民災害救援センターは南三陸町に接する登米市(とめし)にRQ東北現地本部を置き、仙台以北の太平洋側約100㌔のエリアを対象にしているという(今回、南三陸町の災害支援に行くことで初めて知ったのだが~)。

     拠点としては、南三陸町のRQ歌津センター、それにRQ唐桑ボランティアセンター、RQ河北ボランティアセンターの3カ所。それが前線基地なのだろう。期間中、「とめの本部から来ました」と話すボランティア、あるいは「宮城教育大学から来ました」といった何人もの若者たちを知った。

    Dscn2369RQ歌津センターの広場でテントを張る「チーム日光」などのボランティア=28日夜)

     私たちは互助組織、結(ゆい)の伝統がある地元の「伊里前契約会」とRQなどとの縁が生まれたことで、ここRQ歌津センターにテントを張ることに。「RQ」のマークが入ったシャツを全員が身につけてボランティア活動をしてきた。

     初日の午後は大半が29日の歌津の被災者を対象にした「フリーフリーマーケット」(今回のブログの第一回に詳細)開催のための支援物資、とくに衣類の仕分け作業に徹した。それを終え、私など数人は前に書いたが、バイオマス燃料の「魚竜湯」につかり、6時過ぎにRQの食事当番が用意した夕食をとった。

    Dscn2306 (私もトイレ掃除当番を志願したRQ市民災害救援センター歌津の仮設トイレ)

     毎日夜7時と朝7時にボランティア全員が集まるミーティングがあり、そこで作業報告やあすの予定、作業の振り分けなどが話し合われる。29日の最大の仕事は「フリーフリーマーケット」。そのため、どれくらい人が必要か、それに応じるボランティアは。それらを詰める話し合いが行われた。

     「チーム日光」は天然氷のかき氷、日光珈琲、クッキー、ハンコ屋、人形屋、髪結い、磯焼き、餅つき、森の図書館、笑いネコー、日光のふだんのスキルを生かした無料テントを展開。RQのかなりのボランティアが「チーム日光」の店舗運営に力を貸してくれた。

    Dscn2383 (フリマの態勢や手順などについて説明する「チーム日光」の小坂代表=29日朝)

     食事当番もミーティングで決める。さらに朝5時からのトイレ掃除当番も。これには「チーム日光」のイシカワクンが「前回もトイレ当番だったので」と真っ先に手を挙げた。続いて、チナツチャンとミヤタさんの女性陣2人、なので私もぜひ当番に(きれい好きなので~)。29日のトイレ掃除は「チーム日光」の4人でやることになった。

     ふだん夜更かしの私としては、早朝の当番は内心、やや心配だった。だが、どういうわけか、その朝は午前4時50分にパチリ。「午前5時からデイトしよう、トイレ前でね」と、声をかけたチナツチャンらと合流。ほかにRQから「私も手伝う」という志願者が一人。5人態勢でトイレをピカピカに仕上げた(気持がはればれ~)。

    Dscn2497 (ボランティアの手できれいにされた被災者の大事な記念写真たち=伊里前小体育館)

     29日は早急に準備を整えるため、ふだんより30分早い午前6時半にはミーティング。小坂代表が態勢を確認。7時台にはもう作業に入った。伊里前小の建物とマイクロバスの間にテントを張る作業では総がかりで。

     準備作業は緊張しながらも和気あいあいで。「組織はゆったりしているが、作業になると、チームワークがありますね」。今回、「チーム日光」に初めて参加したボランティアの弁だ。確かにメンバー同士、ふだんから知っていることもあり、そういう「チーム力」があると思う。

    Dscn2493 (海水で汚れた大事な写真のクリーニングのマニュアルはこうだ)

     今回の活動を通じて、北海道や横浜、兵庫県尼崎市からやってきたというボランティアたちと知り合った。29日夜のこと。北海道からという中年男性は「阪神大震災のときは手伝うことができなかったという悔みがあるので」。

     逆に日中、カレーの炊き出しをやっていたという尼崎市の若い女性は「高校生のときに阪神大震災で被災者に。今回は手助けする番だと」。結果的にだが、歌津行きはそうした各地のボランティアたちと話し合えた場にもなった。

    Dscn2586(「チーム日光」を見送ってくれたRQ市民災害救援センターのボランティアたち=30日朝)

     それともうひとつ、今回、私は「霧降高原 森の図書館」の出前というか、歌津に図書館を出張させた(最後は贈与)。そろそろ、被災者も本を読みたい時期に入ったのではないか。そんな思いがあったからだ。実際、「そろそろ、本の世界にのめりこみたい」といった声も聞いた。

     結果は、ダンボール箱10箱を持っていったが、週刊誌や絵本などに集中。私が思っていた藤沢周平や司馬遼太郎、池波正太郎などの時代小説はほとんど見向きもされなかった。わずかに筒井康隆のSFが何冊か被災者の手に渡ったぐらいだった。(う~ん、今後に生かしたい)

    Dscn2605戻ってきた「チーム日光」をパフォ-マンスで出迎える「巣み家」のサトウさんら=29日夕、東武日光駅前

     いえることは、被災地は瓦礫、いや、漂流物がまだまだ残り、被災者も立ちあがろうとしているが、精神的にはまだつらいものがあることがみてとれる。ボランティアとどこまで接していいのかという微妙な心と、一方で全国の心ある人びとに現状を伝えたいというせつない思いもある。

     さぁ、それをどこまで深く寄りそうことができるか。多くのボランティアたちの課題でもあるだろう。そうそう、最後に印象に残ったことを。つまり、歌津で接したボランティアたちの顔つきがそれこそ、爽快、さわやか、はればれ、つまり~、だれもが「いい顔」をしていたことだ。

    Dscn2612帰還の後片付けでガソリンタンクを運んでいた看護師のミヤタさん=29日夕、日光霧降高原)

    ブログランキング
    人気ブログランキングへ
    「砂時計主義」はブログランキングに参加しています。「投票」にもご協力を。

    2011年6月 2日 (木)

    高台集団移転に熱込める伊里前の「結」  南三陸町災害支援・「チーム日光」(2)

    Dscn2278 (南三陸町歌津の惨状。大震災から2カ月半が過ぎるが、まだまだだ=5月28日)

     「チーム日光」のメンバーを乗せたマイクロバスが棚田が続く山道を走っていくと、突如、緑の谷間にさまざまな瓦礫が。津波は平地だけでなく、ここまで押し寄せていた。5月28日午前10時45分ごろ、日光を午前4時に出て、東北自動車道をひた走り、もうすぐ7時間になる。現地、宮城県南三陸町はすぐ近くだ。その谷間の光景に12人が乗る車内はしばらく沈黙が支配した。

    Dscn2298 (5月28日、風景が泪に揺れる南三陸町歌津の海岸近くの現状)

     太平洋に面する南三陸町は5年前、平成の大合併で志津川町と歌津町が合併して生まれた町。今春の時点で、人口約1万7千人強。石巻市や陸前高田市などと共に壊滅的な被害を受けた街のひとつだ。一時は町の半数以上の1万人が行方不明だと報じられたこともある。全国が知るその映像の多くは町役場がある志津川地区だった。

    Dscn2282 (何の鋼材がねじ曲がっているのかな?と思ったら、歌津駅近くのレールだった)

     だが、もうひとつの歌津地区も同様にひどい被害だ。JR気仙沼線の歌津駅ちかくで、鋼材がねじ曲がっている光景がその象徴だろう。初めはわからなかった。前回も支援で訪れたメンバーに教えられ、それが津波でやられた鉄路・レールだと知った。直線の代表が鉄路・レールだが、そのイメージはどこにもない。もう2カ月半余になるが、そのまま放置されていたのだ。 

    Dscn2313 (津波は高台にある伊里前小の校庭にあった車も流したという=5月28日)

     私たち「チーム日光」(小坂憲正代表 2泊3日組=14人、日帰り組=9人の計23人)が、今回、災害支援をめざしたのは、その歌津地区。そこには江戸中期から続く「結」(ゆい)、地元の住民互助組織「伊里前(いさとまえ)契約会」がある(1693年の発足とされる)。そこには早くからRQ市民災害救援センターが災害支援に入っていた。

    Dscn2324 (伊里前小の校歌=同小体育館壁面)

     地元紙・河北新報によると、契約会は歌津・伊里前地区の77戸で構成している。そのうち74戸が津波で壊滅的被害を受け、会員世帯の13人が死亡・行方不明になった。会は被災当初から共有地で集落ごと高台に移転させ、災害に強い集落にする構想を実現させようとしていたという。

    Dscn2544 (歌津地区の死亡者・行方不明者を伝える避難所入り口の張り紙)

     契約会によると、今後、高台に500世帯前後の宅地を造成してゆきたい考えだ。現地2日目の29日夜に伊里前契約会長の千葉正海さんら地元の「オヤジ」たちと小坂代表、日光の「オヤジ」の徳さんや私らとで懇親する機会を得たが(とりあえず呑み合うこと~)、いまもその構想に向けて、一歩づつ手を打っていることを力説していた。 

    Dscn2280 (「チーム日光」などボランティアたちの手で漂流物が取り除かれた道路ぎわ)

     そうした伊里前契約会の構想に現地に入った小坂代表が大いに共感、契約会やRQとの縁も生まれ、集中的に災害支援に入ることになった。私にしても、「結」の伝統を有するこの地区はぜひ再建をと思うのは同じ。その「チーム日光」は前回、道路沿いの林や橋をおおっていた漂流物などを取り除く作業に精を出した。その林や橋を確認すると、確かにそこだけ、きれいになっていることがよくわかった。 

    Dscn2344 (歌津中グラウンドに建てられた応急仮設住宅の案内図)

     メンバーの多くは、28日昼過ぎから伊里前小体育館で地元住民に選んでもらう衣類などの支援物資の整理にあたった。翌29日に地元住民を対象にした「フリーマーケット」が企画されているためだ。夕方、地元住民もボランティアも入浴できるバイオマス燃料で焚く無料の「魚竜湯」に入ることができた。その帰り道で出会った地元の中年女性から「道路ぎわなどがおかげでこんないきれいに」。そんなお礼をされ、恐縮してしまった。

    Dscn2350 (仮設住宅ができあがるなどで、少しづつ生活再建の動きも=歌津中グラウンド)

     確かに歌津中グラウンドなどに建てられた真新しい仮設住宅群を見ると、少しづつ新しい生活が始まっているのだな、そうは感じられた。だが、道路沿いはまだまだ漂流物をかぶったままになっているところが、かなりある。海辺となると、なおさらだ。歌津中近くの道路ではツツジが満開となっていた。季節は確実に晩冬から初夏に移ろうとしているのだがー。

    Dscn2356 (季節が変わり、仮設住宅そばの道路では、こんな見事なツツジも=5月28日)

    « 2011年5月 | トップページ | 2011年7月 »

    2017年9月
              1 2
    3 4 5 6 7 8 9
    10 11 12 13 14 15 16
    17 18 19 20 21 22 23
    24 25 26 27 28 29 30