「泪もの」の「マイ・バック・ページ」 友人たちが次々と映画館へ
(「政治の季節」の中で悩み、翻弄されてゆく、ひとりの若きジャーナリストの回想録)
ツイッターではナガシマクン(群馬・デザイナー)が、メールではタカハシクン(東京・建築家)が、そして本日はイソヤマクン(茨城・建築家)が手紙で伝えてきた。いずれも私の学生時代からの友人だが、それぞれ別々に映画「マイ・バック・ページ」を映画館で見たという。
5月28日公開だから、上映されてから、まだ半月余。それがなんだか、集合的無意識のように、この映画を見ている。何かの符号だろうか?。と、思わせる友人たちの日々だ。という私にしても、胸騒ぎがしたのか、「マイ・バック・ページ」を年明けに読んでいた。映画になるを知ったのは本を手にしてからだ。
原作者の川本三郎さんは1944年生まれ。1969年4月に「週刊朝日」の記者になり、さらに71年5月に「朝日ジャーナル」記者となり、縦横に活躍する。そして71年8月、陸上自衛隊朝霞基地で「赤衛軍」と名乗る過激派が侵入し、パトロール中の自衛官が刺殺される。
その犯人「K」と事前に接触していた川本さんは「K」が奪ってきた警衛腕章と自衛官のズボンを(という事件の証拠を)、犯人「K」から手にした。事件が「ガセネタ」ではないという証拠で手にしたものだったが、それが命取りになった。
それらはのちに友人を通じで処分した。これが刑法104条の「証憑隠滅(ひょうしょういんめつ)「罪」に該当し、72年1月9日、埼玉県警に逮捕される。その日の新聞では『「朝日ジャーナル」記者今日逮捕」と報道されていたという。
川本さんは結局、朝日新聞にクビを切られ、72年9月27日、浦和地裁で懲役10カ月、執行猶予2年の判決を受ける。控訴はしなかった。著書「マイ・バック・ページ」は、そのころ、彼を支えてくれたのは詩人、清岡卓行の詩「青空」だといい、その詩で終わる。
川本さんは本の「あとがき」でこう書いている。「あの時代、新左翼運動に共感した企業内ジャーナリストが(企業内は強調点が打たれている)、過激派と呼ばれる突出した政治組織の行動を取材するとはどういうことだったのか。社会性という点でいえば私はただそのことだけを読む人に考えて欲しかった」。
続いて「私は自分を馘首した朝日新聞社を批判したり、あるいは事件と関わった何人かの記者を批判したかったのではない。ジャーナリストにとってのモラルとは何なのか、その原点だけを考えたかったのだ」。 (原作者、監督、脚本家の鼎談も載っている映画「マイ・バック・ページ」の「原作試し読みBOOK」)
彼は取材源の秘匿というジャーナリストのモラルを守ろうとした。しかし、「事実の流れが錯綜してゆくうちにその基本的な問題から私ははがされてゆき、最後は『証憑隠滅』という犯罪に直面させられた。私は『記者』ではなく、『犯罪者』になった」と記す。
川本さんが23日間の拘留から保釈されて2週間後、「総括」がキイワードになった連合赤軍事件が起きる。「『連帯』や『変革』といった夢の無惨な終わりだった。自分たちが夢みたものが泥まみれになって解体していった」とつづる。
その無念さはよくわかる。新左翼、三派全学連の一員だった私は71年の沖縄返還協定粉砕闘争で逮捕・拘留・起訴された。罪名は凶器準備集合と公務執行妨害(判決は懲役1年半、執行猶予3年)。このようないわゆる政治犯は、その時代の権力によって罪人とされるだけだ。だから、川本さんのように「犯罪者」とは、これっぽっちも、思っていなかった。当時も今もだ。
大学3年だった私は71年秋から72年春まで東京拘置所にいた。「夢の無残な終わりだ」という思いは同じだった(もっとも、事件の詳細は保釈される72年春まで知らなかった)。
後年、私自身が川本さんを追いやったその朝日新聞記者になるという因縁があるのだが。それだけに「原作試し読みBOOK」に掲載された映画化記念鼎談で、川本さんが東大全共闘議長の山本義隆と再会する場面は泣かせる。
川本さんは69年当時、指名手配中の山本議長をアジトから全共闘の全国集会が開かれる日比谷野外音楽堂にひそかに連れていったことがある。それから30数年後の2003年、彼が『林芙美子の昭和』で、毎日出版文化賞を受賞したとき、山本義隆も『磁力と重力の発見』という物理学書で受賞。その授賞式で初めて再会したという。
山本義隆は川本さんのことを覚えていてくれて、「君も苦労したね」。そう、ひとこと言ってくれたという。川本さんは語るー。「嗚咽(おえつ)した」。時を超えた万感の思いの嬉し泣きだったろう。そこに立ち会えば、私も、もらい泣きするだろう。
もっとも、きょう届いたイソヤマクンの手紙では「映画は原作を越えられませんでしたが、後半は緊張感、やはり 泪ものでした」とある。さらにイソヤマクンは災害支援ボランティアとして19日にも東北方面に出掛けるとある。最後に「心にカナリアを」とも(カナリアは炭鉱などでそうだが、有毒なガスがあるかどうかなど、危険をいちはやく察知する鳥だ)。
« 霧降高原キスゲ祭、18・19、25・26に 「花も団子も」チロリン村で | トップページ | 災害支援「「チーム日光のキセキ」ミニ写真展 18日から「霧降高原キスゲ祭」で公開 »
コメント
« 霧降高原キスゲ祭、18・19、25・26に 「花も団子も」チロリン村で | トップページ | 災害支援「「チーム日光のキセキ」ミニ写真展 18日から「霧降高原キスゲ祭」で公開 »
砂時計さん、今晩は。コメントは久しぶりですね。
まずはタイトルにもなっている『マイ・バック・ページ』ですね。
もちろんこれはディランの有名な曲ですが、この曲のリフレインは、
“Ah , but I was so much older then ,I'm younger than that now”。
出演もしていたあがたさんがこれを忘れてはいけないと言っていました。
あの時代のいろいろな思いがこの曲にそしてタイトルになっていると思います。
いろいろと悪いことが起きる引き金となったような事件でしたね。
投稿: ナガシマ | 2011年6月16日 (木) 00時21分
ナガシマさま
こんばんわ。ほんとにコメント、久しぶり。あれだけ映画に集中していれば、ブログを読む時間もなかなかだと。それにしても、今「マイ・バック・ページ」が映画化され、それが話題を呼んでいることが、何かを伝えているような気が。ナガシマクンはじめ、周りの友人たちが何か、あの映画に自分を投影しつつ、今の時代を考えているような。私は病死した永田洋子死刑囚にサヨナラするために「序説18号」に「震災詩」と「彼女は自分を殺した・永田洋子小論」も書き送った(川本三郎さんの「マイ・バック・ページ」のシーンも追加して、それも本日!それもあり、一部をブログに)。あの連合赤軍問題にある「結論」を示さないといけない、そうずっと思ってきた。長くノドに突き刺さった魚のホネみたいだったから。でも、ようやく自分なりにだけれども、この「総括」にケリがつけられた気がする。私の「マイ・バック・ページ」なのかもしれない。
投稿: 砂時計 | 2011年6月16日 (木) 00時59分
ご無沙汰しています。
この映画、バンクーバー国際映画祭にもくるようです。
チャンスがあればみてこようと思います。
投稿: ハル | 2011年8月19日 (金) 00時37分
ハルさん
元気でなにより。ほう、「バンクーバー国際映画祭」にね。ぜひ観てください。
そういう時代があったことが、というか、そういう青春もあったことを。
投稿: 砂時計 | 2011年8月19日 (金) 14時37分