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2011年7月18日 (月)

流れ着いた海岸の向こうへ 詩人を偲んで・清水昶ノート(4)

「銃眼に火の眼をこめて失速した日を狙う」

「荒れた胸でささくれる怒りを踏みしめ」

「明後日へと深い林を遊撃する」

 いずれも春の終わりに亡くなった詩人・清水昶(あきら)の詩集『少年』(1969年)の「眼と銃口」にある詩句だ。「1969」、世の中は騒乱にあり、学生の反乱が続いていた。その時代の気分を示す語句が随所にみられる。その選ばれた言葉と言葉が紡ぐ空気、というか、気分というかー。学生時代の下宿で読んでいたとき、「ふーむ」と溜息をつきながら、その世界に魅せられた。

 その清水昶について、昨夏、3回にわたって「小論」(実際はノートなので、今回は「清水昶ノート(4)」に)をブログでアップしてきた。その先をどうしようかと、考えているうちに時が過ぎた。ところが、6月1日、ツイッターで実兄の詩人、清水哲男さんが清水昶の訃報を伝えた。「えっ!」と驚いたのは当然。清水昶は私の青春時代のひとつの記憶でもあったからだ。

 そんな気分を『現代詩文庫 清水昶詩集』(思潮社・初版1973年)の解説「喪失の青春」(中嶋夏)がほぼ伝えている。

 「それにしても、読者とは如何に作品の裡に己れの投影と近似値を見出そうと務めているものかー。たとえそれが大いなる幻想、あるいは独断であったとしてもだ。私はこの人の詩に心惹かれる第一の原因も、この人の詩が<判る>という単純な事実に尽きるのかもしれない」

 私自身は中嶋さんのように単純に「判る」わけではない。清水昶の詩は、とくに初期の詩は、茨木のり子さんや山之口貘さんのような詩(読み込めばすんなり入ってくる詩)と違い、膨大な言葉の世界から選び出した材料を縦横に散りばめたうえで、ガラス細工のように組み立てられた迷路のような詩だからだ。

 だから、詩句のひとつひとつに魅せられる一方で、全体が示すイメージを名画のように鑑賞していた。つまり、詩句から立ち上る雰囲気に共感を覚えていた。実際、彼が初期に示した抒情、それも暗い抒情を漂わせた機関銃から吐きだすかのような詩は、<そう、そんな思いでいるー><そのように感じているんだー><そんな言葉が欲しかったのだー>、といったことで受け取っていた。

 ただ、それをさらに読み込んでいる先の中嶋夏さんの解説を読んでみると、その詩の雰囲気に魅せられたわけも、それなりにわかってくる。彼は「眼と銃口」について、こう解説する。「この詩を始めとする彼の初期の詩篇に顕著なのは<喪失の青春>という主題であり、またその地点に決着をつけて改たな地平線を獲得せんとする<未来性>にあったように思われる」。今になって思うと、たぶん、私もそのように受け取っていたのだと思う。

 ということで、敬愛していた詩人・清水昶さん(晩年は居酒屋であびるほど酒を飲んでいた彼の姿を見かけたというが~)の冥福を祈りながら、詩「眼と銃口」(16行)をアップしたい。今晩は清水昶さんを偲んで一杯やることに。

 詩 眼と銃口

           清水昶

熟した未婚から顔をあげるわたしは

奢れる雪に凍えるまぼろしの党員となり

銃眼に火の眼をこめて失速した日を狙う

ゆらめく敵は人間ではなく

人影のようにざわめくかん木の林であり

遠い夏にねばるあなたをおしひらきわたしは

バラや野苺の棘に素足を裂いて

荒れた胸でささくれる怒りを踏みしめ

明後日へと深い森を遊撃する

用心しようわたしも死ぬのだ

水の笑いに老いた父のようにではなく

遊撃をゆるめた脚ではねる鉄の罠に噛まれ

血潮のめぐる空の下あなたの愛を

ナイフのようにわが冷肉につきたてたまま

死ぬならば

神無月の朝に死ぬ

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詩人」カテゴリの記事

コメント

黒川様
初めて投稿いたします。
「清水昶」という詩人に昭和40年代後半ずぶぬれだった者です。
昨年70歳にて逝去されたこと、晩年は俳句教室などされていたことなど
、時代と共に清水昶という詩人そのものが忘れられていった日本の情況などに
思いを馳せております。
「ながいのど」「少年」「朝の道」・・・それから少しど忘れいたしましたが、
あと2つ詩集を出されたかと思います。
当時私は、白鯨グループの詩人たち、佐々木幹郎、米村敏人、もあわせて読んだりしておりましたが、戦後詩人グループは、荒地にはじまり、天沢などの凶区、吉増のドラム缶などがあって、その後に関西系列の白鯨が続いておったと認識します。
清水のあの、・・・・しながら、・・・・する私は、といった詩句は詩人を伝説の中へと
引き込んでいったのではないか。
特に今思い出しただけでも、「魂のバリケード/舌つまる口/青草生える沈黙の中で/荒涼
とした戦いが始まった/耳を閉めまぶたを閉じ/あらゆる肉の扉を閉めて・・・・」
とか、「敵意を深める夕暮れの/涙と敵意は 両眼の裏側で盟約し/・・・・/
その男の向こうにあるものは/象牙のような華麗な愛か/
無残に朽ちた巨象の墓か/にがい流離の水をのみつくし /くちびるをおさえて/ 飢餓の露が滴る生者の道 /一途に不安に昏れゆく道を/ わたしを閉ざす眠りの底から /手負いの男が/今日も 暗夜に向けて 旅だってゆく」
などの詩句は忘れようとしても忘れることのできないものでした。

「全身の悲哀を足指に集めて私は/・・・・と続いている未明の階段を・星よりもしづかに
降り始める」
記載したき事は、まだまだありますが、ココらへんで一応やめておきます。
失礼いたしました。

わきさま

わたしもそれなりに「ずぶぬれ」になりましたが、わきさんの方がはるかにそうだったのかもしれません。あの時代の気分が、空気が、圧縮された語句に、わたしはそのように受けとっていました。清水さんはその後、一見、「優しい詩」を書いていますが、貫く魂はあの彼のものではないか、そう感じていたので、その周辺について、清水昶小論の続きを書こうとしていたのですがー。生きていたら、この震災や原発をどう表現していたのだろうか。返信を書きながら、ふと、そう思いました。

黒川様
続けて投稿させていただきます。
清水昶という名前から想像するのは、
第1に石原吉郎であり、村上一郎です。
村上氏は確か自宅にて自尽、石原吉郎はラーゲリ帰りの
親族に宛てた手紙など非常に当時小生の関心を惹きつけてやまない詩人でした。
「伝説」「麦」など詩句が今でも忘れることのできぬものとなっています。
現代詩文庫において、石原吉郎の解説を清水昶が書いた「サンチョ・パンサの帰郷」
は未だに目に焼き付いて離れません。
他方清水を発掘したのは、無名鬼を出していた村上一郎氏ではなかったでしょうか。
村上氏も武蔵野市・そして最後の住所は清水氏も武蔵野市だったことは、
なにやら因縁めいて見えた昨年の訃報でした。

わきさま
確かに村上一郎さん(自死)を思い浮かべます。思潮社の「清水昶詩集」の解説は村上さんでした。すごく的を得たというか、納得できる解説だった記憶があります。シベリア帰りの石原吉郎もわたしの敬愛する詩人です。「なにやら因縁めいた」でいえば、清水昶に続いて吉本隆明が逝く。思想的にも詩でもわたしは大きく影響を受けています。わたしというか、全共闘世代の多くがそうだったでしょう。彼を追悼し、「詩と原風景」のエッセイをアップしました。吉本であり、清水であり。わたしの青春と2人の詩人は切り離せないからです。

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