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2011年9月 4日 (日)

原発はまだまだ人類にとって重荷すぎる 『序説第18号』冨岡弘「表現の周辺 3」(上)

Dscn3297_3   (冨岡弘の「表現の周辺 3」も掲載されている『序説第18号』)

 2003年以来ほぼ毎年ヨーロッパのアートフェアーに絵画作品を出品している。開催場所は、ベルギーとイタリアである。アートフェアーといっても、美術に関心のない人にとってどんなものなのか多分分らないのではないか。私の参加しているアートフェアーについて具体的に説明すると、大体こんなことである。

 世界の画廊があつまり、それぞれの画廊がそれぞれの作品をもちより、巨大な建物を会場として、仮設の空間を画廊ごとにもうけ、絵画や彫刻などの作品を展示して、一般の人々は勿論、業界人やマスコミの人々にも展示を有料ではあるが、公開してみてもらうためのアートのお祭りである。展示作品は、コンテンポラリーのものからクラシックな超有名作家のものまで、幅の広い展示内容になっている。

 私が出品しているベルギーのゲントで毎年開催されている、リニアートという国際アートフェアーは、世界十五カ国から約百三十の画廊が参加して、フランダース博覧会場をメインホールとして使用し、ベルニサージュ⌒マスコミ及び画廊関係者のみで、一般客は参加不可の前夜祭)を含め一週間程度の期間開催される。入場者数はトータル約三万人であるらしい。

 期間中は作品展示のほかに、アートレクチャーやシンポジュウムも行われ、優れた画廊を選出するGalleryAward、若手作家の為のThe Young Ones Award、巨大エントランススペースに設置する作家を選抜し、その年の顔として大々的に紹介するEntrance Marker等、様々な企画が行われる。

 このお祭りは、アートを美術館や画廊といった特別な空間で鑑賞してもらうのではなく、もっと気軽な雰囲気の中でアートに接するための出前的要素が強く、あまりかしこまらず普段着でといったフェアーなのだ。勿論画廊にとっては、商談の場であり情報交換の貴重な場でもある。業界全体を底上げしようとする経済行為なのだ。日本と違いヨーロッパでは巨大な美術マーケットが確立されているらしく、各国大小様々なアートフェアーが盛んに開催されていて、日本と比べ物にならないほどの歴史もあるようだ。

 どちらかといえば、日本の画廊は骨董商的色合いが強く、どうも蜜室で色んなことがおこなわれ、一般の人々が気軽に立ち寄る雰囲気に欠けている傾向にある。長年絵をかいている私でさえ、敷居の高さを感じるときがある。一般の人々とどうしても乖離しがちのように思われる。

           
 私が住んでいる群馬県にもけっこう画廊が点在していて、私が考えるに、地方でも地本の画廊が集まり年一回ほどミニアートフェアーでも開催すれば面白いのではないか。地域の作家・マスコミ・画廊主が一堂に会し、広めの会場で展示してはどうだろうか。画廊間の風通りもよくなるだろうし、開けた画廊に成れるのではないか。

 こんなことは、私のような非力な者が考えても仕方ない事かもしれないが。昨今益々人と人の繋がりが希薄になってきているようで、もっとアートを媒介に人生を楽しむ気軽に楽しむこともあり得るのではないか。美術館のようなある権威付けされた空間では実現出来ない気軽さが、アートフェアーにはあるように思う。                         
                    
 この場で書くかどうか迷ったが、やはりド素人の視線で書いておくべきであると考えた。
 原発のことである。私は勝手に原発にアクシデントが発生したとき、現在では少なくとももっと放射性物質の除去に対して技術が進歩しているのではないかと思いこんでいた。福島原発事故発生後、テレビのニュースを毎日長時間みていると、原子力の専門家が何人も登場した。放射性物質の処理に関する名案をもっている人は誰一人登場しなかった。

 かなりのショックで、原子力研究者の多くは原子力発電に関しては当然詳しいようだが、事故発生後の対処についても、原子炉の安全停止に至らなかった場合の合理的処理方法、緊急的処置による放射性物質の飛散回避、最悪飛散してしまつた状況下での対処方法など、様々に考えうる状態に対して明晰に答えうる人は残念ながらいなそうであった。

 東電も原子力発電における経済的ロスの少ない技術開発への投資はしてきたのだろうが、トラブル発生後の安全な収束方法への技術開発のための投資はしてきたのだろうか疑問がのこる。原発の運転における安全性維持に対しての技術開発への努力。豊富な資金提供を研究者にはやい段階からしておくべきではなかったか。

 今となってはもう遅い。原子力発電は安全であるという神話を自分たちで作り上げ、神話自体をいつの間にか疑う余地のない完璧なものと祀りあげてしまった。ゆるい体質、危機管理へのあまさは、私の様な素人でも感じてしまう。そのことは事故後の東電清水社長の対応をみれば、有事にあたり自分は何をすべきか普段から全然考えていなかったかが手に取るように分かる。

 東電も企業であるが、他の数々ある企業と同列であると思ってもらっては困る。原子力という未だ人類がコントロール出来ていないものを扱っているのだという意識が欠落しているのだ。暴走すれば狂気にちかいものを何とかなだめながら、かろうじてあつかっているという心得がなさすぎる。はっきり云って原子力発電はまだまだ人類にとって重荷すぎる。     
 

 事故後の対応のまずさ遅さ。地震の恐怖、放射性物質の恐怖、二重の恐怖の暗雲たる状態で、被災者の心労は想像に絶するものがあったはずである。政治家、東電トップともに一寸考えれば分かりそうなもので、想像力の欠如である。ツイッターの書き込みを一寸覗いただけでも地震関連の書き込みがいかに多いいことか。市井の人々のほうがはるかに敏感に反応していることか。なさけない。

  
 山一証券1997年廃業における野澤正平社長の記者会見で「社員は悪くありません」と泣きながら発言した様子を記憶にとどめている人は多いだろう。私の様な何の組織にも属していない者にとって、山一のような大きな会社のトップに上り詰めた人は、さぞかし有能な人物なのだろうと勝手に考えていた。

 しかし、あの会見での泣き顔は幼児とか少年のそれであって、これが大企業のトップの終焉の顔としては、惨め哀れとしか形容出来ない情けなさを漂わせていた。一方野澤社長の泣き顔は赤塚不二夫の人気マンガであったバカボンのパパのような何故か憎めない屈託のない顔にもみえた。やがてこれがこの人本来の顔であって、好感をもってしまうほどだった。

 企業のトップは自社の経営がうまくはこんでいる時は、その表情からは微塵も弱さなど感じさせない近寄りがたいほどのオーラを放っているものであろうが、いったん劣勢にたたされるとあの時の威厳に満ちた表情はたちまち何処かに消え失せてしまい、堂々たる風格はメルトダウンして情けなさだけが漂うことになる。

 世の中を見渡せばこれに近い事はそれほど珍しいことではなく、事の大小あるけれどよくあることだろう。大企業になればなるほどその社会的責任は増大することは自明のことであり、会社が下降線を辿ったときこそ、トップの能力が試されるときであり、判断力決断力が必要になってくる。

 今回の福島原発事故後の東電清水社長の表情から、山一証券野澤社長のことをふと連想してしまった。事故後の被災住民への直接の謝罪の遅さ、対応の鈍さは無能としか表現しようがない。被災地での住民への謝罪の際のおどおどした自信のない立ち振る舞いをみたとき、これが東電トップの本性なのかと愕然としてしまった(「下」に続く)

『序説第18号』は7月30日発行((定価1000円+税)。取り扱い 「序説」編集委員会事務局 日光市霧降高原 黒川純 0288・25・3348 qk3y-tmok@asahi-net.or.jp 

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