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2011年9月 7日 (水)

 「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」から  詩人・河津聖恵の世界(6)

Dscn4348(今年 4月30日発行の河津さんの詩集『ハッキョへの坂』 土曜美術社出版販売)

 詩人は「3・11」にどう向き合っていくべきか、ひとりひとりの死者にどんなまなざしを向けるべきか、そのとき、言葉が立ちあがるために、どんな視線や見方が、つまり構え方が、必要となるのか。河津さんは詩人にして作家、ジャーナリストである辺見庸さんの詩篇を挙げて、最大限の賛辞を送りながら、方向を見定める。

 辺見庸は(石巻市出身)大震災後、いち早く、圧倒的な迫力で問うべき状況と見方を新聞紙上で明らかにしている。3月のことで、私も岩手に支援物資を届けに花巻に行った際、現地のボランティア支部事務局長(私の朝日新聞の先輩記者だった増子義久さん)から「やはり辺見庸が見事な切り方をしている」と、地元紙・岩手日報の記事を紹介された。

 そのエッセイは「非常無比にして壮厳なもの」。6月20日発行の辺見庸『水の透視画法』(共同通信社)にも収められている。

 3月のそのとき(今もそうだが)、その「非常無比・・・」のエッセイの以下の部分を繰り返し振り返っていた。

 「時は、しかし、この広漠とした廃墟から、『新しい日常』と『新しい秩序』とを、じょじょにつくりだすことだろう。新しいそれらが大震災前の日常と秩序どどのようにことなるのか、いまはしかと見えない。ただはっきりわかっていることがいくつかある。われわれはこれから、ひととして生きるための倫理の根源を問われるだろう。逆にいえば、非倫理的な実相が意外にもむきだされるかもしれない。つまり、愛や誠実、やさしさ、勇気といった、いまあるべき徳目の真価が問われている」

 河津さんは、ツイッターでも、そう説いた辺見庸の『水の透視画法』にも触れているが、辺見庸の詩についても、以下のように展開している。

 

詩の欲望は3.11へ向かって(二)

 河津聖恵さんのブログ「詩空間」(7月18日)から。

 このブログでも以前紹介した「文學界」6月号に発表された辺見庸さんの詩篇「眼の海──わたしの死者たちに」は、震災後、一気に書かれた詩群です。

 ここにある詩のことばは、これまでにこの国で書かれたどんな詩よりも、冷たく悲しく私の胸に浸透してきました。

 私もまた、とめどなく世界の、自分の眼からあふれた海の中にいるのだと感じたのです。

 この詩篇に書かれた詩のことばすべて、名もなき死者たちの一人一人の死に、かすかにふるえながら、永遠に慟哭してます。

 すべての詩は死者たちの死にこまかな穴を開けられ、みずから食い荒らされるように、痛み、悼んでいます。世界が壊れて、歴史や存在の底からあふれてきた水にみずから溺れながら、みずからの苦しみを通して死者の苦しみに近付こうと、ことばは、この上なく繊細に、しかし意志的に差し向けられつづけています。

 私が最も感動した作品は、NHKで放映された辺見さんが語られた番組「瓦礫の中からことばを」でも紹介された。「死者にことばをあてがえ」です。

全文を引用します。

 わたしの死者ひとりびとりの肺に
 ことなる それだけの歌をあてがえ
 死者の唇ひとつひとつに
 他とことなる それだけしかないことばを吸わせよ
 類化しない 統べない かれやかのじょのことばを
 百年かけて
 海とその影から掬(すく)え
 砂いっぱいの死者にどうかことばをあてがえ
 水いっぱいの死者はそれまでどうか眠りにおちるな
 石いっぱいの死者はそれまでどうか語れ
 夜ふけの浜辺にあおむいて
 わたしの死者よ
 どうかひとりでうたえ
 浜菊はまだ咲くな
 畔唐菜(アゼトウナ)はまだ悼むな
 わたしの死者ひとりびとりの肺に 
 ことなる それだけのふさわしいことばが
 あてがわれるまで
  
 ここにあるのは、剥き出しの単独者としての私=生者が、いまだ剥き出しの死体のままどこかに漂着したままの死者「ひとりびとり」へ向かって放つ慟哭です。

 今数千とも言われる行方知れない死者たちは、「死者・行方不明者」として「類化」され「統べられ」、「数千」として「量化」されつつあります。けれどかれらは、あくまでも「ひとりびとり」というあり方で生き、死んだのです。だから「私の死者ひとりびとり」として、私たち生者の「ひとりびとり」によって悼まれなくてはならないのです。類化した生者が類化した死者を、一方的に儀式として弔うことはじつは追悼とは真逆なのです。

 この「ひとりびとりの死者」へ、「ひとりびとりの生者」からことばを差し向ける努力こそが、私は今最も必要であると思うのです。

 とりわけ詩は、ことばの死者への道筋を、そして死者への道筋をたどるためのことばの力を、みずからの中から絶対的に創造していかなくてはならないのではないでしょうか。

「震災と原発」をテーマにした詩人・河津聖恵さんの詩の講演会・朗読会(実行委員会主催、霧降高原「森の図書館」後援)

10月1日(土) 午後5時~JR日光駅2階ホワイトルーム。

入場料 前売り・予約 1200円(資料代含む) 当日券1500円(定員60人、先着順) 問い合わせ(基本的に9月12日から) 事務局・日光霧降高原の富岡洋一郎(0288・25・3348、090・5351・3440) メールqk3y-tmok@asahi-net.or.jp

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