あの苦しかった戦争そのものだった 「原発いらない!3・11福島県民大集会」その(2)
(1年前のその時、午後2時46分に一分間の黙祷を捧げる1万6000人の参加者)
(参加した各団体の色とりどりのさまざまな旗がデモに向かう様子は感動ものだった)
(以下は「さようなら原発1000万人アクション」からの転載記事)
次に、県内の様々な立場の人が現状や脱原発の思いを報告。山形・米沢市に子どもと避難している管野智子さんは「一刻も早く元の生活に戻りたい」と述べ、二本松市で有機農業を営む菅野正寿さんは「農業と原発は相反するものだ」と願発反対を強調しました。
相馬市で一家で漁業を営む佐藤美絵さんは「また、相馬のおいしい魚を全国に届けたい」と思いを語り、飯舘村から避難を余儀なくされた管野哲さんは「こんなことになった責任はだれがとるのか!」と憤りを露わにしました。
富岡町の高校から転校した鈴木美穂さんは「私たちの将来を考えてほしい」と若い世代として訴え、橘柳子さんは戦争を体験したことから「再び棄民扱いをさせられるのか」と悲痛な叫びを上げました。
(以下の大太字はわたしが会場で聞いた橘柳子さんの重い言葉。橘さんは浪江町から避難し、今は本宮市の仮設住宅で暮らしているという)
「戦争終結時に中国大陸を徒歩で集結地に向かった記憶がよみがえりました。避難も徒歩が車になっただけ。あの数日間はあの苦しかった戦争そのものでした」
「国策で二度も棄民されてしまう恐怖。いつも国策で苦しみ悲しむのは罪もない民衆なのです」。
(そうそう、球場入口ではさまざまな団体がさまざまに宣伝活動をしていた)
(注目は静岡の浜岡原発再稼働の是非を問う住民投票の呼び掛けだろう)
(デモ隊には「全国農民会議」や「三里塚、芝山の反対同盟」などもー)
(いかにも若者らしい横断幕と若者たちの華やかな脱原発派の姿も見られた
(横断幕を手にデモの出発点に向かう「原発いらない栃木の会」の大木一俊弁護士ら)
(デモの出発点はあちこちのデモ隊でごったがえし、わたしも迷子になりそうだったー)
(デモに向かうため、球場の外側に出たが、そこの芝生は2・425μ㏜/hという数値だった。ただし、郡山集会を企画した実行委員会のHPによると、球場は除染され、2月10日の2塁付近は0・32μ㏜/h。)
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