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2012年3月19日 (月)

追悼・さようなら吉本隆明さん 詩とその原風景(黒川純)

 Dscn7626_2  (わたしの本棚にある吉本隆明コーナー。たぶんリュウメイだけで百数十冊は)

亡くなった詩人、思想家、吉本隆明さんを追悼し、わたしの詩の短いエッセイをアップすることに。わたしが詩にかかわったきっかけは吉本隆明さんだったので。学生時代だから、もう昔、むかしのことになる。だが、このエッセイを書いたのは昨年の春。まだ1年も過ぎていない。

 ほんとうはもっときちっとした「詩とわたしと隆明」を書きたかった。それに清水昶さんの過激で繊細な魅力的な詩の世界のことも。そう思っているうちに月日が過ぎ、そのままに。だが、当のその吉本さんがこの世から消えてしまった。追悼するには、わたしのつたないこの詩のエッセイを示すのがよいだろう、そう思ったので。

 もともとは岩手県の詩人たちを中心にした詩誌『堅香子』9号(2011年6月発行)のリレーエッセイ「詩とその原風景」に寄せたもの。同人の各人がそれぞれ、自分の詩の原点を振り返る小欄だ。同人とその周辺が読んではいるが、ネットでは初めての公開となる(たぶん~)。

 それにしても、もう年なので、覚悟はしていたが、あの吉本隆明さんがー。彼がいなくなったことになんともいえない複雑な思いでいる。その衝撃というか、自分自身への影響はこれからあとでじわじわとやってくるのだろう。吉本隆明さん、長い間、ありがとうございました。合掌ー。

詩とその原風景     (詩誌「堅香子」9号・2011年6月)
ずつと以前のぶんまでとりかえすために


                           黒川 純

 詩にかかわることになった、決定的なきっかけは、やはり吉本隆明体験(私たちはリュウメイと呼んでいた)だったといえる。やはり、というのは団塊世代というか、戦後の鬼っ子と称された全共闘世代である私たちにとって、1970年代のあのとき、60年安保の全学連を支え、70年安保の「叛乱」に根拠を与えていた思想家・詩人、吉本隆明のさまざまな発言は、新鮮で驚きだった。もやもやした若者の心情を批評や詩で代弁してくれていると感じた。砂地に水が浸みこむようにリュウメイの発想に染まっていた。

 私は工業高校から自動車工場へ入ったが、3カ月で嫌気がさし、工業大学へ。1、2年のときは、もっぱら反戦フォークに魅かれ、「戦争は知らない」「イムジン川」などを歌っていた。だが、世の中は騒然としており、反戦歌ですむような時代状況ではなかった。〈この歪んだ時代や体制にまじに向き合わねばならない〉。そんな思いで、仲間たちと「歴史研究会」を発足させた。1971年、大学3年の春だったと思う。差し迫った課題は沖縄問題だった。沖縄の悲劇を知るうち、ごく自然に沖縄返還協定粉砕闘争へ(沖縄返還は1972年5月)。そこから、すぐに、ベトナム反戦、三里塚空港反対、マスプロ教育批判・・・。「造反有理」の反権力へ。

 時代は「三丁目の夕日」の貧しい昭和30年代から豊かな消費社会へと場面が転換する入り口だった。コルトレーンのジャズ、ディープ・パープルと頭脳警察のロック、浅川マキと寺山修司、「黒テント」と緑魔子、つかこうへいの「熱海殺人事件」、フォークゲリラとザ・フォーク・クルセダース、高橋和己の「憂鬱なる党派」、映画「八月の濡れた砂」、長髪とTシャツとジーンズ・・。歌や詩、演劇、映画、ファッションが、芸術が、政治・経済と重層的に絡みながら、尖鋭化していた。

 私も知らずうちに、こうした時代の情況に立ち会っていたが、吉本の『情況への発言』や『全著作集』も手にしていた。さらに、マルクス、レーニン、ローザ・ルクセンブルク、ヘーゲル、シモーニュ・ヴェイユ、メルロー・ポンティなどを乱読していた。その頃の私は1971年秋の沖縄闘争で逮捕・拘留・起訴(東京拘置所の独房に秋から翌年春まで入っていた。連合赤軍事件はこの独房時代に起きている)。判決は大学4年もだいぶ過ぎてから。凶器準備集合罪と公務執行妨害罪で懲役1年半執行猶予3年。その前後の大学闘争は未完に終わり、挫折感の中で魅かれたのが『吉本隆明詩集』や『清水昶詩集』だった。なかでもリュウメイの『転位のための十篇』は、胸の中に沁みた。社会とどう切り結んでいくか、進むべき方向について思い悩んでいた。例えば「ちひさな群への挨拶」などがそうだった。その一部を抜き出すと、こうだ。

ぼくはでてゆく
すべての時刻がむかうかはに加担しても
ぼくたちがしはらつたものを
ずつと以前のぶんまでとりかへすために
すでにいらなくなつたものはそれを思ひしらせるために
ちひさなやさしい群よ
みんなは思ひ出のひとつひとつだ
ぼくはでてゆく
嫌悪のひとつひとつに出逢ふめに
ぼくはでてゆく
無数の敵のどまん中へ
ぼくは疲れてゐる
がぼくの瞋りは無尽蔵だ

「すべての時刻がむかうかわはに加担しても/ぼくたちがしはらったものを/ずつと以前のぶんまでとりかへすために」。私はこうした発想に親しんだ。というのも、リュウメイの『固有時との対話』のキイワードというか、構え方の基本と二重映しになっていたからだ。固有時の恒数をあきらかにしたかったと語ったあとの言葉がそれだ。

「わたしは自らの生存が何らかの目的に到達するための過程であるとは考へなかったのでわたし自らの宿命は決して変革され得るものではないと信じてゐた。わたしはただ何かを加へうるだけだ。しかもわたしは何かを加へるために生きてゐるのではなく、わたしの生存が過去と感じてゐる方向へ抗うことで何かを加へてゐるにちがひないと考へてゐた」

前後して過激だが、美しい抒情をたたえた詩を生み出していた清水昶の詩の世界につかっていた。それまで詩らしきものを書いたことはなかったが、ごく自然に毎日のようにノートに詩を書くようになっていた。どこかに投稿するといった発想はなかった。なぜか「風来坊通信」と名付けたガリ版詩集を街角で売るようになっていた。手元にある『詩稿1973 黒川純』の冊子を開くと、第2号の発行は73年11月。「地下室の党」「敵の町の青年」「ブルースばかりの夜の詩」「遅れてきた青年たちは今」などの題名がある。

 3回目の4年生のときにアルバイトをしていたジャズ喫茶で写真と詩を組み合わせた個展を開き、大学に別れを告げた。「ずつと以前のぶんまでとりかへすために」。そうした思いを抱いていた。詩は私にとって指針であり、思想であり、哲学になっていた。そのため詩の世界にかかわりたいと、愛読していた詩誌『詩と思想』(当時・五反田の日本電通社)に押しかけた(今では、よくそんな行動に出たものだと思う)。仕事をくれないならテコでも動かないという「落語家入門」のような青年に、社長で詩人の出海渓也さん(戦後詩誌『列島』創刊同人だということは後年に知った、数十年後に今度は詩誌『新・現代詩』の主宰者と会員として出逢う奇縁も)が応じてくれた。関根弘さんら詩人たちの原稿を受け取りに行くこともあったが、ようは走り使いだった。出海さんが引き受けた『詩と思想』は確か半年間ぐらいか、その期限が来たことで、私も離れることに。そのあと新聞記者を35年も続けることになるとは、この当時は思ってもみなかった。
 
 それからざっと30年が過ぎて、朝日新聞記者として岩手・北上へ。『詩と思想』を離れてから一度も詩を書いていなかったが、イラク戦争をきっかけに詩を書き始めた。岩手を離れる2004年秋 新書版『怒りの苦さまた青さ 詩・論「反戦詩」とその世界』を自費出版したが、その中に詩「銀ヤンマ」も入れた。冊子「詩稿1973」にあった詩だ。リュウメイや清水昶の影響を色濃く受けたわたしのその詩に、いわば、私が詩にかかわろうとした「原風景」があるのかもしれない。7連ある詩の2、3連だ。

偶然の時間軸を飛んで行くと
過去と感じる方向に抗うことが
進むべき方向だと分かったので
生涯の先まで抱きしめるため
生涯から飛ぶことを決めたのだ

深夜の森林で自問自答すると
空と海をあいまいにしているもの
その操作を司っている者どもの
怪しい教科書を奪ってしまえと
構造力学がその答えを用意した

 現在、ブログ『時計主義―日光霧降高原の「詩的生活」ノート』を継続し、今春からツイッターも始めている。反抗詩から始まり、怒りの詩、さらに風刺詩へと移ってきた私だが、今回の大震災を機に、「3・11」を機に、詩はもちろん、あらゆる文化が「新しい言葉」を必要としているのではないか。岩手、宮城、福島の大震災ボランティアをしながら、陸前高田、石巻、相馬の惨状を知るにつけ、その思いを強くしている。ツイッター(140字まで)で発信したその詩「凍土から言葉を掘り出せ」を紹介し、結びたい。

ほんとうのことを語ると/世界が凍ってしまう/ある詩人が書いたことがある/だが/3・11でほんとうのことが噴出し/世界はそのまま凍ってしまったのだ/いや言葉が凍ってしまったのだ/この世界のほんとうのことを/見せられてしまったわたしやあなたは/言葉を掘り出さねばならない/その凍土から (了)

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コメント

黒川様
吉本逝去。
荒地創設メンバー、且試行(谷川雁・村上一郎・吉本隆明)
での、すぐれた人が亡くなったことで、日本の一つの時代も
明らかに終わってしまったのだという感慨が襲います。
吉本著作を、極私的に渉猟した場合、
私の場合は、何といってもすぐに思い浮かんだのは、
吉本の渾身の力作「マチウ書試論」でした。
氏は、この中で、関係の絶対性という言葉を用いました。
「人間は、不合理な立法を強いられながら、その不合理な立法を
肯定することも、否定することもできる。自由な意思は選択するからだ。」
・・・・・・。しかしながらそれに至る道は多様であり、
そのように選択していく作業は関係からしかうまれない。
それが関係の絶対性だけである。

また、転移のための10編では、「その秋のために」
などは、余りにも有名すぎて口をついて出てきます。

僕のあいする同胞とそのみじめな忍従の遺伝よ/
ぼくを温愛でねむらせようとしてもむだだ/
きみたちのすべてに肯定をもとめても無駄だ/
ぼくは拒絶された思想としてその意味のために生きよう/
うすくらい秩序の階段を底までくだる/
刑罰がおわるところでぼくは眠る/
破局の予兆がきっと僕を起こしにくるから/

そして、詩としての高まりは、長編詩「海の風に」にあるのではと密かに思っています。
「はかない思いつきが
ひとたちのいこいをつなぐ」
とか、
最後の
「炎がもつれている/
いっさいをわたしはかえりみない/
いくらかはあいすることに/
いくらかはいきることに/
ふりわけられて
もはやうつろとなる」

そして、前世代の詩人たちで、岡本潤や、壷井繁治、四季派の詩人たちで、
戦争肯定に至っていながら全く反省もなかった人たちを理論的に摘出したのは、
吉本が初めてであり最後でした、(三好達治などの姿勢など)
また、番犬論争では、岡井隆を見事に切ってすてたことなどが思い浮かびます。

日本における評論の最高峰は、私などは今でも、あの出さずにしまっておいた
手紙のひと束を発掘して記載した「高村光太郎」だと思っています。

わきさま
丁寧なコメント、ありがとうございます。本当に吉本に向き合って読んでいたのですね。
「もうひとつの吉本論」が書けるほど、読み込んでいるなと、感心しております。私は
「共同幻想」「対幻想」「心的現象」から、政治、性、個といった世界が基本的にそれぞれの水準にあるといった読み方をしてきました。影響を受けたのは、「最後の親鸞」かもしれません。常に明晰だと思ってきた隆明が、実は反原発に反発するというところが、ほとんど?でした。「大衆の原像」の彼なら、本来は脱原発が同然ではないかと。だが、実はその反対だったー。そのあたりについて、27日付朝日新聞夕刊「文芸時評」で姜尚中が少し突っ込んで書いています。隆明の登場がひとつの大きな事件であったとし、「吉本隆明こそ思想界の教祖と言うにふさわしい」と、その意味を確認。しかし、原発問題との向き合い方から「かっての教祖の面影はどこにもなかった」「この意味でも教祖の思想的命脈は尽きていたのである」と。「文芸時評」という紙面の制約から、かなり短縮した展開なので、いまひとつのエッセイですが、吉本の最後の発想を伝えてはいます。わたしも現在に至った吉本の見方がどうしてそうなったのか、首をひねっているので、それを展開した論を読みたいと思っています。それにしても「試行」の創刊グループが完全に消えたことで、確かにひとつの時代が終わった、わたしもそう思っています。、

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