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2012年5月30日 (水)

福島の原発事故をめぐる読書録  『序説 第19号』黒川純

Dscn9290 (3・11以後、わたしが読んだ「原発本」のベストセブンはこんな本)

福島の原発事故をめぐる読書録

                        黒川純

 3・11」以後、本の読み方、というか、手にとる本の種類がそれまでとまるっきり変わってしまった。東日本大震災に関するもの、とくに辺見庸や鷲田清一、池澤夏樹、、加藤典洋らの評論や震災詩も読んではきた。だが、昨夏から読む本の大半は「原発本」になっている。核と放射能の技術、科学史、反原発史、原発事故隠し、政治的思惑、被曝労働と原発訴訟、放射能汚染、とくに内部被曝と、さまざまな分野にわたり、それぞれを交差させないと、「なるほどな」「そうなのか」と思える地点に届かない。原発問題はそれなりにかじってきたつもりだったが、いざ、フクシマに向き合うと、核エネルギーの分野がこれほど奥の深いものとは思ってもみなかった。それが今の正直な感想だ。

                                       

 北海道・札幌にいたとき、司法記者として1988年の北海道泊原発差止訴訟や接見交通権訴訟、石炭じん肺訴訟などを担当していた。さらに医療、炭坑、選挙を専門に担当したことも。その経験から言うと、ひとつの分野の取材に向かうには、その分野の本、10冊~20冊を読みこめば、その分野について、一定の理解が得られ、取材に生かすことができた。また、そうした水準に至るまであえて外に出ず、ひたすら関係書を読み込むというスタイルをとってきた。

 実際、その後も対象が、自然保護であったり、農業や漁業であったりの際でも、そうした方法をとってきていた。だが、今回の原発事故をきっかけに深く知ろうとした原発・放射能については、それがあてはまらない。一冊読めば、さらに知るべきことが増え、次の一冊へ。さらに次へ。いわば「原発の森」に分け入るといった読み方を強いられた。それは、いわゆる読書というのではない。これまでの世界観の再構築さえ、迫られる、そうした切実感も含めて読んでいた。

 3・11から1年が過ぎたところで、そんな思いを背景に読んできた本をあげながら、そこで学んだことや共感を受けたこと、大事な指摘だと思ったことを記してみたい。かなりの書籍を挙げるが、脱原発をめざす市民がどのような本を読み、それを血肉にしてきたか(してきたつもりだが)、それはひとつの時代の記録にもなるのではないか。そんな思いで以下の文章を続けてみたい。

まず、読んだ本を書棚から手にとってみるだけでも、広瀬隆『第二のフクシマ、日本滅亡』など、以下の本がある。いずれも、原発を知るうえで参考になった書籍ばかりだ。広瀬隆・明石昇二郎『原発の闇を暴く』、樋口健二『闇に消される原発労働者』(フォトジャーナリスト・樋口さんについては、この春、宇都宮であった記念講演会を聴いたばかり。原発労働者を追いかけてきたその取材結果のなんと濃いものであるか、事実が持つリアルさに感嘆した。終了後の懇親会でも親しく懇談させていただいた)

さらに高木仁三郎『原発事故はなぜくりかえすのか』、肥田舜太郎・鎌仲ひとみ『内部被曝の脅威』、武田邦彦『放射能列島 日本でこれから起きること』、大澤真幸『夢よりも深い覚醒へ』、菅谷昭『これから100年 放射能と付き合うために』、小出裕章『小出裕章が答える原発と放射能』、松井英介『見えない恐怖 放射線内部被曝』、朝日新聞特別報道部『プロメテウスの罠』、肥田舜太郎『広島の消えた日』、宮台真治・飯田哲也『原発社会からの離脱』、高橋哲哉『犠牲のシステム 福島・沖縄』など。

昨年中に読んだ本では、たぶん、多くの人が読んだであろう広瀬隆『福島原発メルトダウン』、武田邦彦『原発大崩壊!』、小出裕章『原発のうそ』、同『原発はいらない』。さらに若松丈太郎『福島原発難民 南相馬市・一詩人の警告』(原発の危険性について、ずっと警告をしてきた透徹した視線が光る詩人の貴重な詩とエッセイ)、内田樹×中沢新一×平川克己『大津波と原発』、川村湊『原発と原爆』、加藤典洋『3・11 死に神に突き飛ばされる』、池澤夏樹『春を恨んだりしない』(これもぜひ読んで欲しいお薦め本だ)。あるいは松本清張が核弾頭をテーマに1963(昭和38)年に週刊誌に連載していたSF的な作品『神と野獣の日々』といったものもある。

最近読んだ本では、やはり武田邦彦さんの『放射能と原発のこれから』、小出裕章さんの『原発のない世界へ』、奥山俊宏『ルポ 東京電力原発危機一ケ月』、絓秀美『反原発の思想史』、マイケル・マドセン『100.000年後の安全』(同名のドキュメンタリー映画を観たが、題材といい、構成といい、時期といい、非常に興味深かった)、有馬哲夫『原発・正力・CIA』、児玉龍彦×金子勝『放射能から子どもの未来を守る』など。

 小出さん、広瀬さん、武田さん、肥田さん、高木さん、飯田さんらは、それぞれ現代日本で脱原発派を代表する論客(もっとも小出さんは脱原発派ではなく反原発派、高木さんは故人だが)。これらから、驚いたり、怒ったり、考えたり。原発について、放射能について、いかに知らないことが多かったか。それを痛感している。その中で最近読んだこの本からも多くのことを知ることができた。アーニ―・ガンダーセン『福島第一原発 真相と展望』(集英社新書、2012年2月)。著者は原子力技術者、エネルギーアドバイザー、全米で原子炉の設計、建設、運用、廃炉にかかわり、米エネルギー省の廃炉手引書(初版)の共著者だという。いわば、原子力問題のプロ中のプロ。何気なく手にとって読み進めたところ、さすが、その道の専門家ならではの鋭い指摘が随所に書き込まれている。

 というのも、原発に批判的な人でさえ、「東電は津波にやられてしまったのだから、その部分では事故も仕方ないことに」といった声を聴くからだ。「想定外の地震と津波だったので」という言い訳がずっと伝えられてきたが、そんな言い訳は通らないことは明らかだ。

                                                         

 「事故原因を“前代未聞”の自然災害に帰してしまえば、東電は責任を免れることができます。しかし、過去に今回のレベルを超えるマグネチュードの地震は環太平洋上で起きており、そのような地震によって生じる津波が想定できなかったとはいえません。2007年に地震で損傷して停止した柏崎刈羽原発でも、対策の甘さが露見していました」。

 

 ガンダーセンのこの本からはさまざまな事態の指摘や忠告を挙げることができるが-例えば、(福島第一の)160㌔沖合でデッキに出ていた米空母の乗組員は、一カ月分の上限とされている被曝量を一時間で浴びた-,ここでは、著書の「おわりに」から以下の「確信」を挙げるにとどめよう。

 「福島第一の複合事故を研究するまで私も、意識改革と科学技術の発展で徹底した改善が可能だと考えていました。しかし、健康被害の回避や長期にわたる放射性廃棄物の管理は人類の力を超えるという事実を確信するに至りました。震災がもたらした深い悲しみを目の当たりにして、謙虚さを取り戻すべきだと改めて気づいたこともあります。『明るい未来』という表現で売り込まれてきた原発ですが、平時であっても未来を蝕む過去の遺物なのです」

 アーニー・ガンダーセンのほか、私がこの間、読んできた原発本で最も感銘を受けたのは山本義隆の『福島の原発事故をめぐって いくつか学び考えたこと』(みすず書房 第一刷2011年8月25日)だ。

 著者略歴では「学校法人駿台予備学校勤務」とだけあるが、知っている人は知っている、あの東大全共闘議長。たまたまだが、この本と前後して大仏次郎賞を受賞したヤマモトヨシタカの『磁力と重力の発見』(3巻本)、その前段を展開している『16世紀文化革命』(2巻本)を読んでもいた。

 偶然だが、この『福島の原発事故・・・』の強い読後感が残っていた昨年(2011年)11月5日、岩手県北上市の日本現代詩歌文学館で開かれた集いのパネルトークにパネラーのひとりとして招かれた。「輝け9条! みちのくのつどい」(「九条の会」アピールに賛同する詩人の輪・実行委員会主催)。プログラムの「大震災のこと、平和憲法のこと」についての論議だ。パネラーに北上市の詩人で私の年上の詩友でもある斉藤彰吾さん、石巻市の詩人で弁護士のみちのく赤鬼人さん、それに私の3人。司会役は詩誌「コールサック」編集者で詩人の佐相憲一さん。そのパネルトークの会場に私はメモ的なレジュメ3枚を携えていったが、そのメモの最後(「資料10」として)に山本義隆のこの本『福島の原発事故・・・』の文章を抜き出していった。

 「とするならば、脱原発・反原発は、同時に脱原爆・反原爆でなければならないと言えよう。・・・核兵器保有の潜在的能力を高めなければならないという岸(岸信介元総理)の倒錯した論理を、原発とともに過去のものとしなければならないであろう」。

 だが、山本義隆のこの本に感銘を受けたのは、「物理教育にはしくれにかかわり科学史に首を突っ込んできたわたし(山本義隆)」の原発に対する以下などの真摯な見方からだ。

 その指摘は自動車や飛行機などの事故と原発事故を同列に論じ、原発廃炉を主張するなら、なぜ自動車や飛行機を止めると言わないのか、結局、人間・人類は科学の進展を押しとどめることはできないのだ、というおよそ考えられない論理ならぬ論理を持ち出す人々に対する痛烈な、そして根底的な批判になっている。残念ながら、私が学生時代から畏敬してきた詩人、思想家・吉本隆明も含まれている。かのリュウメイでさえ、こうした科学信仰病にかかっていたのだ。いや、東工大出身であったリュウメイだからこそではなかったか。吉本の原発推進発言を知ったとき、最初は「ウソだろう」と驚いたが、今、思うと、そういうことだろう。

 この本『福島の原発事故・・・』から任意に抜き出してみただけでもそうしたお門違いの見方に対する論理的でも倫理的でもある指摘を示すことができる。少し長いが、大事なところなので、お読みいただきたい。

 「原発事故を蒸気機関の創生期にあったような事故と同レベルに捉えることは根本的に誤っている。原発以外では、事故の影響は時間的・空間的にある程度限られていて、事故のリスクはその技術の直接の受益者とその周辺が負うことになる。それに対して原発では、事故の影響は、空間的には一国内にすら止まらず、なんの恩恵をも受けていない地域や外国の人たちにさえ及び、時間的には、その受益者の世代だけでなくはるか後の世代もが被害を蒙る。実際に福島の事故では、周囲何キロかは今後何世代にもわたって人間の立ち入りを拒むスポットとなるであろう」

 「それでも原発はやめなければならないと思っている。事故のもたらす被害があまりにも大きいだけではない。いずれウラン資源も枯渇するであろう。しかしその間に、地球の大気と海洋そして大地を放射性物質で汚染し、何世代・何十世代も後の日本人に、いや人類に、何万年も毒性を失わない大量の廃棄物、そして人の近づくことのできないいくつもの廃炉跡、さらには半径何キロ圏にもわたって人間の生活を拒むことになる事故の跡地、などを残す権利はわれわれにはない。そのようなものを後世に押し付けるということは、端的に子孫にたいする犯罪である」

 原発は想像を超えた事故の過酷さはもちろん、採掘から稼働へ至る被曝労働者を生み出し、放射性廃棄物を処理することもかなわない。高橋哲哉ふうに言えば、「犠牲のシステム」そのもので成り立っている。そのうえ、子孫、はるか未来(それも「10万年後」というような、人類が生き残っているかどうかもわからない気の遠くなる未来)への犯罪に手を染めるシステムなのだ。ドイツが脱原発を決めたのも、こうした倫理感からの判断が大きく働いたという。負の連鎖にまみれた原発(福島第一の4基の廃炉が決まり、現在五十基)をいかに廃炉にしてゆくか。そのためのさまざまな手段や行動(例えば、わたしはデモ、集会、署名、映画会、講演会、陳情、放射能計測などにかかわっているが)をとらざるをえない。原発について知れば知るほど、その思いをますます強くしている。

 このような文章を書いたのも、原発に対するこうした根底的な批判が、わたしが詩を書こうとするときのバック、大きな動機にもなっているようなのだ。それも伝えたかったかもしれない。「ほんとうに怒ったときにしか詩は書かない」。詩人、金子光晴がそう語ったとされるが、結果的に今のわたしはそれに近い。今号では東日本大震災について、初めて意識して書いた「鎮魂詩」も載せているが、最近の気分はいかに、この「原発主義」を凍らせていくことができるか、そのことに思いをめぐらせている。

 フクシマの事故が起きるまで地震大国に林立する、その化け物のような原発という存在の大きさとそれがもたらしてきた犠牲のシステムの現実を見破れなかった、つまり、ラジカルな、世間や社会、世界を見分ける視点は確かだという自負がある全共闘世代でありながら、判断力と想像力と倫理力の貧困さ。それを反省しつつ。

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