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2012年6月22日 (金)

大らかで力強い共同体的美意識  「表現の周辺 4」(下)冨岡弘

Dscn9556( 発刊された「序説 第19号」の冨岡弘のエッセイ、「表現の周辺 4」)

Dscn9539

表現の周辺 4 (下)

           冨岡 弘 

 数年前から、意識的に装飾的な抽象画を描いている。近代が捨て去ったものを、もう一度すくいあげてみたくなった。合理的なものの組み立て方ではない、言い換えれば余り知性的ではない粗野な視点とでも言ったらいいのか。澁澤龍彦の著書に日本芸術論集成というのがあるが、その中の日本の装飾主義とマニエリスムという項目で、「日本の芸術的知性は、あらゆる時代、あらゆる流派において、写実から装飾へと歩むもののごとくでさえある。それは、不安を克服する道なのだろうか。」などとある。

 日本の文学についても、谷崎潤一郎や川端康成などの小説家を採り上げている。しかし、私が目指しているのは、澁澤が語っているような、技巧的でしかも洗練された装飾ではなく、どこか野暮ったく少し原始的とも言えるものに興味がある。たとえば、お神輿の過剰とも言える金箔の輝きに満ちた装飾、逆に、縄文土器の大胆なデフォルメに宿る素朴で力強い表現。どちらも魅力的である。私の中では、洗練された技巧的なものより、力みなぎる野生がほしいのかも。岡本太郎も縄文文化をこよなく愛した芸術家であったが、不思議なことに、若い頃の私には、その良さは分らなかった。

 若造の頃は、何処か生意気で、自意識のかたまりみたいなもので、大衆的なものを毛嫌いしていて、避けて通る傾向があった。西洋文学に傾倒したり、アングラ演劇やロックコンサートにのめり込み、美術に関しては、銀座界隈の新しい傾向の作品と出合える画廊に、頻繁に出かけたりしていた。特に現代美術と評されていた作品群に、いたく影響された。今思えば、それら現代美術は、ややひ弱な知的ゲームに過ぎなく見えてしまうこともある。勿論、全面否定するつもりはないが。

 自我でも個我でもいいが、一歩間違えると、脆弱な引きこもりの美意識に満ちたものになりかねない。しかし、縄文文化には、個人の美意識を乗り越えた大らかさが感じられ、姑息な知的ゲームに陥ることのない、共同体的美意識に裏打ちされた力強さがある。共同体というファクターを通過して、表現が成立している。現代において、過剰な個人優先主義とも言える状況下で、逆に個人が縛られ、息苦しい生活環境をつくってしまっている。誰しも、そんなことは薄々気づいている筈である。

  表現は大きく分けた場合、二とうりあると思う。個人的表現、そして共同体的表現。現代においては、やや個人的表現に比重がかかり過ぎてはいまいかと言いたいのだ。そんな意味で、お神輿の一見悪趣味とも見える過剰な装飾、素朴で大らかな縄文時代の装飾に、もう一度着目する価値がある様に思えてならない。(了)

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