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2013年4月10日 (水)

「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差は? 『現代社会再考』・「健康のためなら死んでもいい」人々 

1dscn9949  1dscn9952  お気に入りの鷲田清一さんが加わっているのと、題名に惹かれて、きょうの10日に読んだのが『現代社会再考』(初版第一刷2013年1月、たばこ総合研究センター)。副題は「これからを生きるための23の視座」。表題のように、23人の論客、主に学者が書いたエッセーのような、いわば現代社会論だ。

                                                

 鷲田さんもそうだが、ほかに私が知っている魅力的な名前としては、植島啓司さん、鎌田慧さん、武田邦彦さん、佐藤卓巳さん、春日武彦さんら。知らなかったが、とても面白かったのが、奥村康さんの『「不良」長寿のすすめー実践編』かなー。

                                                      

 しかし、この本で一番、印象深かったのは平川克美さんの「『健康のためなら死んでもいい』人々」だ。平川さんといえば、思想家・内田樹さんとは小さい頃からの友人で知られる(この本では「文筆家」でも紹介されている)。彼の『小商いのすすめ』は私も読んでおり、手元に、これから読もうとしている『移行期的混乱 経済成長神話の終わり』がある。

                                                      

もっとも、その「印象に残った」というか、「これはー」と、ピンときたのは、当の平川さんの言葉ではなく、平川さんにとって「子ども時代からの親友」である内田樹の言葉だ。元は「ブログ『内田樹の研究室』2010年4月6日の日記より」からのもの。

                                                  

 キイワードというか、小見出しは「美的な生活」。そこで、平川さんは「内田樹は、そのブログの中で大変興味深いことを書いています」と。少し長いが、私ももう一度確認する意味でも、それを引用してみよう。

 「美的生活」というのは別に書画骨董を愛玩したり、歌仙を巻いたり、文人墨客とすかした話をすることではない。そうではなくて、「目の前にあるこれは、いずれ消え去って、あとをとどめない」という人事万象の「無常」を、その「先取された死」を「込み」で、ご飯を食べたり、働いたり、遊んだり、つくったり、こわしたり、愛したり、憎んだり、欲望したり、諦めたりすることではないと私は思う。

 なぜ、「生け花」と「プラスチックの造花」のあいだに美的価値の違いがあるとかいうことを前に論じたことがある。もしも、造花的にも、香りも、触感も、まったく同じであったとしたら、「生きた花」と「死んだ花」の本質的な差はどこにあるか。

 差は一つしかない。

 「生きている花」はこれから死ぬことができるが、「死んだ花」はもう死ぬことができないということだけである。美的価値とは、畢竟するところ、「死ぬことができる」「滅びることができる」という可能態のうちに棲まっている。

 私たちが死ぬのを嫌がるのは、生きることが楽しいからではない。一度死ぬと、もう死ねないからである。 

 とまぁ、内田樹のブログの記述を挙げて、平川さんはこう書き加える。

 「内田が言うように、確かに生きるということは、『死ぬことができる』『滅びることができる』ということが内包されてはじめて意味を持ちます。もし、死ぬことができず、滅びることもなく、永遠に変わらないのであれば、それは造花のような人生であり、リニアに成長し続けるだけだとすれば、もはや化け物のような人間を想像するしかありません」と。

   私たちが死ぬのを嫌がるのは・・・。その理由については、人生書でも哲学書でもいいが、さまざまに挙げられている。あるいは宗教書でも。その中で、私がこれまでいいな、というか、納得できると思われたのが、フロイト心理学者・岸田秀さんの指摘だった。

 いわく、「死ぬのが嫌なのは(確か原文では「死ぬのが怖い」、あるいは「死にきれない」だったか?)、人生は悔いの連続であり、死ぬとその悔いを残してしまうからだ」。とまぁ、こんな趣旨の言い方だった。

 <そうだよね、生きていれば、その悔いをひっくり返す可能性もあるが、死んでしまうと、その悔いが残されてしまう、それは死んでも死にきれない>。そのように私も思ってきた。

 そこに今回の平川さんが引用した内田樹の「美的生活」から取り出した「死ぬのを嫌がるのは」論?。確かに「一度死ぬと、もう死ねない」。美的とは「死ぬことができる」などの可能態のうちに棲まっているー、という指摘に、岸田秀の悔悟論?と重なるような魅力を感じてしまう。

 でも、よく考えると、「死ぬことができる」などの可能態も、「悔いを残すことが残念だ」という岸田幻想論も、どっちもどっちのような。というのも、悔悟論も悔いを返すことができないという不可能性を嘆く構造だからだ。 

 つまり、内田の「可能態」も、岸田の「不可能性」も、いずれも「可能」、できる・できないをめぐって、コインの表と裏で示したものではないかー。と、勝手に思う。それでも内田の「美的生活」には「無常」が、「先取された死」を「込み」でという視点があり、これはこれでいいなと。

 ふだん、それだけを意識して生活している人はまれだろうが、3・11の東日本大震災やフクシマの事故を、生きている今、立ち会っている多くの「私たち」にとって、その視点がかなり身体にまで広がっているのではないか?ー。 

     

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