改めてヨシモトリュウメイ 吉本の反・反原発論はいただけないがー
この3日間は「吉本隆明」さんまいいでしたー。亡くなる2か月前に「『反原発』で猿になる!」(「週刊新潮」)と、反・反原発論をぶっていたのは、なぜ?。脱原発の私からすれば、いくらリュウメイでも、ばかばかしい主張ではないかと、あきれてはいた。
たまたま、「吉本大衆神学は幻想であった」と、リュウメイ全面批判の『吉本隆明という「共同幻想』(呉智英 2012年12月)を手に。その読了と同時に積読状態だった『吉本隆明がぼくたちに遺したもの』(加藤典洋・高橋源一郎 2013年5月)も。こちらは...逆に「敬愛してやまないふたりが語る」リュウメイ論だ。
「共同幻想論」「言語美」「大衆の原像」はもちろんだが、吉本の反・反原発論も。片方はともかくリュウメイをケチョンケチョンに、片方は逆にあまりにも持ち上げすぎる入れ込みよう。私などは吉本の初期詩篇や「最後の親鸞」などから入っているせいもあるのか、<どちらの本も言ううことに、全体的に少し難があるなぁ~>と。それぞれ「なるほど~」と、読ませる、学ぶべき指摘はたくさんあるのだがー。
リュウメイの反・反原発論は原発の技術に対する信仰、技術論からきている。これは彼が東工大で学んだ「インテリゲンチャ」(リュウメイは否定しても)であることと無縁ではないだろう。「戦後最大の思想家」にして、「原発神話」にからめとられていたのだ。いくら彼が反・反原発論を語っても、とても聴く耳を持てない。被害の甚大さ、距離、空間、時間ーそれらの現実を視ていないことがわかる。それこそ、「大衆の原像」を自ら裏切る発想だ。
「大衆の原像」の「いい加減さ」といった突っ込み、原発問題で迷走する吉本を批判、揶揄する呉にしても、彼・呉は、原発に対するきちとした立場を明らかにせずに、うやむやに。脱原発派である加藤と高橋なのだが、吉本を「敬愛」する余り、リュウメイの発想それ自体は擁護、弁明する立場になってしまう。「敬愛」するのは、私も同様だが、批判すべき点は批判する、その視点が足りないのが、残念だ。
共通するのは、これらの論の中に、「10万年後」まで管理しなければならない放射性廃棄物についての言及がないか、少ないこと。原発を稼働させることが、いかに犠牲を伴うか、原発の犯罪性、とくに未来に対する犯罪について、ほとんど無自覚であること(加藤は少し触れているがー)、これには驚いた。それを考えれば、もっときちんとした吉本論になったろうにと。
収穫は加藤典洋が引用していた『異端と正系』(初版1960年5月5日)-もう半世紀以上も前の評論ーにある「戦後世代の政治思想」。いわゆる「60年安保論」だが、この吉本の構えは今の特定秘密保護法批判の論理や運動に通じるものがある、そういう皮膚感覚を覚えたのでした。
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