ナチの「命の根絶政策」 ファシズムが行きつく先は・・・・。
ただし、序文(これはいい)や、後半は興味深いが、前半はかなり意識的な読者でないと、少し退屈するかもしれない。
それにしても、全般を通して、実証的なナチズムの姿の再現だ。それも「表現の分野」で。意外と、この面を追った本は少ないかも。
それにしても、いつの間にか、ファシズムに向かってしまう、そこにからめとられてしまう、当時の現実。その分析がこれだ。だが、それらを乗り越えないと、ナチス批判は、遠吠えに終わってしまう。
そうした視点から次々と、演劇や映画、小説、それも戦争小説、評論など、表現のさまざまな分野でのナチズムをとりあげる。著者は筆を進めながら、警告を発している。
それぞれの細部の描写は、さすが研究者と思わせる。とくにナチス幹部の日記の解読などは、さすがと。でも、実は、私たちもこの手のナチズムの芽を今、視ているのだがー。
ナチの「命の根絶政策」(「ウイキペディア」から)
「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、ジプ シー(ロマ)、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分子、 常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその対象 となった
強制収容所の「無用の長物」を排除する「14f13作戦」が19 41年から一年間を中心として行われた。「治癒不能な病人、身体 障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的 分子」など。特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会 的分子」が中心となった・
T4」による安楽死政策
1939年9月1日、ヒトラーは日付を持たない秘密命令書を発令 し、指定の医師が「不治の患者」対して「情の死[10]」を下す 権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[11]」として の地位をボウラーとブラントに与えた[12][13][9]。こ の措置は明文化された法...律によるものではなく、根拠法をもたなかった[14]。法務省は 1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶 」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが [15]、いずれもヒトラーによって拒否された[16]。
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表もおこなわれないまま、 病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態 を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投 書があって初めて知ることとなった[17]。またブランデンブル クの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語 版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省 に事態の調査を求めていた[18]。法務大臣フランツ・ギュルト ナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志に出ているこ とを知ることになった[18]。ギュルトナーは総統官房長ハンス ・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制 化を行うかという要求を行った[18]。ラマースはヒトラーの意 志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省はなんの 措置も執ることが出来なかった[19]。クライシヒはあきらめず に調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは 法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持 を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告 発した[19]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させ るべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は 裁判官を罷免された[19]。結局最後まで安楽死制度は法制化は されなかった[8]。
T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門( 秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして 実施部門の三つに分かれていた[2]。中枢組織は「労働共同体」 というカムフラージュ名称を持っており[20]、他の組織や人名 にもあらゆるカムフラージュが行われた[3]。
処分されるべきと考えられた基準には、精神病者や遺伝病者のほか 、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含 まれていた[21]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各 地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて、「処分者」 を決定した[22][2]。「処分者」は郵政省から譲られ灰色に 再塗装したバスに乗せて「処分場」と呼ばれる施設に運搬した。
専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブ ランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施 設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハ ルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出し た[8]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われ ているかをうすうす知っていた[20]。
移送された者はガス室に入れられて処分された。「ガス」は建物外 に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中 毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快 適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサン ドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、 フェノバルビタール注射による殺害[23]、飢餓による殺害も含 まれている[21]。また作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢 餓が殺害方法の中心となった。
14f13作戦
また強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラ ーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[24]」を排 除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年 から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示 すものであった[25]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなみ 、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備に よる殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な 病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、 「反社会的分子」などがあげられ、特に反社会的な「精神病質」を もつとされた「反社会的分子」が中心となった[25]。1944 年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望 まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍 捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となっ た。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[ 26]。
安楽死政策への反発
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強 い反対があった[27]。またミュンスターの司教クレメンス・ア ウグスト・グラフ・フォン・ガーレン(ドイツ語版)は1941年 8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[28]、連合国にも 知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も 行っている[29]。連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をば らいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。 ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決 定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた [30]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言 を行った。
作戦の「中止」
1941年8月24日[31]、ヒトラーはボウラーに対して安楽 死の中止を口頭で命令した[30]。この中止命令により、安楽死 政策そのものが中止されたと長らく信じられていた[31]。しか しこの命令ではハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみであ り、ほかの施設では規模が縮小されたのみで安楽死作戦は継続され ていた[32]。
「中止」後の安楽死政策
「作戦中止」後、T4の職員はいわゆるユダヤ人「絶滅収容所」に 配置され、ホロコーストにおけるガス殺、死体焼却、施設のカモフ ラージュについての技術を伝えた[33]。また既存の精神病患者 の収容施設では医師・看護師による、患者の安楽死が国家の統制を 比較的受けない形で増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[2 2]。
1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療 ・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン( ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ 始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で 構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末から は傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減 らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラン ト作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者を大規模に移送 した[34][35]。
また「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、 ジプシー(ロマ)、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分 子、常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその 対象となった[36]。1942年9月18日にはオットー・ゲオ ルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的 分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されること が合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェ コ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種(ドイツ語版) (ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の 判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、 「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。こ の対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含 まれている[37]。これらの囚人は労働に耐えられると判断され たうちは労務につかされていたが、働けなくなった場合には安楽死 が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制 収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4 月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[37]。
これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの 、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった [38]。また1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウ ケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安 本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病 気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安 楽死」処分が行われた[39]。
乳幼児の安楽死
詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」 を参照
障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた 。子供を対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[40 ]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象とな った[3]。
犠牲者数
これらの政策により、身体障害者・精神病患者がおよそ8万から1 0万人、ユダヤ人が1000人、障害を持つ乳幼児が5000人か ら8000人、また労働不能になった強制収容者が1万人から2万 人が殺害された。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態 よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上る のではないかとも見られている[41]。またドイツ占領地にあっ た精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織 は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死、凍死などの手段 が主にとられた[42]。
裁判
終戦後、関係者はニュルンベルク軍事裁判、ニュルンベルク継続裁 判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラ ントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リ ンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃 亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年 に自殺した。
「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、ジプ
強制収容所の「無用の長物」を排除する「14f13作戦」が19
T4」による安楽死政策
1939年9月1日、ヒトラーは日付を持たない秘密命令書を発令
こうして安楽死政策は立法化も正式な発表もおこなわれないまま、
T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(
処分されるべきと考えられた基準には、精神病者や遺伝病者のほか
専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブ
移送された者はガス室に入れられて処分された。「ガス」は建物外
14f13作戦
また強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラ
安楽死政策への反発
この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強
作戦の「中止」
1941年8月24日[31]、ヒトラーはボウラーに対して安楽
「中止」後の安楽死政策
「作戦中止」後、T4の職員はいわゆるユダヤ人「絶滅収容所」に
1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療
また「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、
これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの
乳幼児の安楽死
詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」
障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた
犠牲者数
これらの政策により、身体障害者・精神病患者がおよそ8万から1
裁判
終戦後、関係者はニュルンベルク軍事裁判、ニュルンベルク継続裁
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