無料ブログはココログ

ブログランキング


  • 人気ブログランキングへ

« 当時のドイツのユダヤ人の人口は?  「虚構のナチズム」から | トップページ | 「霧降文庫」は14日(日)開店します 「100円均一本」もやってます »

2014年9月11日 (木)

ナチの「命の根絶政策」 ファシズムが行きつく先は・・・・。

Photo


 「虚構のナチズム」(池田浩士)を読み終える。約400頁。3日間、時間があれば、この本に向かっていた。
昼飯のラーメン屋さんでも、じっくり読んでいたほどです。
 
 ただし、序文(これはいい)や、後半は興味深いが、前半はかなり意識的な読者でないと、少し退屈するかもしれない。
 
 それにしても、全般を通して、実証的なナチズムの姿の再現だ。それも「表現の分野」で。意外と、この面を追った本は少ないかも。
 
 それにしても、いつの間にか、ファシズムに向かってしまう、そこにからめとられてしまう、当時の現実。その分析がこれだ。だが、それらを乗り越えないと、ナチス批判は、遠吠えに終わってしまう。
 

 

 そうした視点から次々と、演劇や映画、小説、それも戦争小説、評論など、表現のさまざまな分野でのナチズムをとりあげる。著者は筆を進めながら、警告を発している。
 
 それぞれの細部の描写は、さすが研究者と思わせる。とくにナチス幹部の日記の解読などは、さすがと。でも、実は、私たちもこの手のナチズムの芽を今、視ているのだがー。
 
ナチの「命の根絶政策」(「ウイキペディア」から

「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、ジプシー(ロマ)、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分子、常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその対象となった

強制収容所の「無用の長物」を排除する「14f13作戦」が1941年から一年間を中心として行われた。「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」など。特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心となった・

T4」による安楽死政策

1939年9月1日、ヒトラーは日付を持たない秘密命令書を発令し、指定の医師が「不治の患者」対して「情の死[10]」を下す権限を委任する責任をもつ、「計画の全権委任者[11]」としての地位をボウラーとブラントに与えた[12][13][9]。この措置は明文化された法...律によるものではなく、根拠法をもたなかった[14]。法務省は1939年8月11日には死の幇助と「生きるに値しない命の根絶」を関連づけた法律を準備し、総統官房も法律案を準備していたが[15]、いずれもヒトラーによって拒否された[16]。

こうして安楽死政策は立法化も正式な発表もおこなわれないまま、病院や安楽死施設で実行され始めた。立法を司る法務省もこの事態を認識しておらず、1940年7月9日に匿名の政府高官からの投書があって初めて知ることとなった[17]。またブランデンブルクの区裁判所の後見裁判所裁判官ロタール・クライシヒ(ドイツ語版)も法律に基づかない殺害が行われていることを把握し、法務省に事態の調査を求めていた[18]。法務大臣フランツ・ギュルトナーは調査を命じたが、やがて殺害がヒトラーの意志に出ていることを知ることになった[18]。ギュルトナーは総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースと会談し、安楽死作戦を中止するか、法制化を行うかという要求を行った[18]。ラマースはヒトラーの意志が法制化に否定的であることを伝えたため、結局法務省はなんの措置も執ることが出来なかった[19]。クライシヒはあきらめずに調査を行い、安楽死施設に殺害の中止を命令した。クライシヒは法制化を目指す民族法廷の裁判長ローラント・フライスラーの支持を受けたことで勇気づけられ、ボウラーを殺人容疑で検察当局に告発した[19]。しかしギュルトナーはヒトラーの意志を優先させるべきであると考え、クライシヒの行動はすべて無効とされ、彼は裁判官を罷免された[19]。結局最後まで安楽死制度は法制化はされなかった[8]。

T4組織はいくつかの組織に分かれており、財政部門、移送部門(秘匿名「公益患者輸送会社」、ドイツ語略称ゲクラート)、そして実施部門の三つに分かれていた[2]。中枢組織は「労働共同体」というカムフラージュ名称を持っており[20]、他の組織や人名にもあらゆるカムフラージュが行われた[3]。

処分されるべきと考えられた基準には、精神病者や遺伝病者のほか、労働能力の欠如、夜尿症、脱走や反抗、不潔、同性愛者なども含まれていた[21]。T4組織の鑑定人、精神科医のヴェルナー・ハイデ(ドイツ語版)とパウル・ニッチェ(ドイツ語版)らは、各地の精神医療施設等から提供されたリストに基づいて、「処分者」を決定した[22][2]。「処分者」は郵政省から譲られ灰色に再塗装したバスに乗せて「処分場」と呼ばれる施設に運搬した。

専門の安楽死施設は、ハルトハイム安楽死施設(ドイツ語版)、ブランデンブルク安楽死施設(ドイツ語版)、ベレンブルク安楽死施設(ドイツ語版) 、ピルナ=ゾンネンシュタイン安楽死施設(ドイツ語版) 、ハダマー安楽死施設(ドイツ語版)の6つがあった。このうちハルトハイムの施設は1944年末まで稼動し、最大の犠牲者を出した[8]。ハダマーの施設は街中にあり、住民はそこで何が行われているかをうすうす知っていた[20]。

移送された者はガス室に入れられて処分された。「ガス」は建物外に固定された自動車の排気ガスをホースで引き、その一酸化炭素中毒効果が利用された。障害者たちを運ぶ「灰色のバス」の車内は快適かつ穏やかな雰囲気が心がけられており、温かいコーヒーやサンドイッチがふるまわれた。ただし、これは殺害方法の一部であり、フェノバルビタール注射による殺害[23]、飢餓による殺害も含まれている[21]。また作戦の「中止」後はガスよりも毒物や飢餓が殺害方法の中心となった。

14f13作戦

また強制収容所においては、親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーがボウラーと協議し、強制収容所の「無用の長物[24]」を排除する「14f13作戦(ドイツ語版)」が行われた。1941年から一年間を中心として行われたこの計画は、T4組織の拡大を示すものであった[25]。作戦の名称は親衛隊の文書規則にちなみ、14は強制収容所総監、fは死亡事案、13はT4計画の設備による殺害を意味する。「無用の長物」に該当したのは「治癒不能な病人、身体障害者(極度の近視を含む)」、「労働能力の欠如」、「反社会的分子」などがあげられ、特に反社会的な「精神病質」をもつとされた「反社会的分子」が中心となった[25]。1944年以降には、囚人の増大によってふたたびT4組織による措置が望まれるようになり、ソ連領から徴用された「東方労働者」、ソ連軍捕虜、ハンガリーユダヤ人、エホバの証人の信者などが対象となった。14f13作戦による死者は1万人とも2万人とも言われる[26]。

安楽死政策への反発

この計画についてはキリスト教会の一部、特にローマ教皇庁から強い反対があった[27]。またミュンスターの司教クレメンス・アウグスト・グラフ・フォン・ガーレン(ドイツ語版)は1941年8月3日の説教で安楽死政策を公然と批判し[28]、連合国にも知られることとなった。ガーレン司教は刑法190条による告発も行っている[29]。連合国軍が宣伝ビラでガーレンの説教文をばらいたことで一般にも広く知られるようになり、世論も動揺した。ローマ教会の最高司教会総会は安楽死政策が認められないという決定を行い、教皇ピウス12世がその決定を広く公布するよう命じた[30]。ピウス12世はこの後もたびたび安楽死を批判する発言を行った。

作戦の「中止」

1941年8月24日[31]、ヒトラーはボウラーに対して安楽死の中止を口頭で命令した[30]。この中止命令により、安楽死政策そのものが中止されたと長らく信じられていた[31]。しかしこの命令ではハダマー安楽死施設のガス殺が中止されたのみであり、ほかの施設では規模が縮小されたのみで安楽死作戦は継続されていた[32]。

「中止」後の安楽死政策

「作戦中止」後、T4の職員はいわゆるユダヤ人「絶滅収容所」に配置され、ホロコーストにおけるガス殺、死体焼却、施設のカモフラージュについての技術を伝えた[33]。また既存の精神病患者の収容施設では医師・看護師による、患者の安楽死が国家の統制を比較的受けない形で増加し、「野生化した安楽死」と呼ばれた[22]。

1941年10月23日、内務大臣ヴィルヘルム・フリックは医療・養護施設の受託者として保険局参事官のヘルベルト・リンデン(ドイツ語版)を任命し、安楽死組織が国家機関として位置づけられ始めた。リンデンの組織は各施設の収容者を登録し、T4の医師で構成された鑑定人を医療施設に巡回させた。1943年6月末からは傷病兵や空襲負傷者のための医療需要が増大し、そのための口減らしとして「治療しても仕方がない精神病患者」を殺害するブラント作戦(ドイツ語版)が始まり、医療施設から患者を大規模に移送した[34][35]。

また「反社会的分子」の「安楽死」も活発となり、乞食、浮浪者、ジプシー(ロマ)、流れ者、労働忌避者、怠業者、売春婦、不満分子、常習性飲酒者、暴力犯、性的規範違反者、精神的病質者がその対象となった[36]。1942年9月18日にはオットー・ゲオルク・ティーラック法相がヒムラーと合意し、受刑中の「反社会的分子」は、「労働による毀滅」のため、親衛隊に引き渡されることが合意された。これにより、8年以上の刑を受けたドイツ人やチェコ人、予防拘禁者、3年以上の刑を受けた劣等人種(ドイツ語版)(ジプシー、ロシア人、ウクライナ人、ポーランド人)は法務省の判断で強制収容所に送られた。ティーラックは1943年4月に、「犯罪を犯した精神病患者」も強制収容所に送るよう命令した。この対象には登校拒否児童、てんかん患者、脱走兵、労働忌避者が含まれている[37]。これらの囚人は労働に耐えられると判断されたうちは労務につかされていたが、働けなくなった場合には安楽死が実行された。法務省への報告によると、1942年11月に強制収容所に送られた1万3000人の反社会的分子は、1943年4月の段階でほぼ半数がすでに死亡していた[37]。

これらの政策の犠牲者数は1942年には一時的に減少したものの、1943年、1944年は1940年とほとんど同水準であった[38]。また1943年5月には労働力配置総監フリッツ・ザウケルが、病気で働けなくなった東方労働者の帰郷を禁じ、国家保安本部の特別収容所に移送するよう命令した。これらの移送者は、病気回復が見込めない、または収容ベッドの余裕がない場合には「安楽死」処分が行われた[39]。

乳幼児の安楽死

詳細は「ナチス・ドイツにおける乳幼児の安楽死(ドイツ語版)」を参照

障害のある子供たちは、普通の病院と違う特別な病院に入れられた。子供を対象とする安楽死は1943年4月から本格化した[40]。その規模は次第に拡大し、やがては青少年も安楽死の対象となった[3]。

犠牲者数

これらの政策により、身体障害者・精神病患者がおよそ8万から10万人、ユダヤ人が1000人、障害を持つ乳幼児が5000人から8000人、また労働不能になった強制収容者が1万人から2万人が殺害された。ただし、現存する資料に基づくこの数字は、実態よりかなり少ないと見られており、犠牲者の実数はこの二倍に上るのではないかとも見られている[41]。またドイツ占領地にあった精神病院でも患者の殺害が行われたが、彼らの殺害にはT4組織は直接関与はしておらず、殺害方法も射殺や餓死、凍死などの手段が主にとられた[42]。

裁判

終戦後、関係者はニュルンベルク軍事裁判、ニュルンベルク継続裁判の医者裁判などの法廷にかけられた。主要な関係者のうち、ブラントとニッチェは医者裁判によって有罪が確定し、処刑された。リンデンは1945年4月、ボウラーは5月に自殺した。ハイデは逃亡したものの1959年に自首し、自らの裁判が始まる1963年に自殺した。

ブログランキング

人気ブログランキングへ
いいね!ーと、思ったら 

« 当時のドイツのユダヤ人の人口は?  「虚構のナチズム」から | トップページ | 「霧降文庫」は14日(日)開店します 「100円均一本」もやってます »

懐かしい未来」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ナチの「命の根絶政策」 ファシズムが行きつく先は・・・・。:

« 当時のドイツのユダヤ人の人口は?  「虚構のナチズム」から | トップページ | 「霧降文庫」は14日(日)開店します 「100円均一本」もやってます »

2022年4月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30