原発は「全体問題」なのだー 『8.15と3.11』に触れて
「原発は、まさに3・11が事実として露骨に示したように、いやおうなくだれをも巻き込んでしまう権力装置といわざるを得ない」。
『8・15と3・11 戦後史の死角』(笠井潔)にある指摘だ。
同書は、原発というシステムについて、私たち市民を排除する原発の専門家たちの権力が増殖されていくこと、プルトニウムを守るための監視強化と自由の制限が進むこと、放射線被曝にさらされる労働者を生み出す差別構造を前提にすることが不可欠だということ、それらを挙げる。
私は思う。これらの指摘のうえにさらに以下を加えることが必要だ。いわく、原発は、採掘から運転まで被曝労働者を生み出すという犠牲で成り立ち、いったん大事故が起きた際は、大自然を汚染したうえ、故郷に戻れない大量の現代の難民を生み出す。なにより「10万年」という気が遠くなるような未来の空まで汚してしまう。自然、社会、倫理からも根源的に許されないシステムだということがいえる。
それらを加えて、さらに同書を読み進めると、だから、「危険だから原発反対」は出発点にすぎないと断定する(それは私もそう考える)。加えて原発再稼動に反対し、即時の原発ゼロを求めるとしたら、「われわれ一人一人が自分の生活を大きく変える覚悟が避けられない」という。
そのうえで、「それはまた、戦後日本の政治・経済・社会の根本的な変革にいたるはずだ」とみる。 その過程を辿り、「日本独自の歴史意識が形成されはじめることを期待しよう。それは、われわれがニッポン・イデオロギーの呪縛から解放される第一歩となるだろうから」と結んでゆく。
先の総選挙で、各マスコミは原発問題については「個別課題」だとしたが、実は原発は「個別」課題というのではなく、この『8・15と3・11』が語るように「政治・経済・社会」そのものが問題になる「全体課題」なのだ。その視点に立つとき、私たち一人ひとりの「自分の生活を大きく変える」、そのことが前提になる。「3・11」からそういう時代に入ったということを私たちは、意識的にも、無意識的でも、いやおうなく自覚しはじめている。
その2015年が、3・11から4年目の「新しい年」がまもなく始まる。 私たちは、その「自覚」をいかに具体的に「生活の変革」へと結びつけてゆくことができるか、それを前提に、いかに私たちの「世間」から始まり、「社会」「経済」「政治」の根本的な変革に手をつけ、変化を促し、影響を与え、求める結果をある形にすることができるのか。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」。その空気を払いのけながら、取り組んでゆく構えを改めて噛み締めてゆく、その覚悟に向き合ってゆくだろう ブログランキング
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