読書/エッセイ 吉村昭の作品について~『漂流』 記録小説というべきか、はたまたノンフィクション作家というべきか。吉村昭は、『戦艦武蔵』や『ポーツマスの旗』など数多くの長編小説を書き残している。しかし、最近に至るまで、彼の作品を本格的には読んでこなかった。それが、ふとしたことから彼の作品である『漂流』を読み、また震災記念日に『関東大震災』を手にするに至った。いずれも、綿密な取材に基づいた優れた記録文学であるが、その作品の中に、いくつかの社会時評的な意味合いもあり、一度きちんと読書記録を書いて見ようと思った次第である。そうしているうちに、これも偶然の所産であるが、彼の自伝的エッセイ『私の引出し』を、また加賀乙彦と津村節子(小説家にして吉村昭の妻)の対談『愛する伴侶を失って』など、吉村昭の人間像をも明らかにするような本を読んだので、ここにそれらを踏まえて感想文を書いてみることにした。
(『漂流』(新潮文庫 1980年11月)) この本は、江戸時代天明5年のこと、土佐の漁村にすむ一人の男、長平の漂流の記録である。土佐藩は、飢餓に落ちいった農民の窮状を救うべく、蔵米250俵を田野・奈半利両村に届けるべく。このお救米を運ぶ役を引き受けたのが水手長平たちの船であった。船は、260俵の米俵を無事下ろし、赤岡村に戻ることになった。ところが海を黒雲が覆い、天候は激変した。船は大きく揺れ、黒潮にひきずられ、吹き流されていった。跡ずさりなど、強風よけの操船を試みたが、何らの効果もなく、波浪で船は損傷し、さらに東へ東へと。碇も捨てた、波はますます激しくなり、船の櫓が船体から離れ、帆柱も切り離された。潮流が運んだ先は、絶海の孤島であった。
ここから、物語が本格的に展開してゆく。読者が、この本を手にとられることもないかもしれないので、長文にはなるが、あえて超訳スタイルでご紹介することにした。ただし、引用を主体とした。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
流れ着いて島は、八丈島の南方海上にある鳥島であった。活火山があり、土佐からはおよそ660キロ離れている。長平たちが上陸してすぐに波浪で船は押し流され、岩礁に激突して木片と化した。4人の物語が始まる。食料もなく、水もない、生活に必要な道具もない。、そこで最も重要なことは、固い結束のもとで、飢えをしのぐことであった。浜辺の貝や海藻、それから島に大量にいるアホウ鳥を捕らえて食糧にした。火がないので、鳥の肉を海水で洗って食べた。そのうち、鳥の干物をつくる。その近くで洞窟をみつけた。人が住んでいた跡だ。赤錆びた鉄器があった。雨水を木桶に受けて、飲水とした。
長平は、”必ず船が通る。それを心の支えとして、身をすこやかにして生きてゆこう”と他のものを励ました。流れ着いた舟板から引き抜いいた釘を曲げ、釣り針状にし、浜で拾った網を解きほぐして紐をつくり、それで魚を釣った。
島に漂着して以来、長平は洞窟近くの土の上に石と貝がらを並べ、月日を数える目安とした。貝がらは日、石は月を意味するものであった。
しばらく平穏な日々がつづいた。しかし、鳥肉を食べる意欲がなくなった音吉と甚平は衰弱しつつあった。そのうち甚兵衛は、次第に身体に痛みを覚えるようになり、特に足の関節の痛みが増して、近くを歩きまわることもできなくなっていった。音吉も、そのうち食欲がなくなった。長平一人を残して、二人は死んでしまった。
”なぜ、みんなは俺一人を残して死んでしまったのだ”、と長平は号泣する。入水を、と決めて海に足を踏み入れるが、幼い頃から海と川に親しんで、泳ぎのうまい長平は死ねない。
”生きてみるか・・・と、或る日、美しい夕日の沈むのを眼にしながら、彼はつぶやいてみた。自分だけが生き残ったのも、神仏み心によるものかもしれぬ、と思った。彼は、くずれかける気持ちをふるい立たせて体力をつけることにつとめた。”
”長平は音吉と甚平の死亡した原因について慎重に考えてみた。、鳥の肉を食べて体を動かすこともしなかったことが、彼らを死に追いやった原因だということに気づいた。生き長らえるためには、同じ失敗をくりかえさないことが必要であった”
島に漂着した天明5年2月から2年が経過した。長平は孤独感にも耐えてゆかねばと思い、念仏を耐えず称えて精神のやすらぎを得るように務めた。生活も規則正しいものにと、磯歩きをし魚も釣った。その年の2月、岩山の上に人影を見つけた。十人ほどの難破した男たち。彼らは、長平がこの島に一人だけ、ということを知って、深い失望感におそわれた。長平も眼に涙を浮かべながら言った。
”あなた方の嘆きは、もっともです。しかし、気がくじけては、この島で生きてゆくことは叶いません。あなた方に最も大切なことは、石にかじりついても生きながらえようという強い気持ちです。命さえあれば、いずれは帰国できる時もあるはずです”
彼は、言葉を継いだ。
”私は、この3年間この島で暮らし、一年半前からは一人になりました。さびしくて命を絶とうと何度思ったかしれませぬ。そのたびに念仏を唱えて、死ぬことを思いとどまってきました。これからは、みなで心を合わせ生きて行こうではではないですか” 石にかじりついてでも、生きてゆこうという固い決意であった。
岩のくぼみにこびりついている塩をかき落とし、布にあつめることもやった。残っていた小豆から酒を造ることも試みた。小豆で酒などできる筈はないと長平も思っていた。
”しかし、長平は、たとえ失敗してもそのようなことを試みようとする青蔵と三之助に好感をいだいた。単調な島での生活の中で、最も恐ろしいことは生きる意欲を失うことだった。それだけに、青蔵たちが酒を造りだそうとしていることは、他の者たちにも好ましい影響を与えてくれるのだ” ある年、沖に漂う船を見た。薩州の伝馬船である。6人が乗っていた・鹿児島の船だ。その船の中にが、生活に必要なものが多くあった。髪結道具、筆と硯、巻紙も。また船用の大工道具一式もあった。人数は、6人増えて16人となった。この時点で。長平が島に来て5年が経過していた。
しかし希望のない日を送るうち、入水を図るため海に入るものもあった。入水を企てた男、薩州船の沖船頭の栄右衛門は、”長平さんは、ただ一人でこの島に暮らしてきたのだ、そうした長平さんに恥ずかしいとは思わぬか”とみなを諭すように叱った。
”長平さんは、お念仏を友にして生きてきたというが、神仏にお祈りすれば、心も安まる。生きてさえいれば、故国へ帰る道がひらけぬとも限らぬ。生きてゆくのだ、生きるのだ”
池をつくり水を溜めるようになった。鳥の首に木片をくくりつけ、助けを求めることもした。百羽のあほう鳥に。船に残っていた朝顔の種をまいた。花が咲いた。
栄右衛門は、神仏の加護にお縋りしなければならぬでしょうが、自分たちも努力をはらわなけれな神仏もお力をお貸しくださらぬのではないでしょうか、と云い、狼煙をあげることなどを提案する。
そうした努力も虚しく、8年が経ち寛政五年。長平は32歳になった。ある時、長平はこれまでを顧みて、こう思った
。”どうせ島で朽ち果てる身であることを考えれば、命を惜しむ必要もない。今までは、生きることのみを念頭において日を送っていたが、これからは死を恐れず行動すべきだと思った” ある日、長平は薩州船の持ってきた大工道具をみて、こういった。
”大工道具だ。あれを使って船を造る。島を抜け出し、故国へ帰るのだ”
船材もない、船板もない、かんじんの釘もない。しかし、みなを説き伏せ、船を造る
ことに必死の努力を傾ける。流れてきた材木、破船の敷木から舟板をとった。ふいごを吹き、釘をつくりだした。そうした努力にも拘わらず、容易に船をつくることはできなかった。
”十年がたってしまった・・・と、長平はつぶやいた。島に漂着したのは24歳、いまは34歳になったことになる。池の水にうつる顔も決して若くはなく・・・十年という歳月が重く感じられた”
寛政七年三月六日、船据えという造船を始める行事を行った。無事な完工をねがう祝の儀式も行われた。
秋風が立ち、そして年が明けた。一月中旬には大きな流木が吹き寄せられ、帆柱の基部となった。しかし、工事はなかなか進行しない。”釘が欲しい”という悲痛な声がでた。そうして、また年が明けた。鉄製の碇、おそらく船から投げ出されたものこれを引き上げ、火で熱して釘を作った。また、流木が寄せられた。みんな、狂ったように働きつづけ、、とうとう船ができあがった。伊勢丸と命名された。長平が、島にきてから12年半ちかくを経過していた。
彼らは、その船で出帆し、夜は北極星の位置を頼りに航行した。霧のなかから島が現れた。青ヶ島である。そこは岩石でおおわれ、船をつけるところはなかった。しかし、風待ちしたあと、航行をつづけ、ようやく八丈島に辿りついた。
ようやく故国の土を踏むことができた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
長平は、ほかのものが死んでゆくなかで、絶望に打ちひしがれながらも、どうして生き残ったのか。彼、神の存在を信じたのである。希望をいだいたのである。ドストエフスキー不朽の名作『カラマーゾフの兄弟』の中で、大審問官が、「神は存在するのか」と問う。物理的、論理的に考えれば、神など存在しない。いや、存在することはあり得ない。
しかし、神という存在を人間が信じたからこそ、未来の世に人は希望を抱き、生きつづけ、文明をつくり上げることができたのである。おそらく、長平も、そのように思うことによって、死線を乗り越えたのであろう。この400頁を越える大作を、私は飽きることなく読み続け、繰り返し読んだ。そうさせたのは、著者吉村昭氏の筆力のなせる業である。綿密かつ克明な取材に裏打ちされた描写ーたとえば和船の構造、太平洋の四季の気象の変化、島の風土、鳥の生態、などなど。こういう微に入り細を穿った描写があればこそ、読むものを飽きることなく惹きつける。まさに、”神は細部に宿る”、という言葉の通りである。
まことに素晴らしい筆力と感じ入った次第である。もう一つつけ加えておくと、解説を書かれている高井有一氏の言葉が印象に残る。
”随筆集などで読んだ内容から察するのだが、吉村氏は、資料だけを頼りに小説を作り上げはしないのらしい。必ず歩いて取材をする。ある時は背景となる土地を訪ね、或る時は体験者、目撃者に会って話を聴く。必要とあれば、専門の学者に教えを乞うのを決しておっくうがらない。人に話を聞くなんて簡単な事のようだが、相手に通じるだけの気持ちの深さが聞き手の方にない限り、実のある話はひきだせない。”
これは、まさに臨床心理学でいう
、「聴く力」である。ということで、筆を置くにあたって、茨木のり子の詩「聴く力」を記しておくことにする。
(聴く力 茨木のり子)ひとのこころの湖水
その深浅に
立ちどまり耳澄ます
ということがない
風の音に驚いたり
鳥の声にほうけたり
ひとり耳そばだてる
そんなしぐさからも遠ざかるばかり
小鳥の会話がわかったせいで
古い樹木の難儀を救い
きれいな娘の病気まで直した民話
「聴耳頭巾」を持っていた うからやから
その末裔(すえ)は我がことのみに無我夢中
舌ばかかりほの赤くくるくると空転し
どう言いくるめようか
どう圧倒してやろうか
だが
どうして言葉たり得よう
他のものを じっと
受けとめる力がなければ
~~~~~~~~終わり~~~~~~~~
長い間、お待たせしたうえ、またながながと詩を書きました。筆がすべりました。お許しください。『関東大震災』については、続編で書きます。
ブログランキング
いいね!ーだったら、ぜひクリックを!。(ブログランキングが上がります
最近のコメント