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2015年6月12日 (金)

13日から「寺山修司・生誕80周年」  霧降高原の「霧降文庫」

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今年は「言葉の錬金術師」と呼ばれた寺山修司が47歳で亡くなってから33年、「生誕80周年」―。故郷・青森など各地で記念イベントが行われているが、ここ日光霧降高原の古書店図書館「霧降文庫」でも、6月のテーマ展として彼を。副題は寺山修司の名言のひとつから。「明日何が起こるかわかってしまったら、明日まで生きるたのしみがなくなってしまうことだろう」

「霧降文庫」の今週の14日(日)は戦争法案反対デモがある佐野市に向かうので、臨時休業。その代わりに週末オープンが期待されているので(そうかな?―笑いー)明日13日(土)に開きます。また15日(月)も。その他の6月は恒例の毎週とも日、月の2日間、開いております。開館時間は午前11時~午後5時。日光市所野1541-2546 0288・25・3348

(以下は「ウイキペディア」から。寺山修司のプロフィールです)

歌人からシナリオ作家へ[編集] 1954年(昭和29年)、早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。山田太一とは同級。中城ふみ子の影響から短歌を作り始め、在学中から早稲田大学短歌会などにて歌人として活動。18歳で第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。混合性腎臓炎で立川の病院に入院。1955年(昭和30年)、ネフローゼと診断されて長期入院となり、翌年、在学1年足らずで退学。

処女戯曲『忘れた領分』が早稲田大学の大隈講堂「緑の詩祭」で上演され、それを観た谷川俊太郎の病院見舞いを受け、交際が始まる。1957年に第一作品集『われに五月を』、1958年に第一歌集『空には本』を刊行する。1959年、谷川の勧めでラジオドラマを書き始める。また、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、大江健三郎、浅利慶太、永六輔、黛敏郎、福田善之らと「若い日本の会」を結成、60年安保に反対した。

1960年(昭和35年)2月、第3作目のラジオドラマ『大人狩り』が放送される。同年、浅利が旗揚げした「劇団四季」で戯曲『血は立ったまま眠っている』が上演される。また、篠田正浩監督作品のシナリオを担当し、大島渚と出会う。25歳でハツと四谷のアパートでおよそ12年ぶりに同居。

1963年(27歳)、松竹の女優だった九條と結婚し、ハツとの同居先を出る。 1960年代半ば以降からは学研の「高三コース」にて高校生の詩の選者を務めて多くの若い才能を掘り起こしたり、新書館の少女向け詩集レーベル「フォアレディース」を編んだりするなど、「青少年のカリスマ」としての位置づけを強めていく。

1963年に『現代の青春論』(『家出のすすめ』)を刊行。 「天井桟敷」結成[編集] 寺山修司のお墓 高尾霊園A区 Google maps 1967年(昭和42年)1月1日、劇団「天井桟敷」を結成。4月18日、草月アートセンターで旗揚げ公演『青森県のせむし男』を上演。6月、新宿末広亭で第2回公演『大山デブコの犯罪』。アートシアター新宿文化で第3回公演『毛皮のマリー』。同作に出演した美輪明宏は、この頃の寺山を「あまりにもシャイで、人の目をみて話せない男」と評している。 3月、評論集『書を捨てよ、町へ出よう』が刊行される。33歳で九條と別居。

1969年(昭和44年)、西ドイツ・フランクフルトの『国際実験演劇祭』に招かれ、『毛皮のマリー』『犬神』を初の海外公演。カルメン・マキ「時には母のない子のように」の作詞を手がける。 1970年(昭和45年)3月24日、漫画『あしたのジョー』の登場人物、力石徹の葬儀で葬儀委員長を務める。

34歳で九條と離婚。離婚後も九條は晩年の寺山のよき協力者となった。 1971年(昭和46年)、『書を捨てよ、町へ出よう』で劇映画に進出。サンレモ映画祭でグランプリを獲得。フランスのニースで作家ル・クレジオと2日間語り明かす。ロッテルダム国際詩人祭に出席し、詩を朗読。フランスナンシーの演劇祭で『人力飛行機ソロモン』、『邪宗門』公演。ベルリンのフォーラム・シアターで『邪宗門』公演。ベオグラード国際演劇祭で『邪宗門』がグランプリ受賞。 1974年(昭和49年)、映画『田園に死す』が公開され、文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。

1975年(昭和50年)、杉並区内で上演された市街劇『ノック』が住民の通報により警察沙汰となる。 1979年(昭和54年)、肝硬変で入院。 1980年(昭和55年)、渋谷区内で取材中、アパート敷地に住居侵入したとして逮捕され、略式起訴された(この時の身元引受人は矢崎泰久[2]。「のぞき現行犯」と報道された)。

1981年(昭和56年)、肝硬変の再発で再入院。 1982年(昭和57年)、朝日新聞に詩『懐かしのわが家』を発表。パリで「天井桟敷」最後の海外公演を行い、『奴婢訓』を上演。 1983年(昭和58年)、東京都杉並区永福在住中、阿佐ヶ谷の河北総合病院に肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没。戒名は天游光院法帰修映居士。

没後[編集] 1995年(平成7年)、十三回忌を記念して、砂子屋書房が寺山修司短歌賞を開始。 1997年(平成9年)、青森県三沢市に寺山修司記念館が建てられた。2008年(平成20年)2月、生前未発表の短歌が田中未知編纂により『月蝕書簡』(岩波書店)として刊行された。 年譜[編集] 寺山修司記念館(青森県三沢市) •

1935年(昭和10年)12月10日 青森県生まれ。 • 1941年(昭和16年) 青森県八戸市へ転居。 • 1942年(昭和17年) 青森市立橋本尋常小学校(現:橋本小学校)入学。 • 1948年(昭和23年) 古間木中学校(青森県三沢市)入学。秋、青森市立野脇中学校に転校。 • 1951年(昭和26年) 青森県立青森高等学校進学。 • 1954年(昭和29年) 早稲田大学教育学部国文学科(現・国語国文学科)に入学。第2回短歌研究50首詠(後の短歌研究新人賞)受賞。 • 1967年(昭和42年)1月1日 「天井桟敷」を結成。 • 1974年(昭和49年) 映画『田園に死す』で文化庁芸術祭奨励新人賞、芸術選奨新人賞を受賞。 • 1983年(昭和58年) 肝硬変のため入院。腹膜炎を併発し、敗血症で死去。47歳没

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