わずかな「歯車」さえ、知らされていなかった 『大本営が震えた日』(吉村昭)
1941(昭和16年)年12月1日12時半、上海郊外の台北飛行場を離陸した「上海号」(DC3型、搭乗者18人)が行方不明になったことが発端になり、あらすじが始まる。『大本営が震えた日』(吉村昭)。「草の根を分けても」という捜索活動はどうしてか?読者を物語にひっぱってゆくが、要は「12月8日」までの1週間、陸海空軍一線部隊の極秘行動のすべてを、事実に基づいて再現したノンフィクションだ。
328頁の最後はハワイ奇襲攻撃と軍艦マーチと開戦を告げるラジオ放送―。結びはこうだ。
「陸海軍人230万、一般人80万人のおびただしい死者をのみこんだ恐るべき太平洋戦争は、こんな風にしてはじまった。しかも、それは庶民の知らぬうちにひそかに企画され、そして発生したのだ」
12月8日、14歳の少年だった吉村昭が「その曖昧の日の記憶を鮮明にしたかった」、それが取材、執筆の動機だったという。それにしても、そのために九州から北海道まで歩き回り、事故機「上海号」のただ2人の生存者に会うなどして、事実を掘り進めた。知らなければよかった事実も含めて。
その吉村昭が書き終えての感想はもちろん、「あとがき」に。印象的なキイワードは「巨大な機械の頭部」。言葉にすれば、わずか8字だが、その8字のかげに、下に、どれだけの「歯車」が。しかし、当時の国民はそのわずかな「歯車」さえ、まったく知らされていなかった、そのことを伝えたかった。と、言外に。
開戦のかげには全く想像もしていなかった多くのかくされた事実がひそんでいたことを、私は知った。開戦の日の朝、日本国内に流された臨時ニュースは表面に突き出た巨大な機械の頭部にすぎず、その下には無数の大小さまざまな歯車が、開戦日時を目標に互いにかみ合いながらまわっていたのだ。(吉村昭・あとがき)=2015年8月4日=
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