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2015年9月

2015年9月24日 (木)

まっとうなことを口にしてもいい時代に 9・23脱原発脱戦争全国集会

Img_3458 「9・23さようなら原発 さようなら戦争 全国集会」(代々木公園) 初めて聴いた社会学者、上野千鶴子さん(東大名誉教授)のあいさつ。
    Img_3422                                     
 激励というか、今の情況の社会的分析のいくつか、さすが。元70年安保を戦った世代の感慨も含めて。私にも身に覚えがあるので、とても共感しました。以下の言葉などが典型だ。
Img_3479
 
「私も70年安保闘争世代ですが、あのときは学生と学者は対決しました。私たちは闘って負けました。『バカなことをやって自滅したバカな奴』という冷笑的な視線を受けました。これを政治的シニシズムといいます。しかし、2015年夏、この夏の経験は、40数年ぶりに政治的シニシズムが一掃されたと確信しています。まっとうなことをまっとうに口にしてもよい、そういう時代が来ました。今回は『試合には負けたが、勝負には勝った』。それを全国民が目撃しました」
Img_3465
シニシズム  社会の風潮・事象などを冷笑・無視する態度。冷笑主義

2015年9月22日 (火)

9・23さようなら原発 さようなら戦争  代々木公園へー。

  Img_3401 明日(23)日の代々木公園の1000万人アクションの集会は、さようなら原発、さようなら戦争がテーマです。 両方ともこれから葬り去るため、皆の力を結集しましょう。
 
 その内容を貼り付けておきます。 私も、「さよなら原発!日光の会」の旗、3本を持っていきます。 一緒に持って行進しましょう。 集合場所は、12時に、会場の代々木公園B地区野外音楽堂の「市民・NPOグループ」の一番前、 音楽堂に向かって左側の実行委員会近くの場所です。
 
  9.23 さようなら原発 さようなら戦争 全国集会 川内原発再稼働、戦争法制、辺野古新基地建設  多くの市民の反対の声を無視してゴリ押しする安倍政権! 9月23日の代々木公園での集会は、NO NUKES NO WAR の声で埋め尽くそう!
 
 2015年9月23日㊌秋分の日 代々木公園B地区・けやき並木(JR山手線「原宿駅」、東京メトロ千代田線「明治神宮前駅」 千代田線「代々木公園駅」、小田急線「代々木八幡駅」下車)
 
 12:30 オープニングライブ the LOW-ATUS 13:30 集会 司会木内みどり 鎌田慧、澤地久枝、落合恵子、河合弘之/福島、川内から 韓国から/戦争法案反対の行動から/沖縄から 15:00 クロージング トーク&ライブ 木内みどり、津田大介、佐藤タイジ(シアターブルック)
 
 15:15 デモ出発 ①渋谷コース 渋谷区役所前→渋谷駅前→宮下公園→神宮通公園    ②原宿コース 代々木公園→原宿駅前→表参道→青山通り→神宮球場前 →日本青年館周辺 サブステージ
 
 A:原発被災者、被ばく労働のステージ サブステージB:戦争法案、辺野古新基地建設のステージ ブース出店あ

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2015年9月21日 (月)

連休最後は22日(火)です。古書店図書室「霧降文庫」

連休最後の「霧降文庫」は22日(火)です。13時~19時。企画「追悼 鶴見俊輔」。(23日も祝日だが、臨時休業です) 地図を添付します。
日光市所野1541-2546
0288-25-3348

2015年9月20日 (日)

政権による国民に対するクーデターだ  折々の<状況> その(36)

Img_3293_2 折々の<状況> その(36)

今回は、安倍政権による私達国民に対するクーデターだ。国民の声、大勢の民意をないがしろに、無視、しりぞけ、国民が歴史的にこれまで合意してきた平和憲法の解釈を強引にねじ曲げ、「黒」を「白」と言い張り、詭弁に詭弁を積み重ね、混乱に混乱を重ねて、強引に通した。

 

 もともと砂川事件最高裁判決の全文のどこにもないのに、この判決に集団的自衛権の根拠があるとする白々しさ、身勝手さ。我田引水ではなく、我田引憲といえる、その強引さ。憲法学者、元内閣法制局長官、元最高裁判事らの違憲の指摘も、知らぬ存ぜずで通す、その厚かましさ。そんな道理が通らない、論理がない、聴く耳を持たない、なんというごう慢で、謙虚さがない、自分勝手で手前みそな、その政治判断、政治手法、というか、政治技法とでもいうべき政治手段が許されるわけがない。説明を重ねれば重ねるほど、法案が必要とされる根拠がひとつひとつ崩れていった。
                                     

「ホルムズ海峡の機雷掃海」も、「邦人が乗船する米艦擁護」も。「説明が二転三転し、この法律がなぜ必要なのか分からなくなった」.と指摘したのが、衆参両院で210時間以上に及ぶ審議を見たという朝日新聞国会担当キャップ、山田明宏記者。20日朝日新聞13版総合3面の3ページ「視点 役割を放棄した言論の府」で、こう振り返っている。つまり、法案が必要とされる理由が、次々と消え去り、空中分解していった。法案のその内容の空虚さ、ご都合主義、不都合さ、欺瞞さ、国民はそれに気づき、不安を覚え、反対の行動を全国各地で起こしたのだ。

                                       
 世界の主要な国の中で、世界に誇れ、世界に働きかけられる、世界各地で起きる紛争で、その仲裁役になる資格があるノーベル賞候補の平和条項、世界の各国に好イメージで親しまれている大切なアイデンティティ、それによってアフガニスタンの人々を支援している「ペシャワール会」(私も会員のひとり)など多くの国際的なNGOが敵視されず、信頼されてきていた。その背景になっていたのが、平和条項だった。

 

 それをかなぐり捨てることで、現地のNGOが無用な危険にもさらされる。それを承知していてはいても、戦争病が宿命である米国の助っ人に駆けつけ、助っ人になろうという。戦争をしない国、戦争を否定する国から、戦争がやれる、戦争ができる、あたりまえの国になっていこうとする。アジアで最も平和的な国の基本的な姿・形を無残に変えていく。立憲主義と平和主義と民主主義を踏みにじるこの戦争法案は、いずれ、私達国民の手で葬り去ることになるだろう。

                                           
 その力は怒るべきことを新鮮な言葉で示した高校生や大学生などの若者、これまで表に出ることをためらってきていた裁判官や憲法学者、子どもを守りたい若いお母さんたち・ママたちなど、新しい流れが歴史の舞台に登場したことで露わになった。こうしたふつうの市民や専門家も立ち上がらせた国会正門前のこの数カ月のうねり、市民の心、その民意が示している。街頭と国会が反響、交差することで、国民主権が、私たちが国の主人であることが意識され、明確にされた。市民は、国民は、その主権を蹂躙した与党の論法や運営を知り始め、不安から批判へ、批判から抗議へ。そのようにさらに高まった与党への怒りは、これからも潮の渦のようにさらに増殖してゆくことだろう。
                                   
 
 私たちはあきらめない、屈しない、へこたれない。なんとしても、これから安倍政権を打倒していく、その闘いはこれからスタートする。まずは、次の国政選挙で、戦争法案に賛成した議員一人ひとりを必ず、絶対に惨敗・落選に追い込む、その運動を国民的規模で行わねばならない。奢る平家久しからず。必ずそうなるだろうし、そうしていくことに。「悪い政治家を国会に送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」。米国の警句では、国会ではなくワシントンだが、「それが胸をよぎる」と。けさ20日の朝日新聞・「天声人語」は、政府与党の思い上がりはここに極まったとまで指摘し、この警句を引いている。

 

 中央紙がここまで政府のやり方に異を唱えることはまず珍しい。私の方はこう言うことにする。戦争法案に賛成した自公をはじめとした各国会議員にそんな判断をしたことを、国民の意思ではない選択をしたこと、それをきちんと後悔させる、悔やませてやる。そして、国会議員から惨敗したふつうのひとりの市民になってもらう。そして「安倍政治を許さない!、安倍政権を打倒していく!」

2015年9月19日 (土)

熱烈取材、2時間半も・・・・ 日光の穴場?「霧降文庫」情報

Img_3343_2 JTBガイドブックの熱烈取材、2時間半に及ぶー。
 
「霧降文庫」。「さくら募集」に3人が駆けつけてくれました。たまたま常連さんも含め、記者、カメラマンなど、ベランダは、7人で騒然?。なにしろ、たくさんのポーズも(初めて)
Img_3335_2
 
私のお昼だった「霧降文庫カレー」も、さしあげました。
 
それにしても、そんなにたくさん取材し、バチバチ写して、どうするの?と。思うほど。取材ついでに何冊もお買い求めいただいてしまいました。ありがとうございますー。
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2015年9月18日 (金)

ほぼ休まずオープンしています 古書店図書室「霧降文庫」

185070 「霧降文庫」(日光霧降高原)は、19日(土)から、20、21、22日(火)と、連続オープンします。午後1時から夜7時まで。
 
 恒例の企画は(なんと、昨年夏からついに1年以上も毎月・・・記録をつけておかないと)、今回は思想家、鶴見俊輔をしのび、つたえる「永遠の『不良少年』、追悼、鶴見俊輔」。
 
 予定ではあした19日(土)午後2時前後に、JTBガイドブック記者が取材に訪れることに。当日は、ふだんにも増して「霧降文庫」愛好家がたくさん訪れてくれることを願っております(笑い)・・・

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    ウイキペディアによると、鶴見俊輔の学歴は小学校卒(中学校は退校や中退などで)。16歳で米国に渡り、ハーバード大で2年半、哲学を学んでいたが、1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。

     この間、後期はまったく授業に出られなかったが、捕虜収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときハーバードを卒業。1942年(昭和17年)6月、日米交換船「グリップスホルム」と「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国した。

     戦時国家日本では、海軍軍属で終戦を迎える。戦後、「思想の科学」を仲間たちと創刊。ベトナム戦争に反対してつくられた「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の中核となり、大江健三郎らと「九条の会」を立ち上げた社会運動家でもあった。

     茨城県笠間市の「ともだち」で、鶴見俊輔の「思想の科学」読書会の会員から10冊の貴重な鶴見俊輔本がきょう、12日、霧降高原に届いたばかりです。「思想の科学」は廃刊・休刊?になってからかなり経っていると思うが、今も読書会が続いているのですねー。

     宅急便で送られてきた鶴見本には、やはり「戦時期日本の精神史」が入っておりました。鶴見俊輔が力を注いだ「転向論」も。これらの鶴見本については、すでにきょう訪ねてきた「ともだち」のうち、2人が「限界芸術論」などの文庫・新書を「霧降文庫図書室」から借りていきました。

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 23日(水)は東京・代々木公園を会場に「さようなら原発 さようなら戦争」全国集会へ(主催・「さようなら原発10000万署名市民の会)。私も参加するので、これにもお誘いいたしますー。

2015年9月15日 (火)

雑巾、雑巾、雑巾の「床下」へ 日光市災害支援ボランティアセンター

 

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 災害支援ボランティアへ。大雨被害で日光市でもボランティアセンター(通称・ボラセン)が立ち上がり、その3日目の15日、「日光市災害支登録ボランティア」である私も今市地区の被災者宅へ。大変な床上浸水の被害に遭ってしまったのでした。「そのときは、もうナイアガラの滝のようでした」、と、がっくりの家人。前日に続いての継続支援で、そこに手を挙げたのは、午前9時にセンターに駆け付けたボランティア。そのうち、静岡県から2人、山梨県から1人、そして、地元日光の私の4人が、ひとつのグループで。

 

 依頼内容と住宅地図を片手に日光市のボランティアセンターから旧今市地区へ。車は「浜松ナンバー」、ナビは地元の私。15分ほどで現地に到着した。「こんにちわ、日光市災害支援ボランティアセンターから」。それもそこそこに、ボランティアたちは、とにかく清掃、清掃、清掃ー。この日の大半は「地下作業」・・・。家人によると、この家は2階建て84坪(277平方m?)。その家の床下の泥水出し。泥といえば、東日本大震災の際、石巻で「泥バスターズ」をやって以来。といっても、ここでは、床下に潜り込んで、雑巾がけ、雑巾がけ、ヘラ出し、タワシ、雑巾がけー。数十本の雑巾があっという間に真っ黒と。

 

 まさか、床下の清掃とは。と、思っていたら、山梨県からの「熟練」のボランティアがしっかりとヘッドライトを持参。それも予備も。被災者宅の懐中電灯と3本・3人が暗い「地下」へ。前日は11人人のボランティアが床下・床上・ゴミ出しに精を出していたことがわかる状態ではあった。だが、まだまだ手つかずのところも。そこはヘラですくい、雑巾で拭い、ブラシをかけ、さらに雑巾がけを。家具の清掃も含め、作業は終了の午後3時まで。「地上」のボランティアは、バケツで上がってくる雑巾をきれいにして、再び「地下」へ手渡す役だったのです。

 

 静岡県の若い2人は「ボランティアは初めて」、とはいえ、率先して汗をかく仕事へ。「東日本大震災があったのに、ボランティアが初めてとは?」。雑巾がけをしながら、私が聴くとー。38歳の若者は手を休めずに「その東日本大震災で三陸に駆け付けられなかった、そのことが心残りだったのです」と、話してくれた。

 

 「そろそろ50分だから、休憩・休みにしようぜ~」。地元の私がその声をかける役をしたのだが、午後になると、彼氏彼女たちはなかなか手を休めない。玄関周りをきれいにする一方、靴底のカビも丁寧にふき取っておりました。実に熱心なその仕事ぶりを横目に、私だけ、「休み時間の一服」をしていたのでありました(笑い)。

 

 それにしても、家人によると、当日は腰の上まで浸水した。中身が入っていたドラム缶がごろごろと流れてしまう激しい水流だったという。家人は万一を考え、マイカーは「高台」に避難させていた。それに「家のここまでは来ないだろう」と。ところがー。滝のような水が押し寄せ、近くの市役所支所に避難した。でも、戻ってみれば、大変な床上浸水に遭っていたのだ。

 

 被災者宅は、この日の15日、清掃もようやく峠を越えたよう。そのため、災害支援はいったん「終了」ということにしたが、実際は、まだまだやるべき復旧作業は残っているのが実状だ。でも、この家では「うちはここまできたが、まだまだ被害に遭っている方がいるので、ぜひ、そちらの支援へ」。そうした他者への配慮、気づかいをも含めた「作業終了」の確認ではありました。

 

 
 さぁ!、次は、「山場」の国会へ、国会正門へー!(・・・私の「晴耕雨読」はいつになったら取り戻せるのか?・・・)
 

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2015年9月12日 (土)

永遠の「不良少年」  ひそやかに「追悼 鶴見俊輔」

日光霧降高原の森の書店「霧降文庫」(日光市所野)は、13日(日)もやってます。9月の企画は思想家・哲学者の鶴見俊輔(7月下旬に93歳で死去)の仕事を今に伝える「永遠の『不良少年』 追悼 鶴見俊輔」がスタート。オープン時間は13時~19時です。

 ウイキペディアによると、鶴見俊輔の学歴は小学校卒(中学校は退校や中退などで)。16歳で米国に渡り、ハーバード大で2年半、哲学を学んでいたが、1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBIに逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。

 この間、後期はまったく授業に出られなかったが、捕虜収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときハーバードを卒業。1942年(昭和17年)6月、日米交換船「グリップスホルム」と「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国した。

 戦時国家日本では、海軍軍属で終戦を迎える。戦後、「思想の科学」を仲間たちと創刊。ベトナム戦争に反対してつくられた「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)の中核となり、大江健三郎らと「九条の会」を立ち上げた社会運動家でもあった。

 茨城県笠間市の「ともだち」で、鶴見俊輔の「思想の科学」読書会の会員から10冊の貴重な鶴見俊輔本がきょう、12日、霧降高原に届いたばかりです。「思想の科学」は廃刊・休刊?になってからかなり経っていると思うが、今も読書会が続いているのですねー。

 宅急便で送られてきた鶴見本には、やはり「戦時期日本の精神史」が入っておりました。鶴見俊輔が力を注いだ「転向論」も。これらの鶴見本については、すでにきょう訪ねてきた「ともだち」のうち、2人が「限界芸術論」などの文庫・新書を「霧降文庫図書室」から借りていきました。

2015年9月11日 (金)

12(土)、13(日)両日、開きます。  古書店図書室「霧降文庫」

記録的大雨を乗り越えた?日光霧降高原の古書店図書室「霧降文庫」は、12日(土)、13日(日)と、本格的にオープンします。
 
 
9月企画「追悼 鶴見俊輔、永遠の『不良少年」』もスタート。戦後を代表する哲学者・思想家・社会運動家の鶴見俊輔さんの座談、選集、新書などをそろえます。もちろん、彼などが創刊した「思想の科学」も。
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  午後1時から夜7時まで。★200円均一本・500冊★古書1000冊★図書室2500冊(無料・貸し出し期間1カ月)です。台風一過、秋の霧降高原へ。

2015年9月10日 (木)

企画にするのが、もったいない?  「追悼 鶴見俊輔」

Img_3110 折々の<状況>その34

 

オール・タイム・ベスト

 

片岡義男から、「オール・タイム・ベスト」という言葉を教えられた。自分のこれまでに読んだ本のうち、今、心にのこっているものをあげるということだ。眠りからあがってきたとき、自分にとって、なにがのこっているか。2003年3月18日朝、私にとってベスト・ファイヴというと、水木しげる『河童の三平』、岩明均『寄生獣』、宮澤賢治『春と修羅』、ウィルフレッドオーエン『ソング・オブ・ソングス』、ジョージ・オーエル『鯨の腹の中で』があがってきた。

 

鶴見俊輔『思い出袋』(岩波新書、2010年3月19日)の44頁。「オール・タイム・ベスト」。人生の最上のものとでも訳すのか。私はこのうち、オーエンとオーエルは読んでいない。このあと、「平常心に近くなってきたところで」5冊を足している。

 

 魯迅『故事新編』、司馬遷『史記』、トルストイ『神父セルゲーイ』、ドストフスキー『カラマゾフの兄弟』、マーク・トウェイン『ハックル・ベリーフイン』とくる。20冊のところで、つげ義春の『長七の宿』とか、『ゲンセンカン主人』などが入ってくるところが、鶴見さんだ。なにしろ『現代日本思想史』(鶴見俊輔集第5巻)という大書の一方、『漫画の戦後思想』なんてのも書いているのだから。

 

 「霧降文庫」では、今週12日(土)から「追悼 鶴見俊輔」を企画しているので、改めて、鶴見さんの本を手に。この『思い出袋』も、朝日新書『新しい風土記へ』も、『現代日本思想史』など、いずれも積読状態であった。それに気づいて、懸命に読んでいるのだが、それが面白いのなんのって。『読めばわかる!』。

大いに刺激を受けること、請け合い。企画で公にするのがもったいないくらい(笑い)

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2015年9月 8日 (火)

永遠の「不良少年」 追悼 鶴見俊輔  折々の<状況>その33

 

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 私の「ともだち」のかなりな読書家でも、「つるみしゅんすけって誰?」、そんな反応に出会って、びっくりー。それも複数で。確かに高齢で、最近は現役ではなかったが、この人は戦後の「日本の良心」みたいな立ち位置にいた。

 

 それだけに、鶴見俊輔がふつうに知られていないことに驚いてしまったのです。私は新刊でも古書でも「鶴見俊輔」の名を見つけると、大半は手元に求めてきたので。それほど熱心な読者とはいえないが、何かの拍子に彼の本へ。

 というのは、私の場合、ある読書傾向があるのだが(笑い)、どうもバランスが崩れているな?、そんな感覚を覚えたとき、鶴見俊輔を読んでいるようです。深い知識と経験に裏付けられた思わぬ「ヒント」が彼の本にはあるのです。

 

 その意味で、戦争法案で世の中が大揺れの今、改めて、読まれる賢者だと思っていたのです。彼が漫画「がきデカ」が大好きというのも、いいなーと。「不良少年」だからこその見方なのだと思う。ということで、以下へ。

 

 森の書店図書室「霧降文庫」(日光霧降高原)、9月の企画は、「永遠の『不良少年』 追悼 鶴見俊輔」にしました。

 

 今週末、12日(土)、13日(日)~から。オープン時間は13時~19時に変更しました。9月19日(土)~22日(火)の4連勤?も開きます。

 

 戦後、「思想の科学」を創刊し、「ベ平連」の中核となり、「9条の会」を大江健三郎らと立ち上げた哲学者、思想家、社会運動家・・・。今年7月20日に93歳で逝去した。

 

 私の「倉庫」から引っ張りだした「鶴見俊輔座談」や「鶴見俊輔集」などを。それに「思想の科学」の読書会員だった「ともだち」から10冊ほど借りることにしています。今回の企画のために、新たに鶴見俊輔本10冊も加えます。

 

 鶴見俊輔から「新しい地平へ」。そんな思いで、私もまだ手につけていない鶴見俊輔本に触れたいと思っています。 

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経歴[編集](以下はウイキペディアから)

鶴見祐輔の長男として東京市麻布区(現・港区麻布)に生まれる。外祖父は後藤新平。俊輔という名は父親の命名で、伊藤博文の幼名による[1]。厳格な母親に反撥し、東京高等師範学校附属小学校3年生のとき近所の中学生と組んで万引集団を結成。本屋から万引した本を別の本屋へ売りに行く、駅の売店から小物を盗むといった悪事を繰り返す[2]。このためクラスでは除け者にされていたが[2]、このときただ一人鶴見を庇っていた同級生が永井道雄だった[3]。しかし鶴見の側では永井をいじめる態度に出て、大塚駅の前でこうもり傘の柄で永井の足を引っ掛けて水溜りの中に倒し、その後で再びクラスから村八分にされることを恐れて翌日は早くから登校し、クラスの世論を鶴見側に有利に傾けるため事実の捏造をした[3]。肉体的に早熟だったため、小学生時代から性的な思念が頭から離れず、授業中は「パンツの中でペニスが右側に入っているか左側に入っているか」を気にして上の空だった[4]。10歳をいくつも出ない年齢で歓楽街に出入りし、女給やダンサーと肉体関係を持った他[5]、自殺未遂を5回繰り返して精神病院に3回入院させられた[6]。当時、同校の生徒800人のうちただ1人の不良少年であることが誇りだったという。

「平常点はいつもビリに近いところにいた」ため[7]東京高等師範学校附属中学校に推薦されず、府立高等学校尋常科に入学するも、武蔵小山の古本屋で集めた莫大な数の性に関する文献を学校のロッカーに置いていたことが発覚したため[8]入学後1年1学期で同校を退学になり[9]東京府立第五中学校に編入学するもやはり中退。俊輔の将来を心配した父から「土地を買ってやるからそこで養蜂場を経営して女と暮らせ」と言われたこともあるが、最終的には父の計らいで1938年(昭和13年)に単身渡米し、同年9月、マサチューセッツ州コンコードミドルセックス・スクールに入学。全寮制の寄宿舎で9か月間の勉強を経て大学共通入学試験に合格。16歳のとき身元引受人アーサー・M・シュレジンジャー・シニアの勧めでハーバード大学に進学、哲学を専攻。ホワイトヘッドラッセルクワインカルナップに師事。大学では成績優秀で、1000人いる同級生の中の上位10%に入っていたため飛び級コースに入る[4]。18歳の時には、当時働いていたニューヨーク図書館ヘレン・ケラーと一度会い、言葉を交わしている。この頃、ハーバードの経済学講師の都留重人と出会い、プラグマティズムを学ぶことを勧められる。都留は生涯の師となった。

1941年(昭和16年)12月8日に日米開戦。1942年(昭和17年)3月末、大学の第3学年前期が終わったとき無政府主義者としてFBI逮捕され、東ボストン移民局留置場を経て、メリーランド州ミード要塞内の捕虜収容所に送られる。この間、後期はまったく授業に出られなかったが、収容所から提出した卒論が受理され、19歳のときSumma Cum Laude[10]の成績でハーバードを卒業。1942年(昭和17年)6月、日米交換船グリップスホルム」と「浅間丸」に乗ってロレンソマルケス経由でアメリカ留学から帰国。ただしこれは強制退去ではなく、送還か収容所送りかの選択を迫られて鶴見自身が決めたことであった。収容所にとどまれば食事の心配がないのに敢えて帰国を選んだ理由について鶴見は「(収容所にとどまれば)敗戦後の日本に帰るときには大変に後ろめたい思いをしなきゃいけない」「アメリカに残っていたら、収容所といえども飯は結構困ることないんだよ。イタリア人のコックだし。私にとって(収容所の)飯は旨かったんだよ。だけどそれを戦争の終りまで─負けることは判ってる─終りまで、これを食い続けるのは悪いなという気がしたんだよ」と説明している[11]

第二次世界大戦中には結核持ちであるにもかかわらず徴兵検査に合格したため、徴兵を避けるために海軍軍属に志願し、1943年(昭和18年)、インドネシアジャワ島に赴任。主に敵国の英語放送の翻訳に従事。1944年(昭和19年)12月、胸部カリエスの悪化により帰国。敗戦を日本で迎えた。

戦後、海軍を除隊後に、姉鶴見和子の尽力で、和子と丸山眞男、都留重人、武谷三男武田清子渡辺慧とともに7人で「思想の科学研究会」を結成して雑誌『思想の科学』を創刊し、同会で『共同研究 転向』(上・中・下、平凡社、1959年 - 1962年)など思想史研究を行う。アメリカのプラグマティズムの日本への紹介者のひとりで、都留重人丸山眞男らとともに戦後の進歩的文化人を代表する1人とされる。京大助教授時代、1951年(昭和26年)にはスタンフォード大学から助教授として招聘されたが、原水爆反対運動に関与したことが神戸市の米国総領事館から問題視されて米国への入国を拒否され、その後一度も渡米していない。

60年安保時には、政治学者高畠通敏とともに「声なき声の会」を組織して岸内閣による日米安全保障条約改定に反対[12]ベトナム戦争期には高畠らとともに「声なき声の会」を母体として「ベトナムに平和を!市民連合(ベ平連)」を結成し、代表に作家の小田実を迎えて、自身もその中心的な人物として活躍した。鶴見自身はマルクス主義者ではなく、「私は日本にいたときからクロポトキンを一生懸命読んでいた。クロポトキンにはマルクスに対する偏見がありますから、それが、私がマルクス主義者にならない、一種の予防注射になった」[13]と述べている。反戦運動を行う中で、戦時中に海軍軍属に志願した事に関して「なぜ戦争中に抗議の声を上げて牢屋に入らなかったっていう思いは、ものすごく辛いんだよね。だから、英語がしゃべれるのも嫌になっちゃって。戦争中から、道を歩いていても嫌だって感じだった。鬱病の状態ですよ」と本人は後に釈明している[14]。 

しかし2000年代以降は、「私は参政権を持ってから、共産党だけに投票してきたことは確か」[15]と、日本共産党支持の姿勢を明確にして、九条の会の呼びかけ人にもなっている。同党を「全ての陣営が、大勢に順応して、右に左に移動して歩く中で、創立以来、動かぬ一点を守り続けて来た。北斗七星のように、それを見ることによって、自分がどの程度時勢に流されたか、自分がどれほど駄目な人間になってしまったかを測ることの出来る尺度」と評価している[16]

2015年9月 7日 (月)

「追悼 鶴見俊輔」へ  9月の「霧降文庫」企画

Img_3095 きょう、書店と古書店を歩いていて、ごく自然に手にした新刊本と古書たち。実は先日,逝ってしまった「鶴見俊輔」の著書を探し求めたのだが、あったのは、岩波新書の一冊だけ。いやはや、「戦後の知の巨人」を追悼するコーナーができていると思っていたのだが。それはなかったので、これらの話題本へ。、

 

  「霧降文庫」の9月(今週末から)は、若くして「思想の科学」を創刊させ、「ベ平連」(ベトナムに平和を!市民連合)を支えた思想家、鶴見俊輔を追悼する企画を立てていた。鶴見俊輔本は、私のところにもともと10数冊あるが、それに加えようとした。が、残念。なので、これからネット経由で鶴見俊輔の最新刊本を注文しようと思っています。

 

 ということで、9月の「霧降文庫」企画、「追悼 鶴見俊輔」に、乞うご期待(笑い・・・9月12、13日からスタートします)

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2015年9月 6日 (日)

現実的な対応をいかに組み込めるか 霧降自治会自主防災規約

Img_3080_2 折々の<状況>その33  
 日光市霧降自主防災規約。本日・9月6日の自治会防災部会で決定、9月27日の組長会議で規約を報告し、10月1日から実施することになった。規約そのものは13年前・平成12年春からあったが、それを改定した。
 新たに「防災計画」の作成や災害対策本部を「霧降自治会館」に置くなどを盛り込み、全16条の規約へ。今年初夏から3度の会議を経て。根本はこれに現実的な対応をいかに組み込んで実際の行動に移せるか。
 これらも含め、「霧降自治会報」には、こうした防災に対する自治会の構えを伝える一方、万一のための最初3日間をしのぐ「ふだんの防災のあれこれ」(仮称)の記事を用意することも決めた。
 日光市市内では、すでに現実的な避難訓練も行っている先進的な自治会もあるが、それらに学びながら、霧降自治会は防災器材を少しづつ揃え、ひとつづつ、積み上げていこうと確認したのです。

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2015年9月 4日 (金)

「霧降文庫」の5日(土)、6日(日)、臨時休業。 大事な会議が週末に~

お知らせ「霧降文庫」の5日(土)、6日(日)は、臨時休業です。
                                                                                       Photo
5日は、県弁護士会主催の「指定廃棄物最終処分場を考えるシンポ」参加のため、6日は霧降自治会防災部会参加のため。週末に「霧降文庫」を開きたいのはやまやまだが、このように大事な「イベント」も週末に~。

2015年9月 3日 (木)

先着5人様に「霧降文庫カレー」 4日は秋季オープン記念で

 3日から秋季オープンした「霧降文庫」ですが、4日は、先着5人様に「霧降文庫カレー」をさしあげるサービスを行います。
秋季のオープン記念。1日限りのきまぐれ贈与です。ぜひ、おいでください。
 
 あっ、大事なことを。秋季オープンに合わせ、開店時間も13時から19時へ。これまでの11時~17時を、いずれも2時間づつ、ずらすことにしました。
 
 3日は新しく入荷した古書などの整理に追われておりました。4日から本格的な秋のシーズンの「霧降文庫」だと言えるでしょう。
 
 それにしても盛夏の8月の忙しかったこと。集会、デモ、会議、総会、打ち上げ、同人誌発刊とその懇親会などなど、名目は「バカンス」だったが、実質はその逆の夏でありました。
 
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Photo
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「霧降文庫」、オープンしました。 長いバカンスを終えて

Img_2995霧降文庫」(古書店兼図書室)、3日(木)、バカンスを終え、オープンしました。準備が大変で、スタートは午後でした。

9月のオープンは以下の通りです。お気軽にお越しください。

3日(木)...
4日(金)
12日(土)
13日(日)
19日(土)
20日(日)
21日(月)
22日(火)

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2015年9月 1日 (火)

エッセイ 京と (2)(高橋一男) 「序説」第22号、9月1日発刊

社会派同人誌「序説」第22号、本日の9月1日、発行されました。8月29日~30日に那珂川町で同人発刊記念会(呑み会?)を挙行。深夜まで「精神のキャッチボール」を8人で(同人は10人だが、自治会役員の仕事などで2人が欠席)。小詩編「夜ノ森」発(2015年茨木新聞新春詩壇最優秀賞作品)やエッセイなど多彩に。「霧降文庫」にどっさりありますー(編集委員会事務局は日光霧降高原なので)。Img_2804_2
最初は、京と (2)(高橋一男)から紹介します。

京と (2)        高橋一男+ゴン太(耳の湿疹のため今回は休み)

 

狭い階段を下りて地下のお店に行くと満員だったので一階のお店に行った。混雑はしていたが席を譲ってくれた人がいて、しばらくすると水とガラスの灰皿と新しいマッチ箱を店員の女性が持ってきた。

マッチ箱にはCyTwomlyに似た絵が描かれていた。

ぼくはホットコーヒーをお願いした。(先日行ったときには、地下のお店もすいていてコーヒーの他にドーナツとトーストを食べたが最高に旨かった。それから緘黙のマスターの印象もよかった)お店はレンガの内壁で、チョットした湿度とタバコの煙とコーヒーの香りを感じる薄暗い空間で、学生の頃よく行った喫茶店の風景であった。

前に座っている老舗の御主人という感じの老人は先ほど席を譲ってくれた人で、黒いカシミヤのロングのコートにステッキがよく似合い、タバコの吸い方もお洒落であった。

 

 

去年(2014年)の暮れ行った「六曜(ろくよう)社」という三条河原町交差点近くにあるお店で「そこにはまだ昭和の空間があって」、クリシェ的には「ぼくたちの思いっきり青春だった時と同じ空間」があった。

 

1969年(昭和44年)4月15日(火曜日)小雨が降る日だった。

高野悦子はこの店(ろくよう)でオンザロックとジンライムを飲みアスパラを食べた。

彼女の著書「二十歳の原点」には、その日のことが記されている。

「ろくよう」には、もう恥ずかしくていけない、私のすべてをひっかけちゃったもの。

見ず知らずの隣りの学生風な男に、「自然をどう思いますか、青い空、広い海」なんて話かけちゃたんだから。全力投球なんてかっこいいこといってるけど醜い。

肉体的にはたしかに存在しているが一体何なのかよくわからない。私は地道に追求していかなくてはならないと思っている。後ろをふりかえるな。そこの暗闇には汚物が臭気をはなっているだけだ。「ろくよう」に独りで呑みだしてから私はよく笑った。そして泣いた。泣  き笑いのふしぎな感情ですごした。 (二十歳の原点 117頁)

 

 

「ろくよう」でトーストを食べ、吉郎君(石原吉郎)の詩をペラペラ読んで、バイトの時間になったので自転車でホテルへいきました。 (二十歳の原点 167頁)

 

 

「風もない空間にある塵のような私の存在」 (二十歳の原点 168頁)

 

 

日も暮れて川原町通を四条通に向かって歩く、小雨が降っていて年の暮れなので街は混雑していた。数年前からかある一定の距離を歩くと足が、時には腰が痛くなって自分の意志通りに足が動いてくれない時がある、例外にもれず今日も京都で足が痛みだしたので、持っていたビニール傘を杖替わりにした。四条川原町交差点まで行くと左折をして四条大橋まで歩いて鴨川に面していてチョット色っぽくて年老いた西洋建築(ヴォーリズ建築事務所 

1926年竣工)の中華の店に行った。お米がパラパラのチャーハンが旨かった。窓越しに見える鴨川、そしてその先に見える歌舞伎座と祇園の街と東山。この角度から見る鴨川は久しぶりであった。川上にまだのホテルフジタがあった頃、窓から見た年の暮れの鴨川の景色であった。ホテルフジタあった場所には高級ホテルが建っている。街が動いている何かに向かって動いている、京都も例外ではなかった。

ぼくが京都へ行くようになったのは、1980年頃からだったと思う。特に古い街並みや建築が好き、興味があったからではなくて、自分で仕事を始めた(独立)ことで、時間が自由になったことと、伏見稲荷大社での不思議な空間体験と当時夢中になっていた高松伸(建築家)の建築が京都にあったからだと思う。ポストモダン最盛期の時代で、今から思うと、ぼくが15歳の時から教えてもらった建築は機能性、合理性が中心のモダニズムの建築で、それこそが正義の建築だと信じていた。それが独立する頃には大きく変わって過去の時間を建築に塗りこむような建築表現(建築の視覚性)が現れて、何か建築が自由になったようで、建築の大きな可能性みたいなものを、勝手に感じていた。吉田保夫、安藤忠雄そして高松伸、とにかくカッコイイ(cool)建築を設計するのが関西の建築家達であった。(吉田保夫の建築は実際には体験していない)

 

 

1969年(昭和44年)3月16日(日曜日)

きのう、お目ざめの時、空は青空だった。春に近いことを思わせる。ブルーの空と純白の雲、あの雲の中を鳥のようにフワフワ飛んでみたらなんて夢想にふける。「松尾」で食事した。お金もないのに、計二七〇円。「松尾」で知床半島の写真をみて海と原始的な自然にひかれる。それから網走の流氷。青年よ。野に街に出よう!(二十歳の原点、84頁より)

 

 

(今年の六月末の晴れた日)自転車に乗って「松尾」に向かう、烏丸御池近くの宿泊先から東洞院通を四条通りまで行って右折する。このあたりは京都というよりも日本屈指のクオリティーの高いオフィス街である。四条通りを西に向か走る。移り変わる街のシークエンスは作業服姿の人たちが多く見受けられる工場のエリア、高層のマンションが建っていて数多くの人達が住んでいるエリア、それから故郷の国道で前橋から桐生までの間で目にする子供頃から見慣れている気取ってない風景のエリア、約7キロメートルの距離を自転車に乗って途中で感じたことは、ぼくの京都に対するイメージとは違った京都の風景が展開されたことであった。しばらく行くと桂川に架かる松尾橋に着いた。早く着いたので、さっそく松尾大社参道の近くの「松尾」(松尾蕎麦)に行ってみると店主らしき人がお店の前を掃除していた「すいません、お店何時からですか」と聞いてみると「11時から」との返事であった。時計を見るとまだ10時半になるところだったので、近くの松尾大社に行ってみることにした。松尾大社には重森三玲最晩年の設計として作庭(昭和50年)されている庭があることは知っていた。(昭和50年作庭の庭だから高野悦子はこの庭のことは知らないはずだ)同じ重森の作庭の庭でも、平石と苔が市松模様になっているミニマルな東福寺の庭とはちがって、松尾大社の庭は美術的にいうと曲線、自然石(緑泥片岩)を大胆に使った表現主義ぽい庭だった。

 

 

時間も過ぎて、いい時間になったので再度「松尾蕎麦」に行ったがお客さんはいなかった。店内は落ち着いた昔ながらのお蕎麦屋さんで「知床半島の写真」も「網走の流氷の写真」もなかった。46年の間にはお店の改修もあったろう。しかし、天井は当時のままかもしれない、今見ている天井は彼女も見ていた天井だと思うと嬉しくなった。なにか遠い記憶の中にある足利のお蕎麦屋さんにいるような変な懐かしさと同じような時間の重さを感じた。(改修工事では壁の変更は一般的であるが天井には手をつけないことも多い)店員の女性が水を持って来てくれたので、山菜そばのセットをお願いした。関東の人には考えられないくらい、透明で味のうすい汁の山菜そばではあったが何年も塩分控えめの生活をしている、ぼくには上品な味でたいへん旨かった。

 

 

松尾公園に散歩にいった

タバコをもっていった。

吸いたいと思ったし 外で吸うことも恐れた

吸わなかった  (二十歳の原点 41頁より)

 

 

「松尾公園」へ行こうと調べたがよく分からなかったので、松尾橋を渡った左側にあったコンビニで聞いてみるとたまたま地元の方でいて、親切に教えてくれた。「松尾公園」とは松尾橋から渡月橋までの桂川に沿った嵐山側の河川敷の緑地帯ことで、「嵐山東公園」だということが分かった。ぼくはタバコを吸った。まわりには誰もいなかった。46年前、彼女もこの公園で同じようにタバコを吸い、青春を苦悩し、美しい夜空の星を見ながら故郷の西那須野のことを思ったこともあっただろう。同じ街の川でも、桂川と鴨川では表情というか、風景というか、あきらかに何かが違うような気がした。今、この場所にある住宅、お店、集合住宅、事務所、などの建物の多くはこの46年の間に建て替えられていた。46年という時間が意味するもの、そして認識させてくれるもののすべてが街の風景となって、ぼくの目に映った。

 

自由のしるしよ 煙草よ 眼鏡よ  (二十歳の原点 46頁)

 

屋上から町並みを眺めると四方を山に囲まれた箱庭のような京都の町がある。せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばかばかしいほど密集している小さな存在。 (二十歳の原点  206頁)

 

屋上から眺めるマッチ箱のような家々に生活している人々なのです。 (二十歳の原点 207頁)

 

その日は、夜のアスファルト道路をスカボローフェアを口ずさみながら歩いて下宿に帰ったのを覚えている。 (二十歳の原点 216頁) (1969年6月21日) 

 

 

個々の建築には他者に対して影響を与える磁場(引力)と建築の質である磁束密度があると自分勝手に考えている。

 

左京区の一乗寺駅の近くにある「恵文社」(恵文社一条寺店)という本屋さんへ「街を変える小さな店」という本を買うために行った。本はどこでも買えるが著者(堀部篤史)がこの本屋さんの店長であったことと、本のタイトルからこの本屋さんがどんな場所にあって、どんな人たちがいて、どんな磁場、磁束密度を出しているのか感じてみたかったからである。以前この本屋さんの道路を挟んで反対側には京一会館という映画館があって、開館時間前には若者の列できたらしい。今でも街には当時の余韻(昭和の風景)があって、「こころ旅」の火野正平のようなファッションを売るお店、小さなパン屋さん、小さな食堂など個人のお店が目立ち、無理のない普通さが街に集まる多くの若者たちに受け入れられている。そして帰りには、自転車に乗って寺町通沿いで御所の南にある三月書房で「70年代のノート(田家秀樹 著)」を買った。

 

本屋さんで思い出すのは、子供の頃お年玉を貰うと市内循環のバスに乗って田舎から都会にある「換乎堂」へ行った。換乎堂は群馬県庁や前橋市役所に近く、国道50号線に面していた。高校生になると学校帰りに「換乎堂」の2階にあったギャラリーで初めて見るアバンギャルドの美術の世界に興奮し、「換乎堂」の知的空間を体験した。

換乎堂は白井晟一(建築家、京都生まれ、1905-1983)の設計で1954年に竣工していて白井晟一著「無窓」の中で、「換乎堂」にふれている。「文人社長たる施主はいかなる夢をもちどのような造形を建築家に期待されたのであろう」「施主はだまって設計者にサイコロをへらせた」そして「半年の間の知遇への追懐が心たのしく残っている」という施主に対するリスペクトの文章で終わっていた。

恵文社一乗寺店も換乎堂(白井晟一の設計した換乎堂は現存せず)も本屋さんという共通点だけでなく、存在そのものが持つ、街に対しての同じような磁場(文化)を強く感じた。

 

 

diatxt number 09「特集」<京都イメージ>をめぐって 京都芸術センター  「住友文彦」氏の連載「情報と美術」が印象に残った。カッセル・ドクメンタ11のことから始まり20世記の美術(美術館コレクション)が大まかな分類で巨匠を見つけだすことができるような展示方法がとられている。ことや20世紀の美術が外界や概念の再開―表象という表現モデルを破棄して、見えるもの/見えないもの、すなわち、経験的なもの/超越的なものという2項対立の無効化であったと考えたこと。それから、実験工房の結成(1951年)メンバーのひとり秋山邦晴がアーネスト・サトウの助手をしていたこと、実験工房のメンバーのほとんどが美術や音楽のアカデミックな教育を受けず、団体にも属さないでCIE(民間情報教育局)図書館(開架式)で知の情報を得て同時代の日本美術にはない作品を構想したことなどに深い興味を持った。

カッセル・ダクメンタの国際展は実際に見たことはないが、1992年のカッセル・ドクメンタ9ディレクターのヤン・フートのことは知っていた。1986年ベルギーのゲントで彼が企画したジャンブル・ダミ(友人の部屋)展、50ケ所の住宅を会場として、51人のアーティストが作品を制作した国際展は住宅を外部に開き、限られた期間ではあるが、住宅が公共的な空間となり、個々の住宅の磁場がお互いに繋がり面となって大きな平面(床面積)を持った美術館になった。街と住宅の関係性(可能性)に興味を持った。アーネスト・サトウ(1927-1990)は父親が群馬県生まれで、京都「俵屋」の当代主人、佐藤年さんの夫で「新即物主義」の系譜を引く写真家でもあり、彼の作品「リバーサイドパーク、雪の朝」は絵のようなアメリカの風景の静けさそのものが表現されていた。

 

 

参考資料

二十歳の原点 高野悦子著 (株)新潮社

diatxt.09 「特集」<京都イメージ>をめぐって 京都芸術センター (株)星雲社

街を変える小さな店 堀部篤史著 (株)京阪神エルマガジン社

美術の解剖学講座  森村泰昌著  (株)平凡社

俵屋の不思議  村松友視(ともみ)著  (株)世界文化社

 

編集後記

 

同人の郡司君と話していると、栃木弁のやさしい言葉の響きから、いつも高野悦子を思い出してしまう。というよりも、高野悦子と話しているような錯覚に陥ってしまうのです。栃木弁を話す漫才のU字工事とはちょっと違って、もっと色っぽくて知的なのです。郡司君は学生の時、彼の下宿で、ヨーゼフ・ゲッペルスの話をしてくれました。郡司君は栃木ネイティブ(今までの生活の場が栃木県内だから)なのです。高野悦子も京都の立命館大学へ入学するまでは郡司君のようにやさしくて知的な話し方をしていたのでしょう。

 

高橋一男

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