もはや行き着く先が見えてしまったような今日では 『終わり方の美学」
「二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに膨大であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。」
これだけ絶望していたとは。今回のこのエッセイ「私の中の25年」から。「事件」が(今、スラヴォイ・ジジュクの「事件!」を読んでいる途中だったので、思わず)起きたそのわずかか4カ月のこと。その日は1970年11月25日、45年前のきょう。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室を占拠、バルコニーから檄文をまき、大演説を行ってから、「盾の会」の会員の介錯により切腹した。そう、作家・三島由紀夫。45歳だった。
冒頭にあげたのは、帯文に「生誕90年、没後45年…三島の遺した日本人への伝言」とある徳間文庫カレッジの『終わり方の美学 戦後ニッポン論考集 三島由紀夫』(高丘卓編)から。「二・二六事件」のとき、三島は「事件」が起きた現場周辺にある学習院の初等科の11歳の少年だった。この文庫には、それらについて、自身の口から語られているエッセイ「ニ・二六事件と私」もある。少年の衝撃は容易に想像できるが、三島少年が感じた当時の空気や感覚が書かれているのが、興味深い。というか、後年の三島がいかに「二・二六事件」を生きてきたか、その証言になっている。
三島が学習院出身なのは知っていたが、その日の学校のことが書かれていたのは、今回初めて知った。これまで三島の良き読者ではなかったので、当然といえば当然だ。以下は本文から。
その日、登校した私と級友である子爵の息子とのやりとりも、貴重だろう。
「総理が殺されたんだって」
と声をひそめて囁くのをきいた。私は、
「ソーリって何だ」
とききかえし、総理大臣のことだと教えられた。
世に出たのは1966(昭和41年6月「英霊の声」)だが、そこで三島は「鬱屈」が日ましにつのってきている状況を伝えながら、「二・二六事件」の青年将校の歎きに思いをはせる。その心情が「憂国」などを書かせた背景であることがうかがえるようになっている。
「徐々に目的を知らぬ憤りと悲しみは私の身内に堆積し、それがやがて二・二六事件の青年将校たちのあの劇烈な慨きに結びつくのは、時間の問題であった。なぜなら二・二六事件は、無意識と意識の間を往復しつつ、この30年間、たえず私と共にあったからである。」(折々の<状況>その37)
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