死を公言し、実行してしまった 三島由紀夫について『1968年』

その『1968年』にやはり三島が登場、というか、1970年11月に自決する三島は欠かせないだろう。そこに難しいが、考えさせられる彼・すがの見方が示されている。いわくー・
「遺作の『豊饒の海』も、、まさに一連の偽史的な『年代記』ものであった。しかも、三島はそうした『虚構』=ヴァーチャルリアリティを打ち破るのが死だと公言し、そのことを自ら実行してしまったのである。」
これ以下は、村上春樹が最も下敷きにしている作家が、三島由紀夫だとする指摘などを示したうえで、「だとすれば、三島由紀夫と70年代の7・7以降の偽史的実践運動の差異はどこにあったと言うべきであろうか」と。
「だとすれば」いうが、その意味はそのままでは、わからない。「最も難しい批評家」と評されているだけになおさら。今は、こうした指摘が「1968年」の中にある、そのことを紹介してみたかったのです
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