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2016年2月28日 (日)

「事件」。。。。新しい何かが突然に 「詩と思想」3月号「詩人の眼」

Img_6249 「詩と思想」2016年3月号 「詩人の眼」原稿 (2015年12月20日) 「事件」・・・・新しい何かが突然に  

                                黒川純
 私たちは、今、いや、今も、「事件」でいっぱいの世の中にいる。それも表層でも深層でも。飛び込んでくる事象だけでなく、眼を大きく見開くことで視えてくるそれも。あれから5年目を迎える東日本大震災・福島第一原発事故、それはもちろん、芸能人の最新スキャンダルも、暴力的な政治変動も、さらに個人的な決断も「事件」だー。スロヴェニア生まれの思想界の奇才と呼ばれる、スラヴォイ・ジジェクは『事件! 哲学とは何か』で、これらをあげたうえで、事件の定義のひとつを示す。「事件とは、すべての安定した図式を覆すような新しい何かが突然に出現することだ」、あるいは「事件とは、何よりも原因を超えているように見える結果のことである」と。
 
「原因を超えているように見える結果・・・・」の例として、『事件!』は、恋に落ちた例をあげる。これなどはだれもが胸に手を当てれば、「なるほど!」に。「私たちは特定の理由、(彼女の唇、あの微笑み、など)で恋に落ちるわけではない。 すでに彼女に恋しているから、唇やその他が私を惹き付けるのだ。だから、恋愛もまた事件的である。恋愛は、事件の結果が遡及的にその原因あるいは理由を決定するという循環構造の好例である」
 
 
「新しい何かが突然に出現する・・・」、その典型的な場面に2015年秋、私はたまたま立ち会っている。というか、私の体感をそのまま言葉で明らかにした素晴らしいスピーチを会場で聴いた。東京・代々木公園で開かれた「9・23 さようなら原発さようなら戦争全国集会」。檀上で、上野千鶴子(東大名誉教授)は、感慨深そうに、それでも、「一語一語」をていねいに、いわば、この時代を「総括」した。「70年安保」(もう45年前にもなる!)に関わった彼女はメモを片手にこう語っていた。 「私たち70年安保闘争世代は闘って負け、深い敗北感と政治的シニシズムの淵に沈み込んだ。しかし、2015年夏の経験は40数年間続いた政治的シニシズムを一掃したと私は確信する。議会の配置に変更がない以上、どんなに運動しても議会の中の結果は見えていた。だが誰もあきらめなかった。それどころか、日に日に路上に出る人が増えていった。まっとうなことをまっとうに口にしてよい、そういう時代がきました!」
 
キイワードの「政治的シニシズム」とは、この場合、「お前たちは何てバカなことをやってんだ!」という斜に構えた、我関せずの「冷笑主義」といったところ。72年初春に発覚した「連合赤軍事件」などを契機に潮が引くように去っていった「政治事件」が、昨夏、「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)を先頭にした若者たちの躍動で、再び世の中へ。戦後70年続いた「この国のかたち」を根底から変える「戦争法」を立法化させた政権に「新しいコール」で初々しく抗議。その力が学者、高校生、ママへと広がった。
 
  作家で明治学院大教授の高橋源一郎は、「SEALDs」メンバー、明治学院大4年の奥田愛基くんを取り上げた「朝日新聞be」(2015年12月19日付)で、「政権へ異を唱えたいと思う人が増えてきたとき、彼らが〃着火剤〃の役割を担った」と評価している。その「SEALDs」のメンバーと語っている『民主主義ってなんだ?』で、彼、高橋源一郎は、上野千鶴子が語った「まっとうなことをまっとうに口にしてよい時代」を、柔らかく言い換えている。別の言葉だが、意味するところは同じだ。
 
「ふつうのことが、ふつうに行われ、風通しのいい社会に」と。 「ふつうの子たちが、ふつうに生きていて、社会がおかしくなったと思って、なにかしなきゃならない、って思って、いろいろするようになった。そのふつうのことが、ふつうに行われることが、長い間、ふつうじゃなかった、ってことの意味も、ぼくは考えていた。彼らは、風通しのいい社会になったらいいのに、と思って、運動を始めた。そのことに、ぼくは、深く共感している」(『民主主義ってなんだ?』「はじめに」)
 
「事件」は、「戦争法」抗議以前から起こっていた。反原発首都圏連合が官邸前で始めていた毎週金曜日の「再稼動反対」アクションだ。2012年春から夏へ。数百人、数千人、数万人へ。倍々ゲームのように膨れ上がり、全国各地に次々と飛び火した。私も何度か参加しているこの「事件」についても、高橋源一郎は『ぼくらの民主主義なんだぜ』で、「デモ」について、うまい紹介をしている。市民団体「さよなら原発!日光の会」の代表である私も何度か問われてきたその問題についてのわかりやすい返答だ。 「首相官邸の前に、何万、何十万もの人たちが集まる。そんな風景は何十年ぶりだろうか。長い間、この国では大規模なデモは行われなかったのだ。でも、うたぐり深い人はいて、『デモで社会が変わるのか?』と問うのである。それに対して柄谷行人は、こう答える。『デモで社会は変わる。なぜなら、デモをすることで、《人がデモをする社会》に変わるからだ』」。
 
「ふつうの子や人が、まっとうなことを、まっとうに口にするため、ふつうに集会やデモを行う」。今や、そういう新たな時代に入った、私はその思いを強くしている。
 
「新しい何かが出現する・・・・」あるいは「原因を超えているようにみえる結果・・・」、その「事件」は、当然、ある種のさまざまな「時間」を伴う。では、「恋」にしても、「デモ」にしても、あるいは、別の何らかの「個人的な決断」でもいいのだが、それについて、それこそ意味深長な指摘をジジュクが『事件!』で語っている。追うのが難しい「時間」についての論考の中で。そのひとつとして、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの「権力掌握時期尚早」論争、もとりあげている。ローザが反論する。「『時期尚早の』攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから」。これらを挙げながら、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」。こう、たたみかける。さまざまなことが想像できる、このフレーズをかみしめることで、「自分と事件」に遭遇することができるのではないか。 
 
「もちろん問題は、行為と言うものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為はそれ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」(『事件!』「真理は誤謬から生まれる」)

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