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2016年8月17日 (水)

47年前、高野悦子は・・・・ 京と(3) 高橋一男+ゴン太

同人誌「序説」第23号(8月1日発行 「霧降文庫」が事務局です)のエッセイから。高橋一男の魅力的な連載です。今回で3回目ー。味わって読んでくださいね。作者は建築家です。読む進めると、「なるほどー」と、なるでしょう。「編集後記」もアップします。

Img_8537_2 京と(3)           高橋一男+ゴン太

 

1969年(昭和44年)2月18日(火)曇 夜半雨

五時頃、ふっと自転車で嵐山に行く。ボートに乗るつもりだったが、時間が遅いせいか、季節外れのせいか、それとも増水のためか、ボート屋は店じまいであった。山陰線のトンネル付近の岩に腰をおろしてラジオのスイッチを入れた。ジャズ、エレキが流れて丁度合った感じであった。川の水は黄土色に濁ってドクドクと流れていた。(二十歳の原点 62頁・63頁)

 

野宮神社を過ぎると坂道の竹のトンネルが続く、近くには山陰本線のトンネルがあって時々列車の通り過ぎる音が聞こえる。トンネルはお墓に行くための山陰本線に架かった橋の西側に見える。雨降りで平日のせいか観光客は少なかった。だから竹だらけの中、竹

と話ながら坂道を歩いた竹箒の先で作ったような道路との境界の塀、先人が考えた機能であり風景であった。山陰本線嵯峨嵐山駅から一キロ程歩いたろうか、世界遺産に登録されている天龍寺の北側を過ぎて竹林の道も過ぎるとT字路に出た右折すると大川内山荘方面へ、少人数ではあるが歩いて行く人がいたが僕は逆方向にある嵐山公園(亀山公園)の方に向かった公園の歩道は景観のダメージにならないように、表面が玉砂利仕上げになっていて下りの坂道と雨で滑りやすくなっていたために、注意はしていたが思いきり転んでしまったビニール傘は宙を舞った。前方から来た人達の中のひとりが「大丈夫ですか」と声をかけてくれたちょっと嬉しかった。(たぶん中国の人だったと思う。)僕は転がる瞬間に柔道の受身をしていたので、怪我をしないですんだ。それにしても玉砂利は雨の日は滑る、ひとつ勉強になったでも頭を打たななくて本当に良かったと内心思った。(中学生の時、柔道の乱取で投げられて頭を打って記憶がとんだ時のことを思い出した。)雨は小降りになっていたがまだ降っていたしばらく行くと保津川(大堰川)が見えてきた。川の流れを見ているといつの間にかその先の着船場にある屋形船の提灯を突いて遊んでいるカラスの動作がおかしくてしばらく見ていた本当に知恵のある生き物だと感心した。気が付けば雨も止んでいて大きな石(岩)に腰かけていた今年もまだ二月の平日(正確には2016年2月29日月曜日)人もまばらであった。屋形船の川下に渡月橋が見えるさすがに多くの人が渡っている。そしてその渡月橋から川下の川が桂川となる、川岸にはボートも置いてあった。47年前の今頃高野悦子はこの近くの岩に腰かけてラジオのスイッチを入れたのだろう。でも来てみて思ったのだがこの場所は山陰本線のトンネルからは少し離れているし、山陰本線のトンネルの近くには岩を見つけることはできなかったがトンネルはイメージしていた風景の中にあって線路はその中に消えていた。ここに来る途中の野宮神社の黒木鳥居は特徴があって、クヌギの木の樹皮を剥がさないで使用する、日本最古の鳥居様式らしい。この鳥居を見て思ったのは、学生の頃、木(もの)を自然の状態というか未加工の状態で美術の作品を作る美術家達がいて「もの派」と呼ばれていた。僕はそのなかでも菅木志雄という美術家に「もの」の見かた、考え方に関して強い影響を受けた。それは出来事の未完成状態の成立というか、うまく説明ができないが彼が提示してきた数々の未完成作品からであった。その中のひとつに1973年の連識体(Renshikitai)という作品がある。細長い板状の自然石を針金で縛りブリッジにして、四隅にある住宅を建てる時、使われる独立基礎のようなコンクリート製の台にのせられていた。この作品は実際には見ていないが、美術雑誌の写真で見た時の印象(驚き)は今でも覚えている。それはあってはならないような作品の提示で、でもそれが嘘のように新鮮で、「もの」に対するアニミズムの持つ優しい視線みたいなものを感じることができた。その後イタリアのジュセッペ・ペノーネやフランスのクロード・ヴィアラという同じような視線を持つ美術家がいることを知り、そして彼らの作品も知った。今になって思うと彼らの存在が僕にとって「ものづくりの基本・発想の原点」になっているような気がしてならない。

 

保津川の流れを見ながら高野悦子がいた京都、そしてあの時から47年も経ってしまったことを考えていた。時間は勝手に過ぎてしまったが、僕はそれ程時間が経ったとは思っていない。彼女の著書(二十歳の原点)からあの時代の京都の風景が見えたし、(イメージできた)街のなかの家のかたちや使われている材料の素材感やその色など、(長い間建築の仕事に関わっていると知らぬ間に、この国の家というシェルターに内在している遺伝子みたいなものが勝手に刷りこまれている)。街を歩いている若者達たちの服装、音楽、など、1969年は多くの若者がフォークソングを歌いギターを弾いていたし、彼女も「高石友也(高石ともや)」のことを書いていた。URCは八月からレコード店などへの直販を始めた。第一回発売が岡林信康と五つの赤い風船、新宿西口フォーク集会のドキュメント「新宿1969年6月」だった。1969年10月21日は“若者の街・新宿”が“政治で燃えた最後の夜だった。(田家秀樹 著・70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~)1969年8月、知人の美術家、加藤アキラさんは京都国立近代美術館の「現代美術の動向」展に招待出品していた。彼女が亡くなって2ケ月後であった。でも彼女は著書のなかで現代美術にはふれてなかった。

 

1951年(昭和26年)に開館した僕と同い年(今年で65歳)の鎌倉近代美術館(カマキン)が3月31日(2016年)で閉館になる前にお別れにいった(鎌倉からはじまった。1951-2016 展)。鎌倉近代美術館は日本で初めての公立近代美術館で日本を代表する近代建築として評価を受けていた。設計者の坂倉準三はル・コルビジェの弟子で、いま話題になっている国立西洋美術館の実施設計にも関わっていた。

僕は朝の10時に家をでて小田急線で藤沢まで行って、東海道本線で戸塚。戸塚からか横須賀線で鎌倉まで一時間くらいかかった。美術館まではそれ程の距離ではなかったので歩くことにしたが到着すると足はガクガクになっていた。美術館には大勢の人がいて大盛況状態、きっと僕と同じように、カマキンにお別れに来たのだろうと勝手に思った。僕は美術館の前にある池のほとりで、朝自分で作ったサンドイッチを食べた。池にうつる美術館の細い柱の感じが二年越しでやっと会えたあのサヴォア邸の柱と重なって見えた。企画展を観て会場の出口近くのショップで過去の展覧会の図録がチョット安く売っていたので、軽い気持ち見ているとエル・アナツイの図録「A Fateful JourneyAfrica in the Works of EI Anatsui」を買った。エル・アンツイは1944年生まれガーナ出身の彫刻家で、世田谷美術館の図書館の図録で知った、以前世田美で展示された「あてどなき宿命の旅路」(1995年)という作品で、どことなく「もの派」的でいいなぁと思った。インスタレーションの作品で使い古された木の台の上に枯れたような細い木が取り付けてあって、しっかりと立っているものもあるが、数は少ないが倒れているものもあった。あとで知ったのだが、台の上の細い木はアフリカでの燃料用の薪で、その薪は女性と子供が集めるとてもハードな仕事でその現実が表現されていた。それからガーナの織物のような作品もあった。役目を終えたアルミ製の瓶の蓋を銅線で繋いでいくと、小さな蓋が集まって大きな面になってタペストリーのように天井から吊るされていて、無数の蓋の色が集まって、不思議なエル・アナツイの世界を作っていた。実はもう一冊買ってしまったディヴィッド・ナッシュの図録「ディヴィッド・ナッシュ展 音威子府の森」だ。ナッシュの作品は時々世田美で見ることができるが、初めて見たのは栃木県立美術館でナッシュが1984年に日光の光徳の奥山でナラ、ニレ、ダケカンバの風倒木に挑んで製作した作品の一部だったと思う。彼は生木を使わず風倒木、立ち枯れ木だけで作品製作をする。死んでしまった自然木に再度生命力を吹き込む作業は、いつ見ても人間と自然との距離感を強く意識させる作品だ。それから図録音威子府(おといねっぷ)という地名だが、それを知ったのは真冬の北海道へSLの写真を撮りに行っていた同人の君島君からだった。雪野原を走るSLそしてその先に海が広がり薄っすらと利尻島が、そして空気まで凍っていた音威子府の写真はすばらしかった。

 

野宮神社の鳥居から君島君の話まできたが、君島君の住んでいる足利は夕日がきれいな街で渡良瀬橋から見る渡良瀬川の流れは以前から桂川の流れに近いものを感じていたし、足利の街も京都の街も同じような重心の低さが僕は好きだった。そんなことを思いながら、保津川(桂川)のボート乗り場近くの岩に座り47年前の高野悦子が見た同じ川の流れと、同じ季節の風を感じていた。

 

東山区の京都国立博物館(京博)内の平成知新館のオープンを知って訪れたが閉館していていたので、今回は開館日を確認してから行った。七条通に面したチケット売り場の南門(ミュージアムショップ)はカワイイ建築だが、1989年に出会ったバルセロナ・パビリオンを思い出させた。バルセロナ・パビリオンは1929年ミース・ファン・デル・ローエが万国博覧会のドイツ館として設計した期間限定の仮設の建築であったが、1986年に復元されていた。水平線が強調された屋根のライン、床から天井までのガラス面、ステンレスの柱、シマメノウ(大理石)、内側から光る(天窓)乳白色のガラスの壁、外部の建物を写す四角形の池、石張りの外部の床など、装飾的なものは一切排除された古典主義的に構成された建築であり、建築の即物的提示は僕にとって強い興味の対象であった。京博の南門とバルセロナ・パビリオンとの共通性は外部の幾何的余白とか外部に使用されている素材の視覚性という表層的なものではなく、建築家谷口吉生の遺伝子の中に隠れているのではないかと思った。父親は、建築家の谷口吉郎(1904~1979年)である。谷口吉郎は金沢市出身で東京国立近代美術館(1967年)や藤村記念館(1947年)など数多くの作品を残した。

 

思い出すのは学生の時、美術部の合宿で木曽へ行った時、藤村記念館を訪れた。梅雨の明けた七月初旬その年は特に熱い夏で、妻籠宿から馬籠宿まで山道を歩いたがあまりの暑さに、道沿いの翌檜(あすなろ)の木の下に嘘のように綺麗な流れの川で水浴びをした。着替えなんかないからパンツも着けず素裸だった。最初は君島君、続いて富岡君、大木君、大橋さん、井上さん、我謝君、僕、後輩もいた。そして翌日、島崎藤村の生家跡にある藤村記念館へみんなで行った。

 

何時だったろう、祖師谷の古本屋で「雪あかり日記」谷口吉郎 著と出会ったのは。本を手に取って開いて驚いたのは紙質で、黄色というよりも茶色に近く、本を開く時に丁寧にしないと紙が破れてしまうのではなく割れてしまった。文字は読にくい昔の漢字で、印刷もあまり良くなかった。とにかく古い本のように見えた。そこには戦後間もない物不足(何でも全部不足)の時代に出版(昭和22年12月25日)されていて、出版社、著者の建築に対する強い意志と運命的な出会いを感じたので買うことにした。読んだことはなかったが本のことは昔から知っていた。

 

著書によると谷口吉郎は昭和13年(1938年)ベルリンにある日本大使館の建物が、新しい都市計画のために改築されることになったので、この機会に向うに行ってはどうかと云うお話であった。もとより私は先生(伊藤忠太)の御厚意に従った。(雪あかり日記 267頁)

 

この本で特に印象に残ったのは石の事と建築家のカルル・フリードリッヒ・シンケルのことであった。

 

ヨーロッパ人の石にたいする美は何であろうか。

ヨーロッパでは人口的な形の美しさが問題になる。天然の肌を有する石から自然の表面をけずり取り、人口的な形の美を作りだそうとするものである。このようにヨーロッパ的な造形というものは、何から何まで加工の意匠と云いえる。水の流れと苔の美しい日本では、庭石のように、石は天然の肌が、賛美される。大理石のような石質の美しいヨーロッパでは石は加工された面が賞美される。だからロダンも云っている。「石の中に光がある」と。(雪あかり日記 81頁、82頁)

 

私は浅春の日、侘助椿の咲く頃、あの竜安寺の庭を訪れたことがあった。また日ざしの強い夏の日、蝉時雨が石の肌にしみる頃たずねて行ったこともあった。済んだ秋の日、雪の降る冬の日にも私はこの庭を見に行った。京都に行く友に是非この庭を見るように云ってやった時、その友は、心の中に涙が流れたと絵葉書の返事をよこしたこともあった。(雪あかり日記 83頁)

 

何時だったか、美術家のリー・ウーファンがヨーロッパで作品に使用するための大きな自然石を探すのが大変だったと美術書で読んだことがあった。

この北ドイツ一帯の低地は、地質学的に氷河でできた地帯だった。(雪あかり日記 64頁)

どうりで、大使館の建設工事場で地下室や基礎を掘る時、敷地のどこを掘ってもさらさらとした鋸屑のような色をした砂ばかりで、石ころ一つ出てこないのに、私は驚いた。(雪あかり 日記 65頁)

 

結局、日本からアメリカへ持って行った庭石を庭師と共に大西洋を渡ってドイツの建設現場へ搬入されることになったらしい。

 

ウンター・デル・リンデンの大通りを、巡邏兵の一隊が、勇ましい軍楽隊を先頭にして、こちらへ近づいてきた。そう、今日は水曜日だった。毎水曜日には、このリンデン街を、巡邏兵の一隊が隊伍をととのえて、「無名戦士の廟」まで進行してくるのが、ベルリンの名物になっていた。(雪あかり日記 89頁)

 

無名戦士の廟(ノイエ・ヴァッヘ)は1816年にカルル・フリードリッヒ・シンケル(1781~1841年)によって設計された。シンケルは新古典主義の建築家で、優れた比例で構成された作品はモダニズムの建築(美学)に影響を与えた。「雪あかり日記」はシンケルの建築を中心に書かれていた。

 

ギリシャ的なものに強い力を認め、今も尚、時代を越え、風土を越えていきいきとした新しい美しさを感ずる芸術的感動の側から、古典を眺めたならば、その古典美を簡単に無視することは容易でない。

現代美術の感情は、その心を深めれば深めるほど、伝統の源泉に心を惹かれ、その伝統の中に、強い力を感じ、それから多くの啓示さへ受けざるをえない。(雪あかり日記 94頁)

 

彼の模倣(シンケルの正しいギリシャの模倣)は決して安易な態度でなく、むしろ謙虚な態度を以て、最高美を探求しようとし学生のように、純真な精進の道を選んだものと云うことができるであろう。(雪あかり日記 187頁)

 

それから、シンケルの後継者(建築家)のことに触れている。ウィーンのオット・ワグナー(1841~1918年)、ペーター・ベーレンス(1868~1940年)、1919年ベルリン大劇場改築をしたハンス・ペルツィヒ(1888~1936年)、ブルーノ・タウト(1880~1938年)、ヴァルター・グロピウス(1883~1969年7月5日)、エーリヒ・メンデルゾーン(1887~1953年)で、ミース・ファン・デル・ローエ(1886~1969年8月17日)の名前がなかったので何故だろうと思った。それからオット・ワグナーを除いて、全てドイツ人のようだった。

 

ちょうど、ベルリンの冬の思い出だったので「雪あかり日記」と云う題をつけてみた。私はヨーロッパの旅行中、いつも「建築」に自分の目を向けていた。いつも私は心を、建築に注いでいた、それで、旅愁をなぐさめてくれるのも建築だった。私は、自分の意匠心が「旅の心」によって、清められるのを感じていた。そんな気持ちを思いだしながら、私はこの日記を書いた。(雪あかり日記 270頁、271頁)

 

南門からアプローチを北に向かって歩いていくと両側に池のある、床から天井までガラス張りのエントランスと本体が石張りの平常展示機能を持つ平成知新館に着いた。平成知新館は南門と同じく谷口吉生の設計で2013年の8月に竣工していた。谷口の作品は東京、金沢、静岡、山形、香川、その他日本各地にあり、ニューヨークにもある超有名な建築家である。東京で見る谷口の作品は他者を寄せ付けない上品なモダニズム建築で、その中でも僕は地下鉄外苑前駅近くにあるオフィスビルが好きだ。でも京都の平成知新館は京都と云う場所的な背景もあってか貴族的なモダニズム建築に昇華しているように思えた。天井の高い暗い展示スペースには国宝が数点展示されていた。その中でも雪舟が晩年現地で実景を写したと云う天橋立図(あまのはしだてず)の存在感にはただ感動した。それから展示スペースの西側にあるレストランの庭園を見ながらのランチ(カレーライス)ではちょっと贅沢な気分を味わった。

 

御所の南西角にある和風造りの交番を通りの反対側にあるマクドナルドの2階から見ている、以前この場所には本屋さんがあったらしい。

 

私は自転車で出かけました。とても天気がよかったから。バッグに「日本歴史」「山本太郎詩集」をいれて、チリンチリンと鈴を鳴らしながら出かけました。堀川今出川の交差点まで。

青木書店にいって、お料理の本、ジャズの本、詩の本、写真の本を立ちよみし、「現代の理論」と「海」を買いました。喫茶店「マロン」に入ってコーヒーとトーストを食べました。

ファイト十分になったところで「マロン」を引きあげ広小路にいきました。(二十歳の原点 132頁、133頁)(1969年4月22日)

 

外人の家族が隣に座った。しばらくすると金色の髪をした子供たちは楽しそうにハンバーガー、ポテトフライを食べコーラを飲みだした。彼らにとってマクドナルドは落ち着ける場所なのかなと思った。「マロン」という喫茶店はマクドナルドの隣にあった。そして僕がいるこの場所に青木書店があった。僕はマクドナルドを引きあげ御所の中を通って広小路まで行くことにした。高野悦子も見ただろう九条池も仙洞御所の塀も清和院御門も47年前と変わっていないと思った。でも広小路に立命館大学はなかった。

1968年パリから始まった若者達の異議申し立ての振動は京都まで届いた。1969年彼女はそんな振動する京都の街で、思いきり青春を燃焼した。高野悦子がいた京都。

 

 

柴犬のゴン太です。お久しぶりです。ゴンも今年の7月で10歳です。人の歳だと兄ちゃんと同じくらいだと思います。ゴンも爺さんになってしまいました。

ゴンは兄ちゃんと一緒に去年から今年にかけて北陸へ行ってきました。去年の9月には富山県高岡市の金屋町の古い街を歩きました。ゴンは背が低いから道路からの反射熱が熱かった。帰りに金属で作られた大仏さまに寄りました。みんなが大仏さまの中に入っているので、ゴンも入ろうとしたら注意されてだめでした。でもお昼に食べたカレーうどんの鶏肉は旨かった。11月には石川県輪島の先の朝ドラ「まれ」の舞台になった大沢町へ「間垣」と云う季節風を防ぐための垣根(塀)を見に行ってきました。それから今年になって富山県射水市新湊地区へ運河越しの街並みを見にも行ってきました。

 

兄ちゃんはゴンの目を見て「もうゴンにも兄ちゃんにもネクストはないから、出会ったものをよく見ておくように。」と話していました。

ゴンは犬だけど風化した木の壁、錆びたトタンの屋根や壁の古い家が山や空や海と同じようにあって、人や動物が自然にそして普通に生きている街が好きになりました。

 

 

参考資料

二十歳の原点  高野悦子著  ()新潮社

雪あかり日記  谷口吉郎著  東京出版(株)

70年代ノート~時代と音楽、あの頃の僕ら~  田家秀樹著  毎日新聞社

 

 

編集後記

詩人で表現者の春山清さんが亡くなりました。

「知的好奇心と創造力の欠如は罪悪です。」は春山さんの言葉でした。

 

美術家の八田淳さんが亡くなりました。八田さんは京都の方でした。

「針金八田富士」は印象に残るすばらしい作品でした。

 

 

僕は僕なりに自由に振るまってきたし

僕なりに生きてきたんだと思う

だけどだけど理由もなく

めいった気分になるのはなぜだろう

思ってる事とやってる事の

違う事へのいらだちだったのか

(吉田拓郎の唄で「まにあうかもしれない」の一部。作詞/岡本おさみ 作詞/吉田拓郎 編曲/鳥山雄司)人気ブログランキングへ励みの「いいね」をお願いします。ブログランキングに参加しております

 

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