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2018年1月29日 (月)

出撃9回、命令に背き、生還を果たした特攻兵 「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」

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出撃9回、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた・・・

「不死身の特攻兵 軍神はなぜ上官に反抗したか」(鴻上尚史)

 

 1944年11月の第一回特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた・・・。というオビだが、<そんな特攻兵がほんとにいたのか?、どうして生き延びたのか?>。そんな興味津々の本、「講談社現代新書」を劇作家で知られる鴻上庄史さんが発刊していた。2017年11月20日第一刷だが、2018年1月12日第6刷までいっている。特攻兵物語は数多いが、これはとくに異色だ。

 佐々木友次(ささきともじ)、当時21歳。9回出撃して、9回とも帰っている。というか、生還している。上官は?、同僚は?、国は?、さまざまな疑問に答えているが、作者が特に知りたかったのは、そんな生還の気力、どんなことが背景になって、生き残ることができたのか?。

 繰り返しのインタビューを経て、鴻上さんは、以下のように書いています(同書207頁)

 

何度も何度も、友次さんの強さの秘密を聞きました。同じような質問を何度もしました。じつは、僕はあまり信じられませんでした。念仏を唱えているわけでもなく、お守りを信心深く持っているわけでもない。けれど、「寿命」という言葉は強く響きました。そう考えるしかない、というのは分かるような気がします。人間は、自分の想像を超えたことに直面すると、運命とか偶然とか寿命とかを考えるようになる。けれど、その運命や偶然を呼び込んだのは、友次さんの「空を飛ぶことが大好き」という強烈な思いと行動なんじゃないかと思いました。いろんな要素、「岩本大尉の命令」や「父親の言葉」や「先祖や仏様」や「母親」や「飛ぶことが大好き」という思いが、9回出撃で9回の生還という奇跡を生んだのでしょう。それは、「寿命」で、「寿命」は自分で決めるものではない。しかし、思います。『万朶隊(ばんだたい)』(ウイキペディアによると、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊、万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味)で最年少の21歳の若者が、体当たりの命令に背き、けれど逃げずに戦い、生き続けた姿勢は、「戦争中の日本人」というイメージからはるかに離れていると。

 

 9回の出撃の状況は、この「不死身の特攻兵」を読んでもらうことが一番だ。・当然の疑問は、「死んでこい」という命令に9回も背き、その度に生還してしまうことに対する上層部の批判、反応だ。そのこともかなり書かれているが、<もっと深い情況、事実があるだろう>と、読んでいたら、やはりという箇所があった。命令に何度も背いてきた特攻兵に対する「銃殺」である。それも「刺客」による殺害だ。この本では、その模様を以下のように語っている。背筋の凍るような当時の動きだ(同書、157頁)

 

佐々木はフィリピンのカンルーバン捕虜収容所で、読売新聞の鈴木記者と再会する。戦争中に何度も話した相手だった。鈴木記者は佐々木が生きていることに驚いた。鈴木記者は「佐々木、お前、殺されることになっていたのを知っているか」と話し出した。第四航空軍は佐々木と津田少尉の銃殺命令を出していたと、鈴木記者は続けた。大本営発表で死んで者が生きていては困るから、そんな命令を出したのだと。佐々木は驚き、信じられなかった。鈴木記者はさらに、第四航空軍の命令は、第四飛行団の猿渡参謀が実行するはずだった、と説明した。二人を分からないように殺すために狙撃撃隊まで作っていたと、「俺達新聞記者もエチャーゲの山の中にいたが、近くの地上勤務の兵隊が怒ってね。特攻隊の狙撃命令を出すとは何事かというわけだ。佐々木達を守れというので、狙撃隊を見つけて応戦しろと騒いでいた。日本が降伏したので、佐々木達も命が助かったようなものだ」

 

佐々木友次さんは生きて終戦を迎え、内地へ。北海道の大地に暮らし、2016年2月9日、呼吸不全のため、札幌の病院で亡くなった。92歳だったという。鴻上さんのインタビューは亡くなる3カ月前まで行われたとある

(ウイキペディア)

万朶隊(ばんだたい。萬朶隊)は、日本陸軍航空隊初の特別攻撃隊である。1944昭和19年)1021日、鉾田教導飛行師団で編成された。装備機種は九九式双発軽爆撃機。日本陸軍では、1944年前半頃から航空機による艦船への体当り攻撃を検討していた。海軍機と異なって対艦攻撃を本来の任務としてこなかった陸軍航空隊では、艦船攻撃用の新戦術を必要としており、跳飛爆撃と並んで体当りが検討されたのである。

7月末には、機首に起爆装置を取り付ける特攻用九九双軽の改装も着手された。現場が自発的に体当たりを行う例も出てきており、同年1019日には中尉阿部信弘(元総理で当時の朝鮮総督だった阿部信行の子)以下3機がイギリス艦隊に体当たりして航空母艦1隻大破・駆逐艦2隻撃沈と認定されていた。1017には海軍が最初の組織的な特別攻撃隊を編成し、21日から出撃を開始していた。

こうした状況下で、1021日、陸軍も特別攻撃隊の編成に踏み切った。鉾田教導飛行師団で編成された部隊(後の万朶隊)と同時に、浜松教導飛行師団において四式重爆撃機装備の特別攻撃隊「富嶽隊」も編成されている。いずれも飛行学校改編の教導飛行師団の精鋭が投入された。鉾田の特別攻撃隊隊長に任命された陸軍大尉岩本益臣は、それまで教官としてもう一つの新戦術である跳飛爆撃研究を行っていた。

編成された特別攻撃隊は4航空軍の指揮下に入り、1029日にルソン島バタンガス州リパへ進出し、現地で「万朶隊」と命名された。万朶とは多くの花の枝、または多くの花、という意味である。しかし、出撃前に移動中の敵戦闘機との遭遇などで損害を受け、115、岩本が出撃叶う前に戦死してしまう。それから1週間後の1112神風特攻隊に遅れること3週間の後に4機が初の特攻出撃を行い、以後12月までレイテ湾へと出撃を繰り返した。多数の戦果を報じたが、事実は不明である。

大部分は戦死したが、佐々木友次伍長は機体故障での途中帰投や通常爆撃による攻撃などを9回以上行い続けるも、かろうじて唯一生存した。佐々木はその後のミンドロ島方面への出撃でも生還を果たし、ルソン島で生きて終戦を迎えた。

特別攻撃用に改造された当初の九九式双発軽爆撃機は、空中で爆弾が投下できない状態になっていた。鉾田からルソン到着までの間に陸軍航空審査部に立ち寄った岩本大尉は、爆弾の安全装置離脱と緊急時の爆弾投下を可能にする助言説明を受け、レイテ出撃までに飛行機には最小限の安全措置改修が加えられていた




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