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2023年8月15日 (火)

エッセイ 会津鉄道の観光列車に乗りました  同人誌「序説第30号」安斎博

同人誌「序説第30号」(8月1日発行)

会津鉄道の観光列車に乗りました    安斎博

 

会津鉄道の観光列車は、市街地を走り抜けると、やがて田んぼの真ん中を走り始めるのです。休みをめがけてこの列車に乗ってみたいと言い出したのはもちろん奥さんです。それを嫌がっているのではありません。何故って、その誘いがなかったら絶対と言っていいでしょう、さしたる用事のある筈もない会津鉄道の列車に乗り込む事はないからです。奥さんに誘われたから乗れた、と言うのが正直な処なのです。真逆の好みと好奇心からの誘い程突飛で斬新で心踊る事はありません。

 会津若松から南へ、田島を越えて栃木の銅の採掘で名を馳せた足尾へ、日光から浅草へと繋がっているというのですから、不思議を通り越して頭を捻って考え込んでしまう路線なのです。よくもまぁ繋げたものだと、驚いて感心する以外感想はありません。

 山がすぐそこまで迫っている風景は、東北本線の沿線で生活している人間には珍しいばかりの眺めです。列車に乗って窓に顔を近づけて上を見上げなければ山の頂が望めないなどということは、ついぞ経験したことがないのです。山は、それが那須連峰であれ、安達太良であれ吾妻であれ、ずっと彼方に眺められるものでしょう。山間をぬって走り、曲がりくねった線路を、谷を越えトンネル続きの鉄道など経験がないのです。

そんな会津の山々を眺めながら連想しますに、その新緑の素晴らしさはいかばかりかと想像されますし、紅葉の鮮やかさも感嘆の連続だろうと思われて、経験を越える美しさに思いを馳せて、興奮を禁じ得ないのです。そんな風景を思い浮かべながら、でも、濃い緑の山に抱かれて蕎麦の白い花が咲く風景も又いいと思えて、今の風景も贅沢な景色だと感じているのです。

列車はすぐに上り坂の線路を走り始め、山中へと入っていくのです。雪が多いだろうことは、家々の造りをみれば想像に難くありません。大きな屋根と、太い柱の組み合わせと、白壁の様子は、辺りの風景に入り込んでいて、それは此処会津独特の風景にもなっているのです。版画家斎藤清のちょっと昔風に描かれた思い出の会津の絵と見比べてみても頷けることでしょう。

列車は覆うように逞しく伸びた木々の枝葉をかき分けるように進み始めます。ちょっとした谷間で視界を戻したかと思う途端に、トンネルへと潜り込んでいくのです。次の瞬間には突然に一面の稲穂と蕎麦の白い花が目に飛び込んできたりしてめまぐるしくて楽しいのでした。思い込みから、この辺りは穀倉地帯だと決めていましたから、こんなにもたくさんの蕎麦畑があるとは思いもよらない事でした。その間にまるでおもちゃのように小さな駅が設けられているのでした。

芦の牧温泉駅には猫の駅長さんがいるのです。何でもない猫までもが駅長さんだというだけで人が集まってくる処は世の不思議というものでしょう。駅に隣接して古い車両を改造した鉄道博物館が質素に設けられているのです。その展示物こそ、さして鉄道ファンでなくともひと時心を和ませてくれる懐かしさが漂っていて嬉しいのです。管理をしているおじさんの元気のよさも嬉しいのです。

塔のへつり駅は無人駅です。湯野上温泉駅は日本でただひとつの藁ぶき屋根の駅舎です。その駅前にあるお土産屋兼雑貨屋さんとおぼしきお店は、何十年も前から飾られて売れる事のなかった商品がそのまま、色褪せにもかかわらず埃を被ってずっと展示されているのです。週刊誌で若者に騒がれる関東圏のお店とは真逆のお店といっていいでしょう。一見首を傾げたくなるような不思議なお店といっていいのです。

昔地元の人たちが使っただろうウナギを採るための罠や、わら細工の日傘や、いつ販売され始めた物なのかも分からない玩具がそのままの姿で店に並んでいるのです。覗き込みましたら、ずっと昔、火を点けた炭を入れて使ったアイロンまでもが、古ぼけた紙の箱のまま並んでいるのでした。これなど、若い人たちに説明をしても理解してはもらえない商品でしょう。とにかく、気に入ったものがあったら買って下さい、といった店なのです。

それとなく眺めていましたら、奥からおじいさんが顔を出して、突然に口上を語り始めるのです。『この二つの“起き上がり小法師”は、赤は火、青は水を表していて、赤い小法師は立たせずに寝かせて置きなさい。火を立たせてはいけません。火の用心のお守りです』と唾を飛ばしながら説明し始めるのです。竹で作られたダイコンおろし器、藁を編んで丸く作られた鍋敷き、と次々に進めて来るのです。

その癖こちらが反応を示さないと、言うだけ言ってさっさと口を噤(つぐ)んでしまうところが、お客さん方に嫌われない秘訣なのだと感心させられるのでした。誰もいない店先で、最初の客で、半分サクラにでもなった気分で付き合っていましたら、やがて一人二人とお客さんが寄ってきて集まってくるといった調子です。

列車とすれ違うために停まっている間に、町の法人の制服を身につけたおばさんが、微笑みながら車内販売に乗り込んでも来るのでした。見ましたら鱒バーガーだというのです。『とっても美味しい』と保障するのです。そうまで言われたら是非にも買いましょう。それもまた観光列車の楽しみというものです。しばらくして列車が走り出してから、奥さんとふたり半分ずつ食べながら列車の旅を続けたのでした。

会津の人たちは、我が町から何処へ行けるかを考え続けたのでしょう。此処へもあそこにも行ける道を繋ぎ続けたのです。それは、東北本線の途中にある街の人たちの、偶然にも関東地方と繋がってしまって便利になったと喜んでいるのとは違っていると思います。誇り高く郷土愛に燃えた会津の人たちにとって大事だったことは、此処から何処へ行けるのか、此処へ何処から繋がっているのかが大事な事だったのでしょう。偶然にも道路で繋がったことで納得できる事ではなかったのだと思います。途中の道案内の標識を眺めていますと、首を傾げたくなる程に多くの行先に続く道への案内なのでした。其処へと続く道を願い、作り続けたのです。

列車は観光トロッコ列車で、先頭車両が展望列車、次がトロッコ列車、その後には炬燵が設置できるお座敷列車が続くという楽しい列車なのでした。もちろん、会津に来ていただける人たちを迎えるための列車でもあるのですから、会津に向かって先頭車両が連結されているのは当然のことでしょう。会津からの始発列車は、ですから逆送する形なのです。 

奥さんはひとり、その先頭の展望座席に、運転手さんと同じ目線の座席に座って、『此処がいい』と言い張って、前を見据えて黙って列車に揺られ続けているのでした。運転手さんは、指で運行指令を確認しながら時に汽笛を鳴らし、細かく列車の速さをコントロールさせながら列車を走らせ続けているのでした。

 

 

 

老人の「孤独」について思うのです

 

若い頃に、当時の年寄りがよく『みんな夢のようだ』と呟いていたのを聞いて、単純に時の流れの速さを語っているのだと、そう思っていたのです。でも、自らがその歳になってみますと、そういう解釈はちょっと違っていると思うようになって来ました。

 若い人にとっては、手にするもの見えているもの、触れるものその全てが確かな存在に裏打ちされていて、そのありように何の疑問も持たずにその重さを実感していたのですが、歳をとると、その重みが消えていくということに気がついたのです。

 まずは恋愛感情でしょうか。もうその舞台に自分がいない事を身に沁みて分かった身には、重さを失くし、全てが幻の影に過ぎないと思ってしまうのです。何をどのように細工しても意味がなく、結果ばかりが先に思い浮かんで、少しの満足も見いだせないのです。

 もうひとつ、目の前で起こっている事に対する感覚が、ボケのおじさんの感性のように感じられ始めて、自信を無くしてしまっているのです。若者から、『何だボケのおじさんのボケた感想だ』と思われてはいないかと疑心暗鬼になって、切り捨てられているように感じられて、自分の存在そのものの確かさを失っていくようで辛いのです。何の存在意味もない人間程、空しくて悲しくて無意味なものはないでしょう。

 『老人の孤独』というのはこういう事なのだと、やっと、今頃になって思い知らされているのです。価値の見いだせないことほど辛いものはありませんでしょう。

 あんなにも確かに自分の感性に自信を持って、少しの疑念も持たずに語っていた事が、脆く崩れていくのです。それは自分自身の価値が消えていく事に他なりません。誰をも頼れない事の不安が、肩を頭を腕を足を胸を委縮させるのです。

 何を思っても、何を語っても、どんなに小さな事に対する感想であれ、目の前の相手を納得させられない事には、何の意味もない事なのだと思い知らされることほど辛い事はありませんでしょう。世界が消滅していくのです。

 後はもう自分を閉ざし、何をも聞き入れる事もなく、偏屈な老人だと思われるきりないでしょう。

 若いお嬢さんとの仕事の話の合間に入れた冗談への反応に、ほんの少しの間を感じてしまった事の寂寞感は、どのような言葉で慰められても心に響いて悲しいのです。若者との仕事への取り組みについての意見の違いを、どう説明しても乗り越えられないと思われた時の絶望は、すぐ傍にいる若者との距離を永遠なものに感じてしまう一瞬です。

 その隙間を埋める手段を見つけ出せないばかりか、焦れば焦る程に離れていく事を感じ取った時の空しさは言葉では言い表せない程の悔しさです。愛想笑いをしているのを感じながら、それに立ち向かえない自分を見つめているのは、悲しいばかりの現実です。

 「いつも元気でいいですね」と言う慰めの言葉の空しさが心に響いて取り返しもつかないのです。国に対する感覚も、政治に対する期待も願望も、仕事による生活のやり方も、大きく見て人生についての指針も、何もかもがすれ違っていて会話が成立しないのです。そのまま又、何食わぬ顔で、いち社会人として付き合わなければならない関係が、年上の自分を孤独にし続けているのです。こんなふうに人は現実から無視されていくのだという事を、否応なく思い知らされていくのです。

 「もう、大体いいことにしましょうか」

諦めは空しさの上に成り立ち、悲しさの上に存在させられているのです。

 こうすればもっとよくなると信じてやってきたのです。それがある日、その自分自身が相手にどのように見えているのかを考え始めたのです。それは相手のちょっとした視線の外し方が気になったからです。大した事ではないと言えばそのとおりなのですが、一度気になり出せばもう無視する事は出来ないでしょう。

 相手の脳裏に映し出されているだろう姿への不安から、今までの世界が事もなく崩壊していくのです。

 

 

松任谷由美のコンサートに行ったのです

 

 新潟には万代島美術館があるのです。アメリカの写真家、ソール・ライターの作品展示会が催されていました。1950年代のニューヨークを撮り続けた写真家です。会場には多くの作品が展示されていました。痩せ細って貧相で、スタイルがいいと言われるファッションモデルたち。街角の風景と、その街角に佇む男達、女たち。店のガラス窓に、まるで四方形に切り取られたように半透明で映し出されたった労働者たち。ベンチに座っている女の、ハイ・ヒールを履いたまま投げ出されている、その足だけを切り取って写し出しているのです。車内から撮られているとは気がついていないままの、窓の外側に繰り広げられる人々の生活。ヌードのモデルたちのタバコをくゆらせながらの何気ない有様には、今の自分への不満と、それに負けまいとしながら男のように強がってみせる彼女たちの怒りが滲み出て写しだされているのです。

 加えて、中折れ帽を被って疲れ切った、夢に破れたと思われる男たちの群れなのです。そこには隠しようのない絶望が滲み出ています。もちろん、夢が実現して高笑いで生きていた人たちもたくさんいた筈なのですが、それらの人々の事はソールのレンズには映し出されてはいません。

しかし、アメリカ、1950年代といったら対戦に勝利した自由主義国の一番華やかで希望に満ちた時期であった筈なのです。それが、報道されている記事とは真逆の、厳しい事実に打ちのめされた人々の溢れた街にきり、彼、ソールには見えていないのです。語り切れない不幸があふれ出ている街にきり見えていないのです。微かに心を癒してくれるのは、あどけなくこちらを見つめている少女の表情くらいのものなのです。

 画面を自由に切り取って、それらに思い思いの画像をはめ込んだ現代の絵画の絵画論の発祥の経緯を、街の四角いショウ・ウインドウに写しだされて切り取られた風景で確認しながらも、其処に写された人々の顔には、一欠けらの明るさや希望といったものをも見出せないという、矛盾とも思える乖離なのでした。語られ報道された理想とはあまりにもかけ離れた現実で絶句させられて辛いのでした。

 最近流行りの、その実、実際には随分昔に作られたと思われる、軽やかなダンスを伴って“カモン・ベイビー・アメリカ”と歌っている歌を思い出します。きっとあの頃の自由で豊かなアメリカに憧れて作られた筈の歌だと確信しながら、何故今、その歌が多くの人たちに支持され共感を得ているのかを考えて首を傾げてしまうのです。アメリカばかりではありません、イギリスの混迷とフランスの現状ともギリシャの有様とも無縁ではない筈です。

処で、今日何故新潟を訪れているのかといえば、松任谷由実のコンサートのためなのです。僅かな時間の合間に訪れたのが、建物の最上階に併設されている美術館でのソールの作品展なのでした。彼の見つめ続けたニューヨークとは裏腹な、豊かで夢みるように歌われたユーミンの歌も、華やかで、自由で豊かで底抜けに明るいアメリカの幻想なくしては成り立たない夢の国の物語なのでした。

 その強く明るく歌われていく歌を聴きながら、灯りが消された暗がりに揺れるペン・ライトの波が、彼女にではなく、混迷を続けるアメリカを含んだ世界そのものへの応援のようにも思えてきて寂しいのでした。そんな不安定さの中にあっても、ユーミンの歌は間違いもなく確かに一人で歩き続けているのです。その明るさと確信こそが彼女の歌が持っている夢に他ならないのです。

 アンコールで歌われた“飛行機雲”を、回りの観客には聞こえないように小声で彼女に合わせて口ずさみながら、その水彩画の風景のように淡く歌われている有様が、心の中で膨らんで溢れ出し、闇の中で年甲斐もなく涙に目を潤ませているのでした。全てが淡い夢の物語な筈なのに、『これからも歌い続けます』と言い放つ彼女の強さが、その風景の中に紛れていくようで嬉しくて、全てを蹴散らし、打ち破って進みそうな松任谷由実の決意が、会場に響き渡って人々の歓喜を呼び覚ますのです。

 植え付けられ抱き続けた、豊かで自由な国アメリカの幻想が、遠く離れたこの場所で人々を夢の国へと導き出し奮い立たせている不思議を見つめながら、淡い色の希望という、ユーミンの不思議に包み込まれていくのを感じているのでした。

 コンサートは、変幻自在なサーチ・ライトの中で、現代のサーカスとでも言うべきシルク・ド・ソレイユのアクロバテックなパフォーマンスも加えられて、たくさんの人たちによって共同で創られている夢のエンターテイメントになっているのでした。

 

 

銀山温泉について一言 

 

山沿いの、田が広がる一本の道を走り詰めた谷の奥に“銀山温泉”はあるのです。それまでは山の中の単なる田舎の風景だったのが、急に駐車場や、道の隅のそこかしこに停められた車が増えてきたと感じた途端に『此処から車での侵入は禁止されています』という看板が設置されていて、そこから道路は右脇に反れて尚山の奥へと入り込んでいくのです。道から左へ反れて進みますとすぐそこが憧れの銀山温泉と言う訳です。真ん中を川が流れ、僅かに上り坂になっていて両側にあの、もう日本全国何処でも見ることの出来ない五階建ての木造建築の宿が立ち並んでいると言う訳です。

 この温泉街の何処に今の若者が魅力を感じているのかといいますと『雪景色』だというのです。ちょっと首を傾げてしまう答えと言っていいでしょう。毎年雪が降り生活に苦労している地方に住む身の上としては、好き好んでそんな処へ行きたくなる気持ちが分かるを筈もありません。どちらかと言いますと避けて通りたい事柄に属しているのです。

 真ん中には、この時期大した雨も降った訳でもないのに、小さい川にしては驚く程の水量の水が流れているのです。赤い色の橋が三本もかけられていて、それを渡って対岸へは不便を感じる事もなく行き来する事が出来るという便利さです。でも、昔からの町並みです、車の通行は許されてはいません。眺めていましたら、バイクが使われている事を発見したのです。

 見た事もない昔に紛れ込んだような気分の中を、荷物をぶら下げて目的の宿を探しながら歩いて行きますと、現代とは違う昔に紛れ込んでしまったような感覚に襲われて戸惑うのです。でも、温泉街の中の宿は十数戸とのことですから、大して迷う事もなくすぐにお目当ての宿を探し当てる事が出来る、という処がロマンチックで小さなテーマ・パークのようで愉快なのでした。

 見つけて玄関を覗き込みましたら、すぐ横に“歓迎”の文字盤の脇にお客様の名前が書かれた案内板が出迎えているのでした。『おお』と胸の内で小さく叫び声を上げてしまいます。長い田圃道を走って来た不安がいっぺんに吹き飛んで安心すると同時に、でもこのまますんなりとお客様になってしまうのがもったいないように思えて来て、もう少し迷っていたい気分になってくるのも楽しいのです。躊躇しながら、どうしてもすぐに玄関の引き戸を引く気にはなれませんでした。『今夜の宿はここで間違いなし』と言う訳で、ゆっくりと辺り眺め始めます。

ポケットからスマホを引っ張り出して画面を覗き込んだまま『宿の町並みをバックに記念写真を撮りましょう』と言う事です。見渡しますと、そんな夕方の時刻の事もありましょう、数人のお客さんが、それぞれ探し当てた自分の今夜の宿の前で、同じようにスマホをかざしてシャッターを切っているのでした。

 それにしても古い様子の建物です。四階、五階の宿もあります。見ましたら、“おたふく”姉さんが裃(かみしも)姿で正座している古い像が玄関の飾り窓の中でお出向かいしている宿もあるのです。表の二階の角の壁面には必ず、創業者の名前の書かれた漆喰の看板が設置されているのです。窓の反対の壁面には花を描いた板のキャンバスが設置されている宿屋もあるのです。その当時としては、豪華な、他には類を見ない飾り看板だったのだろうと想像されて愉快なのです。

 『ずっと昔、この辺りの金持ちの旦那たちの遊び場だったのだろうなぁ』などと勝手に余計な事に想像を巡らしてしまうのです。おなご衆を呼び集めて放蕩の限りを尽くしたのかも知れないなどと思ってしまうのです。『あそこの旦那はこんなふうに金をつぎ込んでいるのだ』などという怪しげな噂が噂を呼んで、競り合って財産の限りを尽くして遊び呆けたのだろうとも思ってしまうのです。でもそれも昔の話です。今となってはそんな事を想像する若者はおりませんでしょう。雪を見物に来たカップルにしても、只々別天地のように眺めているだけのことなのです。それもまた新鮮な眺めと言う訳です。

お客様は自分勝手に、ずっと昔を連想して楽しんでいる老人と、ちょっと若さからは外れた、でもまだ中年とは言えない、昔の若者たちの墨絵のような雪景色への憧れと、若者が感じるテーマ・パークへの楽しみとが三種三様入り乱れ、それぞれが知らん顔で微笑み合っているのです。

やっとのことで宿の玄関を入りましたら、この宿の玄関には人の背丈よりも大きな狸の焼き物が迎えているのです。ロビーいっぱいにたくさんのタペストリーで飾られているのでした。それと吊るし雛の人形や玩具で飾られているのです。昔の旅館です。靴を脱いでまずは挨拶をして入りましょう。

 

この宿とは直接には関わりのない事なのですが、是非に申し述べておきたい事があるのです。それは “源泉かけ流し”が嫌いです、と言う事実です。何故、と言って考えてもみて下さい、当然です、お風呂が熱すぎて浸れない事が多いのです。強く主張します。せっかくに温泉に伺ったのです、お風呂くらいゆっくりと安心して入らせてもらいたいのです。それがどうでしょう、温泉雑誌で“源泉かけ流し”でなければ正規の温泉とは言えません、などと主張しそれが受け入れられてからというもの、その風潮が定着してしまって、風呂の温度は調整されることなく、お客に迷惑をかけ続けていて是正される兆候のないのです。それが当然です、とでも言ったように何の疑問も抱かれないまま放置され続けているのです。困ったことと言っていいのです。怒り出したくもなる有様と言っていいでしょう。呆れるくらいです。

超有名といっていい温泉に行った時もそうでした。熱いのがこの温泉の特徴です、とでも言わんばかりに只熱いのです。水で埋めようものなら、まるで軽蔑でもされそうに白い眼で見つめられる有様です。熱いお風呂が好みの方がいて当然でしょうが、暑すぎるのは体によくありませんでしょう。そこのところを理解して欲しいと切に懇願したいのです。入れないお風呂など意味がありませんでしょう。

 

 

知人が亡くなったのです                       

 

知人が亡くなったのです。でもコロナの時勢です。以前のように何のわだかまりもなく新聞に告知される事はありません。誰に知らせる訳でもなく、身内で葬式が執り行われて、注意していないと、他人には亡くなった事さえも知らぬ間に過ぎてしまう事だってあるのです。その全てがコロナの仕業と言っていいでしょう。

 この伝染病は人々が大事にしてきた習慣や生業や、抱いて守り通してきたその思いまでをも、いとも簡単に壊してしまう、そんな理不尽な力を持っているようなのです。恐ろしい事にその捻じ曲げられた事を正そうとしても太刀打ちできない程の強靭な力で押し返してくるのです。何ともならないもどかしさを感じながら、唯々諾々と従わざるを得ない理不尽さが口惜しいばかりなのです。

 知人が亡くなった事を人伝てに知り得たとしても、日ごろの忙しさの中で気ばかり焦って、お悔やみの一言さえも伝えられぬままになってしまうのです。気になっていながら挨拶も出来ぬまま時間が過ぎて、申し訳ない思いばかりが募って、人を中途半端な気分のまま置いてきぼりにするのです。

やっとの事で花を届けて『家族葬で執り行いました。わざわざありがとうございます』と玄関口でお礼の挨拶をいただくような事にもなるのです。親しくして頂いた方にお別れさえも言えない寂しさが、身を切るように切ないのです。仏前で寂しさを語るのではなく、自分の部屋でひとりその方を思って、もうお会いする事も叶わない寂しさの中で、辛さばかりが耐え難く切ないのです。

 生きていて、どんな時にも人との別れから解き放たれる事がないのを分かっていながら、でも家族の人たちにだけ見送られて旅立っていかなければならない悲しさを思うと、仲間ばかりではなく本人もきっと切ないだろうと想像してしまうのです。一緒にひとつの時代を過ごし、喜びや悲しさを共にして、世話になった仲間が置いてきぼりを食らうことが寂しく、耐え難く辛いのです。

 そんな別れを繰り返すうちに、人は今までに加えて、どんな苦しさを背負い引きずり歩かねばならなくなるのかを思うと、人そのものの在り様をさえ変えてしまうだろうと思えて辛いのです。

 悔しいのですがその方との別れはこのまま取り返す事も出来ないのですが、またいつの日か、以前のように、たくさんの世話になった人たちに見送られての別れを取り戻りたいと、切に願って止みません。果たしてそんな日が戻って来るものなのでしょうか。それはいつの事になりましょうか。いえ、戻さなければいけないと、それでなくてはとてもこの悲しさに耐えられないと感じているのです。

例えそれがどんなに辛い別れであろうとも、せめて知人みんなで分かちあえる、そんな幸せがあっていいと願っているのです。

 

 

会津について

 

会津、磐梯町には恵日寺というお寺があるのです。平安時代、徳一という高僧が開いたお寺です。やがて大きな宗教都市へと発展していくのです。元来コメの生産地であり強い経済力のあった所です。お坊さんの兵隊が千人もいたというのですから、強い政治力をも持った宗教集団だったと思われます。

 その寺が平家の庇護を受けていたと言う事が、後になって災いする事になるのです。源平が覇権を争う事態になり、平家が破れその事でお寺は衰退の一途を辿る事になるのです。

 実は、会津地方に落人部落がある事に気がついていたのですが、その訳がどうにも解せなかったのです。まさか平安京から此処まで逃げてきたわけでもないでしょうし、落人を此処まで追ってきたわけでもないだろうと思っていたのです。やっと解りました。つまり、平家の落人とはこのお寺の関係者なのだと言う事だったのです。

 近日、その本堂が再建されたと聞いて見学に行ったのです。成程大きくて立派な建物でした。もっと驚いたのは、その本堂の周りに、もっとたくさんの建物の土台石が発掘されて残っているという事実です。山全体を覆う程の建物群なのでした。

如何に独立した政府が確立していない頃の事とはいえ、いろんな意味で、兵隊までも持っているお寺の運営には、相当に危ない判断と難しい政治力が必要だったのだろうと想像されて、今とはちょっと違う宗教団体の在り様を思って肩をすぼめたくもなったのです。

知人が以前仕事で訪れて、その落人部落でソバを食べてきましたと教えてくれたのです。成程と納得して、今度は、折をみてその蕎麦を食べてみたいと思ったのです。

もうひとつ語ります。

 猪苗代の町には、どうしたことでしょう、会津藩の初代の藩主、保科正之を祀った神社があるのです。土津(はにつ)神社です。その本殿の裏山を登る事450メートル。きれいに整備された石畳の道で、高い杉林の中をいった先にお墓はあるのです。

 立派な趣のあるお墓です。ただ、初代藩主のお墓が何故此処でなければならないのかが分からなかったのです。会津の、せめてお城の見える処にでもつくるべきでしょう。考えても分かりませんでした。その事を口コミに投書したのです。そうしましたら驚きです。神主さんから返事がきたのです。曰く、『あの場所が会津の鬼門なのです。藩主自らがそれを守っているのです』というのでした。『生前、その事を本人が希望していた』と言うのです。偉い人は違います。加えて、そんな本人の意に反しなかった処も、回りの人たちの偉さでありましょう。

 そしてこの関係が江戸と日光との関係と全く同じものだと言う事に気がついて、涙が出る程に納得したのでした。

ついでにもうひとつ話します。

磐越西線には翁島駅という駅があります。この駅の造りは一見の価値があるのです。と言いますのも、てんきょうかくという、昔皇室の別荘があった関係でその筋の方が此処を訪れる時、もちろん鉄道でいらした訳で、そのために造られた駅なのです。

あおの有様を正確にその様式までをも語る事は出来ませんが、一度見るだけの価値のある建物だろうと思っていたのです。それがこのご時世です。維持が難しいと言う訳で“猪苗代緑の村へと移築されたのです。そしてその場所にはプレハブの駅舎が建てられたと言う訳です。

それはもちろん仕方のない事ですからそれでいいのですが、移築された駅舎は今、食堂に改められているのです。小さい建物なのですが、そうなっていても一目置くべき建物なのでした。皇族の方の待合室には今もまだシャンデリアがつけられていて、昔をしのばせているのです。

 

 

 猪苗代の町には、どうしたことでしょう、会津藩の初代の藩主、保科正之を祀った神社があるのです。土津(はにつ)神社です。その本殿の裏山を登る事450メートル。きれいに整備された石畳の道で、高い杉林の中をいった先にお墓はあるのです。

 立派な趣のあるお墓です。ただ、初代藩主のお墓が何故此処でなければならないのかが分からなかったのです。会津の、せめてお城の見える処にでもつくるべきでしょう。考えても分かりませんでした。その事を口コミに投書したのです。そうしましたら驚きです。神主さんから返事がきたのです。曰く、『あの場所が会津の鬼門なのです。藩主自らがそれを守っているのです』というのでした。『生前、その事を本人が希望していた』と言うのです。偉い人は違います。加えて、そんな本人の意に反しなかった処も、回りの人たちの偉さでありましょう。         

 

 

 会津藩初代の藩主、保科正之のお墓は猪苗代にあるのです。神社の傍らにある長い石畳の道を登り詰めた高所に設えられています。高い杉の林を抜けて登った所の趣のあるお墓です。只、何故此処なのか、何故会津につくらなかったのかという疑問が湧いてきて、それがどうにも理解出来ないまま心に引っかかって落ち着かなくなってしまったのです。

その事を祀っている土津(はにつ)神社の口コミに投書しましたら、驚きました、宮司さんから返事が来たのです。

 曰くPs 、『あの場所が会津の鬼門に当たる場所で、藩主自らが会津を守っているのです』という返事なのでした。何とも思いの溢れた閲話ではありませんか。自ら此処に墓をつくれと言ったというのですから、偉い人は偉いものだと只々感心するばかりです。

 『会津に生まれた者なら一度は尋ねてくるべき処です』とまで言わせる聖地と言っていいでしょう。そんな処にも会津の人らしい頑固な気質と健気さと侍の心とでもいったものが宿っているようで驚くのです。

 

 

会津、磐梯町に恵日寺という宗教都市が平安時代に徳一というお坊さんによって開かれたのです。お坊さんの兵が1000人くらいいたらしいのです。

 その寺は平家の庇護を受けていた事から原平合戦以後衰退しました。その関係であの辺りには落人部落があるということでした。

 細々と寺は運営されていたのですが、後年、仙台の伊達によって焼き払われ姿を消したのでした。近日、その本堂だけが再建されたのです。見学へ行って来ましたら、その本堂の周り一帯に、今はない建築物の土台の石だけが残っていて発掘され、それを見ることが出来ます。辺り一面の建物の様子から、宗教都市の有様を思い描くことが出来るのでした。

 知人が以前、その落人部落でソバを食べてきましたと教えてくれたのです。成程と納得して、今度は、折をみてその蕎麦を食べてみたいと思ったのです。

 

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