私は独りである(高野悦子) 「京と(10)」(序説第30号)
同人誌「序説第30号」(8月1日発行)
京と(10) 高橋一男
https://blog.with2.net/link/?id=1039354
https://blog.with2.net/link/?id=1039354
ダウンロード - link.htme4babae6b097e38396e383ade382b0e383a9e383b3e382ade383b3e382b0.htm
ダウンロード - link.htme4babae6b097e38396e383ade382b0e383a9e383b3e382ade383b3e382b0.htm
2022年11月13日(日曜日)午後ゴンが死んだ16歳だった。
いつかこの日が来ると思っていたが、こんなに辛い日々が続くと思ってもいなかった。共に歳をとってからの別れの辛さを知った。車のシートに刺さっていた一本のゴンの毛がゴンの存在を思い出させた。ゴンとはいろんな場所にいった山形県の鶴岡、真夏のクラゲ水族館ぼく達が館内にいるあいだ中に入れないゴンは弟の登志男と外でまっていてくれた。あの時は熱かっただろうと思った前日は米沢市のペットも一緒に泊まれるペンションに家族みんなで泊まったのは初めての体験で、とにかく楽しかった。ぼく達にとってゴンは柴犬のペットである前に家族の一員であり時間はかかったが家族が話す言葉の多くは理解していてくれた。コロコロ(手押し車)での散歩「兄ちゃん大丈夫か」と後ろを振り返りながら首に繋いであったリードを力強く引っ張ってくれた夏の日、公園の水飲み場の水栓を親指で押さえると綺麗な虹がゴンの背中の上にでき、小さな水滴がゴンのからだ中を覆い、キラキラと光った。家に帰る道でゴンが止まってリードを引いても動かないゴンが帰ろうとしたプログラム(道順)と違ったからであった。これもゴンとの対話で意志疎通の時であった。
うしろから見ているとお尻を左右に振り尻尾は太刀尾で凛としていて風に揺れていた。散歩コースは決まっていて、ゴンが主導権をとって、ぼくはそれに従ったその関係は季節が何度変わっても同じであった。
ゴンが死んで序説で何を書いたらいいのか分からなくなってしまった。ぼくの生活の中にいつもゴンがいた。だからゴンが逝ってしまってから4か月になるがペットレス症候群のまっただ中、ゴンと歩いた街の景色が蘇える「あぁー」もうゴンはいない。
「二十歳の原点」高野悦子 著より(新潮文庫・たー16-1 株・新潮社 平成22年2月15日51印)
一九六九年一月二日
「卒業までには花嫁修業をしろ、お茶、料理、車の免許」(6頁)
現在ぼくの住んでいる前橋(群馬県)では車(免許)のない世界はほぼ考えられない。先日、高齢者講習会にいき教習所内のコースを教習所の車に乗ってきた、特に緊張していた訳ではなかったがしっかり縁石に乗りあげてしまった。なによりも驚くのは自分が車の高齢者講習会に参加していることだ、腹が立つというよりもそんな今(自分)が許せないし、頭にくるのだ。何時までぼくが車の運転をするのか分からないが前橋に住んでいる(生きている)限り、車の運転免許証は絶対必要なのだ。
一月二十五日(月)
クラス討論に出たもののシックリ参加できなかった自分、文学部大衆団交の騒々しい渦の中出でそれを「つるしあげ」としか感じなかった自分、それを何とも表現できなかった自分。
大衆団交の場から抜け出して屋上へ行ったが誰もいなかった。喫茶店に行く気もせず、ウラ寂しい気持ちで電車にのった。(22頁)
一人の人間をおおぜいで攻めたてる行為はぼくにとって苦手だしそんな空間にいることは疲れる、一刻も早く外に出て深呼吸をしたくなる。できることなら喫茶店にでも行って温かいコーヒーをのみたい気分になるのだ。
一月二十七日(月)
私は煙草をすう にがい煙草をすう
私のこの部屋の中で ここは私の世界だ
しかし一たびここを出ると 私は弱くなる
クラス討論の場で煙草をすわせない何ものかがある
煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する
私は弱い (25頁)
さすがに中学生の頃の喫煙は記憶にないが高校生になると親の目を盗んでの喫煙の記憶がある。高野悦子さんの「煙草を買うのを恥ずかしめる何ものかが存在する」その気持ちはぼくにもあった。だから近所の煙草屋では絶対に買わなかった。禁止されているからそれを破るカッコよさはいつも感じていた。煙草をすいながらカッコつけて街を闊歩していたら偶然に担任の先生に会ってしまい煙草を握り潰した、それから高校二年生の京都への修学旅行のとき夜旅館で数人の仲間で喫煙をして見つかってしまい学校を停学になってしまった。(停学とはいっても何もなかったように毎日学校には行っていた。先生も学校に来るなとは言わなかった)
二月二日(日)曇りのち時々雨
五十センチ四方のおりのなかに、四五○○円なりのなんとかいう犬がいた。この前、いっしょに戯れて係員に注意された犬だ。原産はスコットランドの北部の島。牧羊犬でおとなしく、機敏で荒い自然に耐える力があるそうだ。彼の生まれ故郷のきびしい美しい自然の中で牧場をはねまわる姿を思いうかべた。(39頁)
ゴン(ゴン太)を赤城南面の犬牧に買に行った時、小さいケージの中で「俺を連れていってくれ」とぼく達に一生懸命に合図を送っていたときの事を思い出す。そしてその日からゴンは家族の一員になった。スコットランドの北部の島の牧羊犬の犬種はたぶんシェットランドシ―プドッグだろう。
二月五日(日)
私は詩が好きだ。詩は鋭く豊で内省的で行動的・・・・。詩は真実の世界をのぞかせる。詩は人間をうたう。私は詩人になりたいと思うときがある。(45頁)
ぼくの中では建築は詩であると長い間思っていた。だから詩人になりたくて時々外国の建築にも会いに行った。
二月八日(土)晴れ
煙草を七本八本すってお手洗いに行ってもおちつかなかった。どこにも行くところはなかった。しかしコンパに行こうとサ店を出た。寒くてブルブルふるえながら歩いた。電車に乗ってもふるえがとらなかった。窓に映る景色は見知らぬ町のようだった。四条でおり五条までかけていった。(51頁)
四条から五条の何処にかけていったのだろう。四条から先はあまり知らない東大路通と五条通の交差点の近くにある河合寛次郎記念館にいったことがあった朝鮮張りの床が印象に残った。それから、京阪五条駅から五条通を歩いて清水寺まで歩いてあるいて行ったことがあった照明のなかので輝く紅葉の美しさが印象に残った。
三月八日 曇天の寒い日
きのう久しぶりで立命(広小路)へいってきた。恒心館、研心館は全共闘に封鎖され人影もまばらな静かなキャンパスであった。中川会館の落書きにいわく。
気狂いピエロはあまりに悲しかったので泣くことすらできなかったのです。だから顏をペンキで真青に染めて泣くまねをしたのです。僕たちも、あまりの大学の腐敗に憤ることすらできなかったので、壊すことにしたのです。俺が死んでも誰も泣いてくれなくていい 気ちがいぴえろ(77・78頁)
全身真青のパフォーマンス集団のことを思い出した。それからクラインブルーのこと池袋にあった美術館でビンに入った粉状のクラインブルーを買った
三月十六日(日)
京都国際ホテルにウェイトレスとしてアルバイトに行き一つの働く世界をしった。彼ら彼女らは全く明るい。大声で笑い、話し、楽しさが溢れている。私の知っていた人たちはほとんどが学生で、インテリゲンチャの予備軍のような存在(私もまた)であることを知らされる。(85頁)
ぼくは前橋の掃除屋さんでアルバイトをした。場所的にほとんどが群馬大学の学生だったが仲良く仕事をした。中には学生運動をしている人もいて、バイト先に赤いヘルメットを持ってきたりしていたらしい医学部の学生であった。
三月十七日(月)
ホテルは九時頃に客が入り、 何くそ アルバイトだからって甘えてなんかいないぞ と努めて頑張った(客観的に見てどうであったか知らない)。最後にモップで掃除した後で、今日は仕事のやり甲斐があったと思った。与えられたものでなく、自分で見つけて仕事をやること、これが充実感をもたらす。(87頁)
掃除屋さんのアルバイトはおそらく四年間は続いたと思う。時には社長さんの家でお酒や夕飯を御馳走になったりして、バイト以外のことでも世話になったことを思い出す。
三月二十九日(土)肌寒い小雨の日
私は酔うとペラペラと話だす。私の真実は酔ったとき言葉として発露する。そして四条大宮からタクシーをフンパツして帰った。(95頁)
静かにしていて酔うとポジティブになる人はぼくの周りにもいるが嫌いではない。四条大宮からタクシーで帰ったとあるが、たぶん四条通を西に向かい松尾橋で桂川を渡り右折したあたりでタクシーを降りたと思われる。
四月四日
自分を支えるものは勉強しかない。「知ろうとする者には存在し、知ろうとしない者には存在しない。おまえはおまえ自身を知らない」(101頁)
まさにそうだと思った真剣に建築をしていた頃、一生懸命建築をみながら街をあるいいた。意識をして観ないとほとんど何も残らないし、何も存在しない。毎年見て回ったヨーロッパの街並みは今でも記憶に残っている
四月七日
青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。(104頁)
現在、七十二歳のぼくは余りにも長生きしたという事か、高野さんが云うように「青春を失うと人間は死ぬ。」は正解なのかもしれない。
四月十八日(金)
四条大宮からホテルまで牧野と歩きながら必死になって話したとき(126頁)
四条大宮駅を東に向かい四条堀川を左折して堀川通を北に行くと左側に二条城が見えてきて道路反対側に目的のホテルがあった。
四月二十四日(木)
ぼんやりとした何もない空間の私の世界。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。(138頁)
最近、ぼくは他者の存在をあまり感じない、朝起きてから寝るまでに他者と話すこともないから。
四月二十八日
シュプレヒコールを行う。叫ぶことが唯一の武器。市役所の前につき、歩みをとめて一服喫った。足元のアスファルトは雨でぬれているし頭には小雨が降り注ぐ。寂しさと無力感と充実感とが、ごちゃごちゃに混じり合い、春雨のように、独りであることを、じっくりと感じた。私は大声で叫びたかった。(144頁)
京都市役所のまえで、雨の中、叫んでいる景色が思い浮かぶ、御池通は今のように幅の広いりっぱな通りではなかったろうし、今のような、モダンな街並みは想像できなかった。雨に濡れた道路(アスファルト)に映る街灯の情緒性は今も変わらない。
五月五日(月)晴、夜おそく雨
折から今日は祝日で京極通りは「繁栄」と「平和」に満ちあふれているのに、何と我が身のわびしかりしことよ。
御所で一服。(158頁)
高校二年生(1968年)の秋、就学旅行で初めて京都に行った。僕にとって京都は大都会であり、バスの中からヘルメット姿の学生が道に座りこんでいて、その道に向かって放水をしているのを見た。初めて見る全共闘の学生たちであった。それから新京極を四条通りに出て右折した場所にあった歌声喫茶にも行った。
五月八日
私の男性コンプレックスはいつになったらなくなるのだろう。男の子っていうものはどうも苦手だなあー。(163頁)
ぼくは女性コンプレックスで長い間、女性と話をすることが出来なかった。だから今までに女性(妻)との関係は15回くらいだった。
五月十一日
現実をみつめること そして、それに対決すること 五・九
醜さをみつめて、美しさを愛すること 五・一〇 (165頁)
実際の問題として、「醜さをみつめて、美しさを愛すること」高野さんのおっしゃるとおり。ネガティブのなかにポジティブな真実がある。
五月二十六日(月) 晴
小山田さんと飲みにゆく。「逆鉾」でちゃんこなべを食べながら日本酒をのみ、「田園」でジンライムとオンザロック、「ろくよう」でおでんを食べて帰る (177頁)
去年の七月、京都木屋町の「逆鉾(さかほこ)」に行ってきた1966年創業だから三年後(1969年)に高野さんが行くことも可能であった。お店に入るとたぶん改修されたのだろうあの頃(昭和)のイメージはなかった。お客さんはぼくを入れて三組その中の一組のひとりが他者を気にしない大きな声で話をしていたぼくの最も苦手な人で京都にもこうゆう人がいるのかなと思った。それにしても肉団子の入ったちゃんこなべは旨かった。
六月七日(土)
買ってきた八四〇円ナリのホワイトを飲んで酔っぱらって、そのまま寝てしまいたい。 (195頁)
サントリーホワイトはぼく達も飲んだギリギリの反体制。角はちょっとブルジョア的だった。
六月十二日 雨
今日お風呂に入っていたときのこと。他にもひとりいて、その人は水道の蛇口をひねり湯をぬるた。湯はぬるかった。四一度くらいだったなあ。私はその人に「もう水道を止めてもいいですか」と、恐る恐るというさまでたずねた。他人を気にする弱々しい市民生活者の私。
(198・199頁)
四十一度のお風呂に入ってみたぼくにとっては決してぬるくなくて丁度いい湯かげんだった。普段はもう二・三度高いお風呂にはいっている。銭湯で湯をゆるめたことはなく熱くても我慢して入った。今から思うと単に気が小さいだけであった。
六月十六日
日常性に埋没することなく非日常的なものを追求してゆく方向をもつ必要がある。日常ということばの中には体制の臭いがあるし、むしろ低迷の状態である。 (204頁)
日常的にならないことは学生のころから思っていたし、非日常の中にのみ真理があると思っていた。だから美術のジャンルでもコンテンポラリーアートが好きだし前衛が好きだしフロントが好きだ。
六月十七日
ああ、人は何故こんなにしてまで生きているのだろうか。そのちっぽけさに触れることを恐れながら、それを遠まきにして楽しさを装って生きている。ちっぽけさに気付かず、弱さに気付かず、人生は楽しいものだといっている。屋上から町並みを眺めると四方を山に囲まれた箱庭のような京都の町がある。せせこましく立ち並んだ小さな家々、ばからしいほど密集している小さな存在。 (205・206頁)
「悲しいだろう、みんな同じさ」と拓郎を唄いながら夜の街を歩いた。そんな時はあまり広くないアスファルトの道を選んで歩いた。両側には密集した古い木造の家があった。
六月十八日
つまらない醜い独りの弱い人間が、おたがいに何かを創造しようと生きているのだと、今思いました。いろいろな醜さがあるけれども、とにかくみんなで何かを生み出そうとしているのです。何かを創造しようとして人間は生きているのです。 (206・207頁)
この歳まで生きてきて思う事は疑うことである。醜いことはネガティブに思われるが美しいことが本当に良いことなのか。醜い容姿で今まで生きて全てが悪いのか必ずしもそうではなかった。そうでないとしたら、ぼくの存在はなかった。
六月二十日 快晴
きのう床についたのが朝の四時。九時ぐらいに目がさめたが、ラジオをきいたり、「時には母のない子のように」や「愛の賛歌」 を口ずさみながら、ぼんやりと三時ごろまで過ごし、バイトに行く。(213頁)
カルメン・マキ、1969年「時には母のない子のように」(作詞・寺山修司、作曲・田中未知)デビュー(インターネット参)。あの時代は夢があり、可能性もあった、だから若者は行動をした。そのように思うのはぼくだけか。
現在を生きているものにとって、過去は現在に関わっているという点で、はじめて意味をもつものである。燃やしたところで私が無くなるのではない。記述という過去がなくなるだけだ。燃やしてしまってなくなるような言葉はあっても何の意味もなさない。(214頁)
ぼくにとって、圧倒的な過去に比べ未来はないに等しい。長く語れる過去はあるが未来を語れば一言で終わる。
「独りである」とあらためて書くまでもなく、私は独りである。(215頁)
意味は違うかもしれないが「ぼくも独りである」。夕方透析を終えて病院から誰もいない家に帰り、カチンカチンに凍っているご飯を電子レンジで「チン」して、レトルトのカレーをお湯で温めてご飯にかけて食べるそれがぼくの夕食の景色である。そんな時、いつも思うのは「私は独りである」ということだ。でも歳をとってから、独りで生きるのも自然なことなのかもしれない。
参考資料
「二十歳の原点」 高野悦子 著 (株)新潮社(平成22年2月15日 51刷)
« 子どもたちの日光市甲状腺検査事業は続けるべきだ 「折々の状況 その(9)」(同人誌「序説第30号」) | トップページ | エッセイ 会津鉄道の観光列車に乗りました 同人誌「序説第30号」安斎博 »
「『序説』」カテゴリの記事
- 「明るい覚悟」で自分との約束を守る 同人誌「序説第33号」の「編集後記」(2026.07.10)
- 「お見舞い」は段ボールいっぱいの野菜 同人誌「序説」の茨城県の仲間から(2026.01.14)
- 「『核』と『原発』がよりリアルな世界に」 同人誌「序説第32号」(9月1日発行)(2025.09.04)
- 日本初のイコン画家になった女性 「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」(2025.09.03)
- 同人誌「序説第32号」、あす9月1日(月)発刊します 創刊1974年12月から51年目に(2025.08.31)
« 子どもたちの日光市甲状腺検査事業は続けるべきだ 「折々の状況 その(9)」(同人誌「序説第30号」) | トップページ | エッセイ 会津鉄道の観光列車に乗りました 同人誌「序説第30号」安斎博 »



コメント