写真・図版
能登を歩く歴史学者の網野善彦=1991年、石川県珠洲市・禄剛崎、神奈川大学日本常民文化研究所蔵

 戦後の歴史学を主導し、新たな日本史像を描き出した歴史学者・網野善彦の死去から20年。今年3月までに主著「中世荘園の様相」と「日本中世の非農業民と天皇」(上・下)がともに岩波文庫で出版され、「無縁・公界(くがい)・楽」増補版など平凡社ライブラリーの各著作も再び注目を集める。「網野史学」の重要な舞台の一つは、被災した能登半島だ。網野と同じ日本中世史の専門家2人に、いま網野の著作を読む意義を聞いた。

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 明治大教授の清水克行さん(52)は網野本人と接した最後の世代。1990年代に学生時代を過ごし、わずかに生前の網野と言葉を交わしたことがある。「誰に対しても分け隔てない豪放磊落(らいらく)な人柄が印象に残っている」

 清水さんは当時を「昭和から平成へと天皇の代替わりがあり、天皇の存在をいや応なく意識させられる時代状況があった」と振り返る。「戦争責任を問う左派と戦前を肯定する保守派。そうした緊張関係のもとで網野さんは中世以来の海の民や山の民、芸能民などの非農業民と天皇の関係を論じた。天皇の歴史的なあり方を網野さんのような視点で語る人は他にいなかった」

 清水さんは、網野の主要著作の時代背景には、高度成長下で起きた地方農村の衰退と生活スタイルの都市化をふまえる必要があると指摘する。

 「網野さん自身、日本各地で農村の変容を目の当たりにしており、民俗学や文化人類学の発想もあった。地震に見舞われた能登半島もその舞台の一つだった」

自由な中世像 2000年代以降に転機 

 網野は神奈川大学日本常民文化研究所に長く籍を置いた。「古文書返却の旅」(中公新書)に記すように、網野は80年代半ばから約10年かけて、代々庄屋を務めた家に伝わる時国家(ときくにけ)文書(石川県輪島市)の調査に取り組み、独自の歴史像を確立していく。「時国家文書の中には、農民としては貧しい身分とされたが実態は裕福で、日本海側の海運で富を築いた者の姿も確認できる。非農業の営みにより初期の資本蓄積が起きていた」

 石高で豊かさを示す江戸時代以来の固定観念を取り払う発想の転換が起きた。

 「稲作中心の階級闘争の視点に立つマルクス主義的な歴史観の不自由さから転じた網野さんの議論に多くの読者が魅力を感じ、流動性が高い自由な日本中世像にロマンを抱いた」

 高度成長期にヒッピー、バブル期にはフリーターがもてはやされた。97年には網野の影響が色濃い宮崎駿監督の映画「もののけ姫」が公開された。

 2000年代に入ると、非正規雇用や格差拡大へと社会の関心が向かった。自由な中世像も転機を迎えていると清水さんは見る。「いま網野さんの著作を読めば、戦乱や飢饉(ききん)が多い中世の自力救済、いわば弱肉強食の悲惨さにまず目が向かうかもしれない。こども食堂をアジール(聖域・避難所)の歴史的系譜に位置づけることもできる」

 清水さんは「天皇の歴史的あり方への関心が低い、天皇を必要としないナショナリズムが浸透し、史実を軽視した物語や陰謀論が目立つ中で、日本の歴史全体を見渡す網野さんの歴史像は価値を失っていない」と見る。

原史料を丹念に 能登は原点の一つ

 東京大教授の桜井英治さん(62)は、ともに通史シリーズの編集委員を務めた網野を「純真な人」と形容する。「網野さんの熱量を支えていたのは発見の喜び。売れっ子になってどんなに忙しくても、全国各地にある原史料を丹念に読み解く作業を忘れなかった。能登半島はそうした研究の原点の一つだった」

 04年の死の直前まで網野が向き合った問いは「日本とは何か」だった。北方や南方の独自性、東日本と西日本の違いなど「日本」がもつ多様性を強調した。

 「網野さんは講演でよく北と南を上下逆にした富山県発行の日本地図を見せた。千島から台湾まで島々が弧を描き日本海は東アジアの内海。能登はその中心に位置する。見方を変えれば辺境が中心だと伝えたかったのでは」(清水さん)

 網野の歴史学は必ずしも異端ではない。中世の重層的な土地支配構造を整理した「荘園公領制」の議論は定説とも言える。

 桜井さんは網野の著作を読み直す意義を強調する。「網野さんは、人類はいま壮年期にあり壮年期ならではの知恵があるはずとよく語っていた。閉塞(へいそく)感に満ちた時代だからこそ網野さんの言葉は若い世代の心にもきっと響くはずだ」(大内悟史)

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