浅川マキは「アングラの女王」と呼ばれた1970年代から2010年まで駆け抜けたシンガーだ。たまたまFACEBOOKで1970年代の歌について、コメントしていたら、急に浅川マキの唄が聴きたくなった。
これもたまたまだが、彼女の写真はたくさんあるが、動画があるとは、これまで気がつかなかった。それも1970年の「全日本フォークジャンボリー」のときの映像。彼女のインタビューもあるという代物なのですー。
ということで、浅川マキ(2010年1月17日死去)の代表曲のひとつ、「かもめ」をここに。彼女には「少年」とか、「夜が明けたら」とか、「ガソリンアレイ」とか、いろいろな名曲がある。このカモメをシャンソンなどで聴いても、ぞくぞくとくるのです。
今の2015年の若い人たちは「浅川マキってだれ?」だろうから、そんな彼女の紹介も兼ねてアップしておきますー(動画は、そのうち削除されてしまうだろう。どのくらいアップされているだろうかー)。
(以下はウイキペディアから転載)
石川県石川郡美川町(現:白山市)出身。石川県立金沢二水高等学校卒業。
町役場で国民年金窓口係の職に就くも程なくして上京する。マヘリア・ジャクソンやビリー・ホリデイのようなスタイルを指向し、米軍キャンプやキャバレーなどで歌手として活動を始める。
1967年にビクターからEP『東京挽歌/アーメン・ジロー』を発表するも本人と事務所の音楽的指針に大きな乖離があり、当時の出来事がその後の活動に影響を与えた。
1968年、寺山修司に見出され新宿のアンダー・グラウンド・シアター「蠍座」で初のワンマン公演を三日間に渡り催行、口コミで徐々に知名度が上がる。やがて東芝音楽工業株式会社(現:EMIミュージック・ジャパン)に移籍、1969年7月1日、EXPRESS-レーベルより『夜が明けたら/かもめ』で正式にレコード・デビュー。以後移籍することなく1998年まで作品を発表しつつステージを主体に音楽活動を行う。特に池袋「文芸坐ル・ピリエ」で1997年まで催行した大晦日連続定期公演は有名である。
CDの音質に対して懐疑的であったため、1998年より新譜を発表していなかったが、2000年以降はジャズ・クラブ「新宿 PIT INN」を本拠地として定期公演を再開。2000年3月26日から11月26日の「新宿PIT INN」では、『毎月・最終の日曜日 浅川マキを聴く』と題し、アカペラによる公演を行った(全9日、昼夜2回。計18公演)。
「渇いたブルースをうたわせたら右に出る者はいない」と言われ[3]、ジャズ、ブルースやフォークソングを独自の解釈で歌唱した。
2010年1月17日、ライブ公演で愛知県名古屋市に滞在中、宿泊先ホテルで倒れていたところを発見され、搬送された病院で死亡が確認された[2]。67歳没。愛知県警中警察署によると、死因は急性心不全とみられる[2]。
2010年3月4日、「新宿PIT INN」にてお別れの会『浅川マキ「こんな風に過ぎて行くのなら・浅川マキがサヨナラを云う日」』が催行された。ここでは真赤なバラの花の献花台とメッセージ・ボックスが用意され、彼女の生前の作品が流された。翌2011年5月、北陸放送が彼女を題材にしたラジオドキュメント「浅川マキ ロング・グッド・バイ」を制作し放映された
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