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2024年7月

2024年7月31日 (水)

「アングラの女王」・浅川マキを思い出してー   リズム感いっぱいの「オールドレインコート」

ふと、浅川マキを思い出してー。「アングラの女王」と呼ばれた浅川マキを知っているだろうか?

「客席にはストーブが欲しかったが、それでも、みんなゴザに座って酒を飲んだりしていた。一升瓶の15本はまたたく間に売り切れて、冷えが少しづつ会場を犯していくのがわかる。早く始めようよ、と、云う催促の声が荒い拍手に混じって控室にも聞えてきた。わたしは、きょうは大変だぞ、と思った。舞台に上がっていったとき、照明のわずかな光量がひどく暖かかった。『つのだ ひろ』。わたしが大きな声で紹介すると、彼は力強く登場した」(浅川マキ) 
        
 浅川マキが京大西部講堂で歌ったライブのCD「浅川マキライヴ 夜」の歌詞カードにある彼女自身の当夜の模様だ(もともとは1978年のレコード「浅川マキ・ライヴ・夜」)。
 浅川マキの歌のいつくかは、自然に口をついて出たり、口笛を吹いたりしてしまうフレーズがある。そのひとつが「オールド レインコート」(日本語詩 浅川マキ 作曲R・Stewart)。歌の途中や最後に繰り返される「そうさ 人生甘くはないさ そうさ人生甘くはないぜ」というフレーズだ。 
    
 453313972_7821035934691852_3817124529588 この歌「オールド レインコート」のリズム感のあること。いわゆる暗い雰囲気の歌が続いたあとに、この歌が流されると、もう心はウキウキ。詩は別に祝祭的なものではない。むしろ、聴く側に「おまえはどうなんだ?」「それなりの覚悟があるのか?」、最初にそう問いかける歌だ。
 だが、途中から「それされあれば、なんとかなるさ」という、浅川マキらしい、開き直りの歌になっていく(そう、こういうところが私は彼女の歌が好きだったのかもいしれない。70年代中盤は「半年先」のことも、実際わからなかったからだ)
オールド レインコート
            日本語詩 浅川マキ
おまえは かって
荒れ狂う川の激流に身震いしただろうか
そそぐように降る雨のなか
旅をしたことがあっただろうか
旅をしたことがあっただろうか
     おまえはおいらのような男と
     連れ立って雪の積もった墓場を
     見たことがあっただろうか
     そうさ 人生甘くはないさ
     そうさ 人生甘くはないさ
だけど おいらはここまで来たのさ
古いレインコート肩に
どんなときでも これさえあれば
なにも怖れることはないさ
なにも怖れることはないさ
     古いレインコートは あるのさ
     おいらのこころのずっと奥に
     どんなときでも これさえあれば
     何も怖れることはないさ
     何も怖れることはないさ
おまえはおいらのような男と
連れ立って雪の積もった墓場を
見たことがあっただろうか
そうさ 人生甘くはないさ
そうさ 人生甘くはないさ
そうさ 人生甘くはないぜ
そうさ 人生甘くはないぜ       
「浅川マキさんの訃報に接した時、混沌としつつも面白かった時代の象徴が一つ記憶の彼方に消え去ってしまうようなやるせなさを感じました(中略)浅川マキさんの歌は、開き直りの退廃、理不尽な権力に対する必死な悲関与、誰を傷つけることを意図しない反逆、本来極めて常識的と認知されるべき非常識、あるいはそれらの勧め、そんな感じで僕は受け止めています」
 抽象的な例えがうまい。というか、的確だと思う。言葉が生きている。そう思う彼女への惜別のことばだ。だれが書いたかと思ったら、「シクラメンのかほり」などで知られる小椋佳だった(『ちょつと長い関係のブルース 君は浅川マキを聴いたか』の「ちっちゃな時から・・・」から)。

 

2024年7月30日 (火)

夏本番はやはり「冷やしそうめん」ー    おすそ分け粕漬けとベランダ菜園きゅうりも    

453147523_7819228021539310_2241740794456 453263245_7819255014869944_3756732274116 相変わらずきょうも暑いので、お昼は久しぶりに正統派?「冷やしそうめん」ー。おすそわけのキュウリの粕漬け、ベランダ菜園のキュウリをお供に。冷奴、ゆで玉子、シーフードも。夏本番はやっぱりそうめんなんだろうね~。BGMは「Perfect Gift」。「虹の音色」「深海」「随想」など12曲。環境音楽の典型かも。夏の午後に似合っている。


 

2024年7月29日 (月)

もし自由に資料を集めさせ、自由に「日露戦史」を書かせていたらー  『司馬遼太郎全講演3』「小村寿太郎の悩み」

司馬遼太郎全講演(全5巻)の(1)、(2)、(3)巻まで読んだが、さすがに繰り返すような話が出始めてきているのを感じた。それもあり、(1)巻のときのようなある種の知的興奮はかなり薄れてきている。それでも各巻とも、「おや、これは知らないぞ」「こんな解釈もできるのだね」というところはところどころに。きょう7月29日(月)に読み終えた(3)巻で言えば、「記録」の大事さについて。東日本大震災や福島第一原発事故について、「もうそんなことは知りたくもないし、聞きたくもない」「そんなことを知ってどうなるのか」「記録を伝えることでどんな役に立つのか」といった趣旨のことを話すことを聴いたからなおさら。以下の司馬遼太郎の文章を紹介しておこうと思った。(3)巻の「小村寿太郎の悩み」について。ご存じのように小村寿太郎は米国のポースマスでロシアのウィツテとの講和会議に臨み、「貧しい講話」を結んだ。それについての講演だ。司馬のこの見方が正しいかどうかはやや疑問符もつく。ただ、司馬的な情報把握、事実確認、歴史判断は必要だろうと思わせる。

 

全講演(3)によると、日露戦争について、日本陸軍は全10巻の「日露戦史」を残している。参謀本部の編纂だ。「あれはいくらですか」と聞いたら、その当時の雑誌一冊の値段だった。番頭さんは「あれは紙くず同然でして」と言っていた。税金でつくった本だが、それもそのはず、内容は「土木工事の日記のような記事。価値観は何にもない」と書いている。そのうえで以下のように話したという。 

もし資料を自由に集めさせ、自由に日露戦史を書かせたならば、私は太平洋戦争は起こらなかったと思っています。なけなしのポケットマネーで日露戦争をやり、きわどいところで勝ったとはいえ、しょせんロシアにとっては辺境での出来事です。ポースマス条約は、たしかに戦勝国としては考えられないほど貧しい条約でした。賠償金もロシアは出すつもりはなかった。文句があるならもっとやるぞというのがロシアの姿勢で、あれが限度でした。そのことが書かれていれば、日本は太平洋戦争のようなことはしなかった。国民はだまされてましたね(略)小村寿太郎は精一杯やって、しかし、小村寿太郎は日本を出るときに覚悟していました。帰ってきたら家は焼かれ、石を投げられるだろうと。なぜかと言えば、新聞その他が国民を煽っていたからでした。この戦争は大いに勝った。だから、ロシアから領地をふんだくれ。樺太のみか沿海州もまでふんだくれ。賠償金は何億ドルもらえる。これを言ったのは、東京大学法学部の6人と学習院の教授であります。これを新聞が書き、民衆が踊る。7人の扇動者は何の資料も持たずに、これだけのものが取れる、これだけのものをロシアがノーと言うなら、もっと戦争を継続せよという決議案まで政府に提出した。それをまた新聞は載せる。民衆は何も情報を持っていませんから大騒ぎとなり、そんな状況にあって小村寿太郎は貧しい講話条約を締結した。その締結の日、日比谷公園で大会が行われて、そのあたりは火がつけられました。内相官邸も襲われました。民衆のパワーですね。私はこう考えています。日本の帝国主義はこの瞬間から始まった(以下、略)20231112160528090586_fc517236d717431a0b2

2024年7月28日 (日)

フランス革命を知りたくなって2冊を注文ー  「物語フランス革命」と「フランス革命夜話」

「物語フランス革命」(中公新書)と「フランス革命夜話」(中公文庫)をネット書店「本やタウン」経由で注文したばかり。ヘーゲルやカントがえらくこのフランス革命を評価しているのはさまざま場面で知ることがあった。それに加え、ドイツの革命家ローザ・ルクセンブルクについての論考をこのところそれなりに読み込んでいるが、彼女の演説にやはりフランス革命からの引用がたびたび出てくる場面に出合っている。それに左翼路線をめぐるサルトル・カミユ論争も理解するにしても、フランス革命の経過、背景、評価を知ることが必要だろうと思わされたこと。さらに言えば、パリコンミューンにしろ、ボナパルトについてのマルクスの論考にしろ、フランス革命についての全体像をつかむことでさらに理解が深まるに違いないと思ったためー。

 

 どういうわけか、浅学菲才にして、フランス革命に絞った著作はほとんど手にしていなかったことに気づいたため。関心はロシア革命であり、第一次世界大戦、シベリア出兵であり、未完のドイツ革命であり、ワイマール共和国、ナチス・ヒトラー、第二次世界対戦、太平洋戦争、ヒロシマ・ナガサキーに。いずれ、フランス革命についての著作へ。と、思っていたところ、twitterで中央公論社がフランス革命についての2冊の本を紹介していた。それに「これはちょうど読みたいと思っていたところ」と、リツイートしておいたのが昨夜。中央公論社twitterはひんぱんに書籍を紹介しているが、いい内容と別にいいやという内容とバラバラだが、宣伝手法としてはうまいと思っている。というか、なんとなく思っている知りたい本をそれなりにアップしており、私も何度かこれらの著作をリツイートしているぐらいだ。Photo_20240728203001 71pe63hcm0l_ac_uf10001000_ql80_

2024年7月27日 (土)

追いかける店主から盗んだ魚を抱えて必死に逃げる子猫    『アタゴール物語』の「ヒデヨシ」を思い起こしました

9784594095048 わっはっは 加工しているだろうが、それでも笑えるー、漫画家・ますむらひろしの「アタゴール物語」の主人公となることが多いとんでも猫というか、エネルギーいっぱい、「マグロ泥棒」の場面がひんぱんに登場する「ヒデヨシ」を思い起こしたー。そういえば、しばらく「アタゴール物語」に触れていない。たまには無茶苦茶なヒデヨシの性格、言動が憎めないその物を手にしないといけないかも。確か、最近は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を描いているはずだがー。facebookともだちがアップしていたのを、拝借した泥棒猫の画像です~。

 

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2024年7月26日 (金)

今回は基本に忠実に従った原子力規制委員会   敦賀原発2号機の再稼動を認めない結論

本日のBLOGで書くとすれば、なんといっても夕方に飛び込んできた再稼動をめぐるこのニュースだろうー。NHKによると、本日26日(金)の原子力規制委の審査会合で敦賀原発2号機(日本原電)の再稼動を事実上認めないとする結論をまとめた。規制委が再稼動を認めない判断をするのは今回が初めて。これまで次々と審査合格を決めており、すでに17基が合格点をつけている。そのうち12基が再稼動しているという。いわば審査というより、追認機関ではないかと言われ、審査に大甘の規制委員会と言われてきたが、今回だけは基本に忠実に従った判断を行ったといえるようだ。ただし、規制委員会としての最終判断は来週のようだ。その結論の行方も注視していかないと。それまでに政治の横やりが入る可能性も否定できないからだPhoto_20240726220301

以下はNHK報道の冒頭部分です。

敦賀原発2号機 再稼働を事実上認めず 原子力規制庁の審査会合

2024年7月26日 19時42分 福井県

日本原子力発電が再稼働を目指している福井県にある敦賀原子力発電所2号機について、原子力規制庁はきょう26日に開いた審査会合で、原発の規制基準に適合しているとは認められないとする結論をまとめました。原子炉建屋の真下を走る断層が将来動く可能性を否定することは困難だとしていて、事実上、再稼働を認めない結論を出すのは2012年の発足後初めてです。

目次

原子力規制委員会が定める規制基準では、活断層の上に安全上重要な設備を設置することを認めておらず、敦賀原発2号機は原子炉などが入る建屋の真下を断層が走っているため、この断層が将来動く可能性があると再稼働できなくなります。

26日に開かれた審査会合では、この断層が別の活断層に引きずられて動く可能性があるか審議されました。

この中で事業者の日本原子力発電は、2号機の周辺で行ったボーリング調査の結果などから動く可能性はないと改めて主張したうえで、データを拡充するため追加の調査を行いたいと要望しました。

これに対し審査を行う原子力規制庁は、科学的な根拠が不足しているなどと指摘し、原子炉建屋の真下を走る断層が将来動く可能性を否定することは困難だとして、敦賀原発2号機は原発の規制基準に適合しているとは言えないとする結論をまとめました。

事実上、再稼働を認めない結論を出すのは2012年の発足後初めてで、原子力規制庁によりますと、それ以前をさかのぼっても、確認できる範囲では、審査で不合格となった例はないということです。

結論は、来週、原子力規制委員会に報告され、日本原電が求めた追加の調査を受け入れるかどうかを含め、委員会として最終的に判断することになりますが、審査会合の結論が受け入れられる公算が大きく、その場合、日本原電は改めて審査を申請するか、敦賀原発2号機を廃炉にするかの判断を迫られることになります(以下、続く)。

 

 

 

2024年7月25日 (木)

勝ち負けが同じになったところでゲームセットー   『レヴィストロース講義ー現代世界と人類学ー』

かなり長く積読だったこの本、『レヴィストロース講義ー現代世界と人類学』(平凡社ライブラリー)。2005年初版。レヴィストロースが招かれて、1986年4月15日、16日、東京で3回の講演をした。その講演と質疑応答を収めている。最初は1988年に「サイマル出版会」が発行したようだ。それから17年後に平凡社が改めて発行している。そうか、考えたらこの講演からもう40年近くも経っているのかーと驚くことしきり。というのも、内容は今読んでも新鮮だからだ。レヴィストロースの有名な『野生の思考』『親族の基本構造』は、難しいのでいつも途中で挫折しているが、この講演は意外とすんなりと読むことができた。特に印象的だったのが、第二講「現代の三つの問題ー性・開発・神話的思考」の「未開人はなぜ開発を拒むのか」。その中にある事例だ。読んでいて、びっくりというか、「えー!、そんな発想もあるのか」と思ったので。以下にぜひ紹介したい、

私たちから見ると欠陥、あるいは欠如と見えるものも、彼らにとっては人と人との関係、人と自然の関係を考える独自のやり方なのかもしれないのです。一例をあげましょう。

ニューギニア内部に住む人びとが、宣教師からサッカーを教えられ、これに熱中しました。ところが、彼らのどちらかのチームが勝つことでゲームを終わらせるのではなく、双方の勝ち負けの数が同じになるまで、何試合も続けたというのです。彼らにとってゲームとは、私たちのように勝利者が決まったところで終わるものではなく、敗北者が生じないことが確実になったところで終わるものなのですー。

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2024年7月24日 (水)

「あういう格好をしていては天皇家の将来も長くはない」   『司馬遼太郎 全講演 1 1964ー1974』

このエピソードひとつを知っただけでも、この本『司馬遼太郎 全講演 1 1964ー1974』(朝日文庫)を読んだ価値があるなと思ったほど、興味深い話でした。右から左までさまざまな天皇論があるが、その一言の重さにはなかなか及ばないかもー。


以下、そのエピソードを16行で紹介しますー。M62300410696_1

天皇の本質とは、繰り返して申し上げますけど、「だれよりも無力である」ということであります。つまりは皇帝はおろか、王ですらもなくて、天皇家はずっとその家系が続いてきたことになります。ところが明治維新を迎え、天皇の本質が変わっていきます。これはむしろ天皇にとっては非常に不幸だったのではないか。このことについてはひとつのエピソードがあります。

大正天皇のご生母で、柳原二位局(やなぎはらにいのつぼね)という方がいらっしゃいまして、この方は実家が公家でした。公家ですから、在来の日本の天皇の本質というものを、皮膚感覚で知っておられたのでしょう。自分の旦那さんである明治天皇が軍服を着て、サーベルを吊って、白い馬に乗っているのをごらんになり、おっしゃったそうですね。

「あういう格好をしていては天皇家の将来も長くはない」

明治国家という要請ということがありました。天皇が憲法上の権力を持ったということを、このエピソードは鋭く風刺しています。

 

2024年7月23日 (火)

暑い昼下がりは「天ざる信州蕎麦」で   「お江戸でござる」の杉浦日向子さんを思い浮かべ

暑い昼下がり、「信州蕎麦」が食べたくて。それには野菜天ぷら(茄子、にんじん、シイタケ、ピーマン)の「天ざる蕎麦」が似合う。ざるうどんはよくつくるが、天ざる蕎麦は久しぶり。信州蕎麦を味わいながら、若くして亡くなった蕎麦好きの大江戸エッセイスト兼漫画家、杉浦日向子さんを思い出した(テレビ番組「お江戸でござる」の解説はいつも着物姿だったね)。確か彼女は一日に一度は蕎麦食だったはずだ。それにしてもざるうどんもいいが、ざる蕎麦もいいね。シイタケの歯ごたえが思った以上にある。BGMはマリサ・ロブレスの「ハープ協奏曲集」全12曲。意外になかなか落ち着けるメロディの演奏が次々と続く。 452377427_7777714742357305_9196496874425 452616983_7777714745690638_1783827831381 452280484_7777751175686995_6327264256688

2024年7月22日 (月)

改めて泉のように湧き出る歴史知識に驚き   司馬遼太郎『十六の話』(中公文庫)

改めて泉のように湧き出す歴史知識に驚きをー。司馬遼太郎の『十六の話』(中公文庫)。私が手にしたのは、2023年5月の第15刷。初版は1997年1月だから、文庫化からかれこれ四半世紀少し。たまたま書店で立ち読みし、パラパラとめくっただけでも、「これはなかなか読ませるなー」とすぐに買い求めた一冊だ。

司馬作品はたていの人が大河ドラマになっている「竜馬がゆく」「坂の上の雲」「翔ぶが如く」とか「菜の花の沖」、あるいは「空海の風景」などを読んでいるだろう。これに「幕末」や「花神」、「豊臣家の人々」や「最後の将軍」なども。それら戦国時代、戊辰戦争、日露戦争ものについては、だいたいが私も興味深く親しんできたつもりだ。

だが、講演、評論ものはそれほど親しんでいない。「歴史から学んだ人間の生き方のことども」ーというこの「十六の話」、けっこう教えられる歴史知識も多く、おおいに刺激を受けさせてもらった。いわゆる司馬史観は「卒業」のつもりでいたが、いやいや、どうしてどうして。この文庫本に触発されて、ずっと積読だった『司馬遼太郎全講演』(全5巻だったか?)を、書棚から引っ張りだしている。今夏は思わず司馬良太郎再発見の季節になるかもしれないー。

 

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二十一世紀に生きる人びとへの思いをこめて伝える、「歴史から学んだ人間の生き方の基本的なことども」。山片蟠桃や緒方洪庵の美しい生涯、井筒俊彦氏・開高健氏の思想と文学、「華厳をめぐる話」など十六の文集。新たに井筒俊彦氏との対談「二十世紀末の闇と光」を収録。

文学から見た日本歴史
開高健への弔辞
アラベスク―井筒俊彦氏を悼む
“古代史”と身辺雑話
華厳をめぐる話
叡山美術の展開―不動明王にふれつつ
山片蟠桃のこと
幕末における近代思想
ある情熱
咸臨丸誕生の地〔ほか〕

 

2024年7月21日 (日)

9月8日(日)甲状腺エコー検査、宇都宮で   「関東子ども健康調査支援基金」主催で

Photo_20240721235001 Photo_20240721235002 「関東子ども健康調査支援基金」主催の甲状腺検査宇都宮検診、9月8日(日)宇都宮市清原地区市民センターの検診チラシ50枚が本日、にじいろみらい宇都宮から日光に届いた。「関東子ども基金」が運営資金をたくさん援助することで、一人の費用は検診実費1000円のみ。日光市がこの甲状腺検査事業を続けていた2022年度までは、一人当たり総費用6600円のうち日光市が3600円を補助、市民の費用は残る3000円だった)。今回は「協力団体」として、「常総生協」や「よつ葉生協」、それに「さよなら原発!日光の会」も初めて名を連ねている。


 これからこの宇都宮検診チラシの配布やSNSで周知に努めるが、さらに「広報にっこう9月号」(8月25日発行、市内全域2万8000部)に掲載できるよう、あす22日(月)に担当の日光市秘書広報課を訪ね、「折衝」へ。基本的にできるだけ、いわゆる「お知らせ」「募集」「イベント」などの情報コーナー「情報なび」に掲載したい。この「情報なび」は掲載無料になると思う。しかし、掲載基準などの条件がありそうで、その関門を越えないと、かなわない場合もあるかも。最終的にはなるべく避けたいが、「広報にっこう」の「有料広告欄」(半枠約1万円、一段約2万円)という選択肢も。さて、どうなるかー。ともあれ、甲状腺検査を希望する日光市の子どもたちに、せめて、その機会があることだけは伝えたいとー。「

 

2024年7月20日 (土)

外国人観光客に「NO NUCLEAR」    「原発いらない金曜行動」in日光神橋

 7月19日(金)午前10時半~、「原発いらない金曜行動」in日光神橋。いつものサイレントスタンディングアピールに「さよなら原発!日光の会」会員10人が参加した。神橋そばの無料駐車場はいつも満車状態だが、この日の午前中の時間帯は、空きスペースがけっこうあった。参加者はいずれも楽々と駐車することができた。道行く観光客の約9割は外国人グループ。手を振ると、手を振って応じたり、私たちのアピールの模様を撮ったりしていた。次回以降も英語による脱原発のアピールが必要であることがわかった。

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 往来するマイカーのナンバーは首都圏が中心だが、西は岡山、姫路、大阪など、東は平泉、岩手、福島などのナンバーが。梅雨明け直後のこの日は、曇り空ながら、気温は25度から26度ぐらいだったか、立っているだけで額から汗がにじみ、何度かハンカチでぬぐうようだった。わずか45分間だが、サイレントアピールということもあり、異口同音に思った以上に「時間の過ぎるのが長く感じた」との声があった。

 

2024年7月19日 (金)

8月3日~4日、日光市杉並木公園ギャラリーで「第22回原爆展」    1953年制作の映画「原爆の子」上映会も

8月3日(土)、4日(日)の2日間、日光市杉並木公園ギャラリーで恒例の「原爆写真展」。第22回とかー入場無料。今年は映画「原爆の子」の上映会もあるということなので、映画も観たいので、行こうと思っています。ネットで拾った「原爆の子」の映画情報もお伝えしておきます。さらに観たい原爆映画は「ヒロシマ」と「オッペンハイマー」、さらに「黒い雨」(原作本は読んでいるが、映画はまだなので)も。それにしても終戦から10年も経たないうちにこんな原爆映画が製作されていたのですねー

 

「原爆の子」作品情報200813gembakunoko

1953年 新藤兼人監督 音羽信子主演Photo_20240718174301

石川孝子は昭和二十年八月七日原爆が投下された時広島に住んでいて、家族の中で彼女一人だけが生き残った。その後瀬戸内海の小さな島で女教員をしていた孝子は、原爆当時勤めていた幼稚園の園児たちのその後の消息を知りたいと思い、夏休みを利用して久しぶりに広島を訪れた。街は美しく復興していたが、当時の子供たちは果たしてどんなふうに成長しているだろうか。幼稚園でともに働いた旧友の夏江から住所を聞いて次々と訪問していく孝子だった。三平も敏子も平太も中学生になっていた。三平は子だくさんな貧しい父母の元で、靴磨きをして家を助けていた。敏子は原爆症で寝ていた。孤児の彼女は教会に引き取られて看護されていたが、明るい顔をして生きていた。平太も親を失って兄や姉の手で養育されていたが、一家は明るくまじめに生き抜いていた。孝子は亡き父母の下で働いていた岩吉爺やに出会ったが、息子夫婦を原爆で失い、老衰し、盲目になり、七歳になる孫の太郎と乏食小屋で暮らしているのだった。孝子は二人を島へ連れていこうとしたが、どうしても承知しないので太郎だけでも引き取りたいと思った。初めは承知しなかった岩吉も、孫の将来のためにようやく太郎を手離すことにした。孝子は広島を訪れたことによって色々と人生勉強をし、また幼い太郎を立派に育てようという希望を持って島へ帰っていくのだった。目の見えない岩吉は隣りに住む婆さんに手を引かれて、船着場からいつまでも孝子と太郎が去っていくのを見送るのだった。

2024年7月18日 (木)

19日(金)は日光・神橋そばで脱原発をアピールへ   「さようなら原発!金曜行動in神橋」

19日(金)は、暑さ対策のため午前中の脱原発行動です。時間は午前10時半~午前11時15分、国会前行動と連動した「さようなら原発!金曜行動in神橋」です。場所は世界遺産・神橋そばの日光街道沿い。お気軽にご参加を。脱原発の横断幕とプラカードで観光客や市民に脱原発を呼びかけるサイレントスタンディングアピールです。天気予報は「曇りから雨模様」。雨天の場合は中止します。写真は6月14日の「東海第二原発いらない!首都圏一斉行動in神橋」6 のひとこま。この日は埼玉県深谷市からの観光客も飛び入りで一緒に脱原発をアピールしてくれましたー。

 

2024年7月17日 (水)

創刊50年と「キリシマサトシ」      エッセイ序説第31号「創刊50年に寄せる」

序説第31号  創刊50周年記念号に寄せる  富岡洋一郎

創刊50年と「キリシマサトル」

 

 同人誌「序説」創刊から50年―。確かに創刊は1974年12月だから、もう実際に50年、つまり半世紀になるが、なんだかそんなに時間が過ぎたということがにわかに信じられない。当時を振り返ると、私は大学6年生のとき。外では沖縄返還協定粉砕闘争(私は大学3年生だったときの沖縄闘争で逮捕、拘留、起訴、裁判、判決という日々がある)、さらにベトナム反戦や三里塚闘争などがあった。内では、大学の学科増設反対運動、全学活動者会議の結成、臨時学生総会、その延長の大学自治会争奪戦、その自治会を取った直後の大学文化祭(私は大学文化祭副実行委員長だった)、この間に同盟休校する応援を「村人」に依頼され、数校の学生でつくったにわか教師団のひとりとして、大学を休学して中学校の国語の代用教員生活も送っている。

 創刊当時は、確か、私からすれば、「もうひとつの大学」とも言えそうなJAZZ喫茶「オーネット」での半年間のアルバイトを終えた直後かも。敗北的に終わった全共闘系の大学闘争の残り火を何らかの形で残しておきたいという思いがあった。苦い体験を共有する仲間で教訓というか、記憶というか、世の中の空気や政治、社会をすんなり受け入れられず、それを批判し、反発してきた意志の継続をという側面もあったろう。加えて存在そのものが「社会問題」だった私たちだが、「明日へ向かう力の予感」が背中を押したのではなかったか。

だからか、創刊号の目次を確認してみると、この当時はひところの勢いは失っていたが、生き残っていた「大学解体論」の論議もバックに私は「連載第一回 自己解体史論序説」といういかめしい文章を寄せている(このときの筆者名は「黒川純」。この論は途中で挫折してしまったがー)。

 序説第一期(1974年~1981年)で私はもっぱら労働そのものをテーマにした「労働論ノート」を連載していた。初回から第8回と続いているが、その期間は小さな労働業界紙「海運労働新報」(東京)の労働記者時代と重なる。その後、地方紙「栃木新聞」(宇都宮)の事件記者、中央紙「朝日新聞」(東京)で東日本各地へ。同人いずれも働き盛りとなったときに「序説」は休刊した。序説第二期(2006年~)は、自治会副委員長だった親友である磯崎公一君がまだ50歳前後のときに大腸がんで亡くなったことがきっかけだった。横浜での葬儀で久しぶりに顔を合わせた同人たちで序説再刊を話し合ったことからだ。

 第一期は8年、第二期序説だけでもすでに18年。創刊からだと50年も。ソ連の崩壊と冷戦の終了、昭和天皇死去、阪神大震災、地下鉄サリン事件、イラク戦争、民主党政権誕生、東日本大震災と福島第一原発事故、コロナ禍、プーチンのウクライナ戦争、イスラエルのゴザ攻撃と、世界も日本も大事件が絶えない。

その「50年」を思うと、重要指名手配を受けながら「49年」も逃走を続けた過激派「東アジア反日武装戦線」の「さそり」のメンバー、桐島聡容疑者(70)のことが妙に頭をよぎる。というのも、大道寺将司・元死刑囚(病死 獄中で書かれた彼の『大道寺将司句集』はすごく読ませた)らによって結成された彼らの一連の事件でも特に大事件として報じられた三菱重工ビル爆破事件(8人が死亡、380人けが)が起きたのは1974年8月。序説創刊のわずか4ケ月前だったからだ。

 1972年春の「連合赤軍事件」の発覚を受けた新左翼運動、全共闘運動は下降線にあったため、東アジア反日武装戦線の登場には驚いたことをよく覚えている。そのグループのひとり、桐島聡容疑者が半世紀も逃げ続け、朝日新聞(2月27日)によると、今年1月25日、末期の胃がんで入院した病院で「最後は本名で迎えたい」と、名を明かした。その死は4日後の1月29日だった。

 公安部の聴取に彼は神奈川県藤沢市の土木会社に120231021140342383560_350806de75c380d437 「内田洋」と名で約40年間、住み込みで働いていた。メンバーとの連絡は取らず、半世紀の逃亡生活では「ず

っとひとりで暮らしてきた」という。この報道で、彼は広島県内の高校を卒業し、1972年ごろに明治学院大に入学していたことを初めて知った。

 日刊「ゲンダイ」(6月27日)によると、日本赤軍の元メンバーで映画監督の足立正生氏(85)が桐島聡容疑者の人生に焦点を当てた新作「逃走 貫徹(仮題)」の制作に入る。最後の4日間を自らの人生を重ね合わせて描くという。「彼の生きざまは、地獄の沙汰では済まない残虐世界だったのか、しかし、同時に死の間際に『私はキリシマサトシだ!』と名乗り出て表現し、獲得しようとしたものは何か」。制作の狙いについて、足立監督はこう語っている。

 この50年、世界も私たちもさまざまなことに向かい合ってきたが、振り返れば、それほど長くは感じていない。むしろ、思う以上に意外と短かったのではないかという感覚がある。それとキリシマサトシの逃亡生活50年を重ね合わせてしまう。ほとんど同世代であることも、彼に関心を寄せる理由でもある。創刊「50年」という年月について、思いめぐらせると、今春、過去から突然、私たちの前に現れ、時の人になった彼の人生とは何だったのかと、腕組みしてしまう。

 

2024年7月16日 (火)

「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」について    常識の逆転が生み出す「生活の知恵」

創刊50周年記念号「序説第31号」91nxx8widl_ac_uf10001000_ql80__20240717004101     あとがき

 困難な物事を成し遂げるには、時期尚早だから先送りするのではなく、今はその時期尚早の行動こそが求められているのだ、その時期尚早の行動こそがそれに近づく方法であり、時期尚早の行動をとらざるを得ないのだ。それも成し遂げるためには失敗しても何度でも繰り返し時期尚早の行動に移るべきだ。いや、むしろ、もともとそうと考えたときは時期尚早こそが求められており、その行動の過程で、積み重ねたその行動の結果から、求めていた果実が生まれるのだー。

 創刊50周年記念号に寄稿した私の「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」は、「時期尚早」をめぐる差し迫った情況の際の判断の仕方、対処について考えをめぐらしたものだ。それもラカン派マルクス主義者の思想家、スロバキアのスラヴォイ・ジジェクの著書『事件!哲学とは何か』にある逆説的な文句「真理は誤謬から」を案内人として。そのきっかけは、権力の掌握をめぐり、今は時期尚早だというエドゥアート・ベルンシュタインに対するローザ・ルクセンブルクの反論のポイントから。その反論の構え方を何かの拍子にふと思い起こすことがあったからだ。

 「『見る前に跳べ』―」で書いているが、第一次世界大戦前のドイツ社会民主党の党内を二分したいわゆる「ベルンシュタイン論争」の一環だ。この論争は以前から妙に気になっていた。今回改めて未完のドイツ革命とローザの考え方をそれなりに追いかけることで、何とか納得がいくようにしたいと思っていた。その結果、私なりにローザの言い分を広く解釈していくと、冒頭にあげたような時期尚早をいわゆる早合点ではなく、拙速ではなく、むしろ前向きに、肯定的に、あるいは結果的にその方がいいのだという見方もできるというようにとらえた。

 この時期尚早論について、この発想を肉付けするというか、それなりにわかりやすくなる例え話のひとつとして、ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」を「さようなら原発!栃木アクション」の上映作品として選定していくかどうかの経緯を紹介するというやり方をとった。ただ、言えるのは、この例としてはふだんの日常にある別のどんな物事でもよかったのだ。たまたま今春の映画選定の会議に私がこの映画を推薦していたが、作品がやや古いため、これを強く推すことについて、やや迷ったという経験が頭をかすめたためだ。その判断の背景を紹介していけば、より具体的で、身近なものになるだろうと思えたのだ。

時期尚早というと、たいがいが否定的な用語として使われるのが常だ。だが、言いたかった、伝えたかったのは、物事を進めようとするとき、実は、発想を変えると、見方を違えると、逆に時期尚早という誤謬、つまり判断ミスになりかねない前のめりのその行動が、真理とは逆を行く判断が求められる場合、場面、状況があるのではないか。そういういわば生活の、知恵みたいなものを自問自答しながらだが、示したかったということだ。さて、問題は果たして今回の論考でそれが成功したかどうかだが?(冨岡洋一郎)

 

2024年7月15日 (月)

青臭い青春というものを、まだ否定できぬままに    「なるほどー」の『眠れぬ夜のために』

 

眠れぬ夜のために 1967ー2018 五百余の言葉』(五木寛之 新潮新書 2018年11月20日発行)からの引用。「なるほどねー」と思えた箴言(しんげん 教訓の意味をもつ短い言葉。格言)だったので、同人誌「序説第31号」の「編集後記」のキイワードとして使ってみました。
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「人間は変る、歴史も、世の中も、すべては変わる。あなたも、私も、彼らも。すべて年月とともに変わっていく。それが人間の成長なのか。それが人間の本当の現実なのか。私は青臭い青春というものを、まだ否定できぬままに年を重ねてきました」ー。
そして「青年は、荒野を目指す。老人もまた、荒野をゆく」~(この「老人もまたー」は、どちらかというと、そうだけど、苦笑してしまう一面もあるなとー)。

 

2024年7月14日 (日)

「青臭い青春」を否定できない色あせない気分   創刊50周年記念『序説第31号』編集後記

同人誌「序説第31号」編集後記 黒川純  2024年7月13日(土)

「人間は変る、歴史も、世の中も、すべては変る。あなたも、私も、彼らも、すべて年月とともに変わっていく。それが人間の成長なのか。それが人生のほんとうの現実なのか。私は青臭い青春というものを、まだ否定できぬままに年を重ねてきました」―。大河小説で映画にもなっている『青春の門』や『親鸞』、あるいは直木賞作品『蒼ざめた馬を見よ』などで広く知られる五木寛之の新潮新書『眠れぬ夜のために 1967ー2018 五百余の言葉』(2018年11月発行)にあるフレーズだ。初出は小説『内灘夫人』とある▼この同人誌『序説』は今回の31号で1974年12月の創刊以来、50年を数える。この半世紀を振り返った場合、この五木寛之が小説の中で語っている「私は青臭い青春というものを、まだ否定できぬままに年を重ねてきました」という言葉がまさにぴったりする思いがする。半世紀前、同人のほとんどが大学を卒業したばかりか、あるいは、除籍になろうかという年代。いずれにしろ全員がまだ20代前半だ。それこそ「青臭いPhoto_20240713234901 青春」にあった。いずれも年を重ねて、今やなんと70代という老人世代。働き盛りのときに四半世紀の期間、休刊していたが、2006年に復刊。以来、年に一度、この冊子を発刊してきた▼いわば欲得抜きに、手弁当そのものでつくっている同人誌をかくも長きにわたって継続してきたその原動力には何があったのか?母体となったのは、何度か書いているが、当時の大学改革をめざした「全学活動者会議」に集まった仲間たちだ。考えてみると、こうした冊子を世に送り出そうとした源流は、私たちが誕生させた全共闘系の大学自治会が発行した『創生 第3号』にあると思える。発行は1973年4月。『序説』創刊の1年8カ月前のことだ。この『創生』の代表は「序説」同人である高橋一男君、そして表紙担当はやはり同人の野村タカオ君だ。私もこの自治会誌に高本吾郎のペンネームで「或る闘争日記」を書いている。高本は当時、若者によく読まれた『邪宗門』の高橋和己と『共同幻想論』の吉本隆明から一字ずつとっている。今の若者にはなじみがないだろうが、この二人は当時の時代を代表する論客だった▼この高橋君は序説に「京と」を連載中だ。今号でなんと11回を数える。学生運動が盛んだった1969年6月に鉄道自殺し、その後、大学ノートに遺された彼女の日記で構成された『二十歳の原点』の立命館大3年生だった高野悦子(栃木県宇都宮女子高出身)を慕い歩きながら、建築についても語っている。1960年代末期を代表するこの本はベストセラーとなり、1973年10月にはこれを原作とした映画も公開され、私も観ている。半世紀前の『序説 創刊号』を開くと、高橋君は「ぼくたちはばくたちでありいつまでもぼくでありたい」という題名の断章を寄稿している。その結語で「富岡さんや弘君や園部君や野村君や大木君や君島君や安斎さんや、そして郡司君らと」と書いている。その50年後になった今年だが、ここに名前が挙げられた8人はいずれも同人や準同人で、なんと一人も欠けることなく『序説』に参加している。これにはいささか感慨深いものがあった。磯山オサム君が第二号から同人に加わっているが、基本的には創刊号仲間がそのまま50周年記念号を迎えたということだ▼『序説』は、この間、『東日本大震災・フクシマ原発特集』(2011年、第18号)、『特集 コロナと私たち』(2020年、第27号)、『小特集 ウクライナ侵攻』(2022年、第29号)の特集も組んでいる。こうした政治、災害、原発、戦争、社会、世間などに向き合っているが、その構えの大元は、その関わりの原点は、冒頭に挙げた「青臭い青春というものを、まだ否定できぬままに年を重ねてきた」ところにあるのではないかー。青臭いというと、人格や言動がまだまだ未熟だという意味とされる。だが、私たちの青くささは、未熟だというよりも、青春の特権である理不尽なこと、不条理なこと、不合理なことに対して、右顧左眄しないで、つまり、周りのことばかり気にして判断を迷うのではなく、それを見過ごすにできない心構えだと言えるではないか▼青臭いということは、否定的な意味ではなく、むしろ何事につけ、周りに合わせようとする同調圧力が強い今の時代には逆に肯定すべき貴重な姿勢、性格、志向ではないかと思う。五木寛之はその意味で語っていると読み取れる。さらに言えば、一般的な未熟さも抱えてはいるが、同時に青く若い純粋な気分を否定できないままに生きてきた、と伝えたかったのではないか。それを象徴するかのように今回の「創刊50年に寄せる」で、磯山君オサム君が「色あせない気分を保つ自分がいる」と伝えている。おおかたの同人の気分を代弁するかのような言い方だと思う。半世紀経っても、若者時代にその意思や行動を共有した創刊同人がそのまま健在であることを思うにつけ、そう思うことしきりだ。そのための編集後記の結語には、やはり五木寛之の『眠れぬ夜のために』にあり、『無力』が初出の以下のこの言葉が、それなりにふさわしいかもしれない。私たちをいささか元気づけようという思いもあるにはあるのだが(笑い)。「青年は、荒野を目指す。老人もまた荒野をゆく」(黒川純)

 

 

2024年7月13日 (土)

今年は「キュウリ」がもぎとれたよー   日光霧降高原のベランダ菜園

広いウッドデッキの一角にあるベランダ菜園(日光霧降高原)のキュウリがほぼ取り入れ時になりましたー。育っているのは、いまのところ4本。茄子は1本だけだが、一足早くもぎりました。期待しているピーマンがなかなか育たないのが気がかり。さて初めてのスイカはどうか?ー。昨年はいずれもほぼ失敗に終わったが、今年はそれなりのベランダ菜園になりそう。自力?へのささやかな「一歩」です~。 1450869177_7724111694384277_355714299716 450573845_7724111691050944_5424150804920

2024年7月12日 (金)

中国内戦に巻き込まれた闇に埋もれた日本兵      元残留日本兵のドキュメタリー映画「蟻の兵隊」    

facebookともだちがきょう7月12日にアップした映画情報ー。「蟻の兵隊」。本のほうは積ん読になっているので、読みたいが、まずは映画を(新潮文庫の「蟻の兵隊」は絶版になっているよう)。日光図書館でDVDを貸し出しているのは承知しているので、この際、日光図書館で借りで観ようかなとー。この夏、東京・渋谷ではアンコール上映されるようだがー。


(以下は、facebookにアップされていた内容です)
の夏になんとしても伺い観たい映画 「蟻の兵隊」。8/3(土)-8/16(金) 渋谷のシアター・イメージフォーラムにて「蟻の兵隊」をアンコール上映します。上映時間は連日11:00 初日上映後に舞台挨拶させていただきます。この夏、主人公の奥村和一さんは生誕100年を迎えます。20歳で戦争に行った人が生きていれば百寿を迎えるのですから、たしかに日本の戦争は遠くなりました。しかしながら、ウクライナにつづきガザも戦火に見舞われ、引きずられるように日本でも防衛力の増強が叫ばれています。戦争の足音が近づくいま、その戦争とは何か、戦争がいかに人間の理性を剥奪するのか、元中国残留日本兵・奥村和一の鬼気迫る姿から、再び多くを感じてほしいと願っています。

(以下は映画解説ー)

第2次世界大戦終結後、中国に残留して内戦に巻き込まれた日本兵を巡る“日本軍山西省残留問題”にスポットを当てたドキュメンタリー。軍の命令に従って残留した約2600人の兵士たち。ところが政府はその事実を否定し、彼らを脱走兵として扱った。国を相手に裁判を続ける残留兵のひとりである奥村和一が、真相を求めて再び中国を訪れる。メガホンを取るのは、デビュー作「延安の娘」が世界中の映画祭で絶賛された池谷薫。

2005年製作/101分/日本
配給:蓮ユニバース
劇場公開日:2006年7月22日



Top_imgjpg 在庫状況:絶版のためご注文いただけません



蟻の兵隊  日本兵2600人山西省残留の真相    新潮文庫 いー102ー1

新潮社 池谷薫  価格 482円(本体438円+税)



発行年月 2010年08月 判型 文庫
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内容情報
[BOOKデータベースより]

昭和二十年八月、日本は無条件降伏した。だが彼らの帰還の道は閉ざされていた!北支派遣軍第一軍の将兵約二六〇〇人は、敗戦後、山西省の王たる軍閥・閻錫山の部隊に編入され、中国共産党軍と三年八カ月に及ぶ死闘を繰り広げた。上官の命令は天皇の命令、そう叩き込まれた兵に抗うすべはなかったのだ―。闇に埋もれかけた事実が、歳月をかけた取材により白日の下に曝される。

序章 蟻の兵隊たち
第1章 終戦
第2章 密約
第3章 軍命
第4章 偽装解散
第5章 死闘
第6章 壊滅
終章 真実

2024年7月11日 (木)

久しぶりに「詩 懐かしい未来に出会うために」    創刊50周年の同人誌「序説第31号」へ

いやはや、数年ぶりかも?ー。詩を書いたのは。創刊50周年を迎える同人誌「序説第31号」(9月1日発行予定)へ。今回は過去の寄稿から「私の一篇」ということで、同人各人から募ってきた。「う~ん、これまでの寄稿から何を?」、そう思って、過去の序説をぱらぱらとチェックしてみた。その中から「詩 懐かしい未来の方へ」が特に気になった。見ると、序説第21号、2014年の詩だ。もう10年前になる。それに手を入れていたら、今回の創刊50年の空気、状況、政治に合わせるように加筆・修正していた。気がついてみると、その修正を数回、いや、たぶん7回ぐらいはやったかもしれない。ひとつの詩を書き上げるよりもたくさんの手間がかかったといえる。それにしても、どういうわけか、詩が書けるような心の構えが生まれないのか?。このところ、そう思ってきたが、いやいや、「まだまだ何とかなるかもしれない」。そうも思えた創刊50周年記念号に参加するための加筆・修正作業ではあった。これもひとつの収穫かもしれない。問題は、さて、これからも以前のように詩が書けるかどうか?ー。自問自答しているところだ。

 

 

詩 懐かしい未来に出会うために

           黒川純9e467934e8012953ff30b10f16092388

 

この時を越えて私たちが再び出会うため

ある晴天の真っ昼間にそこをめざす

強烈な思念で転移させる赤い絨毯を広げ

 

足裏の清き論理で首都の街路に飛び出し

半世紀も糸電話でコンタクトしてきた

戦後が生んだ荒波のような鬼っ子たち

 

肩を組んだ円陣になっていざあの向こうへ

遥か彼方の緑豊かな草原に着地できるよう

それぞれの人生の思いをひとつに同調させる

 

冷笑ばかりで手を汚さぬお利巧さんを決め

灰色の霧で煙幕を張る闇を切り裂くため

追われるだけで物言えぬ痛みを熱風に変える

 

怒りでついに立ち上がった大魔神さながら

見え隠れ出来ない透視力をトップギアにして

屁理屈をまき散らすだんまり屋を蹴散らす

 

お天道さまなぞ知らぬ存ぜぬと強弁し

小学生の足し算たちでさえ赤っ恥をかく

ご都合主義の裏金たちも懲らしめるのだ

 

ご先祖さまになるという祖父から教えられ

異国で散った幾百万人の死者の遺言である

未来に生きる倫理を強火で鍛えもする

 

キラキラと輝いて咲く朝顔の水滴で

心と心をお互いに洗い合うことができる

たくさんの精神の貴族たちにも招待状を

 

恐竜たちが逃げ惑う悪夢を追い払えば

女神も祝福する私たちの昼食会の準備が整い

ともにあの頃の懐かしい未来で出会える

 

(初出 「序説第21号」(2014年9月1日発行 「『懐かしい未来』の方へ」を加筆修正)

 

 

2024年7月10日 (水)

友達に自慢の?「ざるうどん」をふるまいましたー    我が家の定番メニューだが「美味しいね」

一緒に行動していた友達が家に寄った時間が昼過ぎだったので、我が家自慢?の「ざるうどん定食」を急いでふるまいました。いつもの定番のメニューですが、「美味しいねー」と。ひとしきり、餃子づくり、カレー、冷やし中華、コロッケ、カルボナーラ、天ざる、野菜炒め、肉豆腐、肉じゃが、ナポリタンなどの調理談義になりました~。 450911941_2825406594277478_4776403523446 450381074_7713283795467067_1342030454947 50429541_7713245808804199_11516301927146

2024年7月 9日 (火)

がんとの付き合い、すでに14年   現役記者が連載「患者を生きる」をスタート

うーん、35年前からよく知る小泉信一さん(編集委員)がこの連載「患者を生きる」(朝日新聞)を始めたのだね(かつて小泉さんは根室、私は帯広、広い北海道のためともに協力し合う道東の記者でした)ー。ぜひきちんとん、5回だという連載を読ませてもらおう。初回を読むと、小泉さんはがんとつきあって14年ー(そんな長いつきあいをしていたとは、知りませんでした)、でも、よくその後も「フーテンの寅」の渥美清さんや山田監督はもちろん、小泉さんらしい、思わず読ませるいい記事をたくさん書いていたね。「いい記事だねー」と、読み終えてから、筆者は小泉さんだったのかー。ということは何度もあった。こんなケースはあとは岩手県(私は北上兼応援デスク)で一緒だった東野真和くん(当時はBB、450350926_10229676440593368_572973534406 今は編集委員)など、数少ないー。

2024年7月 8日 (月)

タオル一枚では足らない「じゃがいも」収穫     栃木県営日光だいや川公園の体験農園講座

とにかく暑い、7月8日(月)。曇り空だったが、夏本番の汗が次々と。待望のじゃがいも収穫。県営日光だいや川公園の体験農園。「男爵」「きたあかり」「舟石芋」「赤石芋」「アンデス」「シャドークィーン」など。「とてもじゃないが、この汗ではタオル一枚では足らない」。そんな声が飛び交う。それでも収穫の喜びで、ややへたりながら2時間余りの作業を終える。「受講生」は15人。「今年はたくさん取れたね~」と笑顔で口々に。さっそく昼過ぎに試食へ。 450443018_7696428900485890_3498728773895 450226807_7696428897152557_7894183899486 Photo_20240708205601 450085887_7696471817148265_4543047949734

2024年7月 7日 (日)

暑い!涼しい霧降高原でも30度超え    扇風機、団扇、冷やしそうめん 蚊取り線香

いー。静岡では観測史上初の40度超えとか。ふだん涼しい日光霧降高原でさえ、今季初の30度超え。気温計を疑ったが、やはり30度を超えている。半袖、扇風機、団扇、冷やしそうめん、蚊取り線香、カルピス~。すっかり夏本番の風景だ。BGMはドヴォルザークの「新世界より」など11曲から成るCD。これを聴きながら暑さを避けようという遅い昼寝を決め込む~。 450130694_7691288744333239_1789727194849 449971214_7691288747666572_4533953645129 450215562_7691288760999904_7091278041872 449979617_7691298460998934_9077978124614

2024年7月 6日 (土)

生きているのは、おもしろかったです     川上弘美の連作短編小説集「どこから行っても遠い町」

魅力的な題名の連作短編小説集、「どこから行っても遠い町」(新潮文庫)。作者は川上弘美。内容紹介によると、「東京の小さな商店街とそこを行き交う人々の平穏な日々にある危うさと幸福」ー。と、あるが、11話から成る連作を読んでいくと、そんな簡単な紹介では済まない小説集だ。なによりも読み終えて思うのは、だいたい死者がそこここに影を落としていることだ。生と死を往還するようなあらすじになっている。面白いのは、第1話の「小屋のある屋上」と最終第11話の「ゆるく巻くかたつむりの殻」が実は表と裏のようにつながったつくりになっていることだ。解説でも最後を読み終えた際、再び第1話をひもといてしまうだろうと。そう書いているが、確かに私もそのように第1話を再び手にしていた。死者については、この本の結語の3行にくっきりと。すでに死んでいる彼女が語り手になった方法を取っている。う~ん、確かに読ませはするが、川上文学の特徴なのだろうが、いずれも各話とも宙ぶらりんの状態のままに。つまり、結末を示さない形式で終わらせている。そういう書き方というか、そういう形式を意識的に選んでいるのだろうが、私にはやや消化不良気味の思いも残されたー、そんな読後感もある。それを差し引いても、ともあれ「名作」の部類に入るかもしれない。

最後の3行は印象に残る

「生きているのは、おもしろかったです。死んでからは、もう新しいおもしろいことは起こらないから、ちょっとつまらないけれど、捨てたもんではなかったです。あたしの人生も」

容情報
[BOOKデータベースより]

男二人が奇妙な仲のよさで同居する魚屋の話、真夜中に差し向かいで紅茶をのむ「平凡」な主婦とその姑、両親の不仲をじっとみつめる小学生、裸足で男のもとへ駆けていった魚屋の死んだ女房…東京の小さな町の商店街と、そこをゆきかう人々の、その平穏な日々にあるあやうさと幸福。短篇の名手による待望の傑作連作小説集。

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2024年7月 5日 (金)

物事の判断に活かせる「逆転の発想」   「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」完全版

物事の判断に活かせる「逆転の発想」、その完成版1万4290字。時間があるときにチェックをー。

「見る前に跳べ」、真理は誤謬から127827_20240705191401 5181lnwrvql_ac_ul600_sr600600__20240705191601 81rinrfo9dl_ac_uf10001000_ql80__20240705191601 91nxx8widl_ac_uf10001000_ql80__20240705191701

   行為は常に早すぎると同時に遅すぎる                                          

                                                    富岡洋一郎

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真理は誤謬、あるいは誤認から生まれる。あるいは、真理は常に早すぎると同時に遅すぎる。行為にとってちょうどいい時期などないのだー。現代思想の「奇才」と呼ばれるスロベニアの思想家、スラヴォイ・ジジェク(1949年~)の著作『事件! 哲学とは何か』(2015年10月初版 河出ブックス)にあるフレーズだ。真理の反対語である誤謬が真理を生み出す?―。意表を突くこの言葉に「え!そんなことがあるの?」。そう言いたい気分だ。物事の意味を逆転させた言い方に戸惑うばかり。

テレビアニメの「日本昔話」の「一休さん」」の典型的な頓智に有名な一話がある。「屋敷に来る際、この橋を渡って来てはならない」という指示に、一休さんは堂々と橋を渡って行った。指示に逆らったとした詰問に、一休さんは「橋(端)を渡ってはいけないというから、真ん中を歩いて来ました」と、すまし顔で答えた。何かそんな場面を思い起こす言い方だ(少し違うかー笑い)。

いずれにしても、何かの物事に踏み出す際、行為は早すぎると同時に遅すぎると言われてしまうと、「では、どうすりゃいいのさ、この私はー」。そう言いたくもなる文句だ。ただ、この言葉について、彼が説く文章をゆっくり追っていくと、なかなか意味深な、味わい深いものがある。それも胸に手を当てると、私たちの日常的なさまざまな場面であてはめることも可能だと思う。

それにしても、冒頭からいきなりジジェクのフレーズを紹介されても戸惑ってしまうだろう。なぜ彼なのかー。もともと私は社会学者・大澤真幸(おおさわ・、まさち、1958年~)の「ファン」だが、その彼がジジェクの『事件!』を高く評価していた。それが手にするきっかけだった。大澤真幸には『虚構の時代の果てーオームと世界最終戦争』(ちくま新書)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『夢よりも深い覚醒へー3・11後の哲学』(岩波新書)、『社会学史』(講談社現代新書)など、新書も含めたくさんの著書があるが、いつもシャープな鋭い切れ味に感心しながら読んでいる。その彼が評価するジジェクを読まないではいられない。

ジジェクは今年5月に発刊されたばかりの『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書)や『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(2010年7月、ちくま新書)の紹介によると、ラカン派マルクス主義者で、リュブリャナ大学社会学研究所教授。ラカン派精神分析の立場からヘーゲルの読み直しを行い、マルクス主義のイデオロギー理論を刷新、全体主義などのイデオロギー現象の解明に寄与とある。確かにどの新書を読んでもラカンの精神分析用語が散りばめられており、だからか、読後感はいつも煙に巻かれたようだ。

 

(2)

そのうえで冒頭のジジェクの説く「真理は誤謬、誤認から生まれるー」という本題に戻すと、そのひとつとして、例えとして適切かどうかではあるが、今春、私が立ち会ったドキュメンタリー映画の上映の適否をめぐる判断があるかもしれない。市民団体「さようなら原発!栃木アクション」がこの11月23日(土)に宇都宮城址公園を出発会場にして行う脱原発パレードに関連するイベントについてだ。「栃木アクション」は、福島第一原発事故を受けて、東京だけではなく、栃木県でも大きな脱原発パレード・デモをつくれないか、そう考えた市民団体や労働団体、生活協同組合、政党などが「脱原発」の一点でまとまった超党派の実行委員会だ。私も役員をしている「原発いらない栃木の会」が事務局を担い、代表を務めている「さよなら原発!日光の会」も主要な構成メンバーのひとつ。2011年3月11日の福島第一原発事故の翌年、2012年秋に初めて実施した。この初回は予想以上の手応えがあり、参加者は2500人を大きく超えた(初回のこのとき、私は集会の司会者のひとりを務めている)。しかし、原発問題に対する風化現象か、このところ、参加者は減少傾向が続いている。昨年の2023年は800人ほどと、当初の3分の1に減ってきている。

 

 この傾向をばん回するためもあり、数年前から本番の「栃木アクション」の前に「栃木アクションプレ企画」と題して、栃木県内各地で脱原発に関連した連続映画上映会を企画している。昨年は宇都宮、日光、下野、佐野、那須塩原の各市でドキュメンタリー映画「原発をとめた裁判長」の無料上映会を開き、本番への参加を呼びかけている。<さて、今年は?>―。その映画作品を最終的に決める幹事会が6月8日に宇都宮の栃木県弁護士会館であった。この日は同弁護士会館で130人が参加した「原発いらない栃木の会」主催の第14回総会記念講演会、ジャーナリスト・青木美希さんの「なぜ日本は原発を止められないのか?」もあった。

それに先立つ幹事会では、世界は「核のゴミ」をどうやって処分するのか?ひとりの著名な科学者がこの問題と正面から向き合う旅に出る「地球で最も安全な場所を探して」など何本もの映画作品が候補にあげられた。最終的に決まったのは脱原発を決めたドイツの歴史的な背景や事情、判断をドキュメンタリーで描いた坂田雅子監督の「モルゲン(ドイツ語で明日)」(71分)。

「モルゲン 明日」の制作・公開は2018年10月とやや古い。ただ、予告編などから、ヒトラー政権、1968年の学生運動、1986年のチェルノブイリ原発事故でのドイツの実際の被害、それらを受けた「緑の党」の躍進、さらに2011年3月11日の福島第一原発事故を深刻に受け止めたメルケル首相の再度の脱原発宣言、そして2023年に原発ゼロにして、再生可能エネルギーを急成長させていく社会の動きが描かれるなど、観るに値するドキュメンタリー映画だ。

 実際にドイツは昨年2023年4月15日に最後に残っていた3基の原発を止め、原発ゼロを達成している。事故の当時者である日本はというと、承知のように、昨春、「原発回帰」の方針に舵を切る愚かな政策を決めている。このため、ドイツの脱原発から1年の今春、<今年はウクライナ戦争でエネルギー事情が大きく変わった世界の中でも脱原発を実現させたドイツの事情を歴史的な背景も含めて知るべきだし、伝えるべきだろう>、そう思い立ち、私から栃木アクション幹事会に「今年の映画会は『モルゲン 明日』の作品を」と、強く提案した。

 幹事会では「モルゲンには日本の事情がほとんど描かれていないので果たしてたくさんの参加者が集まる映画作品として適切かどうか」という声もあった。だが、「モルゲン 明日」の公式HPにあった有識者のコメントを提示したことで大半がこの作品を推した。加藤登紀子さん(歌手)、中沢けいさん(小説家)、菅直人さん(元首相)など何人ものコメントがあるが、特に印象深いというか、上映判断をするために決定的だと思わせる評価があった。脱原発の映画監督でも知られている河合弘之弁護士のコメントだ。

 

涙が出ました。感動の涙と悔し涙です。 私の映画「日本と原発」「日本と再生」で描き得なかった 前史(ドイツの脱原発、自然エネルギーの)と、 未来図(使用済核燃料の処理、自然エネルギー100%への展望)が描かれています。 日本とドイツの違いがよくわかりました。 しかし私たちも、近い将来、ドイツに追いつけると思います。

 

(3)

 この「モルゲン 明日」をぜひ上映したい、そう強く思ったのには、今春、積読だった文芸評論家・加藤典洋(かとう・のりひろ)の評論『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(岩波書店 2013年1月9日第1刷)を読んだことで触発されたことが大きい。加藤典洋は特に親しんできた作家だ。新聞記事を書くうえで大いに役立った『言語表現法講義』(1996年 新潮学芸賞)をはじめ、『敗戦後論』(1997年 伊藤整文学賞)、『日本の無思想』(1999年)、『戦後的思考』(1999年)、『さようなら、ゴジラたちー戦後から遠く離れて』(2010年)、遺書とも言える『9条の戦後史』(2021年)などを読んできた。

そうそう、『加藤典洋の発言(1)―空無化するラディカリズムー』、「同(2)―戦後を超える思考―』、「同(3)―理解することへの抵抗―』(1996年~1998年)の3冊の対談集も手にしている。それほど信頼できる同世代の文芸評論家のひとりだった。残念ながら、2019年5月に71歳で病死している。この『ふたつの講演―』は、特に福島第一原発事故をテーマにした講演集だ。そこで原発をめぐり、ドイツと日本について、指摘している以下のくだりに「なるほどー」とうなずいた。

 

ドイツは、1986年のチェルノブイリ事故から、14年後、2000年にシュレーダー首相のときに、脱原発を決め、17年後、2003年にイラク戦争に反対することで、対米独立へと進みます。25年後、転変の後、福島第一の再度の原発事故を経て、ようやく脱原発の実行へと踏み出します(・・・・)ところで、チェルノブイリ核災害から、3・11までの時間は、1986年から2011年までですから、第一次世界大戦(1914年)から第二次世界大戦(1939年)までと同じ、25年なのです。日本がドイツと同じ歩みを行うとして、その年数を仮に当てはめれば、私たちは、14年後、2025年に、脱原発へと進み、2028年に対米独立を確立し、20年後、2031年に、ようやく事故にあった原発の廃炉作業を完了し、2036年に全面的な脱原発、あるいは、次の段階への第一歩を踏み出す、というようになるでしょう。そして、いま私たちがどこにいるか、を考えるなら、まだまだ。「お楽しみはこれからだ」というところなのです。いまやるべきことが、こうした25年を見据えた、大きな「穴ぼこ」の直視と、大いなる覚悟と、長い射程をもった問題意識であることが、わかると思います。

 

歴史的な時間軸についてだが、〈そう指摘されれば、確かにその通りだが、そうなると、今進めている脱原発運動は大いなる覚悟がいることにー〉、そう思わされた。特に「長い射程をもった問題意識」というフレーズが残像として映った。脱原発を果たすには、確かに腰を据えてやらないといけないなと思わせた一文だった。

一口に原発問題といっても、岸田政権の原発回帰政策、エネルギー基本計画の審議状況、全国各地の原発運転差止訴訟の判決や仮処分決定、東電刑事裁判の行方、ドイツや世界各国の脱原発動向、核兵器禁止条約の発効状況と国内批准問題、東海第二原発の再稼動問題、能登半島地震と原発事故避難問題、福島第一原発の原発汚染水の海洋放出、核燃料サイクル問題、311子ども甲状腺がん裁判の進展状況、再生可能エネルギーの展開の動き、マスコミ各紙の原発問題の世論調査結果・・などがある。

いやはやちょっと思い浮かべただけでもこれだけの課題があり、知るべき報道、向き合う行動や参加すべき日程などがある。これらの問題に確かに少し一喜一憂してきた面があることは否めない。だが、「長い射程をもった問題意識」をという指摘をされると、確かに関心を広く持ちつつ、もっと冷静に。刻々と変わっていく原発問題に向き合うには、そういう構え方が必要ではないか。そのように加藤典洋さんから助言された気がする。

 

 加藤典洋を読んでいる前後の期間、国際環境NGO「FOEJAPAN」が主催する脱原発連続講座にZOOMで参加している。ドイツの代表的な環境団体が今春来日し、いかにドイツが脱原発を果たしたか、今後の課題は何かなどについて講演した。印象に残ったのは、ドイツは第二次大戦後から広範な市民による長い環境保護運動の歴史があるということだった。それもあり、いやがうえにも、脱原発に向かうドイツの歴史を知ることが不可欠だと思ったのだった。私が「栃木アクション」幹事会にドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」を強く提案したのは、こうした経緯があったからだ。

 

(4)

 ただ問題は、この作品がつくられたのが、つい最近ではなく、2018年であり、最新作ではないこと。〈さてどんなもんだか?〉―。私でさえ、そう思った。でも、やはり上映すべき作品だろうと思い直した。そう判断したのは、冒頭で紹介したスラヴォィ・ジジェクの思いもよらない見方、発想、断定を知ったことが大きい。それは、この作品を推したことに限らず、さまざまな状況の判断の際に役立てられるだろうとも思ったことだった。そのひとつの例が、第一次大戦前のドイツ社会民主党の基本路線を揺るがした歴史的な論争、「ベルンシュタイン論争」だろうと。それも主役は、ドイツ社会民主党の女性革命家だったローザ・ルクセンブルク(1871年~1919)だ。

 

これはローザと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの論争だ。「修正主義論争」と言われている。それをうまく伝えていると思われるのが、やはり同世代でドイツ近・現代史が専門の東大名誉教授・姫岡とし子(1950年~)の著作『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』(2020年11月一刷 山川出版社)。そこの「修正主義論争」(27頁~35頁)から抜き出してみる。

 

1891年のドイツ社会民主党のエルフルト綱領は、資本主義社会の矛盾の増加による階級闘争の激化の不可避性と、それを基盤としたプロレタリアートによる政治権力の奪取と社会主義体制の実現というマルクス主義的な政治原則を採択していた。他方で党は、政治革命達成のための勢力基盤の拡大のために、実践面では時代変化に対応した体制内改革を実現する合法的闘争と労働者の生活改善要求を重視していた。党は、1890年の社会主義者鎮圧法の廃案と高度工業化時代の到来によって勢力基盤を著しく増大させて大衆化し、帝国議会選挙でも躍進を続けていた。また議会内での実質的な社会改良闘争を重視する党員も増えていた。そのようななかで、イギリスの改良主義的な労働運動の影響を受けていたベルンシュタインが、1896年から98年にかけて、「ノイエ・ツァイト」誌上に「社会主義の諸問題」に関する一連の論文を発表し、資本主義崩壊の必然性というマルクス主義の基本原則を否定した。議会活動や労働組合運動などの合法的手段によって漸進的に改良を重ねていけば、労働者の生活・労働条件は向上し、権利は保障され革命なしに社会主義への道が開ける、と主張したのである。

 

 同書によると、これにローザが反論し、党内を二分する大論争へと発展させた。ローザの論文はパンフレット「社会改良か革命か?」として出版された。社会民主党のリューベック大会(1901年)でも修正主義は断罪され、ドレスデン大会(1903年)では否認が票決された。1904年の第二インターナショナル・アムステルダム大会も修正主義を否決し、この論争にようやく決着がついた。ローザは、党の内外から注目される人物になるとともに、党執行部からも頼りにされる存在となったのである。

 

ローザの論理について、同書『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』はこう記す。

 

恐慌の消滅、労働者の窮乏化の可能性の低下、労働者の経済的・政治的地位の向上によって資本主義の全般的崩壊が困難になっていると主張するベルンシュタインに対し、恐慌が起きないのは世界市場が今なお発展途上にあるからであり、世界市場の完成によって拡大の余地がなくなると、生産力の上昇と市場の限界との衝突が起こり、資本主義経済の無政府性が増大して資本主義は崩壊する、との結論を対置した。この資本主義の発展段階の画期は、その後の著作で展開される帝国主義論へと繋がっていくものであった。ローザは、資本論の論理を継承しながら、それをマルクスの時代にはまだ顕現していなかった、あらたな段階への展望と繋げて論理化したのである(・・・・・)ただし、彼女は改良闘争を否定しているわけではなかった。資本主義国家内部での生活状態の改善、労働者保護立法や民主的権利の拡大をめざす戦いは、労働者階級を教育し、組織し、革命に向けて準備させる手段だと考えていた。革命という目標なしには、改良闘争は社会主義的な性格は持たず、改良が自己目的化されることを批判したのである。

 

(5)

と、まあ、ベルンシュタイン論争の骨格を紹介してみたが、主題に沿った関心はその過程での権力掌握についてのローザのベルンシュタインへの反論の仕方だ。『事件!』によると、ベルンシュタインは、まだ状況が熟していないからプロレタリアートが権力を掌握するのは時期尚早だという主張。これに対し、ローザがふたつの点から反論したとある。

 

ローザが反論する。

社会主義による変革は長く辛抱強い闘争を前提にする。その過程でプロレタリアートが撃退されることは大いにあり得る。闘争の最終的結果からみれば初めて、早すぎる時期に権力の座につくことが必要となるだろう。(・・・・)プロレタリアートによる「時期尚早の」国家権力奪取を回避することは不可能だ。なぜならそうしたプロレタリアートによる「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから。権力掌握をめぐる政治的危機の過程で、長く辛抱強い闘争の過程で、プロレタリアートはある程度の政治的成熟を身につけ、それがやがては革命の決定的勝利を生むのだ。(・・・・)プロレタリアートは「時期尚早」でなくして権力を掌握できない。プロレタリアートは、永遠に権力の座を保てるようになるまでに、一度あるいは数度、「時期尚早」に権力を掌握せざるをえないのだ。「時期尚早の」権力奪取に反対することは、結局のところ、国家権力を掌握しようとするプロレタリアートの希望全体に反対することに他ならない。

 

『事件!』は、「時期尚早」をめぐる点について、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」とたたみかけ、この段落の結語に向かう。少し長いが、大事な場面なので、この部分の全体を示してみよう。かなり難しい言い回しになっているが、全体的な意味はとれるだろう。ローザの反論のすぐ後に以下のように語る。ローザの反論は『事件!』の「真理は誤謬から生まれる」(109頁)の小題にあるが、結語を示す前に「誤謬」について、短い説明が必要だろう。この辺りを理解するためのキイワードになるためだ。ネットから拾った誤謬の意味はこうだ。

 

誤謬は思考内容と対象との一致しない思惟,判断などをいい,真理の反対語。誤謬の原因については,先入見,判断力の不足,思考のエネルギーの不足,集中度や恒常性の不足,認識材料の不足など種々あげられる。

 

誤謬は真理の反対であり、判断力不足や認識材料の不足など、いずれも否定的な意味ばかりだ。ところが、ジジェクはこの誤謬に大きな意味を与える。誤謬、誤認にこそ、ある物事を判断する際の力点になるというのだ。これを伝えたうえで、「時期尚早」の周辺について、ジジェクの論を以下に紹介する。

 

ちょうどいい時期に達するまでに何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような、外部の立場はない。なぜならこれはラカンのいう「真理は誤認から生じる」の一事例だからである。そこでは「時期尚早」の企てが時間性の空間/規模を変える。主体は「見る前に跳び」、条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒す。主体の象徴的秩序への関わりが線的な時間の流れを両方向に推し進める。一方では促進し、他方では逆行させる(事物は遡及的にそれ自身になる。ある物のアイデンティティは、それがそれ自身に対して遅れたときにはじめてあらわれる)。要するに、すべての行為はその定義からして時期尚早であり、同時に遅すぎる。もし早すぎると、その行為は行為への移行、つまり、行き詰まりを打開するための暴力的な回避になってしまう。もし好機を逃し、遅れて行為に及んだ場合には、その行為は事件としての、つまり、「すべてが変わってしまう」ような結果をもたらす根源的な介入としての特質を失い、事物の秩序内のたんなる部分的変化、事物の正常な流れの一部になってしまう。もちろん問題は、行為というものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為は、それ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ。ちょうどいい時期を待っていたら、その行為は事物の秩序内のひとつの出来事にすぎなくなってしまう。

 

(6)

では、1918年秋のドイツ革命のときのローザは、どんな動きをしていたのかー。『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』と評伝『ローザ・ルクセンブルク 思想と生涯』(1998年9月増補版第一刷 パウル・フレーリヒ 伊藤成彦訳、御茶ノ水書房)から素描的に追ってみたい。

第一次世界大戦でドイツの敗北が不可避となった1918年10月、ドイツの平和と社会変革を求める動きは活発化していた。10月末の出撃命令の拒否を契機とする水兵の蜂起に続き、各地で「レーテ」(労農評議会)が結成され、革命の火の手があがった。ローザが考えていたように、情勢が熱したときに大衆が自発的に革命行動を起こしたのである。

ベルリンに11月9日がやってきた。数十万の労働者がその朝、工場から潮のように押し出してきた。内戦に備えて結成されていた士官の特別部隊までもが降伏した。共和国が宣言された。皇帝ウィルヘルム二世はオランダに逃亡した。各地の監獄の扉も開いた。4年3ケ月の大戦中、実に3年4カ月、獄中にいたローザも11月9日にようやく自由になった(ローザはこの2ケ月余り後に、反革命派の手で虐殺されてしまうのだがー)。

この当時のローザについて、パウル・フレーリヒはこう書いている。

 

革命舞台での登場人物の性格や、その動きや、革命全般の力関係を、ローザ・ルクセンブルクは鋭い洞察力を発揮して可能な限り把握した。彼女は直感的に情勢が困難であることを理解したが、その困難に屈服するどころか、もっぱらそれを克服することを課題とした。彼女はサン・ジュスト(フランス革命におけるジャコバン党の指導者。「果断こそは緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」という言葉を残している)同様に、果断こそは革命の第一の要諦であることを知っていたが、しかしまたきわめて慎重でもあった。彼女は決して一日だけの成功を望まず、また未熟な果実を穫り入れようとはしなかった。彼女はベルリン到着の直後からこの態度を示した(・・・・)彼女は魂の焔を燃え立たせ、時代の嵐が吹き抜けるような、情熱的で激烈な論文を書いて、日々の事件に光を当ててその意味を説き、その行きつく先を明らかにした。高い処から鳥瞰するように、彼女は革命の全景を視野に収め、敵の動きを鋭く観察した。かつてのマラーのように、彼女はわずかの兆候から反革命の陰謀やその計画を見抜いたが、それがいかに確実であったかは、はるか後になって不動の証拠によって初めて確証されたのであった。彼女は革命の敵を容赦なく攻撃したが、同時に大衆の行動を慎重に観察してその弱点を批判し、またその前進を称揚して、権力の奪取という大目的に向けて指導していった。

 

 この記述から、ローザがベルンシュタインに放った反論である「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから」というフレーズを思い起こすことは容易だろう。それも「果断こそが緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」というサン・ジュストが残したという断定をよく知って、目の前の革命期に対処していたことがうかがえる。

 

 これらから、私に引き付けると、ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」について、上映を強く推そうか、推さないかーとやや迷った際、ベルンシュタイン論争のときのローザの反論、ジジェクのその解説、そして革命期のローザの対処の姿勢を知れば、やはりここは推薦していくべきだという選択を選ばせた。というのも、「要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」「行為と言うものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」、あるいは「攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり」、「果断こそが緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」という、いわば「警句」というべきフレーズの確かさを身体の内から感じとったからだ。

「モルゲン 明日」は、できれば公開の同時期に、つまり、2018年10月の公開を受けてすぐに上映すべきだったのだ。しかし、この映画を知ったのは2024年の今春であり、現実にかなわかったろう。でも、この映画の大事さを知ったのだから、やや遅すぎても上映すべきだと。ジジェクの言うとおり、改めて「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」と知りつつ。その言葉を文字通り了解したのだった。

 

(7)

ここで登場させたローザについて、付け足しておくと、もともと彼女はロシア革命を高く評価する一方、革命を主導したボリシェヴィキの組織論については、厳しく批判したことで知られる。具体的に彼女の考えを伝えるには、ロシア革命が進行中の1918年秋、ブレスラウ監獄の中で執筆したとされる「獄中草稿 ロシア革命論」を示すことが最適だろう。『ロシア革命論』(1990年6月初版第2刷、伊藤成彦、丸山敬一訳、論創社)によると、ローザの「獄中草稿」が社会主義圏で初めて陽の目をみたのは、ようやく1970年代になってから。国際共産主義運動の歴史の中で実に数奇な運命を辿ったのだという。批判の最もポイントとなるローザの指摘は以下だ。

 

普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活となり、そこには官僚だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義をもった数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の10人ぐらいの傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリートが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために、時折会議に召集される、ということになろう。つまり要するに同族政治なのだー独裁には違いないが、しかしプロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまりまったくブルジョア的な意味での、ジャコバン支配のような意味での独裁なのである(・・・)そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等といった公的生活の野蛮化をもたらさずにはおかないであろう。これはいかなる党派も免れることのできない強力な客観的法則だ(『ロシア革命論』45頁~46頁)。

 

 

「現代の最もすぐれた女性政治思想家」とされる哲学者で、『全体性の起源』や『人間の条件』などで知られるハンナ・アレント(1906年~1975年)は、荒廃する世界に抗い、自らの意思で行動し生きた人間に共感と敬意を込めてスポットを当てた『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)の著作もある。取り上げているのは、カール・ヤスパースやベルトルト・ブレヒトなど10人だが、ローザをほとんど真っ先に取り上げている。そこでのアレントの筆から、ボリシェヴィキの組織論に対するローザの批判の確かさをさらに改めて知ることができるだろう。

 

革命を戦争と虐殺との不当利得者―それはレーニンの少しも意に介するところではなかったがーとみることは彼女の意に反することであったろう。組織の問題についてみれば、彼女は人民全体が何らの役割も何らの発言権を持たないような勝利を信じていなかった。実際彼女は、いかなる代償を払っても権力を保持するなどということをほとんど信じていなかったため、「革命の失敗よりも醜悪な革命のほうをはるかに恐れていた」。このことは事実上、ボリシェヴィキと「彼女の間の大きな相違」だったのである。ところで、事態は彼女の正しさを証明してきたのではなかろうか。ソヴィエト連邦の歴史は、「歪められた革命」の恐るべき危険に関する一つの長い実例ではなかろうか。彼女が予見した「道徳的頽廃」―もちろん彼女はレーニンの後継者の公然たる犯罪を予見してはいないがー(・・・・)レーニンが用いた手段は「まったく誤っていた」こと、救済への唯一の道は「出来るかぎり無制限で広範な民主主義と世論という公的生活それ自体による教育」であったということ、さらにテロルがあらゆる人を「混乱」させ、あらゆるものを破壊したことなどはすべて真実だったのではなかろうか(『暗い時代の人々』87頁~88頁)

 

たまたま「モルゲン 明日」の上映を例のひとつとして挙げたが、繰り返しになるが、この手の問題は常に身の回りにあることだ。その際には、このジジェクの説明が、というか、まるでメビウスの輪を思わせる指摘が判断の材料になるだろうと思う。ということを考えていいたら、たまたまだが、6月28日(金)のTWITTERで、文芸評論家で詩人でもある若松英輔さん(1968年~)が、こんなツイートをしていた。若松さんの著作で読んでいるのは『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶応義塾大学出版会)や『池田晶子 不滅の哲学』(亜紀書房)とごく少数だが、ふだん生死をめぐる周辺についてのその真摯な発言に関心を寄せている作家のひとりだ。

 

面倒に感じることはなかなか着手できません。よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。思想家で法律家、優れた実務家でもあったヒルティは、着手することではじめて最適な方法に出会うというのです。文章を書くことにおいても同じだと私は思います。

 

「よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。着手することではじめて最適な方法に出会う」―。これなどは、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ。行為というものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」という見方にある種、通じる言い方だ。

 

この「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」は、今回の序説50周年記念号に合わせて、序説第23号(2016年)に寄稿した「折々の状況 その(2)」の冒頭部分「『事件!』―新しい何かが突然に」をさらにもう少し突っ込みたいと思ったことで書いてみた。若松英輔さんがつぶやいた「着手することではじめて最適な方法に出会う」ではないが(最適かどうかは疑問だがー)、まとめてみようと考えた。ベルンシュタイン論争のローザ・ルクセンブルクの言い分が何かの課題に向き合わざるを得ないときにふと浮かぶことがある。なので、すでに一世紀も経ているが、今も色あせないと思うそのローザの構え方を現在と向き合わせたかったことは確かだ。

 

(8)

ちなみに『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』によると、ローザが獄中で書いた指針は、あくまで帝国主義に反対する国際的な階級闘争の推進を追求し、インターナショナルをプロレタリアートの祖国として最優先するものであった。この指針にもとづいて「スパルタクス団」が誕生した。ローザの見解は、「スパルタクス団」の綱領として発表され、のちにドイツ共産党設立大会で党綱領として採択された「スパルタクス団は何を求めるか?」の中には、ローザが『ロシア革命論』の中で展開したボリシェヴィキ批判の精神が如実に示されている。

『ロシア革命論』の訳者のひとり、伊藤成彦は同書の長編の解説である「ローザ・ルクセンブルクとロシア革命」で、この精神、つまり「党組織論と社会建設論」の姿を短い文章で的確に描いている。

 

社会主義革命における大衆の自立性、自発性、創造性とそのための自己変革を強く主張したローザ・ルクセンブルクが同時に強く否定したのは、指導者と大衆の二元論に立って大衆を客体視。手段視する考え方であった。政党の綱領としてはまことに異色のものであろうが、「スパルタクスブンドは何を求めるか?」の終わりに、彼女は「スパルタクスブンドは労働者大衆を超えて、あるいは労働者大衆によって支配しようとする党ではない」と書いて、つねに労働者大衆とともにあることを公約していたのである。この言葉は明らかに、レーニンとは異なるローザ・ルクセンブルク独自の党組織論と社会建設論から発したものであった。実際、「スパルタクスブンドは何を求めるか?」は、ローザ・ルクセンブルクとスパルタクスブンドの独自な社会主義像を綱領として提示したものであった。

 

真理は誤謬、あるいは誤認から生まれる。あるいは、真理は常に早すぎると同時に遅すぎる。行為にとってちょうどいい時期などないのだー。スラヴォイ・ジジェクの考えてもいなかった、とっぴもない見方から小論を進めてきた。だが、終わりの方はローザ・ルクセンブルクの主張する組織論・社会論にかなり比重がおかれてしまった。これはベルンシュタインとの権力奪取をめぐる論争でのローザの発想の源泉はどこから来ているのか?―その疑問、関心をドイツ革命の経過も含めて追いかけてきた結果だ。ローザの組織論や社会論にその前史というか、その発想があるのではないか?―。そこに関心が移っていったためだ。結果的にその試みはあまりうまくいったとはいえない。ただ、気がつけば、書いているうちに、そんな流れとなっていた。ということを、結びはやや横道にそれてしまった「言い訳」にして、この「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」を閉じたい。

 

なお、ローザの死は、姫岡とし子が結びの「1月蜂起と虐殺」でこう伝える。ローザはカール・リープクネヒト(弁護士、社会民主党最左派議員 1871年~1919年)とともに未完に終わったドイツ革命の最中の1919年1月15日夜、隠れ家からベルリンのエーデンホテルにおかれていた近衛騎兵隊狙撃師団の臨時司令部に連行された。ごく簡単な尋問のあと、まずリープクネヒトが刑務所行きをよそおう車に乗せられ、殺害された。ローザは、ホテルの外に連れ出され、銃尾で頭蓋骨を強打されたあと、車の中で射殺された。運河の中に投げ込まれた遺体は、5月末に水門にうちあげられて発見された。

 

ローザを知るにはすでに紹介した「数奇な運命を辿った」という彼女の著書『ロシア革命論』や主著『資本蓄積論』(岩波文庫など)、やはり紹介した評伝『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』などがある。私は学生時代に『経済学入門』(岩波文庫)や『獄中からの手紙』(岩波文庫)を斜め読みしている。手元に『女たちのローザ・ルクセンブルク フェミニズムと社会主義』(田村雲供、生田あい共編、1994年9月初版第1刷、社会評論社)が積読になっているため、今回を機会にこれから読んでみたい。2024年はローザ・ルクセンブルクが虐殺されてから105年になる(了)

 

2024年7月 4日 (木)

「ヒューマニズムとテロル」を再読へと思わせた      『戦後フランス思想ーサルトル、カミユからバタイユまで』

サルトル、カミユへの関心から手にした新刊の中公新書『戦後フランス思想』(伊藤直 2024年4月25日発行)ー。同時代のボーヴォワール、バタイユの軌跡や彼らの交友も知ることができ、「浅学菲才」の身にはありがたい新書だ。私的には中でもメルロ=ポンティに関する第4章「世界と歴史へのまなざし」に眼が行った。

それもポンティの著作「ヒューマニズムとテロル」に関して。この本は1970年代前半、私が学生だったとき、学生や会社員たち数人で読書会をつくったときがあるが、そのテキストがこの本だったためだ。なぜ、「ヒューマニズムとテロル」を選ばせたのか、今となっては思い出せない。ただ、70年安保の熱気は続いており、「暴力」の問題をどうとらえるかは、課題だったのは確かだ。

そのとき表題に惹かれていたこともあり、この本が実は戦後間もない1947年だったとはー。「戦後フランス思想」で今回知ったほど。またこの本をめぐり、カミユとポンティが仲たがいしたことも知った。当時、難解な文章であることは覚えているが、内容まで理解したという記憶はない。それもそのはず、ポンティの文章は「いくら読んでもわからない」という評者もいるぐらい難解だと書かれている。

ともあれ、「戦後フランス思想」によると、「ヒューマニズムとテロル」は、共産主義体制の暴力を告発したハンガリー出身の作家、アーサー・ケストラーの「真昼の暗黒」(1945年のフランス版は「零と無限」)の批判的な考察から誕生したという。この経緯も知らずに読書会と称するものを開いていたのだかた、あまりにも若すぎたというべきかー。

いずれにしろ、スターリン批判というべき告発の書を批判的にとりあげるという内容は、だいたいがそのスタンスがわかろうというもの。今回の新書でも当時のソ連が振るっていた暴力について、ポンティの答えは「白にも黒にも見えかねない両義的なものであり、それゆえに左右両陣営から『暴力的な数々の非難』を被ることにもなったー」とある。

それにしても、一度は手にした「ヒューマニズムとテロル」。今回を機会にもういちど、きちんと読みたいと思わされた。それにしても、この本は1960年代に出版されたのではなく、1947年だったというのは、驚きではあった。また半可通で読んでいたポンティの代表作「知覚の現象学」も再読しないと、とも。

 

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2024年7月 3日 (水)

「見る前に跳べ」、真理は誤謬から (下)完   同人誌「序説」創刊50周年記念号「第31号」へ

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「見る前に跳べ」、真理は誤謬から (下)完

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つまり、私に引き付けると、ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」について、上映を強く推そうか、推さないかーとやや迷った際、このベルンシュタイン論争のときのローザの反論、そしてジジェクのその解説がやはり推薦していくべきだという選択を選ばせた。というのも、「要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」「行為と言うものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」という言い方だ。「モルゲン 明日」は、できれば公開と同時期に、つまり、2018年に上映すべきだったのだ。しかし、この映画を知ったのは今春であり、現実にかなわかったろう。でも、この映画の大事さを知ったのだから、やや遅すぎても上映すべきだと。ジジェクの言うとおり、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」と。それを文字通り了解したのだった。

 

ここで登場させたローザについて、付け足しておくと、もともと彼女はロシア革命を高く評価する一方、革命を主導したレーニンの組織論を厳しく批判したことで知られる。「現代の最もすぐれた女性政治思想家」とされる哲学者であるハンア・アレント(1906年~1975年)は、荒廃する世界に抗い、自らの意思で行動し生きた人間に共感と敬意を込めてスポットを当てた『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)の著作がある。取り上げているのは、カール・ヤスパースやベルトルト・ブレヒトなど10人だが、ローザをほとんど真っ先に取り上げている。そこでのアレントの筆を追っていくと、ローザの死をいかに惜しんでいたかを知らされる。

 

革命を戦争と虐殺との不当利得者―それはレーニンの少しも意に介するところではなかったがーとみることは彼女の意に反することであったろう。組織の問題についてみれば、彼女は人民全体が何らの役割も何らの発言権を持たないような勝利を信じていなかった。実際彼女は、いかなる代償を払っても権力を保持するなどということをほとんど信じていなかったため、「革命の失敗よりも醜悪な革命のほうをはるかに恐れていた」。このことは事実上、ボリシェヴィキと「彼女の間の大きな相違」だったのである。ところで、事態は彼女の正しさを証明してきたのではなかろうか。ソヴィエト連邦の歴史は、「歪められた革命」の恐るべき危険に関する一つの長い実例ではなかろうか。彼女が予見した「道徳的頽廃」―もちろん彼女はレーニンの後継者の公然たる犯罪を予見してはいないがー(・・・・)レーニンが用いた手段は「まったく誤っていた」こと、救済への唯一の道は「出来るかぎり無制限で広範な民主主義と世論という公的生活それ自体による教育」であったということ、さらにテロルがあらゆる人を「混乱」させ、あらゆるものを破壊したことなどはすべて真実だったのではなかろうか(『暗い時代の人々』87頁~88頁)

 

たまたま「モルゲン 明日」の上映を例のひとつとして挙げたが、繰り返しになるが、この手の問題は常に身の回りにあることだ。その際には、このジジェクの説明が、というか、まるでメビウスの輪を思わせる指摘が判断の材料になるだろうと思う。ということを考えていいたら、たまたまだが、6月28日(金)のTWITTERで、文芸評論家で詩人でもある若松英輔さん(1968年~)が、こんなツイートをしていた。若松さんの著作で読んでいるのは『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶応義塾大学出版会)や『池田晶子 不滅の哲学』(亜紀書房)ぐらいだが、ふだん生死の周辺についてのその真摯な発言に関心を寄せている作家のひとりだ。

 

面倒に感じることはなかなか着手できません。よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。思想家で法律家、優れた実務家でもあったヒルティは、着手することではじめて最適な方法に出会うというのです。文章を書くことにおいても同じだと私は思います。

 

「よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。着手することではじめて最適な方法に出会う」―。これなどは、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ。行為というものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」という見方にある種、通じる言い方だ。

 

この「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」は、今回の序説50周年記念号に合わせて、序説第23号(2016年)に寄稿した「折々の状況 その(2)」の冒頭部分「『事件!』―新しい何かが突然に」をさらにもう少し突っ込みたいと思ったことで書いてみた。若松英輔さんがつぶやいた「着手することではじめて最適な方法に出会う」ではないが(最適かどうかは疑問だがー)、まとめてみようと考えた。ベルンシュタイン論争のローザ・ルクセンブルクの言い分が何かの課題に向き合わざるを得ないときにふと浮かぶことがある。なので、すでに一世紀も経ているが、今も色あせないと思うそのローザの構え方を現在と向き合わせたかったことは確かだ。

 

ちなみに『ローザ・ルクセンブルク 戦いに抜いたドイツの革命家』によると、ローザが獄中で書いた指針は、あくまで帝国主義に反対する国際的な階級闘争の推進を追求し、インターナショナルをプロレタリアートの祖国として最優先するものであった。この指針にもとづいて「スパルタクス団」が誕生した。ローザの見解は、「スパルタクス団」の綱領として発表され、のちにドイツ共産党設立大会で党綱領として採択された「スパルタクス団は何を求めるか」の中には、ローザが『ロシア革命論』の中で展開したボリシェヴィキ批判の精神が如実に示されている。

そのローザはカール・リープクネヒト(弁護士、社会民主党最左派議員 1871年~1919年)とともに未完に終わったドイツ革命の最中の1919年1月15日夜、隠れ家からベルリンのエーデンホテルにおかれていた近衛騎兵隊狙撃師団の臨時司令部に連行された。ごく簡単な尋問のあと、まずリープクネヒトが刑務所行きをよそおう車に乗せられ、殺害された。ローザは、ホテルの外に連れ出され、銃尾で頭蓋骨を強打されたあと、車の中で射殺された。運河の中に投げ込まれた遺体は、5月末に水門にうちあげられて発見されたという。

ローザにはロシア革命の際、獄中で書いた革命に関する論文集である優れた『ロシア革命論』(1985年初版 論創社)や主著に『資本蓄積論』(岩波文庫など)がある。私は学生時代に『経済学入門』(岩波文庫)や『獄中からの手紙』(岩波文庫)を斜め読みしている。今春に読んだばかりの評伝に大著『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』(1998年9月増補版第一刷 パウル・フレーリヒ 伊藤成彦訳、御茶ノ水書房)がある。手元に『女たちのローザ・ルクセンブルク フェニズムと社会主義』(1994年9月初版第1刷、社会評論社)が積読になっているため、今回を機会にこれから読んでみたい。2024年はローザ・ルクセンブルクが虐殺されてから105年になる(了)

 

2024年7月 2日 (火)

「見る前に跳べ」、真理は誤謬から(中〉   同人誌「序説」創刊50周年記念号「第31号」へ

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歴史的な時間軸についてだが、〈そう指摘されれば、確かにその通りだが、そうなると、今進めている脱原発運動は大いなる覚悟がいることにー〉、そう思わされた。特に「長い射程をもった問題意識」というフレーズが残像として映った。脱原発を果たすには、確かに腰を据えてやらないといけないなと思わせた一文だった。

一口に原発問題といっても、岸田政権の原発回帰政策、エネルギー基本計画の審議状況、各地の原発運転差止訴訟の判決や東電刑事裁判の行方、ドイツや世界各国の脱原発動向、核兵器禁止条約の発効状況と国内批准問題、東海第二原発の再稼動阻止、能登半島地震と原発事故避難問題、福島第一原発の海洋汚染水放出問題、青森県六ケ所村などの核燃料サイクル問題、311子ども甲状腺がん裁判の進展状況、再生可能エネルギーの展開状況、マスコミ各紙の原発問題の世論調査結果、これらに対する脱原発の抗議集会、講座や講演会、各種の脱原発署名活動・・・。

いやはやちょっと思い浮かべただけでもこれだけの課題があり、知るべき報道や向き合う行動がある。これらの問題に一喜一憂していたことは否めないところがある。だが、「長い射程をもった問題意識」をという指摘をされると、確かに関心を広く持ちつつ、もっと冷静に。刻々と変わっていく原発問題に向き合うには、そういう構え方が必要ではないか。そのように加藤典洋さんから助言された気がする。

 

 加藤典洋を読んでいる前後の期間、国際環境NGO「FOEJAPAN」が主催する脱原発連続講座にZOOMで参加している。ドイツの代表的な環境団体が今春来日し、いかにドイツが脱原発を果たしたか、今後の課題は何かなどについて講演した。印象に残ったのは、ドイツは第二次大戦後から広範な市民による長い環境保護運動の歴史があるということだった。それもあり、いやがうえにも、脱原発に向かうドイツの歴史を知ることが不可欠だと思ったのだった。私が「栃木アクション」幹事会にドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」を強く提案したのは、こうした経緯があったからだ。

 

 ただ問題は、この作品がつくられたのが、つい最近ではなく、2018年であり、最新作ではないこと。さてどんなもんだか?―。私でさえ、そう思った。でも、やはり上映すべき作品だろうと思い直した。そう判断したのは、冒頭で紹介したスラヴォィ・ジジェクの思いがけぬ見方、発想を知ったことが大きい。それは、この作品を推したことに限らず、さまざまな状況の判断の際に役立てられるだろうとも思ったことだった。そのひとつの例が、第一次大戦前のドイツ社会民主党の基本路線を揺るがした歴史的な論争、「ベルンシュタイン論争」だろうと。それも主役は、ドイツ社会民主党の女性革命家だったローザ・ルクセンブルク(1871年~1919)だ。

 

これはローザと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの論争だ。「修正主義論争」と言われている。それをうまく伝えていると思われるのが、やはり同世代でドイツ近・現代史が専門の東大名誉教授・姫岡とし子(1950年~)の著作『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』(2020年11月一刷 山川出版社)。そこの「修正主義論争」(27頁~35頁)から抜き出してみる。

 

1891年のドイツ社会民主党のエルフルト綱領は、資本主義社会の矛盾の増加による階級闘争の激化の不可避性と、それを基盤としたプロレタリアートによる政治権力の奪取と社会主義体制の実現というマルクス主義的な政治原則を採択していた。他方で党は、政治革命達成のための勢力基盤の拡大のために、実践面では時代変化に対応した体制内改革を実現する合法的闘争と労働者の生活改善要求を重視していた。党は、1890年の社会主義者鎮圧法の廃案と高度工業化時代の到来によって勢力基盤を著しく増大させて大衆化し、帝国議会選挙でも躍進を続けていた。また議会内での実質的な社会改良闘争を重視する党員も増えていた。そのようななかで、イギリスの改良主義的な労働運動の影響を受けていたベルンシュタインが、1896年から98年にかけて、「ノイエ・ツァイト」誌上に「社会主義の諸問題」に関する一連の論文を発表し、資本主義崩壊の必然性というマルクス主義の基本原則を否定した。議会活動や労働組合運動などの合法的手段によって漸進的に改良を重ねていけば、労働者の生活・労働条件は向上し、権利は保障され革命なしに社会主義への道が開ける、と主張したのである。

 

 これにローザが反論し、「党内を二分する大論争へと発展させた」とある。ローザの論文はパンフレット「社会改良か革命か?」として出版された。社会民主党のリューベック大会(1901年)でも修正主義は断罪され、ドレスデン大会(1903年)では否認が票決された。1904年の第二インターナショナル・アムステルダム大会も修正主義を否決し、この論争にようやく決着がついた。ローザは、党の内外から注目される人物になるとともに、党執行部からも頼りにされる存在となったのであるー。

 

ローザの論理について、同書はこう記す。

 

恐慌の消滅、労働者の窮乏化の可能性の低下、労働者の経済的・政治的地位の向上によって資本主義の全般的崩壊が困難になっていると主張するベルンシュタインに対し、恐慌が起きないのは世界市場が今なお発展途上にあるからであり、世界市場の完成によって拡大の余地がなくなると、生産力の上昇と市場の限界との衝突が起こり、資本主義経済の無政府性が増大して資本主義は崩壊する、との結論を対置した。この資本主義の発展段階の画期は、その後の著作で展開される帝国主義論へと繋がっていくものであった。ローザは、資本論の論理を継承しながら、それをマルクスの時代にはまだ顕現していなかった、あらたな段階への展望と繋げて論理化したのである(・・・・・)ただし、彼女は改良闘争を否定しているわけではなかった。資本主義国家内部での生活状態の改善、労働者保護立法や民主的権利の拡大をめざす戦いは、労働者階級を教育し、組織し、革命に向けて準備させる手段だと考えていた。革命という目標なしには、改良闘争は社会主義的な性格は持たず、改良が自己目的化されることを批判したのである。

 

と、まあ、ベルンシュタイン論争の骨格を紹介してみたが、主題に沿った関心はその過程での権力掌握についてのローザのベルンシュタインへの反論の仕方だ。『事件!』によると、ベルンシュタインは、まだ状況が熟していないからプロレタリアートが権力を掌握するのは時期尚早だという主張。これに対し、ローザがふたつの点から反論したとある。

 

ローザが反論する。

社会主義による変革は長く辛抱強い闘争を前提にする。その過程でプロレタリアートが撃退されることは大いにあり得る。闘争の最終的結果からみれば初めて、早すぎる時期に権力の座につくことが必要となるだろう。(・・・・)プロレタリアートによる「時期尚早の」国家権力奪取を回避することは不可能だ。なぜならそうしたプロレタリアートによる「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから。権力掌握をめぐる政治的危機の過程で、長く辛抱強い闘争の過程で、プロレタリアートはある程度の政治的成熟を身につけ、それがやがては革命の決定的勝利を生むのだ。(・・・・)プロレタリアートは「時期尚早」でなくして権力を掌握できない。プロレタリアートは、永遠に権力の座を保てるようになるまでに、一度あるいは数度、「時期尚早」に権力を掌握せざるをえないのだ。「時期尚早の」権力奪取に反対することは、結局のところ、国家権力を掌握しようとするプロレタリアートの希望全体に反対することに他ならない。

 

『事件!』は、「時期尚早」をめぐる点について、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」。とたたみかける。ジジェクはこの段落の結語に向かう。少し長いが、大事な場面なので、この部分の全体を示してみよう。かなり難しい言い回しになっているが、全体的な意味はとれるだろう。ローザの反論のすぐ後に以下のように語る。ローザの反論は『事件!』の「真理は誤謬から生まれる」(109頁)の小題にあるが、結語を示す前に「誤謬」について、短い説明が必要だろう。この辺りを理解するためのキイワードになるためだ。ネットから拾った誤謬の意味はこうだ。

 

誤謬は思考内容と対象との一致しない思惟,判断などをいい,真理の反対語。誤謬の原因については,先入見,判断力の不足,思考のエネルギーの不足,集中度や恒常性の不足,認識材料の不足など種々あげられる。

 

真理の反対であり、判断力不足や認識材料の不足など、いずれも否定的な意味ばかりだ。そのうえで、「時期尚早」の周辺について、ジジェクの論を以下に紹介する。

 

ちょうどいい時期に達するまでに何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような、外部の立場はない。なぜならこれはラカンのいう「心理は誤認から生じる」の一事例だからである。そこでは「時期尚早」の企てが時間性の空間/規模を変える。主体は「見る前に跳び」、条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒す。主体の象徴的秩序への関わりが線的な時間の流れを両方向に推し進める。一方では促進し、他方では逆行させる(事物は遡及的にそれ自身になる。ある物のアイデンティティは、それがそれ自身に対して遅れたときにはじめてあらわれる)。要するに、すべての行為はその定義からして時期尚早であり、同時に遅すぎる。もし早すぎると、その行為は行為への移行、つまり、行き詰まりを打開するための暴力的な回避になってしまう。もし好機を逃し、遅れて行為に及んだ場合には、その行為は事件としての、つまり、「すべてが変わってしまう」ような結果をもたらす根源的な介入としての特質を失い、事物の秩序内のたんなる部分的変化、事物の正常な流れの一部になってしまう。もちろん問題は、行為というものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為は、それ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ。ちょうどいい時期を待っていたら、その行為は事物の秩序内のひとつの出来事にすぎなくなってしまう(「下」に続く)。

 

2024年7月 1日 (月)

「見る前に跳べ」、真理は誤謬から    同人誌「序説」創刊50周年記念号「第31号」へ

449497239_7665927860202661_3080230251966 序説第31号 創刊50周年記念号(締め切り7月10日)に向けて、ようやく脱稿することができた。数えたら1万1000字。原稿用紙換算で27枚といったところかー。今回は大半が一から書き始めたので、かなりの手間がかかったー。発刊は9月1日だが、それ前にこのBLOG「霧降文庫」に掲載へ。長いので、(上)、(中)、(下)の3回にわたって届けたい。今回はその(上)です。2日に(中)、3日に(下)をアップすることにしたい。主題は「『見る前に跳べ』、真理は誤謬から」ー。

「見る前に跳べ」、真理は誤謬から

   行為は常に早すぎると同時に遅すぎる 冨岡洋一郎

真理は誤謬、あるいは誤認から生まれる。あるいは、真理は常に早すぎると同時に遅すぎる。行為にとってちょうどいい時期などないのだー。現代思想の「奇才」と呼ばれるスロベニアの思想家、スラヴォイ・ジジェク(1949年~)の著作『事件! 哲学とは何か』(2015年10月初版 河出ブックス)にあるフレーズだ。「では、どうすりゃいいのさ、この私はー」と言いたくなるような文句だ。ただ、この言葉について、彼が説く文章を追っていくと、なかなか味わい深いものがあることがわかる。それも胸に手を当てると、私たちの日常的なさまざまな場面であてはめることも可能だ。そう感じている。

それにしても、冒頭からいきなりジジェクのフレーズを紹介されても戸惑ってしまうだろう。なぜ彼なのかー。もともと私は社会学者・大澤真幸(おおさわ・、まさち、1958年~)の「ファン」だが、その彼がジジェクの『事件!』を高く評価していた。それが手にするきっかけだった。大澤真幸には『虚構の時代の果てーオームと世界最終戦争』(ちくま新書)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『夢よりも深い覚醒へー3・11後の哲学』(岩波新書)、『社会学史』(講談社現代新書)など、新書も含めたくさんの著書があるが、いつもシャープな鋭い切れ味に感心しながら読んでいる。その彼が評価するジジェクを読まないではいられない。

ジジェクは今年5月に発刊されたばかりの『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書)や『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(2010年7月、ちくま新書)の紹介によると、ラカン派マルクス主義者で、リュブリャナ大学社会学研究所教授。ラカン派精神分析の立場からヘーゲルの読み直しを行い、マルクス主義のイデオロギー理論を刷新、全体主義などのイデオロギー現象の解明に寄与とある。確かにどの新書を読んでもラカンの精神分析用語が散りばめられており、だからか、読後感はいつも煙に巻かれたようだ。

 

そのうえで冒頭のジジェクの説く「真理は誤謬、誤認から生まれるー」という本題に戻すと、そのひとつとして、例えとして適切かどうかではあるが、今春、私が立ち会ったドキュメンタリー映画の上映の適否をめぐる判断があるかもしれない。市民団体「さようなら原発!栃木アクション」がこの11月23日(土)に宇都宮城址公園を出発会場にして行う脱原発パレードに関連するイベントに関してだ。「栃木アクション」は、福島第一原発事故を受けて、東京だけではなく、栃木県でも大きな脱原発パレード・デモをつくれないか、そう考えた市民団体や労働団体、生活共同組合、政党などが「脱原発」の一点でまとまった集合体だ。私が代表を務める「さよなら原発!日光の会」や役員をしている「原発いらない栃木の会」なども主要な構成メンバーとなっている。2011年3月11日直後の初回は2500人を超える人数が参加した(初回のこのとき、私は集会の司会者のひとりを務めている)。しかし、原発問題に対する風化現象か、このところ、参加者は減少傾向が続いている。昨年の2023年は800人ほどと、当初の3分の1に減ってきている。

 

 この傾向をばん回するためもあり、数年前から本番の「栃木アクション」の前に「栃木アクションプレ企画」と題して、栃木県内各地で脱原発に関連した連続映画上映会を企画している。昨年は宇都宮、日光、下野、佐野、那須塩原の各市でドキュメンタリー映画「原発をとめた裁判長」の無料上映会を開き、本番への参加を呼びかけている。<さて、今年は?>―。その映画作品を最終的に決める幹事会が6月8日に宇都宮の栃木県弁護士会館であった。この日は同弁護士会館で130人が参加した「原発いらない栃木の会」主催の第14回総会記念講演会、ジャーナリスト・青木美希さんの「なぜ日本は原発を止められないのか?」もあった。それに先立つ幹事会では、世界は「核のゴミ」をどうやって処分するのか?ひとりの著名な科学者がこの問題と正面から向き合う旅に出る「地球で最も安全な場所を探して」など何本もの映画作品が候補にあげられた。最終的に決まったのは脱原発を決めたドイツの歴史的な背景や事情、判断をドキュメンタリーで描いた坂田雅子監督の「モルゲン(ドイツ語で明日)」(71分)。

「モルゲン 明日」の制作・公開は2018年10月とやや古い。ただ、予告編などから、ヒトラー政権、1968年の学生運動、1986年のチェルノブイリ原発事故でのドイツの実際の被害、それらを受けた「緑の党」の躍進、さらに2011年3月11日の福島第一原発事故を深刻に受け止めたメルケル首相の再度の脱原発宣言、そして2023年に原発ゼロにして、再生可能エネルギーを急成長させていく社会の動きが描かれるなど、観るに値するドキュメンタリー映画だ。

 実際にドイツは昨年2023年4月15日に最後に残っていた3基の原発を止め、原発ゼロを達成している。事故の当時者である日本はというと、承知のように、昨春、「原発回帰」の方針に舵を切る愚かな政策を決めている。このため、ドイツの脱原発から1年の今春、<今年はウクライナ戦争でエネルギー事情が大きく変わった世界の中でも脱原発を実現させたドイツの事情を歴史的な背景も含めて知るべきだし、伝えるべきだろう>、そう思い立ち、私から「栃木アクション幹事会」に「今年の映画会は『モルゲン 明日』の作品を」と、強く提案した。

 幹事会では「モルゲンには日本の事情がほとんど描かれていないので果たしてたくさんの参加者が集まる映画作品として適切かどうか」という声もあった。だが、「モルゲン 明日」の公式HPにあった有識者のコメントを提示したことで大半がこの作品を推した。加藤登紀子さん(歌手)、中沢けいさん(小説家)、菅直人さん(元首相)など何人ものコメントがあるが、特に印象深いというか、上映判断をするために決定的だと思わせる評価があった。脱原発の映画監督でも知られている河合弘之弁護士のコメントだ。

 

涙が出ました。感動の涙と悔し涙です。 私の映画「日本と原発」「日本と再生」で描き得なかった 前史(ドイツの脱原発、自然エネルギーの)と、 未来図(使用済核燃料の処理、自然エネルギー100%への展望)が描かれています。 日本とドイツの違いがよくわかりました。 しかし私たちも、近い将来、ドイツに追いつけると思います。

 

 この「モルゲン 明日」をぜひ上映したい、そう強く思ったのには、今春、積読だった文芸評論家・加藤典洋(かとう・のりひろ)の評論『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(岩波書店 2013年1月9日第1刷)を読んだことで触発されたことが大きい。加藤典洋は特に親しんできた作家だ。新聞記事を書くうえで大いに役立った『言語表現法講義』(1996年 新潮学芸賞)をはじめ、『敗戦後論』(1997年 伊藤整文学賞)、『日本の無思想』(1999年)、『戦後的思考』(1999年)、『さようなら、ゴジラたちー戦後から遠く離れて』(2010年)、『3.11 死に神に突き飛ばされる』(2011年)、遺書とも言える『9条の戦後史』(2021年)などを読んできた。

そうそう、『加藤典洋の発言(1)―空無化するラディカリズムー、(2)―戦後を超える思考―、(3)―理解することへの抵抗―』(1996年~1998年)の3冊の対談集も手にしている。それほど信頼できる同世代の文芸評論家のひとりだった。残念ながら、2019年5月に71歳で病死している。この『ふたつの講演―』は、特に福島第一原発事故をテーマにした講演集だ。そこで原発をめぐり、ドイツと日本について、指摘している以下のくだりに「なるほどー」とうなずいた。

 

ドイツは、1986年のチェルノブイリ事故から、14年後、2000年にシュレーダー首相のときに、脱原発を決め、17年後、2003年にイラク戦争に反対することで、対米独立へと進みます。25年後、転変の後、福島第一の再度の原発事故を経て、ようやく脱原発の実行へと踏み出します(・・・・)ところで、チェルノブイリ核災害から、3・11までの時間は、1986年から2011年までですから、第一次世界大戦(1914年)から第二次世界大戦(1939年)までと同じ、25年なのです。日本がドイツと同じ歩みを行うとして、その年数を仮に当てはめれば、私たちは、14年後、2025年に、脱原発へと進み、2028年に対米独立を確立し、20年後、2031年に、ようやく事故にあった原発の廃炉作業を完了し、2036年に全面的な脱原発、あるいは、次の段階への第一歩を踏み出す、というようになるでしょう。そして、いま私たちがどこにいるか、を考えるなら、まだまだ。「お楽しみはこれからだ」というところなのです。いまやるべきことが、こうした25年を見据えた、大きな「穴ぼこ」の直視と、大いなる覚悟と、長い射程をもった問題意識であることが、わかると思います。(続く)

 

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