物事の判断に活かせる「逆転の発想」 「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」完全版
物事の判断に活かせる「逆転の発想」、その完成版1万4290字。時間があるときにチェックをー。
行為は常に早すぎると同時に遅すぎる
富岡洋一郎
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真理は誤謬、あるいは誤認から生まれる。あるいは、真理は常に早すぎると同時に遅すぎる。行為にとってちょうどいい時期などないのだー。現代思想の「奇才」と呼ばれるスロベニアの思想家、スラヴォイ・ジジェク(1949年~)の著作『事件! 哲学とは何か』(2015年10月初版 河出ブックス)にあるフレーズだ。真理の反対語である誤謬が真理を生み出す?―。意表を突くこの言葉に「え!そんなことがあるの?」。そう言いたい気分だ。物事の意味を逆転させた言い方に戸惑うばかり。
テレビアニメの「日本昔話」の「一休さん」」の典型的な頓智に有名な一話がある。「屋敷に来る際、この橋を渡って来てはならない」という指示に、一休さんは堂々と橋を渡って行った。指示に逆らったとした詰問に、一休さんは「橋(端)を渡ってはいけないというから、真ん中を歩いて来ました」と、すまし顔で答えた。何かそんな場面を思い起こす言い方だ(少し違うかー笑い)。
いずれにしても、何かの物事に踏み出す際、行為は早すぎると同時に遅すぎると言われてしまうと、「では、どうすりゃいいのさ、この私はー」。そう言いたくもなる文句だ。ただ、この言葉について、彼が説く文章をゆっくり追っていくと、なかなか意味深な、味わい深いものがある。それも胸に手を当てると、私たちの日常的なさまざまな場面であてはめることも可能だと思う。
それにしても、冒頭からいきなりジジェクのフレーズを紹介されても戸惑ってしまうだろう。なぜ彼なのかー。もともと私は社会学者・大澤真幸(おおさわ・、まさち、1958年~)の「ファン」だが、その彼がジジェクの『事件!』を高く評価していた。それが手にするきっかけだった。大澤真幸には『虚構の時代の果てーオームと世界最終戦争』(ちくま新書)、『不可能性の時代』(岩波新書)、『夢よりも深い覚醒へー3・11後の哲学』(岩波新書)、『社会学史』(講談社現代新書)など、新書も含めたくさんの著書があるが、いつもシャープな鋭い切れ味に感心しながら読んでいる。その彼が評価するジジェクを読まないではいられない。
ジジェクは今年5月に発刊されたばかりの『戦時から目覚めよ 未来なき今、何をなすべきか』(NHK出版新書)や『ポストモダンの共産主義―はじめは悲劇として、二度目は笑劇として』(2010年7月、ちくま新書)の紹介によると、ラカン派マルクス主義者で、リュブリャナ大学社会学研究所教授。ラカン派精神分析の立場からヘーゲルの読み直しを行い、マルクス主義のイデオロギー理論を刷新、全体主義などのイデオロギー現象の解明に寄与とある。確かにどの新書を読んでもラカンの精神分析用語が散りばめられており、だからか、読後感はいつも煙に巻かれたようだ。
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そのうえで冒頭のジジェクの説く「真理は誤謬、誤認から生まれるー」という本題に戻すと、そのひとつとして、例えとして適切かどうかではあるが、今春、私が立ち会ったドキュメンタリー映画の上映の適否をめぐる判断があるかもしれない。市民団体「さようなら原発!栃木アクション」がこの11月23日(土)に宇都宮城址公園を出発会場にして行う脱原発パレードに関連するイベントについてだ。「栃木アクション」は、福島第一原発事故を受けて、東京だけではなく、栃木県でも大きな脱原発パレード・デモをつくれないか、そう考えた市民団体や労働団体、生活協同組合、政党などが「脱原発」の一点でまとまった超党派の実行委員会だ。私も役員をしている「原発いらない栃木の会」が事務局を担い、代表を務めている「さよなら原発!日光の会」も主要な構成メンバーのひとつ。2011年3月11日の福島第一原発事故の翌年、2012年秋に初めて実施した。この初回は予想以上の手応えがあり、参加者は2500人を大きく超えた(初回のこのとき、私は集会の司会者のひとりを務めている)。しかし、原発問題に対する風化現象か、このところ、参加者は減少傾向が続いている。昨年の2023年は800人ほどと、当初の3分の1に減ってきている。
この傾向をばん回するためもあり、数年前から本番の「栃木アクション」の前に「栃木アクションプレ企画」と題して、栃木県内各地で脱原発に関連した連続映画上映会を企画している。昨年は宇都宮、日光、下野、佐野、那須塩原の各市でドキュメンタリー映画「原発をとめた裁判長」の無料上映会を開き、本番への参加を呼びかけている。<さて、今年は?>―。その映画作品を最終的に決める幹事会が6月8日に宇都宮の栃木県弁護士会館であった。この日は同弁護士会館で130人が参加した「原発いらない栃木の会」主催の第14回総会記念講演会、ジャーナリスト・青木美希さんの「なぜ日本は原発を止められないのか?」もあった。
それに先立つ幹事会では、世界は「核のゴミ」をどうやって処分するのか?ひとりの著名な科学者がこの問題と正面から向き合う旅に出る「地球で最も安全な場所を探して」など何本もの映画作品が候補にあげられた。最終的に決まったのは脱原発を決めたドイツの歴史的な背景や事情、判断をドキュメンタリーで描いた坂田雅子監督の「モルゲン(ドイツ語で明日)」(71分)。
「モルゲン 明日」の制作・公開は2018年10月とやや古い。ただ、予告編などから、ヒトラー政権、1968年の学生運動、1986年のチェルノブイリ原発事故でのドイツの実際の被害、それらを受けた「緑の党」の躍進、さらに2011年3月11日の福島第一原発事故を深刻に受け止めたメルケル首相の再度の脱原発宣言、そして2023年に原発ゼロにして、再生可能エネルギーを急成長させていく社会の動きが描かれるなど、観るに値するドキュメンタリー映画だ。
実際にドイツは昨年2023年4月15日に最後に残っていた3基の原発を止め、原発ゼロを達成している。事故の当時者である日本はというと、承知のように、昨春、「原発回帰」の方針に舵を切る愚かな政策を決めている。このため、ドイツの脱原発から1年の今春、<今年はウクライナ戦争でエネルギー事情が大きく変わった世界の中でも脱原発を実現させたドイツの事情を歴史的な背景も含めて知るべきだし、伝えるべきだろう>、そう思い立ち、私から栃木アクション幹事会に「今年の映画会は『モルゲン 明日』の作品を」と、強く提案した。
幹事会では「モルゲンには日本の事情がほとんど描かれていないので果たしてたくさんの参加者が集まる映画作品として適切かどうか」という声もあった。だが、「モルゲン 明日」の公式HPにあった有識者のコメントを提示したことで大半がこの作品を推した。加藤登紀子さん(歌手)、中沢けいさん(小説家)、菅直人さん(元首相)など何人ものコメントがあるが、特に印象深いというか、上映判断をするために決定的だと思わせる評価があった。脱原発の映画監督でも知られている河合弘之弁護士のコメントだ。
涙が出ました。感動の涙と悔し涙です。 私の映画「日本と原発」「日本と再生」で描き得なかった 前史(ドイツの脱原発、自然エネルギーの)と、 未来図(使用済核燃料の処理、自然エネルギー100%への展望)が描かれています。 日本とドイツの違いがよくわかりました。 しかし私たちも、近い将来、ドイツに追いつけると思います。
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この「モルゲン 明日」をぜひ上映したい、そう強く思ったのには、今春、積読だった文芸評論家・加藤典洋(かとう・のりひろ)の評論『ふたつの講演 戦後思想の射程について』(岩波書店 2013年1月9日第1刷)を読んだことで触発されたことが大きい。加藤典洋は特に親しんできた作家だ。新聞記事を書くうえで大いに役立った『言語表現法講義』(1996年 新潮学芸賞)をはじめ、『敗戦後論』(1997年 伊藤整文学賞)、『日本の無思想』(1999年)、『戦後的思考』(1999年)、『さようなら、ゴジラたちー戦後から遠く離れて』(2010年)、遺書とも言える『9条の戦後史』(2021年)などを読んできた。
そうそう、『加藤典洋の発言(1)―空無化するラディカリズムー』、「同(2)―戦後を超える思考―』、「同(3)―理解することへの抵抗―』(1996年~1998年)の3冊の対談集も手にしている。それほど信頼できる同世代の文芸評論家のひとりだった。残念ながら、2019年5月に71歳で病死している。この『ふたつの講演―』は、特に福島第一原発事故をテーマにした講演集だ。そこで原発をめぐり、ドイツと日本について、指摘している以下のくだりに「なるほどー」とうなずいた。
ドイツは、1986年のチェルノブイリ事故から、14年後、2000年にシュレーダー首相のときに、脱原発を決め、17年後、2003年にイラク戦争に反対することで、対米独立へと進みます。25年後、転変の後、福島第一の再度の原発事故を経て、ようやく脱原発の実行へと踏み出します(・・・・)ところで、チェルノブイリ核災害から、3・11までの時間は、1986年から2011年までですから、第一次世界大戦(1914年)から第二次世界大戦(1939年)までと同じ、25年なのです。日本がドイツと同じ歩みを行うとして、その年数を仮に当てはめれば、私たちは、14年後、2025年に、脱原発へと進み、2028年に対米独立を確立し、20年後、2031年に、ようやく事故にあった原発の廃炉作業を完了し、2036年に全面的な脱原発、あるいは、次の段階への第一歩を踏み出す、というようになるでしょう。そして、いま私たちがどこにいるか、を考えるなら、まだまだ。「お楽しみはこれからだ」というところなのです。いまやるべきことが、こうした25年を見据えた、大きな「穴ぼこ」の直視と、大いなる覚悟と、長い射程をもった問題意識であることが、わかると思います。
歴史的な時間軸についてだが、〈そう指摘されれば、確かにその通りだが、そうなると、今進めている脱原発運動は大いなる覚悟がいることにー〉、そう思わされた。特に「長い射程をもった問題意識」というフレーズが残像として映った。脱原発を果たすには、確かに腰を据えてやらないといけないなと思わせた一文だった。
一口に原発問題といっても、岸田政権の原発回帰政策、エネルギー基本計画の審議状況、全国各地の原発運転差止訴訟の判決や仮処分決定、東電刑事裁判の行方、ドイツや世界各国の脱原発動向、核兵器禁止条約の発効状況と国内批准問題、東海第二原発の再稼動問題、能登半島地震と原発事故避難問題、福島第一原発の原発汚染水の海洋放出、核燃料サイクル問題、311子ども甲状腺がん裁判の進展状況、再生可能エネルギーの展開の動き、マスコミ各紙の原発問題の世論調査結果・・などがある。
いやはやちょっと思い浮かべただけでもこれだけの課題があり、知るべき報道、向き合う行動や参加すべき日程などがある。これらの問題に確かに少し一喜一憂してきた面があることは否めない。だが、「長い射程をもった問題意識」をという指摘をされると、確かに関心を広く持ちつつ、もっと冷静に。刻々と変わっていく原発問題に向き合うには、そういう構え方が必要ではないか。そのように加藤典洋さんから助言された気がする。
加藤典洋を読んでいる前後の期間、国際環境NGO「FOEJAPAN」が主催する脱原発連続講座にZOOMで参加している。ドイツの代表的な環境団体が今春来日し、いかにドイツが脱原発を果たしたか、今後の課題は何かなどについて講演した。印象に残ったのは、ドイツは第二次大戦後から広範な市民による長い環境保護運動の歴史があるということだった。それもあり、いやがうえにも、脱原発に向かうドイツの歴史を知ることが不可欠だと思ったのだった。私が「栃木アクション」幹事会にドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」を強く提案したのは、こうした経緯があったからだ。
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ただ問題は、この作品がつくられたのが、つい最近ではなく、2018年であり、最新作ではないこと。〈さてどんなもんだか?〉―。私でさえ、そう思った。でも、やはり上映すべき作品だろうと思い直した。そう判断したのは、冒頭で紹介したスラヴォィ・ジジェクの思いもよらない見方、発想、断定を知ったことが大きい。それは、この作品を推したことに限らず、さまざまな状況の判断の際に役立てられるだろうとも思ったことだった。そのひとつの例が、第一次大戦前のドイツ社会民主党の基本路線を揺るがした歴史的な論争、「ベルンシュタイン論争」だろうと。それも主役は、ドイツ社会民主党の女性革命家だったローザ・ルクセンブルク(1871年~1919)だ。
これはローザと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの論争だ。「修正主義論争」と言われている。それをうまく伝えていると思われるのが、やはり同世代でドイツ近・現代史が専門の東大名誉教授・姫岡とし子(1950年~)の著作『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』(2020年11月一刷 山川出版社)。そこの「修正主義論争」(27頁~35頁)から抜き出してみる。
1891年のドイツ社会民主党のエルフルト綱領は、資本主義社会の矛盾の増加による階級闘争の激化の不可避性と、それを基盤としたプロレタリアートによる政治権力の奪取と社会主義体制の実現というマルクス主義的な政治原則を採択していた。他方で党は、政治革命達成のための勢力基盤の拡大のために、実践面では時代変化に対応した体制内改革を実現する合法的闘争と労働者の生活改善要求を重視していた。党は、1890年の社会主義者鎮圧法の廃案と高度工業化時代の到来によって勢力基盤を著しく増大させて大衆化し、帝国議会選挙でも躍進を続けていた。また議会内での実質的な社会改良闘争を重視する党員も増えていた。そのようななかで、イギリスの改良主義的な労働運動の影響を受けていたベルンシュタインが、1896年から98年にかけて、「ノイエ・ツァイト」誌上に「社会主義の諸問題」に関する一連の論文を発表し、資本主義崩壊の必然性というマルクス主義の基本原則を否定した。議会活動や労働組合運動などの合法的手段によって漸進的に改良を重ねていけば、労働者の生活・労働条件は向上し、権利は保障され革命なしに社会主義への道が開ける、と主張したのである。
同書によると、これにローザが反論し、党内を二分する大論争へと発展させた。ローザの論文はパンフレット「社会改良か革命か?」として出版された。社会民主党のリューベック大会(1901年)でも修正主義は断罪され、ドレスデン大会(1903年)では否認が票決された。1904年の第二インターナショナル・アムステルダム大会も修正主義を否決し、この論争にようやく決着がついた。ローザは、党の内外から注目される人物になるとともに、党執行部からも頼りにされる存在となったのである。
ローザの論理について、同書『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』はこう記す。
恐慌の消滅、労働者の窮乏化の可能性の低下、労働者の経済的・政治的地位の向上によって資本主義の全般的崩壊が困難になっていると主張するベルンシュタインに対し、恐慌が起きないのは世界市場が今なお発展途上にあるからであり、世界市場の完成によって拡大の余地がなくなると、生産力の上昇と市場の限界との衝突が起こり、資本主義経済の無政府性が増大して資本主義は崩壊する、との結論を対置した。この資本主義の発展段階の画期は、その後の著作で展開される帝国主義論へと繋がっていくものであった。ローザは、資本論の論理を継承しながら、それをマルクスの時代にはまだ顕現していなかった、あらたな段階への展望と繋げて論理化したのである(・・・・・)ただし、彼女は改良闘争を否定しているわけではなかった。資本主義国家内部での生活状態の改善、労働者保護立法や民主的権利の拡大をめざす戦いは、労働者階級を教育し、組織し、革命に向けて準備させる手段だと考えていた。革命という目標なしには、改良闘争は社会主義的な性格は持たず、改良が自己目的化されることを批判したのである。
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と、まあ、ベルンシュタイン論争の骨格を紹介してみたが、主題に沿った関心はその過程での権力掌握についてのローザのベルンシュタインへの反論の仕方だ。『事件!』によると、ベルンシュタインは、まだ状況が熟していないからプロレタリアートが権力を掌握するのは時期尚早だという主張。これに対し、ローザがふたつの点から反論したとある。
ローザが反論する。
社会主義による変革は長く辛抱強い闘争を前提にする。その過程でプロレタリアートが撃退されることは大いにあり得る。闘争の最終的結果からみれば初めて、早すぎる時期に権力の座につくことが必要となるだろう。(・・・・)プロレタリアートによる「時期尚早の」国家権力奪取を回避することは不可能だ。なぜならそうしたプロレタリアートによる「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから。権力掌握をめぐる政治的危機の過程で、長く辛抱強い闘争の過程で、プロレタリアートはある程度の政治的成熟を身につけ、それがやがては革命の決定的勝利を生むのだ。(・・・・)プロレタリアートは「時期尚早」でなくして権力を掌握できない。プロレタリアートは、永遠に権力の座を保てるようになるまでに、一度あるいは数度、「時期尚早」に権力を掌握せざるをえないのだ。「時期尚早の」権力奪取に反対することは、結局のところ、国家権力を掌握しようとするプロレタリアートの希望全体に反対することに他ならない。
『事件!』は、「時期尚早」をめぐる点について、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」とたたみかけ、この段落の結語に向かう。少し長いが、大事な場面なので、この部分の全体を示してみよう。かなり難しい言い回しになっているが、全体的な意味はとれるだろう。ローザの反論のすぐ後に以下のように語る。ローザの反論は『事件!』の「真理は誤謬から生まれる」(109頁)の小題にあるが、結語を示す前に「誤謬」について、短い説明が必要だろう。この辺りを理解するためのキイワードになるためだ。ネットから拾った誤謬の意味はこうだ。
誤謬は思考内容と対象との一致しない思惟,判断などをいい,真理の反対語。誤謬の原因については,先入見,判断力の不足,思考のエネルギーの不足,集中度や恒常性の不足,認識材料の不足など種々あげられる。
誤謬は真理の反対であり、判断力不足や認識材料の不足など、いずれも否定的な意味ばかりだ。ところが、ジジェクはこの誤謬に大きな意味を与える。誤謬、誤認にこそ、ある物事を判断する際の力点になるというのだ。これを伝えたうえで、「時期尚早」の周辺について、ジジェクの論を以下に紹介する。
ちょうどいい時期に達するまでに何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような、外部の立場はない。なぜならこれはラカンのいう「真理は誤認から生じる」の一事例だからである。そこでは「時期尚早」の企てが時間性の空間/規模を変える。主体は「見る前に跳び」、条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒す。主体の象徴的秩序への関わりが線的な時間の流れを両方向に推し進める。一方では促進し、他方では逆行させる(事物は遡及的にそれ自身になる。ある物のアイデンティティは、それがそれ自身に対して遅れたときにはじめてあらわれる)。要するに、すべての行為はその定義からして時期尚早であり、同時に遅すぎる。もし早すぎると、その行為は行為への移行、つまり、行き詰まりを打開するための暴力的な回避になってしまう。もし好機を逃し、遅れて行為に及んだ場合には、その行為は事件としての、つまり、「すべてが変わってしまう」ような結果をもたらす根源的な介入としての特質を失い、事物の秩序内のたんなる部分的変化、事物の正常な流れの一部になってしまう。もちろん問題は、行為というものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為は、それ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ。ちょうどいい時期を待っていたら、その行為は事物の秩序内のひとつの出来事にすぎなくなってしまう。
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では、1918年秋のドイツ革命のときのローザは、どんな動きをしていたのかー。『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』と評伝『ローザ・ルクセンブルク 思想と生涯』(1998年9月増補版第一刷 パウル・フレーリヒ 伊藤成彦訳、御茶ノ水書房)から素描的に追ってみたい。
第一次世界大戦でドイツの敗北が不可避となった1918年10月、ドイツの平和と社会変革を求める動きは活発化していた。10月末の出撃命令の拒否を契機とする水兵の蜂起に続き、各地で「レーテ」(労農評議会)が結成され、革命の火の手があがった。ローザが考えていたように、情勢が熱したときに大衆が自発的に革命行動を起こしたのである。
ベルリンに11月9日がやってきた。数十万の労働者がその朝、工場から潮のように押し出してきた。内戦に備えて結成されていた士官の特別部隊までもが降伏した。共和国が宣言された。皇帝ウィルヘルム二世はオランダに逃亡した。各地の監獄の扉も開いた。4年3ケ月の大戦中、実に3年4カ月、獄中にいたローザも11月9日にようやく自由になった(ローザはこの2ケ月余り後に、反革命派の手で虐殺されてしまうのだがー)。
この当時のローザについて、パウル・フレーリヒはこう書いている。
革命舞台での登場人物の性格や、その動きや、革命全般の力関係を、ローザ・ルクセンブルクは鋭い洞察力を発揮して可能な限り把握した。彼女は直感的に情勢が困難であることを理解したが、その困難に屈服するどころか、もっぱらそれを克服することを課題とした。彼女はサン・ジュスト(フランス革命におけるジャコバン党の指導者。「果断こそは緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」という言葉を残している)同様に、果断こそは革命の第一の要諦であることを知っていたが、しかしまたきわめて慎重でもあった。彼女は決して一日だけの成功を望まず、また未熟な果実を穫り入れようとはしなかった。彼女はベルリン到着の直後からこの態度を示した(・・・・)彼女は魂の焔を燃え立たせ、時代の嵐が吹き抜けるような、情熱的で激烈な論文を書いて、日々の事件に光を当ててその意味を説き、その行きつく先を明らかにした。高い処から鳥瞰するように、彼女は革命の全景を視野に収め、敵の動きを鋭く観察した。かつてのマラーのように、彼女はわずかの兆候から反革命の陰謀やその計画を見抜いたが、それがいかに確実であったかは、はるか後になって不動の証拠によって初めて確証されたのであった。彼女は革命の敵を容赦なく攻撃したが、同時に大衆の行動を慎重に観察してその弱点を批判し、またその前進を称揚して、権力の奪取という大目的に向けて指導していった。
この記述から、ローザがベルンシュタインに放った反論である「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから」というフレーズを思い起こすことは容易だろう。それも「果断こそが緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」というサン・ジュストが残したという断定をよく知って、目の前の革命期に対処していたことがうかがえる。
これらから、私に引き付けると、ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」について、上映を強く推そうか、推さないかーとやや迷った際、ベルンシュタイン論争のときのローザの反論、ジジェクのその解説、そして革命期のローザの対処の姿勢を知れば、やはりここは推薦していくべきだという選択を選ばせた。というのも、「要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ」「行為と言うものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」、あるいは「攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり」、「果断こそが緊迫した瞬間にとるべき政策の一切である」という、いわば「警句」というべきフレーズの確かさを身体の内から感じとったからだ。
「モルゲン 明日」は、できれば公開の同時期に、つまり、2018年10月の公開を受けてすぐに上映すべきだったのだ。しかし、この映画を知ったのは2024年の今春であり、現実にかなわかったろう。でも、この映画の大事さを知ったのだから、やや遅すぎても上映すべきだと。ジジェクの言うとおり、改めて「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」と知りつつ。その言葉を文字通り了解したのだった。
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ここで登場させたローザについて、付け足しておくと、もともと彼女はロシア革命を高く評価する一方、革命を主導したボリシェヴィキの組織論については、厳しく批判したことで知られる。具体的に彼女の考えを伝えるには、ロシア革命が進行中の1918年秋、ブレスラウ監獄の中で執筆したとされる「獄中草稿 ロシア革命論」を示すことが最適だろう。『ロシア革命論』(1990年6月初版第2刷、伊藤成彦、丸山敬一訳、論創社)によると、ローザの「獄中草稿」が社会主義圏で初めて陽の目をみたのは、ようやく1970年代になってから。国際共産主義運動の歴史の中で実に数奇な運命を辿ったのだという。批判の最もポイントとなるローザの指摘は以下だ。
普通選挙、無制限な出版・集会の自由、自由な論争がなければ、あらゆる公的な制度の中の生活は萎え凋み、偽りの生活となり、そこには官僚だけが唯一の活動的な要素として残ることになろう。公共の生活は次第に眠り込み、無限のエネルギーと限りない理想主義をもった数十人の党指導者が指令し、統治し、現実にはその中の10人ぐらいの傑出した首脳たちが指導して、労働者のエリートが指導者たちの演説に拍手を送り、提出された決議案を満場一致で承認するために、時折会議に召集される、ということになろう。つまり要するに同族政治なのだー独裁には違いないが、しかしプロレタリアートの独裁ではなく、一握りの政治家たちの独裁、つまりまったくブルジョア的な意味での、ジャコバン支配のような意味での独裁なのである(・・・)そればかりではない。こういう状態は暗殺、人質の射殺等といった公的生活の野蛮化をもたらさずにはおかないであろう。これはいかなる党派も免れることのできない強力な客観的法則だ(『ロシア革命論』45頁~46頁)。
「現代の最もすぐれた女性政治思想家」とされる哲学者で、『全体性の起源』や『人間の条件』などで知られるハンナ・アレント(1906年~1975年)は、荒廃する世界に抗い、自らの意思で行動し生きた人間に共感と敬意を込めてスポットを当てた『暗い時代の人々』(ちくま学芸文庫)の著作もある。取り上げているのは、カール・ヤスパースやベルトルト・ブレヒトなど10人だが、ローザをほとんど真っ先に取り上げている。そこでのアレントの筆から、ボリシェヴィキの組織論に対するローザの批判の確かさをさらに改めて知ることができるだろう。
革命を戦争と虐殺との不当利得者―それはレーニンの少しも意に介するところではなかったがーとみることは彼女の意に反することであったろう。組織の問題についてみれば、彼女は人民全体が何らの役割も何らの発言権を持たないような勝利を信じていなかった。実際彼女は、いかなる代償を払っても権力を保持するなどということをほとんど信じていなかったため、「革命の失敗よりも醜悪な革命のほうをはるかに恐れていた」。このことは事実上、ボリシェヴィキと「彼女の間の大きな相違」だったのである。ところで、事態は彼女の正しさを証明してきたのではなかろうか。ソヴィエト連邦の歴史は、「歪められた革命」の恐るべき危険に関する一つの長い実例ではなかろうか。彼女が予見した「道徳的頽廃」―もちろん彼女はレーニンの後継者の公然たる犯罪を予見してはいないがー(・・・・)レーニンが用いた手段は「まったく誤っていた」こと、救済への唯一の道は「出来るかぎり無制限で広範な民主主義と世論という公的生活それ自体による教育」であったということ、さらにテロルがあらゆる人を「混乱」させ、あらゆるものを破壊したことなどはすべて真実だったのではなかろうか(『暗い時代の人々』87頁~88頁)
たまたま「モルゲン 明日」の上映を例のひとつとして挙げたが、繰り返しになるが、この手の問題は常に身の回りにあることだ。その際には、このジジェクの説明が、というか、まるでメビウスの輪を思わせる指摘が判断の材料になるだろうと思う。ということを考えていいたら、たまたまだが、6月28日(金)のTWITTERで、文芸評論家で詩人でもある若松英輔さん(1968年~)が、こんなツイートをしていた。若松さんの著作で読んでいるのは『井筒俊彦 叡智の哲学』(慶応義塾大学出版会)や『池田晶子 不滅の哲学』(亜紀書房)とごく少数だが、ふだん生死をめぐる周辺についてのその真摯な発言に関心を寄せている作家のひとりだ。
面倒に感じることはなかなか着手できません。よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。思想家で法律家、優れた実務家でもあったヒルティは、着手することではじめて最適な方法に出会うというのです。文章を書くことにおいても同じだと私は思います。
「よい方法を探しているうちに時間が経過することもあります。着手することではじめて最適な方法に出会う」―。これなどは、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ。行為というものは、つねに早すぎると同時に遅すぎるということだ」という見方にある種、通じる言い方だ。
この「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」は、今回の序説50周年記念号に合わせて、序説第23号(2016年)に寄稿した「折々の状況 その(2)」の冒頭部分「『事件!』―新しい何かが突然に」をさらにもう少し突っ込みたいと思ったことで書いてみた。若松英輔さんがつぶやいた「着手することではじめて最適な方法に出会う」ではないが(最適かどうかは疑問だがー)、まとめてみようと考えた。ベルンシュタイン論争のローザ・ルクセンブルクの言い分が何かの課題に向き合わざるを得ないときにふと浮かぶことがある。なので、すでに一世紀も経ているが、今も色あせないと思うそのローザの構え方を現在と向き合わせたかったことは確かだ。
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ちなみに『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』によると、ローザが獄中で書いた指針は、あくまで帝国主義に反対する国際的な階級闘争の推進を追求し、インターナショナルをプロレタリアートの祖国として最優先するものであった。この指針にもとづいて「スパルタクス団」が誕生した。ローザの見解は、「スパルタクス団」の綱領として発表され、のちにドイツ共産党設立大会で党綱領として採択された「スパルタクス団は何を求めるか?」の中には、ローザが『ロシア革命論』の中で展開したボリシェヴィキ批判の精神が如実に示されている。
『ロシア革命論』の訳者のひとり、伊藤成彦は同書の長編の解説である「ローザ・ルクセンブルクとロシア革命」で、この精神、つまり「党組織論と社会建設論」の姿を短い文章で的確に描いている。
社会主義革命における大衆の自立性、自発性、創造性とそのための自己変革を強く主張したローザ・ルクセンブルクが同時に強く否定したのは、指導者と大衆の二元論に立って大衆を客体視。手段視する考え方であった。政党の綱領としてはまことに異色のものであろうが、「スパルタクスブンドは何を求めるか?」の終わりに、彼女は「スパルタクスブンドは労働者大衆を超えて、あるいは労働者大衆によって支配しようとする党ではない」と書いて、つねに労働者大衆とともにあることを公約していたのである。この言葉は明らかに、レーニンとは異なるローザ・ルクセンブルク独自の党組織論と社会建設論から発したものであった。実際、「スパルタクスブンドは何を求めるか?」は、ローザ・ルクセンブルクとスパルタクスブンドの独自な社会主義像を綱領として提示したものであった。
真理は誤謬、あるいは誤認から生まれる。あるいは、真理は常に早すぎると同時に遅すぎる。行為にとってちょうどいい時期などないのだー。スラヴォイ・ジジェクの考えてもいなかった、とっぴもない見方から小論を進めてきた。だが、終わりの方はローザ・ルクセンブルクの主張する組織論・社会論にかなり比重がおかれてしまった。これはベルンシュタインとの権力奪取をめぐる論争でのローザの発想の源泉はどこから来ているのか?―その疑問、関心をドイツ革命の経過も含めて追いかけてきた結果だ。ローザの組織論や社会論にその前史というか、その発想があるのではないか?―。そこに関心が移っていったためだ。結果的にその試みはあまりうまくいったとはいえない。ただ、気がつけば、書いているうちに、そんな流れとなっていた。ということを、結びはやや横道にそれてしまった「言い訳」にして、この「『見る前に跳べ』 真理は誤謬から」を閉じたい。
なお、ローザの死は、姫岡とし子が結びの「1月蜂起と虐殺」でこう伝える。ローザはカール・リープクネヒト(弁護士、社会民主党最左派議員 1871年~1919年)とともに未完に終わったドイツ革命の最中の1919年1月15日夜、隠れ家からベルリンのエーデンホテルにおかれていた近衛騎兵隊狙撃師団の臨時司令部に連行された。ごく簡単な尋問のあと、まずリープクネヒトが刑務所行きをよそおう車に乗せられ、殺害された。ローザは、ホテルの外に連れ出され、銃尾で頭蓋骨を強打されたあと、車の中で射殺された。運河の中に投げ込まれた遺体は、5月末に水門にうちあげられて発見された。
ローザを知るにはすでに紹介した「数奇な運命を辿った」という彼女の著書『ロシア革命論』や主著『資本蓄積論』(岩波文庫など)、やはり紹介した評伝『ローザ・ルクセンブルク その思想と生涯』などがある。私は学生時代に『経済学入門』(岩波文庫)や『獄中からの手紙』(岩波文庫)を斜め読みしている。手元に『女たちのローザ・ルクセンブルク フェミニズムと社会主義』(田村雲供、生田あい共編、1994年9月初版第1刷、社会評論社)が積読になっているため、今回を機会にこれから読んでみたい。2024年はローザ・ルクセンブルクが虐殺されてから105年になる(了)
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