「見る前に跳べ」、真理は誤謬から(中〉 同人誌「序説」創刊50周年記念号「第31号」へ
歴史的な時間軸についてだが、〈そう指摘されれば、確かにその通りだが、そうなると、今進めている脱原発運動は大いなる覚悟がいることにー〉、そう思わされた。特に「長い射程をもった問題意識」というフレーズが残像として映った。脱原発を果たすには、確かに腰を据えてやらないといけないなと思わせた一文だった。
一口に原発問題といっても、岸田政権の原発回帰政策、エネルギー基本計画の審議状況、各地の原発運転差止訴訟の判決や東電刑事裁判の行方、ドイツや世界各国の脱原発動向、核兵器禁止条約の発効状況と国内批准問題、東海第二原発の再稼動阻止、能登半島地震と原発事故避難問題、福島第一原発の海洋汚染水放出問題、青森県六ケ所村などの核燃料サイクル問題、311子ども甲状腺がん裁判の進展状況、再生可能エネルギーの展開状況、マスコミ各紙の原発問題の世論調査結果、これらに対する脱原発の抗議集会、講座や講演会、各種の脱原発署名活動・・・。
いやはやちょっと思い浮かべただけでもこれだけの課題があり、知るべき報道や向き合う行動がある。これらの問題に一喜一憂していたことは否めないところがある。だが、「長い射程をもった問題意識」をという指摘をされると、確かに関心を広く持ちつつ、もっと冷静に。刻々と変わっていく原発問題に向き合うには、そういう構え方が必要ではないか。そのように加藤典洋さんから助言された気がする。
加藤典洋を読んでいる前後の期間、国際環境NGO「FOEJAPAN」が主催する脱原発連続講座にZOOMで参加している。ドイツの代表的な環境団体が今春来日し、いかにドイツが脱原発を果たしたか、今後の課題は何かなどについて講演した。印象に残ったのは、ドイツは第二次大戦後から広範な市民による長い環境保護運動の歴史があるということだった。それもあり、いやがうえにも、脱原発に向かうドイツの歴史を知ることが不可欠だと思ったのだった。私が「栃木アクション」幹事会にドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」を強く提案したのは、こうした経緯があったからだ。
ただ問題は、この作品がつくられたのが、つい最近ではなく、2018年であり、最新作ではないこと。さてどんなもんだか?―。私でさえ、そう思った。でも、やはり上映すべき作品だろうと思い直した。そう判断したのは、冒頭で紹介したスラヴォィ・ジジェクの思いがけぬ見方、発想を知ったことが大きい。それは、この作品を推したことに限らず、さまざまな状況の判断の際に役立てられるだろうとも思ったことだった。そのひとつの例が、第一次大戦前のドイツ社会民主党の基本路線を揺るがした歴史的な論争、「ベルンシュタイン論争」だろうと。それも主役は、ドイツ社会民主党の女性革命家だったローザ・ルクセンブルク(1871年~1919)だ。
これはローザと社会主義者エドゥアルト・ベルンシュタインとの論争だ。「修正主義論争」と言われている。それをうまく伝えていると思われるのが、やはり同世代でドイツ近・現代史が専門の東大名誉教授・姫岡とし子(1950年~)の著作『ローザ・ルクセンブルク 戦い抜いたドイツの革命家』(2020年11月一刷 山川出版社)。そこの「修正主義論争」(27頁~35頁)から抜き出してみる。
1891年のドイツ社会民主党のエルフルト綱領は、資本主義社会の矛盾の増加による階級闘争の激化の不可避性と、それを基盤としたプロレタリアートによる政治権力の奪取と社会主義体制の実現というマルクス主義的な政治原則を採択していた。他方で党は、政治革命達成のための勢力基盤の拡大のために、実践面では時代変化に対応した体制内改革を実現する合法的闘争と労働者の生活改善要求を重視していた。党は、1890年の社会主義者鎮圧法の廃案と高度工業化時代の到来によって勢力基盤を著しく増大させて大衆化し、帝国議会選挙でも躍進を続けていた。また議会内での実質的な社会改良闘争を重視する党員も増えていた。そのようななかで、イギリスの改良主義的な労働運動の影響を受けていたベルンシュタインが、1896年から98年にかけて、「ノイエ・ツァイト」誌上に「社会主義の諸問題」に関する一連の論文を発表し、資本主義崩壊の必然性というマルクス主義の基本原則を否定した。議会活動や労働組合運動などの合法的手段によって漸進的に改良を重ねていけば、労働者の生活・労働条件は向上し、権利は保障され革命なしに社会主義への道が開ける、と主張したのである。
これにローザが反論し、「党内を二分する大論争へと発展させた」とある。ローザの論文はパンフレット「社会改良か革命か?」として出版された。社会民主党のリューベック大会(1901年)でも修正主義は断罪され、ドレスデン大会(1903年)では否認が票決された。1904年の第二インターナショナル・アムステルダム大会も修正主義を否決し、この論争にようやく決着がついた。ローザは、党の内外から注目される人物になるとともに、党執行部からも頼りにされる存在となったのであるー。
ローザの論理について、同書はこう記す。
恐慌の消滅、労働者の窮乏化の可能性の低下、労働者の経済的・政治的地位の向上によって資本主義の全般的崩壊が困難になっていると主張するベルンシュタインに対し、恐慌が起きないのは世界市場が今なお発展途上にあるからであり、世界市場の完成によって拡大の余地がなくなると、生産力の上昇と市場の限界との衝突が起こり、資本主義経済の無政府性が増大して資本主義は崩壊する、との結論を対置した。この資本主義の発展段階の画期は、その後の著作で展開される帝国主義論へと繋がっていくものであった。ローザは、資本論の論理を継承しながら、それをマルクスの時代にはまだ顕現していなかった、あらたな段階への展望と繋げて論理化したのである(・・・・・)ただし、彼女は改良闘争を否定しているわけではなかった。資本主義国家内部での生活状態の改善、労働者保護立法や民主的権利の拡大をめざす戦いは、労働者階級を教育し、組織し、革命に向けて準備させる手段だと考えていた。革命という目標なしには、改良闘争は社会主義的な性格は持たず、改良が自己目的化されることを批判したのである。
と、まあ、ベルンシュタイン論争の骨格を紹介してみたが、主題に沿った関心はその過程での権力掌握についてのローザのベルンシュタインへの反論の仕方だ。『事件!』によると、ベルンシュタインは、まだ状況が熟していないからプロレタリアートが権力を掌握するのは時期尚早だという主張。これに対し、ローザがふたつの点から反論したとある。
ローザが反論する。
社会主義による変革は長く辛抱強い闘争を前提にする。その過程でプロレタリアートが撃退されることは大いにあり得る。闘争の最終的結果からみれば初めて、早すぎる時期に権力の座につくことが必要となるだろう。(・・・・)プロレタリアートによる「時期尚早の」国家権力奪取を回避することは不可能だ。なぜならそうしたプロレタリアートによる「時期尚早の」攻撃こそが要因、それも非常に重大な要因となり、最終的勝利の政治的諸条件を築きあげるのだから。権力掌握をめぐる政治的危機の過程で、長く辛抱強い闘争の過程で、プロレタリアートはある程度の政治的成熟を身につけ、それがやがては革命の決定的勝利を生むのだ。(・・・・)プロレタリアートは「時期尚早」でなくして権力を掌握できない。プロレタリアートは、永遠に権力の座を保てるようになるまでに、一度あるいは数度、「時期尚早」に権力を掌握せざるをえないのだ。「時期尚早の」権力奪取に反対することは、結局のところ、国家権力を掌握しようとするプロレタリアートの希望全体に反対することに他ならない。
『事件!』は、「時期尚早」をめぐる点について、「行為にとってちょうどいい時期などないのだ」。とたたみかける。ジジェクはこの段落の結語に向かう。少し長いが、大事な場面なので、この部分の全体を示してみよう。かなり難しい言い回しになっているが、全体的な意味はとれるだろう。ローザの反論のすぐ後に以下のように語る。ローザの反論は『事件!』の「真理は誤謬から生まれる」(109頁)の小題にあるが、結語を示す前に「誤謬」について、短い説明が必要だろう。この辺りを理解するためのキイワードになるためだ。ネットから拾った誤謬の意味はこうだ。
誤謬は思考内容と対象との一致しない思惟,判断などをいい,真理の反対語。誤謬の原因については,先入見,判断力の不足,思考のエネルギーの不足,集中度や恒常性の不足,認識材料の不足など種々あげられる。
真理の反対であり、判断力不足や認識材料の不足など、いずれも否定的な意味ばかりだ。そのうえで、「時期尚早」の周辺について、ジジェクの論を以下に紹介する。
ちょうどいい時期に達するまでに何回の「時期尚早」な企てが必要なのかを計算できるような、外部の立場はない。なぜならこれはラカンのいう「心理は誤認から生じる」の一事例だからである。そこでは「時期尚早」の企てが時間性の空間/規模を変える。主体は「見る前に跳び」、条件がじゅうぶんに整う前に前進するという危険を冒す。主体の象徴的秩序への関わりが線的な時間の流れを両方向に推し進める。一方では促進し、他方では逆行させる(事物は遡及的にそれ自身になる。ある物のアイデンティティは、それがそれ自身に対して遅れたときにはじめてあらわれる)。要するに、すべての行為はその定義からして時期尚早であり、同時に遅すぎる。もし早すぎると、その行為は行為への移行、つまり、行き詰まりを打開するための暴力的な回避になってしまう。もし好機を逃し、遅れて行為に及んだ場合には、その行為は事件としての、つまり、「すべてが変わってしまう」ような結果をもたらす根源的な介入としての特質を失い、事物の秩序内のたんなる部分的変化、事物の正常な流れの一部になってしまう。もちろん問題は、行為というものはつねに早すぎると同時に遅すぎるということだ。一方では条件が整うことなどありえない。緊急性に屈服せざるを得ない。じゅうぶん待つ時間などない。戦略を練り上げる時間はない。行為は、それ自身の諸条件を遡及的に確立するという確信と危険性を覚悟しなければならない。他方では、緊急だという事態そのものが、行為が遅すぎたということを物語っている。もっと早く行動すべきだったのだ。行為はつねに、我々の行為が遅すぎたために生じた状況に対する反応である。要するに、行為にとってちょうどいい時期などないのだ。ちょうどいい時期を待っていたら、その行為は事物の秩序内のひとつの出来事にすぎなくなってしまう(「下」に続く)。
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