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2024年9月

2024年9月25日 (水)

会報「げんぱつニュース第51号」を印刷ー     映画「モルゲン 明日」告知などA4版12頁

9月25日(水)は、「さよなら原発!日光の会」の会報「げんぱつニュース第51号」の印刷や整理、宛名づくりなどで丸一日を費やした。A4版12頁。あす26日(木)に発送作業、27日(金)に発行という日程だ。日光市民活動支援センターの印刷室で輪転機を使い。計150部。A3版一枚に4頁を印刷するので、一部はA3版3枚でできあがる。その150倍なのでA3版を450枚を使ったことになる。印刷代は900円もしないー。

 

印刷室での作業はだいたい1時間ぐらい。印刷が高速なので、手早く刷り上がる。それを紙折り機で折り込んで終了。いつもはトナーが使い終わったり、コピー用紙が印刷機に詰まったり。けっこう作業を中断することがあるが、きょうはそんなトラブルもなく終えた。市民活動支援センターの担当者はふだんからのともだちだったので、コーヒーに呼ばれながら、スマホのラインの手ほどきを受ける時間も。自宅に戻り、3枚のA3版を順番に入れ込んで完成させた。ただし、会報の宛名のチェックに時間がかなりかかり、結局、午前零時までかかってしまった。

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2024年9月24日 (火)

秋めいた陽気に今季初のストーブ    室温が18度まで下がってきたのでー

居間の室温が18度まで下がってきたので、今日から今季初の「灯油ストーブ」を稼働させた。「暑さ寒さも彼岸まで」~。確かに陽の暮れるのもめっきり早まっている。もう秋本番の入り口なのですね。茄子が「賞味期限」なので、昼飯は「焼き茄子ポン酢づけ定食」で。コロッケ、ゆで玉子、シジミ味噌汁、キュウリ、めんつゆ、生姜ー。ふだんの昼飯は「ざるうどん」が基本なのだが、珍しくこのところ、ご飯食が続いているー。BGMは昨日に続いて、「ヒーリングクラシック曲集」全11曲。もちろん「交響曲第9番 ホ短調 『新世界より』第二楽章」(ドヴォルザーク)が最も聴かせるが、意外と最初の「歌の翼に」(メンデルスゾーン)も。それに気づいたところだ。 61081441_8175479809247461_52481927117378 Photo_20240926001201

2024年9月23日 (月)

高野悦子「二十歳の原点」と建築の世界ー     「京と」(11)高橋一男(同人誌「序説第31号」から)

「序説第31号」(2024年9月1日発行)

京と(11)        

高橋一男

 

 20170829165207973731_51150f5bffd4951db94 Photo_20240923211501 いつもの年のように今年も序説の季節がきた。ついこの間、序説の原稿を富岡さんに送ったとばかり思っていたが気が付けば一年がたっていた歳をとるのが早いはずである。気が付けばもう老人になっていた。序説はぼくにとっては青春であった。だからいつまでも若いとばかり思っていた。

3月2日(2024)その日は冷たい北風が吹いていた。毎年2・3度は行っていた京都にも去年は一度になってしまい、それもいつものように車で行くのではなく新幹線になってしまった。前橋からだと京都まで約500キロ、車だとおおよそ8時間、新幹線だとその半分の4時間くらい時間で行けた。

それにしても、今までに何回京都へ行っただろうか、雪の日もあったし台風の日もあった。初めて行ったのが1980年の秋、紅葉が美しい年であった。その時は大原まで京都駅からバスで行った関西弁が飛び交う混雑した車中であった。三千院の紅葉の美しさは今までに経験した事のないことだった。京都へ行くことは今でも続いているがそれにしても京都の景色は昔のままで何も変わっていないように思えた

今日も小暮渉さんがいつものように情報を持ってきてくれた宗教(苦しくて切ないすべての人たちへ 南直哉 を最近読んでいる)とか政治とか美術の話ばかりでなくて先日などは五枚刃の髭剃りの話をしてくれたので、近くのドラックストアで買い求め使ってみると今までに考えられないくらいよく剃れた。

 「二十歳の原点」 高野悦子 著より(新潮文庫・たー16―1(新潮社) 平成22年2月15日 51刷)

 一月五日(日)

親は常に指導的な優位な立場にたって、子である私達をみる。私達は未熟であり、物事にぶつかっていこうとする。親はこっちの方が近道だから良い道だから、こっちを行きなさいといった。(10頁)

 最近は親というよりはお爺さんの立場で物事を考えるようになっていた。親からお爺さんまでの時間は「あっ」という間であった。朝早く起きて一番早い小田急電車に乗って成田空港まで行った事はよくあり、目的地(現地)のお金(レート)に急いで交換した円がいくらだか知らなかった。息子はまだ子供であったが僕たちと一緒に建築を観てまわった。ぼくはヨーロッパの現代建築に夢中であった特にフランスの建築が中心であったジャコブ+マクファーレンの「ドッグ・アン・セーヌ」や「ポンピドゥー・センターの最上階にあるレストラン」や「パリの共同住宅」は実際に見に行った十五年程昔の話である。建築を知るためには近道はなかったもっと合理的な方法もあったのかもしれないが気が付かなかった。

 一月十五日 晴 北風の強い気持よい青空の日

「孤独にはなれている。内職する母に放ったらかしにされた幼時から、いつも自分で考え、自分で規制し、目標に向ってペースを狂わさずに歩いてきた」

「お前、お前自身どう思うんだ」

「矛盾に対さない限り、結局のところ矛盾はなくならない。未熟は未熟のままでしかない」(15頁)

 ある時から自分の目標に忠実に生きて来た。足利から東京に出たのもその中の一つであった。あの頃、東京には何か可能性があると思っていた。建築家になれると思っていた。だから、ただその目標に向って生きていた、ただ夢中であった。

 一月三十日

愛宕山に雪が降った。明日、その三角点と龍ヶ岳に行ってこようと思う。試験の勉強など全然していない。延び延びでもあるし、もうどうでもいいように思う。一夜づけでやればいいようなものなんだから、大学の教育なんて知れてますネエ。そのような試験はおとしてもよい。自分自身と対決し、自分自身の勉強をしてこそ試験にもイミがある。エヘヘー(27頁)

 京都の街から北西にある山の一つらしいがどの山が愛宕山か知らなかった。ただ車では行けない山らしいので結局行けなかった。

ルイ・ヴィトンのフレグランス(香り)ボトルのデザインには驚いた特にボトルのキャップはシュールリアリズムの絵の景色の一部のような彫刻のような興味深い造形物であった。デザインしたのが建築家のフランク・ゲーリーであったのにも驚かされた。でも考えてみたらこのボトルを建築物の大きさまでスケールアップしたのが彼の建築だと思うとそれ程、不思議でもなかった。現にパリのブローニュに建っているフォンダシオンルイ・ヴィトンを設計したのがフランク・ゲーリーだったから。

 二月一日(土)雨のち曇り

私のもっている世界はー

女の子は煙草を喫うものではありません。帰り道が遅くなってはいけません。妻は夫が働きやすいように家庭を切りもりするのです・・・・。しかし、うすうすとその世界が誤りであることに気付き始めているのだ。私はその世界の正体を見破り、いつか闘いをいどむであろう。(33頁)

 今の時代、女の子に煙草を喫うなとか、女の子だから帰りが夜遅くなってはいけませんとか女の人は家庭を守りなさいとか言ったらパワハラで大変であることに大きな時間の存在を感じた。磯崎新の作品に木の「根っこ」を逆さにした構造体が特徴のカタール国立コンベンションセンター(2011年竣工)がある。今から思うと2002年フィレンツェ新駅設計競技案(実現せず)とによく似ていると思った。フィレンツェ駅からホテルまで歩いて行ったのかバスで行ったのか覚えていない、ただ街全体が博物館の中にあり、歴史をまとった建築達には感動した

 二月一日(土)雨のち曇り

明日はメガネを買いにいくんだヨ。人に聞かれたらこう答えるんだ。まず第一番目に

「近頃、本の読みすぎで目を悪くしてネー」そして次にいうの、「チョットこのメガネ似合うでしょう。だから掛けたの」

こんなこと誰も信じない。私がメガネをかけたら小さなプチインテリでいやらしくなるんだから、(35頁)

 中学生の頃はメガネを掛けてはいなかった。でもメガネを掛けることに憧れみたいものがあった。高校に入学すると工業高校の建築科だったので課題の中に設計製図があり、薄暗くてあまり環境の良くないところで図面を書いていたので、気が付いた時には完全に近視になっていた誰にも遠慮することもなくメガネを掛けることができた。

 三月十六日(月)

そうそう、昨日眠れそうにないからウイスキーをのんでいい気持ちになっちゃった。角びんで三センチの高さぐらい。やっぱり今日は胃の調子がおかしい。

「ね、おはなしよんで」を朗読し、石原吉郎の「確認されない死の中で」を読んだ。二時ごろいつのまにか眠ってしまった。(86頁)

 サントリーホワイトを園部君の下宿で飲んだことを覚えている下宿の空間にホワイトのラベルと茶色いボトルが似合った。園部君は育ちの良さが時々顔をだすやさしいい男でいまでもそれが続いている。先日の序説の集まりがあった時に、歩行用の器具がないと歩けない僕に対して「高橋君、大丈夫」と声をかけてくれた園部君の優しさは学生の時と同じだ。

 このショートカットの頭ボサボサの、身長一五二センチの童顔のガキが、煙草や酒を飲んで、山本太郎の詩がどうだこうだといったり、すべては階級闘争だといったりするのがこっけいなのだ。ピエロでもない。ピエロは大人であるから。子供のようにスプーンで離乳食を食べさせてもらったり、あたたかい父親の胸で眠ってみたり、ウェーンと大きな声で泣きたがっているガキ。(99頁)

 何があったのか知らないがある日、突然髪の毛をバッサリきって、黒縁メガネをかけ、黒いレインコートを着てきた女子学生がいた。年齢も同じくらいだし高野悦子さんのことを思い出した。(2015年の頃)

 四月七日

一六〇〇〇円で生活を立て直せ。

“とびかう鳥よ おまえは自由”―「坊や大きくならないで」よりー(103頁)

  “とびかう鳥よ おまえは自由”フォークルも歌っていた「イムジン河」の一説のような気がした。(イムジン河:1968年ザ・フォーク・クルセダーズ(フォークル)によってレコーディングされたが発売中止となった。)

 詩人になりたいなら詩を読め、街に出かよ、山に出かけよー私はなにもしていなかったのだ。独りである自分を支えるのは自分なのだ。私は自己を知るため、自己を完成させるため、本を読んだり、街に出たり、自然に飛び込んでいくことを、いま要求されているのだ。(107頁)

  建築家になりたいなら名建築を実際に見て回ることである。実際に触れてみることである。

 私はこれから長い旅路に出かけるのだ。ウィスキーグラスに四杯飲んだからこんなことを言うのではない。読書(詩、小説、歴史)の中に音楽(クラシック、ポピュラー)の中に、ワンダーフォーゲルの中に、サーカスの中に八百屋のおかみさんの中に、動物園の中に、学生運動の中に・・・・長い旅路に出かけるのだ。そうそう、忘れていた。京都国際ホテルの中にも。(108頁)

  本当に長い旅路だった。でも「アッ」という間の短い旅路でもあった。僕の記憶は中学校頃から始まるクラブ活動で最初にやったのが陸上の短距離走で半年位やったか、そのあと中高と柔道をした。関東大会で東京の武道館で試合(団体)をしたこともあったが全敗であった。相手は東京の高校でレヴェルの違いを知った、怖いくらい強かった。そして足利工大では美術部に入部した素晴らしい仲間と出会うことが出来た。このころから建築を意識するようになったし、建築家の名前も覚えるようになった。磯崎新もその中のひとりの建築家で数多くの仕事をこなすとか、ただ大きな仕事するという考えではなく建築に作家性、芸術性を求める建築家のひとりであり、ぼくは磯崎新の建築が好きだった。

 四月十一日

歩きながら煙草をすったら足元がふらついてグロッキー、車のライトもホテルの明かりもゆらいでいた。これはいけないとタクシーをひろおうと思ったがなかなかこない。水銀に灯にもたれながら、これこそ独りだなあと思う。(110頁)

  初めて煙草を喫ったのは高校生の時、課題の製図をしている時、電球が一つしかない六畳間白い煙が舞っていた。煙草に慣れてくると外に出て喫うようになった。

 参考資料

 「二十歳の原点」 高野悦子 著  (株)新潮社(平成22年2月15日 51刷)

東 京 新 聞

芸術新潮(2023・10)追悼特集・いまこそ知りたい 建築家

2024年9月22日 (日)

どういう風の吹き回しなのか、「コロッケ丼」をつくりましたー   CD「音楽畑 モーニング コーヒー」(全9曲)を聴きながら。

どういう風の吹き回しなのか、本日はかなり久しぶり、「コロッケ丼定食」をつくりましたー。シジミの味噌汁、めんつゆ、キュウリ、生卵、納豆、生姜、韓国海苔(日本一周クルーズ10日間の旅から戻ってきた日光のともだちのお土産)ー。lコロッケのじゃがいもがいささか甘過ぎたがー。BGMは「音楽畑 モーニングコーヒー ☕🍞🌄」。「大地のめざめ」、「エメラルドモーニング」、「風」、「薔薇のワルツ」、「想い出のクリスマス」など9曲。このCDも最近、よく聴いている。 Photo_20240922192401 Photo_20240922192402 2

2024年9月21日 (土)

11月23日(土)宇都宮脱原発パレード、本格的呼びかけ    「栃木アクショ2024」本番チラシ4万枚を配布へ

Photo_20240921202501 脱原発を呼びかける「第11回 さようなら原発!栃木アクション2024」(11月23日・土曜日、実行委主催)。そのフライヤーが完成し、本日9月21日(土)、実行委員会に参加する各団体に手渡された。いよいよ、宇都宮城址公園に集い、13時から集会を開き、14時から宇都宮市内をパレードしながら、脱原発を呼びかける秋恒例の脱原発イベントが本科的にスタートする。


今回のフライヤーは栃木アクションの「本番チラシ」と呼んでいる。本番のプレ企画として、脱原発を決めたドイツを描いたドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」上映会を9月中旬から11月上旬まで栃木県内7都市で開く。このプレ企画でも総計4万枚をつくったが、この「本番チラシ」も4万枚を印刷している。

 

2024年9月20日 (金)

政治家の議論にリアリティーが感じられない     朝日新聞政治面連載に清水奈名子教授が登場     

本日20日(金)の朝日新聞政治面連載「いま選択の時に」に、宇都宮大学の清水奈名子教授が登場ー。見出しは「現実離れした党首選の政策論議 『人びとの困窮こそ最大の危機』」。清水さんの専門は、確か、国連、平和、戦争、紛争ー。                                                                                                                                   

この記事で、清水さんが「日本平和学会会長」に就いていることを知った。いやはや、半月前、「甲状腺検査宇都宮検診」の会場で会った際、「最近は原発問題だけではなく、平和問題でも講演をしているのですね」と話すと、清水さんはすかさず「平和は私の専門ですからね」と。確かに「日本平和学会会長」なら、そういうことなのだねと、この記事でようやく気づく。知らぬこととはいえ、その節は失礼しました。Ourpath_to_a_nuclearfree_japan2022725x10                                                                                                                                         

そんな話になるという理由も。一方でNPO「原子力市民委員会」(座長・大島堅一龍谷大教授)の委員として、原発問題について、さまざまな提言も。日光でも2年前だったか、脱原発問題で講演してもらっているが、その講演の際、「何か行き詰ったときは、『高木仁三郎コレクション』を改めて読んでいます」と語っていた。その語り口が印象に残っている。故・高木仁三郎は前橋生まれの原発問題の専門家で、NPO「原子力資料情報室」の創設者。私は今も「原子力情報室通信」定期購読者で、このとき、私も「高木仁三郎コレクション」を読み終えたばかりだった。なので、いやがうえにも「さすがに、なるほどねー」と、うなづいたことだった。







以下は朝日新聞20日朝刊 政治面連載記事に登場した宇都宮大学の清水奈名子教授ー。

連日、政治家たちが国家の行方を語っていますが、足もとの人々のことが本当に見えているのでしょうか。平和学者で宇都宮大学教授の清水奈名子さんは「犠牲になる人びとに目を向けて」と訴えています。

 安全保障や原発政策についての政治家の議論にリアリティーが感じられません。国家レベルの政策論議と、社会で生きる人びとの目に見えている現実が、かけ離れてしまっています。

 岸田文雄政権では、外国の侵略から「国益を守る」ことが喧伝(けんでん)されてきましたが、今の日本を冷静に見るならば、直接的な脅威は「外からの敵」よりも、目の前で起きている政治腐敗、経済格差、人口急減、相次ぐ災害、そして国家の基本が崩れ始めていることでしょう。

 公的な教育を担う教員が足りない。官僚が次々に辞めていく。自衛官も足りない。国家の基本を支える人材が疲弊しているだけでなく、農業、福祉、介護など、生存に不可欠な職場でも深刻な人材不足です。また、若い世代が直面する経済的な困難によって、少子化は加速するばかりです。そして、これらの問題に対応できない政治へのあきらめが広がっています。

国家の危機を語る前に

 福島の原発事故で、日本でも多くの国内避難民が発生し、被害は長期化しています。ところが、政府も電力会社も現実味の乏しい避難計画のまま、原発回帰政策を推進しています。

 国家の危機を語るのなら、まずその国家のなかで生きている人びとがどういう状況にあるかを直視すべきです。戦争も原発事故も結局、犠牲になるのは人びとですが、いまだに国家中心の議論が続く状況に違和感を覚えます。

 軍事攻撃や領空侵犯への対処は必要ですが、人びとを犠牲にしないために、国や政治体制の違いを超えて、信頼醸成・軍備管理など、平和のための協力が必要です。気候危機や核軍縮など、全人類の生き残りに関わる問題にも積極的に取り組む必要があります。

 私はずっと東京で生まれ育ちました。30代になって初めて地方で暮らし始めて気づいたのは、コミュニティーが崩れ、過疎化が進み、貧富の格差が深刻化する日本社会の現実です。

 東京にはたくさん人がいて、お金も集まって、「何とかなる」と思ってしまう。日本の弱っている部分が見えにくい。政治家も世襲が目立ち、多様な経験を欠いているように見えます。選挙区は地方でも、実際は東京育ちで、日本各地の複雑な現実が見えていないのかもしれません。

「中心」で考えるだけでは全体が分からない

 「わが国を守るため」「繁栄のため」と勇ましく天下国家を語るうちに、「国家」の中で生きる人びとは困窮している現実こそが、最大の危機ではないでしょうか。

 戦争や原発事故のような国家的危機になると、国家は国民の保護を優先させず、切り捨ててしまいます。それはなぜか。国家の「中心」で「犠牲を伴うリスクをとるべきだ」と意思決定をする人びとと、その結果、実際に犠牲となる人びとが、分離しているからです。

 決定者はいつも安全な場所にいます。例えば、原発の再稼働や新設を決定する責任者の大半は、原発事故が起きた時に直接被害を受ける地域に暮らしていません。首都圏の電気をつくるために、東京電力の電気を使っていない福島の人びとが、東京電力の原発事故によって最も深刻な被害を受けたことは、その典型です。直接被害を被る人の声は「中心」の意思決定の場に届かず、「周辺」で発生する被害は様々な形で切り捨てられてしまう。

 研究者も、国家の「中心」にある安全な場所で命令した人びとが残した記録ばかりを読んでいると、その視点から議論しがちです。このため「国のため犠牲はやむをえない」という発想になってしまう。

 その決定によって、誰がどんな人生を生きざるをえなかったか。最も深刻な被害を受けて命を失った人は、声をあげることもできない。そこにこそ目を向けて、誰かの犠牲のうえになり立つシステムを変えていくための政治が必要です。

 すべてを「自己責任」ととらえ、利害で動く風潮は、最後は経済と軍事の「力」で対応するしかないという世界観と結びついているように見えます。その一方で、国内外の危機に際して支え合う人びとの活動に注目すれば、「弱き存在である人間同士がケアしあう」世界観が見えてきます。人間は様々な違いや摩擦を乗り越え、困難ななかでも協力を進め、最低限の共通項を見いだすことができる。日々の生活のなかでそんな感覚を持つことが、少しずつでも社会や政治、外交、安全保障のあり方を変えていくのではないかと思っています。(聞き手・小村田義之)

 1975年生まれ。現在、日本平和学会会長。専門は国際機構論。人間の安全保障と原発事故被害の関係を研究。

 




2024年9月19日 (木)

24日(火)印刷の会報「げんぱつニュース」第51号づくりー  市民団体「さよなら原発!日光の会」

19日(木)は市民団体「さよなら原発!日光の会」の会報「げんぱつニュース」第51号づくりに追われた。A4版12頁だが、それでもなかなか気を遣う作業だ。ともあれ、この日だけで、とりあえず、12頁に収まる体裁まで仕上げた。会報の構成がどんなものかー。まだ仮題だが、それを以下にアップへ。編集作業を終え、校正に回すまで、あと2日間は必要だろうなとー。楽しみながらの作業ではあるのですがー。

  • 10月26日(土)脱原発を決めたドイツを描いた映画「モルゲン 明日」日光上映会へ・・・・・2 
  • 11月23日(土)「さようなら原発!栃木アクション2024」(宇都宮城址公園)へ・・・・・3
  • 子どもたちの甲状腺エコー検査 各地の検診情報を「広報にっこう」で案内・・富岡洋一郎・・・4
  • 「日光の会」写真報告 原発いらない金曜行動 東海第二原発いらない一斉行動・・野村潔・・・6
  • 2024年度「さようなら原発!日光の会第12回総会」報告・・・・・・・・奈柄計治・・・・7
  • 第12回総会記念講演会「東海第二原発と能登半島地震」アンケート結果・・・赤羽温・・・・10
  • 「さよなら原発!日光の会」に緊急カンパを  火の車の財政の手助けをお願いします・・・・12

 

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2024年9月18日 (水)

ありがたい!「無償」でA3版13枚の展示作品を  ともだちの印刷会社経営者が「序説」記念展で

ありがたい。「序説」創刊50周年記念展(10月11日~10月16日、日光市杉並木公園ギャラリー)に出品する32点のうち13点の表紙印刷を日光の友だちの印刷会社経営者が「無償」で作ってくれた。原版のA5版を4倍の手触りの良い光沢紙のA3版カラーで。出入り口の「案内」になる拡大版フライヤーも。

                                                    460498796_8123381304457312_4679579165050 Photo_20240918210702 Photo_20240918210701

「これはいいね」。思わずニコニコ顔で私が語ると、彼も「喜んでくれれば~」と笑顔で応じた。これで記念展の出品については、ひと山越えたことになる。さらに19点は「原画」など。これは同人の美術家が搬入する。とにかく、大助かりなのと心意気に感謝するのと、申し訳ないので、お礼に日光名物、お煎餅の詰め合わせでも贈ることにしようかとー。

2024年9月17日 (火)

脱原発日光上映会、日光市と日光市教委が後援  ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」

「さよなら原発!日光の会」は、10月26日(土)、日光市中央公民館中ホールで開く栃木アクション2024プレ企画、ドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」の日光上映会について、日光市と日光市教育委員会に「後援申請」しておりましたが、きょう17日、いずれも「承認します」という「後援承認通知書」が届きました。後援承認を受け、中央公民館に「減免申請」を行うことで、「会場費」とスクリーン、マイクなどの「機材費」(会場費と機材費で計約9000円)は無料になる可能性が大です。また、日光市の図書館や公民館などの公共施設に上映会フライヤーを置いてもらうことも容易になります。 Photo_20240917165401 Main1jpg_20240917165401

2024年9月16日 (月)

アジフライなどで「華やかな」昼飯だったがー   ウインナーと目玉焼き料理は次回へ

華やかな昼飯になったかな?ー。アジフライ、コロッケ、納豆を中心に。土鍋ご飯に長ねぎと小松菜の味噌汁。シーフードのあえもの、キュウリ、冷奴、果物は梨で。ウィンナーと目玉焼きの料理をさらに登場させたかったが、食べきれないだろうと、次回へー。BGMは今日も「ドリームズ」。ケリー・ヨスト演奏の「トロイメライ(夢)子供の情景より」(シューマン)、「アリエッタと変奏曲 イ長調」(ハイドン)など18曲。 Photo_20240917001401 Photo_20240917001501 459684217_8096627490466027_2029887581455

2024年9月15日 (日)

「序説」創刊50周年記念展のフライヤーが入荷ー   カラー印刷1000枚で送料込み2840円でした

1974年12月に「戦後の鬼っ子」と呼ばれた若者たちが創刊した同人誌「序説」(事務局・日光市内)が9月1日発行の第31号で半世紀を迎えた。それを機会に「『序説』創刊50周年記念展」を日光市杉並木公園ギャラリーで開く。会期は10月11日(金)~10月16日(水)。いずれも午前10時~午後4時、無料(ただし、最終日の16日は午後3時まで)。きょう15日、そのフライヤー1000枚(A4版片面カラー光沢紙)が「プリントパック」から届いた。料金はカラー印刷1000枚で、なんと!送料込み2840円という安さ(一枚3円もかからない。日光市民活動支援センターによると、センターのコピー機を使うと、1枚50円とかー)。

                                                                

さっそく同人でつくるネットとラインの「序説連絡グループ」で伝えると同時に下野新聞(28万部)の「くらし文化部・週刊情報ワイド係」に情報を掲載してもらえるよう、PDFとコピーを添えてお願いした。近く、日光記者クラブ(朝日、毎日、読売など11社)に投げ込むつもりだ。本日はさらにいずれも私が役員をしている「さよなら原発!日光の会」(会員約100人)や「原発いらない栃木の会」(会員約300人)のML(メーリングリスト)にフライヤーのコピーとPDFを添付し、伝えさせてもらったー。このBLOG「霧降文庫」とtwitter、facebookのSNSにもー。

 

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2024年9月14日 (土)

♪昔の名前で出ています♪を思い出したー   10年前の「霧降文庫」、facebook提供  

きょう9月14日(土)、facebookを開いたら、自動的にアップされているだろう「思い出」のページが飛び込んできました。眺めると、10年前の古書店図書室「霧降文庫」(日光霧降高原)のウッドデッキの書棚をチェックする常連のともだち二人の様子だった。10年後、2024年秋の今もこの光景はそのままです。まるで「時がそのまま」といった思いがしました。                                                  

10年前のこのとき、特集「懐かしい未来に向けて」を組んでいたようだ。書棚には、民俗学者・宮本常一に分け入った「旅する巨人」、佐藤優と確か鎌倉孝夫だったか、その対談集「マルクス」、大友克洋の名作コミック「気分はもう戦争」(今も私の居間には「気分はもう戦争」の大ポスターが貼られています)ーそれに「沖仲士の哲学者」で知られるエリック・ホッファーの「魂の錬金術」などがある。                                                 

それがわかるが、いずれも、古書ファンが買い求めており、今は手元にありません。ふと、なぜか?、「♪昔の名前で出ています♪」-という歌謡曲のフレーズを思い出した(笑い)そうそう、「霧降文庫」は今も土日祝日オープン(正午~夕方、ときどき「臨時休業」しますがー)。さぁ、「読書の秋」本番へ。霧降高原へどうぞー。

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2024年9月13日 (金)

15日(日)夜、日光市足尾町で「餅ケ瀬花火 2024」ー   友だちの花火師が18時~「雨天決行」で

あさって915日(日)、足尾で花火大会がある。「餅ケ瀬花火」(発電所取水口下)-。午後6時から(雨天決行)。私のともだちの本業は腕は確かなプロカメラマンだが、「花火師」もやっている。きょう13日、花火のフライヤーとともに「花火を観に来ませんか?」という連絡があった。う~ん、

行くのは無理かなと思うが、「SNSで大いに広報しておきます」と返答したのです。なので、このBLOGとBLOGと連動したtwitter、さらにfacebookでも宣伝しようと。とくに会場に至る地図の出来栄えがいい。これを特にアップしたいなと。聞けば、「イラストレーターでデジタル加工した」という。これはぜひ、その方法を教えて欲しいなとー。Photo_20240913231401 Photo_20240913231402

2024年9月12日 (木)

発想の転換を促す野口健の清掃登山    「冒険者達」冨岡弘(「序説」第31号から)

「私の一篇」(同人誌「序説第31号」ー9月1日発行ー)

 冒険者達   冨岡弘

アルピニストの野口健さんがエベレストの清掃登山に出発するとの記事が新聞にのっていた。記事を抜粋すると「今年で三回目となるエベレストと富士山の同時清掃登山についてアルピニストの野口健さんらが環境省で会見した。清掃後、地球温暖化で崩壊が危惧されているヒマラヤ氷河を視察、G8環境大臣会合で報告する。」という内容で、清掃する場所はネパール側ベースキャンプの標高五千二百メートル付近らしい。富士山では女優の若村麻由美さんがリーダーとして参加する。野口氏が以前から清掃登山をしていることは、多くの日本人が知っているはずである。環境問題が世界的に重要視され、地球温暖化抑制のための二酸化炭素排出削減の努力を国単位あるいは企業単位で取り組もうとしている。昨今マスコミで環境問題はあたり前のごとく取り上げられているのだが、私が新聞記事で興味を持ったのは、環境問題よりむしろ野口健という登山家が、山を清掃するために登山するという行為についてである。野口氏の行為は、現在を生きる我々にとって大きな発想の転換のヒントに成るのではないかとふと思ったからである。

 元来登山家、一般的に言えば冒険家と呼ばれる人たちは、未知で未だ誰も成しえていない冒険をすることが、その目的の大部分を占めているはずなのだが、何故あえて清掃なのかが、ちょっとひっかかったのだ。

ところで、我が国にもう一人誰でも知っている有名な冒険家がいる。その人は三浦雄一郎である。彼は今年七十五歳になるのを記念してか、エベレストの登頂を計画しているらしい。彼の計画はこれまで世界中の冒険家達が挑んできた、解りやすいカテゴリーに属する。あくまでも新しい記録をうち立てるための登山なのだ。七十五歳でのエベレスト登頂は世界最高齢にあたるのかは、私は知らないが、とにかく世界中の冒険家達が目指す他に誰も成し得なかった記録への挑戦。そのことが、冒険の最大の意義であり最終的な目的であるはずだ。冒険家にとって、目的達成に必要とされることでまず思い浮かべるのは、体力・気力・忍耐力・判断力などで、他にも色々あろうがそんなことが重要であると考えられる。しかし近年それ以上に重要なのがアイデア力ではないか。他の人が未だ誰もやっていないこと、そのことを考え出す発想力がどうしても一流の冒険家になるために必要なのである。百年前の登山家ならば未踏峰の山は世界中に幾らでもあったであろう。ただただ純粋に登ればよかった。しかし、近年では地球のありとあらゆる場所に人間が進出して、未知の領域は益々少なくなる一方である。当然それに比例して新鮮な驚きをもって迎えられる冒険も、減少傾向になるはずである。

 ここで二人の有名な日本人冒険家の具体的記録を記してみたい。一人は先ほど少しとりあげた三浦雄一郎、もう一人はおなじみ堀江謙一である。

三浦雄一郎

1966年   富士山直滑降(スキー界で初のパラシュートブレーキを使用)

1967年   マッキンレー山滑降

1970年   エベレスト 8000m世界最高地点スキー滑降

1977年   南極スキー滑降

1978年   北極圏バーボーピーク滑降

2003年   エベレスト山8848m次男とともに登頂

2004年   父 (敬三) 100歳 、子供達、及び孫の、100歳から1歳の一族での、ア

       メリカロッキー山脈をスキー滑降

堀江謙一

1962年   ヨット(マーメイド号)で単独太平洋横断

1974年   単独無寄港世界一周

1982年   縦回り地球一周

1989年   世界最小の外洋ヨットでサンフランシスコ~西宮間

1992年   足こぎボートでハワイ~沖縄間

1996年   アルミ缶リサイクルのソーラーパワーボートでエクアドル~東京

1999年   業務用ビール樽を利用したリサイクルヨットでサンフランシスコ~明石

       海峡大橋間

2004年~05 単独無寄港世界一周 サントリーマーメイド号の航海

 堀江謙一の足跡を辿ると冒険家がいかに工夫してアイデアをしぼりだしているかが、手に取るようにわかるはずだ。1962年・74年・82年の初期の航海は割合まともな冒険らしい冒険ではないか。まさに体力・気力・忍耐力の裏技なしの野球に例えれば直球勝負である。62年のマーメイド号の太平洋横断は、私が二十歳の頃の記録であり当時の記憶を辿れば、やはりすごい人が日本にもいるなあと驚いた覚えがある。しかし、89年以降の航海はどちらかと言えば変化球での勝負といえるのではないか。それぞれの記録がなかなかアイデアに富みユニークながら、苦労しているなあといった印象である。堀江さんが何故こんなに海にこだわり、しかも小さなヨットで何度も航海に臨むのかは私のような凡人には理解し難いが、これが冒険家の宿命とでもいえるのか。

 もう一人の重鎮を忘れてはいけない。プロスキーヤーの三浦雄一郎である。堀江氏が海ならばこちらは陸である。やはり彼のプロフィールをみれば、なかなかのアイデアマンということが、ひと目でわかるはずである。パラシュートで急勾配な雪面を滑降する彼の雄姿を映像で見たことのある日本人は、多くいるはずだ。ただ滑るのではやはりプロとして面白くない。日本や世界の人々の視線を惹きつけるには、ちょっと驚愕するアイデアが必要であることを彼は十分意識していたはずである。ある意味堀江氏よりも一般大衆を意識したパフォーマンスであり、冒険をエンターテーメントとして定義づけようとしたのか。2004年の記録などはなかなかほほ笑ましく、父の敬三氏の影響か冒険を運命づけられた家族らしい、挑戦であった。

 堀江・三浦両氏のアイデアのユニークさはさておき、共通するのは命の危険をかえりみず何度も冒険に挑戦し、成功させてきたことである。百年前の冒険家とユニークさにおいて少し違いもあろうが、命を懸けた冒険家としてほぼ同質のカテゴリーにくくられるのではないか。両氏の冒険は冒険家としての王道そのものなのだ。

 次に野口健のプロフィールを紹介してみたい。

十六歳で登山を始め、十年目で世界最高峰のエベレストの頂上を極めた。

七大陸最高峰最年少制霸。

1990年   モンブラン(十六歳)

1990年   キリマンジャロ (十七歳)

1992年   コジウスコ (十九歳)

1992年   アコンカグア (十九歳)

1993年   マッキンリー(十九歳)

1994年   ビンソン・マシフ (二十一歳)

1999年   エベレスト(二十五歳)

 1999年以降ゴミ問題や2001年には日本隊に参加し遭難したシェルパの遺族を補償するためのシェルパ基金の設立。 2007年エベレストを中国側から登頂に成功。ネパールならびに中国側からの登頂に成功したのは日本人で八人目。初期の七大陸最高峰最年少制覇は、堀江・三浦両氏の冒険家としての路線と同じタイプであり、命がけの試みであった。七大陸制覇で彼の当初の目的は達成されてしまったのか、1999年以降の行動に大きな変化がおこる。清掃登山である。エベレストのベースキャンプ付近に多くの登山家が残していったゴミの回収である。以前テレビの映像で驚かされたのは、世界中の登山家がエベレストを目指しベースキャンプとして使用している場所には、カラフルなテントがなんはりも点在し、お店はないであろうがちょっとしたテントの集落ができあがっている。これでは、沢山のゴミがでるわけである。人間世界では、崇高とされる計画なり行動の足元をみたとき、全然違う現実世界がたちあらわれることが往々にしてある。遠くの白銀に輝くなんとも魅力的な山々に見とれてしまい、足元の小さなゴミの山にきづかない。野口健は遥か遠くの山そして自身の足元も、両方ある時期からみえてきたのである。ここが従来の冒険家と一線を画する彼のユニークなところで、時代の空気も環境問題が頻繁に議論の対象としてとり上げられている昨今、彼のセンスは現在を生きる我々に最も必要とされるセンスではないか。 大志に向かい張り切って行くのはよいが、やはり身近な現実も大切なのだ。先進国と呼ばれている国々にとっても同様なセンスが問われている時期なのではないか。今の中国やインドにそんな事を言っても熱いボルテージに水をさすようなもので、嫌われるのがおちだろうが。世界中どんな処に行っても、人間が存在する限りゴミも存在するように、多種多様で小さな問題も存在するはずである。野口健の清掃登山は地味な行動であるが、なかなかのインパクトを私に与えてくれた。

 

(冒険者達は2008年に序説15号に掲載したもので、今回文章の一部を少しだけ手

  を加えて掲載しました。) 

冨岡 弘Photo_20240912214701

2024年9月11日 (水)

たまには「カレーうどん」もいいかなとー。   あの懐かしい「学級給食」のような味にしたいのだがー。

昼飯はかなり久しぶりに「カレーうどん」にしました。カレーをたくさんつくった翌日はよくカレーうどんに。ナス焼きも。めんつゆ、ゆで玉子、キュウリを添えて。あの懐かしい「学校給食」のような風味にしたいのだがー。その味に近づけるのがなかなか難しい。Photo_20240911195501 Photo_20240911195601 Photo_20240911195502 それでも、たまにはカレーうどんもいいかなとー。BGMは「おやすみクラシックス モーツァルト」。「自動オルガンのためのアンダンテ」「魔笛 僧たちの行進」「ナハトムジーク」など10曲。確かに今もモーツァルトに根強い支持があるのは、こんなやわらかな曲ばかりを集めたCDを聴いただけでもわかるよね。

2024年9月10日 (火)

同人誌「序説」創刊50周年記念のフライヤー発注    10月11日(金)~日光市杉並木公園ギャラリーで

同人誌「序説」(事務局は日光市霧降高原)の創刊50周年記念展を10月11日(金)~10月16日(水)、日光市杉並木公園ギャラリー(東武日光線上今市駅併設)で開くが、そのフライヤーの印刷版がきょう完成した。この日のうちに印刷の発注へ。とにかく安価なので知られる印刷屋さん「プリントパック」で。「光沢紙、A4版、片面、4色、7営業日以内発送」の条件で、1000枚を注文した。プリントパック㏋の料金表によると、1000枚で送料込み2510円ー。遅くも来週中には宅配便で送られてくるだろう。

                                                                                                                                            Photo_20240910170401 「さよなら原発!日光の会」総会記念講演会フライヤーづくりでこれまでも何度か使っているが、いつも着払いだった。「こんなに安いのは労働が過酷な『ブラック企業』ではないか?」と、仲間内で冗談を交わすぐらいの激安だ。ただ、改めてプリントパックの㏋をみたら、本社は京都府。全国に印刷工場があり、近くでは千葉県柏工場や群馬県高崎工場もある大きな会社だったのを知る。最近、日光市民活動市民センターの事務局と話していたら、同センターでもイベント告知のポスター印刷などで活用を始めたということを知った。世間ではかなり知られている印刷会社なのだなーと

2024年9月 9日 (月)

失った文明がどうしょうもなく美しかった  桜町文庫の窓(5)ー磯山オサムー「序説第31号」

桜町文庫の窓(5)  磯山オサム+ハルPhoto_20240909193701

 官軍嫌い・杉浦日向子と明治維新         

 てやんでい、二本差しが怖くて色川の鰻が食えるかと言いてえところだけれど、このところトンと二本差しをみねえ。髷だって時世に遅れてるって。文明開化か散髪脱刀令か知らねえが、きのうおとついまで攘夷・攘夷と騒いでいた連中が、脱亜入欧だとぬかしやがる。お天道様は東からあがらあ。このお江戸を東の京と言いくるめるめえに、おめえ達の攘夷はいったいどこにいっちまったんだ。と杉浦日向子『百日紅』の絵師、善ちゃんこと善次郎だったら声をあげるだろう。

 

 杉浦日向子には、『百日紅』ほか江戸の世情や幕末を描く作品が多い。

 旗本の子弟の、医学を学ぶための長崎留学を描いた『東のエデン』や『ニッポニア・ニッポン』。『とんでもねえ野郎』は、貧乏御家人の愛すべき放蕩。『合葬』は、彰義隊に参加した少年隊士三人の最後を描いている。

 

 『百日紅』は、幕末近く葛飾北斎とその娘お栄・絵師修行中の善次郎を主な人物とする作品。

 北斎の娘お栄は、浮世絵師の葛飾応為。北斎晩年の作には、お栄の代筆もあると伝えられる。絵師修行中に北斎宅に出入りする、徳川家臣を捨てた遊び人・女たらしの善次郎こと、後の渓斎英泉。三人がそれぞれの絵に対する思いと葛藤を、江戸末期の風情をからめて伝える。

 強く印象に残るシーン。

 お栄が盲目の異母妹〈なお〉と、蚊屋のなかで添い寝をしている。

 《ねえちゃんねたか? 

 おきてるよ

 蚊屋のうえになにかいるよ いるよ

 おおきな虫だった・もう大丈夫

 虫 きれいな虫 やさしい?

 やさしいよ

 かわいい? かわいいよ》

 〈なお〉はお栄の顔に頬をよせて呟く。

 《死んだら地獄に行くよ 

 地獄では お地蔵様に石を積んであげるのが仕事だ なぜって 決まっているからしかたがない・・・》。

 杉浦日向子は自分の最後の言葉を、お栄の

の妹の言葉に託した。

 

 日本国内最大の内乱の戊辰戦争は、一八六八年一月二七日(慶応四年)鳥羽伏見の戦いから始まり、六九年六月二七日(明治二年)函館・五稜郭の陥落で終わる。

 江戸城の明け渡しが六八年四月一一日。江戸を東京と改めたのが、七月一七日。九月八日に慶応四年から明治元年となった。

 戊辰戦争のなか江戸の庶民は、時代の変化に大きく晒され、明治新政府は江戸の名を消し、西洋文明に遅れるものとして江戸文化を否定した。

 新政府は、士農工商の廃止や差別された人々を〈新平民〉とする、明治四年の〈解放令〉など、政治体制の変革だけではなく、身分制度の改革も行った。

 しかし明治六年一月、大道芸や門付け・厄払いなどが〈生活を幻惑させるもの〉や〈乞食に類するもの〉として禁止、厳しい取り締まりを始めた。もちろん当局の目を潜り、生き延びた芸もあるが、瞽女や辻万歳・見世物や旅芸人などが消え、その芸能が衰退していった。

 渡辺京二は『江戸という幻影』の中で、滅ぼされた文化を《私は江戸時代には学ぶべき点があるとか、再評価すべきものがあるとか言いたいのではなかった。私はただ、近代が何を滅ぼして成立したのか、その代償の大きさを思ったのである》と言い、《失った文明がどうしょうもなく美しかった》と書いている。

 明治新政府は、〈門付け〉や〈辻万歳〉などを、西洋文明と比較し劣るもの・恥ずかしいものとしてとらえ、庶民から見えない場所へ追いやった。

 村から村へ旅する人々が消えた。

 沖浦和光の『旅芸人のいた風景』には、旅芸人を『その素性もよく分からず何を持ち込んでくるか分からない。村人にとっては油断のならない流れものだった。しかし裏返して考えてみると、たまさかやってくる旅芸人は、日ごろの惰性的な生活に活を入れるありがたい使者であり・・・村社会に風穴を開けてくれる外部からの文化伝達者でもあった』としている。

 脱亜入欧・文明開化の名のもとに、新政府は、新しい差別構造を作った。杉浦日向子の『お江戸暮らし』のなかでは、《士農工商などという四文字熟語は明治以降、突如ポピュラーになったものだ。江戸のころは単に「士民」とだけ称していた。武士とそれ以外のもの。双方は支配・被支配の関係ではなく分業意識があった・・・民はそれほど愚かではない》と記している。新政府の姿は、都心部の、ホームレスを追放するために横になれないベンチを置く、差別される者をさらに排除する現代の行政と通じるものがある。

 

 杉浦日向子(一九五八~二〇〇五)は、漫画家・文筆家のほかに江戸風俗研究家と呼ばれた。学ぶことなしと日大芸術学部を一年で中退後、時代考証を学び二二歳で漫画家となった。

 河出文庫『江戸におかえりなさいませ』の

インタビューによると、大学をやめたころ〈時代考証〉の仕事をやりたかったが、出来るまでに十五年ほどかかると言われ諦めた。マンガのことはよくしらなかったが、書いてからガロに投稿を始めたと語り、八〇年に『虚々実々通言室之梅』でデビュー。正確な時代考証と、登場人物と風や闇などの自然描写が、マンガというより一枚の絵〈絵物語〉を思わせる作風となった。

 三四歳、杉浦日向子は漫画家を引退し隠居の宣言をする。

 ちくま文庫『杉浦日向子ベスト・エッセイ』の『隠居志願』には、十七歳で通ったジャズ喫茶のママに手相の生命線から三十四歳までの命と告げられことが書かれている。

 二十歳で禁煙をして、十三年間続けた漫画家を辞め、三四歳、それを隠居元年とした。

隠居一年生の仕事は、《働かない・喰わない・属さない》としている。

 『百日紅』に登場する絵師見習いの善ちゃんは、北斎の娘お栄の、ちょっと気になる存在。ちくま文庫のエッセイ集『大江戸観光』の『江戸への恋文』の中で、杉浦日向子は善ちゃんに洒落と言いつつ〈恋文〉を贈った。

 一部を紹介すると、《善ちゃんは、エッチな絵もたくさん描いていて、でもそれはヘンタイ趣味じゃなく肯定的好奇心に満ちて、子供向けに描いたおもちゃ絵、ひとびとのつつましい暮らし、そんなところに善ちゃんの気持ちが伝わってくる・・・他の人から英泉はと言われるけれど、善ちゃんをつかまえることのできる大きくて強い腕がほしいよ。じれったいよ。もしも、善ちゃんの肩に、私の手が届いたら、その時は、ちょっぴり笑ってほしいな。じゃ、またね》。長い引用になったが、お栄と杉浦日向子の、善ちゃんこと渓斎英泉(一七九九~一八四八)に対する思いが伝わる。

 

 『合葬』は、初期の代表作。一九八二年七月から八三年四月まで、漫画誌〈ガロ〉に掲載された。

 江戸城もすでに明け渡された一八六八年五月十五日、彰義隊と新政府軍との〈上野戦争〉は、一日でおわる。

 『合葬』杉浦日向子の前書き〈ハ・ジ・マ・リ〉の一部。

 《合葬は、上野戦争前後の話です・・・隊や戦争が主ではなく、当事者の慶応四年四月~五月の出来事というふうに考えました。・・・江戸の風俗万般が葬り去られる瞬間の情景が少しでも画面にあらわれていたら、どんなに良いだろうかと思います》。

 力で世情を押しつぶす新政府軍。滅びゆく影を想像しない、〈野暮〉な官軍の姿を杉浦日向子は是としなかった。

 

 『合葬』、彰義隊に参加した三人の少年。

 吉森(笠井)柾之助、嘉永五年(一八五二年)生まれ十六歳。旗本三百石の養子に入るも追い出され、生家にも戻れず行き場のないまま、彰義隊に入隊。

 秋津極、嘉永四年生まれ十七歳。旗本の長男。徳川家を守るため弟に家督を譲り、許嫁を離縁。覚悟の入隊をする。

 福原悌二朗、嘉永四年生まれ十七歳。旗本の次男、長崎留学中の医学生。極に離縁された娘の兄。離縁を思い留まらせるために、彰義隊の詰所に極を訪れ、戦いに巻き込まれる。隊士として、官軍に撃たれ死去。戦いは〈私情に走り大局を見失っている〉としていた。

 戦いは一日。

 わずか六時間を〈上野戦争〉と呼ぶ

 それは、義ではなく滅びるものの自剄 

 

 『合葬』の作品中、杉浦は《維新は実質上維新〈これあらた〉なる事はなく、末期幕府が総力を挙げて改革した近代軍備と内閣的政務機関を、明治新政府がそのまま引き継いだものにすぎない。革命ではなく復位である》

と注を付けている。

 

 上野戦争は、江戸城を明け渡し徳川慶喜が水戸に退去し、幕府の消滅後の戦い。当初寛永寺には浪士も含め三千から四千の隊士がいた。内部分裂もあり開戦時に残ったのは、少年達を主流にした八百人ほど。世の移り変わりの決まった後の、一日の戦いで、寛永寺境内の彰義隊の死者は二六六人。新政府軍は三十人。残党狩りは熾烈を極め、寛永寺内の死者は、埋葬を許されなかった。

 作品中、吉森柾之助と銃による手傷を負った秋津極は寛永寺を脱する。かつての出入り商人の店で一夜を頼むが、残党狩りを恐れた商家から助けを拒まれる。さらに二人は逃げ、極は納屋の中で切腹、十六歳の柾之助が介錯を行った。

 作品の終わりちかく。その姿では〈公方様の兵隊〉と分かると、町の人々に着替えさせてもらい、極を埋葬した柾之助は、ひとり会津を目指す。

 最後の言葉。

 《会津に向かっているのかどうか

 わからなくなっていた

 疲れているが 歩みは止まらない

 止まらぬどころか

 ついには

 はずみをつけて速さがましてくる

 ついには地をけって

天駆くるかのような心地となり

 額を

 頬をきる風を

 感じていた》

 柾之助が野に倒れ、たくさんの鳥が飛び、刀を包んでいた菰が地で風に吹かれている。時が過ぎ、少女と旅人が、倒れている柾之助を見つけ抱き寄せる。少女は座って柾之助を見ている。旅人は少女にうなずき「ホレしっかりしなせい」と柾之助に声をかける。

 作品末尾。旅人は柾之助を背負い野道を行く。

 《慶応四年七月十七日

 新政府は江戸の名称を東京とし

 ついで九月八日年号を明治と改める

 当時反骨の江戸っ子はこんな

 落種をよんだ

 ―上方のぜいろく共がやってきて

 とんきやう(東京)などと

 江戸をなしけり

 うえからは明治だなと云ふけれど

 治明〈オサマルメイ〉と

 下からは読むー

 かくて江戸は過ぎ

 遠のいて行く》

 野を行く旅人と少女の上の空に、この文章が書かれている。

 

 柾之助がめざした会津は、新政府に対抗した奥羽越列藩同盟の主流。旧幕藩体制の守旧派・朝敵とされるが、これは江戸の庶民が〈身分制度に縛られ、暗い日常を過ごしていた〉と同じく、新政府により作られた評価。

 〈もうひとつ研〉の『赤松小次郎ともうひとつの明治維新』では、文中『西軍の天皇・国家の私物化にたてついた奥羽越列藩同盟』の章のなかで、同盟はなにをしようとしていたのかを、関良基が以下のように解説している。

 《私たちが学校教育の中で押し付けられたのは、幕臣が徳川政権に忠義を尽くして戦って死んでいったという・・・幕府を守る守旧派、保守派というイメージなのですが、実は西軍は天皇を私物化して、国家を私物化してしまうこと、そんなことを許してはいけない、もっと公議にもとずいた政治をするんだと言って西軍にたてついたわけです・・・同盟側が忠義を貫いた封建思想の塊というイメージは全くおかしい》と続けている。

 事実、奥羽越列藩同盟は〈奥羽公議所〉を作り、〈議会政治〉をめざしている。

滅ぶ同盟側が、後の明治自由民権運動に繋がる政治思想を持ちつつあり、幕府側諸藩の藩士や幕臣からも幾つかの〈立憲制〉・〈立憲政体論〉が出されている。

なかでも、上田藩士の赤松小三郎の徳川政権や薩摩・長州藩にに提出された〈立憲構想〉は、戦争をせずに、薩摩や徳川が議会を構成して、選挙で新政権を作ろうというものだった。

赤松は普通選挙による議会政治を提案したが、一八六七年(上野戦争の前年)、京都で薩摩藩士の中村半次郎によって暗殺されている。薩摩藩で、兵法の講義を行ったこともある上田藩士の赤松は、官軍側の幕府への武力討伐のじゃまとされた。

 

幕藩体制を倒した明治新政府は、新しい時代の方向として、国家神道を基盤とした〈王政復古〉を選んだ。

江戸・徳川幕府は二百六十年ほどのあいだ、経済的成長は少なかったと考える。しかし政権は対外戦争を起こさず、庶民は豊かではなかったが少なくとも平和であったろう。明治新政府は、脱亜入欧のもとアジアの盟主を自認し、対外的差別を行う国となり、戦争の時代が続いた。

 

『杉浦日向子の『うつくしく、やさしく、おろかなり』では、《江戸の昔が懐かしい、あの時代が良かった、とは、わたしたちの圧倒的優位性をしめす、奢った、おざなりの評価だ。そんな目に江戸は映りはしない》としている。

 杉浦日向子は、惚れた江戸を、

 《うつくしく、やさしく、おろかなり。

 そんな時代がかつてあり、

 ひとびとがいた。

 そう昔のことではない。

 わたしたちの記憶の底に、

 いまも、眠っている》

 と伝える。

 

 上野戦争からまだ一五六年

おろかさがゆるされる時代の

 江戸とそのひとびとを想う

 

 文庫の窓(参考資料)

1 『百日紅』上下 一九九六年・ちくま文庫 著者 杉浦日向子。漫画サンデーに八三年より八六年まで連載。代表作の一つ。二〇一五年アニメ映画化されたが、杉浦の絵画的表現を、動画では表すことが出来なかった。

2 『合葬』 一九八七年・ちくま文庫 著者 杉浦日向子。『長崎より』が加えられ、当初は青林堂より刊行。初期の代表作品。極役に柳楽優弥を迎え、 二〇一五年に実写映画かされたが、原作の風景描写などの繊細さを超えられなかった。

3 『江戸という幻影』 二〇〇四年・弦書房 著者 渡辺京二(一九三〇~二〇二二)

批評家・評論家。江戸時代というより、その時代に生きた人々を伝える。石牟礼道子の創作を支えた人として知られる。日光市の霧降文庫にて購入。

4 『旅芸人のいた風景』 二〇一六年・河出文庫 著者 沖浦和光(一九二七~二〇一五)桃山学院大学名誉教授・学長を務める。

マルクス的な立場より、差別問題などを研究。東大生当時第一次全学連の設立に関わり、のちに統一社会主義者同盟の中心的メンバーとなる。専攻はアメリカ文学であったが、民族学や社会思想へ移り『現代の理論』をベースに執筆を行った。当書では、渡世人・行商人・旅芸人達を懐かしむのではなく、彼らが消えていかなければならなかった、明治新政府の取った政策を記している。遊芸人など差別を受ける人々を〈小さき人〉として寄り添う。他の著作に『天皇の国・選民の国』など。

5 『赤松小三郎ともうひとつの明治維新』 二〇一九年・歴史教科書に対する〈もうひとつの指導書〉研究会発行。 関良基(拓殖大学教授)の〈江戸末期の立憲政体論〉の講演を主とした研究集会の記録集。二四年六月八日の朝日新聞書評欄に、関良基の『江戸の憲法構想』という新刊が紹介されている。佐渡市在住の良き友人より進呈された。

6 『うつくしく、やさしく、おろかなり』 ―私の惚れた江戸― 二〇〇九年 ちくま文庫 著者 杉浦日向子 文中の『うつくしく・・・』は、一九九三年、ちくま日本文学全集五七の岡本綺堂の解説として書かれた。《江戸の粋と遊び》など、暮らしと食事情が江戸への愛情をこめて書かれている。

7 『江戸東京の明治維新』 二〇一八年 岩波新書 著者 横山百合子。 一九五六年生まれ、国立歴史民族博物館教授。明治新政府の統治と、それに対する庶民の受け止めかたなどを主題とする。〈屠をめぐる人びと〉の章で、明治四年の〈賤民廃止令〉を解説。参考とした。

8 『杉浦日向子―江戸から戻ってきた人― 』 二〇一八年 文芸別冊・増補新版。 エッセイ、単行本未収録の吉本ばななや村上龍などとの対談、著作リストが掲載されている

追悼文集。

 

 〈桜町文庫〉は架空の書店です。ハルは二〇一二年生まれ、長毛種の美形ネコ。猫の小学校も卒業した、文系の助手です。

 

2024年9月 8日 (日)

あれから13年、甲状腺エコー検査宇都宮検診   宇都宮方面や日光市など20人の「子どもたち」受診

甲状腺エコー検査の宇都宮検診ー。9月8日(日)、宇都宮市清原地区市民センター内で。関東子ども健康調査支援基金の主催。宇都宮の「にじいろみらい宇都宮」や真岡、益子の市民団体が運営していた。この日は「広報にっこう9月号」の情報欄「ひろば」を読んで手を挙げた日光市からのひとりを含む20人の「子どもたち」が受診した。昨年の受診26人からやや減ったが、一昨年の受診20人と同数。ただし、今回は宇都宮と真岡・益子の合同開催なので、やはり減少傾向だという。

                                                                                                                                                                      Photo_20240909000201 458720820_8053459464782830_3484414078153 459085185_8053557881439655_4042829861150 Photo_20240909000202 458764864_8053557884772988_4948120050513 Photo_20240909000203 だが、埼玉県から泊まりがけで駆けつけたボランティアの甲状腺治療の専門医師を中心に市民団体のお母さんたちがてきぱきと検診をサポートしていた。検診はものの数分。結果は医師がその場で説明、さらに画像データを添付した結果を関東子ども基金の共同代表がさらに説明していた。この日は受診者アンケートのため宇都宮大の清水名奈子教授も立ち合っていた。検査機器や画像機器は関東子ども基金事務局がある茨城県守谷市から「常総生協」と「関東子ども基金」と書かれたワゴンタイプ車による持ち込み。手慣れた会場運営もそうだが、さまざまな備品をコンテナに手順よく収納するなどの撤収作業の素早さに感心させられたー。

8日(日)の「霧降文庫」は臨時休業ですー   宇都宮の甲状腺エコー検診視察で

102798jpg_20240907234101 127827_20240907234101 Dscn0676jpg_20240907234201 9月8日(日)の古書店図書室「霧降文庫」(日光市霧降高原)は臨時休業します。「関東子ども健康調査支援基金」が主催し、市民団体「にじいろみらい宇都宮」などが運営する宇都宮の甲状腺エコー検診が宇都宮市清原市民センター内であり、その現地視察会に参加するため。「さよなら原発!日光の会」は、宇都宮検診の「協力団体」として、宇都宮検診について、「広報にっこう9月号」(8月25日発行、2万5000部)の情報欄「ひろば」の掲載に取り組んでおりました。この情報で少ないながら、日光からも宇都宮検診を受診したいという手が挙がっているということです。甲状腺エコー検診について、今後の日光での取り組みに生かすためもありでー。「霧降文庫」、来週末の14(土)、15(日)、16日(月)の三連休は休まずオープンの予定ですー。もうすぐ読書の秋本番、読書談義も兼ねて霧降高原においでください。

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2024年9月 7日 (土)

映画「モルゲン 明日」、日光市と日光市教委の後援申請へ   「さよなら原発!日光の会」独自のフライヤーへ

脱原発を県都の空に広く呼びかける毎年秋の恒例イベントである「さようなら原発!栃木アクション」は11月23日(土)の栃木アクション本番(宇都宮城址公園で集会を開き、市内への脱原発パレード)のプレ企画も実施してきた。今秋は9月中旬から11月上旬まで栃木県内7都市でドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」の上映会を開く。観覧料はどの会場でも無料。そのひとつ、日光会場は10月26日(土)に日光市中央公民館中ホールで。開場は13時半、上映開始は14時~終了16時。それを宣伝する全体の統一フライヤーは計4万枚をつくった。そのうち2000枚を日光会場用にしている。

                                                                   

この原発ゼロを決めたドイツを描いたドキュメンタリー映「モルゲン 明日」(坂田雅子監督、2018年制作、上映時間71分)の上映会について、今回は日光市と日光市教育委員会の後援を得ようと思っている。そのための日光会場独自のフつライヤーを作成し、週明け9日(月)にも申請するつもりだ。申請には「後援申請書」、「事業計画書」、「予算書」、「フライヤー」(統一フライヤー独自フライヤーの2種)の計5種の「書類」が必要だ。両方に提出するため、合わせて10種の「書類」をつくることになる。あす8日(日)までにその作業を終えて、申請へと思っています。

                                                                          

独自フライヤーといっても、半分は統一フライヤーの「表面」から借用している。下の半分を日光会場情報を記載している手軽なフライヤーだ。「後援OK」となれば、日光市と日光市教委の後援があると、それによる会場費や機材費が免除される可能性が大になる。さらに「さよなら原発!日光の会」の会員に上映会をさらに印象づけることもできる。県内7会場一覧がある統一フライヤーはありがたいのだが、なにしろ7会場もあるため、日光会場情報が埋没しかねないという面もある。それを少しでも補う意味で、日光市と日光市教委の後援を明記した日光会場を強調した独自のフライヤーがあればいいと考えた。

その独自フライヤー案を下記にアップしておきます(8日までに「さよなら原発!日光の会」の会員から修正意見があるかもしれないので、7日現在のところはまだフライヤー案です)

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2024年9月 6日 (金)

同人誌の半世紀の歩みを振り返る展示へ  「序説」創刊50周年記念展のフライヤーづくりへ

半世紀前の1974年12月、「戦後の鬼っ子」と呼ばれた若者たちが足利市で創刊した同人誌「序説」が今年9月1日発行の第31号で50年を迎えた。同人は今、栃木、群馬、茨城、福島の各県で暮らし、編集委員会事務局を日光市に置いている。これまで政治、災害、原発、戦争、社会、世間などに向き合い、「東日本大震災・フクシマ原発特集」、「特集 コロナと私たち」、「小特集 ウクライナ侵攻」などの特集も組んできた。各号の表紙は主に同人でもある美術家が描いてきた。その表紙の「原画」を中心に創刊号から第31号までの全号の冊子も展示し、同人誌「序説」の半世紀の歩みを振り返る。

                                                   

 

以上がフライヤー本文。きょう、ともだちの栃木県茂木町のデザイナーに制作を発注しましたー。

                                                  

記念展は10月11日(金)~10月16日(水)、いずれも午前10時~午後4時(ただし、最終日は午後3時まで、無料)、会場となる日光市杉並木公園ギャラリーの外観と内部を紹介しておきます。

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2024年9月 5日 (木)

印象深い三四郎を論じた「漱石の悲しみ」   18の講演を編んだ『司馬遼太郎 全講演 4』

いよいよ「司馬遼太郎 全講演4 1988ー1991」(朝日文庫)を手にPhoto_20240905214701 。初版は2003年、手にしているのは2011年第5版。411ページあるが、講演とあってすらすらと。「ポンペ先生と弟子たち」、「義務について」、「秦氏の土木技術」、「新島襄とザヴィエル」など18の講演がある。中でも「漱石の悲しみ」が特に印象深い。その一節ー。「漱石の本領はやはり、晩年の作とか、『三四郎』でしょう。明晰な文体で書かれ、しかも退屈しない。『三四郎』は非常に高度な文学であるという意味で申し上げたのではありません。しかし、『三四郎』というのは、いま読んでもおもしろうございますー」。

 

「三四郎」でよく知られる会話も。熊本から東京に行く列車の中で、「日本はどうなるんですか」と三四郎が聞くと、広田先生(第一高校教授)は「滅びるね」と言う。その下りもあるが、「そうか」と思ったのは司馬の「三四郎」評価。「三四郎」について、「よくこの時代にこういう明るくて、しかも意味がよくわかる、そして人間の何事かまで迫る文章を書けたと思います」と。確か若いときに「三四郎」は斜め読みしているが、「人間の何事かまで迫る文章」だと思って読んでいるわけではない。それもあり、この講演に促されるように、今でも手軽に手にできる「三四郎」を再び読みたいなと〰️

2024年9月 4日 (水)

同人誌「序説」の「創刊50周年記念展」に向けて   10月11日から6日間、日光市杉並木公園ギャラリー

なんと!創刊50年を迎えた同人誌「序説」創刊号(1974年12月、同人はいずれも大学卒業前後の若者だった!ー)から第31号(2024年9月、同人はいずれも70代の老人)までの表紙一覧です(一号から五号までの題名は「解体新書序説」だったのだな、と、改めて知る)。それらの確認のための写真アップです。

                                                   

10月11日(金)から10月16日(水)まで6日間(午前10時~午後4時、最終日は午後3時)の「序説創刊50周年記念展」(日光市杉並木公園ギャラリー)を開く。記念展の中心となる「表紙原画展」のための作業のひとつです。その作業を始めたら、全号ともそろえていたと思っていたが、見落としていた号もいくつかありました。いやはや事前のチェックはやはり大事だなーと思ったのです。

 

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2024年9月 3日 (火)

久々の定番である「ざるうどん」は新鮮でした  ご飯ものが続くとやはり欲しくなりますー。

久々に定番の「ざるうどん」ー。このところ、ご飯ものが続いていたので「新鮮」だ。今回は冷奴に厚揚げも加え。ベランダキュウリは山猿が荒らしに来ているので早めに収穫し、食卓へ。BGMは「Perfect Gift」。「花の奇跡」「星々の願い」「虹の音色」「深海」「瞑想」など12曲。ゆったりしたメロディの連続なので深夜に似合うのだが、昼飯タイムにー。



























 

2024年9月 2日 (月)

創刊50年の「序説第31号」を発刊しましたー  10月に「創刊50年展」を日光市のギャラリーで   

1974年12月の創刊以来、2024年で50年を迎えた(なんと!半世紀ですー)同人誌「序説第31号」を9月1日に発行しました。8月31日に年に一度の懇親会を前橋の音羽倶楽部で。今年は10月11日から6日間(午前10時~午後4時、最終日は午後3時まで)、創刊50周年記念展を日光市杉並木公園ギャラリーで開く。懇親会はその記念展の会場担当なども決める場でもありました。懇親会であれやこれやと話しあった「懇親会資料」の目次をアップしておきますー。

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2024年9月 1日 (日)

映画「モルゲン 明日」案内情報が「広報にっこう10月号」に   日光市の全世帯に行き渡る2万5000部発行

脱原発を達成したドイツ市民の「エネルギー革命」を描いたドキュメンタリー映画「モルゲン 明日」(坂田雅子監督 71分)の無Photo_20240902190401 料自主上映会を10月26日(土)14時~日光市中央公民館中ホールで開くが、その案内情報が「広報にっこう10月号」(9月25日発行)に掲載されることになりました。その初校を紹介しますー。発行部数は日光市の全世帯に行き渡る2万5000部。情報欄「ひろば」の小さな情報だが、たくさんの市民に知ってもらうにはありがたい情報案内だ。

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