同人誌「序説第32号」、あす9月1日(月)発刊します 創刊1974年12月から51年目に
1974年の創刊から51年目となる同人誌「序説第32号」(129頁)ー、あす9月1日(月)に発刊されます。同人の美術家の手による表紙と「『核』と『原発』がよりリアルな世界にー『第七次エネルギー基本計画』批判ー」など、見出し部分と「編集後記」をアップします。頒価500円ー。
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1974年の創刊から51年目となる同人誌「序説第32号」(129頁)ー、あす9月1日(月)に発刊されます。同人の美術家の手による表紙と「『核』と『原発』がよりリアルな世界にー『第七次エネルギー基本計画』批判ー」など、見出し部分と「編集後記」をアップします。頒価500円ー。
「今こそ、東海第二原発を廃炉へ!」の署名は、第一次締め切りが8月30日(土)ー。これに合わせ、早ければ8月31日(日)、遅くも9月1日(月)には、「さよなら原発!日光の会」を「取り扱い団体」として、受け取り先の「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」に集まった署名を送るつもりだ。すでに呼びかけに応じて、一人で「148筆」も集めてくれた会員もいる。ほかにも「20筆」、「5筆」と集めてくれた会員もいる。私がご近所さんや群馬県の実姉、ふだんは海外で暮らす娘、二人の孫も含め、これまでに集めた分も含めると、今の時点で合計「200筆」はある。締め切りまであと数日あるので、さらに加えたい。できれば「250筆」ぐらいまで増やしたいのだが。さて?ー。
夏本番からそれなりに秋の気配も出てきているこの頃、ごはんの昼飯で魚が食べたいときは、だいたい「アジフライ」にキャベツの千切りを添えてー。かって伊豆半島は熱海に3年間、勤務したことがある。そのときの昼飯は、目の前の海で採れる新鮮な鯵を活かした「アジのフライ」定食の場合がかなり多かった。その記憶がずっと残っているので。今回はたまたまスーパーで「白魚のフライ」に目が向いたので、思わず買い求めた。ふだんから「シーフード缶詰」は「冷奴」と一緒に「ざるうどん」の際によく食べている。だが、魚のフライをつくろうとまでは思わない。「焼いたサンマ」や「サンマの刺身」はいいと思うのだが。今回はこれにキューリ、ゆで卵、生卵、生姜、梅干し、「シジミの味噌汁』を加えた。すると、それなりの定食になる。だいたい、うどん、パスタ、そばが主体の食事なのだ。でも、たまには確かにこんな「白魚のフライ」定食というのも「いいね」ー。
「東太平洋の敵根遽地を強襲」ー。初めて見たミッドウエー海戦などを報じる当時の新聞記事。きょうのtwitterから転載した。このTwitterでは「みんな嘘だったのさ」という書き込みがー。この下りから「大本営参謀の情報戦記」(堀栄三 文春文庫)を思い出した。「大戦果」だという「台湾航空戦」が実はとんでもない劣勢だった、間違ったその情報が生み出される背景などを伝えている。それを思うと、澤地久枝さんの「滄海(うみ)よ眠れーミッドウエー海戦の生と死ー」は、日本側の死者宅だけでなく、アメリカに渡り、米軍パイロットたちの死者宅も訪ね歩く様は襟を正しながら読んだ記憶が。数ある戦記の中でも最大級の労作だと思う。「野火」「俘虜記」などで知られる大岡昇平さんの大作「レイテ戦記」もそうだが、<そこまで追い求めていくのか>、そう思わせる。戦史の事実を死者の鎮魂に向けて、あくまでリアルに浮上させようとする作家の気迫、執念を感じさせてくれたー
10月25日(土)26日(日)の甲状腺エコー検査那須塩原会場(アジア学院)の案内広告が日光市の「広報にっこう10月号」(9月25日発行、市内全域2万8千部)に掲載される。有料半段広告といい、広告料は1万470円だ。
広告掲載の手続きは「さよなら原発!日光の会」が担っているが、広告料は全額、主催の「関東子ども健康調査支援基金」(事務局・茨城県守谷市常総生協内)が支払っている(「さよなら原発!日光の会」は、ありがたいので「関東子ども基金」に5千円をカンパする)。
各自治体が実施してきた受診料はふつう5千円~6千円する(日光市は子どもたちの甲状腺検査を中止するまで、同市が半額強を助成して実施してきた。それでも受診者一人3千円の負担が必要だった)、「関東子ども基金」が主催する甲状腺エコー検査の受診料は一人千円にとどめている。
診察する各地の医師も受診手続きや会場対応などいずれも「関東子ども基金」事務局や地元市民団体がボランティアで対応しているため。それに「関東子ども基金」が基金から拠出するためだ。この甲状腺エコー検査、栃木県内のどこに暮らしていても受診することができる。
昨日の23日(土)、茨城県東海村の「東海文化センターホール」で「STOP!!東海第二原発の再稼働いばらき大集会」が開かれました―。Facebookともだちの写真報告によると、参加者は、600名でした。この報告は以下のように伝えています。「たくさんのご参加ありがとうございました。暑い中のデモでしたが、体調不良者もなく無事終わりほっと安心。再稼働しないで廃炉を決めて、もっと安心したいです」。つい先日、死去した長谷川憲文さん(「さよなら原発!日光の会」特別幹事、「原発いらない栃木の会」事務局)は東海第二原発運転差し止め訴訟の原告のひとり。元気ならこの東海村の会場に参加していたと思いますー。写真は参加したI・Tさんのfacebookから。
「原発と能登半島地震」(講師・七沢潔さん)報告 理事・富岡洋一郎
(1)サヨナラ原発の気持ち「リニューアル」してくれた
「フクシマから14年が経ち、社会も自分の中でも『風化』の危機を感じていたタイミングで、1年4カ月前の能登半島地震が呼び出した『珠洲原発が作られていたら・・・』という振り返りの今回の上映と講演は、サヨナラ原発の気持ち・決意を『リニューアル』してくれた。とても時宜にかなったものだった」。
「チェルノブイリ原発事故(1986年)後も2011年まで原発を20基も作ってきた日本の官僚たちの異常な体質という指摘。その面で福島第一後も「原発の最大限活用」政策を打ち出す異様さ。それを改めて感じさせてくれた」。
「さよなら原発!日光の会」第13回総会記念上映会兼講演会は5月10日(土)、日光市中央公民館中ホールで開催しました。参加したのは、日光を中心に宇都宮など県内12市町と東京からの計74人。いわゆる2部制で、前半はテレビドキュメンタリー「原発立地はこうして進む~奥能登土地攻防戦~」(1990年、上映時間50分)、後半はこのドキュメンタリーのディレクターだった中央大学法学部客員教授・七沢潔さんが講師を務めた講演「原発と能登半島地震―『珠洲原発』から視える未来―」でした。
この上映会兼講演会についてアンケートに回答を寄せてくれたのは、参加者の4割強の31人。アンケートに答えていただくために「5分間」のアンケートタイムを設けたこともあり、「自由意見」などに多くの回答がありました。冒頭に紹介したふたつの言葉はこのアンケート回答のごく一部ですが、上映会兼講演会のいわば狙いを簡潔に表現してくれた文句でした。
(2)樋口英明元裁判長の「反対運動に感謝を」で企画
2011年3月11日の福島第一原発事故から年月が経っていたところで昨年元旦に起きた能登半島地震で、稼働を停止していた志賀原発と計画倒れに終わっていた珠洲原発というふたつの原発が大きく視界に飛び込んできました。とくに珠洲原発については最大深度7の震源地に建設されるところだったことを知りました。
それが長い粘り強い珠洲市民の反対運動が、2003年12月に「計画凍結」という事実上の計画のご破算に追い込むことになりました。いわゆる「不幸中の幸い」とも言える事態について、昨秋の「さようなら原発!栃木アクション2024」のメインスピーカー・樋口英明元福井地裁裁判長はこう語りました。「もし、そこに珠洲原発が実際に建設されていたとしたら、福島原発事故を上回る事故となっていたでしょう。28年間にも及ぶ住民の粘り強い反対運動に感謝しなければなりません」。
「さよなら原発!日光の会」は、樋口さんのこの発言を重く受け止め、<確かにそのとおりだ。となると、その珠洲市民の人たちの闘争を記録したドキュメンタリーが制作されているのではないか?>と判断。調べると、能登半島地震後、35年前に制作された「原発立地はこうして進む~奥能登土地攻防戦~」の上映会と七沢さんの講演会を東京都や神奈川県などの各地で開いていることがわかりました。「原発と能登半島地震」というテーマの上映会兼講演会はこうした流れで企画されました。
(3)対立する状況に向き合ったドキュメンタリー
ドキュメンタリーは珠洲市高屋町と寺家(じけ)町に関西電力と中部電力が立地可能性調査という事前調査に着手する前後を中心にした現地の「攻防」が描かれています。最初に土地買収のため、地区の測量に入ってくる電力側の車をチェックする「見張り小屋」が映され、そこでの反対住民の印象に残る女性の声が伝えられます。
「そんないい電気なら、こんなとこ建てんでも東京湾でもどこでも建てるとこたくさんあるやろ。宮城のあそこいって建てればいいやねん」。
一方、住民の土地の買い占めにあたっている電力側の「交渉グループ」の場にもカメラを入れています。そこのリーダーが語ります。
「我々は土地を買いに行くんやないよと。人の心を買いに行くんやと。人の心さえ買えれば、あと土地とかそういうものは、ついて回ってくるものやから、まず人の心を買う。こういう仕事をする人には最初にこう言います」。
カメラは土地の交渉のため、暗い夜に地区を回っていく「交渉団」の車を追いかけて問いただす様子やNHKが調べた関西電力の借地、国営農地開発事業の用地など国、県、市の所有地、そして反対運動の住民たちの共有地を図示した「高屋の原発立地予定地の所有・借地状況」(1990年時点)を映し出します。
1989年5月22日から、反対住民たちは珠洲市役所で「40日間の座り込み」抗議を始めますが、その拠点になったのが高屋町の「圓龍寺」(真宗大谷派)。反対派のリーダーとなっていた圓龍寺の住職、塚本真如(まこと)さんが反対派の「共有地」であることを示す杭を打つ場面などで登場します。塚本住職が「決して相手の個人攻撃はするな」と周囲に戒めている場面も印象に残ります。
このドキュメンタリーでは、土地の「所有・借地状況」がひと目でわかる地図の作成もそうですが、反対住民側の中に深く入ってその声を拾ったり、電力会社側の動きを望遠レンズで「隠し撮り」するかのようにその様子を示したり。対立する状況にていねいに向き合って制作していることがわかります。1990年の「地方の時代」第10回映像祭で「優秀賞」を受賞したのも納得できます。
(4)「土地攻防戦」は秘密裏の用地先行取得も
「40日間の座り込み」を受けて、1989年6月に関西電力は立地可能性調査を一時見合わせることを表明しています。激しい反対運動があるためですが、関西電力は実はこっそりと極秘に原発用地を押さえようとしていたことがわかります。それも手の込んだ複雑な手法を使いながら。1992年秋から珠洲市に入り、珠洲市長選などで反対派住民に寄り添い続けた山秋真(しん)さんが、その体験や記録などをまとめ、2007年5月に出版した『ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』(桂書房)に赤裸々に示されています。
「松井やよりジャーナリスト賞」などを受けている同書は福島第一原発事故後の2011年8月に再版が出されています。さらに今回の能登半島地震を受け、2024年2月に再々版されています。このうち第三章は「秘密裏の用地工作」、第五章は「大会社の惑わしと周到なだまくらかし」。「奥能登土地攻防戦」の舞台裏を明るみにしています。というのも、原発予定地の買収をめぐる脱税事件として、地裁、高裁、最高裁まで争われた裁判に山秋さん自身が法廷で傍聴した内容を念入りにチェックしながら執筆しているためです。
同書によると、2003年12月に最高裁で有罪が確定した被告は珠洲市に広大な土地を所有する不在地主の神奈川県の医師。1999年10月、横浜地裁で検察官が脱税容疑について以下のように語っています。
この医師は1993年12月から1994年2月の間に珠洲市内の土地を関西電力の意を受けたダミー会社に7億5千万円で売却、その際、売ったことを隠す方法はないかと相談し、売買契約書のほかに土地を担保にした虚偽の金銭消費貸借契約書(金消契約書)という二重の契約書を交わしました。
2001年6月の公判では東京国税局査察部の担当者が証言します。
「売買契約が有効で、金消契約はカモフラージュだと見ました。金消契約をつくったことで、取引したことがバレても、『いや、売買代金ではなくて、貸付金なんです』と言えるように。二重の契約書を作ったのは(被告と関西電力側の)双方の都合から。主目的は売買事実を隠すことにありました」。
(5)「儀式」に過ぎなかった立地可能性調査
当時、関西電力は原発建設計画が、激しい反対運動のため、立地可能性調査も終わっていません。秋山さんはこの状況からこう伝えています。
「そこで秘密裏に原発用地を押さえようとした。先行取得が露見すると、反対運動が硬化して計画がとん挫しすることも考えられたから。そのため関西電力はダミー会社をつかった。ゼネコンがうごく。やはり表に出たくない。ゼネコンは子会社などを介在させた(中略)取引スキームや契約書をつくったのは、むろん『ダミー』ではない。『真の買主』だった。すなわち関西電力と、その意を受けた清水建設、佐藤工業、熊谷組、西松建設というゼネコン四社の子会社である。土地の権利証が関西電力の手にわたっていたことが、なによりの証拠だ」。
キイワードは「金銭消費貸借契約書」。私にはあまりなじみがない「金消契約
」と略称で呼ばれるこの契約は、借りた金額と同じ額を必ず返すという借主が約束したうえで行う、金の貸し借りのこと。こうした契約書を交わしたのは、調査を中断しているにもかかわらず、内密に土地の取得をしていることを反対住民に知られたくないため。つまりは立地可能性調査と言いながら、そうした売買契約を隠そうとしたのは、はじめから「原発建設ありきの儀式にすぎない」(同書)ことが明るみになってしまうから。同書では関西電力が「二枚舌を使ってきた」と批判していますが、こういうことが「奥能登土地攻防戦」で実際に起きていました。七沢さんの講演会のために読んでいたこの『ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』が思わずそのことを教えてくれました。
(6「圓龍寺」の家人は地震でぺしゃんこの庫裏の下敷きに
後半の講演「原発と能登半島地震―『珠洲原発』から視える未来―」の資料
は44シーンあり、それをA4版11頁にして参加者に手渡しました。講演では七沢さんがこれらの各シーンを大型スクリーンに映しながら、解説しました。
最初の見出しは「能登半島の原発、その予定地と2024年元旦の地震」、続いて「チェルノブイリ原発事故後の(ヨーロッパと日本の)対応の違い」、「珠洲の原発反対運動の躍進 1986―19993」、「『珠洲原発』凍結20年後の危機」、「判明した事実① 避難計画の無効」、「判明した事実② 地震について無知なまま、原発を立地した」、「活断層の存在と動き」、「海岸の隆起と地形変動」。結びは「地震列島の原発地獄 現実から逃げずに向き合うとき」。この結びの文句は印象的です。講演の結語として、参加者に問いかける言葉です。
「能登は象徴に過ぎない。今回改めて明かされたのは、日本全体が地震の巣窟の上に54基もの原発を作ってきた事実。この国の未来を『偶然の安全』に委ねるのか?それとも市民、メディアの連携で政治を動かし、再稼働阻止、廃炉の動きの果てに、自民・公明政権と経産省の『原発回帰』路線を葬るのか?」。
今回の能登半島地震では、多数の家屋が倒壊し、道路もあちこちで寸断され、外部と交通できない孤立集落が生まれたこと。原発事故が起きた場合の避難計画がいわゆる絵に描いた餅であることが明るみになったことです。講演で奥能登に入って撮影した映像を示しながら、そのことを伝えていました。私たちもこれまでの報道でそうしたことは頭に入っておりますが、講演を通じてより現実味を覚えました。
その場面のひとつがドキュメンタリーに何度か登場していた珠洲市高屋町の
塚本真如さんが住職を務める圓龍寺の被害の様子。能登半島地震では、庫裏がぺしゃんこに崩れ、塚本さんが下敷きになった妻の詠子さんを助け出したが、足に大けがを負いました。本堂も傾いてしまいました。詠子さんは1月3日に自衛隊のヘリで金沢の病院に運ばれ、1カ月以上入院したということです。「高屋の人びとは道路が寸断する中、10日間にわたり孤立し続けた」とも報告していました。
能登半島地震で壊れてしまった圓龍寺は「解体され、別の場所に小さなお寺を再建する計画が進められている」と伝えていました。
そのうえで七沢さんは、「『珠洲市・高屋を支えたい市民有志』からの呼びかけ」(2025年5月10日)のチラシを示し、同会の世話人として、「高屋町の復興の一環として、住民たちの心の拠り所だったお寺の再建のために基金を創設し、募金を集める事業を開始する予定」であり、そのための「協力」も求めていました。
(7)紀伊半島では9カ所の原発計画をすべて止めた
七沢さんの講演で特に関心を寄せたというか、<確かにそういうことがあったという脱原発史もきちんと知っておかなければいけないね>と思わされたのが、「35の原発を作らせなかった地点 決め手は選挙と共有地」について。原発の計画が浮上していたが、地元の反対などで作らせなかった地点を、日本地図で示していました。
もともとの出典は『原発をつくらせない人びとー祝島から未来へ』(岩波新書、2012年12月)。その3頁にある地図で、著者は先に紹介している『ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』を書いた秋山真さん。このリストの4番と5番に石川県珠洲市寺家、同高屋が挙げられています。
この『原発をつくらせない人びと』によると、1966年に東海村で日本原電が初めて営業運転を開始してから、1970年代に20基、80年代に16基、90年代に15基が稼働を始めた。2010年末現在で54基まで増えた。一方で原発をつくらせなかった地も30カ所以上あるー。
原発計画にストップをかけた代表的な例として、私たちは「巻原発」(新潟市西浦区)を知っています。原発計画の是非を問う条例制定による国内初の住民投票が1996年8月に行われ、反対派住民の圧勝に終わっています。書籍『巻町に原発が来た』(1983年)を読んだり、映画『渡されたバトン さよなら原発』(2013年)を観ていたりしてます。しかし、そのような例が30カ所以上もあることまでは眼が向いていませんでした。
今回注目したのは、紀伊半島について。和歌山県で5カ所、三重県で4カ所と、半島各地で原発をつくる話がありました。しかし、紀伊の人びとは、どの計画も止めています。ということを同書で知り、長く「積読」だった『原発をつくらせない人びとー祝島から未来へ』を読み進めました。
計画を「凍結」させた「珠洲原発」の反対運動について、七沢さんは、講演で「決め手は選挙と共有地」だと強調していましたが、上映会兼講演会の参加者もそこに関心を寄せていたようです。上映会兼講演会のアンケートでもその点について複数の声がありました。「反対派が共有地を点々と確保していたのには感心した」、「反対運動の中で共有地が重要であることを興味を持って聴いた」、「土地共有化闘争の大切さ」といった声が寄せられていました。
(8)力は「平等な世界を願うという親鸞聖人の教え」から
今回の上映会兼講演会のアンケートで私は「塚本住職が『お互いをののしり合うことはしない』ことを伝えていましたが、そこには浄土真宗の教えがあったのではないかと思うことしきりだった」という趣旨のことを書いています。さらに質疑応答では「珠洲の人びとの粘り強い反対運動の力、エネルギーはどこからきているのか」と聴こうと思っていました。しかし、七沢さんの熱弁が続いたため、質疑時間が短くなり、その質問はできませんでした。ただし、今回の報告のため調べたところ、塚本住職がそれに答えているインタビューを知りました。「兵庫保険医新聞」(2024年8月5日)でした。聞き手は、長い珠洲原発反対運動を挙げたうえ、「30年近く大変なご苦労だったと思いますが、その原動力は何だったのでしょうか」と問いかけています。これに塚本さんはこう答えています。
「大谷大学を卒業してさまざまな書物を読み、親鸞聖人の言う『浄土を願って生きろ』は『平等な世界を願って生きろ』ということであり、不平等なことはそれに逆らうことで、その実現をめざす姿勢が大事と学びました」。
なお、報告しておきますと、今回の講演では七沢さんの著書『テレビと原発報道の60年』(2016年5月、彩流社)を日光会場と1週間後の宇都宮会場で20冊を委託販売しました。消費税を外しましたが、定価一冊1900円。<内容が豊かな本だが、お手軽な値段ではないので、半分ぐらいは残ってしまい、出版社に返本することになるだろう>、そう思っていました。結果は日光で11冊、宇都宮で9冊を売ることができました。いわゆる「完売」で、この結果は出版社も驚いておりました(富岡洋一郎)
2011年3月11日の福島第一原発事故以降、毎年実施している「さようなら原発!栃木アクション」ー、今秋の「2025」は11月15日(土)、宇都宮城址公園集合で開催する。その前触れとして、「栃木アクション2025」プレ企画イベントとして、9月27日(土)の下野会場をスタートに10月25日(土)佐野会場まで栃木県内5カ所で次々と映画会兼講演会、あるいは映画会を開く。それを伝えるフライヤーがこのほど完成した。4会場はドキュメンタリー「原発立地はこうして進む~奥能登土地攻防戦~」(50分 1990年)の上映会とこの作品のディレクターを務めた中央大学法学部客員教授、七沢潔さんの講演会という二本立て。この上映会兼講演会を開催済みの日光会場は10月19日(土)に今年5月17日にアジアで初めて原発ゼロを達成した台湾が舞台の脱原発ドキュメンタリー映画「こんにちわ 貢寮(コンリャオ)」(89分、2004年)を上映する。5会場とも入場無料(カンパ歓迎)ー。
(ネットの画像 1945年7月12日深夜、Bー29による宇都宮大空襲)
8月15日以前に記事にして欲しかったが、それにしても、この時期ならではの紹介だろう。「戦後80年、栃木県内でも戦争展が多数開催 企画担当者に思いを聞く」。朝日新聞が8月19日栃木版で紹介している。以下はその転用で
戦後80年を節目に戦争をテーマにした展示会が県内で盛んに開かれている。展示する側はどんな思いなのか。県立博物館で「とちぎ戦後80年 いま、おやと子で知る軍隊・戦争と栃木」を企画した、特別研究員の小柳真弓さんに聞いた。
小柳さんは「実はコロナ禍で、戦争に関わる品々の寄贈がとても増えていたことがきっかけの一つ」という。外出を控えた高齢者を中心に家の中の整理が進んだ結果、戦争に関わる書類や軍刀、記念の杯、軍馬調教用の馬具など様々な寄贈の申し出があったという。「これほど集まるなら展示会ができると思った」
県内には公的機関によって集められ、裏付けのある情報に基づいた戦争資料を展示する常設の施設はない。「展示が始まり、実物を見たいと思っている方がとても多いことが分かった」という。
県立博物館の今回の展示は、宇都宮空襲だけに焦点を当てるのではなく、明治期の宇都宮の「軍都」の成り立ちから掘り下げた。「なぜ空襲にあったのか。背景や文脈も伝えたかった」という。
見学者にどう見てもらいたいか。「今も戦争があり世界情勢が動いている。過去の時代を振り返り、今の時代に理性的に考え、行動する際の判断基準や材料にできるのでは」と話す。「戦争は白か黒かではない。市民や軍人の目線、文化・芸術への影響など、いろんな立場や角度で見てもらいたい」
戦争体験や被害の語り部が少なくなりつつあるが、「語り部の方たちは二度と戦争を繰り返さないという思いで語る。私たちも、記録や資料を残すのは同じ思いだ。モノに語ってもらってその時代の空気を感じてもらうことで、そういう思いも伝わると思う」。
辛酸入佳境 楽亦在其中」は、晩年、正造が好んで書いた漢詩
80年目の8月15日(金)に初めて知った長崎原爆映画。「長崎ー閃光の影でー」。8月1日から全国公開されていたのですね。広島原爆を描いた「ヒロシマ」「黒い雨」は観ているが、長崎原爆映画はこれまで知りませんでした。なので、ぜひ、いずれこの「長崎ー閃光の影でー」を観ようと思いますー。
(以下はネットにあった公式㏋からの画像と「解説・あらすじ」です)
う~ん、彼らが「かわいそう」という、この記事は2回も読んでしまいましたー。9回も特攻に出撃し、不時着なども含め9回とも「生還」してきた『不死身の特攻兵』(新書)を思い浮かべながら。この特攻兵は「死んでこい」と言われながら、何度も生還してしまう。そのため、「上層部がこうなったらあんたを殺してしまおうと、付け狙っているよ」。その情報を現地の新聞記者に教えられて知る。その場面がとくに印象に残っている。彼らが散ってから「戦後80年」。明治維新から1945年の期間よりも、2025年までの戦後80年のほうが今や長くなった。という記事を確かきょうの朝日新聞で読んだばかりだ。<えっ!。一口に戦後というが、そんな長い期間となったのか>。と思うことしきり。そんな8月16日(土)だった。
「英霊や 死を強いられた 美辞麗句」
特攻隊員は「志願」だったのか 死へ送り出す命令書、書く手が震えた
平川仁2025年8月15日 6時00分
国を、家族を守るため、命を捨てた――。特攻隊員の遺影や遺書が、人々の心を震わせている。その記憶から、「影」の部分が薄らいでいないか。
特攻(特別攻撃)
航空機などで乗員ごと体当たりする自殺攻撃。日本軍の戦況が悪化した1944年10月、フィリピンでの戦いで初めて「神風特別攻撃隊」が米艦に突入し、45年春からの沖縄戦では九州や台湾各地から特攻隊が出撃した。人間魚雷「回天」といった特攻兵器も作られ、約6千人が戦死したといわれる。
東京都の商社員(33)は、端正な文字が並ぶ遺書にじっくり見入っていた。2回目の訪問という。
昨年訪れた時に「今の日本人にはない覚悟」を感じ、大学進学も就職も「行き当たりばったり」で決めていた自分に気付いた。この1年で社内での新規事業を立ち上げるなど、生き方や仕事への向き合い方が変わったという。
「家族や国を思って命を捧げた姿に感銘を受けた。自分も一生懸命生きなきゃ、と思える」
特攻は、特別攻撃の略。航空機や人間魚雷などで体当たりし、生きては帰れない作戦だ。
太平洋戦争末期、知覧は陸軍最大の特攻出撃基地だった。平和会館は知覧飛行場の跡地にあり、多い年で70万人が訪れる。
知覧特攻平和会館の館内。「死ね大空で」などと寄せ書きされた日の丸や、映画のためにつくられた特攻機のレプリカが展示されている=2025年7月10日午後2時43分、鹿児島県南九州市知覧町郡、平川仁撮影
展示は遺書、遺品、遺影が中心で、隊員たちの心情にフォーカスする。特攻隊員たちは自ら志願した、との説明もある。
八巻聡学芸員(49)は「元々は博物館というより、神社仏閣の一部のような施設だった」と話す。
戦時中は「軍神」「神鷲」などとたたえられた特攻隊員たち。慰霊活動が始まるのは、連合軍による占領が終わった1952年ごろからだ。この年の春、東京に「特攻平和観音像」がつくられ、翌年「奉賛会」が結成された。発起人には、及川古志郎・元海軍大将、菅原道大・元陸軍中将ら特攻作戦を指揮した旧日本軍将校たちの名が並ぶ。
知覧にも55年、同じ将校らによって観音像が安置された。
開眼式を伝える旧知覧町の町報には、河辺正三・元陸軍大将の「純真無垢(むく)の至誠を以(もっ)て、正(まさ)に帰するが如(ごと)く、必死必中の壮挙を敢行せられた」と隊員を顕彰する発言が載っている。
変化が表れるのは70年前後からだ。元軍人らが定年退職世代にさしかかったこともあり、知覧への訪問者が増えた。遺族からも多くの遺品が寄せられるようになった。
町は特攻を「観光資源」とも捉え始める。71年の町議会議事録には、観光振興には「特攻基地の開発が第一義的」とする特別委員会の報告が記されている。
75年に公園の休憩所の2階に町営の「特攻遺品館」が設置され、87年には町が5億円をかけて建設した現在の平和会館が開館した。90年からは平和スピーチコンテストを始めるなど、隊員の家族愛や人間性も強調されるようになった。
88~91年に館長を務め、2015年まで語り部も務めた松元淳郎さん(97)は軍隊経験はないが、友人が特攻で戦死した。「家族や恋人、国を守るために命を懸けた若者がいたことを知ってほしいと考えた」と語る。
戦争体験を語る多胡恭太郎さん。陸軍のパイロット候補時代の写真に目をやり、「虚栄心の塊じゃった」とつぶやいた=2025年7月17日午後4時58分、岡山県津山市、平川仁撮影
岡山県津山市で暮らす多胡恭太郎さん(100)も、知覧を何度も訪れ、涙を流してきた。館内に並ぶ遺影を見ただけで、耐えられない気持ちになったという。
関西学院大学に在学中の44年8月、陸軍の飛行学校に入隊。特攻作戦が始まると、自分たちも特攻隊員になると告げられた。
45年1月に台湾に派遣。ただ、飛行部隊の司令部で、台湾から沖縄への出撃命令書を書く係になった。
「一緒に飯を食った」隊友たちを、特攻に送り出す役目。命令書を書く手が震えた。
戦時中の多胡恭太郎さんの写真。反省の気持ちを忘れないため、部屋に飾っている=2025年8月6日午後3時34分、岡山県津山市、小玉重隆撮影
特攻隊員は「志願者」で構成される建前だった。でも、飛行学校の仲間は、肺病になろうと部屋の隅のほこりをわざと吸っていた。別の隊員は出撃時、機体をあらぬ方向に走らせて事故を起こして生き延びた。「みんな生きたかったんだ」と多胡さんは言う。
福岡市には、出撃に失敗した特攻隊員を収容する施設があったと、多くの証言が残る。多胡さんの部隊では、「逃げたら福岡送り」が脅し文句として使われていた。
選択肢はなかった。
だから、きれいに整った隊員たちの遺書を見てわき上がる感情は、すばらしいでも、ありがとうでもない。「かわいそう」なのだという。
「大義名分がないと、人は死ねない」。だから、強いられた大義名分だったとしても、遺書にはその大義を書くしかない。「『死にたくないけど、命令で行かされます』という本心は書けんでしょ」
操縦桿(そうじゅうかん)を握り飛び立った仲間の様子を語る多胡恭太郎さん=2025年8月6日午後2時23分、岡山県津山市、小玉重隆撮影
家族や国を守ろうという気持ちは、みなあったと思う。でも、隊員たちは飛行学校で体当たり攻撃の操縦をたたき込まれ、たった数カ月で前線に送られた。日本軍全体で約3300機が出撃し、敵艦への命中率は1割強だったとする研究もある。
一方で、特攻に送り出した指揮官たちの多くは、戦後を生き延びた。陸軍の司令官の一人は晩年も、特攻について「国民愛国思情の勃発」であり、「誰いうとなく自然発生」したものだと書き残している。
知覧では近年、隊員の遺書を読んで語り合い、生き方や仕事への向き合い方を見つめ直そうというツアーも人気だ。催行会社が少なくとも数社ある。
「軍隊の非情さを、知らんのでしょうね」
腕も未熟で、乗るのは老朽機。死への道に送り出された側の記憶は、十分伝わっているのだろうか。多胡さんは気がかりだ。
山口県佐波郡(現在の防府市)生まれ。『層雲』の荻原井泉水門下。1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝()と改名。各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。
自由律俳句の代表として、同じ『層雲』の荻原井泉水門下の同人、尾崎放哉と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や兼崎地橙孫ら支持者の援助によって生計を立てていた。その基因は、11歳の頃の母の投身自殺にある。
なお、「山頭火」とは納音(なっちん)の一つであるが、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく「楊柳木」である。「山頭火」は、30種類の納音の中で字面と意味が気に入った物を選んだだけであると『層雲』の中で山頭火自身が書いている。また、「山頭」の定義には「火葬場」も含まれている[3][4]。このことから、「山頭火=火葬場の火」と解釈できるという説もある[4]。山頭火がこの意味を意識して名前を選んだ可能性について、山頭火の母親の死との関連性が指摘されている[4]。山頭火には「燃え上がる火山」という意味もある[1]。
30歳の頃には、ツルゲーネフにかなり傾倒し、山頭火のペンネームでいくつかの翻訳をこなしている。金子兜太によれば、山頭火の父竹治郎はツルゲーネフの父セルゲイ・ツルゲーネフに「なんとなく似ている」という。セルゲイは騎兵大佐で美男子で体格がよく、意志薄弱で好色で利に聡い上、結婚も財産目当てであった。竹治郎はセルゲイよりもお人好しではあったが、目の大きい寛容の相の人だったという。美男子で女癖が悪く、妾を幾人も囲い、政党との関係に巻き込まれてからは金使いも荒くなった。冷ややかで好色、意志薄弱という特徴はセルゲイと共通していた[5]。
山頭火は晩年の日記に「無駄に無駄を重ねたような一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから句が生まれたような一生だった」と記している。その時には既に無一文の乞食であったが、乞食に落ちぶれた後、克明な日記をつけ続けている。その放浪日記は1930年(昭和5年)以降が存在し、それ以前の分は自ら焼却している。死後、遺稿日記が公開され、生涯の一部が明らかになった[6]。
そこには、旅立ちにあたり「過去一切を清算しなければならなくなってゐる」(『行乞記』昭和5年9月14日)など、流浪や句作への心情が記されている[1]。
「昭和史再掘」(保阪正康 中公文庫)、全15章の中でも強く印象に残ったのが、第11章「大東亜共栄圏 残留兵士の慟哭」(171頁)-あらすじを書くのが大変なので、ネットにあった鹿児島大学 雑誌「リポジトリ」『地域政策科学研究』の論文の冒頭を紹介しておくことに。とくに伝えたいのは、インドネシア独立戦争後に残留日本兵たちが、お互いの生活を支え合うため、大いに苦労しながら、「福祉友の会」を設立。「月報」「会報」を発行し、医療、教育、奨学、交流、名誉回復、恩給要請、さらに国際交流など、さまざまな活動を担っていったことー。この「福祉友の会」づくりは、「浅学非才」にして、知らなかったことが悔やまれる。
(以下はネットの「鹿児島大学リポジトリ」『地域政策科学研究』論文とウイキペディアから)
インドネシアでは,日本の占領から解放された1945年以降も,インドネシア独立防衛のため
の戦争が続いた。1945年の敗戦後,インドネシアの日本軍兵士たちの一部は直ぐに帰還したが,
大部分の兵士たちはインドネシアに残ったままで,中にはインドネシアの独立維持のためにイ
ンドネシアの青年たちと一緒になって軍事訓練を行った日本兵たちもいた。そして,1950年に
インドネシアが独立するまでインドネシアに留まり,インドネシア青年義勇軍と一緒に独立戦
争を戦った日本兵は少なくとも2000人と言われている1)。
しかし,彼らは独立戦争の直後はインドネシアで無国籍に近い扱いを受け,その存在を正当
に評価されていたわけではない。1995年にインドネシア共和国独立50周年記念事業として「イ
ンドネシア-日本友好祭」が行われ,その行事のひとつとして「インドネシアの独立戦争に参
加し『帰還しなかった日本兵』の写真展」が,日本大使館とジャカルタ・ジャパンクラブの共
催で実施されたが,このとき初めて,残留元日本兵たちの存在がインドネシアの国民に認めら
れるようになったのである。彼らはお互いの生活を支えあうために戦後ジャカルタに「福祉友
の会」をつくり,この会は現在もインドネシアと日本の友好のために活躍していている。
࠼ࡢ:インドネシア残留元日本兵,日系インドネシア人,アイデンティティ
目 次
はじめに
第1章 残留元日本兵と「福祉友の会」
1.「福祉友の会」設立の生の背景
2.乙戸昇と福祉友の会
3.「福祉友の会」の活動
第2章 「福祉友の会」と『月報』
1.「生きた証」を残す
2.残留元日本兵の戦後
3.「元の日本兵」の証を求めて
第3章 「日系インドネシア人」という概念
1.日系二世「福祉友の会」
2.「福祉友の会」活動の変化
3.「日系インドネシア人」のアイデンティティ
むすび
参考文献
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インドネシア独立戦争(インドネシアどくりつせんそう、インドネシア語:Revolusi Nasional Indonesia)とは、日本が太平洋戦争で連合国へ降伏した後の旧オランダ領東インドで、独立を宣言したインドネシア共和国と、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争(独立戦争)である。1945年から1949年までの4年5か月にわたる戦争で、10万人が犠牲になった。
より狭義には、1947年7月21日と1948年12月19日の2度にわたって、オランダ軍がインドネシア共和国に軍事侵攻した結果生じた大規模な軍事衝突を指し、オランダ側ではこの自国の軍事行動を「警察行動」(Politionele acties)と呼称している。しかし一般的には、インドネシア共和国とオランダ軍との軍事衝突だけでなく、東インドに進駐したイギリス軍とインドネシアの武装組織との武力衝突、インドネシア共和国内での反乱事件や政治闘争、そして軍事衝突とほぼ並行して進められたオランダや国際連合との外交交渉など、インドネシアの独立へ向けての一連の政治過程を総称して「インドネシア独立戦争」という。
また、植民地時代や日本軍政期には旧東インド領の各地で、伝統的な領主層や貴族層が為政者によって特権を保護されてきたが、独立宣言後にインドネシア人の急進的な青年層や武装勢力によって、これらの者の地位や特権を剥奪する社会革命の動きがみられた。こうした動きも含めて、一連の事象を「インドネシア独立革命」ともいう。
結果的に、インドネシアは武力闘争と外交交渉によって独立を達成し、1949年12月にインドネシア連邦共和国が成立した。さらに1950年8月15日、連邦構成国の1つであるインドネシア共和国に他の全ての構成国が合流して、単一国家インドネシア共和国が誕生した。現在も同日を記念して祝祭日としており、首都・ジャカルタを中心に祝賀される。
80年目の8月15日まであと数日だが、この半月ほど前から少し気になっていた古い中公文庫「昭和史再掘」(保阪正康)を読み始めた。いやはや興味あることが次々と。発行は初版2004年1月の266頁。もう20年以上前の発刊だが、少しも古びていない。改めて歴史のリアルを細部から知らせてもらえる文庫だ。
第1章から第15章から成る文庫だが、その小見出しだけでも読みたくなる代物だ。「中野正剛はなぜ自殺に追いこまれたか」(第2章)、「東條英機の自決前後の迷路」(第3章)、「マレー作戦を成功させた一枚の地図」(第4章)、「昭和の動乱を駆け抜けた男」(第8章)ー。大半は表面的な史実は知っているが、その内実までは知っていない事柄だ。「昭和史研究の第一人者」と言われる保阪正康さんとあって、「職人芸」的とも言える独自の視点を交え、それをわかりやすくうまく伝えている。
さあ、残る11章もこの一両日中にも読むことができるだろう。「霧降文庫」のお薦め本ですー。
「長崎の友だちの訃報を一番多く耳にしたのは、30から40代の子育ての最中でした。上海の友だちにはそんなに若い年で亡くなった人はいません。長崎の友だちは、あの人も、この人も、と死んでいる。それも脳腫瘍や甲状腺や肝臓、膵臓のガンなどで亡くなっている。それらのほとんどが原爆症の認定は却下でした。内部被曝は認められてこなかったのです。闇から闇に葬られていった友だち、可哀想でならなかった」
怪獣
は、核実験の海で生まれた。いわば「核の恐怖」を体現するシンボルである。かたや鉄腕アトムは、科学の粋を集めたロボットであり、「原子力の平和利用」の象徴である。評論家の加藤典洋は論じている。ゴジラは恐ろしく、アトムは希望だった▼英語ではいずれも「nuclear」だが、日本語は「核」と「原子力」に言い換えられる。核は兵器として陰を成し、原子力は明るい未来のイメージで語られた。被爆国だからこそ、平和利用への期待は大きかったか▼歴史をひもとけば、1950年代、米国は広島に原発を「プレゼント」する案を検討している。ビキニ事件によって、日本で反核運動が高まったためだった。核兵器への批判を、原発を与えることで慰撫(いぶ)しようとの発想は、いまではあり得ないだろう▼ときが過ぎ、福島第一原発の事故を経て、原子力の安全神話は崩壊した。ところが、戦後80年の今夏、新たな原発の建設計画が動き始めた。いったい、どうしたことか。姿を消したはずのアトムが、息を吹き返したかのようだ▼ゴジラもますます、意気軒高である。核廃絶の切なる声をよそにして、外では大国の指導者が核の脅しをほのめかし、内では「核武装が最も安上がり」と口にする政治家がもてはやされる▼これからさき、核という存在といかに向き合っていくべきか。私たちは極限の悲しみをもって、ゴジラの怖さを知った。アトムへの期待と失望も、身をもって知った。そうでは、なかったか。
新刊新書「『核抑止論』の虚構」を読み終えたが、その序章はこの「博士の異常な愛情」。キューバ危機を背景にした核戦争を描いたブラックコメディ映画だ。日光図書館にこのDVDをそろえてもらえるよう、「リクエスト」しました。といっても選定委員会が開かれるのは秋になるということなので、忘れた頃に結果が聞けそうです。いずれにしろ、今まで知らなかった核戦争映画なので、ここにアップへー。以下はウィキペディアから。
博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(はかせのいじょうなあいじょう またはわたしはいかにしてしんぱいするのをやめてすいばくをあいするようになったか、原題: Dr. Strangelove or: How I Learned to Stop Worrying and Love the Bomb)は、1964年の イギリスとアメリカ合衆国の合作による[2]のブラックコメディ映画。
冷戦時代のソビエト連邦とアメリカ合衆国の核戦争を風刺している。ピーター・ジョージの『破滅への二時間(英語版)』(1958年)を原作に、スタンリー・キューブリックが監督を務め、ピーター・セラーズ、ジョージ・C・スコット、スターリング・ヘイドン、スリム・ピケンズらが出演する。
1998年にはアメリカン・フィルム・インスティチュートが発表したアメリカ映画のベストランキングで26位(2007年版では39位)、2000年には最も面白いアメリカ映画のリストで3位にランクインしている。1989年、アメリカ議会図書館は、「文化的、歴史的、美学的に重要」であるとして、アメリカ国立フィルム登録簿に保存する最初の25作品の一つに選ばれた[3]。2003年以降、スティーヴン・ジェイ・シュナイダーの『死ぬまでに観たい映画1001本』に掲載されている。
概要
キューバ危機によって極限状態に達した冷戦の情勢を背景に、偶発的に核戦争が勃発し、人類滅亡に至るさまを描くブラックコメディ。政府や軍の上層部はほぼ全員が俗物ないし異常者として描かれる風刺劇でもある。
キューブリックが監督した最後の白黒作品である。本作品はピーター・ジョージ(英語版)の『破滅への二時間(英語版)』という真面目な内容の小説を原作にしているが、キューブリックはストーリー構成段階で題材の観念そのものが馬鹿げたものだと思い直し、ブラックコメディとしてアプローチし直した。
本作品は、キューブリックの代表作の一つと位置づけられている。アイロニカルな姿勢は、同時期に撮られた同テーマのシドニー・ルメットの『未知への飛行』のヒロイズムを含んだ感傷性とは一線を画している。『2001年宇宙の旅』(1968年)、『時計じかけのオレンジ』(1971年)とひとまとめにして「SF3部作」と呼ばれることもあるが、この関連づけがキューブリック本人の構想にもとづくことを示す資料は発見されていな
核戦争で地球が滅亡する第3次世界大戦後を描いた「渚にて」か、冷戦時代の核戦争を皮肉ったブラックコメディ映画「博士の異常な愛情」などがないかどうか、今市のTSUTAYAでチェックしていたら、「戦艦ポチョムキン」があるではないかー。エイゼンシュテイン監督。100年前の1925年作品とある。映画編集の「革命」と言われた「モンタージュ」技法が使われているという高い評価を知って、半世紀前の大学祭のとき、途中まで観ているが、全部は観ていない。舞台は今のウクライナのオデッサ港でもあり、なので、すぐに借り出した。書籍のポイントがあり、DVD借用代はなし。今週はこのDVDを観ることになるだろう。
道の駅日光「日光街道ニコニコ本陣」主催(協力・今市平和委員会)で長崎原爆80年の8月9日(土)13時半~同本陣多目的ホールで「非核平和コンサート2025」がある(入場無料)。今市少年少女合唱団と仲間たちなどの合唱や日本のソングライター、ピアニストである小林 真人さん(こばやし まさと )の伴奏による合唱やオリジナル曲の披露もあるという。目玉のひとつは蘇った「疎開ピアノ」の登場とその物語かー。きょう2日(土)から日光杉並木公園ギャラリーで開催している「第23回原爆写真展」(今市平和委員会主催)で、広島原爆映画「黒い雨」(1989年作品、126分)を観る際に、今市少年少女合唱団と仲間たちの合唱6曲も聴いているので、さて?8月9日のイベントはどうしたものかー。
「第23回原爆写真展」が日光杉並木公園ギャラリーで8月2日(土)、3日(日)開かれるが、会場では原発映画「黒い雨」(井伏鱒二原作)が上映される。戦後すぐの作品ではなく、1989年という意外と新しい映画だと知った。それも主演が「キャンディーズ」の「スーちゃん」(田中好子さん)だった。名作とは聞いていたが、まだ観ていなかったので、ぜひ、原爆写真展に足を運ぼうと思う。(以下はネットにあった「黒い雨」の解説です)
解説
原爆による黒い雨を浴びたために人生を狂わせられてしまった女性と、それを暖かく見守る叔父夫婦とのふれあいを描く。井伏鱒二原作の同名小説の映画化で、脚本・監督は「女衒」の今村昌平、共同脚本は「ジャズ大名」の石堂淑朗、撮影は「危険な女たち」の川又昂がそれそれ担当。
1989年製作/日本
配給:東映
劇場公開日:1989年5月13日
昭和20年8月6日、広島に原爆が投下された。その時郊外の疎開先にいた高丸矢須子は叔父・閑間重松の元へ行くため瀬戸内海を渡っていたが、途中で黒い雨を浴びてしまった。20歳の夏の出来事だった。5年後矢須子は重松とシゲ子夫妻の家に引き取られ、重松の母・キンと4人で福山市小畠村で暮らしていた。地主の重松は先祖代々の土地を切り売りしつつ、同じ被爆者で幼なじみの庄吉、好太郎と原爆病に効くという鯉の養殖を始め、毎日釣りしながら過ごしていた。村では皆が戦争の傷跡を引きずっていた。戦争の後遺症でバスのエンジン音を聞くと発狂してしまう息子・悠一を抱えて女手一つで雑貨屋を営む岡崎屋。娘のキャバレー勤めを容認しつつ闇屋に精を出す池本屋。重松の悩みは自分の体より、25歳になる矢須子の縁組だった。美しい矢須子の元へ絶えず縁談が持ち込まれるが、必ず“ピカに合った娘”という噂から破談になっていた。重松は疑いを晴らそうと矢須子の日記を清書し、8月6日に黒い雨を浴びたものの直接ピカに合っていないことを証明しようとした。やがて庄吉、好太郎と相次いで死に、シゲ子が精神に異常をきたした。一方、矢須子はエンジンの音さえ聞かなければ大人しく石像を彫り続けている悠一が心の支えとなっていった。しかし、黒い雨は時と共に容赦なく矢須子の体を蝕み、やがて髪の毛が抜け始めたのだった。
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