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2025年9月

2025年9月30日 (火)

「さようなら原発!栃木アクション2025」フライヤー   「さよなら原発!日光の会」は2千枚を周知へ

「11・15さようなら原発!栃木アクション2025」フライヤーが出来上がりました。「さよなら原発!日光の会」は、2千枚を本日(火)、大木一俊・栃木アクション代表から受け取りました。10月7日(火)に会報「げんぱつニュース第55号」を発送するため、その際、「栃木アクション2025」プレ企画、台湾脱原発ドキュメンタリー映画「こんにちは 貢寮(コンリャオ)」日光上映会フライヤー、「今こそ、東海第二原発を廃炉へ!」署名用紙、さらにこの「栃木アクション2025」フライヤーを同封します(えっ!すると、同封は5種類も。う~ん、郵送料が心配です)。 Photo_20250930175401

2025年9月29日 (月)

やはり「定番ざるうどん」がいいです~   讃岐うどん、冷奴、シーフード、キュウリ・・・

昼飯は「野菜炒め定食」「盛岡冷麺」、「ヤマトイモ定食」や「冷やし中華」、「カルボナーラ」や「ナポリタン」、あるいは「カレー」「炒飯」「コロッケ定食」などなど。その都度、その日の天候をみながら、気分で変えている。が、ー、やはり落ち着くのが「定番ざるうどん」。讃岐うどんを基本にゆで卵、冷奴、シーフード、きゅうり、生姜を添えて。とくに「めんつゆ」に「長ネギ」を。この長ネギを入れるかどうかで、かなり味が違うことがわかる。うどんはお腹に優しいのがいいと思う。つい最近、お彼岸に合わせて「ぼたもち」を作って食べたが、しばらく胃がもたれてしまいました。その点、その食感とともに「やはり、定番のざるうどんはいいね」と、独り言もつぶやくほどです(笑い)。今後、秋が深まると、「鍋焼きうどん」「すき焼き」「焼きうどん」「焼きそば」などの出番になるかもー。

 

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2025年9月28日 (日)

映画「こんにちは 貢寮(コンリャオ)」監督が全国集会で連帯あいさつ  「台湾緑色公民行動聯盟」の雀愫欣・事務局長が代々木公園で 

9月23日(祝日)、東京代々木公園であった「さようなら原発全国集会2025」で、「原発ゼロ台湾」を実現させた台湾から来日した脱原発団体、「緑色公民行動聯盟」事務局長の雀愫欣(チェ・スーシン、あるいはツイ・スーシン)さんが会場で連帯のあいさつをした。この事務局長は脱原発ドキュメンタリー映画「こんにちは貢寮(コンリァオ)」(2004年制作、上映時間89分)の監督。彼女が大学院生時代に6年間をかけて制作したということです。20年後、脱原発団体の事務局長として来日し、代々木公園の脱原発全国集会であいさつを。10月19日(日)に日光でこの脱原発映画の上映会を開くので、その軌跡に対し、感慨ひとしおです。きょう9月28日のfacebookで「ノーニュークス・アジアフォーラムジャパン」がその発言をアップしていました。なんで、それを拝借して紹介します。彼女は「原発擁護派の活動が続くので、私たちは引き続き戦っていきます」と決意を述べたとあります。

 

(以下はfacebookから、写真ともPhoto_20250928230601


崔愫欣さんの発言
 みなさん、こんにちは。私は台湾緑色公民行動聯盟の事務局長、崔愫欣(ツイ・スーシン)(以前に資料では「チェ・スーシン」と読まれていたがー)と申します。台湾における反原発運動の現状についてご報告いたします。今年の5月17日、最後の原子炉が正式に稼働停止し、台湾は「原発ゼロ」の時代に突入しました。

 台湾には3か所、計6基の原発がありました。第四原発は市民の反対運動で、建設を遅らせ、稼働を阻止しました。2011年の福島第一原発事故は台湾に強い影響を与えました。反原発運動が拡大し、2013年には22万人デモを行ないました。2014年、台北駅前の道路を5万人が(15時間)占拠しました。翌朝、警察に排除されましたが、政府は第四原発の建設中止を宣言しました。

 2016年に政権交代し、民進党政権は脱原発政策を進めました。しかし野党など原発擁護派は、脱原発に抵抗してきました。直近では8月23日に行われた第三原発再稼働の国民投票でしたが、投票率が足りず、再稼働は否決されました。しばらくは、原発ゼロが続きます。

 老朽化した原発を再稼働してはなりません。原発擁護派の活動が続くので、私たちは引き続き戦っていきます。最後に、長年にわたって反原発の活動を行ってこられた日本の皆様に感謝申し上げます。アジアの原発ゼロに向かって、いっしょに、がんばりましょう❗️

 

2025年9月25日 (木)

「原子力資料情報室」が設立50周年   脱原発運動に大いに役立つ「情報室通信」

Photo_20250925192801 Photo_20250925193202 Photo_20250925193201 Photo_20250925193301 初代事務局長や代表だった「市民科学者」、故・高木仁三郎で知られるNPO法人「原子力資料情報室」が9月で設立から50年を迎えました。東京新聞が9月21日(日)に大きな記事にしています。高木仁三郎は冨岡の故郷、上州の前橋市出身。都立大助教授を経て「原子力資料情報室」設立へ。毎月「原子力資料情報室通信」(年会費4千円)を発行しています。冨岡は同通信の購読会員でもあり、脱原発運動情報で大いに役立っています。たくさんの著書がありますが、特に遺言的と言える「市民科学者として生きる」(岩波新書)、「高木仁三郎セレクション」(岩波現代文庫)は、お薦めですー。

 

2025年9月24日 (水)

連載4コマ漫画「ののちゃん」、なんと10000回    作者「いしいひさいち」さんに脱帽ー

祝 「ののちゃん」連載10000回(朝日新聞)ー。どんな1万回になるかと思っていたら、<そうきたかー>、さすがのアイデアだなと。それにしても10年でも3650回だから、10000回というのは~。作者・いしいひさいちさんに脱帽ですー。 Photo_20250924183701

2025年9月23日 (火)

チェ・スーシンさんはドキュメンタリー作家  「緑色公民行動聯盟」事務局長はあの監督だったー 

講演会「アジア初の原発ゼロ国家へ 原発ゼロ国家・台湾の成果とその挑戦」。9月22日(月)15時~17時、院内集会があり、ZOOMで参加しました。主催は、原子力市民委員会 原子力資料情報室 FOEJAPAN。講演したのは、アジアで初めて「原発ゼロ」を達成した台湾から来日した雀愫欣「緑色公民行動聯盟」事務局長と林正原「緑色公民行動聯盟」スタッフの二人。原子力資料情報室によると、参加者は会場参加約40人、オンライン約100人。講演する雀愫欣さんを紹介する場面がありましたが、聞いていてびっくり。「スーシン?ー。なんだか、聞いたことがある名前だなー」とは思っていました。やはりそうでした。その雀愫欣さんとは、ドキュメンタリー作家、チェ・スーシンさんだという。なんと、「さよなら原発!日光の会」が10月19日(日)に「栃木アクション2025」プレ企画で上映する台湾脱原発ドキュメンタリー映画「こんにちは 貢寮(コンリャオ)」(上映時間89分、2004年制作)の監督、チェ・スーシンさんその人だと。確か、映画製作は大学院生時代だとか。そのことは知っていましたが、その後、彼女はこの20年間、どうしていたのか?、そう思っておりました。今、台湾の脱原発運動の中核となっていたのを本日の講演会で初めて知りました。いやはやこんなこともあるのですね。 Photo_20250922224101 Photo_20250922224201

2025年9月22日 (月)

手が出ないので図書館で借ります  魅力的な「縄文 革命とナショナリズム」(中島岳志)

Photo_20250922115801 本の広告で私も気になっていたが、ともだちも推薦していた中島岳志の「縄文 革命とナショナリズム」(太田出版、2025年6月26日発売)ー。定価が定価なので、図書館で借りようと。日光の図書館を検索したが、なさそう。では、栃木県内図書館横断検索だと。これは初めて試したが、すぐに宇都宮、小山、那須塩原、益子の4館にあるという。日光図書館に送ってもらう方法を使うことに。ただし、この方法だと、それなりに日数がかかるのが難点だがー。9月20日(土)の朝日新聞書評欄の酒井啓子さんの書評もそれなりに読ませるが、「本やタウン」にある本の紹介はさらに興味深い。目次では、岡本太郎、柳宗悦、吉本隆明、島尾敏雄、上山春平、梅原猛、太田竜などが。これは私にぴったり。自分のフィールドにある人たちが大半だから。中島岳志は大仏次郎賞である「中村屋のボース」などを読み、その視点は確かだ。現代社会の最前線で発言している。その彼が終章で参政党を登場させていることも含め、読みがいのある著書だろうと思う。

2025年9月21日 (日)

四コマ漫画「ののちゃん」がだいたい1万回―   何事も「テキトー」な藤原センセがいいね!

来週、連載10000回ー。「いしいひさいち」はほとんど天才だねーと。きょう9月20日(土)の「天声人語」は、「だいたい1万回」と。何事も「テキトー」なというか、いいかげんな、藤原センセがメインにー。彼女と生徒や教頭先生のやりとりが楽しみです。元気なおばあさんと老人会の山登りなどもまた(笑い)(以下は本日の「天声人語」)


彼女の座右の銘は「適当」という言葉らしい。いや、ここは「テキトー」と書くべきか。よく言えば、おおらか、悪く言えば、いいかげん。本紙朝刊の四コマ漫画「ののちゃん」の3年3組の担任、藤原瞳先生(27)の話である▼例えば、算数の問題の答えが少しぐらい違っていても先生は気にしない。「だいたい近けりゃいいのよ」と正解にしてしまう。面倒くさげに「数字なんてそんなモンよ」。うーん。実際にそんな教師がいては困るけど、いてほしい気もする▼ごくたまには、鋭いことを口にする。黒板に「男らしく 女らしく」と書き出し、「あいまいなものを抱えておく知恵も根性もない連中がとびつくコトバですね」。何か最近、イヤなことがあったのかな▼ののちゃんたちはそんな彼女を、負けないくらいのおおらかさ(いいかげんさ)で包み込む。山田家の人々もそうだ。ぐーたらで、ずぼらで、毒気もあるが、傲慢(ごうまん)や狡猾(こうかつ)ではない。だからほっとし、和むのだろう▼新聞には、人間の悲しみや苦しみや怒りが満ちあふれる。不条理にたじろぎそうなとき、思わずクスッとなるのが、社会面に鎮座する四コマ漫画である。私たちは、その笑いにいかに救われていることか▼「ののちゃん」は来週、1万回を迎える。朝日新聞ではサザエさんより、フジ三太郎より、長きにわたる連載である。かつて作者のいしいひさいち氏は、ユーモアを込めて記している。「おたがいに打切りを言い出すタイミングを失ったのでしょう」

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2025年9月20日 (土)

「今からでも小林秀雄を読んでみようかー」 五木寛之『こころの散歩』(新潮文庫)

ひょんなことからたまたま五木寛之の「こころの散歩」(新潮文庫、平成7年4月15日第3刷)を読んでいるところだ。五木寛之といえば、初期の「さらばモスクワ愚連隊」や「青春の門」、後期の「親鸞」など、それなりに読んできたが、もっぱらエッセイを手にする機会が多い。初期の「風に吹かれて」はもちろん、後期の「下山の思想」など。<確かにそういうことってあるよね>、そんないわば「午後3時の珈琲タイム」が似合うエッセイ群だ。

この「こころの散歩」もそんなごく軽い気持ちで手にしていたが、そのうちの「小林秀雄、その側面の一面」にある「邪悪なる天才」の文章にー、<えっ、小林秀雄って、そんな鋭い判断をする人だったのか>、と、新鮮さを覚えた箇所に行き当たった。五木さんも小林秀雄に対しては昔から「敬して遠ざける」で、それほど縁を結べなかったという。私にしても、10数巻ある「小林秀雄選集」(全集か?)の大半が書棚に眠っている。いわゆる「積読」状態だ。たぶん、吉本隆明による小林秀雄批判の影響を受けているのだとは思うがー。

ところが「こころの散歩」の147頁~148頁を読むと、<私も改めて小林秀雄を手にしないといけないな>、そう思わされた。というのも、以下の五木さんの文章から。

昨夜、持田綱一郎さんの『小林秀雄の近代』(「此岸」一号所載)を読んでいたら、小林さんが昭和15年に、こんな文章を書いていたことが紹介されていた。ヒットラーの『我が闘争』について小林秀雄は<僕はこの驚くべき独断の書を20頁ほど読んで、もう一種邪悪なる天才のペンを感じた>。昭和15年といえば、日本では熱病のようなヒトラー人気が盛り上がっている時代である(中略)『我が闘争』は、新時代のバイブルのように扱われていたのである」

この項の結びで、五木さんはこう考えたという。「人生百年時代、などという。まだおそくはない。今からでも小林秀雄を読んみようか、などと妄想を膨らませる一夜だった」

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2025年9月19日 (金)

秋の口 薪ストーブの 出番来る  9月19日(金)今季初の薪トーブ

あれれー肌寒いな?。室内気温を見たら、22度に届いていない。なので、少し早いが、今季初の「薪ストーブ」を点火。だいたいいつも9月末になると、薪ストーブの出番だ。ラジオのアナウンサーも話していたが、確かにひんやりした秋の空気に変わってきている。来週はまた暑さが戻りそうだから、薪ストーブも出番があったり、なかったり。そんな9月下旬になると思う。それにしても、猛暑の夏からいよいよ「読書の秋」「食欲の秋」「運動の秋」へ。「秋の口 薪ストーブの 出番来る」 Photo_20250919172401 Photo_20250919172101

2025年9月18日 (木)

「最後のとき」と生き様  「ゲバラの実像」(平山亜理)

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朝日新聞のドヤ街の記事に魅かれて読んだが、その筆者は平山亜理さん。経歴を見たら、サンパウロ支局長、ロサンゼルス支局長、それにハバナ支局長も経験していたのだね。そのキューバ時代に「ゲバラの実像」を書いていたことを知る。<これは読んでみたいな>、と、いうことで、日光図書館に貸し出しを頼んだ(のだと思っているのだがー)。

(以下は「本やタウン」にある本の紹介です))

朝日新聞国際面で連載された「ゲバラの実像」の書籍化。ゲバラの最期を知る元CIA工作員の証言や、家族・友人など、ゲバラと関係の深い当事者たちの証言から、伝説の革命家の人物像を掘り起こす。ゲバラが今も世界の人々を惹きつける理由とは……。新たなゲバラ像が見えてくる。

(「ゲバラの実像」の紹介)

死後半世紀近くがたっても、いまだに論争を呼び起こす「チェ・ゲバラ」とは何者か。いまも世界の人々を惹きつける理由とは。元CIA工作員、元ボリビア軍大尉、末弟、親友、娘…数々の証言から浮かび上がる“カリスマ”の人物像。

第1部 「ゲバラの死」(元CIA工作員の証言;元ボリビア軍討伐隊長の証言;元ゲリラたちの証言)
第2部 「ゲバラを支えた者たち」(ゲバラに共感する理由;同僚・部下たちの証言)
第3部 「残された家族の物語」(末弟・マルティンの証言;親友たちの証言;娘・アレイダの証言)
第4部 「いまも生きるゲバラ」(医療・教育現場に残る遺産;ゲバラが世界に与えた影響)

 

 

2025年9月17日 (水)

「東海第二原発が危ない!今すぐ廃炉をー」   「東海第二原発首都圏連絡会」が署名呼びかけ

「東海第二原発が危ない! 欠陥工事が発覚」ー。とめよう!東海第二原発首都圏連絡会の最新チラシです。このチラシでは、「東京に一番近い原発!」であることや「日本原電は再稼働をあきらめ、今すぐ廃炉を決めよ!」と求めています。

 チラシでも書いてありますが、東海第二原発の30㌔圏内には92万人が住んでいます。2021年3月18日(いやはや、もう4年も過ぎるのだねー)、水戸地裁は「原発事故が起きた際の避難計画が不十分であるとして、東海第二原発の運転禁止を命じる」判決を出しました。日本原電はこの判決を不服として控訴し、現在、東京高裁で裁判が続いています。

 この東海第二原発の再稼働を阻むのはもちろんなのですが、さらに「廃炉へ!」というのが、私たち「さよなら原発!日光の会」も加盟している首都圏連絡会の考えです。そのための第一次締め切り(8月30日)に「さよなら原発!日光の会」を窓口に那須塩原市や下野市などからも集まった署名「311筆」を、首都圏連絡会に送付したばかりです。

 第二次締め切りは来年の2026年1月8日。その第二次締めきりに向かって、さらに署名を集めていくのですが、その際、東海第二原発がいかに危険であるかー。そのことを伝えるチラシがこの「東海第二原発が危ない!」。きょう9月17日(水)、そのチラシが「500枚」が東京から日光霧降高原に届きました。さっそく、広く知らせようとー。Photo_20250917232401 Photo_20250917232402

 

2025年9月16日 (火)

たまに「豪華」な「ざるうどん定食」を   「シーフード」「冷奴」など定番5品を添え

たまには我が家の正統派の「ざるうどん定食」もアップへ。このところ、「焼きナス定食」や「野菜炒め定食」、あるいは「ヤマトイモ定食」などのごはんものや「盛岡冷麺」「焼きそば」などが続いていた。が、やはり定番は「うどん食」に限る。それも「シーフード」「冷奴」「ゆで卵」「キューリ」「生姜」の5点セットで。たまたま本日の9月16日(火)は、さらに「ジャガバタ」も加わった。かなり豪華な「ざるうどん定食」のその日になった。美味しい「めんつゆ」を取りたいときに、このうどん定食になるのだねー。そう思う。Photo_20250916235401 そうだ、きょうの昼に聴いたラジオから流れていた俳句が印象的だった。そのことを忘備録的に記しておきたい。「昼のいこい」、その番組の結び、確か、「暮らしの文芸」ー。きょうは「口笛を 吹いて見回る 田んぼかな」ー。少し違うかもしれないが、だいたいこんな趣旨の俳句だった。「口笛を吹いてー」という言葉があたりまえだけれど、その次にどんな言葉が続くのかー、そう思いながら聴いていた。それが「収穫の秋」についての結び。なので、なんとも印象に残ったことだったー。

 

2025年9月15日 (月)

台湾の歴史そのものを記録していくことになる   脱原発ドキュメンタリー映画「こんにちわ 貢寮(コンリャオ)」

Photo_20250915221501 映画「こんにちは貢寮」と

          日本の私たち
(「ノーニュークス・アジアフォーラム ジャパン」記事から)

 

 日本から輸出された台湾第四原発建設地である台北県貢寮郷は台湾の東北部にあり、面積は9997ヘクタール、人口14000余人。主な産業は漁業と養殖業。海岸線の長さは約30キロ、風光明媚で『東北部風景特定区』(国立公園に相当)に指定されている。

 1980年に第四原発の建設予定地として貢寮が選ばれた。当時は独裁政治の戒厳令下のため抵抗することもできず、1982年には土地の強制収用により230世帯が強制転居させられた。1987年になってようやく学者の張國龍らが貢寮を訪れ、地元住民に放射能の危険性を伝え、反対運動が始まった。住民にいっさい説明なく決められた原発に、住民は反対を続けた。

 1991年10月3日、警察は住民との約束を破って、住民がこもるテントを破壊。警察と住民の衝突で1名の警官が死亡した。たまたま車にのっていた青年が殺人罪で逮捕された。「こんにちは 貢寮」は、「1003事件」で投獄された青年への手紙から始まり、クライマックスは11年ぶりの青年の外出許可だ。身内のところではなく、まっすぐ福隆駅に向かった青年は、呉文通さんら出迎える住民たちと固く抱き合う。ちょうど、2006年3月18日の
祝島での上映会の直前、台湾から呉さんに電話があった。「青年が3日後に、145ヶ月ぶりに釈放される」


 「1003事件」から7年、チェ・スーシンがカメラを持って記録を始める。 彼女はその後6年間にわたって貢寮を撮り続けることで奇しくも、政権交代に象徴される台湾の歴史そのものを記録していくことになる。しかし、6年後に彼女が完成させた映画には、ひとすじのぶれもなく、貢寮の人々の目線からそのすべてが描かれている。

 冒頭、彼女はこう語って映画を始めている。「お年寄りから原発に関する話を聞いて、だんだんわかってきました。貢寮の住民は第四原発の建設が決まった日から、長く辛い道を歩み始めていたことを。私はカメラをもって、私が立ち会えなかった歴史を記録しようと決めました。長年の努力と抗争の中の人々の人生と心情を記録したいのです」

 この記録映画は二つの意味で日本の私たちと大きなつながりを持っている。一つは、日本からその原発が輸出された、ということ。もう一つは、日本の多くの原発予定地と同じように貢寮の人々も闘い続けている、ということ。実際、この映画に出てくる貢寮の人々の様子は、これまで日本各地で闘われてきた原発予定地とほんとうによく似ている。バスを仕立てて都会へ繰り出す様子、海上デモの様子・・・・。

 

【こんにちは貢寮】上映時間:89分

監督:崔欣(チェ・スーシン)
制作:呉乙峰(ウー・イーファン)
★2004年宜蘭国際緑色映画祭観客選考最優秀賞
★2004年南方映画祭選出
★第27回金穂賞最優秀ドキュメンタリー

 

2025年9月14日 (日)

ようやく子規の「俳諧大要」を読むことに   「与謝蕪村」(辻原登)の「季節の俳人」から

Photo_20250915000201 「菜の花や 月は東に 日は西に」ー。一茶も山頭火も放哉も好きだが、蕪村もまた。その与謝野蕪村をもっと知りたいと、このところ、「与謝蕪村」(辻原登、河出文庫、2025年4月10日初版)を手にしている。芭蕉は「秋冬の人」、蕪村は「春夏の人」、特に「夏」の季節を好んでとりあげている俳人だという。季節感でその俳句の傾向、いや、気質か、それを示しているところに大いに興味が沸いた。この「与謝蕪村」によると、その指摘の原典は子規の論から。その流れでネットで子規の「俳諧大要」を知った。子規の伝記は新書などで読んではいる。確か、森まゆみさんの「子規の音 」(新潮文庫、2019年10月27日)。だが、考えたら、彼の代表作とされるPhoto_20250914233601 この「俳諧大要」は読んでいないことに気づいた。ということで、遅ればせながらの典型だが、手にしようと。ネット取次店「本やタウン」に9月14日(日)、注文したところだ。

(以下は「本やタウン」にある「俳諧大要」の説明だ)

正岡子規(1867~1902)による最良の俳句入門書。初学の人へ向けて要諦を簡潔に説く本書には、革新を志し、文学としての俳句を打ち立てんとする子規の気概があふれている。「俳句をものせんと思はば思ふままをものすべし。巧を求むる莫れ、拙を蔽ふ莫れ、他人に恥かしがる莫れ。」『歌よみに与ふる書』と並ぶ代表著作。

第一 俳句の標準
第二 俳句と他の文学
第三 俳句の種類
第四 俳句と四季
第五 修学第一期
第六 修学第二期
第七 修学第三期
第八 俳諧連歌

 

2025年9月13日 (土)

石坂洋次郎は『麦死なず』のような「問題作」も  「健全な作風」ばかりと思っていたのだがー

石坂洋次郎と言えば、「青い山脈」「若い人」が代表作だと思っていた。いやいや、そうではなく、「作家的地位を確立した代表作」は「麦死なず」だとかー。きょうのNHKラジオの「戦後80年」特集だったか、1960年に放送された石坂洋二郎のインタビューにからんだ説明で知る。保阪正康さん(昭和史研究の第一人者)と梯久美子さん(硫黄島総司令官を描いた「散るぞ悲しき」などで知られるノンフィクション作家)が語る番組で。「昭和の初期、知識人たちを捉えた左翼運動がはらんだ問題性をー」。という作品らしい。健全な作風の代表格とされる石坂洋次郎。私も読んでいたり、映画を観たりしている「青い山脈」や「若い人」はその印象が強い。だが、このラジオ番組で石坂洋次郎が「菊池寛賞」を受賞した際、「健全な作風」という受賞理由に対し、やや不満を覚えている感想を紹介していた。本人は作風のその根っ子では暗いというか、ドロドロしたものがあることを吐露しているのだという。「健全な作風」だと評価されていた彼が「麦死なず」といった、いわば「問題作」も書いていた。ということは知らずにいた。その作品を読みたいと、ネット取次店「本やタウン」で「新潮文庫」を注文しようとした。が、どうも今は発売されていないらしい。電子書籍ではあるようなのだがー。なので、なじみの日光図書館に問い合わせた。すると、今市図書館の書庫に「日本文学大系 第50巻」にあるという。すぐに貸し出し希望すると、来週の9月17日(水)夕には日光図書館に届くという。ついでに県立図書館など各図書館の「蔵書検索」の仕方も教えてもらいましたー。 Photo_20250913141001

2025年9月12日 (金)

新しい横断幕「東海第二原発を廃炉に!」   首都圏連絡会から「さよなら原発!日光の会」に   

「とめよう!東海第二原発首都圏連絡会」の「東海第二原発を廃炉に!」の横断幕がきょう9月12日(金)、日光霧降高原に届いた。「東京に一番近い老朽原発 東海第二原発を廃炉に! とめよう!東海第二原発首都圏連絡会」という文字が入っている。東海第二原発は「東京まで116㌔」の距離にあることを示す関東の地図も描かれ、「水戸」「東京」「千葉」に加え、「宇都宮」の文字も。東海第二原発の「廃炉」を強調したこの横断幕、初登場は10月10日(金)「原発いらない金曜行動in日光神橋」のサイレントスタンディング脱原発アピールからになるかー。 Photo_20250912181601 Photo_20250912181602

2025年9月11日 (木)

「情報公開と市民参加」をテーマに院内集会とオンライン   脱原発などさまざまなNGOが9月18日(木)に

9月18日(木)13時~15時、「情報公開と市民参加」をテーマに院内集会&オンラインがあります。「オーフスネット」や「原子力市民委員会」が主催。「原子力資料情報室」や「foejapan」などが協力。Zoom参加も可能。Twitterで「原子力資料情報室」が呼びかけていたのを知って。「オーフス条約」に関心がある私なので、さっそく参加の登録をしました。

(以下は「原子力資料情報室」のTwitterから)Photo_20250911213401  

【院内集会】政策決定プロセスに幅広い市民参加を | 原子力資料情報室(CNIC) 三木由希子さん(情報公開クリアリングハウス)にご講演いただきます。当室も協力団体となっています。ぜひご参加下さい! https://cnic.jp/62603

0255月、複数の市民団体のネットワークが連携し、政策決定プロセスへの市民参加を求め集会を開催、共同声明を採択しました。5/13に開催された院内集会「政策決定プロセスに幅広い市民参加を – ワタシのミライ」の議論の続編として、情報公開クリアリングハウスの三木由希子さんをお招きし、「情報公開と市民参加」をテーマにお話しいただきます。

情報公開が市民参加にどう寄与するのか、その活用事例、そして最近注目されたパブコメ大量投稿規制の課題など、個人・組織それぞれの立場から考える場とします。

国会議員からのコメントや参加者同士の意見交換・交流の時間も設けます。ぜひご参加ください。

【日時】 2025918日(木)13:0015:00

【場所】 衆議院第一議員会館 第6会議室 + オンライン(Zoomウェビナー)

【申込】

 現地参加 forms.gle/ZMtWSEf6iJdGq4dt9

 オンライン参加 us02web.zoom.us/webinar/register/WN_zp32hQDWS-m5_h9iRwyBqQ#/registration

【プログラム(予定)】

 (講演)三木由希子さん(情報公開クリアリングハウス)

 (国会議員からのコメント、質疑応答)

 (意見交換)

 司会: 橘高眞佐美(オーフスネット)

【主催】 オーフスネット、グリーン連合、原子力市民委員会、国際協力NGOセンター(JANIC)、日本環境会議、ワタシのミライ(50音順)

【協力】 アムネスティ・インターナショナル日本、環境文明21、気候ネットワーク、CAN Japan、グリーンピース・ジャパン、原子力資料情報室、国際環境NGO FoE Japan、国際環境NGO 350org Japan50音順)

 

2025年9月10日 (水)

なぜ「センター」ではなかったのかー  1975年9月創立の「原子力資料情報室」

脱原発市民運動の中核となってきた「原子力資料情報室」は1975年9月に発足しました。今年が創立50周年ですが、その歴史について、西尾漠さん(「原子力資料情報室」共同代表、「はんげんぱつしんぶん」編集長)が、最新号の「原子力資料情報室通信」(9月1日発行)で、「私的メモ」として振り返っています。都立大助教授だった高木仁三郎さんが初代事務局長としてタートしたことは自伝『市民科学者として生きる』(岩波新書)などで、知られています。が、なぜ「センター」ではなく、「情報室」という看板をかけたのかー。これによると、「センター」となると、当時の判断として、脱原発運動の「中央司令部的」になってしまうため、「討論の交差点」「共同作業の場」として位置付けることにしたーということだそうです。私も「なぜ、情報室という名称なのだろうか?」と、以前から思っていました。それが、西尾漠さんの私的メモで、今回、「なるほどー」と。脱原発運動がどのように立ち上がっていったのか、その初期の動きとその後を知ることができます 51pexe1rrrl_ac_uf10001000_ql80_ Photo_20250910215001

2025年9月 9日 (火)

 カッコいいと感じる脱原発のフライヤー     「さようなら原発9月23日全国集会」

9月23日(火、祝日)、東京代々木公園を集会場所に開かれる「さようなら原発9・23全国集会」。そのフライヤーがカッコいいこともあり、BLOG「霧降文庫」にもアップへ以前は日光からも「貸し切りバス」で代々木公園へ向かったのだがー。年齢を重ねたこともあり、貸し切りバスで東京に向かう元気さが落ちている。そのため、この頃は「応援」に回っているのが実情だ。ただし、「栃木県の地元でも脱原発の大規模集会を開こう」と、この10年以上、秋になると、宇都宮城址公園で集会を開き、脱原発を呼びかけるパレードをやってきた。初回は「2500人規模」だった。この3年ほどは残念ながら、「1000人」の大台に届かない。そのため、当面の目標は再び「1000人」の大台に乗せること。今年もそれをめざし、11月15日(土)に開きます。

 

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2025年9月 8日 (月)

台湾国民投票で再稼働否決になったのはー  「意図的な政争の具」で「なるほど」

原発ゼロ台湾」の歴史と現状

脱原発運動が98%完成の「第4原発」の建設凍結に

No Nukes Asia Forum Japan                                

2025年9月8日

<台湾の原発 1978年から計6基>

 台湾では国民党軍事独裁の38年間におよぶ戒厳令の下で、第一、第二、第三、各2基ずつ計6基の原発が建設され、78年~85年に運転開始しました。さらに第四原発建設が計画されましたが、87年戒厳令解除後の民主化運動で、第四原発反対運動がその大きな軸となりました。  

<福島第一原発事故を契機に全土へ>

 2011年、「福島原発事故を繰り返してはいけない」と台湾の反原発運動は再び大きく燃え上がり、2012年になると誰でも参加しやすい柔らかな運動が台湾全土に広がりました。2013年に、126団体(その後200団体)が全國廢核行動プラットフォームを結成し、22万人デモ(人口比で日本なら100万人デモ)を実施しました。2014年4月27日、5万人のデモ隊が台北駅前の8車線道路を15時間にわたって占拠、座り込みました。こうした闘いの結果、98%完成していた第四原発の建設はPhoto_20250909220701 されました。日本が輸出してしまった原発の稼働を阻止してくれたのです。  

<今年5月17日、アジア初の脱原発を達成>

 2016年に民進党政権は「非核家園(脱原発)」政策を確定し、2018年に第一原発1号機が40年の寿命で廃止となり、それ以降、次々に1機ずつ廃止となり、そして今年5月17日に、最後の第三原発2号機が運転を終了し、台湾は原発ゼロとなりました。長年の民衆の運動が実を結んで、アジア初の脱原発を成し遂げたのです。  

<8月23日の公民投票 結果は再稼働を否決>

 しかし、5月20日に立法院で、野党の民衆党と国民党が賛成し、第三原発の再稼働の賛否を問う公民投票の実施が決まり、8月23日、公投が行われました。結果は、再稼働同意434万、不同意151万。しかし同意票数は、公投成立要件の500万票(有権者総数2000万人の1/4)には届かず、公投法の規定により、結果は「否決」となりました。

<原発推進側は今後も再稼働の攻勢へ>

 票数で言えば賛成が上回っていますが、投票率は29.5%で過去最低でした。全國廢核行動プラットフォームは声明で「今回の公投は、立法院が提案した初の公投だ。広範な民意の署名を経た公投ではなく、野党による意図的な政争の具にすぎない。多くの市民が政争による公投を嫌悪し、投票に行かないことを選んだ」と述べました。なぜ台湾南部屏東県の問題を、台湾全体の公民投票で決めようとするのか、という抗議の声も多く上がっています。今後も民衆党と国民党は原発推進の攻撃をしかけてくると思われますが、台湾の人々は脱原発を守り抜くでしょう。

 

2025年9月 7日 (日)

「東海第二原発を廃炉へ!」署名、311筆を送付  「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」へ  

 

8月30日が締め切り、「今こそ、東海第二原発を廃炉へ!」署名を集めていた「さよなら原発!日光の会」は、やや遅れた9月7日(日)、計「311筆」をレターパックで、送付先の「とめよう!「東海第二原発 首都圏連絡会」に送った。この署名の第二次締め切りは来年、2026年の1月8日。「さよなら原発!日光の会」は、引き続き、この署名活動に取り組んでいくことを決めているー。

 

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2025年9月 6日 (土)

この「狂気」に満ちた歌「夜へ急ぐ人」  伝説となったちあきなおみの紅白歌合戦ー

なるほどのなるほどー「夜へ急ぐ人」。この「狂気」に満ちた歌を「紅白歌合戦」で。会場がさぞや凍っただろうとー。それいしても、ちあきなおみは途中から友川カズキ、中島みゆき、河島英五、ゴダイゴなどともコラボ。確かにそれまでの歌謡曲路線から外れた「異質な領域」に分け入っていたということになるーそれを今になって知るー。ネットで「伝説となった紅白歌合戦の「夜へ急ぐ人」という魅力的なコラムを見つけたので、それをアップしたい。Photo_20250906001801

まったく面識もなければ縁もなかったちあきなおみから、友川カズキが楽曲を依頼されたのは突然のことだった。それが1977年のことで、友川はそのとき大阪にいた。

「ちあきさん、その頃ステージでジャニスの曲も歌ってたのよ。だから、曲は意外とあっさり作れたの。ジャニスに曲書いてるような気分だったからね」(『友川カズキ独白録 生きてるって言ってみろ』より)


ちあきなおみはジャジーなポップスを歌うシンガーとして、「雨にぬれた慕情」で1969年にデビューしたが、「四つのお願い」がヒットした翌年に早くもNHK紅白歌合戦への出場を果たしている。1972年には「喝采」がレコード大賞に輝き、「劇場」「夜間飛行」といったヒット曲が続いて、紅白の常連になった。

しかし、1975年に27歳になったちあきなおみは意を決して、13歳の時から15年間も所属した三芳プロを離れた。それを境にして、音楽活動における表現の幅を広げていくためだった。芸能人ではなく、アーティストのように音楽に集中できる活動を望んだのである。

その年は船村徹とのコンビで演歌に挑戦した「さだめ川」がヒットし、11月には意欲的なアルバム『戦後の光と影~ちあきなおみ 瓦礫の中から』を発表した。

これは戦後という時代の光と影を持つ「星の流れに」や「カスバの女」という名曲たちを、ナツメロとして懐かしむのではなく、日本のスタンダード・ソングとしてカヴァーして新たな生命を吹き込むという、現在にも通じている新しい試みの出発点になった。

その後はヒット曲を追い求めるレコード会社が推す演歌路線を拒否し、ニューミュージックの新たな旗手として注目を集めていた中島みゆきに、書き下ろしの楽曲を依頼して、1977年4月にはシングル盤「ルージュ」を発売した。

テレビの深夜番組『11PM』を自宅で観ていて、さほど有名ではなかった友川カズキというシンガー・ソングライターに出会ったのは、「ルージュ」を出した後だった。

ちあきなおみは、友川が番組内で歌った「生きてるって言ってみろ」の歌詞と、パフォーマンスの両方に魂を激しく揺さぶられたという。

1971年の中津川フォーク・ジャンボリーに飛び入りで出演した友川は秋田出身のシンガーで、「上京の状況」と「生きていると言ってみろ」の2枚のシングル盤を出した後に、ようやくファースト・アルバム『やっと一枚目』を1975年にリリースしていた。

プロデューサーだった夫の郷鍈治は、翌日の朝から放送局に連絡をとって、その日のうちに事務所へ友川を招いた。そして、ちあきとともに楽曲を書き下ろしで提供してほしいと依頼した。

まだ他人に楽曲を提供したことがなかった友川は、どんな曲を書けばいいのかという手がかりを求めて、新宿「ルイード」で行われる、ちあきなおみのライブに足を運ぶことにした。そこでジャニス・ジョプリンの曲を聴いて、友川は圧倒されて泣いてしまったという。

「もう鳥肌がたつほど感動しました。私も高校時代からジャニスが大好きでしたから、ちあきさんのジャニスを唄うのを見た時、『あー、タダの狂気じゃないな』って感じました」


ジャニス・ジョプリンとちあきなおみに共通するもの、それは人の心の奥に隠されている狂気だったのかもしれない。そして友川は「生きてるって言ってみろ」もまた、自分自身の中にある狂気と怒りから生まれた作品であることに気づいた。

それが評価されて楽曲を頼まれた自分に求められているのは、ジャニスの曲を歌っているときに見せた狂気を引き出す曲を書くことだと、友川はそう感じ取ったのだ。

こうして生まれた「夜へ急ぐ人」は、1977年の9月1日にシングル盤として発売された。その狂気を多くの人が目の当たりにしたのはその年の大晦日、第28回NHK紅白歌合戦でのことだった。

演歌の「酒場川」をしっとりと歌っていた前年とは打って変わって、8年連続での出場となったこの日のちあきは、黒尽くめの衣装で髪を振り乱して、「おいでおいで」とカメラに向けて、挑発的に手招きをするパフォーマンスを披露した。

ちあきなおみの狂気をはらんだ絶唱は、お祭りムードで和やかだった会場の空気を一変させた。その模様は日本中の茶の間にも等しく伝わった。

歌が終わるや否や、白組司会のNHKアナウンサー山川静夫の口からこぼれたのは、「なんとも気持ちの悪い歌ですねえ」という、台本に書いていない本音のコメントだった。その軽口によって会場には笑いが起こったので、何ごともなかったようにいつも通りの紅白が進んでいった。

だが、そのパフォーマンスが深く心に刻まれた人も多かった。はからずもその夜の熱唱で、ちあきなおみが明らかにしたのは、「普通の歌手とは違う」ということだった。

 

2025年9月 4日 (木)

「『核』と『原発』がよりリアルな世界に」   同人誌「序説第32号」(9月1日発行)

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 同人誌「序説第32号」(9月1日発行)

「『核』と『原発』がよりリアルな世界に―第七次エネルギー基本計画批判ー」

 富岡洋一郎

 

アメリカがイランの核施設空爆

 <いやはや、核施設を攻撃した?そこまでやるか!>。ニュースに驚いた。「米、イラン核施設空爆 初の本土攻撃か報復必至 トランプ氏『成功』強調」2025年6月23日(月)の朝日新聞一面トップ。記事によると、トランプ米大統領は21日、米軍がイランの核施設3カ所を空爆したと発表した。イランに核開発計画を放棄させるために外交解決を模索してきたが、大きく方針を転換。イランは報復を宣言していて、イランとイスラエルの交戦に端を発した中東の緊張は、米国を巻き込んだ極めて深刻な局面に突入した。

 米紙ニューヨーク・タイムス(NYT)によると、焦点となっていたフォルドゥでは、B2ステルス爆撃機6機から米国製の地中貫通弾「バンカーバスター」12発が投下された。ナタンズとイスファハンの核施設には、潜水艦から「トマホーク」30発が発射された。初期評価ではフォルドゥの核施設は使用不能になったという。トランプ大統領は目的について、「イランの核濃縮能力を破壊して、世界一のテロ支援国家であるイランによる核の脅威を阻止することだった」と説明したという。

 「核の脅威」を取り除くためにイスラエル、アメリカという核保有国がイランの核施設を攻撃するという二重基準そのものである驚くべき暴挙に打って出た。

この「核の脅威」だが、もともと原子力発電そのものにつきもの。そのことをプーチンによるウクライナ戦争に続いて改めて思い起こさせた。そのことを2025年2月18日に閣議決定された「第7次エネルギー基本計画」に絡めて報告しようと思う。

 

原発は自国に向けられた核兵器

栃木県宇都宮市の宇都宮城址公園で2024年11月23日に開かれた集会「さようなら原発!栃木アクション2024」のメインスピーカー、樋口英明・元福井地裁裁判長は「原発は自国に向けられた核兵器です」と強調し、「豊かな国土を守り、次の世代に受け継がせよう」とするには、危険な原発を除去すべきだと促していた。

という文言は、私が代表を務めている市民団体「さよなら原発!日光の会」(会員121人)が政府の「第7次エネルギー基本計画案」に対して2025年1月25日付で資源エネルギー庁長官官房総務課に送ったパブリック・コメント(意見公募)の中の一項目だ。その意見は全7項目から成り、約5300字。メインテーマは、「原発の『最大限活用』の文言は削除すべきである」。その6項目の見出しは「ウクライナ侵略戦争で原発は格好の『軍事標的』となった」。

ここでの意見はこうだ。

計画案では「Ⅲ、第6次エネルギー基本計画以降の状況変化」(10頁)で、「2022年2月にロシアがウクライナ侵略を開始し、世界のエネルギー情勢は一変した」とある。このプーチンによるウクライナ戦争では、ロシアによるザポリージャ原発への攻撃や占領という事態も引き起こされている。「まさか、原発が狙われるなんて!」、と世界を驚かせた。このウクライナ戦争で明らかになったように、原発は恰好の軍事標的であり、その点でも安全性の確保は困難である。つまり、計画案では、原子力は「エネルギー安全保障に寄与する」としている(26頁)が、それはまるで逆であり、その認識は明らかな誤りである。よって、原子力は「エネルギー安全保障に寄与する」という文言は削除すべきである」。

 

「原発回帰政策」批判のパブリック・コメント

 今も続くプーチンのウクライナ戦争を取り上げたが、このパブコメでの第七次エネルギー基本計画案に対して、正面から批判したかったことは、原発回帰路線についてだ。パブコメでは真っ先にそれを以下のように記した。

第7次エネルギー基本計画案(以下「計画案」という)の冒頭、「東京電力福島第一原発事故後の歩み」(6頁)で、「福島第一原発事故から13年が経過したが、原発事故の経験、反省と教訓を肝に銘じて、エネルギー政策を進めていくことが、エネルギー政策の原点である」、あるいは「今後も原子力を活用し続ける上では、安全性の確保を最優先とし、『安全神話』に陥って悲惨な事態を防ぐことができなかったという反省を一時たりとも忘れてはならない」としている。「『安全神話』に陥って悲惨な事態を防ぐことができなかったという反省を一時たりとも忘れてはならない」という計画案の認識は歓迎すべきことである。

ところが、そうは言いながら、今回の計画案では東京電力福島第一原発事故の後、3次にわたる基本計画で掲げてきた原発の「依存度低減」をあっさり削除している。さらに、あろうことか、原発を「最大限活用する」と明記している「Ⅴ 1 (1)エネルギー政策の基本的考え方」(16頁)。言うこととやることがまったく違う見本のような文言である。いわゆる「原発回帰」を鮮明にした言い方だ。

これに朝日新聞が社説(2025年1月22日 「エネルギー基本計画 未来への責任果たす針路に」)で厳しく批判しているが、大方が納得できる言い分だ。「前言も顧みず、手のひらを返すように重大な方針を転換するならあまりに無責任だ。国民への背信ではないか」。この社説でも述べているが、「このまま決定すれば、将来に禍根を残す内容だ」。まったく同感であり、よって、計画案で原発について、基本的な姿勢を繰り返し示している原発の「最大限活用」の文言は削除すべきである。

以上がパブコメの第1項目。さらに第2項目以下の小見出しだけを紹介すると、以下のようだ。

2 ドイツに見習い、「原発ゼロ」への道を進むべきである。

3 「非現実的」な原発2割案は採用すべきではない。

4 エネルギー基本計画案は撤回し、公正な審議体で再審議へ

5 地震国、火山国の原発は安全性の確保ができない

6 ウクライナ侵略戦争で原発は格好の「軍事標的」となった

7 原発は安定供給もできず、経済効率性もなく、環境適合性もない

 

核施設空爆『広島・長崎と本質的に同じ』

 核施設の攻撃を受けたイランは6月23日夜、カタールにある米軍基地にミサイル攻撃を行った。トランプ大統領によると、ミサイル14発のうち13発を迎撃し、一発は異なる方向に向かった。死傷者はなかったという。一方、カタール国営通信はミサイルは計19発と報道した。

 さらに攻撃の応酬が続くのかどうかと心配されたが、6月25日(水)の朝日新聞1面トップは、「イスラエル・イラン 停戦合意 トランプ氏『有効』強調」。記事によると、トランプ米大統領は6月23日午後6時(日本時間24日午前7時)すぎ、イスラエルとイランの間で「完全かつ全面的な停戦が合意された」とSNSに投稿した。7時間後には停戦発効を表明した。

 

 地中貫通弾「バンカーバスター」による核施設攻撃でアメリカが参戦したことで、<長引くウクライナ>戦争に続いて今度は中東戦争か?>と、眉を曇らせていた。ところが、イスラエル・イラン戦争は急転直下、停戦へ。これはこれで良かったと思わせた。だが、26日(木)の朝日新聞は「イラン・イスラエル 停戦維持の姿勢 トランプ氏 核施設空爆『広島・長崎と本質的に同じ』」という耳を疑わせる報道がなされた。見出しだけではその趣旨はすぐにはピンと来ない。記事を読んでいくと、トランプ大統領がこう言ったとある。

「広島や長崎の例は使いたくはないが、あの戦争を終わらせた点で本質的に同じことだった」。

大虐殺そのものである広島・長崎の原爆投下は、原爆の威力を内外に、特にソ連をけん制することも含め、格好の「リトマス試験紙」だった。それが人類初の原爆投下だ。広島・長崎の原爆投下で亡くなった人は21万人、助かった人も原爆症で苦しみ続けている。

 昨年のノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害団体協議会(日本被団協)ならどのように反応しているだろうか、と思っていたら、6月27日(金)の朝日新聞が記事にしていた。同団体代表委員の田中熙巳(てるみ)さんは、取材に対し、トランプ大統領の発言を聞いて、「論外だ」と思った。「きのこ雲の下」に目を向けることなく、軍事力を誇示する姿は、「世界大戦から80年経っても、何も変わっていない」と指摘したとある。

 

「怖いことを語っちゃいけない」という雰囲気がある

 トランプ大統領の語る「核の脅威の阻止」、あるいは「広島・長崎と本質的に同じ」という発言に絡んで、思い起こしたのが、石破茂首相の発言だ。「核抑止力」や「原発ゼロ」などについて、石破首相が以前の自民党総裁選で敗れ、派閥会長を辞任表明する2日前、2020年10月20日、青木美希記者の質問に対する応答。『なぜ日本は原発を止められないのか?』(青木美希 文春新書 2023年11月20日第一刷)の「第5章 原発と核兵器」(163頁~191頁)にある。

 同書では、質問の前提として、石破首相のこれまでの発言を紹介している。いわく、「日本は(核を)作ろうと思えば、いつでも作れる。それはひとつの抑止力であるのでしょう。それを本当に放棄していいですかということは、もっとそれこそ突き詰めた議論が必要だと思うし、私は放棄すべきだとは思わない」。

 青木さん=石破さんの発言について、「原発がテロの標的になる。あんなに多くの原発が日本海に並んでいることの方が危ないんじゃないか」という意見があります。この点について、どう考えますか。

 石破=(私は)原発ゼロであるほうが望ましいと思っている。そして、核のない世界であってほしいと思っている。日本も核を持つべきだという論だったことは一度もない。「いざとなったら核が持てる」という能力を持つということは全く無意味かというと、それは議論する価値があるんだろう。核廃絶をしながらアメリカの核の傘に頼っている。この矛盾をどう解決していくのかということだと思います。日本が他国から侵略を受けない。報道の自由、思想、信条、みんな否定される国にしたくない。そのために、抑止力が必要だろうと思っている。核廃絶とアメリカの核抑止力の信頼性向上はどうして両立しない。悩んでいて、考えていると夜眠れない。

 この後が、このインタビューのポイントになる。同書はこう続く。

 石破氏に会う前に、私は自衛隊の装備を担当していた人に聞いた。「原発にミサイルが落ちてきたら守れますか」と。彼は笑いながら、「今あるイージス艦とパトリオット(地対空ミサイル)では、1カ所、2カ所なら何とか守れると思いますけど、これだけ原発がたくさんありますからね。とてもじゃないですけど」と言っていた。このやりとりを話した。石破氏は苦笑いした。

石破=私は「防衛大臣」として、「どうするんだ それ」と言ってきました。そういうリスクを少しでも減らしていかないとならない。でも「怖いことを語っちゃいけない」という雰囲気がある。

 同書ではこのやりとりの直後、中間とりまとめ的に眉をひそめるように以下のようにつづっている。

 電源喪失を想定していなかったから、福島第一原発事故が起きたのである。同様に、攻撃を受ける想定をしていないから備えもない。のちに更田(ふけた)豊志原子力規制委員会委員長が日本国内の原発がミサイル攻撃を受けた場合、「放射性物質が攻撃自体によってまき散らされてしまうことですので、こういったことは現在の設備で避けられるものとは考えていません」と衆議院経済産業委員会(2022年3月9日)で述べている。

 この第5章「原発と核兵器」では、学生向けの教科書『放射化学概論』(1983年、共著、東京大学出版会)などを手がけている元東京都立大総長で東京の被爆者の会「東友会」顧問も務めているという佐野博敏さんの取材の結果も記している。福島第一原発事故に絡み、核抑止力について聞くと、佐野さんは笑ってこう返したという。

 「北朝鮮が日本をやっつけようと思えば、原発のどれかにミサイルを打ち込めば同じ事が起こる。あれだけ日本海側に原発が並んでいる。日本は国防上、日本海に弱点をさらけ出している。国防を思うのなら、原発をやめるべきだ」。

 

「ロシアが日韓の原発など攻撃対象リストを作成」(英紙)

冒頭で「原発は自国に向けられた核兵器です」という、樋口英明元福井地裁裁判長の発言を紹介した。ウクライナ戦争のロシアによるザポリージャ原発への攻撃、そして今回のイランの核施設に対するアメリカの空爆をリアルに知ってしまうと、佐野元東京都立大総長の指摘がより現実味を示していることがわかる。

実際、今年1月1日、NHKや毎日新聞で伝えられたのが、「英紙、『ロシア 二日本と韓国の原発など攻撃対対象リスト作成』だ。この記事によると、経済紙フィナンシャル・タイムズは、ロシア軍が日本と韓国との戦争になった事態を想定し、両国の防衛施設や原発など合わせて160カ所の攻撃対象リストを記した将校の訓練用に作っていたと報じた。

このうち82カ所が司令部や基地などの防衛施設。それ以外は民間のインフラで、関門トンネルや東海第二原発などがある茨城県東海村の原子力関連施設など。フィナンシャル・タイムズが2014年までに作られたロシア軍の機密文書を確認したとして、2024年12月31日に報じたとある。この英紙の記事ではこれらの機密文書について、「現在もロシア軍の戦略に関連していると見られる」としている。

北朝鮮については、ウィキペディアの「北朝鮮核問題」によると、もともと2013年4月、北朝鮮は「自衛的核保有国の地位をより強固にする法律」を採択し、「敵対的核保有国」であるアメリカ、米韓相互防衛協約を結んでいる韓国、日米安保条約を結んでいる日本を「核兵器による攻撃対象」に定めている。

これらの報道などを念頭に私も会員の一人である『原子力資料情報室通信』の最新号(7月1日、第613号)で、原子力資料情報室の共同代表兼事務局長である松久保肇さんが執筆した「危機が続くロシア・ウクライナ戦争と原発」で戦時下における原発がいかにもろくて弱いものであるか、白日の下にさらしたと指摘している。

この記事では以下のように伝えている。「原発は戦争で攻撃対象にならないという暗黙の前提はもはや成立しない。それは東アジアに生きる私たちも例外ではない。報道によれば、ロシア軍の機密の攻撃対象リストに茨城県東海村の原子力施設が載っていたという。北朝鮮も日本の原子力施設を攻撃対象だと言っている。交戦によって原発事故の危険が高まるだけではない。交戦時に地震や津波などで原発事故が起きたとき、その事故への対処はまず不可能だ。私たちの生存権を守るためにも原発は無くさなければならない」

 

身も凍る『広島の消えた日―被爆軍医の証言』

この「核」が実際に使われた場合の恐ろしさについて、その一端を以下に紹介したい。ご承知の広島原爆についてだ。原爆投下当時、陸軍広島病院の軍医中尉だった肥田舜太郎さん(1917年~2017年)は、原爆投下前夜、急患のため、郊外に往診に行っていた。そのため、奇跡的に助かっているが、それから軍医として、広島中心部へ向かう。そのとき逃れてくる被爆者たちの惨状についての描写はなんとも目をそむけたくなるむごいものだ。肥田さんは現地で治療にあたり、その後、6千人を超える被爆者を診察してきた被爆医。日本被団協原爆被爆者中央相談所理事長などを務めていた。

広島の惨状などは肥田さんの著書『広島の消えた日―被爆軍医の証言』(1982年5月 日中出版)『同 増補新版』(2010年3月 影書房)に詳しい。広島原爆については『黒い雨』(井伏鱒二 新潮文庫)が広く知られているが、最近でも『「黒い雨」訴訟』(集英社新書 小山美砂 2022年7月)といった労作も発刊されている。だが、この肥田さんのなんともいえない生々しい文章に出会うのはめったにないことだろう。

『広島の消えた日』によると、当時28歳だった肥田さんが広島原爆に遭ったのは、広島郊外の戸坂村の患者の家の病人の腕をとって注射をしようとしていたとき。すぐに「巨大な爆圧の嵐」に遭い、その家の二間続きの何枚かの畳を飛んで奥の仏壇にいやというほど叩きつけられた。中心部の広島陸軍病院に戻ろうと、借りた自転車で向かっている最中の模様が以下のように記されている。「身も凍る」という言い方があるが、まさにそれを思わせる描写だ。少し長いが引用したい。

私は突然、岩陰から急に現れた人影を見て急ブレーキをかけた。自転車がきしんで跳ねて、踊って、草むらに投げ出された。痛みをこらえてはね起きた私は道路の真中に立つその姿を見て思わず息を呑んだ。それは、「人間」ではなかった。それは、ゆれ動きながら私に向かって少しずつ動いてくる。人間の形をしていたが全体が真黒で裸だった。裸の胸から腰から無数のボロ切れがたれ下がり、胸の前に捧げるようにつき出した両の手先から黒い水が滴り落ちている。その顔は、ああ、それは顔なのか。異様に大きな頭、ふくれあがった両の眼、顔半分まで腫れあがっ上下の唇、焼けただれた頭に一すじの毛髪もない。私は息を呑んで後ずさりした。ボロと見たのは、人間の生皮、滴り落ちる黒い水は血液だった。男とも女とも、兵隊とも一般人とも見分けるすべのない焼け焦げた人間の肉塊が引きはがれた生皮をぶらさげてそこにあった。まだ少しは眼が見えるのか、私に向かってうめき声をあげながら両手を差し出して、よろけ、もつれて二、三歩足をいそがせたが、それが最後の力だったのであろう。その場にばったり倒れてしまった。駆け寄って私は脈をとろうとした。しかし、手を触れる皮膚らしいところはその肉塊の腕にはどこにも残っていなかった(中略)とにかく、広島へ急がねば、と自転車を立て直して進みかけた私の足はその場に釘づけになったまま、動かなかった。焼けて、焦げて、ただれて、生皮のはがれた血の滴る群像が道いっぱいにひしめいて、うごめきながら、行く手をふさいでいたのである。立っている人、寄り添っている人、いざる人、はらばう人、どの姿にも人間を意識させる何一つのしるしはなかった(『広島の消えた日―被爆軍医の証言』123頁~124頁)。

 

足利で「オーネット」主催の肥田舜太郎さん講演会

肥田さんは、2005年に脱原発ドキュメンタリー映画『ミツバチの羽音と地球の回転』などの監督で知られる鎌仲ひとみさんとの共著『内部被曝の脅威 原爆から劣化ウラン弾まで』(ちくま新書)も著している。2011年3月11日の福島第一原発事故を受けて、その肥田さんに日光で講演してもらおうと、「さよなら原発!日光の会」で企画を立てていたことがある。ほんとに直前になって、肥田さんが体調不良のため講演をキャンセルせざるを得なかった。肥田さんの代役に「非電化工房」主宰の藤村靖之さん(栃木県那須町)に依頼した。藤村さんは「肥田さんの代役ならば、引き受けざるを得ないね」と、快諾してくれた

 ただ、その後、足利のJAZZ喫茶「オーネット」主催で、確か足利市民会館だったか、肥田さんの講演会が開かれた。閑話休題風に言うと、学生時代、私は半年間、この「オーネット」のアルバイトをしていた。週末のJAZZ演奏会、「熱海殺人事件」などの演劇、写真展、絵画展、詩画展、深夜のダンスパーティや英会話教室など、いわばもうひとつの「私の大学」だった。

 この講演では、「オーネット」のママの「きぃちゃん」(故人)を「序説」準同人で若い時から知り合い、長く親しい友人だった嶋田泰治さん(故人)が大いに手助けしていたことを聞かされている(嶋田さんとは学生時代に足利のキリスト教会の一室を借りた読書会で『ヒューマニズムとテロル』(メルロー・ポンティ)などを読み合った思い出が強い)。講演後の肥田さんを囲んだ「オーネット」の懇親会で肥田さんに私が「日光で講演して欲しかったのですが、残念ですー」と話すと、肥田さんが「いや、あのときはキャンセルしてしまい、申し訳ない」などと応じた。肥田さんは講演会でも懇親会でも「日常的な健康法」も語っていたことをよく覚えている。肥田さんとは、そんな貴重な時間を過ごしている。

 

その肥田さんは2017年に「100歳」で亡くなっているが、肥田さんの『広島の消えた日―被爆軍医の証言』は、今も記憶に鮮明だ。私が日本はまだ批准していない「核兵器禁止条約」に全面的に賛同している確信の大きなひとつが、この本の影響があるぐらいだ。それから80年後の2025年に米国大統領が<広島・長崎を引き合いに核施設への攻撃を正当化するとはー。

 

原発批判「鳥瞰図」のパブコメ作成

 冒頭で挙げたパブコメ本文の後段の大半はやはり脱原発市民団体「原発いらない栃木の会」がまとめたパブリック・コメントから転載している。起案は同会代表の大木一俊弁護士。確か日弁連(日本弁護士連合会)として、ドイツ事情の視察にも出向いている。優秀な弁護士だが、特に環境問題、原発問題については優れた知見を有している。

 私は脱原発のいわば全県的な組織であるこの「栃木の会」の理事も務めており、ほほ毎月1回、宇都宮で開かれる役員会にできる限り出席している。そのため、こうした起案の基本的な考え方については、大木弁護士と同様の姿勢なので、それを採り入れた。

 それにしても、まとめたのが提出期限ぎりぎりだった。書き始めたのは前日の夕方だったが、書き上げたのは翌日の午前4時ごろ。久しぶりに徹夜してしまった。だが、これまでの原発批判について、「見取り図」というか、「鳥瞰図」というか、「しっかり形にすることができたな」という思いがあり、大いに有意義だったと思っている。

 そんな内容でもあり、このパブリック・コメントを首都圏の脱原発団体で構成する「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」のメンバーにも読んでもらおうと、同会のML(メーリングリスト)にも「さよなら原発!日光の会」の会報「げんぱつニュース第52号」とともに送った。すると、ふだんからメールで連絡をとりあっている同会世話人の一人から内容を高く評価する感想が送られてきた。

 

ニュースレター「ピスカートル」にパブコメ要約版

 「冨岡さん、素晴らしいパブコメ及びさよなら原発!日光の会のニュースレターを送って頂きありがとうございます。両方とも素晴らしく読み応えがあり、コメントはいくらでもできそうですが、特にパブコメにおいては、最も指摘すべきことが多数書かれていて、また、一般の人が読んでもすぐに理解できるものとなっていて申し分ないです。

 このパブコメを読んでいて、『国民すべてがこのレベルでパブコメを書けたら本当に原発は全て廃炉になる!』とさえ思いました。逆に我々の運動は市民にこれくらいの論ができるようにすることを目的とし、目指していかなければいけないだよな!とも思いました。このような素晴らしいパブコメ、ニュースレターを作成したこと自体にもそうですが、そういった運動をされていることに敬意すら抱きました」。

 かなりしっかりしたパブコメだと思っていたが、ここまでの評価を受けるとまではー。そう思いながら、1月29日に以下のように返信した。

 「パブコメ、きちんと読んでいただきありがとうございます。それも『読み応えがあった』とお伝えいただき、少し無理して書き上げてよかったと思いました。ふだん考えている脱原発のことをパブコメにどう反映させられるか、という視点で書き上げたものです。それも「原発の最大限活用」に焦点を当てて。さらに展開するには「電力の需給増問題」、「原発のコスト」、「核燃サイクル」、「再生可能エネルギーと環境アセス」などがあります。それらも書き込もうと考えていましたが、焦点がぼけてしまう可能性があると思い、あえてそれらは取り上げませんでした」

 このやりとり前後して、「さよなら原発!日光の会」のパブコメについて、やはり「とめよう!東海第二原発 首都圏連絡会」の別の世話人から、「ニュースレター『ピスカートル』(発行元・「今、憲法を考える会」 連絡先・東京都新宿区西早稲田 キリスト事業所連帯合同労働組合気付)から転載依頼がお願いされている」というメールが入ってきた。ただし、誌面の都合からか、パブコメ全文ではなく、3200字の「要約版」でという注文がついていた。

 パブコメは世間に知ってもらう公的な意見なので、「要約版」といえど、転載は歓迎すべきこと。「ピスカートル」掲載は第74号(3月5日発行)ということだが、最近の掲載記事をチェックしてみたら、東海第二原発問題、沖縄、虐殺のガザ、関西生コン事件、陸上自衛隊訓練場問題など、硬派の話題でいっぱい。それもあり、すぐに転載快諾を返答した。

 その第74号はA4版12頁。トップ記事は「ガザ『停戦』とガザ『一掃』―ネタニヤフとトランプの狙いはなにかー」(早尾貴紀・東京経済大学教員)、さらに「私たちは呆れ果てても諦めないー子ども脱被ばく裁判上告棄却で総括集会―」(片岡輝美・子ども脱被ばく裁判の会共同代表)、「韓国クーデター(内乱)と日本の報道」(佐野通夫・東京純心大学)、「トランプの『乱心』と〈和平〉への道」(菅孝行)。いやはや硬派そのもののニュースレター。そこに「さよなら原発!日光の会」の第七次エネルギー基本計画案批判の要約版が名を連ねた。

 

 意思決定への市民参加を保障する「オーフス条約」

 と、まぁ、「第七次エネルギー基本計画案」に対する「さよなら原発!日光の会」のパブコメについてのてん末を記してきたが、原発回帰路線をさらに鮮明にさせる政策とあって、私たちのように全国からたくさんの意見が寄せられた。報道によると、その数、4万3千件以上。これまでのパブコメで最大規模、それも大半が反対意見だったという。

 ところが、この大量の投稿について、国側が「対策」を検討する旨の報道が相次いだ。「市民の意見を制限する方向の見直しを強く憂慮する」として、「オーフスネット」や私もネットでふだん情報提供を受けている「原子力市民委員会」や「ワタシノミライ」などの各NPOが5月13日に院内集会(衆議院第二議員会館第七会議室)で「政策決定プロセスに幅広い市民参加を」を開いた。そして「パブリック・コメントの制限ではなく、市民参加の機会の保障を」という「共同声明」を出している。

 このときの院内集会では、大阪大学の大久保規子教授が「政策決定プロセスへの市民参加を実現するための条件―オーフス条約を手がかりに」と題した講演をしている。主催者がアップしてくれたこのときの講演のレジュメはA4版16頁もある。

 このレジュメでも紹介されている「オーフス条約概要パンフレット」(A4版19頁、国連欧州経済委員会)によると、オーフス条約の締約国は、ヨーロッパ、コーカサス、中央アジアに及ぶ国々で、EUも条約に加盟している。「条約は、地域内を通じて関連する立法構造と実践影響を及ぼし、これを強化することによって、人々の健全な環境への権利を認めるための効果的なツールであることが証明されています。締約国は3年ごとに会合を開き、条約の実施状況を検討し、今後の作業計画をつくります」とある。

 

 というわけで、この共同声明の核となっているのは、原発政策などが典型だが、環境分野での市民参加を権利として保障する「オーフス条約」(「環境問題における情報へのアクセス、意思決定への市民参加及び司法へのアクセスに関する条約」)などをめぐる指摘だ。日本はまだ批准していない。今回、その「オーフス条約」も含めた共同声明の大事さを知った次第。今さらながら「浅学非才」について恥じ入ってもいるが。

 ウクライナ戦争、そして今回のアメリカのイラン核施設への空爆・攻撃から、これまで以上に「核」と「原発」がよりリアルな世界になっていることを伝えている。脱原発はこれを世界から遠ざけるための方策、政策、手段のひとつだが、今の原発・エネルギー政策についてのパブコメでは、「馬の耳に念仏」、いや、意見を承知しているが、あえて聞き流す「馬耳東風」的な性格になっている。それをくつがえす方法のひとつとして、日本はまだ批准していない「オーフス条約」という世界の取り決めがある。そんな大事な条約があることを遅ればせながら知ることができた。さぁ、今度はそれをどのような方法で具体化していけばいいのか。

 結びにその「市民参加の機会の保障を」という共同声明のポイントとなる部分を紹介したい。以下は「共同声明」から。

現在の日本においては、市民の参加権が保障されておらず、実効的な市民参加の仕組みがありません。そのために、市民は、政策について意見を伝えようと、パブリック・コメントの機会を利用しています。環境分野では、1992 年の国連環境開発会議(地球サミット)で採択された「環境と開発に関するリオ宣言」において環境問題の解決には市民参加が不可欠であることが確認され、第10 原則では「環境問題は、それぞれのレベルで、関心のある全ての市民が参加することにより最も適切に扱われる。」と述べられています。環境問題は地球規模の課題であり、問題を解決する政策を実現するためには、市民ひとりひとりが社会変革の必要性を理解し、自らの行動を変容させることが求められるからです。1998年には、国連欧州経済委員会(UNECE)のイニシアティブにより、市民参加を権利として保障するオーフス条約が採択されました。オーフス条約では、①情報アクセス、②意思決定への参加、③司法アクセスの三つの権利を市民の手続的権利として保障しています(了)。

 

2025年9月 3日 (水)

日本初のイコン画家になった女性   「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」

Photo_20250903235901 明治の初期、絵画を学びに帝政ロシアに渡った茨城県笠間市出身で日本で初めてロシア正教のイコン画(聖像画Photo_20250903234701 Photo_20250903234702 )を描いた画家 山下りん(1857~1939)を知らずにいましたー。今回、同人誌「序説第32号」(9月1日発行)で同人の磯山オサム君が地元の「偉人」、山下りんをエッセイ「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」で描いてみせてくれたので、知ることができた。作家・朝井まかてさんが山下りんを描いた歴史小説「白光」を出しているの知ったのもこのエッセイから。ネットで朝日新聞でも「朝井まかてさん」をとりあげていたのも知りました。その磯山オサム君の原稿を紹介してみたいー。私もまずは朝井まかての「白光」を読むことからー。

 

   桜町文庫の窓(6)

磯山オサム+ハル

 先駆ける魂・画家〈山下りん〉の生涯

 明治五年初夏、《明治の世にて、私も開化いたしたく候》の書置きを残し、十五歳の少女が家出をした。              

行く先は、江戸から名を変えたばかりの東京。絵を学び画家を目指すため、常陸国茨城郡笠間から四日を歩き通し、本所緑町の旧笠間藩下屋敷内の、親戚生沼家にたどり着いた。

時代はまだ戊辰戦争の終了(明治二年)から三年、廃藩置県は前年、明治激動の初頭。

 

 山下りんは、安政四年五月二二日(一八五七年六月一六日)常陸国笠間藩に生まれ、幼年期から庭の写生や錦絵などの模写を好んだ。本名は山下利ん。二一歳で洗礼を受け、ハリスト正教徒。聖名はイリナ。りんは、〈山下りんイリナ〉という洗礼名を気に入っていた。 

七歳のとき死去した父は、笠間藩士の重常、母は多免(ため)。石高と父の死から、家庭は裕福ではなかったと推測する。二三歳(明治十三年)、単身ロシアに留学。後に六十一歳で郷里に戻るまで、イコン画家として絵筆をとり続ける。

 

りんの家出は、数日後に兄の重房に笠間に連れ戻された。住まいのある五騎町では、その無鉄砲さが伝わった。当時の世相は、女性が意志を持ち絵師(画家)になることを理解しない。十五歳の娘が自分の思いのため、家出をすることは、さらに常道を超える行為とされる。しかし、翌年家人を説得し上京。十六歳のりんは、南画や浮世絵師などに師事した。

母と兄の上京の同意は、意志の固さと、幼馴染が嫁ぎ先の暮らしづらさから、何度も離縁を実父に頼み聞き入れられず、実家から嫁ぎ先への帰路、赤子ともに自死したことも影響している。

りんを主人公とした、朝井まかての小説『白光』には、《おなごは嫁いで子を産んで育てて、それしか生きる術がないのでしょうか。絵の道を志す心は、それほど道理を外しておりましょうか》と、上京の強い意志を語らせている。兄重房はりんを〈大無鉄砲者〉とし、《しかと、開化の道を行け》を、上京の言葉として書かれている。

 

明治六年、上京のりんは親戚生沼家より、浮世絵師国延の通い弟子となるが、絵が下手という理由でわずか四日で暇をもらっている。

 小田秀夫著『山下りん・信仰と肖像画に捧げた生涯』のなかで、小田はこれを《山下の描写力は確かに抜群であるから、この国延という人では不満であったろう》と述べている。

二人目の師は、役者絵で知られる浮世絵師の豊原国周。ここは住み込みの内弟子となり、同じ弟子にうとまれて退所。次は丸山派の月岡藍雪。内弟子とは名ばかりで、借金取りの対応から、内職の団扇の下絵書きまで行い、九カ月で退所した。いずれも短い期間としても、浮世絵・南画・丸山派と明治の初頭の絵画状況から、学ぶ方向は日本画。

 

 上京から二年(明治八年)、りんは南画師中丸清十郎につく。中丸清十郎(一八四〇~一八九五年)は、当初文人画を学んだ。後に石版や西洋画に移り、明治九年工部美術学校の一期生となった。高橋由一らと、日本初期の西洋画家として知られる。

 『白光』では、入門の面接の際《君は南画を学びたいのかい。それとも西洋画かい》と聞かれ落胆したように《先生は西洋画に転向なされたのですか》と尋ねている。

 明治初頭、西洋画は材料や技法もあまり知られていない。徳川幕府が、幕末安政三年(一八五七年)蕃所調所の画学局を作った。明治維新により研究は止まったが、幕府は西洋画法を学ぼうとしていた。これにより、高橋由一らを輩出しているが、四番目の師の中丸ですら、西洋画を学ぶため、教える傍ら工部美術学校に入校した。

 工部美術学校は、日本最初の公立美術教育機関。

 新政府が西欧文化に追いつくため、明治九年〈西洋美術教育〉のみを目的に開校され、

明治十六年(一八八三年)廃止された。その理由は時代が国粋的傾向になり、西洋美術の排斥があった。その六年後に開校の、東京芸大の前身〈東京美術学校〉は、当初日本画が中心、西洋美術は排され、女子の入学が許されたのは、戦後一九四五年になってから。

 

 中丸清一郎への師事が、山下りんの画家としての運命を変える。

 十八歳、入門の初め、りんは内弟子となった。内弟子は住まいを確保すること、家事を手伝い学費を節約。上京して二年、生活に困窮している。

明治十年、工部美術学校が女子の募集を始めることを、中丸から伝えられた。

明治新政府は、欧米の女子教育の水準を知り、工部美術学校以外にも公立・私立の女子学校を設立させている。

りんは毎月二円の学費の支払いが出来ないことを知りながら、絵師としての技量を試すために入試を受け合格。入学出来ないあまりの落胆が、旧笠間藩主〈牧野貞寧〉の耳に入る。笠間領内の優秀な者として、学費を牧野家が支援することになった。

上京から四年、明治十年(一八七七年)二十歳のりんは、日本初の女子美術学生となる。

この年工部美術学校の女子合格者は六名。あとから神中糸子が入学し、在校は七名。

横山由季子の『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』では、入学者七名のうち卒業生はない。生涯家庭に入らず画業に専心したのは、りんと神中糸子(一八六〇~一九四三年)の二人。

卒業生がないのは、当初の教授アントニオ・フォンタネージが帰国。次の教授の教育技量に反発、男子学生の多くが退学したと同時に、女子の学生も次々に退学したことによる。ここにも、明治の先進の女性達の気概が見える。

 神中糸子は、和歌山藩洋学教鞭方の父を持ち、美術学校中退後小山正太郎に学び、多くの作品を残す日本女流洋画家の先駆者。

 同じ入学に、山室政子がいる。

 政子(安政五年・一八五八~一九三六年)は、信州村田藩士を父に持ち、ハリストス正教会の神学校寄宿舎から通学。工部省工作局長、大島圭介の娘、大島雛。初代警視総監川路利良の娘、川路花子など、上流階級の子弟がいるなか、政子は小遣いも昼食もなく、片方ずつ拾った下駄で美術学校に通い、りんと同じ境遇。大島や川路の、上流階級の教養としての学びと離れている。政子は後に、石版画家として活躍した。

 

 りん二十一歳、美術学校在学中の明治十一年、日本ハリスト正教会の洗礼を受ける。山室政子の影響で教会に通っていたこと。教会が西洋文化の窓口になっていたことも理由のひとつ。すべてを学びにつなげる想いを想像する。

 日本ハリストス正教会は、神田駿河台の〈東京復活大聖堂〉通称ニコライ堂で知られてる。現在の建物は、関東大震災後に再建されたもの。歴史的には、東方教会やギリシャ正教の流れをもち、幕末函館で布教を始めた。東北各地を中心に教会を設立し、信者は、戊辰戦争を幕府側で戦った武士も多い。後に一部は自由民権運動と繋がり、宮城県金成正教会の信徒鈴木文治などは、労働運動の草分けとなった。

 りんは正教会で、東北訛りの日本語を話す、神父ニコライと出会う。美術学校の教授フォンタネージと同じくニコライからも多くの影響を受けた。

 フォンタネージはイタリアに生まれ五十八歳、王立美術学校の職からいわゆるお雇い外国人として来日した。

 大下智一の『山下りんー明治を生きたイコン画家』では、屋外でのデッサンの授業などを《一途に学んだりんの青春の軌跡・フォンタネージに学んだこの時期が、もしかしたら、最も充実していたのではないだろうか》としている。

 宣教師ニコライはロシア生まれ、文久元年(一八六一年)布教のため函館に着任。明治五年(一八七二)上京し後に駿河台に聖堂を建て、一生を伝道のため日本で過ごした。

明治太政官のキリスト教禁制の廃止は、明治六年二月のこと。

ニコライとの出会いもまた、りんの画業の方向をかえている。

 

明治十三年十月、りんは工部美術学校を退学する。フォンタネージの帰国後、後任の教授の力量不足に落胆したことが主で、経済的にも困窮があった。すでに山室政子と神中糸子は退学。りんは学校に残れば絵を描けると、助手として学費の免除をうけて学んでいた。

大下智一の『山下りん・・』では、この時期を《写生と内職のうちに不遇の日々を送っていたのだ》としている。

 

明治十三年十二月十一日、りんは横浜からロシアに向け船で出発する。

日本初の女子のロシア留学生。

西欧画とイコンを学ぶため、期間は五年。

朝井まかての『白光』は、《「お前さん、絵の勉強をしに行きなされ」・「いずこの学校でございますか」・「ロシアの都さ・サンクトペテルブルグ」・・・主教ニコライを見つめる、夕暮れの光と影がゆらいだ》の留学前のニコライとりんの会話がある。

ロシア語も話せない、二十三歳の女子画学生が、イコン画が主としても外国で絵を学ぶ

ために、翌年三月十日にペテルブルグの女子修道院に到着した。

行程の約三か月は、横浜から航路、香港・シンガポール・スエズ・黒海を経て一月三十日に船を降りオデッサに到着。その後汽車によりモスクワを経由して。船では、最下等の切符のため、部屋もなく廊下や船倉で寝ていたが、立ち寄る港や町に西洋文明を感じ、風景の美しさに驚き感動していた。

 

りんが二年間滞在していたのは、サンクト・ペテルブルグのノヴォジェーヴィチ復活女子修道院。修道女三百人、諸工女五百人と規模が大きく、イコン工房も備えていた。

この時代のロシアはクルミア戦争の敗北や社会主義の台頭で、政情は不安定。りんもまた西洋美術を学ぶと考えていたが、修道院内で、イコン画作成の修業となった。

 

りんが技法を学んだイコン画は、主にキリスト教で用いられ、正教会では総装的なものではなく聖なるもので、祈りの対象。カトリックでは聖像画。プロテスタントは偶像崇拝として、否定されている。構成は原則的には影を付けず、対象に立体感を持たせず平面的。主な画題は、聖人・天使・聖書のなかの出来事。イコン画を描くものは、正教の一員であり、神のために働く者とされている。イコン画と言えば、おもに正教のものを指す。

正教の伝統的画法は〈ギリシア画・ビザンチン様式〉。この時代、西欧化されたイコンは〈イタリア画・ルネッサンス様式〉を志向したが、りんが学ぶロシアでは、〈ギリシア画〉が復古していた。

工部美術学校でイタリア西欧画を学んでいたりんは、これを〈ヲバケ絵〉と呼んでいる。

留学中のりんは、女子修道院でのイコン画に疑問を持ち、修道女としての規律と、人間関係に悩んだ。海老沢小百合の『画執の人』

では《・・・数々の名画に接するうちに、りんは当初から違和感を抱いていた、伝統のイコンをなぞり描くことに段々と意欲が薄れてきた。イコンの領域を深めるには、あまたの宗教画の革新的な表現法を身につけたいとの思いがふつふつと湧いてくる。信仰はともかくとして画に関して、もはや妥協ができなくなってきたのだ》長い引用となったが、留学中の思いを適格に表している。

 ロシアに来て翌年、〈帝国美術アカデミー〉への入学許可の知らせが来る。りんは希望し、エルミタージュ美術館での模写を学びとしていたが、修道女としての規範を超えるとして、美術館への出入を止められた。

 

 明治十六年三月(一八八二年)二十六歳、留学を中断しドイツを経て、フランスのマルセイユから、航路コロンボ・香港を経由し帰国する。十六歳で上京したりんの、十年の学びの旅は激動。五年の留学期間を二年で戻ったことから、〈失意の帰国〉とされるが、明治の始まりに、直接西洋文化に触れたことは得難い体験。

 帰国後、神田駿河台の正教会内に住み、ロシア帝国美術アカデミーで学んだ銅版画の仕事なども行ない、正教会内のアトリエでイコン画の制作に従事した。

 イコン画は、作成者の署名がない。

りんの画も、自らのために描いた一点を除き無署名。

しかし、正教会の現在のホーム・ページには〈山下りんのイコン〉とあり、日本各地の正教会の名が掲げられ、りんのイコン画のリストがある。正教会のりんに対する心ある対応が伝わる。

 

司馬遼太郎『街道をゆく』は、週間朝日に長く連載された、著者代表作の一つ。三十三巻の『白河・会津のみち、赤坂散歩』に、『野バラの教会』と『山下りん』の項目がある。

『野バラの教会』は、白河旧城下を散策中に出会った「白河基督(ハリストス)正教会聖堂」と教会の成り立ちや建物の紹介。りんのロシア留学。正教会に掲げられている、イコン画の解説を中心に書かれている。

『山下りん』では、ロシア正教とイコン画やりんの生涯を記している。

この中で司馬遼太郎は、白河正教会のりんのイコン画を《ここでの山下りんのイコンは、形式からまったくはなれた一個の宗教的な油彩画としかおもえない。・・・たとえば、イコンの中のイエスは、エンピツのように細長いはなである。りんの場合、そういう基本型から外れまいとしているようだが、描法や構図はりんそのものである。・・・女子神学校の二階で、このようないわば自由なイコンを描きつづけた背景に、ニコライ主教がいたことを思えば、ニコライという人はよほどおおきな人物であったことがわかる》。長い引用だが、このようにりんのイコン画を評価している。

 りんはイコンの制作とともに、神学校ではロシア語やイコンの画法を、生徒に教えている。

 栃木県足利市出身の牧島如鳩(一八九二~一九七五年)は、明治四十一年神田ニコライ神学校に入学。りんよりイコン画法を学んだ生徒のひとり。牧島は正教会の伝道者で、イコン画と仏画を合わせた独特の画風の宗教画を描いた。白河教会に勤務し後年足利ハリストス正教会に戻った。足利教会の十点ほどのりんのイコン画は、市の重要文化財に指定されている。

 帰国後のりんは、札幌・一関・盛岡・白河など、各地に建てられる正教会のためのイコンの制作に費やす。各行政の多くが、足利市と同じく、山下りんのイコンを文化財などに指定している。

 

 明治二十二年、上京より十六年。りん(三十二歳)は、初めて帰省をしている。東北本線より水戸線の開通がありこれを利用した。小田秀夫の書によると、この時の詳細な記録はなく、《筑波山に登り、大洗に遊んだ》とされている。ある期間の滞在と想像するが、郷里を出ての波乱をどのように振り返ったのだろうか。

 明治二十四年、工部大学校の教授として来日し、三菱一号館などの設計を手掛けたジョサイヤ・コンドルの実施設計にによって、神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。当初のイコンはペテルブルグ在住の画家によるもの。後年りんも九点のイコンを描き、終生の仕事のひとつとなる。

 もう七・八年前になるだろうか、神田のニコライ堂を訪ねた。受付で拝観料を払うと聖堂に入ることが出来る。案内のかたに「山下りんのファンで笠間から来た」と告げると、入場制限の場を超えて見学させてくれた。ところが別のシスターが来て、「この部屋にはりんのイコンはないので退室」と告げられた。この時は、なんと話の分からない人と思い、ニコライ堂を後にした。

 今回この『窓』を書くため資料を読むと、

シスターの言葉が、正しかったと理解した。

 大正十二年(一九二三)、関東大震災により、ニコライ堂の一部が被災。りんのイコンも数点を残し消失している。この年にはすでに帰省をしているので、修復や再度の作画はない。

自分の知識の浅さを知った。

 

 明治四十五年、ニコライ大主教が永眠。明治天皇も亡くなり、日清戦争・日露戦争を過ぎ時代は大正と変わる。

 明治期の、りんのエピソードの幾つか。

 明治二十一年(三十一歳)、神中糸子と箱根

にスケッチ旅行に行く。

 二十四年、来日するロシア皇太子に献上するイコン画を描くが、皇太子を襲撃する大津事件となる。

 三十六年、イコン補修のため京都正教会へ行き、大阪・京都を二か月ほど巡る。

 四十二年、木村香雨に師事、南画を学ぶ。

 

 大正七年(一九一八)、六十一歳のりんは故郷の笠間に帰る。

 白内障により、イコンを描くことが難しくなったのが主な理由だが、ロシア革命による政情不安定もそのひとつ。ロシア本国の正教会は迫害を受け、経済的支援のない国内の正教会も困窮した。日露戦争に続きロシア革命で、正教会を見る人々の眼にも変化があった。

 笠間に戻ったりんは、養子に出ていた弟小田峯次郎を頼った。正教会からの年金と幾分かの蓄えで、会う人もなく自然を相手に暮らし、夕方になると二合の酒を買いに行った。

 日本で初の女子美術教育を受け、初めてのロシア留学生となったことなど、人に伝えれば多くのエピソードがあるにもかかわらず、りんは語たらない。机の上には大きな絵筆を置いたが、絵を描くこともなかった。

女子美術教育に長く携わった、工部美術学校の同窓の神中糸子もまた同様。六十四歳で

福岡に渡ると、絵筆を取らず短歌をたしなんだ。二人の晩年は、〈力を尽くしたあとの余生〉を感じさせる

 昭和十一年(一九三六)ふだん来客のないりんに、後の日本画家海老沢東丘(一九〇五~一九九五年)が、教えを乞うために訪ねてきた。当初は断ったが、画材やこれまでのデッサンなどを与え、絵画の心を伝えた。

 東丘を義父に持つ海老沢小百合の書では、このあたりを《ぽつりぽつりと静かに語られる一言一句に、東丘のなかで頑なに結んだ芯がゆっくりと溶けていくようだった》と記している。

 

 江戸の末期から、昭和は地続き。

 安政四年に生まれたりんは、昭和十四年まで生きた。同じく神中糸子も、万延元年に生まれ昭和十八年まで生きた。

 ともに惜しみなく学び、自らの絵を描き尽くした。

 イコン画家を辞めた後のりんは、郷里で二十年を過ごし、八十三歳で死した。私は、この沈黙する二十年間の姿勢が好きだ。晩年を過ごした小田家の敷地内に、記念館《白凛居》が建つ。その小さな佇まいは、りんの生涯の姿にふさわしい。

 

りんにはイコン画家との冠がある。平面に頼るイコンから少し出て、柔らかな人物表現を持つ、確かな独自のイコンを創造した。しかし残された絵画・図版などから、あえて〈画家山下りん〉と称したい。

ロシア留学時に作品を模写して学んだ、ペテルブルグのエルミタージ美術館。そこにロシア皇太子に贈ったイコン画『ハリストス復活』が、皇太子の遺品として残されている。

西洋絵画への唯一の道と希望であった美術館に、枠に金の蒔絵が施された、りんのイコン画が保存されているという。

 

  文庫の窓(参考資料)

1 『白光』 二〇二四年・文春文庫 著者

 朝井まかて。一九五九年大阪生まれ。二〇一四年『恋歌』で直木賞。本書は山下りんの生涯を書く、文庫本文五六一ページの長編

2 『山下りん・信仰と聖像画に捧げた生涯』

 一九八〇年・筑波書林(ふるさと文庫) 著者 小田秀夫。一九一一年茨城県笠間市生まれ。著者はりんの弟小田峯次郎の孫にあたる。書はりんの生涯を記した、ドキュメントと言えるもの。個人年表と、多くのエピソードを参考にした。

3 『山下りん』 一九八二年・㈱日動出版部 著者 小田秀夫。前書と同様山下りんを主題とするが、本書はエルミタージュ美術館など、りんを巡る旅を添えている。小田の書が〈山下りん〉の存在を世に伝えたと言える。

4 『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』 二〇二四年 記事 著者 横山由紀子。一九八四生まれ、東京国立近代美術館研究員。明治初期工部美術学校で学んだ、女性徒たちの記録。記事の初頭に〈美術学校の女性徒たち〉という、山下りん・神中糸子・山室政子など六人の生徒と、フォンタネージ教授の集合写真が掲載。カメラを見る、当時の生徒達の視線の凛々しさ。 

5 『山下りん・明治を生きたイコン画家』

 二〇〇四年北海道新聞・ミュージアム新書24 著者大下智一。 一九六七年函館市生まれ、道立近代美術館学芸員。評伝にとどまらず、北海道正教会にある、りんのイコンの報告なども記載。イコン画に関する部分を、多く参考にした。

6 『画執の人 山下りん・木村武山と海老沢東丘』 二〇一九年㈱六輝社 著者海老沢小百合。一九四七年熊本生まれ、イラストレーター。晩年の笠間における、りんの唯一の弟子といえる東丘の義娘。評伝と共に、笠間に戻った後の記述が詳しい。東丘に託された、りんのデッサンなどの図版が多数記載されている。

7 『街道をゆく㉝白河・会津のみち、赤坂散歩』 二〇二四年朝日新聞出版・朝日文庫 

 著者 司馬遼太郎(一九二三~一九九六年)大阪市生まれ、産経新聞記者を経て歴史小説や紀行文で人気作家に。『梟の巣城』で直木賞。三十三巻も〇九年に出版以来、7刷りを重ねるベストセラー。項目『野ばらの教会』は主に白河基督(ハリスト)正教会聖堂と山下りんの歴史。項目『山下りん』は、ロシアや正教とイコン画についてが多く記載されている。記事の取材のために、司馬は笠間市内の〈白凛居〉を訪れている。項目『幕末の会津藩』は、会津攻めの官軍の無慈悲を問う。会津愛にあふれる。

 ハルは長毛種の十五歳のネコ(女子)。お手伝いをすると言い、カウンターのうえで正座をしています。

 

2025年9月 2日 (火)

勝手にふるいにかけられるのは、まっぴらだ。    結語がいい9月2日の「天声人語」

Photo_20250902223401 勝手にふるいにかけられのは、まっぴらだ。この結語が光る本日、9月2日(火)の「天声人語」」(朝日新聞)ー。関東大震災と朝鮮人、そして先の参院選について。矛先はちょっと異質な存在へ、その危うさに他対する警告がいい。(以下は本日9月2日の天声人語の転記です)

沖縄出身の歴史家、比嘉春潮(ひがしゅんちょう)氏はその夜、寝入りばなを自警団にたたき起こされた。1923年、関東大震災の数日後の東京である。「朝鮮人だろう」。いいや。「ことばが少しちがうぞ」。問答を繰り返すうちに、腰に刀をさした男が怒鳴った。「面倒くさい。やっちまえ」▼逃れた様子も含めて『沖縄の歳月』で振り返っている。比嘉氏は、まだしも幸運だった。震災で広がった流言を信じた人々は、多くの朝鮮人や中国人に加えて日本人も殺傷した。千葉では秋田などの地方出身者が、東京ではろう者が殺されている。その数は89人と当時の司法省はまとめている▼言葉があやしい、態度がおかしいと線引きし、うむを言わせない。矛を向けた先はちょっと異質とされた存在であり、その典型が当時は朝鮮人であったのだろう。「不安」と「正義感」に駆られた群衆の恐ろしさである。では、いまはどうか▼先の参院選では、外国人を排斥する言葉がSNSで飛び交った。根拠のない情報が真実かのように伝播(でんぱ)された。100年前と同じように、そうしたことがまかりとおる社会なら、ことはそれでとどまるまい▼参院選の最終日。参政党の神谷宗幣代表は、子供が誇りをもてるような国にしたいと演説し、こう続けた。「それに反対する人は日本人だったらいないはずだ。嫌がるのは、日本を潰したい人たちですよ」▼どんな国を誇らしいと思うのか。誇りに思わねばいけないのか。勝手にふるいにかけられるのは、まっぴらだ。

 

2025年9月 1日 (月)

「戦前日本」の本当の姿とは・・・・  『戦前の正体』(講談社現代新書)を読みます

Photo_20250901213301 これは読みたいかも。同人誌仲間が推していた講談社現代新書。「戦前の正体」。今夜、思わずネット「本タウン」に注文しました。

神話に支えられた「大日本帝国」の真実。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは。

第1章 古代日本を取り戻す―明治維新と神武天皇リバイバル
第2章 特別な国であるべし―憲法と道徳は天照大神より
第3章 三韓征伐を再現せよ―神裔たちの日清・日露戦争
第4章 天皇は万国の大君である―天地開闢から世界征服へ
第5章 米英を撃ちてし止まむ―八紘一宇と大東亜戦争
第6章 教養としての戦前―新しい国民的物語のために

[日販商品データベースより]
【新書大賞2024 第7位!】
「わかりやすい」「読みやすい」と話題沸騰のベストセラー!!

神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。
右派が誇り、左派が恐れる「戦前日本」の本当の姿とは?
「国威発揚」の物語を検証するーー!

「筆者はここで、同じく昨年、凶弾に斃れた安倍元首相が唱えた「日本を取り戻す」「美しい国」というスローガンを思い出さずにはおれない。それはときに戦前回帰的だといわれた。
 だが、本当にそうだっただろうか。靖国神社に参拝しながら、東京五輪、大阪万博を招聘し、「三丁目の夕日」を理想として語るーー。そこで取り戻すべきだとされた「美しい国」とは、戦前そのものではなく、都合のよさそうな部分を適当に寄せ集めた、戦前・戦 後の奇妙なキメラではなかったか。
 今日よく言われる戦前もこれとよく似ている。その実態は、しばしば左派が政権を批判 するために日本の暗黒部分をことさらにかき集めて煮詰めたものだった。
 つまり「美しい国」と「戦前」は、ともに実際の戦前とはかけ離れた虚像であり、現在の右派・左派にとって使い勝手のいい願望の産物だったのである。(中略)
 このような状態を脱するためには、だれかれ問わず、戦前をまずしっかり知らなければならない。」 (「はじめに」より)





 

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