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2025年9月 3日 (水)

日本初のイコン画家になった女性   「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」

Photo_20250903235901 明治の初期、絵画を学びに帝政ロシアに渡った茨城県笠間市出身で日本で初めてロシア正教のイコン画(聖像画Photo_20250903234701 Photo_20250903234702 )を描いた画家 山下りん(1857~1939)を知らずにいましたー。今回、同人誌「序説第32号」(9月1日発行)で同人の磯山オサム君が地元の「偉人」、山下りんをエッセイ「先駆ける魂・画家<山下りん>の生涯」で描いてみせてくれたので、知ることができた。作家・朝井まかてさんが山下りんを描いた歴史小説「白光」を出しているの知ったのもこのエッセイから。ネットで朝日新聞でも「朝井まかてさん」をとりあげていたのも知りました。その磯山オサム君の原稿を紹介してみたいー。私もまずは朝井まかての「白光」を読むことからー。

 

   桜町文庫の窓(6)

磯山オサム+ハル

 先駆ける魂・画家〈山下りん〉の生涯

 明治五年初夏、《明治の世にて、私も開化いたしたく候》の書置きを残し、十五歳の少女が家出をした。              

行く先は、江戸から名を変えたばかりの東京。絵を学び画家を目指すため、常陸国茨城郡笠間から四日を歩き通し、本所緑町の旧笠間藩下屋敷内の、親戚生沼家にたどり着いた。

時代はまだ戊辰戦争の終了(明治二年)から三年、廃藩置県は前年、明治激動の初頭。

 

 山下りんは、安政四年五月二二日(一八五七年六月一六日)常陸国笠間藩に生まれ、幼年期から庭の写生や錦絵などの模写を好んだ。本名は山下利ん。二一歳で洗礼を受け、ハリスト正教徒。聖名はイリナ。りんは、〈山下りんイリナ〉という洗礼名を気に入っていた。 

七歳のとき死去した父は、笠間藩士の重常、母は多免(ため)。石高と父の死から、家庭は裕福ではなかったと推測する。二三歳(明治十三年)、単身ロシアに留学。後に六十一歳で郷里に戻るまで、イコン画家として絵筆をとり続ける。

 

りんの家出は、数日後に兄の重房に笠間に連れ戻された。住まいのある五騎町では、その無鉄砲さが伝わった。当時の世相は、女性が意志を持ち絵師(画家)になることを理解しない。十五歳の娘が自分の思いのため、家出をすることは、さらに常道を超える行為とされる。しかし、翌年家人を説得し上京。十六歳のりんは、南画や浮世絵師などに師事した。

母と兄の上京の同意は、意志の固さと、幼馴染が嫁ぎ先の暮らしづらさから、何度も離縁を実父に頼み聞き入れられず、実家から嫁ぎ先への帰路、赤子ともに自死したことも影響している。

りんを主人公とした、朝井まかての小説『白光』には、《おなごは嫁いで子を産んで育てて、それしか生きる術がないのでしょうか。絵の道を志す心は、それほど道理を外しておりましょうか》と、上京の強い意志を語らせている。兄重房はりんを〈大無鉄砲者〉とし、《しかと、開化の道を行け》を、上京の言葉として書かれている。

 

明治六年、上京のりんは親戚生沼家より、浮世絵師国延の通い弟子となるが、絵が下手という理由でわずか四日で暇をもらっている。

 小田秀夫著『山下りん・信仰と肖像画に捧げた生涯』のなかで、小田はこれを《山下の描写力は確かに抜群であるから、この国延という人では不満であったろう》と述べている。

二人目の師は、役者絵で知られる浮世絵師の豊原国周。ここは住み込みの内弟子となり、同じ弟子にうとまれて退所。次は丸山派の月岡藍雪。内弟子とは名ばかりで、借金取りの対応から、内職の団扇の下絵書きまで行い、九カ月で退所した。いずれも短い期間としても、浮世絵・南画・丸山派と明治の初頭の絵画状況から、学ぶ方向は日本画。

 

 上京から二年(明治八年)、りんは南画師中丸清十郎につく。中丸清十郎(一八四〇~一八九五年)は、当初文人画を学んだ。後に石版や西洋画に移り、明治九年工部美術学校の一期生となった。高橋由一らと、日本初期の西洋画家として知られる。

 『白光』では、入門の面接の際《君は南画を学びたいのかい。それとも西洋画かい》と聞かれ落胆したように《先生は西洋画に転向なされたのですか》と尋ねている。

 明治初頭、西洋画は材料や技法もあまり知られていない。徳川幕府が、幕末安政三年(一八五七年)蕃所調所の画学局を作った。明治維新により研究は止まったが、幕府は西洋画法を学ぼうとしていた。これにより、高橋由一らを輩出しているが、四番目の師の中丸ですら、西洋画を学ぶため、教える傍ら工部美術学校に入校した。

 工部美術学校は、日本最初の公立美術教育機関。

 新政府が西欧文化に追いつくため、明治九年〈西洋美術教育〉のみを目的に開校され、

明治十六年(一八八三年)廃止された。その理由は時代が国粋的傾向になり、西洋美術の排斥があった。その六年後に開校の、東京芸大の前身〈東京美術学校〉は、当初日本画が中心、西洋美術は排され、女子の入学が許されたのは、戦後一九四五年になってから。

 

 中丸清一郎への師事が、山下りんの画家としての運命を変える。

 十八歳、入門の初め、りんは内弟子となった。内弟子は住まいを確保すること、家事を手伝い学費を節約。上京して二年、生活に困窮している。

明治十年、工部美術学校が女子の募集を始めることを、中丸から伝えられた。

明治新政府は、欧米の女子教育の水準を知り、工部美術学校以外にも公立・私立の女子学校を設立させている。

りんは毎月二円の学費の支払いが出来ないことを知りながら、絵師としての技量を試すために入試を受け合格。入学出来ないあまりの落胆が、旧笠間藩主〈牧野貞寧〉の耳に入る。笠間領内の優秀な者として、学費を牧野家が支援することになった。

上京から四年、明治十年(一八七七年)二十歳のりんは、日本初の女子美術学生となる。

この年工部美術学校の女子合格者は六名。あとから神中糸子が入学し、在校は七名。

横山由季子の『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』では、入学者七名のうち卒業生はない。生涯家庭に入らず画業に専心したのは、りんと神中糸子(一八六〇~一九四三年)の二人。

卒業生がないのは、当初の教授アントニオ・フォンタネージが帰国。次の教授の教育技量に反発、男子学生の多くが退学したと同時に、女子の学生も次々に退学したことによる。ここにも、明治の先進の女性達の気概が見える。

 神中糸子は、和歌山藩洋学教鞭方の父を持ち、美術学校中退後小山正太郎に学び、多くの作品を残す日本女流洋画家の先駆者。

 同じ入学に、山室政子がいる。

 政子(安政五年・一八五八~一九三六年)は、信州村田藩士を父に持ち、ハリストス正教会の神学校寄宿舎から通学。工部省工作局長、大島圭介の娘、大島雛。初代警視総監川路利良の娘、川路花子など、上流階級の子弟がいるなか、政子は小遣いも昼食もなく、片方ずつ拾った下駄で美術学校に通い、りんと同じ境遇。大島や川路の、上流階級の教養としての学びと離れている。政子は後に、石版画家として活躍した。

 

 りん二十一歳、美術学校在学中の明治十一年、日本ハリスト正教会の洗礼を受ける。山室政子の影響で教会に通っていたこと。教会が西洋文化の窓口になっていたことも理由のひとつ。すべてを学びにつなげる想いを想像する。

 日本ハリストス正教会は、神田駿河台の〈東京復活大聖堂〉通称ニコライ堂で知られてる。現在の建物は、関東大震災後に再建されたもの。歴史的には、東方教会やギリシャ正教の流れをもち、幕末函館で布教を始めた。東北各地を中心に教会を設立し、信者は、戊辰戦争を幕府側で戦った武士も多い。後に一部は自由民権運動と繋がり、宮城県金成正教会の信徒鈴木文治などは、労働運動の草分けとなった。

 りんは正教会で、東北訛りの日本語を話す、神父ニコライと出会う。美術学校の教授フォンタネージと同じくニコライからも多くの影響を受けた。

 フォンタネージはイタリアに生まれ五十八歳、王立美術学校の職からいわゆるお雇い外国人として来日した。

 大下智一の『山下りんー明治を生きたイコン画家』では、屋外でのデッサンの授業などを《一途に学んだりんの青春の軌跡・フォンタネージに学んだこの時期が、もしかしたら、最も充実していたのではないだろうか》としている。

 宣教師ニコライはロシア生まれ、文久元年(一八六一年)布教のため函館に着任。明治五年(一八七二)上京し後に駿河台に聖堂を建て、一生を伝道のため日本で過ごした。

明治太政官のキリスト教禁制の廃止は、明治六年二月のこと。

ニコライとの出会いもまた、りんの画業の方向をかえている。

 

明治十三年十月、りんは工部美術学校を退学する。フォンタネージの帰国後、後任の教授の力量不足に落胆したことが主で、経済的にも困窮があった。すでに山室政子と神中糸子は退学。りんは学校に残れば絵を描けると、助手として学費の免除をうけて学んでいた。

大下智一の『山下りん・・』では、この時期を《写生と内職のうちに不遇の日々を送っていたのだ》としている。

 

明治十三年十二月十一日、りんは横浜からロシアに向け船で出発する。

日本初の女子のロシア留学生。

西欧画とイコンを学ぶため、期間は五年。

朝井まかての『白光』は、《「お前さん、絵の勉強をしに行きなされ」・「いずこの学校でございますか」・「ロシアの都さ・サンクトペテルブルグ」・・・主教ニコライを見つめる、夕暮れの光と影がゆらいだ》の留学前のニコライとりんの会話がある。

ロシア語も話せない、二十三歳の女子画学生が、イコン画が主としても外国で絵を学ぶ

ために、翌年三月十日にペテルブルグの女子修道院に到着した。

行程の約三か月は、横浜から航路、香港・シンガポール・スエズ・黒海を経て一月三十日に船を降りオデッサに到着。その後汽車によりモスクワを経由して。船では、最下等の切符のため、部屋もなく廊下や船倉で寝ていたが、立ち寄る港や町に西洋文明を感じ、風景の美しさに驚き感動していた。

 

りんが二年間滞在していたのは、サンクト・ペテルブルグのノヴォジェーヴィチ復活女子修道院。修道女三百人、諸工女五百人と規模が大きく、イコン工房も備えていた。

この時代のロシアはクルミア戦争の敗北や社会主義の台頭で、政情は不安定。りんもまた西洋美術を学ぶと考えていたが、修道院内で、イコン画作成の修業となった。

 

りんが技法を学んだイコン画は、主にキリスト教で用いられ、正教会では総装的なものではなく聖なるもので、祈りの対象。カトリックでは聖像画。プロテスタントは偶像崇拝として、否定されている。構成は原則的には影を付けず、対象に立体感を持たせず平面的。主な画題は、聖人・天使・聖書のなかの出来事。イコン画を描くものは、正教の一員であり、神のために働く者とされている。イコン画と言えば、おもに正教のものを指す。

正教の伝統的画法は〈ギリシア画・ビザンチン様式〉。この時代、西欧化されたイコンは〈イタリア画・ルネッサンス様式〉を志向したが、りんが学ぶロシアでは、〈ギリシア画〉が復古していた。

工部美術学校でイタリア西欧画を学んでいたりんは、これを〈ヲバケ絵〉と呼んでいる。

留学中のりんは、女子修道院でのイコン画に疑問を持ち、修道女としての規律と、人間関係に悩んだ。海老沢小百合の『画執の人』

では《・・・数々の名画に接するうちに、りんは当初から違和感を抱いていた、伝統のイコンをなぞり描くことに段々と意欲が薄れてきた。イコンの領域を深めるには、あまたの宗教画の革新的な表現法を身につけたいとの思いがふつふつと湧いてくる。信仰はともかくとして画に関して、もはや妥協ができなくなってきたのだ》長い引用となったが、留学中の思いを適格に表している。

 ロシアに来て翌年、〈帝国美術アカデミー〉への入学許可の知らせが来る。りんは希望し、エルミタージュ美術館での模写を学びとしていたが、修道女としての規範を超えるとして、美術館への出入を止められた。

 

 明治十六年三月(一八八二年)二十六歳、留学を中断しドイツを経て、フランスのマルセイユから、航路コロンボ・香港を経由し帰国する。十六歳で上京したりんの、十年の学びの旅は激動。五年の留学期間を二年で戻ったことから、〈失意の帰国〉とされるが、明治の始まりに、直接西洋文化に触れたことは得難い体験。

 帰国後、神田駿河台の正教会内に住み、ロシア帝国美術アカデミーで学んだ銅版画の仕事なども行ない、正教会内のアトリエでイコン画の制作に従事した。

 イコン画は、作成者の署名がない。

りんの画も、自らのために描いた一点を除き無署名。

しかし、正教会の現在のホーム・ページには〈山下りんのイコン〉とあり、日本各地の正教会の名が掲げられ、りんのイコン画のリストがある。正教会のりんに対する心ある対応が伝わる。

 

司馬遼太郎『街道をゆく』は、週間朝日に長く連載された、著者代表作の一つ。三十三巻の『白河・会津のみち、赤坂散歩』に、『野バラの教会』と『山下りん』の項目がある。

『野バラの教会』は、白河旧城下を散策中に出会った「白河基督(ハリストス)正教会聖堂」と教会の成り立ちや建物の紹介。りんのロシア留学。正教会に掲げられている、イコン画の解説を中心に書かれている。

『山下りん』では、ロシア正教とイコン画やりんの生涯を記している。

この中で司馬遼太郎は、白河正教会のりんのイコン画を《ここでの山下りんのイコンは、形式からまったくはなれた一個の宗教的な油彩画としかおもえない。・・・たとえば、イコンの中のイエスは、エンピツのように細長いはなである。りんの場合、そういう基本型から外れまいとしているようだが、描法や構図はりんそのものである。・・・女子神学校の二階で、このようないわば自由なイコンを描きつづけた背景に、ニコライ主教がいたことを思えば、ニコライという人はよほどおおきな人物であったことがわかる》。長い引用だが、このようにりんのイコン画を評価している。

 りんはイコンの制作とともに、神学校ではロシア語やイコンの画法を、生徒に教えている。

 栃木県足利市出身の牧島如鳩(一八九二~一九七五年)は、明治四十一年神田ニコライ神学校に入学。りんよりイコン画法を学んだ生徒のひとり。牧島は正教会の伝道者で、イコン画と仏画を合わせた独特の画風の宗教画を描いた。白河教会に勤務し後年足利ハリストス正教会に戻った。足利教会の十点ほどのりんのイコン画は、市の重要文化財に指定されている。

 帰国後のりんは、札幌・一関・盛岡・白河など、各地に建てられる正教会のためのイコンの制作に費やす。各行政の多くが、足利市と同じく、山下りんのイコンを文化財などに指定している。

 

 明治二十二年、上京より十六年。りん(三十二歳)は、初めて帰省をしている。東北本線より水戸線の開通がありこれを利用した。小田秀夫の書によると、この時の詳細な記録はなく、《筑波山に登り、大洗に遊んだ》とされている。ある期間の滞在と想像するが、郷里を出ての波乱をどのように振り返ったのだろうか。

 明治二十四年、工部大学校の教授として来日し、三菱一号館などの設計を手掛けたジョサイヤ・コンドルの実施設計にによって、神田の東京復活大聖堂(ニコライ堂)が竣工する。当初のイコンはペテルブルグ在住の画家によるもの。後年りんも九点のイコンを描き、終生の仕事のひとつとなる。

 もう七・八年前になるだろうか、神田のニコライ堂を訪ねた。受付で拝観料を払うと聖堂に入ることが出来る。案内のかたに「山下りんのファンで笠間から来た」と告げると、入場制限の場を超えて見学させてくれた。ところが別のシスターが来て、「この部屋にはりんのイコンはないので退室」と告げられた。この時は、なんと話の分からない人と思い、ニコライ堂を後にした。

 今回この『窓』を書くため資料を読むと、

シスターの言葉が、正しかったと理解した。

 大正十二年(一九二三)、関東大震災により、ニコライ堂の一部が被災。りんのイコンも数点を残し消失している。この年にはすでに帰省をしているので、修復や再度の作画はない。

自分の知識の浅さを知った。

 

 明治四十五年、ニコライ大主教が永眠。明治天皇も亡くなり、日清戦争・日露戦争を過ぎ時代は大正と変わる。

 明治期の、りんのエピソードの幾つか。

 明治二十一年(三十一歳)、神中糸子と箱根

にスケッチ旅行に行く。

 二十四年、来日するロシア皇太子に献上するイコン画を描くが、皇太子を襲撃する大津事件となる。

 三十六年、イコン補修のため京都正教会へ行き、大阪・京都を二か月ほど巡る。

 四十二年、木村香雨に師事、南画を学ぶ。

 

 大正七年(一九一八)、六十一歳のりんは故郷の笠間に帰る。

 白内障により、イコンを描くことが難しくなったのが主な理由だが、ロシア革命による政情不安定もそのひとつ。ロシア本国の正教会は迫害を受け、経済的支援のない国内の正教会も困窮した。日露戦争に続きロシア革命で、正教会を見る人々の眼にも変化があった。

 笠間に戻ったりんは、養子に出ていた弟小田峯次郎を頼った。正教会からの年金と幾分かの蓄えで、会う人もなく自然を相手に暮らし、夕方になると二合の酒を買いに行った。

 日本で初の女子美術教育を受け、初めてのロシア留学生となったことなど、人に伝えれば多くのエピソードがあるにもかかわらず、りんは語たらない。机の上には大きな絵筆を置いたが、絵を描くこともなかった。

女子美術教育に長く携わった、工部美術学校の同窓の神中糸子もまた同様。六十四歳で

福岡に渡ると、絵筆を取らず短歌をたしなんだ。二人の晩年は、〈力を尽くしたあとの余生〉を感じさせる

 昭和十一年(一九三六)ふだん来客のないりんに、後の日本画家海老沢東丘(一九〇五~一九九五年)が、教えを乞うために訪ねてきた。当初は断ったが、画材やこれまでのデッサンなどを与え、絵画の心を伝えた。

 東丘を義父に持つ海老沢小百合の書では、このあたりを《ぽつりぽつりと静かに語られる一言一句に、東丘のなかで頑なに結んだ芯がゆっくりと溶けていくようだった》と記している。

 

 江戸の末期から、昭和は地続き。

 安政四年に生まれたりんは、昭和十四年まで生きた。同じく神中糸子も、万延元年に生まれ昭和十八年まで生きた。

 ともに惜しみなく学び、自らの絵を描き尽くした。

 イコン画家を辞めた後のりんは、郷里で二十年を過ごし、八十三歳で死した。私は、この沈黙する二十年間の姿勢が好きだ。晩年を過ごした小田家の敷地内に、記念館《白凛居》が建つ。その小さな佇まいは、りんの生涯の姿にふさわしい。

 

りんにはイコン画家との冠がある。平面に頼るイコンから少し出て、柔らかな人物表現を持つ、確かな独自のイコンを創造した。しかし残された絵画・図版などから、あえて〈画家山下りん〉と称したい。

ロシア留学時に作品を模写して学んだ、ペテルブルグのエルミタージ美術館。そこにロシア皇太子に贈ったイコン画『ハリストス復活』が、皇太子の遺品として残されている。

西洋絵画への唯一の道と希望であった美術館に、枠に金の蒔絵が施された、りんのイコン画が保存されているという。

 

  文庫の窓(参考資料)

1 『白光』 二〇二四年・文春文庫 著者

 朝井まかて。一九五九年大阪生まれ。二〇一四年『恋歌』で直木賞。本書は山下りんの生涯を書く、文庫本文五六一ページの長編

2 『山下りん・信仰と聖像画に捧げた生涯』

 一九八〇年・筑波書林(ふるさと文庫) 著者 小田秀夫。一九一一年茨城県笠間市生まれ。著者はりんの弟小田峯次郎の孫にあたる。書はりんの生涯を記した、ドキュメントと言えるもの。個人年表と、多くのエピソードを参考にした。

3 『山下りん』 一九八二年・㈱日動出版部 著者 小田秀夫。前書と同様山下りんを主題とするが、本書はエルミタージュ美術館など、りんを巡る旅を添えている。小田の書が〈山下りん〉の存在を世に伝えたと言える。

4 『日本における洋画の歴史と明治から戦前にかけての女性洋画家たち』 二〇二四年 記事 著者 横山由紀子。一九八四生まれ、東京国立近代美術館研究員。明治初期工部美術学校で学んだ、女性徒たちの記録。記事の初頭に〈美術学校の女性徒たち〉という、山下りん・神中糸子・山室政子など六人の生徒と、フォンタネージ教授の集合写真が掲載。カメラを見る、当時の生徒達の視線の凛々しさ。 

5 『山下りん・明治を生きたイコン画家』

 二〇〇四年北海道新聞・ミュージアム新書24 著者大下智一。 一九六七年函館市生まれ、道立近代美術館学芸員。評伝にとどまらず、北海道正教会にある、りんのイコンの報告なども記載。イコン画に関する部分を、多く参考にした。

6 『画執の人 山下りん・木村武山と海老沢東丘』 二〇一九年㈱六輝社 著者海老沢小百合。一九四七年熊本生まれ、イラストレーター。晩年の笠間における、りんの唯一の弟子といえる東丘の義娘。評伝と共に、笠間に戻った後の記述が詳しい。東丘に託された、りんのデッサンなどの図版が多数記載されている。

7 『街道をゆく㉝白河・会津のみち、赤坂散歩』 二〇二四年朝日新聞出版・朝日文庫 

 著者 司馬遼太郎(一九二三~一九九六年)大阪市生まれ、産経新聞記者を経て歴史小説や紀行文で人気作家に。『梟の巣城』で直木賞。三十三巻も〇九年に出版以来、7刷りを重ねるベストセラー。項目『野ばらの教会』は主に白河基督(ハリスト)正教会聖堂と山下りんの歴史。項目『山下りん』は、ロシアや正教とイコン画についてが多く記載されている。記事の取材のために、司馬は笠間市内の〈白凛居〉を訪れている。項目『幕末の会津藩』は、会津攻めの官軍の無慈悲を問う。会津愛にあふれる。

 ハルは長毛種の十五歳のネコ(女子)。お手伝いをすると言い、カウンターのうえで正座をしています。

 

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