第7回大岡信賞 即興散歩、袋小路を抜ける思索 詩人・究極Q太郎さん

言葉を礎に、多様な芸術領域に大きな足跡を残した大岡信(まこと)をたたえる「大岡信賞」(朝日新聞社主催)の選考会が11月に開かれ、詩人の究極Q太郎さん(58)が第7回の受賞者に決まった。贈呈式は来年1月29日、朝日賞、大佛次郎賞、大佛次郎論壇賞、朝日スポーツ賞とともに東京都内で開かれ、賞牌(しょうはい)と賞金100万円が贈られる。散歩を通して詩に描きだした、個人と世界の袋小路からの抜け道とは。究極さんに聞いた。

 才能は早くから認められていた。大学浪人中、月刊「現代詩手帖(てちょう)」(思潮社)に投稿した作品が年間最優秀作に選ばれ、詩集の刊行も約束されていた。しかし、家出をして所在をくらませたため、幻の新人になってしまった。

 大学のサークル活動をきっかけに障害者支援に携わり始め、ケアの仕事のかたわら詩作も続け、ホチキス留めの手作り冊子で発表。「だめ連」という、資本主義社会に異を唱える人々の交流拠点としてトーク酒場「あかね」を東京・早稲田で立ち上げたりもした。

 だが、2000年代の半ばからしばらく詩作から遠ざかる。人間関係や、夜勤もある仕事の疲れが、心身にたまっていた。酒に依存し、不眠の薬に頼り、隣人に救急隊を呼ばれる騒ぎも起こした。その頃の心境をのちに詩にした。

 「日頃、こわばった/粘土のような水面は、/騒ぐことのない、静かな境地というよりも/ただの無感動」(「散歩依存症」収録の「月」から)

 「感覚が鈍磨していた。これはやばい、むなしい、そう思って14年4月、仕事帰りのファミレスやラーメン屋での一人飲みをぱたっとやめた。代わりに始めたのが散歩でした」

 飲みたい気持ちを紛らわせるため、大好きな漫画家、つげ義春が住むという町などを歩いた。「歩いていると、自分が空っぽになる。徹底的に『無』になると、ささいなことが喜びになる。愉快になってくる。絶対に行き止まりだろうなと思った道に抜け道を発見すると、もう、カ・イ・カ・ン」

 仕事の後に4時間、休みの日に10時間など、毎日歩きに歩いた。前もってルートは決めない。「でたらめ歩き。『散歩のインプロビゼーション(即興)』でもあり、『路上の引きこもり』でもあり」

 続く転機は18年。福島在住の友人が小説を書き始め、その発表の場を作るためミニコミ誌「甦(よみがえれ)rebirth」を創刊。ついでに、と詩作も再開した。

 「歩く/すると/どこかへ/行く。/(中略)/散歩は/いつまでも道の上にあること/たどり着かないことが/楽しいのだから。」(収録作「散歩」から)

 散歩を語る講演会に来てくれた人形作家は、今ではパートナー。歩き疲れても解消できなかった不眠症が、彼女と出会って治まった。依存症と呼べるほどの過度な散歩は、今はしていない。

 “復活”後にミニコミ誌で発表してきた作品を収めたのが、昨年発売の「究極Q太郎詩集 散歩依存症」(現代書館)。萩原朔太郎賞の最終候補にも選ばれた。

 感覚を研ぎ澄まし、暑さ寒さに身をさらしながら歩いていると、気候変動やパレスチナのガザ地区への思索が深まる。終末への突入を止められない世界への危機感も募る。

 「SNSにはフェイクやうその言葉があふれている。目の前のことですら何が本当かわからない。でも、自分にとって、詩の言葉は信じられる。リアルとは何かが問われる時代、詩は、もう一回よみがえるのではないでしょうか」

 行き止まりをおそれず感覚を磨いていけば、いつか抜け道を見つけられる。そんな希望を詩やSNSで発信し続ける。(藤崎昭子)

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 きゅうきょく・きゅうたろう 1967年生まれ、埼玉県出身。86年、現代詩手帖賞を受賞。87年に明治大学に入学、ボランティアで脳性まひ者の介護を始める。中退後、障害者の介護と並行し、手作りの詩集やミニコミ誌を精力的に刊行。季刊「福祉労働」(現代書館)編集委員。

 《授賞理由》資本によって排除される人びとと共に歩き、弱さを受け止め強さに変えていく、詩集「究極Q太郎詩集 散歩依存症」の制作に対して

 【選考委員5氏の選評】

 ■饒舌で強靱、世界受け止める 池辺晋一郎(作曲家)

 選考会議は、かなり紛糾した。とはいえ、候補の何冊かのうち、究極Q太郎さんの詩集「散歩依存症」は際立って強い発言力を持っており、選考議論が深まるにつれ、存在感が増していった。散歩と詩作、そして思索が、ここでは同義だ。

 並ぶ詩は、いずれも饒舌(じょうぜつ)。「世界が梃子(てこ)でも動かせないなら歩こう」と詩人は思う。「私は風景になり/風景は私になる」と詩人は感じる。この詩人の言葉の捉えかたは強靱(きょうじん)で、荒々しいほどだ。介助という仕事をしつつ現実と対峙(たいじ)し、世界を受けとめ、そこへ発信する堅固な意志力に驚嘆する。依存と言いつつ、散歩からすべてが生まれるのだ。随所にインサートされたドローイングと写真も、この詩人によるものである。

 ■社会の方向転換、訴える歩み 管啓次郎(詩人・比較文学者)

 彼は歩く。一日に4時間、ときには10時間。歩くことが思想だ。何かの思想内容を追求するわけではなく、ただ歩くことでアルコール依存からも解放された。だったら歩くことは、単に個人的な行動なのだろうか。そんなことはない。彼が歩けば地面に亀裂が走り、一歩一歩が問いかけとなる。

 現代社会が前提とする利潤や効率の追求など意にも介さず、彼は社会のすみずみまで行きわたった分断や差別を横断して、どんどん進む。「ただの散歩が/長い旅へとかわるまで歩く。」この詩集は旅への誘いであり、社会の根源的方向転換への寡黙な訴えでもある。とどまるところを知らない歩行こそが、究極の思想であり、Q太郎の詩なのだ。

 ■生活、仕事、葛藤抱え掴んだ詩 蜂飼耳(詩人・作家)

 低い目線で捉えられた世界は、容赦のない風にさらされている。『究極Q太郎詩集 散歩依存症』の散歩は生きることと直結する行動だ。それは自らを支える力の源でもある。不動と見える壁の抜け穴、袋小路の先の抜け道。「いくつもの現実」があるという手応えに望みをかけ「浮き世の手で荒々しく/扱われてすり切れてしまった心」を抱えて、作者は歩を重ねる。生活の光と影。介護の仕事。出会う人たち。それぞれの生き方。「落ちるのではなくて抜ける日もあろう。」と書く。究極Q太郎は生身の個が直面するざらついた現実と葛藤を握りしめ、日常の危うさにかかる橋を渡りながらかろうじて掴(つか)んだ言葉を刻む。そこに発生する詩を受け取ることができた。

 ■「弱さ」のままで、壁に穴穿つ 堀江敏幸(作家・フランス文学者)

 ここに記されているのは、ぶらつきの同義となる散歩ではない。思考の贅肉(ぜいにく)を削(そ)ぎ落とした状態で、地面から少し足裏を浮かせた純粋形態の歩行の姿である。

 わき見や夢想のよろこびも、たしかにある。しかし詩人を支えている「弱い力」は、それを表面的に受け取らない。現実と夢想ではなく、「ひとつの現実ともうひとつの現実」のあいだの、「うすい隘路(あいろ)」に言葉を進ませるのだ。

 自身を含む弱い存在がひしめく小さな社会と、目視できない大きな世界を結ぼうとする無謀に近い試みがこうしてなされる。「弱さ」を安易な「強さ」に読み替えず、「弱さ」のままで壁に穴を穿(うが)つこと。脱力が逃げにならないことを示した思索/詩作に、励まされた。

 ■全てに窮した後の道、示す光 やなぎみわ(美術家)

 泥道を粘り強く歩みつつ紡がれた詩だ。散歩依存症を自称する著者は、「十時間歩いても全く疲れず、全てがクレイアニメのように見えるようになった」という。その詩も、掌中で捏(こ)ねあげた小世界と、遥(はる)かな俯瞰(ふかん)を往復する感覚がある。全てに窮して進むべき道が絶えたあと「私が/道そのものになっている。」。そして「君の足取りは/粘りのあるリズムを/おびるようになる。」

 私は道であり、歩行者であり、その粘りは「より深い世界へ/抜けていく時のため」であると書く。著者は、散歩中に袋小路があれば必ず入るそうだ。人類に引き返す時間が残されていないなら、抜け道を。絶望に覆われつつも、作者の歩みが、詩に風を通し、光を与えている。